お授け論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.10日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「お授け論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【お授け論】
 「授け」(さづけ)は、病む人に取り次いで身上みじょう回復のご守護を願うもので、お道の用木(ようぼく)一人一人の真実の心に授けられる「道の宝」と云われる。お道の教理を理解し、人としての生き方を「人を助けるのが真のまこと」として助け合いに転換させた者に取り次がれる。現在は、九度の別席順序を運んで、助け一条を誓って願い出ることにより教団本部より授けられる。

 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 これからハ 痛み悩みも できものも
 息手踊りで 皆な助けるで 
六号106
 この助け 今まで知らぬ 事なれど
 これから先ハ 験ししてみよ
六号107

 教祖は次のようにお諭しなされている。  
 「さづけという理は、めいめいの心にあるもの、日々の通る心遣いがあらわれるもの。心の使い方によって理のあらわれが変わってくるで」。
 「日々通らして貰うには、人の悪しきを云わぬよう、人の悪しきを思わぬよう、人に悪しきを思わせぬよう、この三つの心がけ大事やで。この三つの心がけ一日一回使うても三日の間授けの理は止るで」。(加藤伊知夫「お話」)

 次のような逸話が遺されている。
 「おさづけは我々が勝手にするんじゃないのでございます。昔、高井直吉という先生が教祖から、今日は××村へお助けに行ってくれんかと言われ、そこの村までてくてくてくてくと歩いていってお助けをされました。またあるときには別の村へと教祖に言われるままにお助けに歩かれた。高井先生は『息のさづけ』をいただいておられたのでお助けがどんどん上がる。あまりにもお助けが上がるので、高井先生は周りの人によく、『わしはなあ、一とこへお助けに行っても、三日と通うたことはないのじゃ』と仰言ったそうです。三日も通わなくても、一回二回でたちどころに御守護があるというわけです。そんな高井先生も、一つだけ不思議だなあと思うことがあったそうです。それは、お助け先から戻って来られて、教祖に只今帰らせていただきましたとお目通りをしますと、必ず教祖は、『高井さん、御苦労さんやったなあ。わしも今日は足がねまった。足が疲れてしんどいわ』と仰言ったそうです。高井先生は最初の頃は、教祖も不思議なことを仰言るなあ。教祖は今日一日、この御休息所から何処へも行っておられないはずなのにと思っておった。けれどもだんだんと分かってきた。それは、教祖も一緒に付いて歩いて来て下さっていたのだということです。高井先生は晩年に、御本部の神殿講話で、声高らかにこうお話しされたそうであります。『おさづけは我々が勝手にするんじゃないのでございます。教祖の、撫ぜてでもさすってでも何とか助けてやりたいという尊い親心をいただいて、その名代としてつとめさせていただきますので不思議な御守護があるのでございます』」。
 昭和10年10.27日号天理時報「信仰閑話」の「お授けについて」より。
 「何村の誰が教祖様からおさづけを頂いて来た、誰々も頂いた、と多くの信者たちは神様から選ばれてお授けを頂いて帰った人達の光栄を羨んでいた。その頃、河内国恩智村の某氏は、人々が羨ましそうに語っているのを聞いて、『手の授けばかしやないか、わしは水の授けをもろうて来るね』と言って、教祖様の許へおさづけを頂きに上った。教祖様がお出ましになり、平伏している某氏に、『さづけに変わりはないで、さあさあ』と申されて頂くことができなかった。某氏は泣いて懺悔した。それから水垢離をとって身を清め、心を改めて精進した。氏がお授けを頂いたのは、ずっと後になってからである」。

 お指図には次のような御言葉がある。
 「子ども可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。(中略)さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け」(明治20年2.18日)。
 「授け/\と言うたる、授けというはどの位どれだけのものとも、高さも値打も分からん」(明治23.7.7日)。
 「日々さづけ/\の繋ぎやない。世界中の心の理を繋ぐのや。さあ二重にも三重にも繋ぐ」(明治25年1.12日)。
 「道具でも どんな金高(かねだか)い値打(ねうち)でも、心の理がなくば何にもならん。さづけ(おさづけ)/\のところ、よう聞き分け。日々の席をする(別席を運ぶ)。席をすれば(満席になれば)さづけは渡す。その時の心、受け取る時の心、後々の心の理がある。日々まあ一日の日、結構という理を忘れて了(しま)う。どうも残念でならん。なれど運ばねばならん。そんならその者にはやろう、この者にはやらんというような隔てはない。今貰(もろ)うて直ぐとほかす(捨てる)者でも渡さにゃならん。一時の間、定める心の誠であるから、どんな者でも、こんな者でも心があるから、親のそばへ来て貰わにゃならんという」(明治23.7.7日午前3時)。
 「国の土産みやげ、国の宝」(明治31.12.30日)。

 天理教典第9章「ようぼく」は次のように説き明かしている。
 「ようぼくの使命はたすけ一条にある。それは自ら励んで天の理をよく心におさめ、身を以て教えの実を示しつつ、一言の話を取り次ぐにおいがけに始まる。そして、更に進んでは、なんでもたすかって貰いたいとの一念から、真心をこめてさづけを取り次がせていただくところに、珍しいたすけの実が現れる」。
 真言宗のさづけは、「結縁灌頂」(けつえんかんじょう)と云われる。入信儀式で、入信する人は曼荼羅を敷いた上に立ち、目隠しをして両手を胸の前で組み、蓮の花びら叉はしきみの葉を挟み投げる。これを投華得仏(とうげとくぶつ)と云う。投げられた花びらが落ちたところの仏と縁を結んだ事になる。次に、頭に水を少し注ぐ。阿弥陀様の心に成りきるという儀式で、これを灌頂(かんじょう)と云う。これらの儀式をさづけと云う。入門を果たすと、お経が与えられ、朝晩読経(どっきょう)に務める。お経を読んで体得する事をおつとめと云う。

 教祖は、仏教式さづけとつとめの言葉を使って新しいさづけとつとめを切り開いた事になる。ここにお道のさづけとつとめの意義があり、仏教との繋がりも見て取れる。

【肥えの授け論】
 みかぐらうた一下り目一ッに「正月 こゑのさづけは やれめづらしい」とある。この「肥のさづけ」は教祖からお与え下されたお授けであるが現在はない。天理教の初期の信者には百姓、農家が多く、百姓をしながらお道に尽くしていた。そこで教祖は、「永の道中肥がえなくては通れようまい、路金として肥え授けよう」と仰せられ、「肥のさづけ」をお与えになられた。「肥のさづけ」は、糠三合、灰三合、土三合、合わせて九合のものを親神様にお供えし、お願いをして頂いたものを田に置くと、金肥一駄分、すなわち四十貫のご守護を頂くことができた。「おさづけ」は物(糠、灰、土)が効くのではなく、どこまでも「心の理」が効くとお教え下されている。

 お筆先は次の通り。
 このはなし なにの事やと をもうなよ
 こゑ一ぢよの はなしなるぞや
四号50
 こへやとて なにがきくとハ をもうなよ
 心まこと しんぢつがきく
四号51

 お指図は次の通り。
 「さあ/\さづけ一条のこえ・・・・・・どんなこえをおけど、心だけの理はつちやきかんで」。(明治23.7.17日)

【さづけの理】
 「さづけの理」とは、本来の意味では、存命の教祖から頂く「霊能お助け」であり、お道人の宝物となるものです。「さづけの理」を頂いているお道人が、身上事情を患っている人に取次と、不思議の効能を見せていただけるのです。医療が直せるのは表面的な症状です。実は病には根のようなものがあり、その根まで治癒させないと本当の治癒になりません。根を治癒させるものは、教祖が身をもってひながたとして教えてくだされている、心づかいと行いの実践を通じてであります。これが陽気ぐらしの道です。

 親神様は、心づかいと行いを正してやりたいとの親心から、病という形を通して私たちに知らせ、導いてくださるのです。病を患っている人は「さづけの理」を受けるにあたり、親神の守護を知り、自己中心的な心づかいを改め、本来の姿に戻る決意をさせて頂くと、健康をご守護いただけるのです。

 現在は、「別席」という神様の話を9回聞くことで「さづけの理」を頂くことができます。別席を受ける人は、この話を繰り返し聞く間に、教祖の御教えをしっかり治めるように努めます。9回目(満席という)を終えると、教祖の御教えが沁み込み、真実な澄み切った心になります。この心に「さづけの理」が授けられます。これを頂いた者は「ようぼく」と呼ばれ、お助け人として再出発することになります。
せかいぢう むねのうちより しんばしら
神のせきこみ はやくみせたい
第3号511
このたびハ うちをふさめる しんばしら
はやくいれたい 水をすまして
第3号56




(私論.私見)