色情因縁諭し

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「色情因縁諭し」を確認しておく。ここで、「元の理」の元々の教理を確認しておきたい。この種の試みはまだなされていない気がする。

 2007.12.25日 れんだいこ拝


【天理教の色情因縁諭し】
 (2015年08月30日ブログ「天理教の恋愛観」参照)

 高野友治「御存命の頃 下巻101-102頁。
 小松駒吉が、泉田藤吉に連れられて、おぢばへ参拝し、教祖にお会いした。その時、教祖は、駒吉の顔をジッと見られて、『あんた幾つや』と仰った。駒吉は、「十八です」と答えた。すると教祖は、『若いなあ、若いなあ、若いなあ』と、三たび嘆息(たんそく)せられるように言われて、『慎みなされや』と、ひとこと言われた。駒吉は、はじめてお会いする教祖の前で、ただ感激に満ちて呆然としておった。その時、取り次ぎの山澤爲造が、別の部屋へ下がってきてから、「いま教祖が、『慎みなされや』と仰ったが、何のことか分かりますか」と問うた。駒吉が、「分かりません」と答えると、爲造は、「慎みなされとは、色情のことやで」と言ったという。

 堀越義男「幸せを求めて」104頁。
 小松駒吉先生(御津大教会初代様)が、コレラのご守護を頂き、お礼参拝に詣られたおり、教祖は、『小松さん、歳は幾つになられはりましたかや』と、お尋ねになられた。先生は、「十八歳になりなした」と答えられると、教祖は、『十八歳かや、若いなあ、慎みなはれや』と仰せられた。先生はその真意が、はっきりせんまま御前を辞された。すると取り次ぎの先生が、小松先生に、「それはなあ、若い人は心一つで、偉くも悪くも、どんなにでもなるのやから、色情と酒は心して通れ、という意味である」と説明して下された。(中略)人間の失敗、不幸は、この色情と酒が、九分九厘、原因をなしている。(中略)心すべきは〝一の道具の誤った使い方〟であると思う。
 堀越義男「幸せを求めて」99-100頁。
 教祖はある日、板倉〈槌三郎〉先生に、『板倉さん、一の道具の使い方、間違いなさんなや』とお聞かせ下されている。先生がある日、〈大和〉郡山の女郎屋に、おたすけに行かれた。さまざまと女郎屋の女将(おかみ)にお話を取り次ぎ、おたすけさせて頂いた。帰ろうとすると、女将さんは、「今日はまだ昼間で稼ぎがないので、すまんが二階に女の子がたくさんおるから、誰でも好きな娘と遊んでいって下さい」と言うた。先生はお若かったので一瞬心が動いたが、教祖のお諭しを思い出し、「ああ、教祖は、見ぬき見透しやなあ、危ない危ない」と、慇懃(いんぎん)に礼を言うて辞去されたという。
 「女郎のことについて、教祖は何か仰せにならなかったでしょうか」と、こちら(高野友治)の方から質問したところ、老婆(乾やす)は次のごとく語った。「『子供の売られていくのは親だすけ、気の毒なものや。親だすけと言うなら、〈悪〉因縁積むことはない』と申されました。それよりも、女郎買いに行く、放蕩息子のことを申されました。『あれは子が悪いのでない、親が悪いんや。親が細こうして通るから、子が、その金を使って融通する、親の〈悪〉因縁や。することをしい、人にあわれみをかけていくならば何代でも続く。することもせんで細こうして通る、大道に灰まくようなもの。それで、「長者三代なし」と言うのやで。することもせんで、人にあわれみもかけんで、細こう金を貯めて通ると、子どもが散財する。これは融通やで』と仰せになりました」。
 堀越義男「幸せを求めて」101-102頁。
 教祖は、ひとり言のように、『色情をつかって銭をとった者は、人間に生まれ変わることはできず、牛馬に堕ちるで。可哀想になあ』と仰せられたという。その場に居合わせた、乾やすさんは、教祖に、「それなら、岡場所(女郎屋)で働いている者は、みな牛馬に堕ちるのですか」とお尋ねされた。すると教祖は、『岡場所に働いている人にもいろいろあるで。「親のため、家のため」と言うて、余儀なく苦界に身を落とす者もいる。また、自分から進んで身を落とした者もいるで。親のため、家のため、身を落とした者は、牛馬には堕ちんで』とお聞かせ下されたという。自分から進んで苦界に身を落とした者は、口入屋(人買い斡旋業)の口実通り、「女郎になれば、朝はゆっくり寝ていられる。美味しいものは食べられる。きれいな着物を着られる。夜は、よい思いをさせてもらえる。あわよくば身請けされて、玉の輿ともなれる」そんな思いで女郎になるのであるから、「一の道具を使い誤っている」と言わねばならん。こうした行為の報いとして、不幸な運命に泣かねばならんのである。
 「みちのとも」大正5年9月号の澤田又太郎の一文。
 教祖は、『この世に一番美しい、一番きれいなものは、色情と金銭である。この一番きれいなものに、一番むさ苦(くろ)しい埃がたまるのや』と、お諭し下されたと、聞かして頂いたことがあります。
 「復元」第22号の教祖様のお話/梶本宗太郎の(大正6年6.9日、御母堂様に聞く) 。
 泥海世界 『めかけ(妾)を置く心の理は、泥海世界のときは、男女皆ごじゃごじゃ(混合)に住んでいたものであるからから、その時の癖が、今になお残っていて治らぬ』とのことである。
 上川孫兵衛(斯道分教会初代)入信時のお話「お道と私」 (上川米太郎より)
 教祖お話/『世の中の人達はな、「お金を儲けるのには、人の裏をかいてでも儲けたい、われさえよければよい」という心。儲けたら田買う、畑買う、山も家も買う、家の内が豊かになる。すると妻があるのに、「他に女が欲しい」という埃の心が湧く。金銭や物の埃は、返せば済むが、女や男の埃は、なすになされん、返すに返せん埃や。そうした、心の埃を払う道やで』。
 「洗心」第六号 ”六号活話” より(天理教洗心会、昭和2年10.25日発行)
 教祖ご在世当時のことである。『この男は因縁者やよって、おまえ、預かっといてやってんか』と言って〈教祖より〉一人の男を、森田さんが預かられた。その男を家において、ある日のこと。布教に出た帰りがけ、癪(しゃく)で苦しんで、路傍で倒れている一人の女をおたすけして、森田さんは自宅へ連れて帰って休まされた。翌朝になってみると、その女の姿が見えないのに驚いた。森田氏が、預かった男の部屋へ行ってみると、布団をかぶって寝ている。「早う起きんか!」。「えらいすまんこって、眼が見えへんねん」。「きさま、昨夜、あの女の人に手をかけたな」。「申し訳ございめえん(ございません)!」。「馬鹿者が、また因縁を出しやがったな」。怒ってはいながら、森田氏は諄々と教理を説いていられるうちに、男も懺悔(さんげ)ができたものか、不思議に眼が見えだした。せっかく教祖から預かっていながら、監督しくじった森田氏は、おぢばへ、その男を返された。しばらくは、おぢばに居たが、まもなく、その男はおぢばを出て雑魚売りをしていたが、三たび因縁を掘り出して女に手をかけた。そしてすぐに、彼は盲目と癪病が一緒に出た。お屋敷で、一緒に勤めた誼(よしみ)で高井老先生が、おたすけにも運ばれた。この男のことを教祖は、『一度二度は許すが、三度目はどうしてもいかん。放っておけ』と仰った。
  「新宗教 」大正5年1月号の深谷源次郎「男で御座んす」。
 ここへ、三人の盲女がこもっていた。二人はよくなっていったが、あとの一人はよくならない。それで、あとに残った一人が言う、「私は眼がよくなりません」。深谷源次郎「おまえさんはまだ、懺悔(さんげ)ができないからだろう」。「いえ、私は十分懺悔をしております」。そのことを教祖に申し上げると、『懺悔してると言うのなら、言ってやれ。そんなら明日、人のなかで恥をかかせてやると言ってやれ』。それからそのことを、その女に言うと、「私は懺悔をしている」と言い張って聞かない。教祖の仰るには、『それは忘れている。何年何月の十一日を思い出せ』。すると、その女は暫時(ざんじ しばらく)考えていたが、「あります、あります!」と叫んだ。「私は、商人の家に嫁入りして〝女将(おかみ)さん〟になったが、息(息子)と嫁との留守に、近所の若い者と一手になって子ができた。それを堕ろしました」。『それやから、盲目になるのだ』。「神様、よう知っていなさるな」。『神がなすのだ』。それを見ているから、どうでも我が精神をつくって、人を誑(たぶら)かすようなことはしてはならん。
 お指図は次の通り。
 「あちらへ、こちらへ、心を映し、皆んなこれだけ慎んで居たらよい、これだけ言わんとおこう、と慎み来たる。…中略… 天然自然の道を知らんか。神一条の道、皆な人間心勝手の道を、皆んなこれまでの道を聞き分けてくれ」。(明治21年11月14日)
 「互い/\の理は重々聞かさず/\の理は、とんと受け取れん。慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に」。(明治25年1月14日)
 「慎みが元である。明らかというは慎しみの心。一先ずは、怖き恐ろしいという日もありた。実は天の理、天の理は誠一つの理という。…中略… なれど心の理より起こる事は、皆な適わん」。(明治28年5月19日)
 「天然自然という処成る程と言う。銘々(めん/\)承知して居れば、どんな慎みも出来る」。(明治26年5月21日)

【世界平和家庭連合の御都合的なレジメ/考】
 「世界の宗教の結婚観」。
 愛の定義

●主体が対象に授ける情的な力 
●分立された二性の対象実体が再び合性一体化せんとする力

 愛における力とは何か?

 愛における力とは主体と対象が互いに相手に与えようとする情的な力である。情的な力とは相手に温情を施して相手を喜ばせることによって、自身も喜ぼうとする心の力のことである。ゆえに肉体的だけではなく精神的にも大人になり、相手を思いやるという愛が心の中に宿るようになって夫婦となれば、性はお互いの愛を深め子孫を繁栄させるための祝福となる。しかし時期が来ていないのに、快楽という結果だけを求めると、それを得られないばかりか、苦痛と苦い後悔を味あわなければならなくなってしまう。人間の心は肉体の刺激によって得られる喜びよりも真善美愛といった精神的要素によって得られる喜びがずっと大きいものである。男女の結合は単純な生物的結合ではなく、愛による人格的結合として、古来から多くの宗教では男女の結合を神聖視し、一定の宗教的儀式に従って結婚行事を行ってきた。

 キリスト教
 「あなた方は悪魔から出てきた者である。」(ヨハネ8/44)
 「家の者が、その人の敵となるであろう。」(マタイ10/36)
 「私のように一人でおればそれがいちばん良い。」(コリント17/8)

 上記のような聖書の記述を見ると、イエス キリストや使徒パウロが世俗的な結婚をよしとしていないことが分かる。またキリスト教には陽陰といった概念規定がないのでともすれば一切を善悪概念で説明しようとする傾向がある。より精神的なものが善で、より物質的なものが悪であるというようにとらえやすい。肉体や物質を神から遠く離れた汚れたものとみなされ、男女の性を意識した愛は愛の中でもランクが低いとみなされやすい。カトリックの神父や修道女は生涯独身を通さなければならず、結婚すると聖職を追われるのもその一例である。

 一方でキリスト教の結婚儀式は、婚姻による男女の結びつきは神により合わせられたものとして行われる。米国では1960年代に男女の愛と性をタブー視するピューリタン的道徳に挑戦するかたちでカウンターカルチャーとしての性革命が起こり、婚前交渉、婚外交渉が一般化し、同性愛も公然と自己主張を始めた。一部のキリスト教会では同性愛者の聖職者も現れるなどして、伝統的な道徳観念は変化しつつある。

 ユダヤ教
 ユダヤ教では、結婚を神聖なものとしている。結婚誓約式のことをヘブライ語でキドゥシン(Kiddushin)というが、神聖を意味するアラム語カドシュ(Kaddish)に由来する。

 伝統的にユダヤ教の結婚式はケトゥバと呼ばれる結婚誓約書にサインすることから始まる。サインの後、新郎は新婦のもとに行き、新婦のベールをとって、本当の新婦かどうか確認する。これは旧約聖書のヤコブが本当に結婚したかったラケルを装ってベールで顔を隠してやって来たレアと一夜を共にして結婚しなければならなくなった話から来るものである。

 結婚は聖なる契約であり、結婚の解消は神聖さを汚す行為と見なされる。妻の不義による離婚のような場合を除き、離婚する場合には、妻に対してかなり多くの補償金を支払わなければならない。

 仏教
 仏教は一切衆生は皆な仏性を備えており、男女は互いに愛して、結婚し、夫の道理、妻の道理を尽くしながら家庭を形成することを教えている。しかし一方では異性に対する愛を渇愛や愛欲として、物欲と共に捨てなければならないと教えてきた。原始仏教では人間は全ての愛着と憎悪を断ち切ることによってはじめて、一切の束縛から解放され、永遠の平安、完全な平和を得ることができると考えた。原始仏教は人間の欲望に対して否定的であり、倫理の面では禁欲的な立場を貫いている。真言密教では森羅万象をを金剛界と胎蔵界の二つに分け、男女両性に配している。理知の合一と男女の結合とを同一と見、交接を即身成仏の秘事とした。男女の性行為をも含め種々の外界の影を取り去るならば、欲望は清浄なものであると説いた。
 儒教
 男女は格位において差があるが、愛においては両者は平等であると教える。しかし実際の家庭生活において、権利は男だけに与えられており、女には従順と義務だけが要求されていることが多かった。

 愛が冷え、夫婦関係が破綻しても、子供のために家庭の枠組みだけは守るという儒教型家庭は、欧米の夫婦中心の家庭(夫婦の愛が冷めると、子供におかまいなくさっさと離婚する)に比べると利点をもっていた。何故なら夫婦の仲が悪くても離婚しないほうが子供にとってはよいことが明らかになってきているからである。儒教型の子供中心の家庭生活を守ってきたのはもっぱら女性だった。儒教型の伝統的家庭では、女性は妻として夫に、母として子供に仕えてきた。しかしその女性達が一方的な忍耐と奉仕を拒絶するようになり、儒教の結婚と家庭の伝統は崩れつつある。

 イスラム教
 結婚を重視し、コーランには結婚に関する規定が詳細に書かれている。しかし一夫多妻性など問題を抱えている。
 ヒンドゥ教
 教理上では男女間の愛を法と財産と共に人生の三大目的の一つとしている。しかしカースト制によって異階級間の男女の結婚は許されていない。 
 近代以後の女性解放運動
 宗教が教理上では女性を重視しながらも、現実的には差別待遇が長い間継続してきたために、それに対する女性達の積もり積もった不満が表面化することによって現れた。多くの国で女性解放運動の要求が法律に反映されるようになった。しかし家庭崩壊等の別な問題が起きるようになった。 
 世界平和家庭連合
 男と女はそれぞれ陽と陰として、創造主の中では心情の力を中心として合性一体をなしていた。その陽性と陰性が創造と共に男性と女性に分立されたのであり、従って心情によって、一体をなしていた本来の姿に戻ろうとする衝動が生じるのである。

 本然の世界では愛の秩序が厳格に守られるようになっている。家庭において祖父と祖母、父と母、息子とその嫁等、各代の夫婦の間にだけ異性の愛(すなわち性行為)が成立する。それ以外は父母の愛、子女の愛、兄弟姉妹の愛があるだけである。また不倫の愛も絶対にありえない。この家庭の愛の秩序を破壊したのがサタンである。サタンはアダムの配偶者となるはずのエバを被原理的な性的愛で誘惑して堕落させ、天道の秩序を破壊した。

 全ての被造物は神の個性真理体であり、従って全てが神聖であり、そこに汚らわしいものは何もない。とりわけ人間は神の完全なる似姿であり、それ故に人間は被造物の中で最も高貴で神聖である。従って人体の構成部分はいかなるものでも高貴なものである。人体の器官の機能は神の創造目的を実現させる目的をもっている。その中でも性器官は次世代の生命を創造する器官であり、神が創造した最も神聖な器官である。

 愛の完成を結び間違い、結婚を誤ったので、神を中心として正していくべきである。

(私論.私見)
 当然に触れるべき日本神道の結婚観が記述されていない。癖のある書き方だと思いながら読んでみたが、最後の「世界平和家庭連合」の下りの記述で、お里が知れた。知らない情報もあるので参考にと云う意味で転載整理しておく。

 2018.6.1日 れんだいこ拝





(私論.私見)