ふしん論、足場論

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ふしん論、足場論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


普請論】
 お道の「普請論」は、「形の普請」と「心の普請」の両面から成り立つ。

 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 無性やたらに 急き込むな
 胸の内より思案せよ
八下り目六ッ
 何か心が 澄んだなら
 早く普請に 取り掛かれ
八下り目七ッ
 なにかめづらし この普請 
 しかけたことなら きりハない
十二下り目七ッ

 教祖は次のようにお諭しなされている。

  大正12年4月「よのなか(第43号)」(天理教よのなか社、代表・上原義彦)、「神の用木」の桝井きよ「普請に譬えて」より
 「御教祖が、普請に譬えて色々に諭されてあります。その中に、『大工が木を使うにも、節なく曲りないものは四角柱として大黒柱にするが、三方きれいでも一方に節があれば、三方見えても一方は隠れる所に使う。四方とも節だらけで、見苦しいものは土台とか塗り込み柱に使う。道具も使い良いものは、誰にも重宝がられるが、使い悪いものは、仕舞いには納屋の隅に捨てられる。人間もその通りである』、と仰せられたことがあります」。
 お指図には次のような御言葉がある。

【徳積みふしん論】
 「My Library Home 」の「愛町分教会初代会長 関根豊松/ふしん」。
 神様から新築のお許しがいただけた。これは大きな節を越す時旬です。道の上に徳を積んで、大節から芽を出し、家柄を立て替える時旬です。こんな時は二度とありませんよ。さて、そんなら、その普請はどうしてやらせてもらえばよいかをお話しましょう。

 教会の普請はやれば良い、作れば良いというものじゃない。そんなものなら、私一人で今直ぐにでも建ててみせる。また請負師に請け負わした方が、どんなにうまく早く出来るかもしれない。しかしここはたすけ場所です。万人の誠のこもっているほど人は助かります。畳のヘリひとつでも、持ち寄った誠で作らねばなりません。埃のものはたすけの邪魔になるので、神様が受け取ってくれません。御本部でも昔、ある病院長さんが一人で多額の費用を受け持つといわれ、先生方も奇特として喜ばれ、早速御本部を通じ、神様のお言葉を頂かれたところ、「これは一人でする普請やない。全体でする普請や。たとえ一銭ずつでも、多くの人に勤めさせてやって欲しい」とおっしゃった。私が今日まで狭い不都合を我慢して待った理はそこにありますが、今はもう時旬。下から盛り上がる力と神様からのお許し、二つ、共に揃いました。

 お許し頂いた限りは誠心誠意で作り上げたい。なぜならば自分の一身一家に困ったこと、苦しいことが出来た時、そこに座って自らのことを頼む場所じゃないか。人に建ててもらった、人の建てた場所に座って、それで願って助かるかい。そんなに大切な場所を作り上げるのに、それを請負師に請け負わせて、それでよいか。 私はそうじゃないと思う。皆の多くの誠が寄ったのが教会というものだ。何万人という人が一人助かる度毎に、その助かった喜びが、そのままここで伏せこんだ方々のお家へ帰るからだ。

 教会の普請だ。新築だと思ってはならない。銘々の家を建てるんだ。自分の家を作るのなら、いい加減なことをする人は恐らくないだろう。その自分の家より大切な教会を建てさせてもらうのだ。いい加減なことをしていては神様に、自分の家を司ってもらう神様に申し訳ない。ですから皆さんも精神をまとめてしっかりやって下さい。建築に経験のある人は寄って申し出てください。さあ、それではこれからみんなで神様にお勤めをしよう。御本部から、お許し頂いた書類を教祖にお供えして、みんなお勤めをしよう。その後で談じ合いをするが、これは主だった者だけ寄ればよい。

 ところで、これから建築に当たって、経験者は自分がそれぞれ責任持って、その事に当たってくれ。神様に「御本部からお許しを頂きましたから、今日からいよいよ普請にかからせてもらいます」としっかり頼もう。この前の普請の時に私がやかましく言って責任持ってやらせたのに、二人のうち一人は死んだ。そして後の一人は教会の門の際まで来ても中へ入れない。私は知っている。門の中へ入れぬような事、何をしたのだ。未だもって入れぬではないか。私は今日この教会を作るまでには、ならぬ中総てに命がけでやって来た。命がけでやって、やっとここまで来たのだ。私は命がけでやったのだから、あなた方も命がけでついて来りゃいい。今言った、死んだり来られなくなった連中は、きっとフラフラやって来て日当取って、あごで人を使って自分は遊んでいたに違いない。私が今日まで命がけでやってきた事を、これから皆さんに責任持ってやってもらうんだから、冗談ごとじゃない。君たちも責任持ってやらしてもらって下さい。責任持たず、いい加減でやっていいると皆な倒れちゃう。私はそうさせたくない。それだから、この教会の仕事は銘々が責任持ってやらねばならぬ。何故こんなにくどいかというと、いよいよという時になれば、親神様に責任持って頼むんだろう、その尊い場所だもの。

 一人死んだ。一人門内に入れぬ。何した。恩に恩着たら、牛馬の道が見えてくる。しっかり責任持ってやってくれ。「あいつはどうした」と後で僕に言われぬように通って下さい。恐らく生涯にまたとない一身一家にとって良い時旬ですよ。この時旬をはずしてはなりません。私は責任持って今日まで、永い年代一生懸命通さして頂いたから、今では親神様が私の事を責任持って見ててくれます。教会は建った。部内に死人やケガ人が出た、それは困る。どうぞ、皆なしっかりお通りになりますよう、よく頼んでおきますよ。皆なの意志を、家を、子孫を建てるのですから、しっかりやって下さい。 私が今までに一人やれば出来たものを、今日まで待っていた私の腹をよく読んでやらせて貰って下さい。見て見ぬふりしていると、いよいよという時になって、神様に見て見ぬふりをされますよ。

 私が今日までいろいろ尽くしきってきた。これは子供に徳を積ませてやりたかったのです。子供に徳を積ませてやればいいじゃないか。社会の因縁の渦の中に巻き込まれ、因縁どおり倒れて行く子供が可哀想やで。その中を立派に抜けきる徳を持たせておいてやりたいじゃないか。一銭でも良い。子供さんに徳を積ましてやってくれと願うように言うのはここだ。今一つ頼んでおきたいのは、道の仕事は無理にどうせよと神様もおっしゃいません。そこで惜しみの心のある者は絶対にいけません。その返しが来て、神様から命を貸して頂くことを惜しまれたら大変です。それと、如何に私がしっかりした信仰を持っておりましても、皆さんが私を信じ、私にもたれてくれなかったらどうにもなりません。どうか私を信じて通りきって下さい。また役員さんはみなさんの心を買って、働きよいように勤めて下さい。


【足場論】
 「広くの足場、国々まで掛けてくれ。先ず/\の事情、どれだけの足場を掛けても、縄切れば(縄を切れば/縄が切れれば)落ちる。安心なるは一時、風の向き何時(なんどき)難風に誘われな(いつだって難風に誘われるなよ)。どんな理にも遭わんよう〈に気をつけろ〉。一時速やか洗い切る。こう 〈、〉という事情が間違う。風雨という、どういう理が発しる(発する)とも分からん。前々指図、一時洗い切って十分〈に注意して〉足場〈を〉括(くく)り掛け」。(明治26.5.11日夜)。




(私論.私見)