「元の理」に基づく十全のご守護と身の内身の外相関の理
 (泥海こふきの天地創造観)

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「十全のご守護」について確認しておく。これを小難しく語る教理が多い。中には著作権つきで語る者も居る。しかしそれは教祖の「ひらがなの教え」の御心に反しているのではなかろうか。れんだいこが分かり易く且つ真髄をついた言葉で語ってみたいと思う。且つ「十全のご守護」を全体と個の働きの両面から確認してみたいと思う。既成の説き分けは案外と饒舌渾然にされており、正確とは言い難いと思う。


【十全のご守護、神の日々のご守護の理】
 教祖は、人間創造に当っての親神様の御働きを十柱の神様のご守護で説き分けてくだされており、これを図示すれば次のようになる。天理王の命はこの八方八柱から成っており、子(ね)に国常立命、丑(うし)と寅(とら)の間の丑寅に大食天命、卯(う)に雲読命、辰(たつ)と巳(み)の間の巽(たつみ)に国狭土命、午(うま)に面足命、未(ひつじ)と申(さる)の間の未申に惶根命、西(酉)(とり)に大戸辺命、戌(いぬ)と亥(い)の間の戌亥に月読命が位置してお働きされ広大無辺なご守護を与えてくだされている(「天之理Ⅱ・十柱の神々」その他参照)
神(命)名
ひら仮名神名
親神守護№
人間身の内のご守護お働き理説き
世界でのご守護お働き理説き
方位、表象
神楽づとめの際の性別、神楽面
一柱 国常立
くにとこたち
第一番目親神守護
人間身の内/眼胴うるおい、「水の理」
のお働き
世界/よろづ水の守護の理、水気の理
北、龍。龍は宙を舞う
男神。獅子面で頭一つ、尾一条(筋)の大龍
を背負う
二柱 面足
おもたり
第二番目親神守護
人間身の内/温(ぬく)み、体温調節、「火の
理」のお働き。
世界/よろづ火の守護の理、火気の理
南、大蛇。蛇は地を這う
女神。獅子面で頭十二、尾三筋、尾の先に三
つの剣がある大白蛇
三柱 月読
つきよみ
第三番目親神守護
人間身の内/骨、男一おとこいちの道具
(男性器)のお働き。
世界/よろづ突っ張りの守護の理
戌亥(乾、北西)、鯱(しゃち)
男神。鼻高で背に鯱を背負う
四柱 国狭槌
くにさずち
第四番目親神守護
人間身の内/皮膚や筋、女一おんないち
の道具(女性器)のお働き。
世界/よろづ繋(つな)ぎの守護の理
辰巳(巽、東南)、亀
女神、背に亀を背負う
五柱 雲 読
くもよみ
第五番目親神守護
人間身の内/飲み食い出入り、ぬめり、摂
食、排泄お働き。
世界/よろづ水気すいき上げ下げ
の守護の理
東(卯)、鰻(うなぎ)
女神。
六柱 惶 根  
かしこね
第六番目親神守護
人間身の内/息吹きかけ、呼吸のお働き
世界/よろづ風の守護の理
未申(南西)、鰈(かれい)
男神。
七柱 大戸辺 
おおとのべ
第七番目親神守護
人間身の内/出産の時、親の胎内から赤ち
ゃんを引き出すお働き。
世界/よろづ引き出し一切の守護の理
西(酉)、黒蛇
男神。
八柱 大食天
たいしょくてん
第八番目親神守護
人間身の内/出産時に親と子の胎縁(へそ
の緒)を切り、出直しの時、息を引き取る世話
のお働き。
世界/よろづ区切り、切ること一切の
守護の理
丑寅(艮、北東)、河豚(ふぐ)
女神。
九柱  伊耶那岐
いざなぎ
第九番目親神守護
人間身の内/男雛型、「種宿しこみの理」
のお働き。
男親、岐魚または人魚
男神。
十柱 伊耶那美
いざなみ
第十番目親神守護で
人間身の内/女雛型、「苗代の理」のお働
き。
女親、岐魚または人魚
女神。

【八柱の神の相互関係考】
 萬物一切の生成化育は親神の分身とも云える十柱の神によるご守護に支えられている。これを「十全のご守護」という。親神天理王命の十全の守護によって、人間をはじめとする万物皆なその生成を遂げている。この世は親神の身体であって、世界はその隅々にいたるまで親神の恵みに充ちている。

 月日両神は万有守護の大元であり万物の親である。月日の御入り込みなくては神の御働きできぬ。十柱の神々は日夜万物にお働き下さつている。陰陽和合即ち月日より万物は産れ出で、各々形を現わし、この世に生命を有す。人間も又月日の神魂より産まれたる分身にして、身体は八柱の神の御心御働きなければ、生まれ出ることも育つこともできない。神入り込み御居住い下さるが故、心身の自由用自在が叶い、人間の心に乗って神が御働き下さる。無形の精神、有形の肉体共に月日が親也。個々の人間は精神と肉体が結合している小宇宙、世界は大宇宙の関係にあり共に神と一体也。これらのことを前提で了解しつつ、以下、十柱の神の相互関係を悟らせていただく。


 十柱の神様は、くにとこたちの命(水の理)とおもたりの命(火の理)を「二つ一つ」の大作用として横綱的に位置しており、それぞれが「東三神・女神/国狹槌、大食天、雲読」、「西三神・男神/月読、大戸辺、惶根」を三役として輔弼させつつ相互に立て合っている。その中でもさらに、つきよみの命(突っ張り)とくにさずちの命(つなぎ)、くみよみの命(水気上げ下げ、飲み食い出入り)とかしこねの命(息吹き分け)、おおとのべの命(引き出し)とたいしょくてんの命(切る理)が対照している。これら八神の助けを得てイザナギ(岐)、イザナミ(美)の岐美二柱が「二つ一つ」となられて中宮に治まっている。これで十柱の神が出揃うという関係にある。 

 世界八方八柱神より御変化まします神仏数量りがたく、これを神道にては八百万神と云う。仏法にては無量諸仏という。観音という観音は皆な月日と仰せられ、一世の間にも色々と御変化下されて神とも仏ともなり、木仏金仏にまで入り込んで、善を勧め悪を戒め、種々と霊験を現わして、人間を教え導き育て下されている。昔より高山には大社を祀り、詣り場所がある。紀州高野山、山城比叡山、甲州身延山、飛騨の高山、越中館山、加賀の白山、伯耆の大山、阿波の剣山、伊予の石鎚山、肥後の阿蘇山等々然り。

 親神天理王命の御心は「親心慈愛の情け」である。このご守護を受けるには足納(たんのう)という誠が必要である。欲を離れて心澄ますのが誠である。親神天理王命様のご守護に対する埃(ほこり)を去るに従い「親心慈愛の情け」が広く大きく成る。万(よろづ)の徳はこれより出ずる。これを受ければ受けるほど正直清浄な心になり、心の曇りが去り明鏡止水の境地に至る。こうなると天地明らかにして万物が鮮やかになる。世界中の事が天理故、如何なる事も皆な分り知るようになる。大抵の者は、身上が事情に迫ってにっちもさっちも進退窮まらねば心が定まらない。教祖は、『人の好く者は神も好く。心の定まらん者、聞いて心に定めのつかん者は幽霊や。そんな者に元気を入れて聞かせるには及ばんぜ。到底天理の道具には成れん』と仰せられた。身体は借り物、我が心が我の自由である。この心の自由を磨くのが人の道である。

 因縁のせいにしている間は、そういう心の間は天理の話しを聞いても身につかぬ。心の定まらぬ者は天理の話を聞いても心に納まらん。心を定め決したら変らん迷わん動かん。この心を神が喜び、神が喜べば御働き下さる。

 人を助ける、人の為になる、人を引き立てるの心あれば目が利くようになる。例えば、親は我が子の事によく目が利くが、これは我が子に対して「情け」が深い故よく見分けがつくようになるからである。「何かよろずの助け合い胸の内より思案せよ。一名一人の心に誠。一ツの理があれば内々十分六つまじいという。世界成る程の者、成る程の人と云うは常に誠一ツの理で自由用と云う。よく聞き取れ。人を助ける心は真の誠一ツの理で助ける理が助かる、人を助けると云う理によって我が身が助かるという。よく聞き取れ」と仰せ下さる。


 親神天理王命の「親心情け」を受けると人の心がよく見えるようになる。逆にこのご守護を受けぬ者は見分けのできぬ者になる。了見の狭い者は目が利かず、見分けがつかんことになる。神の働きを得て誠の徳を備うるものは人を感化する事大である。小川は僅かな事でも濁る。朝の心が夕に変わるが毎度の如き心にては人の上に立ちて教えることはできない。古言に「豪傑涙に脆し」と云う如く英雄豪傑は情が深い。情が深いから徳がつく。情が深い故、この人の為には命をも惜しまんという様な絆が生まれる。そういう組織が強い。苦労して来た人ほど同情心が強いのもこの理による。 
 何事もなく平穏無事な時こそ、親神様の十全のご守護を一つとして欠けることなく戴いているときであって、何事もないときこそ、すべてあるときなのである。教えの素晴らしさが分かったといっても、日々いただいているご守護に気づけなければ本当に分かったとはいえないと、おさしづは戒められる。(橋本道人「おさしづ春秋」)

【命のリズム/「身の内身の外相関の理」】
 人の命のリズムは次の通り。これを仮に「身の内身の外相関の理」と命名しておく。
 人の呼吸は1分間に18回
 海の波打ちも18回
 人の平熱は倍の36度C
 心拍数は更に倍の72回
 人の血圧は倍の144
 この倍の288は胎児が胎内に居る日数とほぼ同じ
 海の波打ちに乱れなし
 呼吸や鼓動がこれに応ずれば命のリズムとなる
 出産は満ち潮時に重なる、永眠は引き潮時に重なる
 波打ち際や滝水は母の胎内の音の響きと似ておりよく寝られる
 その他云々

【一柱、国常立(くにとことたち)の命】
 国常立(くにとことたち)の命は月様にして万物をお育て下さっている第一(二)番親神。面足(おもたり)の命と対である。ご守護は「水の理」。水の源は見えぬゆえに「みず」と云う。

 身の内にては目胴の潤(うるお)い、水気保ちの御守護を司る。水の潤いが働き下されて目が見える。目は月日、月日鏡とも云う。人間造りは目(眼)が最初のもので、いわば眼が元始まりになって全てのものができている。目は水晶と同じ明水。目ほど大切なるものはない。もし目が見えざれば如何であるか。まずは目(眼)で見分けする。物の黒白、曲直、遠近、長短、善悪の区別ができるのも眼のお陰である。人が「目(眼)で語る」所以がここにある。山海の景色、見物事、芝居や活動を見て楽しめるのも物を見分けてこその楽しみである。これを思えば、国常立の命の重みが分かろう。
 人の身体の約70%は水分から成り立っている。その身体から一日約2リットル以上の水分が排出され、睡眠中にも汗として流れ出ている。飲み水にもなり汁物、野菜などの煮炊きにも御用をする。水のお陰で洗濯も掃除もできる。田畑に作物が育つのもすべて水の働きがあってのことで、これを思えば「水の恵みの大切さ」に改めて気づかされよう。水の徳は有形無形に渡り説き尽くせず宇宙一切の元動力也。

 世界同じく、水はどこへ流るとも下へ下へ流れて、宇宙間に満ちて切れ目ない。動きが自在で天にも地にも如何なる高山、山林、谷底、里にも水が湧き循環して止まず。海、河、池、沼、堀、井戸としてあり、上に登りては雨、気体となる。水は万物の元、世界の元であり、万物の親である。天上天下、水のない所はなく水の入り込み働かざる所なく、千変万化霊妙不可思議の妙用を供えている。森羅万象ことごとく水より生じ水にて生命を保つ。万物は水が養つており水の養わざるものはなし。

 その昔、水泥固まり土塊を生成し泥海となる。泥海の水泥分けて陸地を造り、天地を開闢して陸上に万物が生ずるに至る。水土合して草木生じ、水気を吸い、雨露の潤いを受けて生長発育す。水中の魚貝の類、藻、苔、田地山林畑の作物は勿論、文明の汽車、汽船、電車、電燈、ガスの類、機械等ことごとく水の働きによらざるなし。水は方円の器に従うてその効用を成す。水ほど力のあるものはなし。如何なる巌でも砕き、穴もあける、堤防をも壊す、激しく動けば巨船もひっくり返す力がある。「柔よく剛を制す」と云われるように柔は剛に勝つ。水は硬いものに対して最強の力を発揮する。革の堅いものも水に浸せば柔らかくなる。

 俗に「水に流す」と云う。その意味は「洗い浄めによる再生」にある。その威力を軽く拝するのも一理、重く拝するのも一理である。軽く拝する例は、過去のいきさつを「水に流す」である。それにより再起の転機とする。重く拝する例は、洗浄力の強さを知る「水で流す」である。汚れは、他のどのような液体よりも「水で流す」力が合理的で即効性がある。流す力を加減すれば洗浄水から刃にもなる。してみれば、日本古神道の「祓いたまえ浄めたまえ」の御教えはこの両面の威力で受け止める必要がある。
 この世は水が元の水の世界、水が台にて立ち行く万物の元である。万物は水土より生じ、水気入り込んで生成化育をなす。水は宇宙の万象に現す元素にして千変万化万体の徳を出す根元なれば即ち人間万物の本家親玉也。水ほど低いものはない。水は、宇宙間を切れ目なく隔てなく万物養い続ぎ育てる。故に水ほど力あるものはない。いわゆる方円の器に従いて万能の効用働きを成す。水によって、この世は曲直を分けることができる。例えば建築地の高低を分けるに水盛定規が使われる。
 老子が次のように述べている。
 「上善は水のごとし。水は善く万物を利して、而(しか)も争わず。衆人の悪(にく)むところに処(お)る。故に道に畿(ちか)し」。

 解釈は次の通り。
 「上善即ち最高の善とは、道徳的な善不善を指すのではなく、自然界の秩序に倣って生命を愛でることを意味している。その上善は水の理に導かれている。水は、万物の器に従い善く万物を利してしかも争わない。衆人の悪(にく)むところに処(お)ると云う。『悪むところ』とは、さげすむ、疎んじるような場所を云う。水はその低いところにとどまって自在を得ている。このような水の謙虚な姿勢が自然にかなった生き方であり豊かな人生の基である。これが人生道の極意である」。
 くにとこたちの命の神楽面は獅子面。「頭一つ、尾一条(筋)の大龍」を表象させている。これは、人間の骨格と一致している。「神の古記」は次のように記している。
 「くにとこたちの命ハ、天にてハ月様なり。この神ハわ男神にして、御姿ハ、頭(かじら)ひとつ、尾(おふ)ハひとすじの大龍なり。この世界、国とこを見定めたもふ。この理をもって国床たちの命とゝ云う」。
 身体は月様の清水を基にしている。その清水が心にもなっている。皆な水が元故に水の如く正直でなくてはならぬ。この世治まるは月様の心、人間に取りては情けである。足納が正直、足納は治まる水の理である。治める心、足納と云う理が心の澄む理である。足納の理が治まらぬ故八埃を生ず。

 
この理のご守護にかなう心遣いは、水の理に合わせることであり、それは即ちいつも低いところに流れていく水のように、素直に頭を低くして低き心、謙虚で慎み深い心、埃を水で洗う心で通るのが良い。水が方円の器に随うように器の理に順応するのが良い。

 我(ガ)が強過ぎたり、他人の欠点ばかりを見て不足したり、神の理を立てずに自分の思いばかりを立てる者は神が道具に使いにくい。神に用いられない者は窄(すぼ)む。水に潤いがあるように人を潤わせる心を持つのが良い。自ら額に汗して率先垂範し無私の心で陰徳を積むことが大事である。親神様の「水」の心の理にもたれ、この理に適うよう心がけて通れば結構の理を味わう日々を迎えることになる。逆で通るとご守護が頂けないことになる。
 この理合いを星天、指に準(なぞら)えれば、天にては月様、指にては左親指。
 仏教に顕われての神様の御変化は、観世音菩薩、釈迦如来、千手観音。伝教大師(天台宗開祖)。

【二柱、面足(おもたり)の命】
 面足(おもたり)の命は火様にして第二(一)番目親神。国常立の命と対。ご守護は「火の理、日の理、温みの理」である。日夜万物にお働き下さる。温みは水に添い千変万化霊妙不可思議の妙用ありて万物の徳を出す。日様が東より上がり給い日々に日を貸すゆえ「ひがし」という。

 身の内にては温み、温熱の御守護を司る。三千六百筋の血の働きを始め体内の体温を計り下さる。人間の身体は水だけでは成り立たず温みがなければ生命にならない。但し、熱がありすぎても命が危く、「ほど良いぬくみのご守護」で命が保たれている。人間の体温の平熱は36度5分前後が良いとされている。この基準に1度2度体温が狂うだけで例えば38度熱があっても35度を下回っても正常に行動できなくなる。体温を一定に保ってくれているのが面足の命様のご守護である。  

 世界同じく、温み一切、火気、照光一切は皆な日様也。火、日光及び温熱なくては世界は片時も立ち行かぬ。金属の如き堅き物も火に掛れば柔らかと成り溶解する故に百般の用途を自由に満たす事を得る。文明の汽車、汽船、軍艦、鉄橋、建築、機械、器具、飲食物の拵え製造、日常生活に関する百般の用途、物品等ことごとく火の働きによらざるなし。火気は天地に満ちいわゆる気体にして体なく、手にて握る事もできぬものなれど、その働き偉大である。昼は御光りを受け、夜は火を点じ電灯、ガス、ランプなどを以って立ち働くことができる。
 日様の暖かみ照らし下さって万物が育つ。火の燃ゆる日の照る光一切点ずるこの陽徳がなくば世界は暗黒厳寒で何もできざる也。粒毛草木も温みを入れて下さるで芽切る、生え出る、成長、花咲き実る。日様温みありて衣食住万物がこの世に現れ、その用をなし、人間始め生物立ち働く自由用が叶う。身の内の温み世界の暖みは悉く日様貸し下さる賜物。
 おもたりの命の神楽面は「頭が十二、尾が三条(筋)、三つのけんある大蛇」を表象させている。これは、人間の脳神経と下半身の神経と一致している。「神の古記」は次のように記している。
 「頭十二ある一つの頭にて、十二月の間、一月づつ代わりて守護う。また十二時つつ頭代わりて、目を一時とす守護ごうあるゆえに一ヶ年を十二月と定め、一日を十二ときと云う」。
 この理のご守護にかなう心遣いは、日の理に合わせて分け隔てなく照らす温かい情愛の心、誠の心で通ることである。朝は日の出を拝しお陰を受けるのが良い。日々年々変わらぬ温かい心で通るのが良い。親神様の「火」の心の理にもたれ、この理に適うよう心がけて通れば結構の理を味わう日々を迎えることになる。逆で通るとご守護が頂けないことになる。
 この理合いを星天、指に準(なぞら)えれば、天にては日様。指にては右親指。
 仏教に顕われての神様の御変化は、阿弥陀如来、観音、勢至菩薩、三尊佛。

【水火対の理】
 「元の理」では、十柱の神の中でも、月様(国常立の命)と日様(面足の命)の二柱が対としてあり一番の親になっている。陰陽の理、二つ一つの理、天地の理、月日の理、火水の理として相補している。月様の働きを空間力、重力軸で、日様の働きを時間軸で捉える向きもある。身の内も身の外も月日が親神で、天地間の万物一切は月日二神の水気温みの二つである。この両神が万物に入り込み下さるにより道具神様の御働きができる。水霊火霊は万物の源で、有形無形一切に入り込みあり。

 日本の神社にて行われている祭りもこの二柱の理を称え執り行われている。日本人の先祖である縄文人がそもそもこの月日の理を称え、岩を祀り、山を祀り、木を祀り、祈りをささげてきた。日本神道はこの教理に深く根ざしており縄文神道に辿りつく。縄文神道を探求すれば出会うのが龍(水)と蛇(火)で月日二柱の守護から始発している。


 月日は万物の親なり根本で火と水とが一の神。火の中に水あり、水の中に火あり、一体となり水火同体。火水一体の和合によりて風生ず。水あって火があり、火が添うて水気が働く。火気ありて水の霊働く。温みがなくては万物は一日もこの世に活きることできん。水に必ず温みが和合下さって万物に入り込み下さるで生を保ち、同じく照光あって皆な育つ。万物の生ずる悉く水気に温み御添い下さって生じ育つ。この水霊火霊にて万物を現わし、これによりて万物生育をなし又身命を保つ。人間始め一切動物は水気温みの借り物。身上はこの二つ入り込み、月日和合下されたる証拠の現物なり。粒毛草木食物に味わいのつくのも水気温みの力よる。酒、醤油、酢、穀物、野菜、果物、塩、魚類など飲食に供する物は勿論、衣類使用道具家屋に至るまで衣食住ことごとく水気温みで作られている。月様水気に温み和合下さって万物各々生命を有して生成化育をなす。

 水気に温み二つあって昼夜を生ず。昼夜あって四季あり。月日あって天地あり。月日の根がありて十二支。十二支あって東西南北艮坤巽乾の八方が定まり、天地陰陽の気にて人間万物生い育つ。月様の水に日様の光が写って月日並びて明らかとなる。月日陰陽和合の賜物なり。水気温みが1年12ヶ月、1日昼夜12刻24時間の運行を支配し、春夏秋冬の変化に応じた気温をはじめ、すべてのぬくみ、火に関わるご守護を下さっている。


 陽気は月日の御心也。陽気に合わぬ心を埃というて病生ずる。万の物体は腐敗すれば水土に帰る。又は火にかければ気と成って無形に帰る。水の徳、水の働き、火の徳、火の働きあり、皆なこの世の万物は水と火に懸ければ種々と変化を成す。慈悲深いと云う親切、親に切なる心、育てる心、恵むという我が身を忘れての親心、慈悲の心、大慈大悲と言う如くは皆な月日親様の心を云う。情けと慈悲、この二つが真の事。誠さえあれば結構に神が通させて下さる。誠のないものは通れぬ。苦労した人ほど人を育て続ぐ慈悲心が強い。夫を大切にする、親を大切にする真心は誠。誠なれば天の守護厚きにより、たとえ苦悶の境遇にありても遂には助け上げられる。「誠一つより強き長きものはない」、「つく息(月)、ひく息(日)が退いたら如何な強敵たりともし方はあるまい」、と仰せ下さる。如何な強力智者といっても水気温みが狂うたら一寸に力は出ん。人体の血の循環の一部に滞りが起き変色して病痛みの元となる。手足を使えば手足の血液がよる。腹を立てれば顔が赤くなるが如く身の内に血が固まり悪血ができる。気が勇めば血が勇むというて巡りがよくなる。悪血は誠のない悪心不浄なる心からできる。頭は天。これが不順して胴体下部の血液が逆上して頭に漲り脳痛む如し。又女は臺。臺一切は日様の理にて上に乗るものが天となる。天と地、月日陰陽を象りて夫婦を拵え給う。これ人間万物の根本。皆な人間は天地の内に寝る。
 宇宙間は水火(水気温み)の二つが満ちて居る故、「道」と云う。身の内と云うこの身の内が「道」なり。「道」とは身体に習うて行わねばならぬ。身と云う、鏡と云う、八形と云うも、八たの鏡と云うも同じことにて、人間身上は前世より今日迄の心の鏡として心通り身を現し貸し与え下さる心の形なり。故に身に現れる理が諭しなり、身の内神、宇宙も同じ神の誠で立つ。身上あって幸福円満に世界立ち生える道が誠。  
 人間の母親の胎内へ宿し込み、日々の理の増すも成長するも、草木の育つも、花咲くも実るも、味のつくも、月日より水気を与えたり温めたり守護下さる故十用に育つなり。月は万物の元の父に物を引き与え下さる也。日は万物を育て下さる元の母也。月日は天地の夫婦。南無と云うも同じ事也。月日ありて天地あり。天地ありて夫婦あり。夫婦ありて人間あり。人間ありて万物あり。万物ありてそれぞれの用をなす。されば月日の守護は高大無限の南無なり。大海の潮はなむ/\と何時も変わらぬ働きあるは天地の息。波と云うはなむと云うも同じ也。
 2016.10.21日、「明治十六年本説話体の永尾楢治郎/泥海こふき」 によれば次の通り。永尾楢治郎は、お指図書取り人に指名された最初のお指図筆取り人。
 男性根源神格/月様・くにとこたちのみこと…頭一つ尾一つの大竜。
 女性根源神格/日様・をもたりのみこと…頭十二尾三つ、尾の先には三つの剣がある大蛇。

 男は宙を舞う竜。女は地を這う蛇。

 女は十二の頭で目の前のすべての事を把握する。しかも、臭いや色まで確りと見分け嗅ぎ分けする力を持つ。竜は足元の事には気がつかないのであるが、対極を見る力、先を見通す力を持っている。蛇剣は邪険を連想させる。三つの尾は繋ぎの数。その先にある三つの剣は切る働き。つまり、繋ぐ理と切る理の組み合わせ。繋ぐためには切らねばならん。女が邪険であるのは、命を繋いでいく使命あるからだと思う。これが女の性のひとつなのかもしれない。

 男と女は別の生き物。同じだと考える事から悲劇が始まる。天上を舞う竜と地上を這う蛇。竜の眼には地上のことは映らない。逆に、蛇の眼には全体と行く先は映らない。竜の眼にはそれが見えてある。男は女のように色を見分け、臭いを嗅ぎわける力は備わっていない。女は十二の頭、二十四の目で現実をしっかりと見ている生き物。口と鼻も十二ある。男は頭一つ、目が二つ、口と鼻も一つだ。これが同じである筈はない。同じではないから対話が必要となる。だが、お互いの違いを分かっていないと対話にはならない。

 男性原理と女性原理/くにとこたちとをもたり。その姿から、実に多くの事を学ぶことができる 。

【三柱、月読(つきよみ)の命】
 月読(つきよみ)の命は鯱様にして第三(四)番目親神。国狭土の命と対。ご守護は「骨突っ張りの理」で、日夜万物にお働き、授け貸し下さる。万づ堅め、括り、締り、突っ張りはこの神様の力なり。水の働き、火の働き、突っ張り、繋ぎの働きに加えて骨突っ張りの働きがないと人間、世界の創造ができない。

 身の内にては「骨突っ張り」の御守護を司る。骨格器官、関節、靭帯、男の生殖器等々が、この神様のお働きの守護によっている。人間が立っこと座ること、寝ること起きること、関節の折りかがみで思うように身体が動き、力を出して支えることができるのも、男一の道具が突っ張れるのもこの理の働きによる。大骨十二本、小骨三百六十本の骨折れぬ様御守り下され、突っ張る力、倒れぬ力、立つ事の自由用をご守護下される。

 世界同じく、草木をはじめ地上に自ら立っているものすべてを支えている。人間に万ず立てる御心にて身の立つ、会計の立つ、日々無事に立つ、万ず立てて下さる神様也。一日立つ、一年立つ、一代立たせ給う。草木粒毛一切が立ち、突っ張りとなり立つもの建築物一切の立って倒れぬ御守護を司る。

 この神様の理がなければ世界中の物事は皆なグジャ/\でしゃんとしたものは一つもない事になる。骨なしでは立つ事も歩む事もできない。草木でも風が吹いても容易に倒れぬから花実を結ぶ。家屋建物等沢山の重荷が乗るとも挫けぬ。倒れぬその他立つ物一切この神様の理で立って倒れぬのである。

 人間の心にもこの神様の理がなくては何事も思惑通り成立せざるなり。人が我が心に定めた真実誠は一筋たて抜く、立て通すという、狂わん迷わん変わらん立ちきった心が大事である。これのない者は何事も成立成功するものではない役に立たぬ。天の理を立て筋道を立てる。親を親に、上を上に、天の恩人の恩を重ね全て道を立てぬから立たぬ。
 この理のご守護にかなう心遣いは、鯱の理に合わせて「一に勢い」の勢いで立ち働き、人を背負って立つ、不正を跳ね除け突っ張る心で通ることである。人を立て、神を立て、互い助け合い立て合いで行くのが良い。心に張りのなきものは身体も強う成れぬが如く、例えば着物でも糊を付けシャンとしたら強い如く、誠を立て抜く挫けぬ踏ん張るという心が肝要である。人の為に我が身を捨てても片肌ぬいでも助けようとするのを男立てという。その真実誠の強き心がこの神の御心に叶う。この神のご守護に対する埃は、誠を立てず我さえ立てばと云う心である。人を踏み倒してでも自分を立てようとするは神を倒すも同一なる故、必ず我が身が倒れることになる。物事を成就さすには我が心の埃を切り抜き、強き熱心を立て貫く心なくてはならぬ。例えば七八分迄仕上げて一二分の所で挫けるが如く、全て事に接して変わる挫けるのは、この神様の徳を失いたることによる。全て仕上げる心なくば心に骨のなきが如し。神様の御言葉に、「親となり子となるは因縁事情から成ったもの。その親に孝行をせず親と云う理を忘れ親に不行すれば、こんどの世は何になるとも分りがたない。この理、話しに伝えておこう」、と仰る。一家が立つも国が立つも然りで、親ありて我が身の今日有るものなれば、親と云う恩を忘れ親という理を立てて行く心がなくば我が身の理が立たぬは天の理なり。例えて申さば下駄は頭に被るべきにあらず足に履くもの。帽子も足に履くものに非ずして頭にかぶる如し。この神様の理を立てぬから立つものが立たん。人体では骨が枯れたり腐ったり全て突っ張れぬ、暮らしが立たぬ、思いが立たぬ。親神様の「突っ張り」の心の理にもたれ、この理に適うよう心がけて通れば結構の理を味わう日々を迎えることになる。逆で通るとご守護が頂けないことになる。
 月読(つきよみ)の命の神楽面は男神。鼻高で背に鯱を背負う。
 この理合いを星天、指に準(なぞら)えれば、天にては破軍星、指にては左人差指。
 仏教に顕われての神様の御変化は、八幡大菩薩、地蔵尊、聖徳太子。

【四柱、国狭土(くにさづち)の命】
 国狭土(にくさづち)の命は亀様にして第四(三)番目親神。月読(つきよみ)の命と対。ご守護は「繋(つな)ぎの理」で日夜万物にお働き下さる。水の働き、火の働き、突っ張りの働きに加えて繋ぎの働きがないと人間、世界の創造ができない。

 身の内にては温み、温熱の御守護を司る。皮膚、皮下組織、内臓皮質、筋肉、女性の生殖器官等々が、この神様のお働きの守護によっている。身の内は表面皮の破れぬ様総身を包み、身体全部内面は骨筋肉道具節々等一切の続ぎ合わせの切れぬ様破れぬ様の御守護を司どる。女一の道具の働きで子供が産まれ、親子、子孫のつなぎができる。人間は天の続ぎが切れたら死ぬ。金銭食物の続ぎが切れれば貧乏する。人を続ぐ心は誠。この神様の心也。心と身と離れぬ如く指でも両手十本が合うて十全と云う。手が足を助けず足が手の為に働かぬ時を不全と云う。

 世界同じく、宇宙間の万物の皮続ぎ、続ぎ、結ぶもの、縁を続ぎ、有形無形の一切の続ぎ、金銭の続ぎ、経済を司る。又万づ柔らかき物及び柔らかいと云う理は皆なこの神様の理にて始まる。この神様の理がなければ世界中の物は皆なバラ/\である。人間も交際も交合も、親子主従夫婦兄弟の縁、愛情で続がらぬものはない。人の世話やき、媒介、周旋とか皆な続ぎの役である。道路、河川、橋、電信電話線等舟でも皆な続ぎの理。家屋でも皆な立つと続ぎて組合す。硬きものでは物が続げぬ如く柔らかく優しい心で続げる。柔らかき物に味わいあり。この世は皆な続ぎ合いにて立ち行く。八社の神様が一つの心に続がり下さってこの世の万の物は日々続がって行く。人間が数あって社会。人間も一人では何の楽しみも幸せもない。多人数が続がって楽しみあり。そこに陽気が生じて日々が幸福に暮らせる。人は互いに続ぎ合うと云う理を押し広げて行けば社会の全体の繁栄を保ち、陽気に暮らすと同じ理となる。
 この理のご守護にかなう心遣いは、亀の理に合わせて踏ん張り強く、心倒さず辛抱し、切れることなくつなぎにつないでいく心、傷も綻びも繕い治めていく心で通ることである。この世は万事万物続がって保たれ完全となり円満に成立をなす。身体でも痛むと云うは続ぎ下さって居る体内の骨とか筋とか内部の続ぎが切れるから痛い。身の内では皮が腐るとか皮に関する病は勿論又身の内の続ぎが切れて痛みとなり我が身が倒れる。不足腹立ちで続ぐべき所を繋がず人と続ぎを切るのは埃。又この神様は世界にては掃除役の神様とも云う。心の掃除すれば神に続がる、人に続がる。天の続ぎが切れたればこの世に居れぬ。人を続ぐは神を続ぐも同一。互いに助け合う理は我が身を続ぐ幸福を得る道なり。人を切り人を苦しめて我が幸福を求めようとする心は我の身体我の幸福を破るのも同じ理になる。ならんと言えば「はい」、いかんといえば「はい」と言うて、切れるところをつなぐ態度、物や金への執着をなくし、報恩のつなぎ・つくしに徹して通ることが大切である。親神様の「つなぎ」の心の理にもたれ、この理に適うよう心がけて通れば結構の理を味わう日々を迎えることになる。逆で通るとご守護が頂けないことになる。
 国狭土(くにさづち)の命の神楽面は女神、背に亀を背負う。
 この理合いを星天、指に準(なぞら)えれば、天にては源助星、指にては右人差指。
 仏教に顕われての神様の御変化は、普賢菩薩、弁財天、金神、結之神。黄檗(達磨大師(禅宗開祖) 。

【女一の道具、男一の道具対の理】
 くにさつちの命、つきよみの命二神が月日の一の道具神様。立てると続ぐは相補の理。人を立てるから続がる、続ぐから立つ。木でも芯が立たねば成木せぬ。芯は中にありて皮が続がる。辛を立てるから立つ。人を続がぬ、続ぐべき所を切る、甚だしきは人を倒して我が幸福を得ようとする心にて人と戦い恨み合いの埃が生ずる。続ぎ合い助け合い立て合いという神の御心を破り反する故、神に切られる。梅は両方和合、夫婦にて子の授かる理。
 くにさつちの命の女一の道具、つきよみの命の男一の道具の使い方によって色情間違いが起こる。見えん所に出る病気、人に見せて恥ずかしい身上の多くは皆な色情に関わっている。兄弟が夫婦になったり親子が夫婦になったりする如くの甚だしい色情間違いにより片輪になることがある。男女の道、正しいが天の理也。故にこの道が綺麗にあれば神の八形としての人間の雛形は立派に形造られるものなり、と聞かせていただく。

【五柱、雲読の命(くもよみのみこと)】
 雲読(くもよみ)の命は鯰(なまず)様にして第五(六)番目親神。惶根(かしこね)の命と対。ご守護は「水気上げ下げ、飲み食い出入りの理」で日夜万物にお働き下さる。

 身の内にては「飲み食い出入り」の御守護を司る。消化、吸収、排泄に関わる消化器、泌尿器、循環器、血液の巡り等々が、この神様のお働きの守護によっている。食物の味を八万四千の毛穴より天に昇るその味を受け取り下さって草木粒毛一切に味を授け給う。この神様がなくては食物の道が止まり飲み込めぬ。かくては身を養う食う事ができぬ。子供が生れ落ちるや誰教えねど乳を吸う力、乳の如き慈悲なるものの出るも皆な神が人間可愛いの真実の甘露である。一家にては食物拵え等内で働く。
 世界同じく、水及び水蒸気の降り昇り、飲み食い一切の自由用はこの神様の理である。実乗り一切、宇宙間に生命を保つもの一切に飲み食いをさし養いを付け下さる。草木に水の昇る養いをつけ下さる。物を干すにも水気蒸発して上るから乾く。月様の水の昇り降り出入りの働き一切を自由自在に使わして貰えるのはくもよみの命の理による。水は上に昇りては或いは雲となり霞霧もやとなり雨露となり雪氷霜雹となりて妙用を成し、下にありては泉水、河水、井水、谷川、溜め池、堀等を使用する。或いは食物の煮炊き、湯茶、入浴、洗濯物等を干せば水気が乾きて昇る。降った水が蒸発して昇る故地上も乾く如く、あるいは溝畔、水管、水車、水道、等設けて自由自在に水を使用する事のできるはことごとくこの神様の守護によりて叶うものなり。太陽から地球へのエネルギーの吸収、地球から宇宙への廃熱の放出も水の循環の働き。地球の気温が程よく保たれるのも然りである。
 この理のご守護にかなう心遣いは、鰻の理に合わせて自由闊達に出し入れし、これを惜しまぬ心で通ることである。糧食の不自由、作物不作、金銭、財産、物質の先案じと溜め込み、飲み食いできぬ、あるいは便通じに関する器官の腐敗障り等はこの神様の御意見である。報恩、感謝、親孝行の実践と繋がっている。親神様の「水気上げ下げ、飲み食い出入り」の心の理にもたれ、この理に適うよう心がけて通れば結構の理を味わう日々を迎えることになる。逆で通るとご守護が頂けないことになる。
 雲読の命(くもよみのみこと)の命の神楽面は女神。
 この理合いを星天、指に準(なぞら)えれば、天にては暁の明星、指にては右中指。
 仏教に顕われての神様の御変化は、文殊菩薩、龍王、神農、薬師如来、水神、善女、八大龍王。顕真大師(一向宗開祖 親鸞上人)。

【六柱、惶根の命(かしこねのみこと)】
 惶根の命(かしこねのみこと)は鰈(かれい)様にして第六(五)番目親神。雲読の命と対。ご守護は「息と風の理」のお働き。日夜万物に「息と風の理」を授け貸し下さる。息と風に関する事は宇宙間の万物一切、この神様の理である。

 身の内にては「息吹き分けの理」の御守護を司る。呼吸器一切、音声、言語、聴覚機能等々が、この神様のお働きの守護によっている。人間が呼吸できるのは、のどで食物と空気の出入りが分けられるからである。言葉が使え耳が聞こえるのも音が聞こえるからである。音は空気の震えが耳の鼓膜に届くことにより様々な音色を生む。匂いを嗅ぎ分けられるのも然りで、これらは皆な「息吹き分けの理」のお働きによる。目耳鼻口の四ツより入り喉を通り肺より口に通じ口舌にて呼吸を働かし、息吹き分けする、その工面をする。
 世界同じく、水気に火気が添い給うて空気あり風を生ず。水火風三つにより自由用自在の御働き下さる。息、風、空気生じ万物生成し化育す。衣食住ことごとく火生風の賜物也。空気は水に温みが添うてあるものなり。水も温みと風がなくては流れぬ。水に温みが添って風となって入り込み下さって人間も息を吸うて生きる。風あるから鳥でも空中をたつ事ができる。世界では大気(空気)の対流、気候の変化、また、人間相互のコミュニケーションを司っている。風の働きで気温が変化し、雨雲が風によって海から陸に運ばれて恵みの雨をもたらし、鳥や飛行機が空中を飛べるのも、この神のご守護があってこそである。風がなくては万物一日も生きて働く事ができぬ。草木に至るまで呼吸し、空気の流通即ち風によって万物生育繁茂する。飛行機等虫鳥類も同じく風の力で飛行する。何千石の積荷をする帆前船も風の力で運搬す。電信電話を以って何百里隔たり居て話ができ、或いは無線電話とか皆な風の働きなり。世界に空気があるだけで流通する風がなければ窒息死する。水中に棲息する魚でも空気が通わねば死す。例えば夏日、暑さ激しくして風なき時は苦しい如く、全く風なき時は生きる事ができない。空気が自由用に変わって流通下さるで、清き新しき空気を吸いて動植物の身が養える。皆な風によって養う。

 音声一切音のするもの皆なこの神様の理。声の優れてよき人は前世より余程天の理に叶うた心が使うてあるなり。因縁言葉の優劣もこの神様。美声の徳弁舌話子の達者上手。風なり言葉なり六臺始まり六く睦まじき風。六臺とは木火土金水風火と水が合うて風が出る。息は風なり。火水風よりほかに神はないと仰せ下さる。水気温み風三つにて宇宙の万物は自由用自在の働きが叶うゆえ三宝大荒神也。人間始め一切の動物も息が通って五体が生きる。

 この理のご守護にかなう心遣いは、鰈の理に合わせて良きものは身に付け悪しきものは身に付けない、使い分けを間違えぬ心、自分の心を人の下に置いて、人の分け隔て差別をせぬ心で通ることである。息一つ言葉一つを使い分けることが大切だと教えられている。息が切れたら死ぬ。言葉息に関する器官聞分けに関する器官の病一切の障り皆なこの神様御意見である。親神様の「息吹き分け」の心の理にもたれ、この理に適うよう心がけて通れば結構の理を味わう日々を迎えることになる。逆で通るとご守護が頂けないことになる。
 惶根の命(かしこねのみこと)の神楽面は男神。
 この理合いを星天、指に準(なぞら)えれば、天にては坤位(けんい)の星団。指にては左中指。
 仏教に顕われての神様の御変化は、大日如来。円光大師(浄土宗開祖 法然上人)。

【飲み食い出入り、息吹き分け対の理】
 雲読の命(くもよみのみこと)、惶根の命(かしこねのみこと)の二神が月日の一の道具神様。

【七柱、大戸邊の命(おおとのべのみこと)】
 大戸邊の命(おおとのべのみこと)は黒蛇(くろくつな)様にして第七(八)番目親神。大食天の命と対。ご守護は「引き出しの理」で日夜万物にお働き下さる。

 身の内にては「万づ引出し引伸ばしの理」の御守護を司る。人間手足に付き添い働き、働き一切、金銭食物、体力、知力を引き出し伸ばし、社会で立身出世等々が、この神様のお働きの守護によっている。お産の時はこのご守護の理で引き出されている。三千六百筋の切れぬよう力を以って働かせ、筋伸び縮みの守護をして下さる。
 世界同じく、あらゆるものの出生、生物一切の身体、筋の伸び縮み、身の内器官の働きを自由自在、種から芽をふく発芽、生育、技術・技量等々が、この神様のお働きの守護によっている。世の中の物を引出す理は皆なこの神様の理。身の内にては産まれ出る時の引き出しの守護。日々は成人させて引伸ばし下さるの守護。草木粒毛万引出しの守護、全て衣食住に供するものは皆な然り。商売にては売り先、買い手を引出す守護。この神様の理があって世界中の物が勢いありて出て来る、力伸びる、登る力があるなり。引く力も同じ。伸びざれば何物も用に立たぬ。身体も伸び縮み自由が叶う故、思うまゝに動くことができる。

 身体伸びぬは草木も肥が足らねば伸びぬ太らんと同一。人の事に尽くすという肥が足らず前世より徳を積まず我が身引き身欲の事ばかり心をよせる小さいこすい心では、この神様のご守護がいただけない。心低いものは徳を積んで高くなる。伸びるはその道に徳を積む理。伸びぬはこの神の道を止めて居る故である。つる類一切はこの神様の理。つる類全て粒毛草木山にも野にも穀物野菜豆類等有る如く皆なこの神様の理に依って成長成木して花実を結ぶ。八十八夜は米の理にて米と云う字は八十八と書くが如く一年の四分の一也。八十八ヶ所。弘法大師は粒毛引出しの神おおとのべの尊の御変化なり。

 この理のご守護にかなう心遣いは、黒蛇(くろくつな)の理に合わせて物の値打ち、人の値打ちを引き出す心、物事に結構という理を味わう心、人を褒め人を立て、子育て、人育の心で通ることである。廃る物を生かし、幼い者を育てる上で自らが玄人にならせてもらう努力に励むことが大切だと教えられている。身体伸び縮みの不自由筋に係る病気は勿論引出し引き与えに関する有形無形の不自由はことごとくこの神の御意見なり。この神様の心は、よく働く人を引出し導き、人に教え、人に与え、人を引き立て、人を引き連れ、人を世に出し、人を手引きし、人に満足を与える。親神様の「引き出し」の心の理にもたれ、この理に適うよう心がけて通れば結構の理を味わう日々を迎えることになる。逆で通るとご守護が頂けないことになる。
 大戸邊の命(おおとのべのみこと)の神楽面は男神。
 この理合いを星天、指に準(なぞら)えれば、天にては宵の明星。指にては左薬指。
 仏教に顕われての神様の御変化は、不動明王、役行者、弘法大師(真言宗開祖/空海上人) 。

【八柱、大食天の命(たいしょくてんのみこと)】
 大食天の命(たいしょくてんのみこと)は河豚(ふぐ)様にして第八(七)番目親神。大戸邊(おおとのべ)の命と対。ご守護は「区切り、切断、切り離しの理」で日夜万物にお働き下さる。

 身の内にては「出産時の親子の胎縁切りの理」の御守護を司る。産まれ出る時の親子肉縁を切り分け下さる。人間も胎内より切って下さらねば引き出し下さることができぬ。切って下さるから生まれて出る、それで続(つな)がる。縁切り、出直しの時(死ぬる際)の息切り(息引き取り)、日々にては口中の歯、指先の爪で引き裂いたり噛み分けたり、腹袋の消化仕分け、体内からの免疫反応などの機能等々が、この神様のお働きの守護によっている。医者の手術もこの理の働きです。
 この神様の理がなければ世界中の物は切り分けることができない。世界同じく、世界にては刃物一切の切る事の御守護下さる。はさみ、包丁、ナイフ、のこぎりなどの切れ物道具一切の切れ味のご守護に与っている。物質の変化、変動の働き等々、この神様のお働きの守護によっている。一年にては節分にて節分は一年の節中の初まり。大地の変動で山や平野ができるのも、「切り離しの理」のご守護である。
 抽象的には、見分け、聞分け、善悪の仕分け、智恵の働き、心の捌け、心の発散、思い切り、諦め、スッパリとした心、判定する智の働き、決断力等々が皆なこの神のお働きによるご守護である。
 この理のご守護にかなう心遣いは、鯱の理に合わせて万事周到に準備して切る、そうでなければ切ることはしないという心で通ることである。未練、執着、我欲の思いを潔く断ち切る心も然り。常日頃から出すべきものは思い切りよく出し、惜しまずに施していくのが良い。我さえ良くばの悪因縁を積んだ結果できたような物や金への執着はきっぱりと断ち切って、人を助ける心の道への切り替えの道を通ることが大切である。思い切らなば人を立てる事できぬ。我欲をはなれねば人を助けるとか社会の為に働けざる如し。悪しき心の埃を思い切る故神の心に続がる善に続がる。手や足を切る切り傷等はこの神様の御意見である。いわゆる決断力の欠乏するはこの神様の入込み徳を失うたもの也。この神様は思い切りのよきスッパリとしたきれいな定まった心を好み給う。親神様の「切り」の心の理にもたれ、この理に適うよう心がけて通れば結構の理を味わう日々を迎えることになる。逆で通るとご守護が頂けないことになる。
 大食天の命(たいしょくてんのみこと)の神楽面は女神。
 この理合いを星天、指に準(なぞら)えれば、天にては鬼門位の星座、指にては右薬指。
 仏教に顕われての神様の御変化は、虚空臓菩薩、妙見菩薩、鬼子母神、橋詰、縣様、二月堂、聖天、儒来様、毘沙門天、鬼門、暗剣殺。日蓮大師(法華宗開祖/日蓮上人)

【引き出し、切り対の理】
 くにさつちの尊、つきよみの尊二神が月日の一の道具神様。身の内も世界も万事、万物が切れては続がり続がったものが切れして成り立って居るなり。万物事成す間は続ぎと切る理。物の切り分けのよくつく者を賢いと云う。智恵は表裏は切り分け。裏表は一体の理故、この理を腹に入れておかねば悟り諭しはできん。

【九柱、伊弉諾の命(いざなぎのみこと)】
 伊弉諾の命(いざなぎのみこと)は岐魚(ぎぃぎょ)様にして第九(十)番目親神。伊弉册の命(いざなみのみこと)と対。ご守護は人間をお創り下された時の「男ひな形、種の理」で日夜万物にお働き下さる。これを仮に「いざなぎの理」と命名すると、人間の子種のご守護、世界では種物一切の子種、物種を司っている。人間をはじめ動物も植物も種があってこそ子孫が続く。代々種に還って生まれ更るから品種改良、成人が進む。神様は「種なくしては実乗らうまい」と仰せ下さる。 
 この理のご守護にかなう心遣いは、岐魚(ぎぃぎょ)の理に合わせて脇目もふらず真一文字に向こうへ向こうへと進んでゆく一条の心、素直正直の心、苦労は楽しみの種と、何でもどうでもの精神で、理の種を蒔く心、おつとめの勤修に一心に励む心で通ることである。一条心にもたれて、神の田地に種を蒔くことが大切だと教えられている。親神様の「男ひな形、種の理」の心の理にもたれ、この理に適うよう心がけて通れば結構の理を味わう日々を迎えることになる。逆で通るとご守護が頂けないことになる。
 教祖は、「岐様(うを/いざなぎのみこと/岐魚)の鰭(ひれ)に五つの筋(すじ)がありた。これが五本の指と成りた」と仰せられている。ここ最近の博物学研究において、「人間の祖先にあたるシーラカンスのような魚の胸びれや尻びれが段々と手足に進化変化し、サンショウウオかトカゲのような姿で陸に上がった、と発表されている。
 伊弉諾の命(いざなぎのみこと)の神楽面は男神。
 この理合いを星天、指に準(なぞら)えれば、天にては七夕の牽牛星。指にては左小指。
 仏教に顕われての神様の御変化は、伊勢の内宮・天照皇大神宮。

【十柱 、伊弉册の命(いざなみのみこと)】
 伊弉册の命(いざなみのみこと)は白蛇(しろくつな)様にして第十(九)番目親神。伊弉諾の命(いざなぎのみこと)と対。ご守護は人間をお創り下された時の「女ひな形、苗代の理」で日夜万物にお働き下さる。これを仮に「いざなみの理」と命名すると、女子の子宮、卵子、月のものと受胎のご守護、世界では、田地苗代もの一切を司っている。子供が母親の胎内に宿って成長できるのも、植物が地に根を張り育つのも、皆な「いざなみの理」のご守護である。神様は「屋敷は神の田地やで、蒔いたる種は皆な生える」と仰せ下さる。天理を神の田地に蒔き付けておく事が肝要である。
 この理のご守護にかなう心遣いは、白蛇(しろくつな)の理に合わせて慈愛深く助け一条に励む心、母なる大地のようにすべてを抱えて受け入れる心、種を腐らさぬよう、芽を出し根が付くよう育てる心である。親神様の「女ひな形、苗代の理」の心の理にもたれ、この理に適うよう心がけて通れば結構の理を味わう日々を迎えることになる。逆で通るとご守護が頂けないことになる。
 「復元第29号は、御教祖伝史実校訂本の上には、御教祖(おやさま)は伊弉冊命(いざなみのみこと)の御魂で、人間元創(はじま)りの親様であらせられる、とある。諸井政一の正文遺韻抄12-13pに、神様のお話しに、『この屋敷へ、木仏、金仏、石仏を据えたところで、神が入り込んでものを言わする訳にいかんで。元なる親の魂に、人間五体の生を受けさして、神が天よりその心を見澄ましていた』、と伝えられる、とある」。
 伊弉册の命(いざなみのみこと)の神楽面は女神。
 この理合いを星天、指に準(なぞら)えれば、天にては七夕の織女星。指にては右小指。
 仏教に顕われての神様の御変化は、伊勢の外宮・天照皇大神宮。

【いざなぎ、いざなみ対の理】
 いざなぎの命、いざなみの命。この二神は夫婦父母にして月日二神に添い給う。又、つきよみの命、くにさつちの命に添い給う時もあり。 元々なき人間世界の時に、この二神が人間の雛形と成って下さった。
  「うをとみいは人間の顔で、体もいらいらの鱗がなかったので、その姿を見て、いらいらのうろこがないので、『いらいらのない』と云う語呂合わせ的な意味で、いらなぎのみこと、いらなみのみことという神名がつけられた」 との口伝がある。(松谷武一/H15.05.22日「元の理と世界たすけ」参照)





(私論.私見)