節の理論(迫害論、節から芽が出る論)

 更新日/2018(平成30).4.26日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「節の理論(迫害論、節から芽が出る論)」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【節の理】
 お道では「節から芽が出る」、「ふしから芽を吹く」の「節」とか記念祭や教祖の年祭等々に「節目」とかいう言葉を使う。この意味を拝する。門松や結界に使われる竹にはたくさんの節がある。なぜ竹に節があるのかというと、竹は成長がとても速いので、もし竹に節がなかったら自分の重さを支えられなくなり倒れてしまう。それを防ぐために節がある。節があるからこそ少々の風雪や雨にも折れることなく倒れずに、一時はしなったように見えてもまたびゅんと盛り返す。これが節のお蔭である。これを人間に喩えてみると、私たちの長い人生にも様々な節がある。身上とか事情の様々な節がある。その節があるお蔭で、私たち自身の心が少々のことでは倒れないように鍛えられている。この節をどう了解し、節目をどのように受け止め通っていくかが大事と悟らせていただく。  141「節から芽が出る」。
 141「節から芽が出る」。
 明治十七年三月上旬、明誠社を退社した深谷源次郎は、宇野善助と共に、斯道会講結びのお許しを頂くために、おぢばへ帰った。夕刻に京都を出発、奈良へ着いたのは午前二時頃。未明お屋敷へ到着、山本利三郎の取扱いで、教祖にお目通りしてお許しを願った。すると、「さあ/\尋ね出る、尋ね出る。さあ/\よく聞き分けにゃならん。さあ/\このぢばとても、四十八年がこの間、膿んだり潰れたり、膿んだりという事は、潰れたりという事は。又、潰しに来る。又、ふしあって芽、ふしから芽が切る。この理を、よう聞き分けてくれ。段々/\これまで苦労艱難して来た道や。よう聞き分けよ、という」とのお言葉であった。未だ、はっきりしたお許しとは言えない。そこで、深谷と宇野は、「我々五名の者は、どうなりましても、あくまで神様のお伴を致しますから」と申し上げて、重ねてお許しを願った。すると、「さあさぁ/\真実受け取った、受け取った。斯道会の種は、さあさあ今日よりさあさぁ埋んだ。さあ/\これからどれだけ大きなるとも分からん。さあ/\講社の者にも一度聞かしてやるがよい。それで聞かねば、神が見ている。放うとけ、という」と、お許し下され、深谷、宇野、沢田、安良、中西、以上五名の真実は、親神様にお受け取り頂いたのである。
 ふしについて、お指図で次のように述べられている。
 「何でも洗い切る。今の処すっきり止めたと思えば、すっきり掃除。これまですっきり掃除すると言うてある。ふしからふしからの芽が出てある。こんな中から芽が出る。ちょっとの芽は一寸取れる、すっきり取れる。すっきり掃除。内から内へどっちもこっちも案じる事は要らんで」(明治21年3.9日)。
 「さあさぁ万事/\、あれも一つ、こちらも一つ、節々(ふしぶし)心一つ定め。どういう、あちらも節や、こちらも節や、段々節や。心定めの理や/\、定め心の理や。前々より聞かして、定め一つの理や。早く心改め。早く節を治め治め。順序一つの理を聞き分け。通し掛けた道は、通さにゃならん。早く一つの理」(明治21年9.10日)。
 「年々の道、幾重の節がある。節から節が栄える一つの理」(明治22年2.21日)。
 「一つの節がなければ聞き分けができん。身上から一つの事情を尋ねる、尋ねるで知らす」(明治22年10.9日)。
 「ずつない事は節。節から芽を吹く。やれ節や/\、楽しみやと、大き心を持ってくれ」(明治27年3.5日)。
 「さあさぁ事情運んでやれ。一時には怖わいようなもの、恐ろしいようなもの。後々案ぜる事もあろ。何も案じる事要らん。節という、節から世界治まる。さあさあ勇む/\。世界も勇むで」(明治27年5.2日)。
 「もうあかんかいなあ/\というは、節という。精神定めて、しっかり踏ん張りてくれ。踏ん張りて働くは天の理である、と、これ諭しおこう」(明治37年8.23日)。
 「」。
 「」。

【夜昼の理】
 「夜昼の理」とは、「道の理」という意味です。何十年信仰をしていても、本当の理を聞き分けていないようではならないと仰せられています。

 お指図は次の通り。
 「夜昼の理がわからにや修行に出て行くがよい。この屋敷きには五十そこ/\の年をとりてゐれど、それだけのあほはないぞ・・・・・・」。(明治26.10.5日)
 「夜の道」、「昼の道」について、諸井政一正文遺韻」が次のように記している。
 「夜昼分からんやうでは何も分からんといふ。それ夜の道といへば暗いであろう。昼の道といへば明るいであろう。その明るい道を暗いと思うて、つまづくかしらん、踏みかぶるかしらんと案じてゐては、どうも道を通るに通られん。それ、心からとて踏みかぶつたりせんならん。夜の悪い道を通りながら、暗いと思わず、気をつけずにゐたことなら、どうであらう。何につまづくとも、突き当たるとも分からうまい。そこで道を聞いても、聞き分けなかつたら、ちようど夜の道と昼の道と分からんやうなものや」。





(私論.私見)