天災地変災害、社会事変考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「天災地変災害、社会事変」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【災害観】
 教祖は、「天災地変災害、社会事変」につき次のような見識を見せている。御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 この世界 山壊(ぐゑ))なぞも 雷も
 地震大風 月日立腹
六号91
 このかやし 大社高山 取り払い
 皆一列は 承知していよ
六号115
 この話 何と思うて 聞いている
 天日 火の雨 海は津波や
六号116
 雷も 地震 大風 水つきも
 これは月日の 残念立腹
八号58
 世界には コレラと云うて いるけれど
 月日残念 知らす事なり
十四号22

 教祖は次のようにお諭しなされている。

 概要「ある時、『私どもの住んで居るこの世界の広さはどれくらいのものでございましょうか』と尋ねたところ、教祖は次のように答えられている。『この世界は広いで。丁度、人間が両手両足広げたぐらいの広さがあるのやで。そこをよく思案してごらん。この世界の真ん中には熱気がある。我々人間の体の中にも温みがあるやろ。同じ事や。世界の支えとなっている岩石は、人間の体で云えば骨やで。これも同じ理や。世界で岩石をおおっている土は、人間では骨をおおっている肉と同じや。世界の表面に生えている草木は、人間の体で云えば毛のようなもの。世界に通うている水脈は、人間で云えば血管が丁度それに当る。人間も息をして生きているが、世界の潮の満干は月日の呼吸やで』」。(松本滋「人間の元なるもの」)
 「諸井政一集」後篇84p御講話傍聴録二より。
 「『火は火や、水は水や。何でもないと思うていては違う。火と水とは一の神。なくてはならんものの一つ。間違うたら、どうにもこうにも人間の力で防げん。ここをよう思案せよ。さあ、そうなってきたら、いかな強欲(ごうよく)でも、悪気者(あっきもの)でも、そんな事どころではない。何もかも忘れて、まず第一に手を合わすやろ。さあ、手を合わしたら何と言う。‘’なむ‘’という言葉が先へ出るやろがな。‘’南無‘’は親々(月日/くにとこたち・をもたりのみこと)やで。いかな大水も、大火事も、大風も、皆なこれ‘’親の意見‘’やから、知らず知らず、親を呼び出して頼むというは、仏法というものを、人間の心を和(やわ)らげるために、教えておいたのやで』 と仰いました」。

 お指図には次のような御言葉がある。(略)

(私論.私見) 「天災地変災害、社会事変観」について
 教祖は、概要「天地自然は神の体であり、自然が生む災害は月日親神の手入れであり、残念立腹を表している」としているように思われる。

【天理教の天災地変災害、社会事変教理考】
 「天理教社会学研究所」の
 天理教の災害観を確認しておく。天理教は、災害救援ひのきしん隊を早くより設け、それなりの歴史を積み重ねている。それはそれとして、天理教の災害観はどのようなものであろうか。3.11三陸巨大震災後の3.14日、東京都の石原慎太郎都知事が、3.11三陸巨大震災に関連し、「我欲に縛られ政治もポピュリズムでやっている。それが一気に押し流されて、この津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う。被災者の方々、かわいそうですよ」、「残念ながら無能な内閣ができると、こういうことが起きる。(1995年の阪神大震災の際の)村山内閣もそうだった」と語っている。かく震災天罰論を述べた。この天罰発言が各界から批判された。大正12年の関東大震災時に、渋沢栄一が天罰論を主張し、自分のことはどうであるのか、傲慢であるとの非難を受けている。

 天理教にもこのような観点があることは疑いない。天理教代表役員の「お道の視点から」という著書の「自然災害の意味を考える」(立教167年10月17日号)を引用したい。その中で、自然災害について次のように記している。
 「その程度にもよろうが、その地域、さらには国、ひいては世界に対する『お知らせ』と受け止めるべきではないかと思う。従って、難を逃れた者としても、親神様の思し召しに沿わぬ人々の姿、世のありように対する警告であって、決して他人事ではないと承知することが大切だと思う」。
 「敢えていんねんという語を使うなら、国のいんねん、世界のいんねんのなせる業と言うしかあるまい」。

 ここで云われている業という単語は、仏教では因果応報を示す。つまり、間違った心遣いをしていると神が災害で人間に罰や戒めを与える、人間の悪行は災害によって罰せられると云う教えである。キリスト教でも、震災の解釈をめぐり、大勢としては「震災は自然現象」という見方をしているが、一部では「神の戒め論(震災は天罰論)」を唱えている。

 教祖がお筆先八号58に「雷も 地震 大風 水つきも これは月日の残念立腹」即ち「災害は神の残念、立腹である」と記している。これよりすれば、教祖が天罰論的災害観を持っていたことは疑いない。

(私論.私見) 天理教教祖の天災地変災害、社会事変教理考
 天理教教祖の天災地変災害、社会事変教理を平凡に理解するのは失当と心得る。留意すべきは災害懲罰論ではないことである。運命論、諦念論、政災論、人災論でもない。教祖教理の値打ちは、災害を奇禍として神の思いに目覚め、神の思惑からの脱線を悔い改め、神の思い願いの本来の軌道に沿い直すよう、いわば災害お諭し論にシフトしているところに値打ちがある。但し、表見的には月並みな震災天罰論のように受け取れるので、やや問題な処でもある。もう一つ。教祖の災害お諭し論は、災害を自然現象的に捉えているので、最近巷間に云われているところの地震兵器、人造台風、ワクチン等々の人工的な災害に対して対応できない。ここも一考を要する処である。




(私論.私見)