科学観、労働観、天地自然観

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「科学観労働観天地自然観」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【科学観、労働観、天地自然観】

 教祖は、「科学観、労働観、天地自然観」につき次のような見識を見せている。御神楽歌、お筆先には次のように記されている。

 段々と 何事も この世は
 神の体や 思案して見よ
三号40、135
 月日より たん/\心 つくしきり
 そのゆへなるの にんけんである
六号88

 教祖は次のようにお諭しなされている。

 概要「ある時、『私どもの住んで居るこの世界の広さはどれくらいのものでございましょうか』と尋ねたところ、教祖は次のように答えられている。『この世界は広いで。丁度、人間が両手両足広げたぐらいの広さがあるのやで。そこをよく思案してごらん。この世界の真ん中には熱気がある。我々人間の体の中にも温みがあるやろ。同じ事や。世界の支えとなっている岩石は、人間の体で云えば骨やで。これも同じ理や。世界で岩石をおおっている土は、人間では骨をおおっている肉と同じや。世界の表面に生えている草木は、人間の体で云えば毛のようなもの。世界に通うている水脈は、人間で云えば血管が丁度それに当る。人間も息をして生きているが、世界の潮の満干は月日の呼吸やで』」。(松本滋「人間の元なるもの」)
 「諸井政一集」後篇84p御講話傍聴録二より。
 「『火は火や、水は水や。何でもないと思うていては違う。火と水とは一の神。なくてはならんものの一つ。間違うたら、どうにもこうにも人間の力で防げん。ここをよう思案せよ。さあ、そうなってきたら、いかな強欲(ごうよく)でも、悪気者(あっきもの)でも、そんな事どころではない。何もかも忘れて、まず第一に手を合わすやろ。さあ、手を合わしたら何と言う。‘’なむ‘’という言葉が先へ出るやろがな。‘’南無‘’は親々(月日/くにとこたち・をもたりのみこと)やで。いかな大水も、大火事も、大風も、皆なこれ‘’親の意見‘’やから、知らず知らず、親を呼び出して頼むというは、仏法というものを、人間の心を和(やわ)らげるために、教えておいたのやで』 と仰いました」。

 お指図には次のような御言葉がある。(略)

(私論.私見) 「教祖の科学観、労働観、天地自然観」について





(私論.私見)