【働く(傍楽、はたらく)の諭し】 |
お道教義では、独特の「働く(傍楽、はたらく)の諭し」がある。御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
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非常に明るい労働観であり、ユダヤ―キリスト教の聖書式の労働を苦と考える労働観ではないことが注目されよう。 又、教祖は次のようにお諭し為されている。昭和60.4月発行、高野友治著「教祖仰せには」18-31p。 |
教祖にお尋ねした。『人間はなんのために生れて来たのでしょうか』。教祖のお答えは、『人間は働きに生れて来たのである』と。そして、”はたらく”とは、”はたはた(周辺の人々)を楽さすことだ”と教えられたと伝えられている。ある人が、教祖にお尋ねした。『人間が働きに生れて来たものなら、もっと働けるように、夜昼なしにしたらどんなものでございましょうか』。教祖、そのとき、本を繰(く)っておられ、『このようなものやな』とおっしゃったという。(「もろもろの質問」、この話は、奥田勝氏から聞いた。奥田氏は松村吉太郎氏から聞いたと言っていた) |
みちのとも昭和36年1月号、桝井香志朗(孝四郎)「おさづけは道の路銀、上」の「池の水」より。
私(桝井孝四郎)が学校を出た青年の頃に、教祖がこう仰った、と言って、母(桝井おさめ)が私に教理の仕込みをして下さった。恐らくこのお話は、私の教理の仕込み始め、であったかも知れない。まだ、私の頭の中にこびり付いている。そしてその教理が、私の日々の通り方の、心の置き所にもなっている。『働(はたら)く、というのは、はたはた(側々・傍々)に楽してもらうから、はたらく(側楽・傍楽)、と言うのや。これが天理に適(かな)う種(たね)や。銘々は今日まで、どんな因縁を重ねているや分からん。その因縁を切ってもらうためには、人のために働かしてもらわなくては、徳はもらえん。徳をもらわなくては、因縁は切ってもらえんのやで。ところが誰でも、人のために働くことは嫌なものである。我が身損をする、と言うて、なかなか働けんものや。けれど、人のために働くのは、ちょうど水に譬(たと)えて言うならば、池の水を向こうへ押すようなものやで』と仰った。『池の水をいくら向こうへ押しても/\、池の水は、すぐに横から帰ってくる。これは天理や。これが天理である如く、人のために働くことは嫌なものやけれども、池の水を向こうへ押したら、水がすぐ帰ってくるように、徳を返して下さるのやで。この徳によって、今日まで重ねてきた因縁も切って下さるのや。銘々には、前生/\の道すがらは分からん。どれだけ因縁を重ねているやら分からんのや。こうした徳によって、因縁を切って下さるのやで。ところが人間心で通るのは、人が倒れても我さえよくば、人に迷惑かけても、人を苦しめても、我さえよくばという人間の我欲で働くのは、池の水を我が方へ掻(か)き寄せるようなものや。いくら掻き寄せても/\、池の中に水の山はできようまい。水は皆な横から逃げて行くがな。池の水が逃げて行くように、徳が逃げて行くのや。徳が逃げて行ったら後に何が残るのや。徳の反対の因縁が残るのや。たとえ、物が残ったとしても、それは人を苦しめた、倒したという因縁が、形になって残っているのや。そんな物がいくらあっても我が身につくものやない。その物によって苦しむという、因縁を積むということになるのや』ということを話して下さった」。 |
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教祖伝逸話篇197「働く手は」。
教祖が、いつもお聞かせ下されたお話に、「世界中、互いに扶け合いするなら、末の案じも危なきもない。仕事は何んぼでもあるけれども、その仕事をする手がない家もあれば、仕事をする手は何んぼでもあるが、する仕事がない家もある。奉公すれば、これは親方のものと思わず、蔭日向なく自分の事と思うてするのやで。秋にでも、今日はうっとしいと思うたら、自分のものやと思うて、筵でも何んでも始末せにゃならん。蔭日向なく働き、人を助けて置くから、秋が来たら襦袢を拵えてやろう、何々してやろう、というようになってくる。こうなってくると、双方たすかる。同じ働きをしても、蔭日向なく自分の事と思うて働くから、あの人は如才ない人であるから、あの人を傭うというようになってくる。こうなってくると何んぼでも仕事がある。この屋敷に居る者も、自分の仕事であると思うから、夜昼、こうしよう、ああしようと心にかけてする。我が事と思うてするから、我が事になる。ここは自分の家や、我が事と思うてすると、自分の家になる。蔭日向をして、なまくらすると、自分の家として居られぬようになる。この屋敷には、働く手は、いくらでもほしい。働かん手は、1人も要らん」と。又、ある時のお話に、「働くというのは、はたはた(側々・傍々)の者を楽にするから、はたらく(註、側楽・傍楽)と言うのや」と、お聞かせ下された。 |
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