夫婦治め和合諭し |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「元の理効能考お諭し考5、夫婦和合諭し」を確認しておく。ここで、「元の理」の元々の教理を確認しておきたい。この種の試みはまだなされていない気がする。 2007.12.25日 れんだいこ拝 |
【夫婦の理合い、夫婦治め和合論。女房の口一つ、女房の口次第】 | ||||||||||||||||||||||||||
「お道教理」では、この世のはじめだしは夫婦であると位置づけている。その夫婦は天地の理を象っていると云う。夫婦が陽気ぐらしの根本、基本であり、天の理である。人生の幸福のすべては夫婦和合の上に授けられるといっても過言でない。夫婦の治まり次第で、どんなご守護もいただけるとして、「この道は、夫婦の道」と云われているほど、お道教義では、夫婦和合、円満、協働を尊ぶ。これを陽気暮らしの基本としている。 「二人の心を治めいよ 何かのことも現れる」(四下り目二ッ)は「夫婦の心を一つに結んで誠真実に治めて通れよ。一切万事喜ばしい親神の守護が現れてくる」と諭している。「夫婦心を一手一つに揃えてひのきしんをする。これが第一の物種になる」。ものだねとは、「一番必要な時に一番必要なものが何でも生えてくる、どんなめずらしいご守護もちょうだいできる種」のことを云う。この教理を頭で承知していながら、なかなか簡単に治まらないのが夫婦である。 座り勤め地歌には次のように記されている。
御神楽歌には次のように記されている。
お筆先には次のように記されている。
教祖は次のようにお諭しなされている。
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お指図は次の通り。
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【元の理効能考お諭し考5、性交諭し】 |
お道は、「夫婦和合諭し」を得意としており、中でも「性交」を真正面に見据えて説き分けしているところに白眉性がある。それは、日本古来の記紀神話のイザナギ男神、イザナミ女神の共同による「夫婦交合国生み譚」と通底している。「夫婦交合国生み譚」がどの時点で獲得されていたのか定かではないが、記紀神話に記述されている訳だから、少なくとも記紀編纂時点以前に遡って伝承されてきたものには間違いなかろう。私論は、大和王朝以前の出雲王朝御代に獲得されていた言語論と相関していると看做している。但し、本稿ではこの方面の言及は控えることにする。 ところで、記紀神話では、世界史上の神話に例がない形で且つ長々と、イザナギ男神、イザナミ女神の共同による「夫婦交合国生み譚」が語られている。最初は柱廻りの逆によって、次に柱廻りの出会いの際の問答の仕方によって上手くいかず、それらの調整を得た後の夫婦交合によって国生みされたとしている。お道の「元の理教理」は構図的にこれを継承している。そういう意味では、お道教理は、記紀神話、あるいはそれ以前の大和王朝以前の出雲王朝御代の神話を正統に継承しているように窺える。私論は、ここにお道の「元の理教理」の真髄があると窺っている。しかし、このように説く者は稀である。更に、お道の「元の理教理」は、記紀神話の「夫婦交合国生み譚」に思案を凝らして独自のものに仕上げている。イザナギ男神を男ひながた、イザナミ女神を女ひながたとして、更に八柱の神々が被る形での「夫婦交合生命誕生譚」を導き出している。 この「元の理教理」の神話的高度性、秀逸なる独自性がもっと注目されて良いように思われる。にも拘らず、「夫婦交合」即ち「性交」そのものを正面に据えて説き分けすると云う際物性によってか、教外からは淫し邪教論で一蹴されている。ならば教内はと云うと、「元の理教理」の素晴らしさを説くのに、進化論的合致性を論ずることが多く、これを逆に云えば「夫婦交合生命誕生譚」そのものを礼賛することが控えられている気がする。私論は、「元の理教理の夫婦交合生命誕生譚」を正面に据えて論じてみようと思う。「進化論的合致性」は補足ぐらいで良いと思っている。以下、「元の理教理」の意義が「夫婦交合生命誕生譚」にあることを立論してみたい。 |
いったい、個の人生に於いて、世代を継ぐ人生に於いて、「夫婦交合」(以下、単に「交合」と記す)をどのように位置づけるべきか。このことの意義を正当に認識し学問すべきではなかろうか。極言すれば、お道教理は、「元の理教理」の「交合」シーンの説き分けに於いて、この世の奥真実の森羅万象一切を諭そうとしている。ここから全てが汲みだされるとして、その真意を伺おうとしている。しかし、本稿ではこの方面の言及は控えることにする。 本稿で説くのは、そのような性交論による性教育論がもっと押し出されて良いのではないのか、それにより「交合の勧め教育」があって然るべきだろうし、「交合の際の留意教育」が為されるべきだろうし、逆のベクトルとしての「交合の控え教育」、「交合忌避教育」もあって然るべきだろう、それぞれの適宜の解が求められるべきだろう、と考えている。 現下は、この提起がないままの「交合観」が氾濫しており、「元の理教理」から見れば逆方向の「同性交合観」が意図的故意に流布され横行させられているように思われる。現下は、「いびつな交合観の悪乗り」が煽られ、それが不断に電波にされており、そういう意味での悪しき洗脳が行われ、性犯罪を助長しているやに見受けられる。そういう訳で、ここでお道の「交合教理」を窺い、これを本稿に纏め発表しておくことにする。 教外の者には分からないだろうが、教内に於いては誰しも「元の理」で聞き分けしている。その「元の理」では、まずは男女共通の身体と精神が創造されたことが告げられる。次に男神の所以として「男一の道具」、女神の所以として「女一の道具」が両者の「交合」宜しきように仕込まれ、人類発祥の地たる「ぢば」の甘露台の据えられている地点で、その超々昔に、十柱の神々の共同で南無南無南無の宿し込みが行われたと教えられる。云うまでもないが、「男一の道具」を「女一の道具」に宛がう形での宿しこみであり、その様子は「交合」そのものである。「元の理」では、これを生命の始まりの厳粛行為として拝察している。この「交合」が基本であり、その後も同様にして生命が継承され、それがひいては人類の始まり、今日までの人類の歩みに繋がっているとしている。「元の理教理」は、その遠大な生命の始まりにして繋がりの「元一日」として、記紀神話と同じ神名のイザナギ男神、イザナミ女神の共同による「交合」があることを踏まえた様々な諭しをしている。 こうなると、お道教理は、イザナギ男神、イザナミ女神の共同による「交合」をズバリ称賛し、ここから人類の元一日が始まったとして、「交合」をそのままに拝察していることになるが、世界の宗教の中で、かような教理を持つものが他にあるのだろうか、私は知らない。恐らく他にはないのではないかと思う。仮にあったとしても、お道教理の年季にはるかに及ばない稚拙、あるいはお道教理から見て相当に歪んだものではないかと思う。 お道の「交合」教理は出色である。それを、決して「淫」に偏らず、「聖」に偏らず、「二つ一つの理」で総合的共同的に拝している。ここに秀逸さが認められる。更に、「交合」時に働いている神々の働きのご守護が十柱の神々論で説き分けされている。そのようにして拵(こしら)えられた人間及び天地世界が、それらの神々の働きに気づき、その働きの意義を認め、これに感謝し、合わせて総合的な働きにも感謝し、その結果として神々の御働きにご恩奉じするよう教理化されている。これを最高儀式に於いて確認するのが、人類発祥の地たるぢばの甘露台の据えられている地点での鳴り物入りでの甘露台神楽づとめである。甘露台そのものも「元の理教理」を表象しているのは論をまたない。甘露台及び神楽づとめに言及すれば紙数を増すばかりとなるので、本稿ではこの面での考察を省く。 以下、この「お道の交合観」が如何に素晴らしく凄いことであろうか、現代史的に有益なことか、これを確認しておく。 一つは、端から男女が同格に且つ共同する関係に位置づけられている。「お道の交合観」は記紀神話と同じ系譜であり、これによれば、日本の古来智では男尊女卑は成り立たず、男女が対等に向き合い協同する関係で捉えられていることが分かる。よって、男尊女卑は外来系のものであり、古来よりの国産のものではないと云うことになる。国産のそれは男女和合助け合いを旨としている。 その男女は、明確に性的機能差を具有しあって釣り合っている。男とは、「交合」時に流し込む側であり、女はこれを受け取る側である。この差をそのままに認識することが大事であり、この差をなきもののように同視化させるのは昨今の風潮であるが、お道教理からすれば排斥すべき流れである。男女とは、夫婦とは、互いの性機能の差を補い合う形で共働共補関係にある、これがお道教理の示す男女観である。こうなると、夫婦ひのきしんの最初の企てが夫婦交合であり、これを慈しみ励むべしと云う諭しになる。同性結婚は、お道教理上は「ありえない事象」と云うことになる。この観点からのお道の性教育がもっと精力的に奏でられるべきだろう。 一つは、昨今は「性」の商品化が著しい。「性」の「聖」の面を捨象し「淫」の面をことさらにフレームアップしている。その上で、「性」の「淫」の面を価値化させ、これを金銭でトレードする傾向が強められつつある。その先にあるのは、いわゆる「性の暴走」であり、待ち受けているのは人格破壊であろう。こういう「性観」が執拗に洗脳流布されている。「お道の交合観」は、「交合」を正面から取り上げつつも、性の「商品」化を否定している。「交合」の裡に神の働きを見ようとしている。これは厳かなもので、「商品」化できるようなものではない。 一つは、「お道の交合観」は、「性」の「淫」化一辺倒、「聖」化一辺倒の両方を否定している。清濁併せ呑むと云う謂いがあるが、そのような意味に於いて、「交合」を、「淫と聖を併せて掴む二つ一つの理」で総合的に拝している。体験上、経験上から云えることは、その通りであろう。「性の淫化一辺倒」が仕掛けられている現代に於いては、この御教えは貴重な光芒を放っているように思える。 これにより、「元の理教理」に基づく性教育論が成立する。本来の性教育は、お道教理そのままに、性交自体の中に認められる聖の部分と淫の部分の「二つ一つ」の理解に基いて説かれるのが良い。この線から行われるのが望ましい。昔は、子供に性を教えることを忌避していたよう思える。この時代は、赤ちゃん誕生は鴻の鳥お運び論だった。後に性教育が登場し、その最初は花粉受精の雄しべ雌しべ論だった。その後はマネキン人形を使っての解説が取り入れられた。現在はどのレベルか分からないが、それなりに教えられているのであろう。但し、それがより良い方向に向かっているのかどうかは定かではなかろう。 但し、問題は、これを如何ように取り上げ、如何に論じるかである。お道教理の反対方向に教育されているとしたら、それは痴呆教育であろう。(とりあえずここまで) |
1896 年(明治 29 年)発布の内務省秘密訓令によって、天理教は「男女混淆」とし て当局から厳格きわまりない取締りを受けていたことからも分かるように、そもそも 「おつとめ」の仕方などにおいて「男女共同参画」であった。政府の弾圧により女性 が表舞台に出られなくなる場面も生じてくる中、やがて 1910 年(明治 43 年)天理教 婦人会が創立されるに至る。天理教婦人会の歴史は、日本における「母性」概念の歴 史とほぼ並行していることもあり、母性主義や男女の異質平等論が特徴として指摘で きるが、出発点は、女性も「道の台」であるという自覚であった。 天理教の国会に相当する協議機関として「集会」がある(1941 年発足)。その構成 員(=集会員)は都道府県単位の各教区から選ばれた教会長たちであるが、現状では 全員男性である。「本部員」(教会本部役員。1908 年の一派独立後に制度化)に関しては、 これまで女性は唯一人、増井りん(1843 ~ 1939)しか存在しない。このことと関連 するが、天理教教庁の主要なポストも男性中心であり、女性の姿は見えにくいものと なっている。 しかしながら、毎月 26 日の教会本部祭典で行われる「かぐらづとめ」では、「か んろだい」を中心として、教会本部在籍の男女によって「かぐら面」を着用して行わ れるが、この最重要な儀式においては男女同数であり、ジェンダー平等は貫かれてい る。ただ、女性信者たちの組織である、天理教婦人会(25 歳以下は女子青年という) は、男性組織に対して明確に自らを分離した方針(分離主義)を採っている。婦人会 が、女性の性別役割や特性(産み育て等)を自ら目標として掲げる仕方は、ある意味 でフェミニズムにおける戦略的本質主義(G・スピヴァック)を思わせる側面が見ら れる。1910 年に創立された婦人会であるが、近年の婦人会の記念講話が比較的男性 講師が多いのに対し、戦前の方が女性講師による講演がむしろ活発に行われていたよ うである。一方、天理大学の前身である天理外国語学校は、1925 年(大正 14 年)の設立当時 は各種学校であり、当時としては珍しい男女共学制を採用していた。当初は、先端的 な男女共同参画をもって出発したのである。これは、海外布教は夫婦揃って行くのが 一番望ましいという、創設者(中山正善2代真柱)の思いが強く生かされ、女性にも 語学習得の道が開かれていたためである。先述の天理教における「ふうふ」の重要性 がここにも認められる。 |
【世界平和家庭連合の御都合的なレジメ/考】 | |||||||||||||||||||
「世界の宗教の結婚観」。
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(私論.私見)