教祖の身上諭し、事情諭し

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.29日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、身上諭し、事情諭しについて確認しておく。

 2003.7.23日 れんだいこ拝


【教祖の身上諭し、事情諭し身上諭し、事情諭し】
 PL教団教祖の主治医/清島啓治郎「病気を心で治す」(清文社、2003.10.25日初版)を手に入れ目を通した。お道ではないPL教団教祖の主治医/清島啓治郎氏が、お道教理的な「病気心学」に到達していることが分かる。お道では早くより柳井徳次郎「たすけの台」(天理書房、1950年日初版)、深谷忠政著「教理研究 身上さとし」(1962年初版)他多数ある。急遽お道教理とのすりあわせをしたくなり、本章を設けることにした。

 「一日一教話」の2013年10月07日付けブログ「」その他を参照する。

 「お道教理」では体のことを「身上」または「身の内」と云う。その体は「貸しもの借りもの」であるとする。その「身上」または「身の内」に病気やけがをした場合に「身上を与えて頂いた」などと云うように、「身上=病気」という使い方もされている。本来は悪い意味のものばかりではなく、健康な体、ご守護をもって日々お貸し頂いている体という、感謝・喜びの心が込められている。

 これに対し、社会生活上の一切の事柄について「事情」という言葉を使う。特に、家庭のもめごと、仕事上の不都合、災害といった、いわゆる「事情のもつれ」、「事情の悩み」のことを「事情」と云う。 「お道教理」では「事情」もまた親神様によって与えられ見せられるとされている。

 身上・事情の第一要因は、身上の各機関の機能、事情の処理ないし適応の失敗や不都合の長期化による支障に求められる。これの手助けには医者がいる。他の要因として因縁や埃の積み重ねで起るものと、親神様の人寄せ手引きで起るものと二種ある。これらを解決するには、親神様の深いご守護のありがたさに気づき、これを日々感謝し、身上・事情の際には親神様の深い諭しを拝することが肝要である。

 み神楽歌は次の通り。
 水の中なる この泥を 早く出だして もらいたい 十下り目3ッ
 欲に限(き)りない 泥水や  心澄みきれ 極楽や 十下り目4ッ
 難儀するのも 心から  我が身恨みで ある程に 十下り目7ッ
 病は辛い ものなれど  元を知りたる 者はない 十下り目8ッ
 このたびまでハ 一列に 病の元ハ 知しれなんだ 十下り目9ッ
 この度あらわれた 病の元は 心から 十下り目10

 お筆先は次の通り。
 何にても 病というて さらになし 
 心違いの 道があるから
三号95
 今までは 牛馬と云うは ままあれど
 後先知れた ことはあるまい
五号1
 この度は 先なる事を この世から
  知らしておくで 身に障り見よ」
五号2
 この世は 如何ほど我が身 思うても  
 神の立腹 これは敵わん
五号3
 銘々に 我が身思案は 要らんもの
  神がそれぞれ 見分けするぞや」
五号4

 稿本天理教教祖伝第八章「親心」にはこう書かれてある。
 「病気や災難は皆な、子供可愛い親心から、人間の心得違いを反省させて、陽気ぐらしへ導こうとの、よふむき、てびき、みちをせ、いけん、ざんねん、りいふく等に他ならぬ」。

 「よふむき」(「用向き」)とは、神様がその人を何かの用に使いたいと思って、それを伝える為の身上・事情ツケである。現在のままでは用に適わないから成人を促す場合も指す。木工に例えるなら、鉋(かんな)にかけられたり、枝打ちされたりといったところであろうか。具体例として例えば女鳴り物における用向き譚が遺されている。教祖は、女鳴り物を始めにお教えになるのに、琴は辻とめぎく、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライトを選ばれた。そのことを本人に知らせ、また実際に習わせるために、身上・事情にお知らせになられた。即ち、辻とめぎくには父忠作の腕の腫物、飯降よしゑには指先の痛み、上田ナライトには身体の揺れであった。これが、用向きである。その用を受けることを心定めさせて頂くと同時にご守護を頂けるのが用向きの特徴である。

 「てびき」(手引き)とは、お道を知らない人間が入信するきっかけになる身上、事情であったり、本教の信仰を知ってはいても真剣に信仰する気になれず、お道から離れている者が、再びこの信仰に心が向くきっかけとなる身上、事情を指す。ちょうど、小さい子供が危ない道へ出ようとした時に、親が心配してその手を引っ張って戻そうとするようなものであって、子供にとっては痛みを伴うが、誠にそれは子供可愛い故に親心からなされることなのである。この具体例を挙げていればきりはない。このお道の入信とは、その大抵がこの手引きを受けてであり、そのご守護頂く様に感動して着いてくる者がほとんどである。

 「みちをせ」(道教え)とは、手引きが「そっちへ行くな」という面が強いのに対し、「こっちへ行け」というニュアンスが強く、進むべき道を教えて下さるものである。手引きに比べて些か厳しさが増している。

 「いけん」(意見)とは、道教えよりも更に具体性が増した形である。教えられた道を通る上での通り方自体についても意見を頂く、というレベルである。親神の方からちょっと知らして置きたいこと、言っておきたいことがある上のことであって、それは厳しめの内容であることが多いようにも思う。

 「ざんねん」(残念)とは、お諭しのレベルとしてはなかなか厳しい段階のものである。それは言うことを聞かないから罰を与えようなどといったものではない。残念とは、言い換えるなら親神の歯痒さの表われであって、その特徴としては、「積もり重なり」した上で始めて表されるという点にある。正文遺韻抄には、 「よきいん(因縁)は、皆一列よろこぶことゆゑすぐとあらはし、ずぐとかやしてくださる。されど、悪しき因縁は、でけるだけのばしてゐるといふ」 とあるように、少し悪いことをしたからと言って、すぐに残念を表すなどといったことはなされない。 それは、ちょっとした意見や道教えとして、間違いのないように導き、しかしそれでも聞かん聞かんとだんだん悪い理が積もってくるから、このままでは危ない道に落ちるは可哀想と思って表されるのが、残念である。

 「りいふく」(立腹)とは、残念より更に上を行く状態であるが、その思いというものは残念と同じで、決して単なるはらだちの心からなされることではない。また、八つのほこりのはらだちの説き分けの中に、「命を損なうことがあります」とあるが、同様にして、命を損なうほどの身上・事情は、このりいふく、である場合がほとんどであろうと思う。 また、世界に起こる事情としての天災や災害なども、この残念と立腹のどちらかにあたるであろう。また余談であるが、りいふく、と表記した時に、もちろんおふでさきにおける文法の上では立腹としか読めないのであるが、どことなく「理い吹く」と解せなくもない。つまり理を吹く、と言われるものである。節から芽が吹くように、親神から頂く一番厳しい身上・事情からも、それをしっかりと受け取り治めて、心を入れ替えするならば、そこから理を吹くことができるのかもしれない。

 また、この六つに加えて、特に記しておきたいのは、「ためし(試し)」である。 てびきとみちをせの間あたりに入るだろうか。これは、「てびきが済んでためしが済まんのや」ともお聞かせ頂くように、てびきを頂いて心の入れ替えをする。しかし、その場では入れ替えするとは言うけれども、本当にそれを実行していくのか、そのためしとしてなされるのがためしである。人間はあざないので、朝の心は決して夕の心ではないし、「神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う」(明治31・5・9)とあるように、移ろいやすいものである。しかしそれでは心定めとは言えないし、神様に受け取って頂くことができないので、そのようなことがないように「ためし(試し)」するとされている。
 教祖お話し、逸話は次の通り。
 「病気というても身上に障りつくは二分、あと八分は心や。懐に少しでも持っていたら施してやれ。心助けてやれば助かる。心ができんから助からん」、「枯木に肥をやってもあかん。生身の身体を大切にせよ」、「金の心棒でも油ささん事にはあかん「小さくても大きくても同い年や。八十で死ぬ者もあれば二歳で死ぬ者もある」。(昭和十三年二月号みちのとも、屑屋乍路「乾やす老婆の話」の「放蕩のこと」)
 「神様は、『人間身上は、病む日に病む、と思うな。災難ある日に〈災難〉ある、と思うな。日々月々年々に、知らず知らずに積んだ埃(ほこり)が、天然自然の理に治まって、あらわれ出るのや』と仰る。『息子も娘も一生、息子や娘やない。十五歳からこちらへの心は誰が遣うたか、他人が遣うたのやあるまい。みな自分が遣うたのやろう。その心が、あらわれ出るのや』と仰る。『今日、米蒔いても今穫れぬ。後で穫れるのや。倒れてから突っ張りは要らぬ。それは、悪うなったら信仰する、かなわん時の神頼みや、などと言うが、倒れてから突っ張りは要らぬ。日頃、誠を尽すから、大難は小難、小難ならば無難で通らせて頂けるのや。神様は、日頃の誠を受け取り、さあ、という時にふんばる、と仰る』。『家ならば、古くなったら再式(改装)。再式するより古くなる方が早いとなれば出直し(新築)さす。決して死なんで出直しをさす』と仰る。『人は、外出(そとで)へ行く時に、古い着物を脱いで、新しい着物と着替えて行くように、それと同じ事やで。年取った古い着物を返して、今度は生まれ子となって、新しい借物を借りて、またこの世へ出てくるのやで。なれど、恩に恩をきたら堕ちるで』と仰る。『堕ちたら、容易に人間界へ出られん(戻れん)。これを、死んだ、と言うのや。恩に恩をきて、人間の道を切るから、道が切れて死ぬのや、堕ちるのや。神様は、それがいぢらしいから、理を聞き分けて、堕ちぬようにせよ、と仰る』」。(みちのとも、大正7年4月号、高井猶吉先生お話しの一節「恩に恩をきたら堕ちるで」、「」参照)
 「教祖はある日、参拝された方に、『思うようにいかん、ならん、と言うて、それより死んだ方がましや、と言うて、水に入り、井戸へ入り、川へ入って死ぬというのは、天に捨言葉(すてことば)になる理に当たる。これを、仇(かたき)の因縁、と言うて、人間に生まれ変わり出来ずして、鼬(イタチ)などに生まれ変わるで』とお聞かせ下されている。このお言葉から類推し、自ら生命を絶つことは神様への捨言葉となり、来生は不幸な通り方をせねばならん事になると戒められている」。(堀越義男「幸せを求めて」78p「捨て言葉に就て」の「鼬(イタチ)などに生まれ変わるで」)
 「大正時代に天理教本部の修養科に学んだ人々には、まつえが来生(らいせい)牛馬に生まれ変わる、と修養科で聞かされた者がかなりあるようだ。作者(芹沢光治良)が、この作品を発表するようになってから東京都内の見知らない信者が数人、わざわざ訪ねて来てどの人も、『まつえが来生、牛馬に生まれ変わる、と、本当に教祖みきが言ったかどうか聞かせて欲しい』と、真剣に作者に尋ねた。そのある人は、まつえこそ、信仰について女性らしい疑惑や苦悩を持った、人間らしい気の毒な夫人、であった事を熱心に語って、本当のまつえを描いてくれ、と、作者に頼んだ。これらの老いた信者たちの話しから、まつえの死が如何に側近者の心をも動揺させたか察することができたが、また天理教の初期には、信ずべからざることが、みきの言葉として側近者の間に渦巻いていたのではなかったか。それ故に、みきがおふでさきを書き残した意味も大きい」。(芹沢光治良「教祖様」365頁、第八章「うちからの掃除」の「信ずべからざること」)
 「松枝さんが亡くなってから一年も経たないうちに、教祖がお湯を使って(入浴して)おいでになり、姉(飯降芳枝)が教祖の背中を流しておりますと、葛屋葺(くずやぶ)きの屋根の廂(ひさし)の上に、鼬(イタチ)がいた。教祖はそれを見て、『ああ、松枝が帰っているぜ』と言われた、という事を聞いております。『彼女は再び人間界に出さんが、ここよりどこへもやらん。屋敷の中に置く』と仰せられたということですが、なるほど、屋敷の中におります。私ら子供の時は、松枝さんを、姉さん、姉さん、と言っていましたが、その鼬(イタチ)に遭うと、ああ、姉さん、姉さん。姉さんいるで、と言うと、今の夫人(たまへ)様、その頃は、嬢、嬢(いと/お嬢ちゃんの意)、と言っていましたが、甚さん、またあんなことを言って私をいじめる、と言って、泣かれたことを覚えております」。(新宗教、大正5年1月号、飯降政甚「おばさん」の「屋敷の中に置く」)
「『牛同様に、寝ていて食べさしてもらい、ししばば(尿糞)の世話もしてもらい、人間だけの自由(じゅうよう)適わずして、長年、人の恩をきて果てたなら、今度は牛やで』と聞かせらる。『世上の諺(ことわざ)にも、寝ていて食べると牛になるぞ、と言うて子供らを戒めるは、知らず知らず神の教えや。そこでこの世では、我がまま気ままに我が身の栄耀(えいよう/栄華/繁栄)を思うても、この世はそうして通れても神の立腹。この次の世は、モウかなわん、かなわん。牛と堕ちたらどうも仕様があるまい。すれば銘々に我が身の思案は要らんで、ただ誠真実、立て合い、たすけ合いの心を持って通れよ。我が身の事は思わずとも、神が見分けて心だけよいようにしてやるで』との仰せなり」。(諸井政一「改訂正文遺韻」 250-251p、御筆先釈義第五號)
 「梶本宗太郎さんの妹みきゑの身上の時、梅谷先生から承った話、教祖様のお話し。存命中にお話しあり。『一人の者が家内の為、親族の為に病んでくれるのである。この一人苦を思ひ、謝せねばならぬ」。(身上のお指図)。『一人の為に家内中、親類迄、神様の理を知る事できる。後の家の為、この世前世まで知る事できる』。『一ぺんは一ぺん、二へんは二へん、”さづけ”さんは無にならぬ。身に心についてある』(これは同じく、みきゑ身上の時の梅谷先生の話)」。(「家内の者の病について」、 「復元」第二十二号「教祖様のお話」梶本宗太郎より)
 お指図は次の通り。
 「事情なければ心が定まらん」。(明治20.1.13日)
 「一つ心、我がと我がでに我が身を責めるで」。(明治20.3月)
 「先を案じあるから、自由自在一寸身の内のところ不足できる」。(明治20.5.10日)
 「心に掛かるから身に掛かる。……心に掛かるのが神の邪魔になる」(明治20.5.12日)
 「心発散すれば身の内速やか成るで。病というはすっきり無いで。面々の心が現れるのやで」。(明治20.9.5日)
 「心で思う通りに障りつくのやで。急くから咳が出る」。(明治21.1.23日)
 「さあさぁ神さんと思うやろう。神は何にも身を痛めはせんで。さあさぁ面々心から痛むのやで。面々の親の心に背けば、幽冥(ゆうめい)の神に背き/\て、まる背きとなってあるのやで」。(明治21.9.18日。幽冥の神とは、現身(うつしみ)をお隠しになられた教祖を指している)。
 「何程の事と言うても拝み祈祷するやなし、ただ一寸話聞いて、成程という心なら、身の処速やかなものや。どんな事も心通りや」。(補、明治21.9月)
 「神は不足な身上は貸したやない。身上に不足あると思うは違う。皆心の不足を身に現れるのや。心さい速やかならば、身に不足は何もなきものやで」。(補、明治21.9月)
 「何が間違う、これが間違うと思う心が間違う。さんげこれ一つよう聞き分け」。(明治29.5.1日)
 「雨降りもあれば、天気もある。雨降りの日は、十分の働きは出来難くい。身上の障りの時は悠(ゆ)っくり気を持ちて、楽しみの道も悠っくりと聞き取りて楽しもう。成ろまい日々の事情、働くばかりが道であろうまい」(明治30.3.12日)
 「一寸身の自由ならん。一寸腰を掛けたて休んで居るようなもの、……」(明治30.3.17日)
 「俺はこれだけ思うて居るのに何故成らん、何故いかん、段々理に理をつけるから身上という」。(明治32.8.6日)
 「心迫るから身上迫る」。(明治32.8.6日)
 「心勇めば身の内障りなきもの」。(明治33.6.1日)
 「どんな事情もこんな事情も、第一所理の元へ、一つ、善うても掛かる、悪ても掛かる」。(明治34.2.8日)
 「皆々心々という、道という心。又何でなるやろうと思うたら、これ尽した理に曇りを掛けるようなもの」(明治35.9.18日)
 「身上悩む/\。身上悩むやない。心という理が悩む。身上悩ますは神でない。皆な心で悩む」。(明治34.1.27日)

【病気の由来性関係考】(「病気と心の密接な関係」その他参照)
 「病気は教師である」 と云われる。人は病気になることで何かを教えられ、自分自身を深く省みる機会を得ていわゆる一皮むけた状態になる。これが魂のレベルアップに繋がる。

 即ち、「病気に於ける由来性との関係」が認められるので、病気を見れば、その人の生活習慣が分かる。だから病気を治すのに対処療法的治療を専門とする医者や薬だけに頼る訳には行かない。自分自身が病気と対峙し、その病気の原因を見つめ、原因からの治癒を目指さねばならない。その原因とは生活習慣である。生活習慣は、生活態度、食事、心、気から構成されている。

 血がきれいか汚いかが大事である。血がきれいな人は顔色もよく身体も元気(血流がよく体温も高い)。便秘で体中に毒素の多い人は顔色も悪く血が汚れている(血流が悪く体温も低い)。女性の場合には生理痛が酷くなる。血がきれいになることに心が大きく作用する。心の持ち方が摂理に合っていると血は実にきれいで、その反対にどん欲で自己中心の人の血は汚れている。次に血がきれいになるには食事が大きく作用している。食事では、肉食禁止又は控えめ。遺伝子操作していない食物を摂取。

自然な物(気があるもの)野菜、海草、を食べる。加工食品、ファーストフード、お菓子ばかり食べない等のセルフコントロールが大事である。自然の恵みに感謝しおいしく食べる小食が良い。


【病は気から考】
 「病気に於ける心の持ち方との関係」を見るのは良い。なぜなら、「心のゆがみが脳に作用し、脳の機能障害から種々の病気が生み出される」と推理できるからである。栄養失調、不良がこの事態をさらに悪化させる。

 問題は、かく理解するのは良いとしても、心の歪みと病気の関係をこじつけ的に発見したり説いたりすることにある。事はそう単純なものではない。そういう関係性を知った上で、慎重に観察し続け、次第に獲得された経験知で概略を述べる嗜みがあって良い。世間に流布する「心のゆがみが病気の原因」には直截的短絡的なものが多過ぎる。

 最新研究は「プラシーボ(偽薬)効果」を認めつつある。「プラシーボ(偽薬)効果」とは、「効くと信じて飲めば効く。効果について疑いの気持ちで飲めば効かない」現象を云う。

【左善右悪について】
 「私はかって或る先生から、こんな事を聞かされた事がある。『同じ一つの身体でも右の方に表れて出たものは因縁や埃が表れて出たもので、その反対の左の方に見えた時は、神様が用木として使いたいという思惑の上から仕込んで下さる御慈悲である』と御教祖が御説きになったそうである。この御教祖のお諭しを耳にしていた山本利八先生が、また河内の田舎にお出でた頃の或る時、先生の左の足に腫れ物が出来た事がある。すると山本先生、内心大変お喜びになって、『これは有難い。今に何か結構が見えて来るかもしれぬ。御教祖がそう仰った事があったが‥』と、かつて御教祖から伺われたお話を思い出し、心待ちにジッと待っていられた。すると暫くして一晩のうちにその腫れ物が取れてしまって、右の方にポッツリ一つできてしまった。それがホンの一晩の間である。先生再び前のお話を思い出して今度は驚かれた。『ハテナー、どんな恐ろしい因縁積んだんだったんか知らん』と正直である。そしてその足で御地場へ懸けつけて来て、御教祖に事の顛末を申上げられると御教祖は、『お前をな、お地場へ引き寄せようと思うてジッと神が待っていたが、どない待っても出て来んもんやよって、左の足から右の足へ換えたんやと神が仰る』と仰ったという云々」。(「左善右悪について」、昭和二年十月五日号みちのとも、田代壽村「お助けと懺悔」より」)

【「禍(わざわい)は下から起こる、上から起こらん」について】
 「また、あるとき、『禍(わざわい)は下から起こるんやで。上から起こらん。下々の者が持ち寄って起すんやで』と仰せになりました。また次のように、いろいろ教えて下さいました。『病というても身上に障りつくは二分、あと八分は神経や。ふところに少しでも持っていたら、施してやってくれ。心勇めば身も勇む』、『高い所の土持ちいらん。低い所の土持ちたのむ』、『嬢(いと)や坊やと言い寄るは高慢。困っている人に施してやってくれ。”もの”をやるにも紙に包んで渡してやってくれ。裸銭を投げてやるような、そんな人を見下げる心はいかんで。どんな者でも可愛い神の子や』、『小そうても大きゅうても同い年や。八十で死ぬ者もあれば、二歳で死ぬ者もあるやろ。年寄りも子供も同い年や』、『枯れ木に肥やってもあかん。生身の身体を大切にせよ。金の心棒でも油ささんことにはあかん』、『着物は柔らかい着物着ることいらん。固い着物で結講や。身に固いもの着て心を真綿のように柔らこうせねばいかん。柔らかい着物を着て心を固うしてはいかんで』、『金のゆりかえしせんように。欲しいというたらやったらいい。願いに出たとて皆かえりはせん。大道に肥まくようなものや』と、いろいろ教えていただきました。何しろ長い間のことでしたから、随分いろいろの話がありました」。老婆の話は立て板に水の”たとえ”もただならず、話は際限なく続いたのだが、何分にも早口なので、筆記することができなかった。以上がその要点であったと思う。(後略)」。(高野友治著「御存命の頃」(道友社、平成十三年一月)220p「乾やす老婆の話」)

【胃腸と脳の関係考】
 2023.4月、「天理教教祖の身上諭し、事情諭し」を裏づける「脳腸相関」(のうちょうそうかん)理論が医学界に生まれている。機能性消化管障害はストレスが原因としてあり、これに「脳腸相関」が絡んでいるという学説である。機能性消化管障害は、機能性ディスペプシア(胃痛、食後の胃もたれ感などを特徴とする)と、過敏性腸症候群(腹痛、下痢、便秘などを特徴とする)が代表的で、内臓自体の器質的疾患がない多彩な腹部症状を生じる病態を言う。まだまだ不明な点も多いが、心理的または身体的なストレスと消化管運動の障害、内臓知覚過敏が脳腸相関として互いに影響していることが判明しつつある。消化器症状だけでなく、頭痛、めまい、不安、うつ症状といったさまざまな症状を伴うことも多い。脳と腸は、自律神経やホルモンなどの情報伝達系を介して、互いに双方向的に影響を及ぼし合っている。

 機能性消化管障害においてはどちらの情報伝達の異常によっても症状が生じるとされており、ある程度化学的な説明が可能になってきている。ストレスがかかると脳の中の視床下部(ししょうかぶ)、下垂体(かすいたい)という箇所からホルモンを介してシグナルが伝達され、副腎(ふくじん)という内臓からコルチゾールと呼ばれるホルモンの分泌を促し、これがストレスに対してさまざまな生体反応を引き起こす。他には摂食促進作用や消化管運動促進作用をもつグレリン、腸管の運動や内臓知覚に関係するセロトニンなどのホルモンが影響して、消化管運動異常や内臓知覚異常などにつながっていると考えられている。ホルモンだけでなく、サイトカインや神経ペプチドと呼ばれるものが複雑に関係している。

 過度のストレスを受けた腸管は腸内細菌叢(ちょうないさいきんそう:別名、腸内フローラ)にも変化を起こし、病原性が高まる。逆に腸内フローラによっても生体のストレス応答は変化している。これは、腸内フローラが良くなればストレスに強くなるとも言い換えることができる。これには食物繊維がキーポイントになる。食物繊維は「小腸で消化されない炭水化物」と定義され不溶性と水溶性に分けられる。不溶性食物繊維は糞便量を増加させて腸の動きをよくする、すなわち便秘の改善に効果がある。一方、水溶性食物繊維は腸内細菌の発酵を受け、酢酸、酪酸、プロピオン酸などの短鎖脂肪酸(たんさしぼうさん)を生成する。短鎖脂肪酸も腸の動きを良くする働きもあるが、それだけでなくエネルギー源として利用されたり、腸内環境が酸性に傾くことによりクロストリジウム属菌や大腸菌など俗に悪玉菌とも呼ばれる菌が抑制され、代わりに善玉菌と呼ばれるビフィズス菌や乳酸菌などが相対的に増え、腸内環境が良くなると言われている。機能性消化管障害だけでなく、NASH(非アルコール性脂肪肝炎)、糖尿病、肥満、大腸がん、さらに気道アレルギーが良くなることなど、さまざまな病気の予防効果を認めることが報告されてきている。他に発酵食品、ポリフェーノール、カテキンなど腸内フローラによい影響は与えそうだが、まだ関係性は明らかになっていない。まだよく解明されていない脳と腸のメカニズムも多くある。脳と腸は複雑に関係しており、「内臓に一般的な病気を認めなくてもストレスによって辛い症状が生じることもある」と理解しておいた方が病気の不安がやわらぎ、気持ちは楽になる。これからの研究によって脳腸相関が科学的にさらに解明され、有効な治療法が出てくることを期待できる。(「「脳腸相関」って知っていますか?」その他参照)

【音楽療法考】
 “病気の原因は魂の不調和である。音楽は人をリラックスさせ気持ちを落ち着かせ、「心を安らげ」るリラクゼーション効果、「脳を活性化」させたり、食欲が増し、ぐっすり眠れ、笑顔が増え等々の人の活力を引き出す不思議な力がある・・・・・。誰にでも経験があるこうした効果を、医療や福祉の現場で積極的に活用するのが音楽療法。それは、音楽を聴く受動的な音楽療法、音楽を演奏する、歌う、踊る能動的な音楽療法からなる。脳波を撮ると、リラックスした時の波形であるα波が増えることが報告されている。音楽は「記憶の扉を開けるカギ」とも言われており、子どものときに歌った唱歌や若いころに流行した曲を選ぶと、回想法と同様に昔のことを思い出して、さらに脳を活性化させる効果も期待できる。音楽療法は今や脳を活性化させるリハビリテーション法の一つとして積極的に利用されている。





(私論.私見)