山の仙人、里の仙人

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.10日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「山の仙人、里の仙人」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝



【山の仙人、里の仙人】
 教祖直々の伝であるかどうか分からないが、道人に伝えられている。「山の仙人」とは、人里離れた深山幽谷で厳しい修行を積んで悟りを開く人のことを云う。「里の仙人」とは、山から麓へ降りて来て、日常の現実社会の中で、仙人のように暮らしていく人のことを云う。つまり、「里の仙人」とは「山の仙人」に対する対句になっている。お道は、「里の仙人」を目指せと諭されている。その由は、衆生済度の方法として「里の仙人」を目指せ、ということにある。口伝で次のようなお言葉が伝えられている。
 「山の仙人、里の仙人。里の仙人を目指すのやで。こっちの方が偉いのやで」。
 「教祖は、先人の方々に『里の仙人になってくれ』とお話し下さったそうです。日本古来の信仰が、お寺や山にこもり修行や瞑想を通して、悟りを聞くものであったので、“”山の仙人“”に喩えられたのに対して、天理教の信者には、平常通りの生活にありながら悟りとってほしいとお望みになっておられます。これを『里の仙人』という言葉でお話して下さいました」。
 「信仰者の心の成人が培われるのは日常生活の中に於いてであります。お道の信仰者は、世間を離れて特別な修行を積んだり悟りを開いたり神通力を得ようとしたり、あるいは人との交際や社会との関係を絶って生活する必要はありません。日常の社会生活の中にありながら、その生活に押し流されずに、親神様の教えに添って生活するようにと教示しているわけです。この寓意を比喩的に『山の仙人、里の仙人』論としてお諭ししてくだされております。想像では、仙人というのは人里離れた山奥に庵(いおり)をつくって住み、穀類を避けて霞を食べて生活し、厳しい修行によって木から木へも自由に飛び移ることができるような霊妙な力を備えた、白髪にして白く長い髭を蓄えた老師といったイメージです。山は里と比べて静寂でありますし、人間関係の煩わしさもない、また世俗的な快楽に心が動くこともありませんし、禁欲生活に徹して厳しい修行をするのには格好の環境であることは確かです。しかし教祖はそのような山に於いてではなく、あえて里、すなわち現実のこの世俗社会に於いて仙人になるように教えられております。人に嗤われ誹られようと、常に親神の意に添う陽気ぐらしを目標として人救けの道を歩むことを促しておられ、『人を助けるは誠、誠は天の理である。誠であれば、それ世界成程という』と教えられております。俗塵にまみれることなく澄み切った心で救け一条に歩むその姿は、元始まりの話の中に人間の種として教えられております泥鰌にダブります。泥鰌はいつも泥の中に住んでおりながらちっとも泥を自分の身体に付けないで生きている、その姿にも似せられるわけで、これが教祖がお道の信仰者に求められる“”らしいあり方“”だと思います。これが『里の仙人の教え』ではないかと思わせていただきます」。

 2011.8.、おやさと研究所長・深谷忠一「日本は里の仙人になろう!」。
 「世界の屋根ヒマラヤ山脈の南麓に、ブータンという小さな王国があります。この国の国民1人あたりのGDP は年間16 万円。貧困ライン(約1,100 円/月)以下で生活している人が、全人口の約4 分の1 という、決して豊かとは言えない国ですが、国民の95%が「自分は幸福だと感じている」という統計があります。ブータンは、国王の提唱によるGNH(国民総幸福量)という指針で世界に知られ、その国づくりの姿勢が多くの人々の共感を呼んでいます。例えば、この国に滞在した日本のNGO関係者のブログに、“ 政府の役人が「幸福は持ち物で図れるものではないこと、いかに今もっているもので満足するかが幸福の鍵である」と語っている” と書かれているのを読んだりすると、“ ブータン人こそ本物の幸福を知っている。日本人も見習うべきだ。”などと言いたくなるところであります。しかるに、現実的には、ブータンの人も“ 今幸せだから現状を変える必要はない” とは考えていないようです。その証拠に、ブータンでも1961 年以降5 年ごとに策定される社会経済開発を継続していて、現在も2008 年7月からの第10 次5 ヶ年計画が進行中なのです。また、それに対して、国連などの国際機関や他の多くの国が開発援助を継続中であり、日本も最大の開発パートナーの一つになっているのです。つまり、現在のブータンの首都ティンプーや他の都市での建築ラッシュにも見られるように、空港や道路を作り、電気・水道などのインフラを整備し、学校・病院や住宅を建て、産業を興して生活レベルの向上を図るのは、大方の開発途上国の人々の願いなのです。ブータンのように、国王が評判の善政を敷いていて、国民の幸福度が95%などという国であっても、やはり、何時までも貧しいままで留まることはできない。生活レベルの向上・近代化を図るのは、誰もが止め得ない世界の潮流なのです。

 我々の立場から申せば、『元の理』のお話に、『六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる』とあるように、人間の知恵の発達、文化の興隆は、人間創造の時から期待されているところです。それは“”幸福は持ち物の量でだけで決まるのではない“”というのは真実であっても、それで文明・文化の発達を目指さないというのでは、長い年月をかけて知恵と文字の仕込みをされた意味がなくなるということです。つまり、天理教の教えからしても、幸せなブータン人が生活改善のために経済開発に一生懸命になるのは、何ら矛盾したことではなく、大いに奨励されるべきことなのです。また、教祖は『谷底せり上げ』とも言われていますが、世界には国の全てが谷底にあって、国民全体の生活レベルを向上させねばならない所が沢山あります。ですから、いわゆる先進国に住む我々は、ただ自国の現在の栄華・未来の繁栄だけを考えるのではなく、世界の全ての国・人の生活が、今も将来も豊かになるように、各々の国の開発にも協力することが不可欠なのです。したがって、例えば今、日本では、電力供給のあり方をどうするか?が問われていますが、その議論の中身が、単に今夏の電力不足を乗り切るためだけの“ 今さえよければ・・・” や、国内での安全・安定供給のみを考える“ 我さえよければ・・・” であってはならないのです。日本は水力、風力、地熱、太陽光、バイオマス、石油、石炭、天然ガス、原子力等、あらゆる発電所を建設・運用するための世界最先端の技術を持っています。ですから、そのノウハウを十分に活用し、また、さらに進展させて、世界中の電力の安全・安定供給に寄与するように、グローバルな視点で議論を進めることが望まれるのです。教祖のお言葉に『菜の葉一枚でも、粗末にせぬように』とありますが、世界にはその葉っぱ一枚すら満足に食せない飢餓レベルにいる人が大勢います。葉っぱどころか人間のいのちが粗末になっている。その悲惨な状況を改善するためにも欠かせないのが電力の供給です。それを、もし日本が、自国の状況・思惑だけで、これからの発電や送電・供給のシステムを決めてしまうと、日本とは自然環境や社会基盤が違う国が、将来大変困ることになると思われるのです。教祖は、『里の仙人になれ』と教えられていますが、それは人に対してだけでなく、国にも当てはまることです。日本も持てる経済力・技術力で、自国以外の国々の生活向上にも貢献して、世界から尊敬される『里の仙人』になることを目指したいものだと思う次第です」。





(私論.私見)