天理教の災害観を確認しておく。天理教は、災害救援ひのきしん隊を早くより設け、それなりの歴史を積み重ねている。それはそれとして、天理教の災害観はどのようなものであろうか。3.11三陸巨大震災後の3.14日、東京都の石原慎太郎都知事が、3.11三陸巨大震災に関連し、「我欲に縛られ政治もポピュリズムでやっている。それが一気に押し流されて、この津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う。被災者の方々、かわいそうですよ」、「残念ながら無能な内閣ができると、こういうことが起きる。(1995年の阪神大震災の際の)村山内閣もそうだった」と語っている。かく震災天罰論を述べた。この天罰発言が各界から批判された。大正12年の関東大震災時に、渋沢栄一が天罰論を主張し、自分のことはどうであるのか、傲慢であるとの非難を受けている。
天理教にもこのような観点があることは疑いない。天理教代表役員の「お道の視点から」という著書の「自然災害の意味を考える」(立教167年10月17日号)を引用したい。その中で、自然災害について次のように記している。
「その程度にもよろうが、その地域、さらには国、ひいては世界に対する『お知らせ』と受け止めるべきではないかと思う。従って、難を逃れた者としても、親神様の思し召しに沿わぬ人々の姿、世のありように対する警告であって、決して他人事ではないと承知することが大切だと思う」。 |
「敢えていんねんという語を使うなら、国のいんねん、世界のいんねんのなせる業と言うしかあるまい」。 |
ここで云われている業という単語は、仏教では因果応報を示す。つまり、間違った心遣いをしていると神が災害で人間に罰や戒めを与える、人間の悪行は災害によって罰せられると云う教えである。キリスト教でも、震災の解釈をめぐり、大勢としては「震災は自然現象」という見方をしているが、一部では「神の戒め論(震災は天罰論)」を唱えている。
教祖がお筆先八号58に「雷も 地震 大風 水つきも これは月日の残念立腹」即ち「災害は神の残念、立腹である」と記している。これよりすれば、教祖が天罰論的災害観を持っていたことは疑いない。
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