略伝その1


 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.3.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「御水屋敷並びに人足社略伝その1」を確認することにする。「飯田善六、安堵事件、人足杜」その他参照

 2007.12.5日 れんだいこ拝


【飯田岩次郎(いいだいわじろう)(1858~1907年)略伝その1】
 1858(安政5)年3.23日、飯田岩治郎が奈良県生駒郡安堵村(安堵町)大字東安堵51番地に誕生する。飯田家は代々の豪農で跡継ぎの善六に子なきを以て、弟文吉に妻を娶り一男を挙ぐ。この子が岩次郎太*(もとかず)と名づけられる。

 1863(文久3)年、岩治郎6歳の時、初秋より腹痛の気味あり、追々重症となり漸次病勢加わる。12月には一命も危なくなった。善六夫妻はおぢばに願い出た。教祖(おやさま)は、待っていたと仰せられ、安堵村の飯田宅まで足を運ばれた。先代の伯父に会いに来ましたと言われたという。岩治郎のお腹をなでられると痛みは治まり牡丹餅を食べた。1週間ほどの滞在の間に近所の子供と遊ぶまでになった。この時「水のさづけ」を頂いた。岩治郎が釣瓶(つるべ)で汲んだ井戸水を飲めば病気が治るという特別の力をさづけられている。飯田家は「お水屋敷」として近隣住民に知られるようになり、「水のさづけ」を取り次ぎ人々を助けるようになる。天理教開祖の中山みきに助けられ信仰の道に入る。

 1864(文久4)年、正月、教祖は再び飯田方に出向かれ40日ほど滞在された。このとき、教祖お手製の大のぬいぐるみを頂いている。岩治郎は13歳頃まで足しげく教祖のもとに通うようになった。または滞在して教えを受ける。家に帰ると腹痛が起こり、教祖のもとに戻ると気分がよくなるということが繰り返されたという。

 春より、13歳頃、安堵村に帰って学問に励む。

 1876(明治9)年、19歳の時、再び大病になって、おぢばへ運ばれ、教祖にたすけられた。そのまま3年ほどお屋敷に滞在する。「この時人足社と言われた」。教祖は岩治郎を「人足社」として貰い受けられた(さ30・6・3参照)。

 21.2歳頃、その後、気ままに遊びを覚え、東京へ逃げて、遊学もし、人生勉強もした。まもなく安堵に戻り私塾も開いている。

 1881(明治14).1.15日、岩治郎24歳の時、松尾市兵衛らの流れをくむ信者と飯田の信者が合同で積善講が結ばれ、講元となった(副講元は松尾輿蔵21歳)。12月、堀部十重と結婚。 

 1887(明治20)年、教祖は現身(うつしみ)を隠された。翌日の集合写真に若治郎の姿が見られる(「増野日記」には、おつとめの鳴物に出たと記載)。

 1888(明治21).3月、教祖1年祭は、おつとめ(岩治郎は笛)のあとの式典途中で中止を命じられた。翌日の教会設置の協議が岩治郎宅で開かれている。翌4月、教会設置が認可され、岩治郎は本部準役員に任じられた。

 1892(明治25).3.26日、平安支教会設置が許される。6.7日、講社は次第盛大となり、信徒の請願を容れて平安支教会設置を出願し昇格する。飯田岩治郎が会長に就任する。岩治郎の「水のさづけ」は鮮やかな守護をもたらし、他系統の信者もおぢばへの参拝の途中に立ち寄って、お水を頂く者が多くなった。明治30年頃には、平安の信徒も1500戸を数える。 

 1894(明治27).11月、最初の神懸かり状態が現れる。

 1896(明治29).4月、手狭となった教会建物を新築し、初代真柱臨席のもと開廷式を執行する。

 同10.28日、夢に教祖が現れたという(さ29・12・7参照)。この頃から、お指図、お筆先と称するものを出すようになった。「水のさづけ」に使うお水も親神・教祖に供えずに渡すようになり、おぢば帰りもあまりしなくなった。やがて、水のさづけは、人に授けられたものでなく、屋敷に授けられたものであると言い始め、役員らに「水と火とを打ち分けると仰せある。本部は火の元庄屋敷で、この屋敷は水の屋敷。水は元の親、それに続いて火となる」といった話をした。本部からは何度も人を派遣して翻意を促したが聞き入れず、本部改革を求めるのみであった(さ30・6・3,7・3,7・14,8・2参照)。岩治郎につき従う者は、平安部内の外にも出てきた。

 1897(明治30).11.13日、「おさしづ」を伺うと、「二所も三所も出来るものなら、元のやしきは要らんもの。……今日の目は一寸片付けて、すっきりして了うがよいでへ」(さ30・11・13)。

 同11.17日、本部は、岩治郎外2名の教導職免職、翌18日、岩治郎の本部準役員と平安支教会長の懲戒免職を決め、12.1日、平安支教会を龍田に移転した。岩治郎は教導職等の件で上京、本部からは松村吉太郎が神道本局と交渉のため上京した。平安の信者は、ほとんどが岩治郎のもとに走った。
 1899(明治32)年、岩治郎は大成敦の教師となった。

 1900(明治33).3月、大成政所属の大道教会(現、大道教、昭和21年)を設立。晩年、教祖に無い命をたすけられ、50歳まで生きさせて頂くことができた、と語っていたという。

 1907(明治40).5.16日、50歳で死去。事前に自分の木像を遣らせ、静かにそのときを待っていたという。
 飯田岩治郎が、みき亡き後、本席に挑むように天啓の取り次ぎ始めた。天理教を破門され、大道教を旗揚げして神の啓示を広める。「百年経ったら、私の真実が明らかになる」、そんな謎めいた予言を遺している。

【御水屋敷並びに人足社略伝緒言】
 このあらましの伝え文は、僕(やつがれ)に道を伝えはべりし上田の美澄大人(うし)に伴われて、去る未(明治28年)の春、御水屋敷へ詣で、大人の引き入れに神の社と称うる方の太*(もとかず)君におろがみ、謁見の栄を得、爾来幾度となく教えの祖の説きおき給いし直竹の節々を示し、*はれる懇(ねんごろ)の忘るる時しあらねば、いよいよ君を尊む心の深くなりたるに、こたびしは、しかほと御許に使えまつらう幸をさえ得させ給うべく、いとも学の道の限りを教え給えるぞ。かしこくも身にしみはべりぬ。将にその教えを授け給える間に間に、君の身にかかつらうありにし旧ことより今日の日に至れることども語り聞かせ給えるうれしきに、そうふんもととし、且うは君の祖父君のことどもをさえ何くれとなく能もわけ知れる旧老たちの、まめやかに語りつくるを、かいあつめただ己が真心を磨く科にとはなしぬ。しかるを同じ道行く友達が、これは天道ものなれば、世に広めるこそ善けれめと、ひたぶる勤るにぞ、もとより秘めおくべきにあらざれば、ふんで(筆)をもとり直さで、それがまま急ぎ梓に上疏のこととはなりぬ。

 明治の30と古き暦の神無月はたちまり8日(明治30年旧10月28日) 武蔵野に萌え出る蕨の郷(埼玉県蕨市)いたくらの松操(板倉喜代平)

【御水屋敷並びに人足社略伝本文】
 そもそも御水屋敷人足社(にんそくやしろ)と称するは、神道天理教会本部を西を距(へだて)てる二里、即ち奈良県生駒郡安堵村大字東安堵51番地、天理平安支教会会長飯田岩治郎太*(もとかず)君にして、君の家代々豪農の名、世に知られたり。しかるに祖父利兵衛なる者、米穀綿類の商業を営み、商略を失し、大いに累代の家屋を破りたり。四子を産み、世子に善六の通称を襲わせ、次を文吉、三男を槌太郎、一女を**と名づく。三男と一女は幼にして没す。跡継ぎの善六、子なきを以て、弟文吉に妻を娶り一男を挙ぐ。時に安政5(1858)年3月23日なりき。これ即ち岩次郎太*(もとかず)君なり。善六、子なし、愛育甚(はなは)だ厚く、且つ(養母幸子は同村大字西安堵、川畑仙助の女)、弟文吉と心を合わせ天地神明に祈誓を凝らし、家運を挽回して亡父の冥を慰めんと専ら節倹を主とし農事を励み、遠近の児童に習字読書を教授し、貧民を憐れみ、慈悲心深きを以って郷人その影をも拝し、遠人その徳を養い来る者ひきもきらざりき。
 太*(もとかず)君幼時よりその性温良にして英知ありなすところ他の小児と大いに異なるあるを見て、之を後来我が家に幸いを与える為、天の賜うところなりきと寵愛する*ならず。然るに君6歳の初秋より腹痛の気味ありしが、追々重症となり漸次病勢加わりしかば、医師の今村文吾、古田賢良、佐々木佳斉等、術を尽し、薬餌に怠らず、又は奈良の二月堂にて七人コ垢離をとり、生駒村宝山歓喜天に於いて大祈祷を願い、その他随所の神社仏閣へ祈祷するも、更にその効験顕われず、今は詮方尽きて近隣の者も皆な寄り集い手をこまねき、一大息するのみなり。

 この時、隣家の平井伊兵衛(平井氏の宅地を教祖様より米一升をこの屋敷へ伏せこむ。米屋敷と名づくと仰せありし由、何れそのかやしは大道おおくわんとなりて現れるることならん)なる者申さるるに、拙者の親類、生屋敷の絹屋の隣に、不思議なる話をして人を助ける老婆があるとのことを聞きたり。これを頼みて何かの障りでもあるかを見て貰うては如何と勧めるまま、然らば直ちに請託せんとて、僕の庄助を走らせしに、折しもその老婆には糸を紡ぎ居られしが、庄助の姿を見るや否や、「待った待った待ちかねた各各」と膝を叩きて喜ばれしと、その時傍らに針仕事を為しておられたる娘子(こかん、おしう)等は、また老婆には何国の人かは知らぬに、不思議なることを伝わるるよと、つぶやきあえりと。よって庄助には御頼み申したき由(よし)つぶさに申し入れしに、速に請けがいて、別に身ごしらえもせず、そのまま出でられ、道すがらも勇み勇みて来り、飯田家の門を這入るとき、今日は先代の伯父に逢いに来ましたと、云われたる故、これを聞きたる人々は、最も不思議なることを云わるるなりと語りあえり。
 この時、文久3年12月10日の七ッ時なり。老婆とは天理教教祖、奈良県山辺郡三島村中山善兵衛様の令室みき様なり。教祖には御自宅の門を出でらるる時、神様より先代の伯父に逢わせるぞと御告げありしと後に語られたり。

 老婆には家族の者にも一例を述べ、病人の枕辺に至り満面笑みを含ませられ、「薬要らぬ、川に流しておくれ。祈祷するにも及ばぬ。皆な断りなしたが宜しい」と云わるる故、その意味に従い、奈良、生駒などへは断り役を遣りたり。然るに今まで悶え苦しみ至りし病人の腹部を両手にて一、二度撫でさすると忽ち腹部治り、折しも親類より牡丹餅を買いしが、それを食べたいナーと云わるるまま、一つ与えしに食し終り、又一つ乞わるるも、両親をはじめ皆なの人々も百日余りのこの病人、殊に永らく絶食なりし故、過ごしてはならしど半分与えたり。かく忽ち食事まですすまるほどの御利益のあるとは如何なる神のなす業かと一同驚き恐れ稀有の面持ちばかりなり。
 その翌日、腹痛始まりしに、一度撫でて貰うと忘れたる如く治まり、御両親の喜び云うばかりなく、御宅の都合宜しくば暫く御泊り下さるようにと願い死に、御心よく御承知になり、それより日一日と力つき、痩せ衰えたる身体も今日より明日と肉づきて、一週間目には近所の児童を集め走り競べをなして遊ぶ程の元気になりたり。
 教祖には御入りありても別に、まじないようのこともせず、神仏を祈念するでもなく、居合わせた人にこれから先の道すがら、その道筋と云うのはな、これこれに変わる、世の中はかようかように移るのやと。又は人間の始まりはどういうことと云うならば云々と謡う如く、話する如く耳慣れぬ不可思議のことのみ語られ、又この小児には水の授けを渡す。水の授けと云うのは、この小児の汲みたる水を飲んだることなら、如何な悩み患いも助けるぞ。水は五勺(しゃく)入れのつるべにて汲むべし。五勺が五台となる道がつくのや。五合が五升となると、おうかん大道になるのや。

 直ぐに五勺入れのつるべをつくれ。とのこと故、図に如く作らせたるに、おぢさんに汲みようを教えんとて君を抱き水を汲み上げ、この後はかようにして汲むべしと申され、
 「さあさぁここのいづくへ参るとも、あの井戸にて、あのつるべにて汲む心して汲めば同じ理に受け取るぞ。さぁこの屋敷に一升入れの油壺を伏せおくほどに、汲んでも汲んでも尽きん。これが末代のことやで。油は水へたらすと妙に拡がろうがな」
 と神様より御言葉あり。
 このこと一時に近郷近在に誰知らぬ者なきように、パッと評判高くなりければ、伝え聞き助けを受けんと来る者多くなり。不思議なる御利益を皆々戴きたり。時既に大晦日に迫りし故、ひとまず生屋敷へ帰られ、その留守中も続々助けを受けに来る者あり。君には喜び勇んで御水を汲んで与えるに如何なる難病も全快致されたり。しかれども十分来る内に一人、二十人来る内に一人くらいは勧めても頼んでも手遊び等にまぎり居りて、何となく不機嫌にて汲まざることあり。拠なく汲み与えるときもあるが、これ神様の御立腹強くして助らぬを悟らす為なり。
 翌年(文久4年、1864)正月中旬に老婆御出でありしが、程なく御帰りになり、二月下旬、君又も激しく腹痛み出したる。折しも老婆来合わせたり。この時、御自身に御細工なされし玩弄物の犬をおぢさんに御土産(みやげ)なりと持参せられて賜りたり。(白木綿にて造りたるものにして、今なお保存して太*君、常に珍重せらるるなり) 
 ここに不思議なるは、かく日々多数人来るうちに、病人の門前へ来ると君の頭部痛みたる時は、頭部を患うる者の来るをお知らせ下さるなり。腰の痛む時は腰の悩む人が参り、腹の痛みいる時は腹部を煩う人の必ず助けを受けに来る印にて、君にこの印ありし人々は、この屋敷に居るうちに如何なる悩みも忽ち全快したりとなん。これ神様の御霊験を人間に知らしめる為に種々なる御働きのありしことにて、人智のはかり知ることにあらず。
 老婆のまたもや安堵に参りおらるると聞くや、ますます多人数毎日夜の明けるのを待ち手は寄り来たり、門を開くを待ちかね、我先にと入り来る有様なれば、家内一同仕事もできぬこと故、母上の思うには、これでは働くこと適わん、老婆に帰りて貰うにしかじと心のままに申し上げたるに、不思議なるかな、立ちどころに身体そのまま動くことできぬように痺れ、息の止まる如き心地して言葉も出し得ず、如何ともなすことならぬよう相成りたり。家内一同驚き恐れ、顔見合わせ居たるのみなりしが、父上には老婆の前に進み、色々と御詫び申し入れたるに、老婆は何時乍らお笑い為されて、
 「さぁさぁこれでない寿命も助かるは神の力なるぞ。さぁさぁ間違いやで々々、我が子さえ助からば、ひとはどうでも良いと云う心、その心を入れ替えて、懺悔(さんげ)させねばならん」

 との仰せに、母上も恐れ震えて懺悔せしかば、すぐ様自由叶うになりたり。
 かく眼前に心の向けようにて、罰も利益もあることを見聞きする故、その噺の四方に響き、漸々大阪又は河内等の遠方より慕い来ること、はなはだなりし故、法隆寺村の山伏の取締役古川豊後なるもの、このままに捨て置けば容易ならざることなりと大いに怒り、奈良の金剛院と同道にて、菊の金紋附けたる両掛に位符を立て威儀厳かに入り来り、一息に取りひしかん勢いにて老婆を呼び出し申さるるには、「何故なるぞ、官職もなく多人数を集め祈祷するの、助けるなどとは国法を破る不届き者め」と罵リ厳しく談じ詰めても、老婆は少しも意とせず「アハハ---」と御笑いなると、益々猛り立ち「身分柄をも顧みず嘲り侮るとは不埒千万なり、この申し開きせずば捨て置き難し」と脅しつけ、この上は如何になり行くものやと居並ぶ者は手に汗握り控え居りしに、老婆は徐(おもむろ)に申されしには、「妾には何も知れませぬが私には神が下りて何事もおっしゃるのや」。と云いながら、扇子を御持ちになると見えしが、「さぁさぁさぁ問答々々々々何なりと尋ねィ----」と仰せらるると、両人にて種々なる難題を申しかけしが、一々水の流るる如く鮮やかに御答あり。

 「さあさぁ尋ねィ々々根競べ知恵比べ、そんな浅いことより尋ねることがないのか、知らないのか、馬鹿者め---」と大音声にて睨みつけると、両人共身体竦み、一言も云い出でず平伏なしたるに、「さあ許さぬぞ---神をあなどり---」と仰せらるると、頭を下げたままぢりぢりと後ずさり、上り口の板の間まで降り平伏なしいたり。両人震い戦(おのの)き哀れにこそ見えたり。来合わせたる多くの人々にも太息ついて恐れ頭を上げる者とてはなかりける。
 善六君には、これを気の毒に思し召し、隣家の松田清二郎と老婆に向い、彼らは真の神様とは知らず悪口雑言せし罪を改めて懺悔致させる故、我々両人に対し御許しあらるるようにと一心込めて御詫びせしかば、ようやく御怒り解け、神様はお上がりになりたり。山伏両人は恐る恐る座敷に昇り、尊き大神の御掛かりなさることとは知らず凡人の所為と侮り無礼致したることどもを詫び入れしに、老婆には心を改めて神様へ懺悔したが良いと申し聞かせたり。

 両人は慎みて云わるるに国法のありて、御許可なきものは人を集め祈念祈祷のできぬ事なる故、我々宜しく手続きを致し、御水や御守を人に与える事も又御老体に於いても公然に人助けのできるように取り計らい申し上げたし、よって我々に御任せありたしと老婆の御機嫌をとりしに、老婆にも段々と神様の御話しありて、この屋敷のことに至りし時、神様御下がりにて、「さあさぁこの屋敷をこうずい場所、水屋敷と云う因縁をつけおく」との御言葉に、然らば之より京都へ上り吉田御殿へ両所の御願い致します。この納金とて老婆より五両、飯田家より三両受取り帰られたり。
 老婆には彼らは金が欲しいのやから、マ-任しておいたが良いと笑い居られしが、程もなく御許しなりとて奉書へ立派に書かれ死を二通持参せられたり。この時より左の御守りを参詣人に渡すこととなり。時は文久4年子の4月なり(文久4年2月改元、元治元年、1864)。この二通の許しと云うは、吉田より出でたるにあらず、古川豊後が私利を貪(むさぼ)らん悪意より偽証を作り渡したるに、このこと早くも総取締役守屋筑前の耳に入り云々ありたる事は略す。

 (註 この中山小かん宛の神道裁許状は大和国神職取締役従五位守屋筑前が、この時、古川豊後より没収し、永らく蔵堂の村屋神社に保管されていたものを、昭和56年に当神社宮司/守屋広尚氏が天理教教会本部史料集成部へ寄贈さる) 
 老婆には三十日ほど御滞在なされしことなれば、日々の賑い門前に市をなりたり。3月下旬に生屋敷へ御帰りになりたる故、参詣人には御水を渡し、又は老婆を慕う者は案内致しては生屋敷へ送りたり。
 「教祖の他所へ出て御助けを為されしは、太*君が始めにて、又生屋敷へ遠方より参詣になり始めたるは飯田家より案内し、あるいは送りたるより始まる。これ神様の深き因縁をつけらるる為かくなされたることならん」。
 老婆御帰宅の翌朝、君には腹痛みだし、苦しむより下男に背負わせ連れ行かんと村外れまで出ると治まりたり。痛みなく戻らんとすると又痛み出し、この後幾度となくかかる事のありたり。老婆の許に居る時は何日遊びいても身に悩みつくことなく母上と暫く泊り居て、老婆には、おぢさんよ々々と大切に致さるる故、君には帰ることを少しも思わず、然るに父上には非凡に愛さるところより顔が見たい故戻れ々々と度々下男を遣わすも、老婆の機嫌よく、「さあさぁさぞお父っあん会いたかろう、行くな行くなよ」と云われし時に戻り、二、三日は悩みもなく、その迎えの者に向かって、「今日は帰らねばならぬのか」と御機嫌悪しく仰せらるる時に戻りしその夜は何時も悩みつき夜中に連れ行きし事幾度ありしか数え尽されず。雪の時も雨の夜も連れ行く母上の心のうちこそ思われける。
 或る時、両眼痛みて堪えられぬより雪の夜を冒し、下男を連れて行き門を叩いて起こしたりしに、老婆と小かんさんと並び居て両人とも膝を叩いて、「待った待った待ちかねた々々々」と勇み居られしが忽ち痛み治まりたり。その翌朝、老婆には一層喜ばれて、「おぢさんよく来た来た。今に良い嫁さんをもろうてあげるよ」と、君の参る毎に喜び大切に持て囃したりしが、13歳(明治3年、おしう出直し)の春より文学諸芸を仕込まんとて父上より御願い致し宅へ戻り毎月二、三回づつ参りしが、不思議や13歳以来は悩みなく学問を勉強せられたり。
 君18歳の時(明治8年、「中南の門」普請)、離れ座敷の御普請始まり、その手伝いをなし板削りなどして働きおられしが、はからずも発病いたし次第次第に重くなり、医師も充分手を尽せども痩せ衰え、痛みたるには非ざれども一日一日と肉落ち目もあてられぬ姿になりけるは、両親に於いても、このたびこそとてもこの世の別れなるべけれと先ず神様に御伺いたしてみんとて御願いに出でしに、「さあさぁ病ではない。神が家を作る。掃除するのや。案じるのではない。懺悔せい懺悔せい」との御言葉により一同安心いたし、君には13歳以来素通りし道筋を思案して、懺悔し考えて御詫びをなしたるに忽ち力づき、父上は心配して三日目に尋ねに人をやりしが、肉こそつかねど充分元気づき勇み居られしを見て驚き戻り、こま様子を噺しされしに父上には小躍りして喜ばれしとなん。
 一週間目には本復致し、然るに数日を経て腹痛み出し、堪えかねる時、御伺い申せしに、「さあさぁ神が家を作るのや。今、柱のあら木どりや。掃除せねばいかん」とて、段々心定めの御話しあり。又懺悔の角々を申し上げ、一時治ると又痛みだし、「さあさぁ柱を削るにもあらしこより、じやうしこと段々磨くのやと神が申さるる」と、程経て痛み出し、「今度は梁の拵えや。今度は板づけや。敷居や敷居や、天井や」と、度々御手入れあり、これも神様より段々の御話しを聞かする為にかく為されしなり。又々痛み、「屋根葺くのや、壁塗りや」と数え尽せぬ程に毎日毎日御悩みを頂き、或る時激しく痛み出し何分にも堪えきれぬ故、余り苦痛の甚だしきままこの上は懺悔の致し方ありませぬ。一層のこと御迎え取りいただきますと云われしに、「そうあろう々々。この世の懺悔はなくも、人間には知れぬ前世に、丹波市の田村義兵衛(通称/田甚)と云う者にて、両替を渡世として悪事をなしたること、例えば百文を九十九文に使う如き埃に埃の重なり、これに利が重なりてある。その他にもあるが、これ第一の悪事や。これを懺悔すれば良い」との御言葉につき、懺悔なしたるに忽ち拭(ぬぐ)うが如く苦痛忘れたり。それより日を追って気力弥々備わり、母上も大いに喜び、ひとまず安堵へ連れ戻り養生致し永らく悩みなかりしが、老婆の許へ御尋ねせしに突然腹痛みだしたり。「さあさぁ話しある。両親を呼べ」との御指図により人を走らせ、両親を呼び寄せ、御伺い申したるに、
 「さあさぁよく聞け。この者は神の社に貰い受けるぞ。神の人足社(にんそくやしろ)と定めるのや。今日より別鍋を食べさせ、今日より心を濁すでないぞ。如何なることに迫るとも、決して腹を立ててはならぬ。他の者の如くには働かなくとも良い。働こうとも思うな。----腹を立てぬのが何よりの働きや。この者はこの道の、目明かしに神が使うのや。神が貰い受けたとて家の世継ぎには不自由ささん。今日の日より神が引き取るではない。神の方に用のある時、使うばかりや」

 との御言葉に父母とも大いに喜び、只今より差上げても止むことなきに、家の子はこれ一人と思召し下され相続に差支えなきようにして下さるとは有難きことこの上もなき次第。さあさぁ差し上げます々々と、両親言葉を揃えて喜びのあまり洟を流されたり。これにて御障りは治まり、又も悩みつきしに老婆には席を改め、扇子を御持たせになり、暫くありて悩みは消えたる心地せし時、何ともありませんと申せしかば、老婆は、「それで良し々々」と申されけり。
 神様の身上澄みきりたるを見定めて御入り込なりたるならん。これより教祖は数多の赤き衣をもつて十二の菊の紋を君にも手伝いさせて造られたり。この屋敷の紋の数と御用いなさるる時とは御噺ありたれど、憚るところありて之を略す。用いる時来て思い合すべし。
 この後、度々御悩みあり、その都度都度、神様よりの御話しあれども、これを挙ぐるに暇非ず。月に四、五度は一日あるいは二日ぐらいずつ家へ戻りたるも前後三年ほどは中山家へ母子共に詰め切りて、そのうちの母子の御艱難のこと筆紙に尽し難ければ前哲ついて尋ぬべし。君幼年より御障りの折は、三日五日あるいは十日三十日ぐらいも絶食せられし事ままあられたり。これ神様の身の内御掃除なさる印ならん。この頃より御悩み遠くなり、翌年春よりは体力爾々増し勇気之に添い全身肥満し近隣の者は逢うたびごとに、恵比須様よ大黒様に似たるよと云わるる如くになりたり。然れども食事を一週間ぐらい為さらぬ事あり、食の有無に拘わらず毎日中山家の嫁僕と畑へ出ては野菜を荷い又は田を耕しあるいは草切など働力するも疲労することなく皆な人の訝(いぶか)しく思うことなりし。これひのきしんの率先為したるなり。絶食中、この労に堪ゆるは実に尋常の人の為し得られぬことなり。
 又農間に老婆の傍らにて、御言葉を写し取り、人々に与えおられしが、ある時、山本某(山本利三郎か)の依頼に任せ御筆先を写し始めしが、因より君には習字は父上及び田中大人等に、文学は田中晴夫又は筒井竹水翁に学び、幼児より一を聞いて万を悟るの妙智を備えたる御身の上故、幾とせならずして大いに文筆に秀でられしまま筆勢に任せ眞名文字(漢字)を加え書かれたるに、不思議や忽ち身体痺れ筆を持ちし手の動かすこと叶わず。然るに偶々老婆そこに参られ、「この当時本部に居合わせし人々より聞くがままを記載せしが、御社御一覧の上仰せらるるには、手の重くなりしのみにて身体の痺れはなかりしなり」と。別冊より記す「この事、本部にて山本老人に聞きたる故、その聞きし通りに記載して御社に御一覧願いしに、このことに相違ないが、身体痺れ手の動かぬ事はなかりし。教祖の前にて書きしに直に神がかりありての御諭しありたりなり」と。

 「さあさぁ多くの人の中へ、いり豆を出して見よ。食べらるる人もあるが歯の悪い人は食べられまいがな。神は如何なる文字も知りておる。堅苦しき文字は読む人たくさんはあろうまい。思案せ思案せ」との御言葉にて目の覚めたる心地して御詫びしたるに自由叶いたり。
 ここに老婆の長男秀司(善右衛門とも呼びたり)、その妻まつえ(平等寺村より嫁したる人なり)の両人とも、その性吝嗇(りんしょく)にして老婆を常に過酷に取り扱うことなれば、寄り来る他人は日々に何がな持参せねば不機嫌にして、安堵よりは両人の飯米は勿論その家族中へも、それぞれに毎度金銭を送り、又は村中へ贈り物などを勤められ、二日目三日目ぐらいに何ぞ代わりし品を持参して機嫌を取り、なれども婢僕同様に母子供に追いつかい難儀なることを云いつけらるも神様のかくなさる事にて、この道を神が通らせるものと思うより、伝わるるままに働き居りたり。
 君には成人するに従い老婆をばいとも尊とく慕いけれども、一方にては母上の日々我が身の為にかくの如く辛苦せらるるを見れば、快しともならず。さりとて神様の伝なれば憎みならず叉退きもならずと心の動き始めて我が身のみなりとも楽の道を求めんと思う。折しもよけれ、山本某、仲田某(仲田利三郎か)等は、君の家より多分の金を中山家へ運び常に入り費を惜しまず人々の機嫌を取り又在所がらにも似ず多くの金子を懐中せらるるを見て、君の何を云うても背かぬを幸とし、これを誘引出し、何がな馳走にもならんと度々誘い出し、散財致させ終には賭け事など教え、段々悪しき路へ手引いたしむ。
 君には前々より父上には若き者は何か楽しみの道なくては叶わじと思えども別に良き工夫もなければ纏まりし金子を渡し置き、常に言わるるには金銭は人に恥をかかぬように使うべきものなりと。君思うには金子を遣うには面白き道のあるものよと人の勧むるまにまに博奕にあるいは芸*に娼*にと段々遊ぶ事に心を入れ、終には誰憚る気色もなく次第に次第に身を持ち崩し、家に戻るは稀にして料理屋を常の栖家(すみか)の如くし又は妾を別戸させるなどして日々費やす金銭実におびただしいかりければ、之を見聞きする近所の人々より善六殿はこの事知らざるべし、忠告して意見いたさせんと、ありし次第を話せども、敢えて驚きもせず又怒りし様子もなく却って喜ばれ、身体の健康なればこそ放蕩も見真似るなり、道楽の為死ぬ者はあるまじ、病身にして痩せ衰えるを見て苦労して暮らすよりましなりやと少しも意とせず。

 又、云わるるには、人の難儀になることをしてくれてはならん、それさえなくばこの上もなきことなり。もし私に隠して借財しておき、他人に笑わるるようなことあらば、何時にてもこの方より返済致す故、ご注意していただきたしと案外の言葉に人々は却って舌を巻き、呆るる思いをなししと、親戚又は郷里の重立ちし人々には、寄り合う毎に善六殿も子の愛に溺れかくは申すなれと、このまま捨ておかば彼の家は勿論本人の信用を失い終いには本人の身のたたぬようにならん。十分改心するよう聞かせたしとて遊び居る先々を訪ね意見を加え、又は諭したり怒りたり威したりせしも、只ニコニコと笑い居て人の心はいざ知らず、私の心にては人の意見を聞いたとしても直りません。如何ほど皆さんが言うても聞き入れができませんと。
 君の心中にては、今日より皆々の親切にかく言わるるとて、その意見を聞いて放蕩を止めるとせば、後日に至り彼の放蕩はわしが意見に基づきて止みたりと、見下げて言わるるのが、この上もなき我が身の恥辱、我が目的を達するまでは半途に止みもならじと思うより、捨て置き下されぃといつもながらの返答に、如何にも手の出しようもなきことなればとて捨て置きもならず。この上は良き嫁にても貰うたことならば、少しは宜しからんと言う者ありて、これより外に為すべき道なしと、善六君へ相談致したるに、父上には大いに喜び、良き様に皆様御頼み申し、とのこと故、かの所この所と手がかりを求め相当なるを見つけし故、当人にも承知致させ、妾には十分の手当てを致しひとまず手切りとし、これにて一同は大いに安心致し、この事を両親より神様へ伺いに出だしたるに、「ちょっと貰うてみぃ」との御言葉、これでは差し支えもあるまじとて直ちに相談整え、婚礼の式を執り行いたるは、明治13年9月28日、君23歳の時なり。然るにその後とても前々と変わることなく、家に居ること少なく老婆の許へ行くと言うては日々遊び回り、改心する色目の更に見えぬより、嫁にも気の毒になりて暫く実家へ預けることとはなりぬ。なにぶん放蕩の止むべき様子も見えざるに、永らく引き止めなくも本意なきこととて、翌年2月22日、終に離縁の手続きを為したり。即に父上より、預かり至る金円は遣い尽し、追々他借をなしたるに、父上には陰より手を回しては返済しつつ、何も心配にはならぬが、他人に迷惑かけてなければ良いが何卒不義理をせぬ様にとて、日々申されたりと。

 かくの如く、心のままに狂い遊び何時家に戻り来るとて、誰一人として難じる者もなく、これでは困ると云う顔色も見せず、大切にとりなし、着る品は勿論世の中の進むに任せ、流行物に遅れぬ様にと心づけ、当人の気もつかぬに大金を出しては求め来ては君を喜ばせんと、父上の御心を用いられしこと等は、凡人の為し得られぬことなりし。
 君熟々考うるに、これまで過分の金銭を浪費し、充分なる放蕩もし、又近在の者には成し得られぬ栄耀栄華もし尽し、京大阪の風俗も悟り、又あらゆる遊びもなしたるが、未だ東京の情況も見もし、聞きもしたることなければ、これより東京へ出て高尚なる愉快を極めたしと思い立ち、5月23日のことなりしが、昼の中は田植えの手伝いをなし居り、夕刻より歯痛なりとて、父上より先に戻り、金銭の用意をなし、羽織かたびらその他の着類書類等の荷造りをなしおき、時の移るを待ちいたり。

 夜の十時過ぎし頃、古き単物に細帯を締め、両親へは表へ納涼に行くと偽り、家を出で郡山より老婆の方位(即ち今の天理教本部)に向って黙礼し、転じて郷里に向って養父母の意中を察して、陰に暇を告ぐる為、洟を拭って九拝し、夜をおかして四日市へ出て、同所より汽船に搭し横浜へ着、ここに数日滞在し、それより東京へ足を止めたり。

 君の東京へ出るや、諸々の遊巷を徘徊し、又は当時農商務省の官員/野口某を訪い、同氏の君奇質英才あるを視て、これを愛顧し、終に某食客となり商務をけ、あるいは同氏の紹介により各官省の情実を覚り得たること等は、長文なるを恐れ略す。
 家内にては、両親始め一同時の移るも帰り来ぬを不審に思い、彼様に見苦しき寝間着の姿にて、遊びにも行くまし、今日しも昼の中よりの様子を考えれば、万一これまでの放蕩にただの一度も意見を致さず、心のままに致しおかれたるを、面目なきに心得違いにてもして、井戸河のうちへ嵌まりはせぬか等と、案じだしては心落ち着かず、近所へ尋ねに出しても更に手がかりなく、これを聞き伝えてそれぞれの人集まり、ここかしこと手配りなし尋ね回るに、父上には老婆の許へ走り行き神様へ伺いたり。
 「さあさぁ何もかも通らねば、味が分からん故、神がさしておくのや。案じるでない。今通らねば通る時がない結構結構」
 との御言葉なれど、可愛い一人の倅、行く先ばかりでも教えくださる様にと願えども、何の御答もなく、老婆には只に笑い居らるる故、止むを得ず立ち戻り、日々心鬱々としてその日その日を送りたり。
 この頃家族は四人なりしが、一日に五合炊きし飯米が食べ残るほどにて、一同絶食同様にて案じ煩い、力なく々々心を痛め居りしに、東京より町所番地もなく無事に暮し居るとの郵便はがき届き、初めて無事なることは知れど、心は落ち着かず東京とばかりにては尋ねる訳にもならず、是非とも一度訪ね出したしと、これまでには神様の御話しを聞き居りもし、十分御利益のほども感じ居る人に似ず、信心ということ嫌いなる性質にて、手を合わせ神仏を拝むことなかりしが、君出奔せし以来、朝夕我が手と神様へ燈明を備え、是非ぜひ一度家へ帰りくれる様にと一心に祈念せられたり。
 毎夜、隣家の胡内庄兵衛なるものを、相談相手に招きては、他所にて知り人のなければ金を借りることもなるまじ、如何して暮しておらるるかと段々の辛苦の末、胡内氏にこの家の取締りを頼みおき、夫婦にてほうしや貰いに身ごしらい致し、東京市中を二年、三年掛かりても尋ね出さんことと心を定め、その用意を致し居り、折りしも宿所の記載せし郵便の届きし故、その喜びひとかたならず。翌朝、金子を為替にて送り、この金を旅費とし、又近所へ珍しき土産等をたくさん買うて戻れ、と頼む如くに色々なる事情を書き送りたる故、程もなく立ち戻りたり。時に7月中旬なり。

 よって村中の方々を招き馳走を致し、その喜びのほど思いやられたり。然るに、君帰国致せし後は、誰一人の意見がましき事言う者なく、只家中喜び勇み大切に致したるに、これまでとはその挙動大いに雲泥の変わりにて品行正しく、遊びにとては門先へも出ず、両親の許を離れず、孝養を尽さることとなり。
 これまで君には、五年の間、気随気ままに通りし中は、少しも身上にお障りつきしことなく、これ神様の許し置きたる故なればなり。このたび心を納めて、老婆の許へ初めて参りしに、老婆には喜び勇み、「おぢさん々々、よく早く帰られたね。何もかも覚えておかにゃならん。お前が放蕩するとて、おっかさんが度々泣いて来て困りました。さあさぁご苦労様でした」と、喜ばれたり。

 もっとも幼年の時より幾可面となく参る度ごとに、おぢさん参りなすったな。よく帰ってくれたなーと言われざることなし。君には父上に相談の上、夜学を開き漢字算術諸礼等の教授を始めしに、忽ち生徒は座するに席なきほどになり、人に接する親切丁寧なれば、その父兄等、大いに感動し様々に放蕩中謗りし人々は面目なく、逢うことを心に恥ぢ、陰にて尊敬するばかりなり。かくの如くにして暫くの間に名誉を回復せし故、村民の推すところより村吏を与り、日夜人の為煩雑なる働きをなされたり。これより妻を娶り(明治14年12月11日を以て結婚の式を挙げたり)。

 夫人久子は、生駒郡平端村大字長安寺、堀部伊三郎殿の三女にしてその性怜悧、幼年より深く神仏に心を寄せ、数々霊夢によりて心を磨き、叉は人の心を感動せしむる事等ありし。人となるに及んで父母に仕うるに孝に、殊に慈悲心深く常に我が衣食を節し、貧困を救い人に楽しみを与えるを楽しみの極みとなし、身を厭わず貞操を守り、教祖より特に御水の授けを得、(他に御水の授け受けしものあれども、これとは異なるところ也) これにて太*君、他出中御助けをなしたること等少なからず、夫人の日々行わせらるることは凡婦のよく為し得られぬことのみなり。後日辺書に残すこととせん。
 君にはかくの如く数年間は家に居ること稀なりしが、御水を戴きに来る者日々ある故、折節家へ戻らるる時に、汲みおき御助に差支えなかりしとは、その心を用いられしも思い合すべし。これよりこの道を世界に広めんと、段々工夫を致し、逢う人毎に神様の話しを取次たるに、ここかしこと人の集まりて噺を聞かんという趣なれば、従来の巳侍、*申侍と云う如きに致し来り、追々多人数集まりしが、君にはもとより講社を組織する事を、御好みなかりし。
 これより先、河内、山城等の国々に於いては講社の組織ありて段々道を信じる者、日に月に大かりし。ここに龍田村に福本古松と云う者ありて、この御道に心を寄せ、講社を募り、信徒は己が云うがまにまに靡く故、これを機とし己が利を占めんとその工夫に掛からんとするも、教理に制せられ、その意を果たすことならぬ故、己が手引きしたる講社を引き連れ、奈良の人にて代言を渡世とせし、中村恒五郎なる者、天輪教と唱え、三島の老婆の教えに真似て、講社を募集致し居り、折なればこれに部属して次第に次第に道ならぬ事を以て、地方人民を惑わすこととなりしより、本部長/中山君には大いに心配せられて、太*君に議長となり、純然たる神理を布かしめば、十分邪教に惑う人を助けらるべしとの意に従い、積善講と名づけ、熊川、胡内等の人々、世話係となり、講社の組織をなし、布教の手配を致したり。時16年の春なりき。
 老婆には、日々月々この道を慕う者、国々へ蔓延するにつき、有形なる一個の身を以て、周(あまね)く満天下を率いる能わず。大神より賜う処の前途25年の寿命を辞し、幽冥に在りてこれらが守りをせんと仰せ、この先々通るべき道すがらの事ども御諭しありて、明治20年正月26日、この世を去られたるより一層心を励まし、この道を以て老婆の意を継ぎ、広く世界を助けんと、一節に遺訓を守り、他力を借りず、広く布教に心を用いられたり。
 然るに、老婆の在生中より、直正なる神慮の世を救済わせ給うところより、この道を開かせぬるとは、人智の悟り得ることに非ざれば、太政府にてはこの事あるを聞き、風土を紊乱する狡猾児の企てつるものにして、良民を迷わし、私利を貪る事と信じ、大いに撲滅に力を尽し警官をして種々なる制止方を行わせらるるも、却って信徒の心を固めさせ、その官の目を潜り、真の道を広めんと数十年の辛苦のほどは、筆紙の尽せぬところなり。
 教祖の一年祭(翌年正月26日)を済ませ、後で公然教会所を東京にて名高き所に部属し、出頭せんとその相談せんとするも、巡査の見回り厳しくして、集合する場所なく、止むなく国々の熱心家は四十名ほど思い思いに姿を商人に擬し、又は札所参りに、あるいは漁夫に装い、蓑笠を着しなどして人目に立たぬ様、一人二人づつ道を替え、飯田家へ集まり協議の末、東京へ上って出願の手続きを為す事とはなりぬ。神様のこの屋敷の因縁深きを後世に知らしむる為、叉も大神の人々を御引寄せ、この道の基礎をこの水屋敷よりつけられたるならん。この時、神道本局に部属し、位置を下谷区稲荷町(今日の東分教会所=東大教会の所なり)に位置を定め、これより漸次に国々へ匂いがかり、日に月に盛大の勢いを呈せり。君にも奔走せられて、不治の病を救い、*疾者をたちどころに助けし如きは枚挙いともあらず。
 或る時、熊川善四郎氏、その他一名を伴いて、伊賀へ布教に出でられしに、一週間ほど悩みもなく、ただ食物のみならず湯茶等も召し上がらず、然れども身体健康にして、山坂等を越ゆるにも、両人よりも早く、諸所にて御説教なさるるも少しも常と異なるなく、両人も永らく御絶食なさるを案じ、半途に帰国する事とはなり。御宅へ戻りては、食事は常に変わることなく、よって布教などに出でらるる御身上ではなかるべし。この上は神様の御許しなきうちは御奔走なさらぬ様に、役員より御止め申したり。

 講社は次第次第に盛大となりし故、信徒の請願を容れて、25年6月7日、平安支教会設置を出願し、君会長の任を担いたるに、君には益々教祖の遺訓を固守し、専らその独りを慎み奢侈の念なく、家産より護る潤益以って人に施し、講社に向かいては本部へ納付する月々一銭の外は厘銭も徴収することならじと、役員へ申し聞かせ、万一余に講社より金銭を贈る時は、これに一倍したる価額の品を返戻する心得なり。余が資産を失わざらしめんと思わば、一銭たるも多く受けるなかれ。幾百万の講社、広壮華美なる教堂は、余が国より欲せざるところなり。少数なりとも真実の人を友とし、教理を実行し、仁心の根元を確かむるこそ余の教祖への尽す道なりと、しばしば語られたり。

 かくの如き心を以って日々通らるる故、他教会の華美を尽し随って講社の勢力を得らるると聞く毎に、世運のしからしむる事とは云うものの、教祖の心中いかばかりやと申されては一大息しては涙を流し、黙し居らるる故、役員に於いても他の状況を知らしめざるように心を配りたり。君には年を関するに随い、御道の為、共に語る人のなきを悟り、本部役員に於いても御道に叶わぬ行いあるを察し、独りに交わらぬようにとて御身は本部事務員にあらるるも、教祖の遺訓を守らぬ所に勤むるは無益なりとて月並祭をつとむるのみにて、少しだも事務にあづからざりしなり。
 然るに27年旧正月十日より、ふと御身上に障りとなり、医師に診断せしめしに、肝臓膿腫にて大患なれば、容易に全治の見込みなしと言わるるも、寒気あれども敢えて意とせず、数十日間絶食にても凡人の病気と違い、小細工をなし居られては勇み笑うにも尋常の音声を発し、折々奇談を語られたるも、付添いし人の耳に止めおかざりしは、今日となりては口惜しき次第なり。夫人にも手重き御病気のことと案じ居られしが、3月初旬に至り忘れたる如く快癒せられ、医師も大いに驚かれしなり。

 然るに又11月に再発し、前と同様なることなれど、本部と平安の祭典日には列式せざることなし。この月20日よりも絶食にてありしが、教務上にて29日、大阪へ趣きその帰路甚だしく苦痛を覚えたれば、梅谷氏(船場分教会長)宅へ立ち寄りしに、益々病勢烈しく終に絶食せられし故、従僕の要蔵その驚き一方ならず。会長様にもしかの事ありてはと狂気の如くに心迫りしが、梅谷氏には神様に御願して御息の授けを為されて後、面部へ水を掛けしに、君には忽然と大眼見開き、大音声にて、「無礼なる、梅谷四郎兵衛、何をする。並の人間と思うか。神だぞ々々、神にその様なことをするとは何ごとぞ」、と申されしかば、梅谷氏は平伏なし、ひたすらお詫び致し、要蔵へも神様のなさることなれば安心せよ、と懇ろに御諭しなされし。暫くむありて息吹き返され、忽ち自由用叶う事となり。即時暇を告げ、腕車に乗じて帰られたるは、実に只事にあらず。
 翌年28年10月に腹痛あり。この時も14、5日絶食にて蜜柑の汁のみ啜りいられたり。右全治の後は、以上なく日々琴、碁、尺八等を最愛し、昼は庭園を造り、銅鉄にて小なる室屋、宮殿、*体等の細工をなし、夜は音律を弄いとし、余念なく児童の如き戯れを為してはこの上なき楽しみとし、身には常に筒袖(ぼっこ)なる粗服を着、粗食を好み、美味は人に与えて楽しみとして日々暮さるるにより、本部役員は勿論、分支教会の次第次第に講社の苦しむ情を知らずして、奢侈に流れ、衣食住の美は神様の我に徳を賜うところなどと、己が身のほどを省みず、自儘気随に通る人の侮り見下しけるところとなり、時としては礼遇を失し、君を粗弊に取扱うと*ども、却って喜び勇まるる故、益々増長して痴愚にして物に感ぜぬ様になりしなど、嘲り笑い、御身上の尊き御因縁あらるる事のみならず、本なる御地場に道をつけられし。元なる御水屋敷と云う、最も尊き理のあることは皆な人毎に知るところなれど、心の鏡に曇りの掛かりし時は、貴きも賎しく重きも軽く思うは教育の乏しき人の常なり。これが為に、神罰を蒙り居るも、目先に取られ、悟る力の薄きこそ人間心の浅ましけれ。

 これまでに御水は、五勺入りの釣瓶を用い、御汲み上げなされたるが、年毎に講社の盛大なるにより、明治27年春の大祭より、下図の如き五合入りの釣瓶を造り、用いられたり。
 君には如何様の事ありとも心濁さず、教祖の遺訓を重んじ、にこにこと笑うを日々の勤めとして、二十年の間、一日の如くに潔白なる心にて通られ、明治29年新暦3月9日、教祖の十年祭より以来、御本部へ参る毎に、何となく心楽しからずして曇れる思いしては御宅へ戻るのを急ぎしが、5月より何も御障りと云うにはあらざれど、本部に居らるる内は絶えて飲食せられず。これより頻りに御本部へ参ることを嫌い、代理のみ遣いしたり。教務上よんどころなく旧暦9月18日、本部へ参りたるに同様にて21日に宅に寄り、夕べに半わんの粥を召し上がられ、機嫌よくお休み為されしに、夜の2時に、不思議や、夢かと見れば夢にも非ず、幻にも非ず、枕辺に教祖様の赤き衣を着て、御存命中の御姿にてありありと現れ、「これこれ、さあさぁ聞いておくれ、今日ではお前にしか話しする者はない。21年以前のことは、知っているやろう。さあさぁ貰いうけたるで。本席と定めてあれども、人間心混ぜてくれる。残念残念」と、仰せられながら、涙を御流しになり、又仰せに、「俺の苦労したのも、知っているやろ。傍の心もまるで世界並み、別席と言うてしているけれども、これも世界並み。口では真実(まこと)の教えをしているけれども、心は違う。残念残念でならぬ。書いておくれ書いておくれ」とのこと故、ランプの燈を明るくして筆墨を見つけんと思うまに、御姿は消えうせければ、さては不思議よと思いながらに、筆と紙を持ちしに御耳移しにて、段々の御言葉ありたれどここに略す。
 これより旧10月26日まで、40日余りに3、4回、御飯を召し上がりしのみにても、平生(へいぜい)に少しも変わらず、御手細工を致され、その夜4時に御耳移しあり。翌月3日の朝4時なりしが、何となく心勇み、眠られずありしに虚空に人ありて、もの言う如く、「鏡ことわり、鏡ことわり云々」と聞こえし故、何を祀りますと問えば、御答えに、「さあさぁ、けんけん」。そのケンは木で致しますか、カネで致しますかと御尋ねに、段々作り方等の御噺しありたれど、君思うに、当時本部にては講社一般に神璽を鏡にして斉まつらせんとて、数百万の鏡を鋳造に着手中、この事と云い、その他のことも皆なこれ御本部へ対する一大事件なれば、誰にも聞かせるもならず。さりとて、神の御告げなれば、捨ておきもならざるべけれど、時来らば神様よりこれに働く人を御引き寄せなさることならんと、そのままにして夫人へも御話しもなく、日々音曲をのみ楽しみ居られしが、11月4日午前2時頃、勝手の雨戸を誰やら押し開け、男子の様子にて座敷へミシミシと足音高く奥の間に行く故、君には不思議と思召して、誰よ誰よと問わせらるるに、返答なければ、夫人を起し、ランプを御持たせになり台所へ参り見れば、入り口の雨戸開放してある故、盗賊にでも入りしやと奥の間より離れ座敷まで御見回りなされても、更に人影の見えねば、そのままに捨ておきたり。

 然るに又6日の午前2時、表より足音烈しく入り来るより耳をそばたてて様子を窺い居りしに、スッと枕辺に顕れしを目を澄まし見つめたるに、耳長さ丈余(2mぐらい)にして、茶色の鎧を着、兜には十二の菊の前*鍬形をうつたる者にして、大剣を佩(お)び、草履(ぞうり)を履かれ、最厳なる御姿にて、りりしき御声を放たれ、「さあさぁ使いの神が来た来た。その方はぼろい奴や奴や。本部へ話をようせんそうな。その方のことなら、そんなことやろ。まあいいわいいわ。書いておけ書いておけ」と仰せられ、御姿は消えたるに、筆を持ちしかば御耳移しにて、色々と御言葉あり。筆を止めし時、「明日から米食べ々々」との仰せあるか否、非常の空腹を覚えし故、夫人を御呼び起しになり、焼きさましの甘藷を食され、翌日より平素の如く食事すすまれたり。


 かく神様御急き込みなれば、真実に心定めし人を御引き寄せあるならんと待ちに待たれし折しも、上田善兵衛氏(麹町支教会兼北分教会理事長)の参られければ、手を打ちて御喜びになり、春木幾造(平安支教会理事長)氏と別屋敷に御招きに、これまでにありし次第を一々詳しく御噺ありしかば、その喜ぶこと限りなし。然れども、御本部へ対し容易ならざることなれば、秘して時を待たれたり。
 これより両人に於いては、心を合わせ、交る交る君に持し、油断なく心を配り居られしに、敢えて異常もなく、日々勇み暮さるのみなりしが、或る時(明治30年旧4月25日)早朝より一層勇み居られて言われるに、今日は人が来る様に思わるるる故、急ぎ掃除をしてくれよ、との事故、御座敷の御掃除致したるに、教祖は神様の御言葉ある時は、あくびが出で、眠くてならぬとて床をひかせ、東枕に休まれしが、枕辺におさ虫一ッ落ちしかば、西枕に寝直されしに、忽然と三人の武者、君の枕を擁して立ち、中なる人の言われるるに、「あのてまりをうて。てまりをうてば、駄賃やろ」とて、半弓と矢を渡されし故、北の方に三間隔てて、径四寸ばかりの飾り玉吊しありたり。一度で射まするかと申したるに、「三遍まで許す」。それより矢をつがえ、兵と放せば、玉より遥か上へそれたり。二の矢をつがえ、射しに同じくそれ、三の矢を放ちに玉の心より上部に命中せしかば、「さあさぁ駄賃々々おくれ」と両手を出だせしに、「筆々、筆取れ筆々」と言わるるを、夫人は次の間に子供に乳を飲ませ居りしが、筆と紙墨等を持参せし時は、君座して居られたり。これより御耳移しありし御言葉は別冊に綴りてあり。

 これより段々と神様の御差図ありしより、夫人は勿論、上田、春木両人に於いても、一心に神様の仰せに心を固めしに、大神よりは、御本部改革の一点を頻りに御差図ありし故、つとめの今日までに神慮に叶いしものを国々より御引き寄せになり、大神の大道往還を作らるる道具も日一日と加わり、勢力弥盛りにして、これより御水屋敷より、大神の下し賜る水晶の光にて鏡屋敷の曇りを洗い、社の人足、足並み揃えて大改革を行う日も、又近きにあらんと爾云。




(私論.私見)