更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「天理教教理を学び神意を悟る」の「古老より聞いたはなし」の「山本利三郎」を確認しておく。
 

 2006.1.23日、2012.9.18日再編集 れんだいこ拝


【〔みちのだい第33号「教祖特集号」24頁〕生神様   山本よしを (本部婦人) 】
 山本利三郎父は、嘉永3年正月13日生まれで、河内国(かわちのくに)柏原で「綿利」という屋号の綿問屋の長男であった。明治3年秋、21才の時、村相撲で肋骨(ろっこつ)を打ったが因(原因)で3年間肺を病み、命旦夕(めいたんせき/今日か明日かと死が迫っている状態)に迫った。父親利八は愁傷(しゅうしょう)のあまり、明治6年夏、人のすすめにより瓢箪山稲荷(ひょうたんやまいなり)神社の神籤(みくじ)を求めに行った。「東南に救ける神ある」と出たこの札を持って、病人に告げようと室(部屋)に入ると、父より先に、「今朝、夢をはっきり見た。東の空明るく、その中に赤い着物の老母が招かれる」 と、まったくの一致に思案している時、見舞いに来た植木屋にこの話をした。植木屋は小首を傾(かし)げ、「我が家に下宿している大和布留(やまとのふる)の木挽(こびき)が、『大和の庄屋敷という所に、おみきさんという生き神様がござって、どんな病人でも救けられる』」との話。すぐその木挽に来てもらい、道を聞いて、父利八一人で旅立って御地場(おぢば)へ帰り、辻忠作先生のお世話でお目通り願った。教祖は、「この屋敷は人間はじめ出しで、生まれ故郷や。その病人、連れといで」との、ありがたいお言葉を頂き、帰国し利三郎に伝えた。利三郎は生死の中から、「死んでもいいから連れて行ってくれ」との懇願により、戸板に乗り、家族や親しい村人に水盃(みずさかずき)の別れをして、お屋敷に到着した。そして教祖にお目通りさせて頂いた。「今日来るか、明日かと待ってたんやで。案じることない。この屋敷に生涯伏せ込むなら救かるのや」。続いて、「国の掛け橋、丸太橋、橋がなけねば渡られん。根を掘る道具、確かに受け取った。差し上げるか、差し上げんか、荒木棟梁(あらきとうりょう)/\」というお言葉を戴いた。「早くお風呂へお入り」、と仰せ下され、お風呂に入れて頂き、教祖自ら爪を切って下され、お粥を戴き、六日目に霊救に浴して、一ヶ月の滞在をさせて頂いた。時は明治6年、秋の終わりであった。

 (国の掛け橋、丸太橋とは、布教一条。根を掘る道具とは、元の理を説き、因縁の根を掘るよふぼく)。 その後は、おぢばつとめ、河内布教に専念致し、地方の入信では、おぢば住まいの第一番で、河内伝道の先駆者とならせて頂き、子孫に理を残して下さったのである。
【参考】「道のさきがけ 教祖伝にみる人物評伝」より
  山本利八・山本利三郎、国の掛け橋、丸太橋の使命を担って

  利三郎は河内国志紀郡柏原村(かわちのくに/しきぐん/かしわらむら/現大阪府柏原市)に、利八・くまの長男として生まれた。家は「綿利」の屋号を持つ農業兼綿商。利三郎は長じて家業を手伝っていた。相撲好きで、村相撲の四股名(しこな)は「やつがね」。ところが21歳の時、相撲で転んだ時の打ち所が悪く、床に伏してしまった。利八は息子の病を何とかして治そうと、あちこちの参り所へ足を運んだ。瓢箪山の稲荷さんにもお願いし、おみくじ(御神籤)を引いて、易者にも占ってもらった。 三年も過ぎた頃、布留村(ふるむら/現天理市布留町)出身の木梚屋から「大和の神さん」の話を耳にする。利八はすぐに庄屋敷の教祖を訪ねた。教祖は、『この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待っていたのやで』と。帰宅し、利三郎にその事を話すと「今すぐお参りしたい」と言う。家族の者は制止したが「死んでもええから」の言葉に絆(ほだ)され、水杯の上、戸板の乗せて夜遅く家を出た。 翌日夕方、庄屋敷に着き、付近の家で一泊。翌朝、瀕死の利三郎は教祖の前に。すると、 『案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるのや』、との力強いお言葉。続いて風呂に入るよう促された。身内の者は心配したが、利三郎は湯船につかり、教祖に背中を流して頂いた。病はいつしか癒え、お粥を三杯も食べた。一ヶ月後、村に戻ると、その元気な姿に「炒り豆(いりまめ)に花が咲いた」と村人は驚いた。明治六年年(1873)夏、利三郎二十四歳の時のことである。

   利三郎はこの時、教祖から戴いた、『国の掛け橋、丸太橋』 、とのお言葉を胸に、以後、布教の上で河内一帯に貴重な足跡を遺(のこ)した。明治十四年頃から教祖の間近に仕え、取次人としての役割も果たした。父利八も、お屋敷に勤めていたという。利三郎は、教会設置運動の相談の場にしばしば出ており、また明治二十年陰暦正月二十六日(陽暦二月十八日)のおつとめで「かぐら」「てをどり」を勤めている。〔「道のさきがけ」79-81頁〕
【参考】天理教教祖伝逸話篇52-55頁「33、国の掛け橋」
 河内国柏原村の山本利三郎は、明治三年秋二十一才の時、村相撲を取って胸を打ち、三年間病の床に臥(ふ)していた。医者にも診せ、あちらこちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、命旦夕(めいたんせき)に迫ってきた。 明治六年夏のことである。その時、同じ柏原村の「トウ」という木挽屋へ、大和布留から働きに来ていた「熊さん」という木挽がにをいをかけてくれた。それで父の利八が代参で、早速おぢばへ帰ると教祖から、 『この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待っていたのやで』、と結構なお言葉を戴いた。戻ってきて、これを伝えると利三郎は、「大和の神様へお詣りしたい」と言い出した。家族の者は、「とても大和へ着くまで持たぬだろう」と止めたが、利三郎は、「それでもよいから、その神様の側へ行きたい」とせがんだ。あまりの切望に戸板を用意して、夜になってから秘かに門を出た。けれども途中、竜田川の大橋まで来た時、利三郎の息が絶えてしまったので一旦は引き返した。しかし家に着くと、不思議と息を吹き返して、「死んでもよいから」と言うので、水盃の上、夜遅く提灯を点けて、また戸板を担いで大和へと向かった。その夜は、暗い夜だった。 一行は、翌日の夕方遅く、ようやくおぢばへ着いた。すでにお屋敷の門も閉まっていたので、付近の家で泊めてもらい、翌朝、死に瀕している利三郎を、教祖の御前へ運んだ。すると教祖は、『案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるのや』、
と仰せ下され、続いて、『国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差し上げんか。荒木棟梁々々々々』、と、お言葉を下された。それから風呂をお命じになり、『早く風呂へお入り』、と仰せ下され、風呂を出てくると、『これで清々したやろ』、と仰せ下された。そんな事のできる容態ではなかったのに、利三郎は少しも苦しまず、かえって苦しみは去り、痛みは遠ざかって、教祖から戴いたお粥を三杯、美味しく頂戴した。こうして教祖の温かい親心により、利三郎は六日目にお救け頂き、一ヶ月滞在の後、柏原へ戻ってきた。その元気な姿に、村人達は驚嘆したという。





(私論.私見)