原理論その1 信仰観、諭し悟りの道その1、創造主としての元の神、実の神

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、「信仰観、諭し悟りの道その1、創造主としての元の神、実の神」を確認しておく。「みきの神がかり天啓問答」の際、「元の神、実の神である」との御言葉が放たれている。れんだいこが察するのに、「元の神、実の神」という概念自体が極めてユニークである。この概念は何処よりもたらされたものであろうか。これを確認しておく。

 2003.8.29日 れんだいこ拝



【元の神、実の神】
 天理教教典第1章の初めは次のように記述している。
 我は元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり。このたび、世界一列をたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。

 ここでいう「元の神」とは、「ない人間、ない世界をお創(はじ)め下された」、みかぐらうた三下り目九ツ「ここまで信心したけれど 元の神とは知らなんだ」とある神のことである。お筆先では、「この世を初めた神」、「この世の人間はじめ元の神」、「元こしらえた神」と記されている。「実の神」とは、「天では月日、この世では火、水、風。人間身の内に入り込んではぬくみ、水気、息一筋をはじめ一切万事のご守護を下されている神様」、みかぐらうた三下り目十ド「このたび現われた 実の神には相違ない」とある神のことである。
 「よろづよ八首」
第1首  よろづよの 世界一列 見晴らせど 
 胸の分かりた 者はない
第2首  そのはずや 説いて聞かした ことハない 
 知らぬが無理では ないわいな
第3首  このたびは 神がおもてへ 現れて
 何か委細を 説き聞かす
第4首  このところ 大和のぢば 神がたと 
 云うていれども 元知らぬ
第5首  この元を 詳しく聞いた ことならバ 
 いかな者でも 恋しなる
第6首  聞きたくバ 訪ね来るなら 云うて聞かす
 よろづ委細の 元なるを
第7首  神が出て 何か委細を 説くならバ
 世界一列 勇むなり
第8首

 一列に 早く助けを 急ぐから 
 世界の心も 勇めかけ

 「教祖口伝」の「明治12年7.5日、村田に対する教祖直々のお諭し」。この神様はどういう神様でございますかと尋ねられたところ、
 「この神様はなあ、元の神と言い、実の神様やで。元の神様とは、拝み祈祷の神やない。元こしらえた神というて、元々何にもなかったところから人間をはじめすべてのものを創り初められた神様や。実の神というのはなあ、真実の神ということやで。すべてをお創りになったというだけでなく、それ以来、常に変わらず、不思議なお働きによって、あらゆるものを育て、温かい恵みをもって御守護下される神様や。人間をお創り下された思し召し通りに通らせて頂くことができるようにと、直々にこの世へお姿を現された真の神やで。神様は人間を創り、その人間が陽気暮らしをするのを見て、共に楽しもうと思し召され、人間世界をお初めなされたのや。だから人間は日々通らせて頂くのに、神様に喜んで頂けるような日々を通らにゃいかんで。神様に喜んでもらえるような日々とはなあ、まず借りものということをよく心に治めることや。心に治めるというは、神様から身上を貸して頂いているということをよく心に治めることや。そうして真実の心にならせてもろうて、親の心に添うて務めるのや。これが一番神様に喜んでもらえる道やで。この心で日々通らせてもらいなはれや。神様にどんなにお礼させてもろうても、これでいいということはないで。日々の御恩は日々にさせてもらわにゃいかん。日々にさせて頂くことが、日々結構に通らせて頂ける道になるのや。身上でも事情でも御守護頂ける道は只一つや。借りものという理、心に治めてしっかり通りなはれや」。
 天理教教典/第四章、天理王命は次のように記している。
 「親神を、天理王命とたたえて祈念し奉る。紋型ないところから、人間世界を造り、永遠にかわることなく、万物に生命を授け、その時と所とを与えられる元の神・実の神にています」。

【みき教理の神観、信仰観】
 お道教理で云う神とは、「元の神」、「実の神」、「全知全能の神」、「親神」として位置づけられている。みきは、この世の創造と成り立ちについて親神の働きを説いた。そして、親神の思いを知ることが全ての始まりとなることを教えた。そこでは、神と人とが親子関係で説かれている事が注目される。これが天理教の基本的な神概念となる。従って天理教では、神と人間は、「子(人間)が親(神)を慕い寄り来るように、親(神)も又寄って来る子(人間)を慈しみ守護してくださる」という関係になる。この関係において、親神は創造主であり、真実を説く統括者であり、守護者であるという地位を獲得している。この親神様は、旬の説き方に応じて「元の神・実の神」、「月日」、「をや」と呼び表される。

 十二くだりの御神楽歌に出てくる神は次の通り。
 こゝまで信心 したけれど 元の神とハ しらなんだ 三下り目9ッ
 このたびあらわれた 実の神には 相違ない 三下り目10ッ
 ひとがなにごと いはうとも 神がみている 気をしずめ 四下り目1ッ
 皆なみてゐよ 傍なもの 神のすること 為すことを 四下り目3ッ
 水と神とは 同じこと 心の汚れを 洗ひきる 五下り目3ッ
 欲のないもの なけれども 神の前にハ 欲はない 五下り目4ッ
 この木切らうか あの石と 思へど神の 胸しだい 八下り目9ッ
 不自由なきやうに してやらう 神の心に もたれつけ 九9下り目2ッ
 欲があるなら やめてくれ 神の受け取り でけんから 九下り目4ッ

 お筆先は次の通り。
 この世は 理で責めたる 世界なり
 何かよろずを 歌の理で責め
一号21
 段々と 何事にても この世は 
 神の体や 思案してみよ
三号40
三号135
 この世を 初(はじ)めた 神の事ならば
 世界一列 皆な我が子なり
四号62
 この道は どういうことに 思うかな
 この世治める 真実の道
六号4
 教祖のお諭しは次の通り。
 「天地自然の理が神」
 「つとめの理が神」
 「えらい回り道をしてきたのやなあ。ここには八方の神が揃っているのに」。
 「神と云うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし。又、内外の隔てなし。水と神とは一の神。風よりほかに神はなし」。
 「さあさあ実があれはば実があるで。実といえば知ろまい。真実というは火、水、風」。
 「この世界中に、何にても、神のせん事、構わんことは更になし」。
 「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」。
 「何を聞いても、さあ月日のお働きや、と思うよう」。
 「この世の台は天が台。天の芯は月日なり。月日がありてこの世界あり」。
 「月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて、身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」。(教祖お指図、明治20.1.13日)
 「神と云うはあると云えばある、ないと云えばない。成って来る理が神や」。
 (西行法師の「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」に通じていよう)
 「神というて、どこに神がいると思うやろ。この身の内離れて神はなし。又内外の隔てなし。と言うは、世界一列の人間は皆な神の子や。何事も我が子のこと思うてみよ。ただ可愛い一杯のこと。百姓は、作り物豊作を願うてそれ故に、神が色々に思うことなり。又人間の胸の内さい受け取りたなら、いつまでなりと踏ん張りきる」。(明治18.3.28日、山田伊八郎が承って記した教祖のお話の覚え書き)
 「或る時、桝井様など、御前に侍(はべ)りて、荒神のタタリありたる事を打ち語り、禍(まが)つ神のタタリという事も全くあるものにや、等と言い合いしかば、教祖様、微笑み給いて、『どのような神も皆なあるで。人の心の理から、どんな神も出来るで。人は神とも言うであろ。又見ゆる利益(りやく)が神の姿とも言うてあろ。人の心の理から、どんな神も出来るのやで』とお聞かせ下されしと。又、「参り所や、温泉など、山の奥や、海岸の行きにくい様な、辺ぴな所に多いものやが、不思議やなあ」等と物語りし時、『どんな田舎でも、山の奥でも、人の暮しの出来る様にしてあるのやで』と御仰せありしと」(「禍神の有無に就て」、「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社発行)157pより)。
 「或る時、辻先生など、教祖様の御前に伺いて、『天理王命の姿は有るやと尋ねられますが如何答えてよろしゅうございましょうか』と御伺い申上げしに、『あると言えばある、ないと言えばない。願う心の誠から見える”利益(りやく)”が神の姿やで』とお聞かせ下された。げにも(いかにも、なるほど、ほんとうに)と、人々感じ入りて、喜び合えりと」(「神様の有無に就て」、「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社)138pより)。

【教祖の諭し話し考】

 教祖の諭し話は非常に有益であった。「今日はどのようなお話しを聞かせていただけるのだろうか」、「一刻も早く教祖にお目にかかりたい」と、知らずと足がお屋敷へ向かった。こうして連日連夜、教祖を囲む集いが持たれた。「今夜もまた、ええ話をしていただいた」とその余韻を噛み締めながら家路に向かった、と伝えられている。

 「正文遺韻抄」は、140、141Pで、教祖の次のように御言葉を伝えている。

 「一つには、四十代や五十代の女では、夜や夜中に男を引きよせて、話しをきかすことはできんが、もう八十過ぎた年よりなら誰も疑う者もあるまい。また、どういう話も聞かせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年の寄るのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで」。
 「八十過ぎた年よりで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よって、力だめしをして見せよとおっしゃる」。

 本部の「稿本天理教教祖伝」が教祖の実像を描き出していない事情に鑑み、教祖の諭し話しで補足していくことはかなり重要であると考える。そういう意味で、「天理教教祖逸話遍」(「おやさま逸話編(抜粋)」)(「天理教教祖伝逸話篇<目次 1-100>」)(「教祖逸話篇」)、「生きる言葉」(道友社、1995.10.1日初版)その他は貴重な資料の提供となっている。「天理と刻限」の「教祖直々の諭し」も大いに参考になる。こういう類の発掘と資料化、公開化、整備化が望まれている。

 しかし、流布されている教祖のお言葉は無条件では受け入れがたい。お話しを聞かされたその受け手の成人度により他意はなくても恣意的に歪み伝えられている可能性がある。そういう意味で、教祖の真意と実際のお言葉を引き出すことが必要になる。が、教祖の真実のお言葉に迫ることが難しい。且つ、まだまだ未公開のお言葉があり、今は小出しにされている段階のように思われる。一挙公開を望みたい。

 ここに書きつけるのは、現時点に於けるれんだいこフィルターにより透過された教祖像である。まず、教祖の直々のお言葉と思われる者を取捨選択した。教祖のお言葉として疑念が残る文句は割愛した。れんだいこが伝えるに足ると思われるお言葉を選択した。教祖の似たようなお言葉を一括して大過のない形で編集し直した。実際にそのように述べた訳ではないが、細切れの言葉をそのままに理解するよりも却って教祖のお言葉の真意に近いのではないかと思っている。参考にしていただければ幸いである。

 2003.8.29日、2006.7.1日再編集 れんだいこ拝


【「みき教理の神観・信仰観考」】

 小滝透氏の「おやさま」で、仏教教義の核心が次のように説明されている。

 概要「仏教の世界観は人間の存在を「苦」であると考える。老病死が苦であるだけではない。生きていることそのものも、基本的に苦とみなす。その為、仏教の救いとは、畢竟、苦んらの解放(解脱)をいかに実現するかにかかっている。そこで、彼らは、解脱に当たって、その元凶となる苦の分析に取り掛かった。そして、その根本原因として、欲望(煩悩)の存在に突き当たった。つまり、煩悩の執着こそ、苦の根源だと考えたのだ。とすれば、後は煩悩の執着をいかに解消するかにかかってくる。仏教史とは、この煩悩の執着をいかに解消するかをめぐって為された壮大な思想劇としてある。その思惟劇の只中で必死に考えをめぐらした人々の思惟と行動の集積が仏教史なのだ。そして、その最終的局面は、解消しようにも解消できない煩悩の存在を、逆に肯定することをもって終わりを告げた。現在我々が目にしている大乗仏教の存在は、いずれもこの段階に達している」。

 その上で、小滝透氏は次のように云う。

 概要「だが、いかに煩悩の存在を肯定し、生の存在を聖化しても、仏教にはどこか悲観的な暗さがあった。つきまとう苦への不安に怖れおののく心情が残っていた。ユダヤ−キリスト教教義の場合には、神と人とは契約の関係に在り、契約不履行の場合には峻厳な罰を与える恐ろしいほどに厳格な全知全能神の存在が指し示されている。イスラームの場合にも同様で、『絶対帰依を要求する神』と『絶対帰依を誓う者』との契約によって信仰が成立している。

 それらに対して、天理教教義では、人類創世記神話『元の理』で、天理教の神様は、創造した子供が楽しく暮らすのを見て自分も共に楽しみたいとされていることに注目して、底抜けの明るさが特質であることを評価している。神と人との関係も強制的なものは無く、神の思惑に叶うことにより一層守護される、心得違いが咎められるという意味で、いわば自由律の関係となっていることも注目される。且つ天理教の神は、内面的な信仰を要求し、ユダヤ−キリスト教やイスラームの神様のような法律神ではない」。

 では、日本古来の神道の森羅万象八百万の神、産土(うぶすな)氏神信仰、記紀神話の皇統信仰、英雄信仰との違いは何か。これに対しては、人間世界を創めた「元の神」、この世のありとあらゆるものを実際に守護されている「実の神」信仰であるという点で、峻別させている。


【「理」について】
 元の理。 お指図に次のようにある。
 「一つの道、一つの理、これ三つ一つ欠けてもならん。どうなっても案じる事は要らん」(26.2.6)
 「最初の理は元。後の道は無い。元の心無けにゃならん。元の心受け取りて理である。受け取りて理は、どんな剣というとも、岩の中でも切れゃせん。理は元の理、元の理は神の話す理」(29.8.22)

 筋道の理。お指図に次のようにある。
 「善い事すれば善い理が回る。悪しきは悪しきの理が回る。善いこともきりが無ければ、悪しき事もきりが無い」(25.1.13)、「多くの中には善き理もあれば悪しき理もある。心の理は散乱の道、散乱の理が根と云う。よう聞き分け。一つの理を治めずして、理をば計ったか、事情治めずして事を計ったか」(31.4.20)、「善き事は善き事、悪い事は悪い事、皆理ある。理があれば理が回る」(31.4.20)

Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評201 れんだいこ 2006/08/17
 坂東太郎さんちわぁ。

 > 私が子供の頃は、共産党の鼻息が荒く、学校関係者は日教組が支配的で神が人間を創ったというような、考え方は、排除され、生家が宗教施設の子供が教員から、白い眼で見られ、迫害を受けていたのを記憶しています。

 「神が人間を創ったというような、考え方」はそれほど批判されることでせうか。れんだいこが思うに、神というのは表象概念ですから、真に問われるべきはその表象が規定する内実ではないでせうか。言い回しだけで拒否反応するのは児戯的と考えております。俗流自称マルクス主義者の悪弊ですねきっと。

 ユダヤーキリスト教に於ける神は人格神のような宇宙神のような両面を持っており、いずれにせよ出所所在不明の絶対的超越創造主的一神教ですが、日本神道の特に古神道系の場合は、いわば宇宙や自然に充満する八百万(やおよろづ)の神々多神教です。故に、この考え方を発展せしめれば、中山みきの如く「理が神」という概念も成り立つわけです。

 みき曰く概要「神というては特別に有るものではない。有るといえば有る、無いといえば無い。しかれども成ってくる理のうちに神が見えてくるのや、理が神や」という次第です。こうなると、「成ってくる理」とは、自然法則から社会法則までを含めた概念と後一歩のところまで近づいております。

 このような神概念の場合、みきが「神が人間を創ったというような考え方」を示したとしても、そういう表現だけで批判されることではないと思います。むしろ、言葉短く分かり易く表現したもので、あくまでその神概念で彼女が何を表現しているのか思案するのが大事と考えております。

 従って、マルキストが、「神が人間を創ったというような考え方」を聞くと条件反射的に迷信低劣とみなし、排斥対応するのがむしろ滑稽になります。れんだいこの理解するマルクス主義の宗教批判は、俗に云われているような宗教アヘン論一色のものではありません。ユダヤーキリスト教史及び西欧史を踏まえての政教分離思想に基づくもので、神事は神職に任せ政治は政治職の者に任せるべきだとの観点からあれこれ述べていると考えております。いわゆる宗教全面的否定論とはちょっと違うと考えております。

 ここら辺りが混乱しており、特に我が国の場合、西欧宗教とは違う神概念であるにも拘わらず、十把一絡げにマルクス主義=宗教否定論の立場から論難することを第一にし過ぎております。その癖、何のすり合わせもないままに統一戦線論でご都合主義的野合をしております。

 ちなみに、れんだいこは、マルクス主義に於ける統一戦線論を臭いと思っております。我々が目指すべきは共同戦線論であり、統一戦線論は似て非なる理論と考えております。統一戦線論なぞ一体、誰が編み出しのか。言葉の違いだけではないものがあると考えております。

 もとえ。れんだいこは、そういう認識から、宗教界宗教問題にも等しく関心を持っております。彼らの理論内容の内実を見ようとするからです。時に、左派党派よりも勝れた組織論運動論目的論を打ち出すことがあります。同時に社会学的分析の拙さによる限界もあります。とはいえ同志的結合のさせ方で学ぶに値することが多い。むしろはるかに進んでおりますね。

 れんだいこ的には、マルクス主義の社会分析概念と宗教の生き方作法をミックス・アンサンブルして、人は寿命の中で何を為すべきか、どう処世すべきなのか、世代にどう伝えていくのか、歴史の歩みをどう見るのかの新機軸を生み出したいと考えております。なかなか難しゅうございますが。

 「神が人間を創ったというような考え方」それ自体を安易に批判して得心している思考停止族が多い風潮下ですので、敢えて立論してみました。世には科学教というのがあり、自称でも科学的とさえ冠詞すればそれだけで、宗教者より一歩高みに立っている気がする手合いに漬ける薬を開発中です。科学とは汲めども尽きぬ発展過程のもので、その道中でしかないのに、我は科学的と云ってみてもほぼ何の役にも立たない。あくまで云っていることとやっていることが精査されるべきです。これを不問にして平気の平左で胡坐をかいている科学教徒の拙さばかりが見えてくるのを如何せん。

 2006.8.17日 れんだいこ拝

【世界の広さ】
 ある信者が、「わたしどもの住んでいるこの世界というものは、随分広いと思われますが、一体どのくらい広いものでせうか」と尋ねたところ、教祖は両手を広げて、「この世界は広いで。丁度人間が両手両足を広げたくらいの広さがあるのやで」と答えた。両手両足を広げたくらいでは大したことないのでポカンとしていると、続いて次のようにお話しされた。
 「この世界の真ん中には熱気がある。我々人間の体内にもぬくみがあるやろ。同じことや。世界の支えとなっている岩石は、人間の体で云えば骨やで。これも同じ理や。世界で岩石をおおっている土は、人間では骨を包んでいる肉と同じや。世界の表面に生えている草木は、人体で云えば毛髪のようなもの。世界に通うている水脈は、人間でいえば血管が丁度それに当たる。人間も息をして生きているが、世界の潮の満干は月日の呼吸やで」。
 「或る時、高井様など御前にありて、「この地と天とは、どの位の隔たりがあるものならん」と語り合いしかば、教祖様仰せには、『”ぢ”は”ぢい”としているから”ぢい(地)”と云う。”てん”は”転じ変わる”もの故”てん”と云うで。又人間の心の”苦(九?)”を以て”くも”と云うで。”くも”が幾重も出た時は低う見えるやろ。一点の雲もなく日本晴れという日には、何ぼう高いとも分からん様に見えるやろ。これが天やで。人間の心もその通りやで』と。天は水、地は火と聞かせらる。されば、低き白雲も、高き青みきりたる空も、皆な水なれば、天と云うべきならんかと悟りて、又、「東西南北、どの位隔たるものにこれ有るや」と御伺い申し上げしに、『人間が両手を広げて寝た如くや』と聞かせられたり。人間、両手広げて寝れば、東西南北、同じ程なり。これ丸き理を聞かせられしにや。又、『地球は人間の体の如くや。金類の出るは人間の身にすれば爪や。温泉というは”急所”の様なもの。草木は毛の如く。水道は血の筋やで。同じ理やで』と、御聞かせ下されたる事あり。実(げ)におやさまの体なりかし」(「天地東西南北の事に就て」、「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社発行)158−159pより)。

【東西の長さ】
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「東西の長さは(その一) 」、「東西の長さは(その二)」を転載する。
 東西の長さは(その一)
 「**が教祖に問いけるは、「東西の長さは、どれだけでございましょうか」と。教祖、答えけるは、『両手をひろけて大空を見よ、それが東西の長さやで』と。**が教祖に問いけるは、「天地の高さは、どれだけございましょうか」と。教祖、答えけるは、『天地の間は広いなァ。なれども雲がかゝれば狭(せも)うなる。人間の心も広いものなれど、雲がかゝれば狭うなるなァ』と。ある人、教祖に問いけるは、「この世の中はどなたがおつくりになったものでございましょうか」と。教祖、答えけるは、『それは神さまやで』と。その人、なおも問いけるは、「その神さまは、どなたがおつくりになったものでございましょうか」と。教祖、答えけるは、『そこまできかんでもいいのやで』と」。(昭和六十年四月発行「教祖 おおせには」高野友治著(天理時報社印刷)2〜7ページより)

※口伝として伝わっているのは『そこまで聞くのは”あほ”やで』である。この小冊子は高野先生が自費で出版されたもののようで(「創象」参照)、あとがきにも{本書は私の心覚えの書である}と断られている。
 東西の長さは(その二)
 「このお話は、三話とも、昭和九年十一月であったか、御本部で、甘露台座談会があった折、高井直吉先生がお話になった話しである。あの時の座談会は、二代真柱が中心になり、山沢為造、松村吉太郎の諸先生をはじめ、たくさんの本部員先生、史料集成部の先生方も出席になっていた。私らは道友社の記者として、筆記役として、末席に拝聴さしてもらった。記事は、昭和十年一月の『みちのとも』に掲載されている。だが掲載されない話しの中に、いろいろの話しがあった。ここに掲げた三話とも、そのときの話しである。
 時は明治十五、六年の頃のことかと思う。あの当時、教祖は何でもよいから聞いておけ、とおっしゃったそうだ。それで信者たちは何でもお尋ねしたという。そんなときに、風変わりの信者たちがいて、教祖があまりにも簡単にお答えになるので難問を出してやれという気分になって、難問を考えたらしい。そして自分たちがお尋ねにゆかないで、当時お屋敷につとめていて、信者たちの世話をしていた高井直吉先生に、お尋ねに上らしたものらしい。三島村のある家には、そんな信者たちが集っていたという。まず東西の長さ。次いで天地の広さ。それに対する教祖のお答えはまことに明快である。それで第三番目の質問となった。この世を創ったものはどなたかと質問せよ、教祖はそれは神さまよとお答えになるだろう、そうしたらその神さまを誰がおつくりになったのかお尋ねせよということになったのだという。それを高井先生から聞いていた先生方が言った。『あんた、それを聞きに行ったのか』。『そうや、皆んなが聞きにゆけというんや』。『教祖にお尋ねしたら、教祖どうおっしゃしった』。教祖は、『それ、あんたが聞くのか』とおっしゃった。怖かった。それで、『いいえ、皆なが聞いて来い言いますのでお尋ねに上りました』。そうしたら教祖は、『そこまで聞くのはあほやで』とおっしゃった。そこで、先生方も、『そらあ、そこまで聞くのはあほや』と言われた。今も、あの座談会当時の雰囲気は目の前に浮かぶ。そして、教祖の前でお話しを聞いておられた高井直吉先生の姿が想像される。また教祖御存命当時の教祖と信者の姿が想像されるのである。その後、段々とこのお話しを味わっている間に、教祖は、信者に『あほや』とはおっしゃらなかったはずだと思うようになった。『あほや』と言ったのは、信者たちの方なのだ。そうしたら、教祖はどうおっしゃったのであろうかと考えた。そして出て来たのが、『そこまで聞かんでも良いのやで』というお言葉だ。教祖のお言葉はそうでなかったかと思う。間違っていたら、いつでも訂正さしてもらう。ここでは一応私の思うままに書かしてもらった」。(「教祖 おおせには」高野友治著(天理時報社8−9p、昭和六十年四月発行 )

【高天原はどこにある】
 「教祖に、『高天原はどこにあるのでございましょうか』とお尋ねした。教祖は、『ここやで』とおっしゃった」。(「もろもろの質問」参照)

【「元の神、実の神」の概念的由来考】
 「親神」について、天理教教典は次のように記している。
 「親神は、人間世界の根元にていまし、この世を創(はじ)められたばかりでなく、この世の有りとあらゆるもの、 悉(ことごと)く、その守護によらぬものとてはない。しかも、その 自由(じゆうよう)の守護の程は、眼に、身に、心に、ありありと、感じることができる」。(天理教教典36−37p)
 この親神について、中山みき教理は「元の神、実の神」とも云いなしている。「元の神、実の神」は宗教的教義論ではかなり珍しい表現ではないかと思われるので、これを確認しておく。

 れんだいこは、「元の神、実の神」の秘密を解くのに、大和神社の縁起を始めとする「みき」の生育した地域の「元の神、実の神伝承」に淵源を訪ねたいと思う。「みきの生育した地域」については、「
みきの誕生とその家系.両親の様子」の「みきの誕生地三昧田村考」で一部言及している。別稿として「大和地方の歴史と由緒」で考証している。

 れんだいこが注目するのは、「みき」の誕生地にして成育地、そして嫁ぎ先ともなった「布留の地」の歴史的秘密である。「布留の地」は、知る人ぞ知る古代史上由緒の深い神社、古墳、遺跡の密集地となっている。誕生地の大和(おやまと)神社、桜井市の三輪山の大神(おおみわ)神社、天理市の石の上神宮、その他数多くの古墳がある。大和の中でも相当な歴史と伝統を持つ土地柄である(概略は「大和地方の歴史と由緒」を参考されたし)。

 この「布留の地」は、古代史上の国譲り譚にも絡んでくるのだが、神武系大和王朝の進出以前に大国主系出雲王朝−ニギハヤヒ王朝−邪馬台国系の支配を誇る土地柄であり、この系こそがいわば「元の王朝、実の支配者」であるとする意識を伝承している。この伝承が「元の神、実の神」と云う神概念の伏線になっている気がする。

 大和神社と大神神社(三輪山)の祭神は、大和大国魂大神(やまとたいこくだましいおおかみ)、別名ニギハヤヒの命であり、しかも「みき」の母方の実家・長尾家は、大和朝廷以前のヤマトを統治していたと推定し得るニギハヤヒ王朝系の霊能師「長尾市」直系の家柄であり、「長尾市」以来何代にも亘ってニギハヤヒ命(大和大国魂大神)を祭神として奉祭する大和神社、大神神社の神主、巫女を輩出している家系である。日本書紀に「崇神天皇7年11月、長尾市を以て倭大国魂神(大和神社の祭神)を祭(いわ)う主と為す」とある。この家系的血統も又みきの霊能的な素養の原風景として注目されて良いと思われる。こちらの方も上述の程度しかわからない。いずれこの方面での考証も必要であると思われる。  

 そういう類稀なる歴史的聖地で生まれ育ったみきの潜在意識に、「元の神、実の神」と云う神概念が宿ったのは不思議ではない。仮説ではあるが、かく推測できる節がある。こう解かないと「元の神、実の神」の由来がみえてこないのではなかろうか。

 教祖は次のようにお諭しなされている。
 「この神様はなあ、元の神と言い、実の神様やで。元の神様とは、拝み祈祷の神やない。元こしらえた神というて、元々何にもなかったところから人間をはじめすべてのものを創り初められた神様や。実の神というのはなあ、真実の神ということやで。すべてをお創りになったというだけでなく、それ以来、つねに変わらず、ふしぎなお働きによって、あらゆるものを育て、温かい恵みをもって御守護下される神様や。人間をお創り下された思し召し通りに通らせて頂くことができるようにと、直々にこの世へお姿を現された真の神やで」。

 ここで云う「元の神、実の神」とは、如何なる思し召しで表現されているのであろうか。思案の要する興味の注がれる課題である。

 2007.12.2日 れんだいこ拝


【天理市のルーツ考】
 http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/news/tape-
06.9.15.htm

 連載<心のテープ>(06.9.15)天理市のルーツを探る=古代と現代をつなぐ神秘の絆

 「このところ やまとのヂバの 神がたと いうていれども 元しらぬ」について

 天理市のルーツをさぐってみる。仏教渡来以前の六世紀の頃、石上神宮を氏神とする物部氏は、現在の天理市一帯を根拠地として栄えた大氏族だった。山辺の道の出発点に当たる石上神宮の祭神は、布都斯御魂大神(スサノオの命)、布留御魂大神(ニギハヤヒの命)とする有力な説がある。布留とはニギハヤヒの幼名の別名である。昔、多くの神社で祭神の称号が改変された歴史がある。山辺の道の終点に当たる三輪山にも、同じニギハヤヒ(大物主命)が祀られている。

 ニギハヤヒの命はスサノオの命の第五子で、古事記成立(和銅5年・712年)のはるか500年も前に大和一帯を治めていた偉大な王であったといわれている。物部氏はニギハヤヒの直系である。ニギハヤヒが生駒山の東側山麓の日下(くさか)に降臨したという伝説から推測して、太古に西方から移住した一族の長であったとみられる。生駒山は一名ニギハヤヒ山とも呼ばれていた。その後、六世紀後半に至って蘇我氏との権力闘争に敗れた物部氏は、全国に離散したが、その祖先が天神から授けられたと伝えられるのが、「ふるべゆらゆら」で始まる「十種の神宝」(とくさのかんだから)祝詞と「魂振り(たまふり)の神事」である。この魂振りこそは、古事記以後に忘れ去られた日本の真の伝統を受け継ぐ神事である。魂が清められ振るい立つとき、病気災難は雲散霧消する神秘が現れるとする太古日本の神事である。太古の日本には、そのための神事があった。教祖みきが教えた「十柱の神」、「いさみの手」に、古代日本の故事伝説が生き生きと復活していると考えられる。石上神宮の一隅に国宝の神楽(かぐら)殿が遺っているのも偶然とは思えない。

【つとめの秘儀考】

 http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/news/tape-
 06.9.15.htm

(06.9.15)天理市のルーツを探る=古代と現代をつなぐ神秘の絆=より転載。天理教関係(多分裏というか、異例の検証だと思いますが)の内容サイトで、十種神宝や甘露台の石だしについても書かれている。

 つとめの秘儀

 天保九年(一八三八)十月二十六日、中山みきに神がかりがあり、元の神・実の神である天理王命の“生身の社”となることを宣明した。教祖みきは、身の内に入り込まれた神の啓示に従って、難儀不自由な谷底の人々と同じ境遇に落ちるまで家屋敷や田地を施しつくし、無所有の生活を二十年にわたって続けた。その後、安産や病気の不思議なたすけの神として知られるようになり、参集し始めた弟子たちにも病いをたすけるための「おさづけ」を伝授し、医薬で治らない多くの病人が霊救に浴した。

 ところで、この「おさづけ」は、まさに布留に伝わる神秘な「十種の神宝」の継承・復活という意味合いがあった。人々は、病いを手引きとして、生命は万人に隔てなく神が入り込んで守護されている「かりもの」という真実に目覚め、天の理に合わせて心の「ほこり」を払って勇み立てば、病いの根が切れ「陽気づくめ」の世界に参入できる道を教えられた。そして神の「ようぼく」(人材)を「ぢば」に引き寄せ、一れつが自由平等になる世の中への立て替えを望まれた。その理想世界建設のシンボルとなるのが「ぢば」に建立される「甘露台」であり、その周りを囲む「かぐらづとめ」の秘儀を教えられた。
 布留の地のルーツを探るとき、石上と三輪の中間にある大和(おおやまと)神社の近くに後の天理教祖・前川みきが誕生し、石上の氏子である中山家へ嫁いで来たことが決して偶然ではないことが推察できる。大和神社の祭神は大和大国魂大神(やまとたいこくだましいおおかみ)=ニギハヤヒであり、しかもみきの生母は代々大和神社の巫女を出してきた長尾家の出である。みきの神がかりによる開教は天保九年(一八三八)十月二十六日、初め天の将軍と称し、後に元の神・実の神である天理王命の“生身の社”としての五十年にわたる波乱の生涯であった。

 中山みき教祖は、身の内に入り込まれた神の啓示に従って、難儀不自由な谷底の人々と同じ境遇に落ちるまで家屋敷や田地を施しつくし、無所有の生活を二十年にわたって続けたあと、安産や病気の不思議なたすけをされた。さらに弟子たちにも病いをたすけるための「おさづけ」を伝授し、医薬で治らない多くの病人が霊救に浴した。事実、当時から入信した人々の九割九分までは命を救われたことが入信の動機であった。「おさづけ」は、まさに布留に伝わる神秘な「十種の神宝」の継承・復活ということができるかもしれない。当時の人々は病いを手引きとして、生命は万人に隔てなく神が入り込んで守護されている「かりもの」という真実に目覚め、天の理に合わせて心の「ほこり」を払って勇み立てば、病いの根が切れ「陽気づくめ」の世界に参入できる道を教えられた。そして神の「ようぼく」(人材)を「ぢば」に引き寄せ、一れつが自由平等になる世の中への立て替えを望まれた。その理想世界建設のシンボルとなるのが「ぢば」に建立される「甘露台」であり、その周りを囲む「かぐらづとめ」の秘儀を教えられた。石上神宮には国宝の神楽殿(かぐらでん)が保存されているが、現に「みかぐらうた」とともに踊る「神楽」が今に復活されている。
 ◆伝統とは何か

 古代史の上から布留の地のルーツをたずねるとき、大和神社の近くに後の天理教祖・前川みきが生誕し、石上の氏子である中山家に嫁がれたことは決して偶然ではないように思われる。大和神社の祭神は、大和大国魂大神=ニギハヤヒであり、しかも教祖の生母は、代々大和神社の巫女(みこ)を出してきた長尾家の出である。即ち、大和の中でも天理市周辺(特に中山家のあった庄屋敷村)は、最も古い伝統のある土地柄なのである。ここで、本来の「伝統」とは何を意味するのかをフランスのルネ・ゲノンという哲学者の説から思案してみる。ゲノンのいう「伝統」とは、「世界の中心」(ぢば)に発る「始原の原理」(元の理)への回帰を目的とする超歴史的な精神性を伝えるものでなければならない。それは永遠性の復活と、唯一無二の原初の秩序を目指すものである。原初の伝統を受け継ぐ象徴として「聖杯」(平鉢)があり、その中に満たされるのは「不死の飲み物」(甘露)である。甘露とは古来より言い伝えられてきた言葉で、仏典にも伝えられ、ヒンドゥ教では「ソーマ」と呼び、いずれも「不死の飲み物」という意味がある。「世界の精神的中心」としての聖地(ぢば)には、必ず天の水(甘露水)を受ける容器、即ち「聖杯」(平鉢)が準備されている。さらに「世界の中心」を表象するものとして「聖石=オンファロス」(石の甘露台)があります。その材質は、もともと御影石(花崗岩)であり、御影石は昔から「神の石」といわれてきた。ほとんどすべての民族には聖石(オンファロス)という象徴物がある。ギリシャ語のオンファロスは、「へそ」を意味すると同時に、中心となる車軸をはめる穴(こしき、ハブ)、さらにはあらゆるものの中心を示す意味がある

 以上は、教祖のことを何も知らないルネ・ゲノンという一哲学者の発想によって書かれている。ゲノンが直観的に把握した「伝統」の意味を展開すると、時空を超えて彼のいう永遠の理が「ぢば・かんろだい」にそのまま具象化されていることに驚きの念を禁じ得ない。(略)





(私論.私見)