用木論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.10日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「用木論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【用木論】
 親神は、類ない陽気普請に必要な人材を引き寄せる。道人は、助けて頂いた喜びを、今度は自ら外に向って人助けの行為となり、ここに、親神の望まれる陽気ぐらしへの普請の用材となる。これを「用木」(ようぼく) と云う。「教祖おやさまの教えを人々に伝えて、陽気ぐらし世界の建設に向かって力を尽す道具衆」とも云われ、つとめに精励することから「つとめ人衆」とも云われる。最高儀式たる神楽つとめは、芯となるつとめ人衆によるつとめということにもなる。親神は、一列助けの切なる思惑から、多くの用木を引き寄せようと急き込まている。「用木」には、男女の別もなく、貴賤の差もない。その用向には時と所にしたがい相違があろうとも、心一つの理によって等しく親神の「用木」たるに変りはない。  

 親神は、引き寄せられた「用木」を成人させる為、時に応じ事に当つて種々様々「手入れ」される。道人は、これをしっかり心に治めさえすれば、身上のさわり も事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる。 「用木」には、その成人ぶりを見て「授け」が与えられる。「さづけの理」は、「用木」たる銘々に授けられる天の与えである。この「さづけの理」の働きによって効能を見せて頂ける。

 「用木」の使命は助け一条にある。「用木」は、日々ひたすら己が心を治めて、曇りない天の理を映すことが肝腎である。銘々が常に教祖の ひながたをたどり、俗にいて俗に墮せず、進んで土地ところの手本雛型となつてこそ、真にその使命が全うされる。それは、一言話しを取次ぐ「匂いがけ」に始まる。更に進んでは、何がなんでも助かって貰いたいとの一念から、真心こめて授けを取次がせて頂くことになる。真実を尽して取次ぐことによって、親神がその心をそのまま受け取って珍しい守護を見せられる。「用木」は、ひたすら世の人の上に親神の守護を願いつつ、我が身を忘れて行ううちに親神の胸に抱かれて、自身もいつしか心を成人させて明るく陽気に救われて行く。


 「用木」としての丹精の效があらわれ、道を求めるものが次第に相寄り相集って、教会名称の理が許される。教会は、神一条の理を伝える所であり、助け一条の取次ぎ場所である。ここに寄り集う者が、ぢばの理に添い、会長を芯として、心を一つに結び合うのが肝腎である。かくて教会生活は、国々所々における人々の和楽を深め、互に扶け合いつつ、心の成人を遂げる陽気ぐらしの雛型となる。道人には、常に元を忘れずに、自ら進んで深く教えの理を究め、心を治めて、道の先達となり、誠真実をもって人々を教え導くことが望まれている。

 組織論的には、九度の別席順序を運んで心を洗い立て、たすけ一条を誓って願い出るところにお授けくださいます。この「おさづけの理」を戴いた人を「ようぼく」と呼ぶ。「ようぼく」とは、陽気ぐらし世界建設のための人材、用材という意味で、頂戴したおさづけをしっかりと取り次ぎ、また、教祖(おやさま)の教えを人々に伝えて、陽気ぐらし世界の建設に向かって力を尽くす使命を持つ。
 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 一寸話し 神の心の 急き込みは
 用木寄せる 模様ばかりを
三号128
 段々と をふく立ち木も あるけれど
 どれが用木 なるしれまい
三号129
 用木も 一寸のことでは ないほどに
 多く用木が 欲しいことから
三号130
 日々に 用木にてわ ていりする
 どこが悪しきと さらに思うな
三号131
 同じ木も 段々ていり するもあり
 そのまゝこかす 木いもあるなり
三号132
 この木いも めまつをまつわ ゆハんでな
 いかなる木いも 月日をもわく
七号21
 段々と 用木にては この世を
 始めた親が 皆な入り込むで
十五号60
 この世を 始めた親が 入り込めば
 どんな事をば するや知れんで
十五号61
 どのような 事をしたとて 案じなよ
 何かよろずは 親の請け合い
十五号62

 
教祖は次のようにお諭しなされている。


 お指図には次のような御言葉がある。





(私論.私見)