原理論その2 | 信仰観、諭し悟りの道その2、転輪王信仰 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.5日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、みき教理の「信仰観、諭し悟りの道その2、転輪王信仰」を確認しておくことにする。 2011.5.26日 れんだいこ拝 |
【南無転輪王】 | ||
南無は南無阿弥陀仏の南無であり、これが転輪王にも使われて南無転輪王となっている。帰命頂礼(きみょうちょうらい)も「帰投身命」も仏教用語で、帰命頂礼は、阿弥陀仏に任せてすがり、助けていただくことを云う。「帰投身命」は、阿弥陀仏になりきって阿弥陀仏のように人助けをする誓いを云う。転輪王も仏教の経文の中に出て来る王で、大日如来叉は釈迦如来の姿で表わされる。輪宝を持ち、邪な人のところに飛んで行き、邪な心を打ち砕いて、優しい人をそこに残す車輪である。転輪王は、全てを難渋助けに向かう。理想的な人間、王様を名付けて転輪王としている。この王様の心になるのを南無転輪王の心定めと云う。 教祖は、天保9年10月26日、転輪王の心に成りきって全てのものの難渋を助けて皆の喜ぶ世界を創るという暮らしに向かう事を宣言した。 教祖は次のようにお諭しなされている。(「おやさまのおことば(3)」) お指図には次のような御言葉がある。 |
【天理王命信仰】 | |
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【祓の思想】 |
みき教理によれば、「座りつとめ」で表現される際の御歌に「悪しきを払うて助けたまへ てんりん王のみこと」、「悪しきを払うて助けせきこむ 一列澄まして甘露台」と「払い」の言葉が述べられている。見落としがちであるが、「払い」は「祓い」であり、「禊(みそぎ)」の思想を核としていることが分かる。これが如何に重要なことかは、みき教理の古神道との疎通性に照らして明らかになる。これを逆に云えば、みき教理が古神道的な禊思想を受け入れていることが判明すると云うことになる。 このことは、みき教理の思想的位置づけを確認する意味で重要である。みき教理を神道、仏教、ユダヤ−キリスト教、その他宗教のどの圏内で理解するのかが問われ、そのどれにも属さないとする見解があるが、果たしてそうだろうか。れんだいこは、みき教理は、神道の内の古神道に属すると見立てる。この祓思想が根拠の一つである。これを理解するには神道に対する素養を要する。神道は、古神道、天皇制神道、近代天皇制神道の三構造に分岐しており、みき教理は古神道に属すると見立てたい。 このことは天理教の教派神道十三派の加盟と離脱経緯に関係する。天理教は、出雲大社教、御嶽教、黒住教、金光教、實行教、神習教、神道修成派、神道大教、神理教、扶桑教、禊教、大成教と共に神道十三派に加盟していた。明治28年、教派神道の各派はその連合会(現・教派神道連合会)を結成し、この会は戦後も存続し現在に至っている。途中で大本教が加盟し、大成教、天理教が脱退し、現在は12教団により構成されている。 天理教は神道ではないということで離脱した。 2011.1.3日 れんだいこ拝 |
【神様の理】 |
「神様之御顕現」参照。 伊勢国五十鈴川の水上に鎮座まします日本総社内宮外宮様はいざなぎいざなみ様、月日二神御入込み下されたる天照皇大神宮なり。御添い下さるはつきよみの命、くにさづちの命にして月日様の一の道具神様なり。讃岐国琴平山に鎮座まします金毘羅宮の御神体は大己貴の命にして即ち大国主の命なり。金の神きんぴら様なり。舟神にして舟を自由自在にするなり。山城国伏見に鎮座まします稲荷神社と云うは往古即ち神代の時、天の親神始めて人間に米を与えられたる時、種配りを命ぜられたる神なり。心正直にしてよく勤労せられし故、米の神様と成り給う。家々かまどの上に祭る三宝大荒神は人間の命であり、世界水火風三つの宝である。身体にては水気温熱呼吸の三なり。この三つは平常欠ぐべからざる物なれど洪水、大火事、暴風となる時は恐るべき大の荒神なり。故に三宝大荒神と崇むなり。かまどは六台の事なり。六台とは木、火、土、金、水、風の六つにて命を保つ故に九の土と云うなり。くどは九つ胴、六台に三つ載る理。 出雲大社は大国主の命なり。縁結びの神又弁才天と祭るも同じ。金毘羅宮も同じ。金の神と祭る金銭も続ぎ舟も続ぐ。弁財天美女の姿を描きたるはくにさづちの命の御徳を現わす。恨み残念三代持越せば癩病と云うはこの神様の立腹による。この神様は人間万物続ぎ一切、又表の神様ゆえ見える所美しき、奇麗なるは何物に限らず表の続ぎはこの神様の御神徳の現われ故、この神様の心に叶い、その道に徳を積んだ心の理が美人と現われるなり。人を続ぐは人を立てる天の理を立てるも同じ理、又音声の美はかしこねの命の御神徳。 つきよみの命は昔より弓矢八幡大明神と祈りたる勢いの神である。破軍星軍を破ると云われる如く、誠を立て貫きて、善に突っ張り抜き、挫けぬ、悪を破る勢いの強き御心にて、この神様の徳によって世界万物は倒れず立って居る。万の物事成り立つ納めの神にして立てる事に強き神様である。一日立つ一月立つ一年立つと天理を読み給う理にてつきよみの命と云う。勢いが弱くては何事も立たぬものなり。人間の埃と云うは我が身の思惑を立てんとして誠を失い、天の理を立てぬ、破る故に我が身が立たぬようになるなり。 この神様は道教えの神と云う。地蔵神とも云うて道分けをする。例えば此方は山、此方は海という、こう行けば間違う、こう行けば道という教えであり、この神様が抜けてある人はできぬ。この神様の御心は八方八神の括り故、この理が立てば皆な理が治まる。 五行の道では礼というは、この神様より出て居る人を大切にすることを云う。人は互いに立て合い助け合う礼儀という。人間も追々成人するに従い人を立てる事、行儀作法などが分かって来る。我欲の汚い心が清浄な立て合い助け合いの神の心に絡むに連れて、この理のないもの程下等になり難儀する。神様も『段々と子供の成人を待ち兼ねる、神の思惑こればかりなり、成人次第見えて来るぞや』、と仰しゃってある通りである。故に御道は皆な深い尊いことを云うてあるなれど、我々の心が進んで行かねば聞いても分からん。 聖徳太子様はこの神様の御変化なり。建築大工業の守り神にして立ち木、建物、立ち柱を祭る。宇宙間一切の建築物はこの神様の理によりて建って居るゆえ倒れぬ也。かの昔より城頭棟頭にしゃちを飾りたるはこの神様の理なり。甘露台勤めに鼻高面としゃちほこをこの神様の所に飾るはこの神の御神徳をかたどりたるものである。鼻高と云う理がこの神様にある。鼻柱顔の辛鼻で顔が立つ鼻も立つという理はこの神様の理なり。筋道を立てるという、誠を立て道を立て人を立て親を立てる。女なれば夫に貞女操立てる如し。成すべき事をきちんと成す、人に恩を受けば恩を返す如き皆な筋道を立てる理である。 あの人は鼻を高うして居るというが如く人間は成すべき事を成して踏むべき道をふみ、何所へ出ても恥ずかしからぬ道を通り立派に行うて居れば鼻高うしてぴんとして居れる。低いはその反対で、人にすべき事をせぬ、例えばこうすればよいに、あゝすればよいけれどと思う事をせずにおくが如く、成さねば実が乗らぬ、その成さんのは埃から成さんその因縁で物が与わらぬからようせぬ。故に人の中に出ても鼻低うして居らにゃならんが如し。鼻筋の潰れたる者は、我行うべき理を立てずして大いに人の恩をかぶりて来たる理。鼻筋の立つはこの神様男一の道具も同じ理。又一の道具が立たねば一家世界も立たぬ。鼻は人生の舵取りを語っている。鼻の落ち、曲がりた者に考えのよいものはない。鼻高天狗はたいしょくてん様の理で切れ物が上手なり。思い切るから立つ。一に勢いと云うて天狗は神故に人間の心の勢いに乗って働くものなり。天理の事を読むからつきよみの命、天理の風を守るから大日如来天理の道を守るから不動明王。 人間も天の理に合わぬ、天理に切れて居る心を以って働き居ては陽気に勇むことができず、智恵も出ぬ、一身が治まらん。例えば人と人との心が合わず仲が悪ければ物云わぬ心になる。合わして睦まじければ家内の中でも陽気になる。人と交際して智が付く如く、子供が学校に行きて一年の間に非常に智恵が付くは、先生が教える事を一心に覚えて守って居るからである。全て心の合うた先生につかねば智恵がつかんが如し。天の理に切れ、天の理に合わねば何程苦心しても頭が進んで行かん。 又この神様は義の神様、義理と云うも同じ。この神様から義と云う事は出て居る。月日二神からかしこねの命に美と云う事は御任せになって居る。云うた事を違えん、云うた事の違わぬという定役をたがえぬ如く人間は義が大切である。この神様は未申。羊に我と書く、羊ほど義の堅いものはない。羊は虎に向う時は朋友を助けるために我も/\と皆な先に/\進んで行く。我が身を虎にあてごうて朋友を助けようとする性を持つ。昔の武士道でも義で持って居た。例えば武士に二言なしと云いて義を守った。義を立て、不義なる事は死しても成さんという義を重んじた。これ義の徳也。人間には勿論義がなくてはならぬ、義は誠、我が身の小さい欲を捨てて例え我が身を犠牲にしても人を助けると云う。又国家の万人の為に尽くすという真実誠なればその心は神と同一、必ず神に分通する故天晴れの働きができる。神は人間の心に乗って働き給う故、誠によって神の働きが現れる。神言に、『我が身捨ててもと云う心なれば神が働く』、と仰せある通り、人間は我が身を案じる身欲から心が小さく穢く暗くなって徳を落とす。真の誠なれば天が守り給う故、天運尽きず長久なり。誠がなくしてこの世の役にも立たず。我の埃を積み、天の龍頭が切れて神退けば脆い。 事業は神の心に乗って働きあるものなり。又国家の為世の為に犠牲となって功労を残して死したる魂は直ちに生まれ出でて国家の上に立つ。天徳を以って世に現れる故、万人の尊敬を受ける。上に立たるる人は皆な前世に世の為に尽くされた因縁ある魂にて、これが因縁心の道なり。 この世は神の世界であり一寸先が分からぬ。人間の自由になる世界ではない。人の神魂は神の分心故、身体はいわゆる水の泡同然のものなるが魂は神と共に不滅なり。人間の生死は神の支配にて人力の左右すべきものに非ずして神の自由にあり。我が身の欲を去って我が身を犠牲にして人の為、国の為に尽くすという位な真実があれば、この神様入り込み給うて実が利くなり。我が身の欲で田地や山林や財産を持ち又金を貯めようとするような間はこの神様の通力が利かぬ故、天徳ができん。身薄になくてはできん、身薄にならねばこの神の実が利かん。 声のよいと云う理は中々意味が深い也。又鳴り物は人間言葉の理と同じく鳴り物の一番は*が第一位のものなり。これは心の格好という理で、心の格好は悪しき所を立替せねば格好よくならぬ。又三味線は鳴り物の中でも広く用いられ僅か三筋にて最も美妙なる音調を発し人心に陽気を与えるものなるが、三味とは言葉の理にて三つの味わいと云う理で強いと弱いと中程全て言葉は心の現われにて人を助ける事も人を苦しめる事も大にしては世を治める事も世を乱す事も皆な言葉が働いて居るもので大切のものなるが、例えば御道一条或いは一家の子弟を教育するにも何時も柔らかな言葉だけでも育たぬ、助からぬ者あり。却ってその者一生をあやまる事あり。強気厳しき教育にて助かり、生涯の出世さす者とあり。皆な云うに云えぬこきゅうがある如く、埃なききれいな即ち誠親心より施す言葉はたとえ厳しき内にも温かき味わいのあるのみならず、人心を感化し教訓するの力あるもの故、人の心育つなり。 不動明王はおおとのべの命の御変化なり。不動は動せぬという理。盤石の如くと云うて人を助ける為には、誠の為には心を変えぬという理なり。かの仏像に炎の中に真っ黒の像が剣を以って泰然たる姿を描きたるは、たとえ如何なる中でも心を動せず苦労を厭わぬという。この神様の御心の姿を教え給う御道なれば如何なる悪因縁、埃の中も切りぬきて埃にまびれぬ心を倒さぬ、人を助けるためには真心を変えん誠一筋押し通すと云う真実、定まったのが不動の精神。 又この神様とつきよみの命二神で秋ができて居る故御心もこの二神同じ所がある。酉戌亥秋の神、力の神、働きの神、御守護も御添い下さる。この神様は出世神とも云うて人間は自慢や高慢では出世できるものではない。低い心で万事行き届く心を開き、実力を蓄えれば自ずと神が引き出しなさる、万物引き出しの神様である。全て我が働き骨折りして人に十分与えると云う心になれば我が身に力が備わる。又恩を返すと云うことに力を入れて人に引き与えすれば自身に力ができる。殊に御道はこの理が大切なり。身の内では筋の御守護を司る。筋は全身に行き渡って働いて居る。たとえ一小部分でも一分でも足らんとか短かったら筋を釣って伸縮の自由叶わぬ如くで、隅から/\まで八方に心を配りよく行き届く神様である。人間もその心の理で十分物事を心に納める、それ故に人に満足が与えられるなり。 私は行き届かんまだ/\十分学びて上達せにゃならんと自分の短所欠点と人の長所が見えて人を見下げる心、切る心なく、心使いの低い柔らかにして熱心の強い心から日々に徳がついて上達する。又人がこう云うから人がどうしたからとて、心がたよ/\して倒れるような真実の定まらぬ薄弱な心では何事もできん。たとえ人がどう云おうとも我がこれをやりぬかねばおかんという変らん狂わん、真実の据わった辛が立つから延び上がることができる。この心のないような者は役に立たん。と云うのは世の中は多くは埃に染まりて徳を落とすのであるから、自分の悪性質を切り、天の理を胸に納め、心澄まして誠一筋押し切って、世の中の為人を助ける技量実力の天徳を得るに意思の強固なる迷わん、動せん、強き誠を立ち抜く真実親心が不動明王なり。 御教祖が雛形、教祖が如何なる中も世界の子供助けるために盤石の如き心にて御苦労下された故、この道ができ立った。もし御教祖が御苦労艱難に堪えられず中途御心倒し心を変えて居られたら、神の思惑たるこの道どうなって居るかと云う、その強気誠が末代まで光り輝くのである。 高慢は、学ぶ事を学ばず、自身行わず、理屈で人を押さえるとか、知らん事でも知り顔をする、自分で分からん事やない事を云うて人を迷わし人に迷惑を与える。高慢では力はできん。高慢を去るから力が与わる。心に力のできるはこの神様つきよみ様の理。理屈が達者になって人を押さえて見ても、人を教育する仕込む、全て実力がなくては役に立たぬ。又身の内はこの神様の入込んで端々まで何所でも伸縮自由自在できる。この位優しい素直な心はない、十人が/\に人を引き出す押し出す人を連れると云う神様なり。人間は心が低うなくては行き届かず低い心で働かねば徳が取れぬ。どんな人の云う事でも聞き分けるという度量の広い人を容るゝという理で、我が心広く、大海になる。又力は血、地からという意味ありて低い所にある水は低い所/\と流るゝものでこの世の中に水程強い力あるものなし。水ほどやさしいすなおなものはない。例えば下駄をはいて居て力出すよりも足を地に落として踏ん張る方が力が出るようなもので、我が身の低いほど力が出る如し。草木でも根張りが下に下にと下りるほど上に延長して大本になるほど多く花実が稔る如し。親は根である。(一切の親)根に切れては実が乗らん。肥がなければ太らん如く、道を治むるにも我が心落として師に仕え、十分勉強して恩を返す、根を肥する程自分に徳ができると大人となる。 例えば人に従うとか頭を下げげて物を学ぶとか習う事をせず、初めから物知り顔で先生顔がしたいようなもので、たとえ如何なる賢人、聖人というても天下に名を輝かす様な御方でも、生まれながらに物を知っては御座らぬ。幼少の時代には或いは学校で先生に習い、段々目上や先輩に習い従うて自分が先生になる。元々より先に生まれて又先に学んで居るものが先生、昔からでも一世に名を挙げられた位の御肩は皆な師に従い苦労せし修養の根があって世に現れた如し。 又世の中に物のよくできる人、出世せる人は或いは高慢も強く人を見下げるように見える人もあれど、その実は心が届いて働きが多く強くしてある熱心が強いから徳を積んで高慢の埃なく理に叶うから出世成功できるなり。つる類はどんなことにも人より延び上がって下向きに頭を垂れる。この神様の御心の理が現れる。藤は美しい花を咲かして高い所から下にうつむいて花を見せる。人間も如何ほど出世しても心を低めて人に花を見せる心の味わい、この理がおおとのべの命の御心に叶う。『さがりやさがるほど、人の見上げる白藤の花、咲いて実のない山吹の花』。つる類は何でも他の物につるが優しく添うて伸びる。高慢は、人の云う事成す事つきくずす、或いは我が身を顧みる智恵なく人を恨み、人が行き届かぬように思い、又人を見下げ、我がえらいように思うて我が事を鼻にかける。高い心高慢から人の云う事でも耳に入らん。用いん人に情けのない小さい心から胸の内が暗くなる。高慢の埃を祓うて心を磨く事、天の理を正直に守る。即ち神に素直になる事ができん故高慢があっては話が納まらん、教え通り行えん、例えば日夜の身上の大恩を思い神様の御守護で働かして貰えた、さして頂けると云う心でなくして、これは我が力で成したものだ、我が助けたものだ、我が働いて我が食うて居ると思う、心は神に対する高慢神の理を突き崩す理。故に形は人に与えて?心は与える、尽くす心なき理である。道に年限重ねて人を助ける位置にある人には神様に対する理の諭しがある。人を出世させようと思う誠の心が我が身の出世できる心である。『欲と高慢大嫌い』、と御教祖は始終仰せられたり。 |
(私論.私見)