その1 教祖の回天論その1、上、下論。その2、高山、谷底論。

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.29日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖の回天論その1、上、下論。その2、高山、谷底論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


教祖の回天論その1、上、下論
 論じられることが少ないが、御神楽歌、お筆先には「上、高山、下、谷底、日本、唐、天竺」なる表現が相当の分量で記されている。あまりに分量が多いので、これを仕分けして説かざるをえないほどである。これをどう拝するべきかが問われている。以下、れんだいこ流に解する。

 これを仮に「みき教理の回天論」と命名する。その1は「上、下論」である。その2は「高山、谷底論」である。その3が「日本、唐、天竺論」である。その4が「日本根(ね)の国、外国枝(ゑだ)の国論」である。「みき教理の回天論」はこの四本柱構造で成り立っている。

 ここではその1「上、下論」を考察する。「みき教理の回天論」が、その1、その2の「上、下」、「高山、谷底」をどう識別しているのかはっきりしない。これを論じた論考にお目にかかることもない。そこで、れんだいこが次のように推論しておく。「上、下」は、「上」が「役人としてのお上」、「下」が「下々」の略語ではなかろうか。即ち、日本の伝統的国家的支配秩序としての「上」を「役人」、「下」を「上に支配される下々」と理解する。「高山、谷底」は、「上、下」に被るけれどももっと大きな概念であり、「高山」を日本の社会的身分的支配秩序としての役人を含む各界の上層上級民」、「谷底」を「社会の底辺に位置して生業する民衆」と理解する。もっと端的に云えば、「高山」は「お金持ち、又は身分の高い人」(社会的立場の高い上流階級や富裕層の人々。支配者階級の権力を持つ人々)であり、「谷底」は「貧乏人、又はその日暮らしを余儀なくされている人」であろう。教祖は、このような意味での使い分けをしているのではなかろうか。

 着目すべきは、教祖が、とりわけて谷底救済を説いたことである。その逆に「上、高山批判」に能弁であった。これがお道教理の白眉なところであるのに、本部教理は曖昧模糊とさせている。未だ応法下にあると云うことであろう。
 その1「上、下論」につき、御神楽歌、お筆先には次のように記されている。 その2「高山、谷底論」、その3「日本、唐、天竺論」と被っている句はそちらに譲る。
 この先は 上たる心 段々と
 心しづめて 和睦なるよう 
一号19
 これからは 往還道を つけ掛ける 
 世界の心 皆な勇めるで
二号1
 上たるは 心勇んで 来るほとに
 なんどきにくる 刻限が来た
二号2
 茶摘んで 後刈り取りて しもたなら
 後へ出でるのは 陽気づとめや
二号3
 このつとめ どこから来ると 思うかな
 上たるところ 勇み来るぞや
二号4
 段々と 神の守護うと 云うものは 
 珍しことを 皆なしかけるで
二号5
 までハ 上たる心 分からいで
 世界並みやと 思うていたなり
二号35
 これからは 神が体内 入り込んで
 心澄みやか 分けて見せるで
二号36
 日々に 寄り来る人に ことわりを
 言えば段々 尚も増すで
二号37
 上たるは 段々世界 ままにする
 神の残念 何と思うぞ
三号58
 これからは 神の心と 上たるの
 心と心の 引き合わせする
三号81
 この話し 一寸のことやと 思うなよ
 神が真実 見かねたるゆえ
三号82
 これからは 神の力と 上たるの
 力比べを すると思えよ
三号83
 上たるを 恐いと思うて いずみいる
 神の急き込み 恐みないぞや 
三号102
 今の道 上のままやと 思うている
 心違うで 神のままなり
三号120
 上たるは 世界中を ままにする
 神の残念 これを知らんか
三号121
 これまでは よろづ世界は 上のまま
 もうこれからは 文句代わるぞ
三号122
 この世うを 始めてからは 何もかも
 説いて聞かした ことはないので
三号123
 上たるは 世界中を 我がままに
 思うているのは 心違うで
三号124
 一列に 早く助ける この模様
 上下共に 心勇めて
三号142
 日々に 神の心は 段々と
 上の心に 早く見せたら
四号15
 上たるは 何も知らずに 唐人を
 従う心 これがおかしい
四号16
 日々に 神の心の 急き込みは
 唐人ころり これを待つなり
四号17
 今までの 牛の先道 思うて見よ
 上たるところ 皆な気をつけよ
四号18
 内なるは 上を思うて いづみいる
 恐みないぞや 神の請け合い
四号69
 この世うを 納も上 天も神
 上と神との 心分けるで
四号104
 この世うを 初めてからに 何もかも
 上へ教えた ことはあるまい
四号111
 このたびは 何かよろづを 上たるへ
 知らしておいた ことであるなら
四号112
 それからは 中には思案 するもあり
 皆な寄り寄うて 話ししたなら
四号113
 その中に 真実心 頼もしい
 思うて思案 する者もある
四号114
 この道を 上へ通りた ことならば
 神の自由よう すぐに表わす
四号115
 この道を 掘りきり通り 抜けたなら
 上下共に 心勇むで
五号67
 上たるは それを知らずに 何事も
 世界並みやと 思うているなり
七号3
 このところ 元なるぢばの ことならば
 始まり出しを 知らんことなし
七号4
 上たるへ この真実を 早々と
 知らしてやろうと 月日思えど
七号5
 上たるは それを知らずに 銘々の
 我が身思案を ばかり思うて
七号6
 上たるの 心速やか 分かりたら
 月日自由よう 早くするのに
七号63
 それ知らず 何と思うて 上たるは
 胸が分からん 月日残念
十号90
 今までは 上には何も 知らんから
 差止めばかり 意見したれど
十四号87

 教祖は次のようにお諭しなされている。

 「下から道をつける」。
 「ある人が、「道も高山につけば、一段と結構になりましょう」と問うたのに対して、教祖が宣べられたお言葉。上から道をつけては、下の者が寄りつけるか。下から道をつけたら、上の者も下の者も皆つきよいやろう高いところの土持ちいらん。低いところの土持ち頼む」。
 お指図には次のような御言葉がある。

教祖の回天論その2、高山、谷底論
 その2「高山、谷底論」につき、御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 高山の お池に沸いた 水なれど
 出端は濁り 五目混じりで
二号25 
 段々と 心しづめて 思案する 
 澄んだる水と 代わり来るぞや
二号26
 山中の 水の中へと 入りこんで 
 いかなる水も 澄ますことなり 
二号27
 日々に 心尽くする その方は 
 胸を治めよ 末は頼もし
二号28
 これからは 高山池へ 飛び入り
  いかな五目も 掃除するなり
二号29
 高山に 火と水とが 見えてある
 誰が目えにも これが見えんか
二号40
 高山の 説教聞いて 真実の
 神の話を聞いて 思案せ
三号47
 高山は 世界一列 思うよう
 まヽにすれども 先は見えんで
三号48
 高山に 育つる木も 谷底に
 育つる木も 皆な同じこと
三号125
 今までは 高い山やと 云うたとて
 用木見えた ことはなけれど
三号140
 この先は 高山にても 段々と
 用木見出す 模様するぞや
三号141
 高山の 説教聞いて 真実の
 神の話を聞いて 思案せ
三号148
 今までは 高い山やと 云うてある
 谷底にては 意見ばかりを
四号120
 これからは 高山にても 谷底も
 元始まりを 云うて聞かする
四号121
 見えるのも 何のことやら 知れまいな
 高い山から 往還の道
五号57
 それ知らず 高山にては 何もかも
 何と思うて ままにするぞや
六号66
 何事も このところには 人間の
 心は更に あると思うな
六号67
 どのような ことを云うにも 筆先も
 月日の心 指し示すばかりで
六号68
 高山は 何を云うても 思うにも
 皆な人間の 心ばかりで
六号69
 月日より つけた名前を 取り払い
 この残念を 何と思うぞ
六号70
 真実の 月日立腹 残念は
 容易なることで ないと思えよ
六号71
 今までは 高い山やと はびかりて
 何かよろづを ままにしたれど
六号72
 真実に 返しと云うは このことや
 高山は皆な 承知していよ
六号79
 それ知らず 今のところ 高山は
 皆なはびこりて ままにしている
六号89
 この月日 第一これが 残念な
 どんな返し するや知れんで
六号90
 この世界 山ぐえなぞも 雷も
 地震大風 月日立腹
六号91
 どのような 大社高山 油断しな
 何時(なんどき)月日 飛んで出るやら 
六号92
 この返し 大社高山 取り払い
 皆な一列は 承知していよ 
六号115
 どのような 高い山でも 水がつく
 谷底やとて 危なげはない
七号13
 どのような 高いところと 云うたとて
 月日のたあには 皆な我が子
八号64
 どのような 高いところの 者やとて
 自由よう次第に 話しするなり
八号88
 日々に 高山にては 段々と
 どんなことをば 頼み訪ねる
十二号168
 しかと聞け 高山にても 谷底も
 見れば月日の 子供ばかりや
十三号26
 高山に 暮らしているも 谷底に
 暮らしているも 同じ魂
十三号45
 月日より 真実思う 高山の
 戦い災禍 治めたるなら
十三号50
 この模様 どうしたならば 治まろう
 陽気尽くめに 出たることなら
十三号51
 この心 誰が云うとは 思うなよ
 月日の心 ばかりなるぞや
十三号52
 このつとめ 高山にては 難しい
 神がしっかり 引き受けをする
十三号53
 しかと聞け 高山やとて 谷底を
 ままにしられた ことであれども
十三号56
 高山で どのよなものが はびかるも
 この真実を 誰も知るまい
十三号.97
 この話し どこのこととも 云わんでな
 高山にても 谷底までも
十三号109
 今日までは 大社高山 はびこりて
 ままにしていた ことであれども
十四号30
 これまでは 高山からは 何もかも
 どんな指図も 受けたなれども
十四号43
 この世界 高山にても 谷底も
 親のたには 子供ばかりや
十四号53
 今までは 高山やとて けんけんと 
 ままにしていた ことであれども
十五号57
 これからは 如何ほど高い 山でもな
 谷底ままに 更にでけまい
十五号58
 このことは 高山にても 谷底も
 油断なきよに 心定めよ
十五号71
 高山も 谷底までも 世界中
 一列を皆な あっちこっちと
十六号62
 いかほどの 高いところと 云うたとて
 もう今日からは 文句代わるで
十六号78
 この先は 世界中はどこまでも
 高山にても 谷底までも
十七号61

 教祖は次のようにお諭しなされている。

 「諸井政一集後篇/御講話傍聴録三」。
大社、高山取り払い、心の高山取り払い、心のたかびく(高低)ないやうに、心ろくぢに踏み均(なら)す、神の思惑」。
 諸井政一「正文遺韻」119頁。
 「今までの長者というは、金持ちが長者や。長者一夜にも倒れるで。これからの長者は、ころりと違うで」。
 お指図は次の通り。





(私論.私見)