略伝その1


 更新日/2020(平成31→5.1改元/栄和2)年3.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「御水屋敷並びに人足社略伝その1」を確認することにする。「飯田善六、安堵事件、人足杜」その他参照

 2007.12.5日 れんだいこ拝


【飯田岩次郎(いいだいわじろう)(1858~1907年)略伝その1】
 1858(安政5)年3.23日、飯田岩治郎が大和(奈良県)生駒郡安堵村(安堵町)大字東安堵51番地に誕生する。飯田家は代々の豪農で跡継ぎの善六に子なきを以て、弟文吉に妻を娶り一男を挙ぐ。この子が岩次郎太*(もとかず)と名づけられる。
 1863(文久3)年、岩治郎6歳の時、初秋より腹痛の気味あり、追々重症となり漸次病勢加わる。12月には一命も危なくなった。善六夫妻はおぢばに願い出た。教祖(おやさま)は、待っていたと仰せられ、安堵村の飯田宅まで足を運ばれた。先代の伯父に会いに来ましたと言われたという。岩治郎のお腹をなでられると痛みは治まり牡丹餅を食べた。1週間ほどの滞在の間に近所の子供と遊ぶまでになった。この時「水のさづけ」を頂いた。岩治郎が釣瓶(つるべ)で汲んだ井戸水を飲めば病気が治るという特別の力をさづけられている。飯田家は「お水屋敷」として近隣住民に知られるようになり、「水のさづけ」を取り次ぎ人々を助けるようになる。天理教開祖の中山みきに助けられ信仰の道に入る。
 1864(文久4)年、正月、教祖は再び飯田方に出向かれ40日ほど滞在された。このとき、教祖お手製の大のぬいぐるみを頂いている。岩治郎は13歳頃まで足しげく教祖のもとに通うようになった。または滞在して教えを受ける。家に帰ると腹痛が起こり、教祖のもとに戻ると気分がよくなるということが繰り返されたという。
 春より、13歳頃、安堵村に帰って学問に励む。
 1875(明治8)年、「神の社に貰い受ける」の御神告あり。
 1876(明治9)年、19歳の時、再び大病になって、おぢばへ運ばれ、教祖にたすけられた。そのまま3年ほどお屋敷に滞在する。「この時人足社と言われた」。教祖は岩治郎を「人足社」として貰い受けられた(さ30・6・3参照)。
 21.2歳頃、その後、気ままに遊びを覚え、東京へ逃げて、遊学もし、人生勉強もした。まもなく安堵に戻り私塾も開いている。
 1881(明治14)年1.15日、岩治郎24歳の時、松尾市兵衛らの流れをくむ信者と飯田の信者が合同で積善講が結ばれ、講元となった(副講元は松尾輿蔵21歳)。
 12月、堀部十重と結婚。 
 1887(明治20)年、教祖は現身(うつしみ)を隠された。翌日の集合写真に若治郎の姿が見られる(「増野日記」には、おつとめの鳴物に出たと記載)。
 1888(明治21).3月、教祖1年祭は、おつとめ(岩治郎は笛)のあとの式典途中で中止を命じられた。翌日の教会設置の協議が岩治郎宅で開かれている。翌4月、教会設置が認可され、岩治郎は本部準役員に任じられた。
 1892(明治25)年3.26日、平安支教会設置が許される。6.7日、講社は次第盛大となり、信徒の請願を容れて平安支教会設置を出願し昇格する。飯田岩治郎が会長に就任する。岩治郎の「水のさづけ」は鮮やかな守護をもたらし、他系統の信者もおぢばへの参拝の途中に立ち寄って、お水を頂く者が多くなった。明治30年頃には、平安の信徒も1500戸を数える。 





(私論.私見)