飯田岩次郎/水屋敷事件考


 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「飯田岩次郎/水屋敷事件考」をものしておくことにする。

 2018(平成30).4.20日 れんだいこ拝


【飯田岩次郎/水屋敷事件】
 1858(安政5).3.23日、大和(奈良県)に生まれる。

 (明治8)年、「神の社に貰い受ける」の御神告あり。

 1892(明治25)年、平安支教会をひらく。

 1894(明治27)年、飯田岩治郎が激しい腹痛に襲われ、初めて神がかりを経験する。

 1896(明治29)年新暦3月9日、飯田岩治郎は、教祖の十年祭より以来、御本部へ参る毎に何となく心楽しからずして曇れる思いし始める。5月頃より御本部へ参ることを嫌い、代理のみ遣いする。

 同年9月頃、亡き中山みきの霊が枕元に現れ、教祖様の声を聞き始める。神からの「おさしづ」を授かる経験をする。さらに天啓現象がおこり独自な教説を唱えるようになる。これより教会改革の天啓をとりつぐようになり、天理教教会本部と対立する。飯田はお屋敷に来なくなり、水の授けの理は人ではなく、安堵村の自らの屋敷にその理があると解釈して、水屋敷こそが本元である、彼の神の言葉は月読命(つきよみのみこと)から下されているという教説を生み出してゆく。この頃、上田善兵衛(麹町支教会兼北分教会理事長)、春木幾造(平安支教会理事長)に招かれ、別屋敷にてこれまでにありし次第を一々詳しく話たところ同盟なる。「然れども、御本部へ対し容易ならざることなれば、秘して時を待たれたり」。以降、本部からの使者に対し押し問答となる。平安の信徒だけでなく麹町の信徒たちが飯田の教えに付き従う。飯田の側近たちが、本席に、その理の正しさを求めてお伺いも立てに来る。

 9.22日夜半零時、強い啓示を授かり大道教を開教する。

 1897(明治30)年夏頃、この問題は本部の大きな事情となる。本部員たちが派遣されたが、治め切れず。
 同年旧暦4.25日、「この人を二十一年以前にて神の社に貰い受けたで」、「筆々、筆取れ筆々」との神の声あり、これより段々と神様の御差図がありようになる。

 同年12月、本席の飯降伊蔵が「おさしづ」により岩治郎とお水屋敷を破門にする。これにより支教会長免職と処分となり、本席より取り払えとの言質を受け、飯田の教導職剥奪、平安支教会の移転が実施される。この件で、松村吉太郎が東京の神道本局に出張する。飯田、春木、上田等も上京して、別な神道の教派として独立する。

【大道教(だいどうきょう)】
 1990(明治33)年、大道教を起こす。,平安支教会の教師・信者の大半は岩治郎のもとに残留し、岩治郎は教派神道の神道大成教の教師となった。岩治郎の信者組織は神道大成教に属する「大道教会」として独立した。天理教の本部準役員であった飯田岩治郎の流れを汲む新宗教として一派独立した。麹町分教会の幹部であり茨木基敬の部下であった上田善兵衞が飯田の側近となった。

 1907(明治40)年、岩治郎は厳安明弥道広命との神名を受けて、信仰対象として岩治郎の木造を作らせた。自らの木像を製作して後、5.16日、出直す(享年50歳)。

 岩治郎亡き後は、長男の飯田忠雄が教団を継いだ。岩治郎の死後十年毎に行われる教祖年祭にあわせて教団施設は拡充され、教祖殿、神殿、真柱殿などが建てられた。終戦後は神道大成教から独立し、大道教となる。

 1926年、教祖墓地と信者墓地が斑鳩町に作られ、幼稚園の運営も行なっている。
 〒639-1061 奈良県生駒郡安堵町東安堵。電話 0743-57-2006

【飯田岩次郎の水屋敷事件考】
 「おさしづに啓示された理の研究:第6部 身上・事情」の「水屋敷・飯田岩次郎事情 ―異端の問題―」を転載しておく。
 飯田岩次郎とは、現平安大教会の初代会長をつとめた人で、その経歴について「天理教伝道史」高野智治著に次の記述があります。

 「七歳の時、教祖よりたすけられ、十三歳頃まで教祖の御許に通い、または滞在して教えを受け十三歳の春より安堵村に帰って学問に励み十九歳(明治十九年)病気になって、おぢばに滞在、この時人足社と言われたものの如し」。その後、二十一・二歳頃から遊びを覚え、東京へ逃げて、遊学もし、人生勉強もしたらしいとも記されています。ともあれ、幼時から神縁の深いようぼくであったことは間違いなく、講社の人々から推挙されて平安の初代会長になる人望もあったことは確かです。

 「水屋敷事件」とは、飯田岩次郎に神様が下がると称し、ついには平安の教会は水屋敷であって、火より水の方が理が高いゆえに、ぢばより水屋敷が元であると主張し、本部から処分される結果となったのです。これは「水のさづけ」をいただいていたことが一因となっているのです。

 この事情の結論は右の通りですが、この事情に関する「おさしづ」を最初から順序立てて拝読しますと、神意の示されているところは決して単純ではなく、重大な問題が含まれていることに気付くのです。

 単に飯田岩次郎の誤りを指摘し問責するだけで解決する問題ではないことがわかります。おさしづによって思案しますと、異端が起こる原因は「ぢば」にもあるということであって、いわば道の姿を裏から写す鏡であるということができるのです。即ち、異端を通して神一条の理が立てられていない面を知らされているということです。翻っていえば、原典に掲示された神意が本教において完全に把握され伝道されていれば異端が起こる余地はないともいえるのです。異端の問題は決して過去のことではなく現在でも各地に散在しています。その主張するところは凡そ三つの面が鏡として映されていることがわかります。

 第一は刻限さしづ、見えん先からの予言が無視あるいは軽視されていること。

 第二はぢばの理について人間が果たすべき役割が軽んじられていること、即ち、ぢばの理が完成されるためには、竜頭にあたる人々が神一条の理を立て切るという条件が忘れられていること。

 第三に天啓継承の問題。

 これらの問題はいずれもおさしづにくわしく諭されていながら、本教において殆ど神意が埋もれていると問題であります。

 実際、おさしづ全体の神意を心に治めていれば、決して異端に走るということはあり得ないのです。また、異端に対してとるべき態度は、針ケ別所の助造事件に際して教祖が自ら助造宅に出かけられ情理を尽くして説得されたひながたこそは現代においても本教がとらなければならない態度でありましょう。


【飯田岩次郎の水屋敷事件考】
 2019.6.6日、クマッピー氏の「飯田岩次郎の水屋敷事件-本席様の時代の異端問題」。
 明治20年正月26日。教祖が御身を隠された直後に撮影された信徒たちの写真が残っている。本席様も写っていて、差し金を手に持っているお姿は何を意味しているのか。さて、この写真の中で、ひときわ目立って大きく写っている男性が、飯田岩次郎である。積善講の講元であり、子供の頃からお屋敷に寄せられていた有力な信徒であった。明治期には平安支教会の会長も務め、彼の水の授けは効能が高かったと評判であった。人足社(にんそくやしろ)の理というタイトルも教祖から与えられ、教祖から期待のかけられていた人物には違いなかった。

   明治29年には飯田に教祖が夢で現れたとか、さらに天啓現象がおこり、独自な教説を唱えるようになる。飯田はお屋敷に来なくなり、水の授けの理は人ではなく、安堵村の自らの屋敷にその理があると解釈して、水屋敷こそが本元であるという教説を生み出してゆく。彼の神の言葉は、月読命(つきよみのみこと)から下されているとのこと。平安の信徒だけでなく、麹町の信徒たちもゴッソリと飯田の教えに付き従う。飯田の側近たちが、本席に、その理の正しさを求めてお伺いも立てに来る。明治30年の夏頃、この問題は本部の大きな事情となる。本部員たちが派遣されたが、治め切れず。

   ここで本席様を通じて神様は、飯田岩次郎の事情をどのように諭したのか。神が神でない啓示をいかにさしづしたのか。一連の、本席様のおさしづをしっかりと味読しなければならない。そこからは、飯田岩次郎の事情よりもまず、本部員たちのだらしなさが当初から諭されている。他人を鏡として、本席のさしづを素直に受け取っていないことのほうが、むしろ神様は問題視する。さらに、理の所在、教祖以来なにを説かれたかが、根本的に本部員たちがわかっていないことが露呈する。異説に動揺すること自体が、そもそも信仰信念が確立していないのである。反対するのも同じ人間であり、神の子供である。その子供が親に歯向い、異説を唱える。教祖以来のご恩を忘れ、地場の理を否定することに、これまでの効能が消えてしまいますよとの警告が、神様から同じ文句で繰り返し諭された。「一もとらず、二もとらず」というフレーズが、この事情のキータームである。合計4回ほど別々の日に使われる。

  飯田岩次郎の自称天啓事件は、多くの信徒を巻き込んだ事件であるが、この事情を通じて、本部員たちの信仰態度や姿勢そのものが磨きの節として与えられたことに注目すべきであろう。 

   12月になり、本席様から取り払えとの言質をもらい、飯田の教導職は剥奪、平安支教会の移転が実施される。この件で、松村吉太郎が東京の神道本局に出張。飯田も上京して、別な神道の教派として独立する。

  飯田岩次郎の心理構造は推測するしかないが、その独自の啓示言語には魅力的ななにかがあり、水の理を通じて救済もあったことなので、信徒として飯田側に付き従う人たちも大勢いたようだ。 ただモラルな面で飯田がいかなる人格者であったのか、どのような人たちが従ったのかが問われる。雛型になる人格者なのか。飯田の側近となった上田善兵衞は、麹町分教会の幹部であり、茨木基敬さんの部下であった。もともと反抗的な方で、その精神から飯田に従い、麹町は幹部不在となり、茨木さんはそのおさめ方に苦労されて、麹町の担任を併任された。この一点からみても、高慢な人たちの自己顕示欲を満たす集まりだとみなすならば、その啓示言語の意味は急低下せざるを得ない。神がかりないし啓示現象そのものが、理の発露を確証するものではない。これが、この事件が残した大きな教訓であろう。実は、天理教系で、自称の天啓者は沢山いるのである。 ある気鋭の宗教社会学者がそれで博士号を取得するほど、大きな宗教現象となっているほどである。

   飯田は教祖のおかげと言いながら、自らの木像を製作して50歳で出直す。
  啓示言語が救済につながり、地場の理に根差し、さらにモラル面で人格の向上に裨益するように仕向けられない限り、その啓示言語は、正当な理の顕現とは言えない。雛型なき神の言葉は空虚だとみなしたい。天理教の多くの分派における啓示言語のロジック、その救済力、モラル面の志向性が判断の試金石となる。地場の否定は、理論的に即アウトである。この道の真実の天啓は地場の理の発露である。本席様の残したおさしづという啓示言語の研究が望まれる。
 飯田岩治郎につき次のように評されている。
 飯田岩治郎さんは生駒郡安堵村の出身で、教祖より「水のさづけ」を頂かれた人である。「安堵村の教会は水屋敷で、三島の教会は火屋敷。火がなんぼ盛んでも、水を掛けたらシュウと消える」などと言い始めて、いわゆる「水屋敷事件(安堵事件)」を起こした人である。明治三十年十一月十八日付けで平安支教会長の職を懲戒免職され、本教との関係を絶ち、明治三十二年大成教直轄大道教を創設。明治四十年五月に出直し。教団自体は、終戦後、現在の「大道教」に至る。飯田さんは、後年九州に居住されていたようで、このお指図は、恐らく大道教創設後の何らかの事情で、桝井さんを派出するに付き伺われたものと予測されます。詳しい事情は不明。




(私論.私見)