「狭いのが楽しみやで。小さいものから理が積もって大きいなるのや」。 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「63、目に見えん徳」。
「教祖が、ある時、山中こいそに、『目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな』、と仰せになった。こいそは、形のある物は、失しのうたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます、とお答え申し上げた」。 |
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昭和10年4.20日号みちのとも「雛型拾遺」の「上人とは」。
「御教祖様は或る時、おそばに居られた某氏に、『上人とは、凡夫を離れ、色の世界を離れ、欲の世界を離れ、目先のことに囚われず、行を尽くした人のことや。しかし上人というだけではまだ小さい。自分だけの徳を積んだらよいと思うているからや。この道はそうやない。自分が因縁を切ってもらったら、人にも因縁を切るように、自分が徳を積んだら、人にも徳を積むようにせにゃならん』、とお諭しなさいました」。
※付記に、「本稿は、なくなられた山澤ひさ刀自及び桝井孝四郎氏等の話題を中心としてまとめさせて頂きました」とある。 |
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逸話篇「111、朝起き・正直・働き。朝、起こされるのと」。
「教祖が、飯降よしゑにお聞かせ下されたお話に、『朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。陰でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで』、と」。 |
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「新版 飯降伊蔵伝」。
「ある日教祖が伊蔵先生に、『伊蔵さん、この道は陰徳を積みなされや。人の見ている目先でどのように働いても、勉強しても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うていては、神様のお受け取りはありませんで。何でも人様に礼を受けるようなことでは、それでその徳が勘定済みになるのやで。(中略)この埃の心が病の元となるのやで』。また教祖は、『理を立てて身が立つ。人を立てた理によって我が身が立つ。必ず人様を立てるようにして自分は上らぬようにせよ。もし人々から立てられる身になっても、高い心を使わぬようにすることが肝心や」。『頭が上がれば心が濁る。神様の働きが薄くなる』」。 |
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大正13年7.5日号みちのとも巻頭「神言と辻氏」の「人間は皆兄弟や」。
「或る時、御本席が辻忠作氏に、神様が今年は米が高くなる、けれども神が不自由なしに連れて通ると仰る、と御話しになった。辻さんは、家へ帰るなり米を買い込まれた。すると左の肘へ大きな腫物が出来た。痛んで仕方がないので御教祖の所へ伺われると、『人間は皆な兄弟や、人に肘をくらわすような事してはならんで』、と仰せになった。けれども辻さんは何の事だか分からなかった。それで重ねて伺うと、『伊蔵さんから聞いた事があるやろ』、と仰せられた。それで米の事であるのが分かった。すると直ぐ、『皆な売って人々にめぐんでやれ。その心になれ』、と仰せられた。辻さんもこれは悪かったと懺悔せられると腫物がすぐ吹き切った。その時、『少しでも心が異なったら、しるしが付くで』、と仰せられた。辻さんは帰って米を売られた。ところが儲かったので、その利益だけ人に与えられた。それで後まで肘に傷が残ったとのことである」。 |
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