阿呆の理、慎みの理、結構の理

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「阿呆の理、慎みの理、結構の理」教理を確認する。「天理教教理随想」の「No.92教理随想(43)、自由自在について」 その他を参照しながら私流に再推敲しておく。

 更新日/2016.02.29日 れんだいこ拝


【阿呆の理】
 増井りん手記/誠真実(まこと)の道97-99p「あほうが望み」。
 「神様(教祖)、私ども(増井りん)はあほうでござりまする、と申しましたならば、『さようかえ、おまえさんはあほうかえ。神様にはあほうが望みと仰るのやで。利口の者は付けん。人が小便かけたならば、ああ温(ぬく)い雨が降ってきたのや、と思うて喜んでいるのやで。人が頭を張れば、ああ、あなたの手は痛いではございませんか、と言うて、その人の手を撫(な)でるのやで』、と仰る。『その通りに、優しい心になるのやで』、とお聞かせ頂いております。『人がきつい言葉を言えば、われ(自分)もきつい言葉にて、一言(ひとこと)言われれば、その通り仕返しをするというのが利口やから、仕返しをするのやないほどに』。その時には、言われましても、『あほうになって言い返しをせぬように。叩(たた)かれても叩き返しをせぬようにするのが、これが本真実の誠、真心である』。『それが、利口であれば、なかなかそのような心になっておりませんから、言われたならば言い返す。叩かれたら叩き返しをする。一つ叩かれたら二つも三つも叩く。一言(ひとこと)言われたならば二言も三言も言い返しをするのが利口の人の返しや。それをあほうになって、叩かれても叩き返しをせぬのが誠や。神様がお返しをして下さるのや、という心になっているのやで』、と神様(教祖)のお言葉。 どうぞどうぞ神様、その人たちを救けてやって下さいませ、と、まだ神様へ、その人の事をばお願いをしてあげまするのが、これが真実の誠であります」。

【慎みの理】
 御神楽歌、お筆先に次のように記されている。

 お指図は次の通り。
 「慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に」(明治25年1.14日)。

【結構の理】
 御神楽歌、お筆先に次のように記されている。

 お指図は次の通り。
 「道具でもどんな金高い値打ちでも、心の理がなくば何にもならん。授け/\のところ、よう聞分け。日々の席をする。席をすれば授けは渡す。その時の心、受取る時の心、後々の心の理がある。日々まあ一日の日、結構という理を忘れて了う。どうも残念でならん」(明治23年7.7日)。





(私論.私見)