「人にお話しをするにはなあ、我が身が心にしっかりと借りものということを治めておかなけりゃいかんで。借りものということよく教えてやってくれ。よくわからせてやるのやで」。 |
「助けてもらう者が、借りものということ心に治まれば、どんな病でも助けてもらうことができるのやで。心配いらん、案じ心持たぬよう」。 |
「お助けをさせて頂くのに、助ける者が誠の心で借りものという理しっかり心に治めておれば、後は神が働く程に、何も案じ心配はいらんで。誠の心でお話させてもらうのやで。これが恩返しになる道や。楽しんでつとめさせてもらいなはれや」。 |
「親の声一つが頼りやで。その声そのまま受ける心に神様が働らいて下さるのや。神様に働いてもらうには、借り物という理をよく心に治めて通らにゃ神様に働いてもらえんのや。人間心を捨てて通らしてもらわにゃいかんで」。 |
「借りものというは、身上を貸して頂いているのやから、よく悟らして頂いて、日々を通らしてもらうのやで」。 |
「借り物ということがよく分かれば、どんな病でもすぐに御守護下さるのやから、お助けには、借り物という事、神様から身体を貸してもらっているという理を、人間思案に囚われず、只々ありがたい結構やと思うてお話をさせてもらいなはれや」。 |
「日々通るには、真実の心になって、かりものという理しっかり心に治めて、親の心に添ってつとめさせて頂くのやで。その心になって通れたら自由用の守護が頂けるのや」。 |
「人間はなあ、みんな神様からからだを借りているのやで。それを自分のもののような心で日々使うて通っている。それでは申し訳ないのやで。自分のものと思うて使うて通るから、頂ける守護も頂けなくなるのやで。この理よう思案してくれ」、「かりものという理は、日々通らせて頂いている心の中に、常にもたせてもろうていなけりゃならんのやで」。 |
「身上事情で悩み苦しむ時、借りものということをすぐ心に思わにゃいかんで。借りものという理が心に治まれば、どんな中でも助けて下さるのやで」。 |
「借りものというは、常に借りているということ忘れずに、一日一日をありがたい、結構やと思うて通らせてもらうのや。その心やったら、どんな危ない中も、大難は小難、小難は無難に連れて通って下さるで」。 |
「身上の中でも事情の中でも、借りものという理一つ心に治まれば、ない寿命もつないで下さるで。人間の力でどうにもならんもんでも治めて下さる守護が頂けるのやで」。 |
「借りものという理しっかり心に治めて日々通ってくれ。心に治まれば、どんな道でも案じない。案じ心持たぬよう」。 |
「神様は人間を創り、その人間がよふきぐらしをするのを見て、共に楽しもうと思し召され、人間世界をお初めなされたのや。だから人間は日々通らせて頂くのに、神様に喜んで頂けるような日々を通らにゃいかんで」。 |
「神様に喜んでもらえるような日々とはなあ、まず借りものという事をよく心に治めることや。心に治めるというは、神様から身上を貸して頂いているという事をよく心に治めることや。そうして真実の心にならせてもろうて、親の心に添うてつとめるのや。これが一番神様に喜んでもらえる道やで。この心で日々通らせてもらいなはれや」。 |
「神様にどんなにお礼させてもろうても、これでいいということはないで。日々の御恩は日々にさせてもらわにゃいかん。日々にさせて頂くことが、日々結構に通らせて頂ける道になるのや。身上でも事情でも御守護頂ける道は只一つや。借りものという理、心に治めてしっかり通りなはれや」。 |
「借りものという理知らずして、日々通っていると身上にお知らせ頂いても、なかなか御守護頂けないで。親の心に添うこと出来んかったら、どんな事で苦しい道を通らにゃならんかも知れん。そんな道通っているなら、何も神様のお話はいらん。神様のお話は、借りものということをよく分からして頂くために聞かして頂くのや。親の心に添わして頂くために聞かしてもらう話やで。お話を聞かしてもらっておきながら、勝手な道を歩むようであったなら、御守護やりとうてもやれへんやないか。ここのところ、よう思案してくれ」。
|
「神様のお話を聞かしてもろうているのやから、日々を喜び勇んで、借りものという理をしっかり心に治めて、親の声をしっかり聞かしてもらい、親の言う通りにさせてもろうたら、どんな御守護もお与え下さるで。いらんと言うてもきっと下さるのやから、御守護頂けんと言うていたら申し訳ないことやで」。 |
「借りものという理心に治まったら、どんな中でも神様は連れて通って下さるのやで。いくら口で説いたとて、その心にならにゃ何にもならん。心に治まったなら、ない命でもつないで下さるで、心配いらん。日々通る心の持ち方が難しいのや」。 |
「借りものという理、心に治まれば、身上でも事情でも御守護頂けるのや。借りものという事よくしっかり心に治めてくれ」。 |
「人間心に囚われぬようお話をさせてもらうのやで」、「定めさすというても、自分の心に浮かんだ事を浮かばしてもろうたと思うてお話をすることがいかんのや。定めさすことは、借りものということより他に何もないのやから、よくわかるように話してやってくれ」、「借りものというは、神様から身体を貸して頂いているということなのやから、この理をよう思案させてもらうのやで」。 |
「ひくい、やさしい、素直な心、いくら自分がその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん。人に与えるというは、人に喜んでもらう、人に助かってもらう道を通ることやで。この心で日々通れたら、どんな中でも連れて通るほどに。人間はあざないものであるから、日々その心で通らしてもらわにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心遣いから、我が身さえ、我が身さえと思い、我が身さえよければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護頂けるはずはないで。我が身どうなってもという心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや。案じ心を捨てて、人の喜ぶよう、人の助かるような道を通りなはれや。人助けたら我が身助けてもらうこと出来るのやで。人間はなあ、みんな神様からからだを借りているのやで。それを自分のもののような心で日々使うて通っている。それでは申し訳ないのやで。自分のものと思うて使うて通るから、頂ける守護も頂けなくなるのやで。この理よう思案してくれ。かりものという理は、日々通らせて頂いている心の中に、常にもたせてもろうていなけりゃならんのやで」。 |
「日々通る身上についての心の持ち方はなあ、人間は、いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで。身上事情で悩み苦しむ時、かりものということをすぐ心に思わにゃいかんで。かりものという理が心に治まれば、どんな中でも助けて下さるのやで。かりものというは、常に借りているということ忘れずに、一日一日をありがたい、結構やと思うて通らせてもらうのや。その心やったら、どんな危ない中も、大難は小難、小難は無難に連れて通って下さるで。身上の中でも事情の中でも、かりものという理一つ心に治まれば、ない寿命もつないで下さるで。人間の力でどうにもならんもんでも治めて下さる守護が頂けるのやで。かりものという理しっかり心に治めて日々通ってくれ。心に治まれば、どんな道でも案じない、案じ心もたぬよう。親の心に添わしてもらうには、我が身思案を捨てにゃいかんで。我が身どうなってもという心で親に添い切るのや。我が身思案から、ああもこうもと心を使う。人間心で聞いて、あれやこれやと思案する。なんぼ聞いても同じことやで。そんな心やったら、親の心に添うこと出来ん。親の声聞いたら、そのまま受ける心に神がはたらくのや。親の声聞いて、頼りないと思うたら、頼りなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神が連れて通るほどに」。 |
明治10年11.28日、側な者に対する教祖直々のお諭し「教祖口伝」。
「つくすというは、金や物を尽くすだけを言うのやない。身上かして頂いているというご恩を報じる心が、つくしというて果たしになるのやで。借りものという理わからねば、つくしようがあるまい。人間心にとらわれぬようお話をさせてもらうのやで。定めさすというても、自分の心に浮かんだ事を浮かばしてもろうたと思うてお話をすることがいかんのや。定めさすことは、借りものということより他に何もないのやから、よくわかるように話してやってくれ。借りものというは、神様から身体を貸して頂いているということなのやから、この理をよう思案させてもらうのやで。借りものというは、身上を貸して頂いているのやから、よく悟らして頂いて、日々を通らしてもらうのやで。借りものという事がよくわかれば、どんな病でもすぐに御守護下さるのやから、お助けには、借りものという事、神様から身体を貸してもらっているという理を、人間思案に囚われず、只々ありがたい結構やと思うてお話をさせてもらいなはれや」。 |
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明治10年11月2日夕刻、辻忠作、仲田儀三郎、山澤良治郎。「お屋敷のお掃除をみんなでさせて頂きたいと申し上げた処、日々通る中に心にもない通り方をしてはいかんで。この道は人にさせる道やないで。銘々一人/\が自分からつとめさせて貰う道やから、人がどうのこうのと言うやないで。人間は(女の人は)自分がすると、人にもさせたくなるものやが、何ぼ人にさせようと思うてさせても何にもならん、人がさせて頂かなけりゃと思う心になるようにしてやってくれ。それには時というものがあるで、時ということよく心に治めておかにゃいかん、時をはずして何をしても何もならん。種を蒔くときには種をまかにゃいかん、さむいあついと言うて、今忙しいからというて時をはずしたら、いい芽はでてこないで。時をはずさぬよう、よく教えてやってくれ。自分がつとめさせて貰う時でも、人にもさせようと思う心持ったらいかんで。人には借りものという事わからせてやったらつとめて貰える、なんぼさせようと思うても、借りものという事わからねばなんにもならん。銘々が運ばして貰い、つとめさせて貰うておるうちに人はついてくるで」。 |
明治10年11月23日 (氏名なし)、(願いの筋なし)「 つくすと言うは、金や物をつくすだけを言うのやない。身上をかして頂いているという恩を報じる心をつくすのがつくしというて果しになるのやで。借りものという理わからねばつくしようがあるまい。人間心にとらわれぬようお話をさせてもらうのやで。定めさす/\と言うても、自分の心に浮んだ事をうかばして貰うたと思うてお話をすることがいかんのや。定めさすことは、借りものという事より他に何もないのやから、よくわかるように話してやってくれ。借りものというは、神様から身体を貸して頂いているという事なのやから、この理をよう思案させて貰うのやで。借りものというは、身上をかして頂いているのやから、よくさとらして頂いて、日々を通らして貰うのやで。借りものということがよくわかれば、どんな病いでもすぐに御守護下さるのやから、お助けには、借りものということ、神様から身体を貸して貰うておるという理を、人間思案にとらわれず、たゞ/\有難い結構やと思うてお話をさせてもらいなはれや。お助けさせてもらうに一番大事な心使いやで」。 |
明治10年11月23日、桝井伊三郎、村田幸右衞門、辻忠作。(願いの筋なし)。「日々通るには、真実の心になって、借りものと言う理しっかり心に治めて、親の心にそってつとめさせて頂くのやで。その心になって通れたなら自由用の御守護が頂けるのや。真実とは、弱いものゝように思うけど、真実ほど強いものはないで。人が人を動かすこと難しい、なれど真実なら神がうごかすで。人を助けるのも真実、その真実には神がはたらくのや。人が人を助けるのはむづかしい。なれど真実なれば神が助けさす。真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで。口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心というていても、その心にならなけりゃなんにもならんで。日々通っている中に、我が身は誠やまことやと思うて通っていても、誠の中のほこりという道もあるで。よう思案して通らして貰うのやで。日々真実の心で通らして貰えたらなら、家々むつまじゆう暮させて頂くことが出来るのやで。めい/\我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や、真実やと思うて通っていても、心に真実なくばなんにもならん。目にも見えん、形にもあらわれんもの、心にその理なくばならん。人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで。低いやさしい素直な心、いくら自分がその心やその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん。人に与えると言うは、人に喜んで貰う、人に助かって貰う道を通ることやで。この心で日々通れたなら、どんな中でもつれて通るほどに。人間はあざない者であるから、日々その心で通らして貰わにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心使いから、我が身さえ我が身さえと思い、我が身さえ良ければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護いたゞける筈はないで。我が身どうなってもと言う心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや。案じ心を捨てゝ人の喜ぶよう人の助かるような道を通りなはれや。人助けたら我が身助けて貰うことできるのやで。人間はなあ、みんな神様から身体を借りているのやで。それを自分のものゝような心で日々使うて通っている、それでは申訳ないのやで。自分のものと思うて使うて通るから、頂ける守護も頂けなくなるのや。この理よう思案してくれ。借りものと言う理は、日々通らせて頂いている心の中に、常にもたせて貰うていなけりゃならんのやで。日々通る身上についての心の持方はなあ、人間はいやなもの見るとすぐにいややなあと思い、いやなこと聞くとすぐにいややなあと思う、その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、あゝ見えてよかった、めくらでのうてよかった、有難い結構やと思うて通らして貰うのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、いつの日いつの時でもそう言う心で通りなはれや。その心使いが自由用の守護が頂ける道になるのやで、むつかしいことないで。身上事情でなやみ苦しむとき、かりものと言うことをすぐに思わにゃいかんで。借りものという理心に治まれば、どんな中でも助けて下さるのやで。借りものというは、常に借りているということ忘れずに、一日一日を有難い結構やと思うて通らせて貰うのや。その心やったらどんなあぶない中も大難は小難、小難は無難につれて通って下さるで。身上の中でも事情の中でも、借りものと言う理一つ心に治まれば、ない寿命もつないで下さるで。人間力でどうにもならんもんでも、治めて下さる守護が頂けるのや。借りものと言う理、しっかり心に治めて日々通ってくれ。心に治まればどんな道でも案じない、案じ心もたぬよう親の心にそわして貰うには、我が身思案をすてにゃいかんで。我が身どうなってもと言う心で親にそいきるのや。我が身思案から、あゝもこうもと心を使う、人間心で聞いてあれやこれやと思案する、なんぼ聞いても同じ事やで。そんな心やったら、をやの心にそうこと出来ん。をやの声きいたら、そのまゝうける心に神が働くのや。をやの声きいて、たよりないと思ったらたよりなくなる。をやの声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神がつれて通る程に、人間心だすやない。もたれる心に神が働くのや。案じないをやの心にそうて通るなら、どんなことでもうけとるで。うけとる中に自由用という理があるのや。自分の身どうなってもという心で親にそいきる心、この心で通りたなら十分の理、十分の理は結構づくめやで。親の心にそうて通るなら、ならん中、通りにくい中、その中を運び、果して行く処に道がつく。あの中でもよう通る、ようつとめるなあと言われる処まで道をつけるのや。その道はらく/\にあるける道。親の心にそうこと出来ず、勝手気まゝな心使いから、親をつぶして親にさかろうて通るから身がたゝなくなる、この理よう思案してくれ。親の心にそわずして、親の心ころして通るもの、人間心で通るもの、勝手な道を歩むもの、なれど一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさん、親という理わすれぬよう、親の心にそうて通らにゃいかんで」。 |
明治10年11.28日、枡井、村田、辻に対する教祖直々のお諭し「教祖口伝」。
「日々通るには、真実の心になって、借り物という理しっかり心に治めて、親の心に添ってつとめさせて頂くのやで。その心になって通れたら自由用の守護が頂けるのや。真実とは弱いもののように思うけれど、真実ほど強いものはないで。人が人を動かすことむずかしい、なれど真実なら神がうごかすで。人を助けるのも真実、その真実には神が働くのや。人が人を助けるのはむずかしい。なれど真実なれば神が助けさす。真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで。口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心と言うても、その心にならなけりゃ何にもならんで。日々通っている中に、我が身はまことやまことやと思うて通っていても、まことの中のほこりという道もあるで。よう思案して通らしてもらうのやで。日々真実の心で通らしてもらえたなら、家々むつまじゅう暮らさせて頂くことができるのやで。銘々我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や真実やと言うて通っていても、心に真実なくば何にもならん。目にも見えん、形にも現れんもの、心にその理なくば何にもならん。人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで」。 |
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明治12年3月4日、桝井伊三郎、村田幸右衞門、辻忠作、飯降伊蔵。(願いの筋なし)
「つくすと言うは、金や物をつくすだけを言うのやない。身上かして頂いていると言う恩を報じる心をつくすのが、つくしと言うて果しになるのやで。借り物という理わからねばつくしようがあるまい。段々恩がかさなるばかりやで。この理よう思案して、つとめなけりゃいかんで」。 |
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明治12年7月5日夕方、村田幸右衞門。「この神様はどういう神様でございますか」と尋ねられた処、この神様はなあ、元の神といゝ実の神様やで。元の神様とは拝み祈祷の神やない。元こしらえた神というて、元々何にもなかった処から、人間をはじめ、すべてのものを造り創められた神様や。実の神というはなあ、真実の神ということやで。すべてのものをおつくりになったというだけでなく、それ以来常に変わらず不思議なお働きによってあらゆるものを育て、温い恵みをもって御守護下される神様や。人間をおつくり下されたおぼし召し通りに通らせて頂くことが出来るようにと、直き/\にこの世へお姿を現わされた真の神やで。神様は人間をつくり、その人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しもうと思召され、人間世界をお創めなされたのや。だから人間は日々通らせて頂くのに、神様に喜んで頂けるような日々を通らにゃいかんで。神様に喜んでもらえるような日々とはなあ、先ず借りものということをよく心に治めることや。心に治めるというは、神様から身上をかして頂いているということをよく心に定めることや。そうして真実の心にならせて貰うて、親の心にそうてつとめるのや。これが一番神様に喜んで貰える道やで、この心で日々通らせて貰いなはれや。神様にはどんなに御礼させてもろうても、これでいゝということはないで。日々の御恩は日々にさせて貰わにゃいかん。日々にさせて頂くことが、日々結構に通らせて頂ける道になるのや。身上でも事情でも御守護頂ける道は只一つや、借りものと言う理心に治めてしっかり通りなはれや」。 |
明治14年2月7日〜8日、辻忠作、村田幸右衞門、山澤良治郎。(願いの筋なし)。
「日々通らして貰うていても、いろいろ人の通る道はある、その中で神様によろこんで貰う道を通るのやで。神様に喜んで貰う道は真実だけや。真実というても自分だけが真実やと思うていてもなんにもならん。真実とは、ひくい、やさしい、すなおな心をいうのや。自分でひくいと思っているうちはひくくはないで。やさしいというても、すなおというても同じこと、人にあの人は真実の人やといわれる迄の道を通るのやで。すなおと言うてもなあ、人の心をひくような素直はなんにもならん。神様に喜んで貰えるような素直というのは、をやの言うなり、するなりにして貰う心にならなけりゃいかんで。やさしいと言うても口だけではなんにもならん、はいと言うたらすぐおこなってこそやさしいのやで。そうして何でもつとめさせて貰う心をひくいと言うのやから、その心で日々通らにゃいかんで。口だけの真実やったら神様はなあ、喜んで下さらんのや。神様のお話をよく聞かして貰うのやで。神様のお話とはをやの声や。をやの声というていゝかげんに聞いていてはならん、しっかり心に治めなはれや。真実の心と言うても昨日も話をして居ったのや。丸ごとでなきゃいかんで。丸ごととは全部や、一切を引き受けさせて頂きますという心や。庭の掃除一つさせて頂くのも自分、我が身一人一人がさせて貰うのや。多数の人でやったら自分の徳にはならんで。だがなあ、徳をつまして貰うという心はいかん。これは我が身のためやからなあ、なんでも人のため、我が心は人の喜ぶよう、人の助かるような道を通ればよいのやで。我が身のことは何にも考んでよいのや、これが丸ごとの真実やで。人に腹を立たせて下さるな。親の心にそうと言うても形だけやったらいかん、心をそわして頂くのやで。どんなに離れていても心は親に通じるものやで、心をそわして貰いなはれや。親の心にそわして貰うて日々通って居たら、身上事情で苦しむような事はないで。だが因縁なら通らにゃならん道もあろう、しかし親の心にそって通らして貰うているなら、何にも身上や事情やというて案じることはないで、心倒さんように通りなはれや。この世に病というはさらにない、心の埃りだけや。心を倒すのが病い、倒さんのが身上というて花や。人間思案で通るから倒れるのや、人間思案だすやない。人間思案すてるには親の心だけがたよりやで、親の声何でも素直に聞かして貰わにゃいかんで。借りものという理知らずして日々通っていると、身上にお知らせ頂いても仲々御守護頂けないで。親の心にそうこと出来んかったらどんな事で苦しい道を通らにゃならんかも知れん。そんな道通っているなら何も神様のお話はいらん、神様のお話は借りものと言うことをよくわからして頂くために聞かして頂くのや。親の心にそわして頂くために聞かして貰うお話やで。お話を聞かしてもろうときながら勝手な道を歩むようであったなら、御守護やりとうてもやれへんやないか、こゝの処よう思案してくれ。神様のお話を聞かして貰うているのやから、日々を喜び勇んで、借りものという理をしっかり心に治めて、をやの声をしっかり聞かして貰い、親のいう通りにさせて貰うたなら、どんな御守護もお与え下さるで。いらんと言うてもきっと下さるのやから、御守護頂けんと言うていたら申訳ないことやで。をやの言う通りにせんで御守護頂けないと言うて日々通っている、そんな事で人に喜んで貰う、人に助かって貰う道が通れるか、よう思案してみい、申訳ないと思うたらすぐに心いれかえてつとめなはれや、御守護下さるで」。 |
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明治15年4月5日 梶本松治郎、仲田儀三郎、岡田与之介。(願いの筋なし)。
「借り物という理心に治ったなら、どんな中でも神様はつれて通って下さるのやで。いくら口でといたとてその心にならにゃ何にもならん、心に治まったなら無い命でもつないで下さるで、心配いらん。日々通る心の持方がむつかしいのや。日々通る心の持方は自分勝手な心使い、気ずい気まゝな心使いでは御守護は頂けないで。気ずい気まゝな心使いで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない、こんなことはわかっているやろ、ここの処よく思案してくれ。借り物という理心に治まれば、身上でも事情でも御守護頂けるのや。借り物ということよくしっかり心に治めてくれ。借り物という事は、神様からこんな結構な身体を借りていると言うことをよく心に治める事やで。これがわかればそれでよいのや。よく心に治まれば、どうして御礼をさせて頂こうかと思えてくるで。その思えて来たことをそなえさせてもろうのや」。 |
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明治15年9月12日、桝井伊三郎、辻忠作、村田長平。(願いの筋なし)。
「日々に埃の心つこうて通るから御守護が頂けないのやで。人の心にいやな思いをさせる、何でもないように思うて通っているやろうが、それは人の心をころしているのと同じこと。目に見えない埃り日々につんでいったら身上にもなろう、事情もあらわれてもきよう、みな我が身が苦しむことになるのやで。日々に通らせて貰うには、むつかしいことは何もない、只真実の心で借りものという理をしっかり心に治めて、有難い結構やというて、思うて明るい心で通ってくれ。神様が必ず御守護下さるで。日々に、朝起き、正直、働き、この三つを心において通らして貰うのやで、結構な日々が通れるで。借りものという事わからねばこの道は通れないで」。 |
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明治17年2月4日、桝井伊三郎、高井直吉、岡田与之介(宮森与三郎)。(願いの筋なし)。
「人を助けさせて頂くには、日々の心づかいが大事やで。日々の心づかいによっては、助けさせて頂く事ができるような時にでも、助けさせて頂くこと出来ないで、この理よう思案してくれ。助けて頂く者も真実の心になって、お話を聞かせて頂いて、借りものと言う理をよくさとらせて頂くことやで。借りものと言う理心に治ったら治ったゞけ、御守護頂けるのやから、なにも心配いらん。(行空き)さづけという理は、めい/\の心にあるもの、日々の通る心づかいがあらわれるもの。心の使い方によって理のあらわれがかわってくるで。さづけの手ぶりがきくのやない、理がきくのやで。(行空き)日々通らして貰うには、人のあしきを言わぬよう、人のあしきを思わぬよう。人にあしきを思わせぬよう、この三ッの心がけが大事やで。この心がけ一日に一回つこうても三日の間さづけの理はとまるで」。 |
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明治18年3月14日、松村栄治郎。(願いの筋なし)。
「親の心ころして通る者、人間心で通る者、勝手な道を歩む者、なれど一度は許す、二度は助ける、三度は許さん。定めさせる心も、定める心も同じでなきゃならんもの。定めさす心は借物ということほかにないで、よくわからせるのやで。定める心も借ものという事よく心に治め、その心で日々通らせて頂くことを定めるのやで。その心定まったならどんな中でも自由自在やで。心を定めさすのはなぁ、あれせいこれせいと言うのやないで。自分の心に思ったこというたらいかんで。神様のお話をさせて貰うのやで。神様のお話というは、借りものということしかないで。この借りものということ心にしっかり定めさせてやってくれ。定めさすというはそれだけや、他に何もないで。定める、定めさすとよう言うておるが、定めるとか定めさすということは、借りものという事より他に何もないで。借りものと言う理が心に治まれば、あとはつれて通ってもらえるで」。 |
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昭和56年3月号みちのとも「救けと親孝心一条の信仰」の堀越義男「神様の話というのは」。
「ある日、一高弟が、只今よりおたすけに出さして頂きます、と教祖にご挨拶されると、教祖は、『神様の話というのはな、貸し物借り物の理より外ないで。この理よう心に治めさせてやってくれ』、とお助けの根本精神をお聞かせ下された。また、ある日、側近の人々に、教祖は、『この道は話一条が助けの台、お話は嫌という程聞いておけ。嫌という程聞かせておけ。まさかの時には浮かぶで』、とお聞かせ下されたという」。 |
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手記一の七八頁「かしもの・かりもの」(昭和48年8月発行「山田伊八郎文書〜(教話)」352p)。
「『人間身の内は神様の貸し物や。心一つは人間にあたえきりた』、と仰せられ、『身の内の貸物借物の理はちょっとわかりにくい、それでなんべんでも/\聞かしてやってくれ』と仰せられ、『身の内の水気、世界の水は国常立の命様の御守護、身の内のぬくみ、世界の火は面足の命様の御守護や、この二神は月日様や』。手足の皮を摘まみ上げて、『この皮と世界のつなぎとは、この国狭土の命様の御守護や』。骨をつかみて、『この骨と世界のつうぱるものは、この月読の命様の御守護や』、と諄々と仰せ下された」。 |
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