原理論その1 | 信仰観、諭し悟りの道その1、創造主としての元の神、実の神 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.11日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「信仰観、諭し悟りの道その1、創造主としての元の神、実の神」を確認しておく。「みきの神がかり天啓問答」の際、「元の神、実の神である」との御言葉が放たれている。れんだいこが察するのに、「元の神、実の神」という概念自体が極めてユニークである。この概念は何処よりもたらされたものであろうか。これを確認しておく。 |
【元の神、実の神】 | ||||||||||||||||
天理教教典第1章の初めは次のように記述している。
ここでいう「元の神」とは、「ない人間、ない世界をお創(はじ)め下された」、みかぐらうた三下り目九ツ「ここまで信心したけれど 元の神とは知らなんだ」とある神のことである。お筆先では、「この世を初めた神」、「この世の人間はじめ元の神」、「元こしらえた神」と記されている。「実の神」とは、「天では月日、この世では火、水、風。人間身の内に入り込んではぬくみ、水気、息一筋をはじめ一切万事のご守護を下されている神様」、みかぐらうた三下り目十ド「このたび現われた 実の神には相違ない」とある神のことである。 |
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「よろづよ八首」
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「教祖口伝」の「明治12年7.5日、村田に対する教祖直々のお諭し」。この神様はどういう神様でございますかと尋ねられたところ、
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天理教教典/第四章、天理王命は次のように記している。
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【みき教理の神観、信仰観】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お道教理で云う神とは、「元の神」、「実の神」、「全知全能の神」、「親神」として位置づけられている。みきは、この世の創造と成り立ちについて親神の働きを説いた。そして、親神の思いを知ることが全ての始まりとなることを教えた。そこでは、神と人とが親子関係で説かれている事が注目される。これが天理教の基本的な神概念となる。従って天理教では、神と人間は、「子(人間)が親(神)を慕い寄り来るように、親(神)も又寄って来る子(人間)を慈しみ守護してくださる」という関係になる。この関係において、親神は創造主であり、真実を説く統括者であり、守護者であるという地位を獲得している。この親神様は、旬の説き方に応じて「元の神・実の神」、「月日」、「をや」と呼び表される。
十二くだりの御神楽歌に出てくる神は次の通り。
お筆先は次の通り。
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【教祖の諭し話し考】 | ||
教祖の諭し話は非常に有益であった。「今日はどのようなお話しを聞かせていただけるのだろうか」、「一刻も早く教祖にお目にかかりたい」と、知らずと足がお屋敷へ向かった。こうして連日連夜、教祖を囲む集いが持たれた。「今夜もまた、ええ話をしていただいた」とその余韻を噛み締めながら家路に向かった、と伝えられている。
本部の「稿本天理教教祖伝」が教祖の実像を描き出していない事情に鑑み、教祖の諭し話しで補足していくことはかなり重要であると考える。そういう意味で、「天理教教祖逸話遍」(「おやさま逸話編(抜粋)」)(「天理教教祖伝逸話篇<目次 1-100>」)(「教祖逸話篇」)、「生きる言葉」(道友社、1995.10.1日初版)その他は貴重な資料の提供となっている。「天理と刻限」の「教祖直々の諭し」も大いに参考になる。こういう類の発掘と資料化、公開化、整備化が望まれている。 |
【「みき教理の神観・信仰観考」】 | ||
小滝透氏の「おやさま」で、仏教教義の核心が次のように説明されている。
その上で、小滝透氏は次のように云う。
では、日本古来の神道の森羅万象八百万の神、産土(うぶすな)氏神信仰、記紀神話の皇統信仰、英雄信仰との違いは何か。これに対しては、人間世界を創めた「元の神」、この世のありとあらゆるものを実際に守護されている「実の神」信仰であるという点で、峻別させている。 |
【「理」について】 | |||
元の理。 お指図に次のようにある。
筋道の理。お指図に次のようにある。
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Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評201 | れんだいこ | 2006/08/17 |
坂東太郎さんちわぁ。 > 私が子供の頃は、共産党の鼻息が荒く、学校関係者は日教組が支配的で神が人間を創ったというような、考え方は、排除され、生家が宗教施設の子供が教員から、白い眼で見られ、迫害を受けていたのを記憶しています。 「神が人間を創ったというような、考え方」はそれほど批判されることでせうか。れんだいこが思うに、神というのは表象概念ですから、真に問われるべきはその表象が規定する内実ではないでせうか。言い回しだけで拒否反応するのは児戯的と考えております。俗流自称マルクス主義者の悪弊ですねきっと。 ユダヤーキリスト教に於ける神は人格神のような宇宙神のような両面を持っており、いずれにせよ出所所在不明の絶対的超越創造主的一神教ですが、日本神道の特に古神道系の場合は、いわば宇宙や自然に充満する八百万(やおよろづ)の神々多神教です。故に、この考え方を発展せしめれば、中山みきの如く「理が神」という概念も成り立つわけです。 みき曰く概要「神というては特別に有るものではない。有るといえば有る、無いといえば無い。しかれども成ってくる理のうちに神が見えてくるのや、理が神や」という次第です。こうなると、「成ってくる理」とは、自然法則から社会法則までを含めた概念と後一歩のところまで近づいております。 このような神概念の場合、みきが「神が人間を創ったというような考え方」を示したとしても、そういう表現だけで批判されることではないと思います。むしろ、言葉短く分かり易く表現したもので、あくまでその神概念で彼女が何を表現しているのか思案するのが大事と考えております。 従って、マルキストが、「神が人間を創ったというような考え方」を聞くと条件反射的に迷信低劣とみなし、排斥対応するのがむしろ滑稽になります。れんだいこの理解するマルクス主義の宗教批判は、俗に云われているような宗教アヘン論一色のものではありません。ユダヤーキリスト教史及び西欧史を踏まえての政教分離思想に基づくもので、神事は神職に任せ政治は政治職の者に任せるべきだとの観点からあれこれ述べていると考えております。いわゆる宗教全面的否定論とはちょっと違うと考えております。 ここら辺りが混乱しており、特に我が国の場合、西欧宗教とは違う神概念であるにも拘わらず、十把一絡げにマルクス主義=宗教否定論の立場から論難することを第一にし過ぎております。その癖、何のすり合わせもないままに統一戦線論でご都合主義的野合をしております。 ちなみに、れんだいこは、マルクス主義に於ける統一戦線論を臭いと思っております。我々が目指すべきは共同戦線論であり、統一戦線論は似て非なる理論と考えております。統一戦線論なぞ一体、誰が編み出しのか。言葉の違いだけではないものがあると考えております。 もとえ。れんだいこは、そういう認識から、宗教界宗教問題にも等しく関心を持っております。彼らの理論内容の内実を見ようとするからです。時に、左派党派よりも勝れた組織論運動論目的論を打ち出すことがあります。同時に社会学的分析の拙さによる限界もあります。とはいえ同志的結合のさせ方で学ぶに値することが多い。むしろはるかに進んでおりますね。 れんだいこ的には、マルクス主義の社会分析概念と宗教の生き方作法をミックス・アンサンブルして、人は寿命の中で何を為すべきか、どう処世すべきなのか、世代にどう伝えていくのか、歴史の歩みをどう見るのかの新機軸を生み出したいと考えております。なかなか難しゅうございますが。 「神が人間を創ったというような考え方」それ自体を安易に批判して得心している思考停止族が多い風潮下ですので、敢えて立論してみました。世には科学教というのがあり、自称でも科学的とさえ冠詞すればそれだけで、宗教者より一歩高みに立っている気がする手合いに漬ける薬を開発中です。科学とは汲めども尽きぬ発展過程のもので、その道中でしかないのに、我は科学的と云ってみてもほぼ何の役にも立たない。あくまで云っていることとやっていることが精査されるべきです。これを不問にして平気の平左で胡坐をかいている科学教徒の拙さばかりが見えてくるのを如何せん。 2006.8.17日 れんだいこ拝 |
【世界の広さ】 | |
ある信者が、「わたしどもの住んでいるこの世界というものは、随分広いと思われますが、一体どのくらい広いものでせうか」と尋ねたところ、教祖は両手を広げて、「この世界は広いで。丁度人間が両手両足を広げたくらいの広さがあるのやで」と答えた。両手両足を広げたくらいでは大したことないのでポカンとしていると、続いて次のようにお話しされた。
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【東西の長さ】 | |||||
「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「東西の長さは(その一) 」、「東西の長さは(その二)」を転載する。
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【高天原はどこにある】 | |
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【「元の神、実の神」の概念的由来考】 | |
「親神」について、天理教教典は次のように記している。
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この親神について、中山みき教理は「元の神、実の神」とも云いなしている。「元の神、実の神」は宗教的教義論ではかなり珍しい表現ではないかと思われるので、これを確認しておく。 れんだいこは、「元の神、実の神」の秘密を解くのに、大和神社の縁起を始めとする「みき」の生育した地域の「元の神、実の神伝承」に淵源を訪ねたいと思う。「みきの生育した地域」については、「みきの誕生とその家系.両親の様子」の「みきの誕生地三昧田村考」で一部言及している。別稿として「大和地方の歴史と由緒」で考証している。 れんだいこが注目するのは、「みき」の誕生地にして成育地、そして嫁ぎ先ともなった「布留の地」の歴史的秘密である。「布留の地」は、知る人ぞ知る古代史上由緒の深い神社、古墳、遺跡の密集地となっている。誕生地の大和(おやまと)神社、桜井市の三輪山の大神(おおみわ)神社、天理市の石の上神宮、その他数多くの古墳がある。大和の中でも相当な歴史と伝統を持つ土地柄である(概略は「大和地方の歴史と由緒」を参考されたし)。 この「布留の地」は、古代史上の国譲り譚にも絡んでくるのだが、神武系大和王朝の進出以前に大国主系出雲王朝−ニギハヤヒ王朝−邪馬台国系の支配を誇る土地柄であり、この系こそがいわば「元の王朝、実の支配者」であるとする意識を伝承している。この伝承が「元の神、実の神」と云う神概念の伏線になっている気がする。 大和神社と大神神社(三輪山)の祭神は、大和大国魂大神(やまとたいこくだましいおおかみ)、別名ニギハヤヒの命であり、しかも「みき」の母方の実家・長尾家は、大和朝廷以前のヤマトを統治していたと推定し得るニギハヤヒ王朝系の霊能師「長尾市」直系の家柄であり、「長尾市」以来何代にも亘ってニギハヤヒ命(大和大国魂大神)を祭神として奉祭する大和神社、大神神社の神主、巫女を輩出している家系である。日本書紀に「崇神天皇7年11月、長尾市を以て倭大国魂神(大和神社の祭神)を祭(いわ)う主と為す」とある。この家系的血統も又みきの霊能的な素養の原風景として注目されて良いと思われる。こちらの方も上述の程度しかわからない。いずれこの方面での考証も必要であると思われる。 そういう類稀なる歴史的聖地で生まれ育ったみきの潜在意識に、「元の神、実の神」と云う神概念が宿ったのは不思議ではない。仮説ではあるが、かく推測できる節がある。こう解かないと「元の神、実の神」の由来がみえてこないのではなかろうか。 教祖は次のようにお諭しなされている。
ここで云う「元の神、実の神」とは、如何なる思し召しで表現されているのであろうか。思案の要する興味の注がれる課題である。 |
【天理市のルーツ考】 | ||
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【つとめの秘儀考】 | ||||
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(私論.私見)