【天理教の色情因縁諭し】 |
(2015年08月30日ブログ「天理教の恋愛観」参照)
高野友治「御存命の頃 下巻101-102頁。
小松駒吉が、泉田藤吉に連れられて、おぢばへ参拝し、教祖にお会いした。その時、教祖は、駒吉の顔をジッと見られて、『あんた幾つや』と仰った。駒吉は、「十八です」と答えた。すると教祖は、『若いなあ、若いなあ、若いなあ』と、三たび嘆息(たんそく)せられるように言われて、『慎みなされや』と、ひとこと言われた。駒吉は、はじめてお会いする教祖の前で、ただ感激に満ちて呆然としておった。その時、取り次ぎの山澤爲造が、別の部屋へ下がってきてから、「いま教祖が、『慎みなされや』と仰ったが、何のことか分かりますか」と問うた。駒吉が、「分かりません」と答えると、爲造は、「慎みなされとは、色情のことやで」と言ったという。 |
堀越義男「幸せを求めて」104頁。
小松駒吉先生(御津大教会初代様)が、コレラのご守護を頂き、お礼参拝に詣られたおり、教祖は、『小松さん、歳は幾つになられはりましたかや』と、お尋ねになられた。先生は、「十八歳になりなした」と答えられると、教祖は、『十八歳かや、若いなあ、慎みなはれや』と仰せられた。先生はその真意が、はっきりせんまま御前を辞された。すると取り次ぎの先生が、小松先生に、「それはなあ、若い人は心一つで、偉くも悪くも、どんなにでもなるのやから、色情と酒は心して通れ、という意味である」と説明して下された。(中略)人間の失敗、不幸は、この色情と酒が、九分九厘、原因をなしている。(中略)心すべきは〝一の道具の誤った使い方〟であると思う。 |
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堀越義男「幸せを求めて」99-100頁。
教祖はある日、板倉〈槌三郎〉先生に、『板倉さん、一の道具の使い方、間違いなさんなや』とお聞かせ下されている。先生がある日、〈大和〉郡山の女郎屋に、おたすけに行かれた。さまざまと女郎屋の女将(おかみ)にお話を取り次ぎ、おたすけさせて頂いた。帰ろうとすると、女将さんは、「今日はまだ昼間で稼ぎがないので、すまんが二階に女の子がたくさんおるから、誰でも好きな娘と遊んでいって下さい」と言うた。先生はお若かったので一瞬心が動いたが、教祖のお諭しを思い出し、「ああ、教祖は、見ぬき見透しやなあ、危ない危ない」と、慇懃(いんぎん)に礼を言うて辞去されたという。 |
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「女郎のことについて、教祖は何か仰せにならなかったでしょうか」と、こちら(高野友治)の方から質問したところ、老婆(乾やす)は次のごとく語った。「『子供の売られていくのは親だすけ、気の毒なものや。親だすけと言うなら、〈悪〉因縁積むことはない』と申されました。それよりも、女郎買いに行く、放蕩息子のことを申されました。『あれは子が悪いのでない、親が悪いんや。親が細こうして通るから、子が、その金を使って融通する、親の〈悪〉因縁や。することをしい、人にあわれみをかけていくならば何代でも続く。することもせんで細こうして通る、大道に灰まくようなもの。それで、「長者三代なし」と言うのやで。することもせんで、人にあわれみもかけんで、細こう金を貯めて通ると、子どもが散財する。これは融通やで』と仰せになりました」。 |
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堀越義男「幸せを求めて」101-102頁。
教祖は、ひとり言のように、『色情をつかって銭をとった者は、人間に生まれ変わることはできず、牛馬に堕ちるで。可哀想になあ』と仰せられたという。その場に居合わせた、乾やすさんは、教祖に、「それなら、岡場所(女郎屋)で働いている者は、みな牛馬に堕ちるのですか」とお尋ねされた。すると教祖は、『岡場所に働いている人にもいろいろあるで。「親のため、家のため」と言うて、余儀なく苦界に身を落とす者もいる。また、自分から進んで身を落とした者もいるで。親のため、家のため、身を落とした者は、牛馬には堕ちんで』とお聞かせ下されたという。自分から進んで苦界に身を落とした者は、口入屋(人買い斡旋業)の口実通り、「女郎になれば、朝はゆっくり寝ていられる。美味しいものは食べられる。きれいな着物を着られる。夜は、よい思いをさせてもらえる。あわよくば身請けされて、玉の輿ともなれる」そんな思いで女郎になるのであるから、「一の道具を使い誤っている」と言わねばならん。こうした行為の報いとして、不幸な運命に泣かねばならんのである。 |
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「みちのとも」大正5年9月号の澤田又太郎の一文。
教祖は、『この世に一番美しい、一番きれいなものは、色情と金銭である。この一番きれいなものに、一番むさ苦(くろ)しい埃がたまるのや』と、お諭し下されたと、聞かして頂いたことがあります。 |
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「復元」第22号の教祖様のお話/梶本宗太郎の(大正6年6.9日、御母堂様に聞く) 。
泥海世界 『めかけ(妾)を置く心の理は、泥海世界のときは、男女皆ごじゃごじゃ(混合)に住んでいたものであるからから、その時の癖が、今になお残っていて治らぬ』とのことである。 |
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上川孫兵衛(斯道分教会初代)入信時のお話「お道と私」 (上川米太郎より)
教祖お話/『世の中の人達はな、「お金を儲けるのには、人の裏をかいてでも儲けたい、われさえよければよい」という心。儲けたら田買う、畑買う、山も家も買う、家の内が豊かになる。すると妻があるのに、「他に女が欲しい」という埃の心が湧く。金銭や物の埃は、返せば済むが、女や男の埃は、なすになされん、返すに返せん埃や。そうした、心の埃を払う道やで』。 |
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「洗心」第六号 ”六号活話” より(天理教洗心会、昭和2年10.25日発行)
教祖ご在世当時のことである。『この男は因縁者やよって、おまえ、預かっといてやってんか』と言って〈教祖より〉一人の男を、森田さんが預かられた。その男を家において、ある日のこと。布教に出た帰りがけ、癪(しゃく)で苦しんで、路傍で倒れている一人の女をおたすけして、森田さんは自宅へ連れて帰って休まされた。翌朝になってみると、その女の姿が見えないのに驚いた。森田氏が、預かった男の部屋へ行ってみると、布団をかぶって寝ている。「早う起きんか!」。「えらいすまんこって、眼が見えへんねん」。「きさま、昨夜、あの女の人に手をかけたな」。「申し訳ございめえん(ございません)!」。「馬鹿者が、また因縁を出しやがったな」。怒ってはいながら、森田氏は諄々と教理を説いていられるうちに、男も懺悔(さんげ)ができたものか、不思議に眼が見えだした。せっかく教祖から預かっていながら、監督しくじった森田氏は、おぢばへ、その男を返された。しばらくは、おぢばに居たが、まもなく、その男はおぢばを出て雑魚売りをしていたが、三たび因縁を掘り出して女に手をかけた。そしてすぐに、彼は盲目と癪病が一緒に出た。お屋敷で、一緒に勤めた誼(よしみ)で高井老先生が、おたすけにも運ばれた。この男のことを教祖は、『一度二度は許すが、三度目はどうしてもいかん。放っておけ』と仰った。 |
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「新宗教 」大正5年1月号の深谷源次郎「男で御座んす」。
ここへ、三人の盲女がこもっていた。二人はよくなっていったが、あとの一人はよくならない。それで、あとに残った一人が言う、「私は眼がよくなりません」。深谷源次郎「おまえさんはまだ、懺悔(さんげ)ができないからだろう」。「いえ、私は十分懺悔をしております」。そのことを教祖に申し上げると、『懺悔してると言うのなら、言ってやれ。そんなら明日、人のなかで恥をかかせてやると言ってやれ』。それからそのことを、その女に言うと、「私は懺悔をしている」と言い張って聞かない。教祖の仰るには、『それは忘れている。何年何月の十一日を思い出せ』。すると、その女は暫時(ざんじ しばらく)考えていたが、「あります、あります!」と叫んだ。「私は、商人の家に嫁入りして〝女将(おかみ)さん〟になったが、息(息子)と嫁との留守に、近所の若い者と一手になって子ができた。それを堕ろしました」。『それやから、盲目になるのだ』。「神様、よう知っていなさるな」。『神がなすのだ』。それを見ているから、どうでも我が精神をつくって、人を誑(たぶら)かすようなことはしてはならん。 |
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お指図は次の通り。
「あちらへ、こちらへ、心を映し、皆んなこれだけ慎んで居たらよい、これだけ言わんとおこう、と慎み来たる。…中略… 天然自然の道を知らんか。神一条の道、皆な人間心勝手の道を、皆んなこれまでの道を聞き分けてくれ」。(明治21年11月14日) |
「互い/\の理は重々聞かさず/\の理は、とんと受け取れん。慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に」。(明治25年1月14日) |
「慎みが元である。明らかというは慎しみの心。一先ずは、怖き恐ろしいという日もありた。実は天の理、天の理は誠一つの理という。…中略… なれど心の理より起こる事は、皆な適わん」。(明治28年5月19日) |
「天然自然という処成る程と言う。銘々(めん/\)承知して居れば、どんな慎みも出来る」。(明治26年5月21日) |
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