三島神社移転、鏡が池埋め立て事変考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.12.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
本稿で採りあげる三島神社、その宮池の鏡が池こそ天理教と最も因縁の深い遺跡である。その三島神社が移転、鏡が池埋め立て事変が発生している。これを仮に「三島神社移転、鏡が池埋め立て事変」と命名して確認しておく。 2010.7..23日、2010.8.7日再編集 れんだいこ拝 |
【三島神社移転考】 | ||
三島神社は、大和国山邊郡の古式神社である。元々現在の天理教本部敷地内の神殿東側に隣接し、教祖中山みきが嫁いだ庄屋敷村の氏神鎮守社として経緯して来た歴史を持つ。祭神は、布留御魂神(の別名)、大山祇神()、天兒屋根命()の三柱。石上神宮、三島大社、春日大社の分社とも云われる。伊豆の三嶋大社(祭神は大山祇神)から分社され、かつては櫟森(くぬぎもり)明神、三島大明神とも称された。地名も三島町となっている。1791(寛政3)年の大和名所図絵に「三島祠三島村にあり」と記載されている。布留御魂神を祀る石上神宮(いそのかみじんぐう)が近くに鎮座する(〒632-0014天理市布留町384)。三島神社の拝殿の手前に建つ亀の石灯籠が耳目を引いている。
境内社として、社殿の祠が二つに分かれていて左が五十鈴姫神社、右が金刀比羅神社の相殿を持つ。
天理市三島町の地名は、「水島」にその起源があるのではないかと思われる。布留川の支流として三島川があり、布留川の下流にはかつて中島があった。昔の里謡(りよう)にこんな歌が残されている。「三島小在所にすぎたるものがござる 寒(かん)のすのりに夏ほたる」。「寒のすのり」とは、川海苔のことを意味している。歌詞によれば、夏は蛍が出るぐらいに澄んだ川が流れていた様子がうかがえる。その川はどこを流れていたのかと云うと、今の天理本通り商店街こそが昔の川跡で、三島川が流れていた。 事情は分からないが明治4年に春日神社と改められ、大正8年に三島神社に改称されている。教理的には、我が子と引き換えに預かっていた幼子を助けて頂きたいと天理教教祖が願掛けをした神社であり場所である、と云う機縁が存在する。その三島神社が、教祖100年祭後の天理教教会本部の建設に伴って1988(昭和63)年、現在地に移転している。これを仮に「三島神社移転事変」と命名する。後述する「鏡が池埋め立て事変」とワンセットになっており、三島神社移転と鏡が池埋め立ての背景にはどういう事情があったのか。これを考察する。 三島神社の移転は順当な手続きをふんで許可を取り正式な形で移転執行している。問題は、天理教からして三島神社の移転にどういう必要があったのか、三島神社の氏子や信者の猛反対をどう押し切ったのかにある。後者については裁判沙汰になっている。三島神社は地元の氏神として経緯して来ており、その神社の移転には相当無理があったと思われる。風聞では、「いろんな汚い手(権力)やお金(金力)と策略にものを言わせ、三島町の外れに無理矢理移転させた」と云われている。これについて「天理教と三島神社」が次のように指弾している。
|
||
神社移転首謀者の一人であった当時の天理教教会本部内(うち)統領・中山正信本部員が三島神社移転後、出直し(他界)している。もう一人の首謀者だった当時の真柱室長・喜多秀義本部員も、三島神社移転後、時を経ずして脳溢血で倒れその後出直し(他界)している。三島神社移転数年後、教団最高責任者の真柱中山善衞が身上で倒れ、8時間に及ぶ心臓手術を二度まで受けている。真柱はその後長命し、2014(平成26).6.24日出直ししている(享年81歳)。 | ||
三島神社の現在地は奈良県天理市三島町92-1。三島神社の由緒が次のように記されている。
口伝で、「天理教教祖の中山みきが当社祭神から天啓を受けた場所が三島神社旧社地の池の畔だったとされています」と伝承されている。 |
【鏡が池埋め立て事変考】 | |||
旧三島神社の傍に鏡池という池があった。天理教教祖の中山みきは天啓の後、苦悶のあまりに幾たびも池に身を投げようとしたと伝えられている。宮池とも呼ばれた。身を投げようとしていたのは長女おまさが見ていたという記録があるので史実と受け止めたい。「その昔、天理教祖が親神と人間との板挟(ばさ)みになって苦悩の揚げ句、何度もを身を投げようとされた教祖の重要な遺跡」となっている。その鏡池が、三島神社移転の11年後の1999(平成11)年に埋め立てられている。これを仮に「鏡が池埋め立て事変」と命名する。 | |||
「鏡が池埋め立て事変」をどう解するべきか。れんだいこは、本部が教理解釈に困って、「いっそのこと埋めてしまえ」の暴論に追従した結果とみなしている。これについて「天理教と三島神社」その他が考察しているので参照する。 1999(平成11)年3―4月頃、三島神社移転の11年後、天理教教会本部が、教祖が親神と人間との板挟みになって苦悩の揚げ句、何度も身を投げようとされた重要なひながた遺跡である三島神社宮池の「鏡が池」を埋め立ててしまった。 これにつき、天理教市港分教会会長/中澤忠喜氏の平成11.4.9日付け「天理教は宗教ではなくなった」は次のように義憤している。
|
|||
![]() |
|||
天理教教会本部が三島神社移転に続いて鏡が池を埋めた理由は何なのだろうか。推測するのに、「鏡が池身投げ未遂事変」の史実が本部教理と齟齬していることから、鏡が池の存在自体を天理教教祖の神格化を妨げるマイナス材料と捉え、宮池の鏡が池までお屋敷内から葬り去ったと云うことではなかろうか。しかしそれは「ひながた通らねばひながた要らん」とされている教祖のひながた、その史跡に対する本部側からの蹂躙であり許されることではない。これに関与した者の責任が厳しく問われるべきであると思う。鏡が池は復元されねばなるまい。真に反省すべきは、「鏡が池身投げ未遂事変」に対する変調教理であろう。ここから直さなければ、こういう事例が次から次へと起こるであろう。 2010.10.11日 れんだいこ拝 |
【布留遺跡と祭場跡考】 | |
天理教の本部神殿の下には布留遺跡と祭場跡がある。「布留遺跡の祭場出土土器と玉類」には次のように記されている。
|
【東大寺山古墳出土の「中平」年銘鉄刀】 | |
邪馬台国大和説は、画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡の出土分布や奈良県天理市東大寺山古墳出土の「中平」年銘鉄刀をその拠り所として挙げる。 天理市和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては和邇氏族の拠点であった。関連一族が築造した古墳が丘陵上に点在しており、東大寺山古墳群をなしている。同規模の前方後円墳が他に3基あり東大寺山古墳→赤土山古墳→和爾下神社古墳→墓山古墳の順で築造されていると推定されている。 その一つが天理市の東大寺山(とうだいじやま)古墳で、後円部を南に向け前方部を北に向けて築造されている。奈良県天理市櫟本町(いちのもとちょう)2525の天理教城法大教会の敷地内にある。次のように解説されている。
1961(昭和36)年から62年にかけて、天理参考館による発掘調査を行われた際、主要部分は盗掘を受けていたが、後円部から大規模な粘土槨(長さ推定9.4m)の埋葬施設が発見され多量の副葬品が出土した。棺内からは勾玉、鍬形石、車輪石など貝製腕輪や腕輪形石製品、滑石製のつぼ等の多数の石製品、玉類など。棺外からは鉄製剣9本、鉄刀20本、槍などが出土した。刀剣類や古墳時代の腕輪形石製品のなかでも特にランクが高いとされる鍬形石が26点出土した。他に例がない。墳丘にに沿って円筒埴輪が並べられていた。 1982年、重要文化財に指定された。2001年、東京国立博物館に管理換えとなり現在に至っている。2017年、東大寺山古墳の副葬品は一括で国宝に指定された。 東大寺山古墳は全長約140m、前方部幅50m、後円部径84m、高さ15mの前方後円墳で、東大寺山古墳群の中では最大規模の古墳に当たる。現在は竹藪におおわれている。この丘陵には奈良県では最大規模の弥生後期の高地性遺跡がある。東西約400m、南北300mの範囲内に竪穴式住居があって、二重の空堀が巡り、空堀の構造は大阪府和泉市の観音寺山遺跡に共通している。東大寺山古墳は、この高地性遺跡と重複するようにして存在し、その遺跡の役割が終わって150~200年ほど後の4世紀後半の古墳時代前期後半に築造されたと推定された。 |
|
粘土槨の東西に墓壙が掘られ、副葬品の中から家形の飾りを付けた三葉環頭大刀や刀身に中国後漢時代の年号の中平年間(西暦184~188年)の「中平」紀年銘を持つ24文字金象嵌の銘鉄刀を含む5本の装飾環頭付きの鉄刀(大刀)、鉄剣、鉄槍など、多量の武器や武具が並べられている状態で出土した。 その中でも後漢の年号「中平」(184~190)の銘をもつ24文字金象嵌の鉄大刀が注目される。これを仮に「中平銘鉄刀」と命名する。「中平銘鉄刀」は、刀身の棟の部分に24文字を金象嵌で表した長さ110cmの鉄刀で、鉄刀の刀身の銘文は「吉祥句」を用い、「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」と記されている。「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」と解釈できる。「中平」は後漢の霊帝の年号で184-189年を指す。「倭国乱」(魏志倭人伝)、「倭国大乱」(宋書)が終結した時期の2世紀の末である。中平銘紀年刀は「倭国乱」前後、後漢王朝から下賜されたものと考えられている。この鉄刀の入手経路、本古墳への副葬経緯は分からないが、中国の後漢と通交があったことが裏づけられる。日本で発見された年号の判明する遺品としては金印に次ぐ物になる。被葬者は和珥氏の首長と考えられる。 花形飾環頭大刀は、棺外東側の被覆粘土中から出土した刀・槍郡の一振で、環頭飾り部分と鉄刀本体部分は別々に造られたものである。環頭部分は青銅の鋳造品で、環頭の外側に様々な装飾(意匠)を施している。基本的には楽浪の石巌里(せきがんり)の古墳で出土しているような直弧文を刻んだ環の中に三葉形を入れた三葉環である。三葉環の鉄刀は、福岡市の若八幡宮古墳(4世紀)から出土している。鉄刀の中には、家形の環頭(かんとう)をつけた刀もあり、奈良県河合町の佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡の鏡背に表された家屋と形体が類似している。その横に角形の突起を一対、鳥形の飾り(「鳥文飾り」)を一対付けている。このような飾りの環頭大刀が三点出土しており、そのうちの1点が「中平」鉄刀である。刀身は内反りしていて、日本の前期古墳に特有の直刀とは違う中国(後漢)製である。中国製の刀身に日本で改造し、日本式の環頭を付したものと推定されている。 2世紀末の中国で製作された鉄刀が、いったいどのような経緯で奈良盆地にもたらされ、4世紀後半に築造された東大寺山古墳の副葬品になったのか謎となっている。 |
(私論.私見)