思案論その1 貸し物借り物の理

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.14日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「貸し物借り物の理」教理を確認しておく。


【貸しもの借りものの理】

 「元の理」よりあらゆる教理が生まれる。まずは、人間、世界創造の際の「十柱の神々による十全のご守護の理」が生まれる。お道教理では、人を身体と心(魂)の二つに分けて捉え、人間の身体については、「親神様のご守護により生かされている生命体」であると看做しており、神から観れば「神の貸しもの」、人間から見れば「神からの借り物」という身体観に立っている。。これより「貸し物借り物の教理」が生まれる。この含意には、借りたものである限り有り難く丁寧に使わねばならないということと、いつかは返さねばならないという意味が込められていることになる。人間の心(魂)については、「心一つが我がの理」であり「心通りの守護をいただくことになる 」とする心(魂)観に立つ。これより「埃(ほこり)教理」が生まれる。これについては「八つの埃総合教理」、「八つの埃個別教理」で確認する。この教えも又白眉なところである。

 この教理は自ずと次のように諭していることになる。

 「この世は神のからだ」 であり、「人間は神の子供」であり、「私たちの身体は神様からの借り物であり、神様のご守護によって営まれている」。つまり「生かされている」生き物であり、健康であることは当たり前ではなく「まさに有難い」。何にせよこのことに気づくことが肝要であり、この気づきがお道信仰の始まりとなる。例えば、朝起きた際、仕事を終えた際、就寝前、食事の際、用足しの際、その他その他。折々に有難く思い、神様のご守護に感謝申し上げることが肝要である。人間の身体は我がものではなく神様より借りたものであり、借り物である以上は丁寧大事に使わねばならない、決して粗末に扱ってはならない。かくも有難くも使わせていただけていることに感謝申し上げねばならない。その次に、ご守護に対する御恩奉じに向かわねばならない。これを「ひのきしん」と云う。「ひのきしん」は、有難くも生かされていることに対する恩返しであり、まさに「日々」の「寄進」である。

 この「ひのきしん」活動の先に「助け合い」の道がある。人は、教理的に見て、「助け合い」に喜びを感じるよう創造されている。故に、互い助け合いに向かうことが神様の思いに適う。互い助け合いは、助け合い人の環共和国建設へ向かうことになる。人は、かく生活態度、人生態度を確立することにより陽気暮らしに向かうことになる。人間世界創造神は、拵えられる人間達の陽気に勇んで生きる姿を見て共に楽しみ味わいたいとの思いから人間世界を創造したのであり、人間世界創造神のこの思いに適うように生きることが人間の使命である。このことを日々に確認する為の「つとめ」があり、おぢばに据えられた甘露台を取り巻き音曲入りで勤めるのが甘露台神楽つとめである。これは人類世界創造の「元一日」に戻り、その理をいただく最高儀式である。よしんば世相がこの理に反しているのなら、陽気暮らし世界創造へ向けて「世直し」、「世の立替」に向かわねばならない云々。かく拝されるよう諭しているところに値打ちがある。

 お筆先では次のようにお記しされている。

 人のもの 借りたるならば 利(理)が要るで
 早く返礼 を云うなり
三号28
 段々と 何事も この世は 
 神の体や 思案して見よ
三号40
三号135
 人間は 皆々神の 貸しものや 
 何と思うて 使うているやら
三号41
 人間は 皆々神の 貸しものや 
 神の自由(ぢうよふ) これを知らんか
三号126
 銘々の 身の内よりの 借り物を 
 知らずにいては 何も分からん
三号137
 この世は 一列は皆な 月日なり
 人間は皆な 月日貸しもの
六号120
 せかいぢう このしんぢつを しりたなら
 ごふきごふよく だすものわない
六号121
 こゝろさい しんぢつよりも わかりたら
 なにもこわみも あふなきもない
六号122
 人間は皆な 神の貸しものや 
 何と思うて 使うているやら
六号131

 それよりも 段々使う 道具わな 
 皆な月日より 貸しものなるぞ

十三号46
 それ知らず 皆な人間の 心では 
 なんど高低 あると思うて
十三号47
 この話し 人間何と 思うている
 月日貸しもの 皆な我が子供
十三号79

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 「人にお話しをするにはなあ、我が身が心にしっかりと借りものということを治めておかなけりゃいかんで。借りものということよく教えてやってくれ。よくわからせてやるのやで」。
 「助けてもらう者が、借りものということ心に治まれば、どんな病でも助けてもらうことができるのやで。心配いらん、案じ心持たぬよう」。
 「お助けをさせて頂くのに、助ける者が誠の心で借りものという理しっかり心に治めておれば、後は神が働く程に、何も案じ心配はいらんで。誠の心でお話させてもらうのやで。これが恩返しになる道や。楽しんでつとめさせてもらいなはれや」。
 「親の声一つが頼りやで。その声そのまま受ける心に神様が働らいて下さるのや。神様に働いてもらうには、借り物という理をよく心に治めて通らにゃ神様に働いてもらえんのや。人間心を捨てて通らしてもらわにゃいかんで」。
 「借りものというは、身上を貸して頂いているのやから、よく悟らして頂いて、日々を通らしてもらうのやで」。
 「借り物ということがよく分かれば、どんな病でもすぐに御守護下さるのやから、お助けには、借り物という事、神様から身体を貸してもらっているという理を、人間思案に囚われず、只々ありがたい結構やと思うてお話をさせてもらいなはれや」。
 「日々通るには、真実の心になって、かりものという理しっかり心に治めて、親の心に添ってつとめさせて頂くのやで。その心になって通れたら自由用の守護が頂けるのや」。
 「人間はなあ、みんな神様からからだを借りているのやで。それを自分のもののような心で日々使うて通っている。それでは申し訳ないのやで。自分のものと思うて使うて通るから、頂ける守護も頂けなくなるのやで。この理よう思案してくれ」、「かりものという理は、日々通らせて頂いている心の中に、常にもたせてもろうていなけりゃならんのやで」。
 「身上事情で悩み苦しむ時、借りものということをすぐ心に思わにゃいかんで。借りものという理が心に治まれば、どんな中でも助けて下さるのやで」。
 「借りものというは、常に借りているということ忘れずに、一日一日をありがたい、結構やと思うて通らせてもらうのや。その心やったら、どんな危ない中も、大難は小難、小難は無難に連れて通って下さるで」。
 「身上の中でも事情の中でも、借りものという理一つ心に治まれば、ない寿命もつないで下さるで。人間の力でどうにもならんもんでも治めて下さる守護が頂けるのやで」。
 「借りものという理しっかり心に治めて日々通ってくれ。心に治まれば、どんな道でも案じない。案じ心持たぬよう」。
 「神様は人間を創り、その人間がよふきぐらしをするのを見て、共に楽しもうと思し召され、人間世界をお初めなされたのや。だから人間は日々通らせて頂くのに、神様に喜んで頂けるような日々を通らにゃいかんで」。
 「神様に喜んでもらえるような日々とはなあ、まず借りものという事をよく心に治めることや。心に治めるというは、神様から身上を貸して頂いているという事をよく心に治めることや。そうして真実の心にならせてもろうて、親の心に添うてつとめるのや。これが一番神様に喜んでもらえる道やで。この心で日々通らせてもらいなはれや」。
 「神様にどんなにお礼させてもろうても、これでいいということはないで。日々の御恩は日々にさせてもらわにゃいかん。日々にさせて頂くことが、日々結構に通らせて頂ける道になるのや。身上でも事情でも御守護頂ける道は只一つや。借りものという理、心に治めてしっかり通りなはれや」。

 「借りものという理知らずして、日々通っていると身上にお知らせ頂いても、なかなか御守護頂けないで。親の心に添うこと出来んかったら、どんな事で苦しい道を通らにゃならんかも知れん。そんな道通っているなら、何も神様のお話はいらん。神様のお話は、借りものということをよく分からして頂くために聞かして頂くのや。親の心に添わして頂くために聞かしてもらう話やで。お話を聞かしてもらっておきながら、勝手な道を歩むようであったなら、御守護やりとうてもやれへんやないか。ここのところ、よう思案してくれ」。

 「神様のお話を聞かしてもろうているのやから、日々を喜び勇んで、借りものという理をしっかり心に治めて、親の声をしっかり聞かしてもらい、親の言う通りにさせてもろうたら、どんな御守護もお与え下さるで。いらんと言うてもきっと下さるのやから、御守護頂けんと言うていたら申し訳ないことやで」。
 「借りものという理心に治まったら、どんな中でも神様は連れて通って下さるのやで。いくら口で説いたとて、その心にならにゃ何にもならん。心に治まったなら、ない命でもつないで下さるで、心配いらん。日々通る心の持ち方が難しいのや」。
 「借りものという理、心に治まれば、身上でも事情でも御守護頂けるのや。借りものという事よくしっかり心に治めてくれ」。
 「人間心に囚われぬようお話をさせてもらうのやで」、「定めさすというても、自分の心に浮かんだ事を浮かばしてもろうたと思うてお話をすることがいかんのや。定めさすことは、借りものということより他に何もないのやから、よくわかるように話してやってくれ」、「借りものというは、神様から身体を貸して頂いているということなのやから、この理をよう思案させてもらうのやで」。
 「ひくい、やさしい、素直な心、いくら自分がその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん。人に与えるというは、人に喜んでもらう、人に助かってもらう道を通ることやで。この心で日々通れたら、どんな中でも連れて通るほどに。人間はあざないものであるから、日々その心で通らしてもらわにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心遣いから、我が身さえ、我が身さえと思い、我が身さえよければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護頂けるはずはないで。我が身どうなってもという心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや。案じ心を捨てて、人の喜ぶよう、人の助かるような道を通りなはれや。人助けたら我が身助けてもらうこと出来るのやで。人間はなあ、みんな神様からからだを借りているのやで。それを自分のもののような心で日々使うて通っている。それでは申し訳ないのやで。自分のものと思うて使うて通るから、頂ける守護も頂けなくなるのやで。この理よう思案してくれ。かりものという理は、日々通らせて頂いている心の中に、常にもたせてもろうていなけりゃならんのやで」
 「日々通る身上についての心の持ち方はなあ、人間は、いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで。身上事情で悩み苦しむ時、かりものということをすぐ心に思わにゃいかんで。かりものという理が心に治まれば、どんな中でも助けて下さるのやで。かりものというは、常に借りているということ忘れずに、一日一日をありがたい、結構やと思うて通らせてもらうのや。その心やったら、どんな危ない中も、大難は小難、小難は無難に連れて通って下さるで。身上の中でも事情の中でも、かりものという理一つ心に治まれば、ない寿命もつないで下さるで。人間の力でどうにもならんもんでも治めて下さる守護が頂けるのやで。かりものという理しっかり心に治めて日々通ってくれ。心に治まれば、どんな道でも案じない、案じ心もたぬよう。親の心に添わしてもらうには、我が身思案を捨てにゃいかんで。我が身どうなってもという心で親に添い切るのや。我が身思案から、ああもこうもと心を使う。人間心で聞いて、あれやこれやと思案する。なんぼ聞いても同じことやで。そんな心やったら、親の心に添うこと出来ん。親の声聞いたら、そのまま受ける心に神がはたらくのや。親の声聞いて、頼りないと思うたら、頼りなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神が連れて通るほどに」。
 明治10年11.28日、側な者に対する教祖直々のお諭し「教祖口伝」。
 「つくすというは、金や物を尽くすだけを言うのやない。身上かして頂いているというご恩を報じる心が、つくしというて果たしになるのやで。借りものという理わからねば、つくしようがあるまい。人間心にとらわれぬようお話をさせてもらうのやで。定めさすというても、自分の心に浮かんだ事を浮かばしてもろうたと思うてお話をすることがいかんのや。定めさすことは、借りものということより他に何もないのやから、よくわかるように話してやってくれ。借りものというは、神様から身体を貸して頂いているということなのやから、この理をよう思案させてもらうのやで。借りものというは、身上を貸して頂いているのやから、よく悟らして頂いて、日々を通らしてもらうのやで。借りものという事がよくわかれば、どんな病でもすぐに御守護下さるのやから、お助けには、借りものという事、神様から身体を貸してもらっているという理を、人間思案に囚われず、只々ありがたい結構やと思うてお話をさせてもらいなはれや」。
 明治10年11月2日夕刻、辻忠作、仲田儀三郎、山澤良治郎。「お屋敷のお掃除をみんなでさせて頂きたいと申し上げた処、日々通る中に心にもない通り方をしてはいかんで。この道は人にさせる道やないで。銘々一人/\が自分からつとめさせて貰う道やから、人がどうのこうのと言うやないで。人間は(女の人は)自分がすると、人にもさせたくなるものやが、何ぼ人にさせようと思うてさせても何にもならん、人がさせて頂かなけりゃと思う心になるようにしてやってくれ。それには時というものがあるで、時ということよく心に治めておかにゃいかん、時をはずして何をしても何もならん。種を蒔くときには種をまかにゃいかん、さむいあついと言うて、今忙しいからというて時をはずしたら、いい芽はでてこないで。時をはずさぬよう、よく教えてやってくれ。自分がつとめさせて貰う時でも、人にもさせようと思う心持ったらいかんで。人には借りものという事わからせてやったらつとめて貰える、なんぼさせようと思うても、借りものという事わからねばなんにもならん。銘々が運ばして貰い、つとめさせて貰うておるうちに人はついてくるで」。
 明治10年11月23日 (氏名なし)、(願いの筋なし)「 つくすと言うは、金や物をつくすだけを言うのやない。身上をかして頂いているという恩を報じる心をつくすのがつくしというて果しになるのやで。借りものという理わからねばつくしようがあるまい。人間心にとらわれぬようお話をさせてもらうのやで。定めさす/\と言うても、自分の心に浮んだ事をうかばして貰うたと思うてお話をすることがいかんのや。定めさすことは、借りものという事より他に何もないのやから、よくわかるように話してやってくれ。借りものというは、神様から身体を貸して頂いているという事なのやから、この理をよう思案させて貰うのやで。借りものというは、身上をかして頂いているのやから、よくさとらして頂いて、日々を通らして貰うのやで。借りものということがよくわかれば、どんな病いでもすぐに御守護下さるのやから、お助けには、借りものということ、神様から身体を貸して貰うておるという理を、人間思案にとらわれず、たゞ/\有難い結構やと思うてお話をさせてもらいなはれや。お助けさせてもらうに一番大事な心使いやで」。
 明治10年11月23日、桝井伊三郎、村田幸右衞門、辻忠作。(願いの筋なし)。「日々通るには、真実の心になって、借りものと言う理しっかり心に治めて、親の心にそってつとめさせて頂くのやで。その心になって通れたなら自由用の御守護が頂けるのや。真実とは、弱いものゝように思うけど、真実ほど強いものはないで。人が人を動かすこと難しい、なれど真実なら神がうごかすで。人を助けるのも真実、その真実には神がはたらくのや。人が人を助けるのはむづかしい。なれど真実なれば神が助けさす。真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで。口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心というていても、その心にならなけりゃなんにもならんで。日々通っている中に、我が身は誠やまことやと思うて通っていても、誠の中のほこりという道もあるで。よう思案して通らして貰うのやで。日々真実の心で通らして貰えたらなら、家々むつまじゆう暮させて頂くことが出来るのやで。めい/\我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や、真実やと思うて通っていても、心に真実なくばなんにもならん。目にも見えん、形にもあらわれんもの、心にその理なくばならん。人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで。低いやさしい素直な心、いくら自分がその心やその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん。人に与えると言うは、人に喜んで貰う、人に助かって貰う道を通ることやで。この心で日々通れたなら、どんな中でもつれて通るほどに。人間はあざない者であるから、日々その心で通らして貰わにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心使いから、我が身さえ我が身さえと思い、我が身さえ良ければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護いたゞける筈はないで。我が身どうなってもと言う心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや。案じ心を捨てゝ人の喜ぶよう人の助かるような道を通りなはれや。人助けたら我が身助けて貰うことできるのやで。人間はなあ、みんな神様から身体を借りているのやで。それを自分のものゝような心で日々使うて通っている、それでは申訳ないのやで。自分のものと思うて使うて通るから、頂ける守護も頂けなくなるのや。この理よう思案してくれ。借りものと言う理は、日々通らせて頂いている心の中に、常にもたせて貰うていなけりゃならんのやで。日々通る身上についての心の持方はなあ、人間はいやなもの見るとすぐにいややなあと思い、いやなこと聞くとすぐにいややなあと思う、その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、あゝ見えてよかった、めくらでのうてよかった、有難い結構やと思うて通らして貰うのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、いつの日いつの時でもそう言う心で通りなはれや。その心使いが自由用の守護が頂ける道になるのやで、むつかしいことないで。身上事情でなやみ苦しむとき、かりものと言うことをすぐに思わにゃいかんで。借りものという理心に治まれば、どんな中でも助けて下さるのやで。借りものというは、常に借りているということ忘れずに、一日一日を有難い結構やと思うて通らせて貰うのや。その心やったらどんなあぶない中も大難は小難、小難は無難につれて通って下さるで。身上の中でも事情の中でも、借りものと言う理一つ心に治まれば、ない寿命もつないで下さるで。人間力でどうにもならんもんでも、治めて下さる守護が頂けるのや。借りものと言う理、しっかり心に治めて日々通ってくれ。心に治まればどんな道でも案じない、案じ心もたぬよう親の心にそわして貰うには、我が身思案をすてにゃいかんで。我が身どうなってもと言う心で親にそいきるのや。我が身思案から、あゝもこうもと心を使う、人間心で聞いてあれやこれやと思案する、なんぼ聞いても同じ事やで。そんな心やったら、をやの心にそうこと出来ん。をやの声きいたら、そのまゝうける心に神が働くのや。をやの声きいて、たよりないと思ったらたよりなくなる。をやの声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神がつれて通る程に、人間心だすやない。もたれる心に神が働くのや。案じないをやの心にそうて通るなら、どんなことでもうけとるで。うけとる中に自由用という理があるのや。自分の身どうなってもという心で親にそいきる心、この心で通りたなら十分の理、十分の理は結構づくめやで。親の心にそうて通るなら、ならん中、通りにくい中、その中を運び、果して行く処に道がつく。あの中でもよう通る、ようつとめるなあと言われる処まで道をつけるのや。その道はらく/\にあるける道。親の心にそうこと出来ず、勝手気まゝな心使いから、親をつぶして親にさかろうて通るから身がたゝなくなる、この理よう思案してくれ。親の心にそわずして、親の心ころして通るもの、人間心で通るもの、勝手な道を歩むもの、なれど一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさん、親という理わすれぬよう、親の心にそうて通らにゃいかんで」。
 明治10年11.28日、枡井、村田、辻に対する教祖直々のお諭し「教祖口伝」。
 「日々通るには、真実の心になって、借り物という理しっかり心に治めて、親の心に添ってつとめさせて頂くのやで。その心になって通れたら自由用の守護が頂けるのや。真実とは弱いもののように思うけれど、真実ほど強いものはないで。人が人を動かすことむずかしい、なれど真実なら神がうごかすで。人を助けるのも真実、その真実には神が働くのや。人が人を助けるのはむずかしい。なれど真実なれば神が助けさす。真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで。口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心と言うても、その心にならなけりゃ何にもならんで。日々通っている中に、我が身はまことやまことやと思うて通っていても、まことの中のほこりという道もあるで。よう思案して通らしてもらうのやで。日々真実の心で通らしてもらえたなら、家々むつまじゅう暮らさせて頂くことができるのやで。銘々我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や真実やと言うて通っていても、心に真実なくば何にもならん。目にも見えん、形にも現れんもの、心にその理なくば何にもならん。人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで」。
  明治12年3月4日、桝井伊三郎、村田幸右衞門、辻忠作、飯降伊蔵。(願いの筋なし)
 「つくすと言うは、金や物をつくすだけを言うのやない。身上かして頂いていると言う恩を報じる心をつくすのが、つくしと言うて果しになるのやで。借り物という理わからねばつくしようがあるまい。段々恩がかさなるばかりやで。この理よう思案して、つとめなけりゃいかんで」。
 明治12年7月5日夕方、村田幸右衞門。「この神様はどういう神様でございますか」と尋ねられた処、この神様はなあ、元の神といゝ実の神様やで。元の神様とは拝み祈祷の神やない。元こしらえた神というて、元々何にもなかった処から、人間をはじめ、すべてのものを造り創められた神様や。実の神というはなあ、真実の神ということやで。すべてのものをおつくりになったというだけでなく、それ以来常に変わらず不思議なお働きによってあらゆるものを育て、温い恵みをもって御守護下される神様や。人間をおつくり下されたおぼし召し通りに通らせて頂くことが出来るようにと、直き/\にこの世へお姿を現わされた真の神やで。神様は人間をつくり、その人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しもうと思召され、人間世界をお創めなされたのや。だから人間は日々通らせて頂くのに、神様に喜んで頂けるような日々を通らにゃいかんで。神様に喜んでもらえるような日々とはなあ、先ず借りものということをよく心に治めることや。心に治めるというは、神様から身上をかして頂いているということをよく心に定めることや。そうして真実の心にならせて貰うて、親の心にそうてつとめるのや。これが一番神様に喜んで貰える道やで、この心で日々通らせて貰いなはれや。神様にはどんなに御礼させてもろうても、これでいゝということはないで。日々の御恩は日々にさせて貰わにゃいかん。日々にさせて頂くことが、日々結構に通らせて頂ける道になるのや。身上でも事情でも御守護頂ける道は只一つや、借りものと言う理心に治めてしっかり通りなはれや」。
 明治14年2月7日〜8日、辻忠作、村田幸右衞門、山澤良治郎。(願いの筋なし)。
日々通らして貰うていても、いろいろ人の通る道はある、その中で神様によろこんで貰う道を通るのやで。神様に喜んで貰う道は真実だけや。真実というても自分だけが真実やと思うていてもなんにもならん。真実とは、ひくい、やさしい、すなおな心をいうのや。自分でひくいと思っているうちはひくくはないで。やさしいというても、すなおというても同じこと、人にあの人は真実の人やといわれる迄の道を通るのやで。すなおと言うてもなあ、人の心をひくような素直はなんにもならん。神様に喜んで貰えるような素直というのは、をやの言うなり、するなりにして貰う心にならなけりゃいかんで。やさしいと言うても口だけではなんにもならん、はいと言うたらすぐおこなってこそやさしいのやで。そうして何でもつとめさせて貰う心をひくいと言うのやから、その心で日々通らにゃいかんで。口だけの真実やったら神様はなあ、喜んで下さらんのや。神様のお話をよく聞かして貰うのやで。神様のお話とはをやの声や。をやの声というていゝかげんに聞いていてはならん、しっかり心に治めなはれや。真実の心と言うても昨日も話をして居ったのや。丸ごとでなきゃいかんで。丸ごととは全部や、一切を引き受けさせて頂きますという心や。庭の掃除一つさせて頂くのも自分、我が身一人一人がさせて貰うのや。多数の人でやったら自分の徳にはならんで。だがなあ、徳をつまして貰うという心はいかん。これは我が身のためやからなあ、なんでも人のため、我が心は人の喜ぶよう、人の助かるような道を通ればよいのやで。我が身のことは何にも考んでよいのや、これが丸ごとの真実やで。人に腹を立たせて下さるな。親の心にそうと言うても形だけやったらいかん、心をそわして頂くのやで。どんなに離れていても心は親に通じるものやで、心をそわして貰いなはれや。親の心にそわして貰うて日々通って居たら、身上事情で苦しむような事はないで。だが因縁なら通らにゃならん道もあろう、しかし親の心にそって通らして貰うているなら、何にも身上や事情やというて案じることはないで、心倒さんように通りなはれや。この世に病というはさらにない、心の埃りだけや。心を倒すのが病い、倒さんのが身上というて花や。人間思案で通るから倒れるのや、人間思案だすやない。人間思案すてるには親の心だけがたよりやで、親の声何でも素直に聞かして貰わにゃいかんで。借りものという理知らずして日々通っていると、身上にお知らせ頂いても仲々御守護頂けないで。親の心にそうこと出来んかったらどんな事で苦しい道を通らにゃならんかも知れん。そんな道通っているなら何も神様のお話はいらん、神様のお話は借りものと言うことをよくわからして頂くために聞かして頂くのや。親の心にそわして頂くために聞かして貰うお話やで。お話を聞かしてもろうときながら勝手な道を歩むようであったなら、御守護やりとうてもやれへんやないか、こゝの処よう思案してくれ。神様のお話を聞かして貰うているのやから、日々を喜び勇んで、借りものという理をしっかり心に治めて、をやの声をしっかり聞かして貰い、親のいう通りにさせて貰うたなら、どんな御守護もお与え下さるで。いらんと言うてもきっと下さるのやから、御守護頂けんと言うていたら申訳ないことやで。をやの言う通りにせんで御守護頂けないと言うて日々通っている、そんな事で人に喜んで貰う、人に助かって貰う道が通れるか、よう思案してみい、申訳ないと思うたらすぐに心いれかえてつとめなはれや、御守護下さるで」。
 明治15年4月5日 梶本松治郎、仲田儀三郎、岡田与之介。(願いの筋なし)。
 借り物という理心に治ったなら、どんな中でも神様はつれて通って下さるのやで。いくら口でといたとてその心にならにゃ何にもならん、心に治まったなら無い命でもつないで下さるで、心配いらん。日々通る心の持方がむつかしいのや。日々通る心の持方は自分勝手な心使い、気ずい気まゝな心使いでは御守護は頂けないで。気ずい気まゝな心使いで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない、こんなことはわかっているやろ、ここの処よく思案してくれ。借り物という理心に治まれば、身上でも事情でも御守護頂けるのや。借り物ということよくしっかり心に治めてくれ。借り物という事は、神様からこんな結構な身体を借りていると言うことをよく心に治める事やで。これがわかればそれでよいのや。よく心に治まれば、どうして御礼をさせて頂こうかと思えてくるで。その思えて来たことをそなえさせてもろうのや」。
 明治15年9月12日、桝井伊三郎、辻忠作、村田長平。(願いの筋なし)。
 「日々に埃の心つこうて通るから御守護が頂けないのやで。人の心にいやな思いをさせる、何でもないように思うて通っているやろうが、それは人の心をころしているのと同じこと。目に見えない埃り日々につんでいったら身上にもなろう、事情もあらわれてもきよう、みな我が身が苦しむことになるのやで。日々に通らせて貰うには、むつかしいことは何もない、只真実の心で借りものという理をしっかり心に治めて、有難い結構やというて、思うて明るい心で通ってくれ。神様が必ず御守護下さるで。日々に、朝起き、正直、働き、この三つを心において通らして貰うのやで、結構な日々が通れるで。借りものという事わからねばこの道は通れないで
 明治17年2月4日、桝井伊三郎、高井直吉、岡田与之介(宮森与三郎)。(願いの筋なし)。
 人を助けさせて頂くには、日々の心づかいが大事やで。日々の心づかいによっては、助けさせて頂く事ができるような時にでも、助けさせて頂くこと出来ないで、この理よう思案してくれ。助けて頂く者も真実の心になって、お話を聞かせて頂いて、借りものと言う理をよくさとらせて頂くことやで。借りものと言う理心に治ったら治ったゞけ、御守護頂けるのやから、なにも心配いらん。(行空き)さづけという理は、めい/\の心にあるもの、日々の通る心づかいがあらわれるもの。心の使い方によって理のあらわれがかわってくるで。さづけの手ぶりがきくのやない、理がきくのやで。(行空き)日々通らして貰うには、人のあしきを言わぬよう、人のあしきを思わぬよう。人にあしきを思わせぬよう、この三ッの心がけが大事やで。この心がけ一日に一回つこうても三日の間さづけの理はとまるで」。
 明治18年3月14日、松村栄治郎。(願いの筋なし)。
 親の心ころして通る者、人間心で通る者、勝手な道を歩む者、なれど一度は許す、二度は助ける、三度は許さん。定めさせる心も、定める心も同じでなきゃならんもの。定めさす心は借物ということほかにないで、よくわからせるのやで。定める心も借ものという事よく心に治め、その心で日々通らせて頂くことを定めるのやで。その心定まったならどんな中でも自由自在やで。心を定めさすのはなぁ、あれせいこれせいと言うのやないで。自分の心に思ったこというたらいかんで。神様のお話をさせて貰うのやで。神様のお話というは、借りものということしかないで。この借りものということ心にしっかり定めさせてやってくれ。定めさすというはそれだけや、他に何もないで。定める、定めさすとよう言うておるが、定めるとか定めさすということは、借りものという事より他に何もないで。借りものと言う理が心に治まれば、あとはつれて通ってもらえるで」。
 昭和56年3月号みちのとも「救けと親孝心一条の信仰」の堀越義男「神様の話というのは」。
 「ある日、一高弟が、只今よりおたすけに出さして頂きます、と教祖にご挨拶されると、教祖は、『神様の話というのはな、貸し物借り物の理より外ないで。この理よう心に治めさせてやってくれ』、とお助けの根本精神をお聞かせ下された。また、ある日、側近の人々に、教祖は、『この道は話一条が助けの台、お話は嫌という程聞いておけ。嫌という程聞かせておけ。まさかの時には浮かぶで』、とお聞かせ下されたという」。
 手記一の七八頁「かしもの・かりもの」(昭和48年8月発行「山田伊八郎文書〜(教話)」352p)。
 「『人間身の内は神様の貸し物や。心一つは人間にあたえきりた』、と仰せられ、『身の内の貸物借物の理はちょっとわかりにくい、それでなんべんでも/\聞かしてやってくれ』と仰せられ、『身の内の水気、世界の水は国常立の命様の御守護、身の内のぬくみ、世界の火は面足の命様の御守護や、この二神は月日様や』。手足の皮を摘まみ上げて、『この皮と世界のつなぎとは、この国狭土の命様の御守護や』。骨をつかみて、『この骨と世界のつうぱるものは、この月読の命様の御守護や』、と諄々と仰せ下された」。
 お指図は次の通り。
 「人間というものは、身の内借り物、八つのほこり、この理を分かりさいすれば、何も彼も分かる」(明治21年7月4日)。
 「人間というものは皆な借り物。この理を分からんや何にもならん。身の借り物、八つのほこり、一時分からんやならんで」(明治21年7月24日)。
 「思うようにならん\というは、借りものの証拠」(明治21.7.28日)
 「人間というものは、身は借り物、心一つが我のもの。たった一つの心より、どんな理も日々にちにち出る」。(明治22.2.14

 「人間というは、身のうち神の貸しもの借りもの。心ひとつが我が理」(明治22.6.1日)

 「人間は、借り物分からんから。借り物分かれば、助け合いの心浮かぶ。この理論知りたら助けの道理。この理一つである」。(明治33.3.22日)
 「貸し物借り物」教理につき、天理教教典65頁は次のように記している。
 「銘々の身上は、親神からの借り物であるから、親神の思召に随うて、つかわせて頂くのが肝腎である。この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護をうける理を曇らして、やがては、我と我が身に苦悩を招くようになる。これを、人間というは、身の内神の貸し物・借り物、心一つ我が理。(明治22年6月1日)と教えられている」。
 次のようなお諭しもある。
 「神様と身の内と別々に思うて居ては天理は分らぬ。神は身の内に御座るなり。神様と身体を一つに考えされば悟り諭しは明らかに分らん。身の内は神様の物であると云うことが確かに分って腹に入れていたら、諭しは誠に容易なものである。人間は目先の楽しみの日々食う事、着る事、又色々むさくろしい事を深く楽しんでどうもならん。世上どんな物も眺めて見ればどんな堪能もつく。堪能真から治めたら不足と云う心も起らぬ。日々互い互い助け合いと云う互いに人の為を思う。人の楽しみ見て楽しむと云う心より誠はない。これが元々親様の思いつきとも云う、又この心が元となりて今日世ができ万物でき、御苦労下され、只ここに止まる。これより外はない。人間互い互い結構/\と云う心を使うから見て楽しみ、楽しむ心を見て楽しみ下さる。身の内の理は身内御守護処によりて明らか也。天の理を知り、神様の御心と人間心の埃りとを悟りて諭す。諭しは裏から諭すか表から諭すか、これが見分けるによる。これが肝心なり。理は天が台、地に根がある」。
 「病苦等は皆な埃りなる故、人間の心に感ずる不快も同じく残念遊ばすものなり。一切の働きが人間が成すに非ず、神様の御働き也。元々泥海中にて人間造り給える時に、月日より道具神様に末の楽しみを御諭しなされて承知致されたる深き意味あるところ也。身の内借り物の真理、神人の関係等、最も大切なる秘密の奥意の真理山々あれども、これを文書にて公にすることは畏れ多きことにて且つ信仰修養の日浅き人にては泥海古記等の真実真味に至れば中々分らず、却って誤解を抱くことなきに非ず。よって大略としておき、御研究を希望するものなり。又身上借り物と云う理が分れば何かの事も鮮やかと仰せられたが、中々分った様で早速分らんものなり」。

【「貸物借物の理の萬話」鈴木多吉より】
 「かしもの・かりものの理の万話(その一)」、「かしもの・かりものの理の万話(その二)」。(大正四年四月号「新宗教(創刊号)、「貸物借物の理の萬話」鈴木多吉より」
 「ある村落に、誠に慈悲深い大身の旦那があった。またその村に非常に貧困ではあったが、極く正直な義理堅い老爺があった。この貧乏な老爺は、非常に旦那のお気に入りであった。老爺には一人の息子があった。それが嫁をとって孫ができた。とにかく老爺さんにとっては初孫の事であるから、成らん中から工面をして、親類を始め村の内の懇意の家へ何かお祝いを配りたいと思って準備をしたが重箱がない。それで重箱を借りに慈悲深い旦那の所へ行った。すると慈悲深い旦那は、「暫らく見えなかったがアア良く来てくれた。何か用があって来たのか」と言ってお茶を出しながら懇ろに待遇した。老爺さんは、「実は旦那にチト御願があって上がりました。実はこの度内に孫ができましたが、初孫のことではあり何なりとも印ばかりの御祝をさして頂きたいと思いましたが、困った事には内にはその御祝を配る重箱がありません。どうかこちら様の一番悪い重箱で良いから貸して頂きたい」。それを聞いて慈悲深い旦那は、「アアそうかいなあ。それは誠に易いことだ。何なら内の一番良い重箱をつかって貰いたいものだ」と言いながら番頭を呼んで、倉から一番上等の重箱を出して来るように命じた。老爺さんは、立派な蒔絵の重箱を見て恐縮して、「旦那様、こんな結構なお品は勿体な過ぎて拝借して参る訳に参りません。どうか御宅で一番悪いのを貸して頂きたいもので御座います」と言って御辞退すると、慈悲深い旦那はそれを打ち消して、「そうでないから持って行って使ってくれ。内には幾らも重箱があるけれども、用がないから倉へ蔵(しま)って置くのだ。サア/\遠慮はないから持って行って使ったが良い。それから伏紗(註・袱紗?。贈り物を覆い、又はその上に掛けて用いる小型のふろしき)も要るであろうが、伏紗はあるか如何か?」。「伏紗も御座いませんから、どうかどの様な品でもよろしゅう御座いますから貸して頂きたいもので御座います」。「よし/\。しかし内のは定紋がついているが、それでも良いか?」。「結構で御座います。そこで老爺さんは、上等の重箱と上等の伏紗とを借りて、ニコ/\して家に帰って来た。しかして翌くる朝一番早く起きて赤飯を炊き、先ず旦那の所へ一番先に上げ、それから近所へ配って目出度く祝を済ました。性来堅い老爺さんであるから、配りがすむと早速その重箱を丁寧に洗い、塵一つ葉止まらぬ様に奇麗に/\拭いて旦那の所へ返しに行った」。
 「元より貧乏であるから、御礼と言っても何も持って行く様なものはない。そこで仕方がないから、途中で饅頭を買って重箱につけて、誠に有難う御座いました。これは誠に粗末なもので御座いますが、何御不自由ないところ、坊ちゃんに一つ上げて頂きたい、と言って出すと、旦那は、それは滅相な事だ。己の内にあっても未だ一度も使った事はないが、お前のお陰であそこの内には良い物があると知らせて貰って有難い。折角のものだから貰って置く、と言うて、反対に礼を言うて老爺を帰した後で、慈悲深い旦那は義理堅い老爺が重箱を返し来たことから、村の作兵ェ(仮名)に貸して置いた重箱の事を思い出し、番頭を呼んで重箱は返して来たかどうか訊ねた。番頭の言うには、実はあそこの内は、今まで二度も三度も催促にやったので御座いますが未だ持って参りません。今直ぐ丁稚に取りやらせましょう、と言って、早速丁稚を呼んで作兵ェのところへ催促にやった。丁稚の行った時は、作兵ェ夫婦は外へ出て農事をしていたが、上って来て、小僧さん、度々足を運んで誠にすまなかったね。今直ぐ持って行くから宜しく言ってくれ。と言って、早速内へ帰って持って行ったが、その内は物を粗略に扱う内であるから、重箱の中には埃は溜まっている。赤飯の固まったのはついている。前の律儀の老爺とは雲泥の相違である。番頭は大変怒って、主人の前に出て、旦那様、この作兵ェは何時内の品物を借りて行っても、一度も満足のことをして返したことは御座いません。今度はあんな者には何も貸さないが宜しゅう御座います。慈悲深い旦那の言うには、これこれ番頭や、その様なこと必ず言うものではない。もし己の所で物を貸さんと言えば、村の者が差し支えるではないか。けれどもあんな者には、何時借りに来ても良い物を貸してやることはならん。悪い物を貸してやれ、と仰ったという事である」。
 「この話しは教祖が梅谷様に話し、私は梅谷様から聞いたのでありますが、この慈悲深い旦那と言うのは、とりもなおさず我々の天の親様をさして言われたものと思われます。天の親様の許にはどんな結構なものもある。なれどもこの作兵ェの様なことをして、この身上を返したら、又結構なものを貸して戴くことはできません。充分に磨き上げて返したら、親様もお喜びになりますし、又どんな結構な身上も貸して戴けます。皆さん、よう思案して頂きたい、と梅谷先生の御話しでありました」。

【増野鼓雪先生の「貸物借物の理」】
 
 「天啓によれば、人間は永劫の昔神に創造せられたのみならず、宿し込むのも月日、産れ出るのも月日の守護によって、この世に生を得、その生存も神の守護あって始めて全うするを得るのであるから、人間の身は神によって造られ神に依って保持されて居るのである。『これ人間の身は神よりの貸し物、人間からは借り物』と仰せられた所以である。

 身上(身体)が神よりの借り物であるならば、その借り主は誰であるか。これ云う迄もなく人間の霊にして、霊は神自らの分霊であるから、人間が霊に於いて生き霊を以て身上を使用すれば、身は自由用を得るのである。霊に於いて生くる小児に年と共に心が生ずる如く、人間も永き生死の因縁に依りて心を生じ、その心を以て身を使用するに至った、その心が普通云う所の我の内容なるが故に、『心一つが我がの理』となる。我がの理である心は、霊その儘の働きを為す場合と、霊と離れて働く時がある。靈の儘に心が身を使用する時、身は自由用を得るが、霊と離れて心が身を使用すれば、身は自由にならぬ。何故なら身は一人限りその霊に貸し與へられたので、我がの理たる心は借り主でないからである。従って身は靈の通りになっても心通りにならぬ。これ人間より見て神の貸物たる実證である。

 既に身上が神の貸し物なれば、身上以外のものは有形たると無形たるとを問わず一切借り物である。唯人間はこの世に於て借り物を支配する徳を賦與されて居るのみである。されば霊に於て使用したならば何時迄も借用ができるのであるが、霊ならぬ人間心たる我がの理に於て使用するので、時に神よりその使用を止めらるゝに至るのである。その神よりの禁止が人間の病気となり、不幸となって現れる。その病気不幸は人間の心通りにならぬ、我がの心通りにならぬは我が物でないからである。我が物でなければ借り物である。この貸物借物の教理が会得できねば、その他の本教の教理は一切分からない。それ故教祖はこの理を教えの臺とし、この教理を聞き分けて神の恩を知り、その恩に報いるのが神に仕える道であると仰せられた」。

(私論.私見) 増野鼓雪氏の「貸物借物の理」考

 増野鼓雪氏は、教祖の「貸物借物の理」をさらに推敲して、身上が神よりの借り物であるならば、その借り主は人間の霊であるとした上で、霊は神自らの分霊であるから、人間が霊に於いて生き霊を以て身上を使用すれば自由用を得ると云う。霊に於いて生くる小児に年と共に心が生じ、その『心一つが我がの理』としている。我がの理である心が、霊と親和するほどに自由用を得、霊と離れて働く行くほどに不自由になる。身は一人限りその霊に貸し與へられたので、我がの理たる心は借り主でない。身は靈の通りになっても心通りにならぬ。これ人間より見て神の貸物たる実證である、と云う。興味深い悟り方である。





(私論.私見)