神様顕現の理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.23日

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 2003.8.29日 れんだいこ拝


【神様之御顕現】
 伊勢国五十鈴川の水上に鎮座まします日本総社内宮外宮様はいざなぎいざなみ様月日二神御入込み下されたる天照皇大神宮なり。天は水、水月様、照は火日様、(す諾め冊お)み親様なり。八幡大神春日大神御添い下さるはつきよみの尊、くにさづちの尊にして月日様の一の道具神様なり。

 讃岐国琴平山に鎮座まします金毘羅宮の御神体は大己貴命にして即ち大国主命なり。くにさづちの尊の変化にして金の神きんぴら様なり。舟神と崇む舟は続ぎの理にて女一の道具と同じ理なり。帆柱、櫂、櫓、皆男一の道具と同じ理にして舟を自由自在にするなり。この金毘羅宮に癩病の者一心不乱に一願を籠むれば御利益著しくありたるは続ぎの御守護下さる神の変化故なり。

 山城国男山に鎮座まします八幡大神の御神体は、神功皇后の御腹より降誕まします誉田別皇子即ち応神天皇なり。この八幡宮は武将神と崇む破軍星の御心即ち、つきよみの尊の変化ましますものなり。悪気逆徒を制し下さる神様なり。

 山城国伏見に鎮座まします稲荷神社と云うは往古即ち神代之時、天の親神始めて人間に米を与えられたる時、種配りを命ぜられたる神なり。心正直にしてよく勤労せられし故、米の神様と成り給う。人間その往古その時分、神代之頃の如く正直真心狂わねは稲荷様と同様の位あれども、段々人間の心悪気盛んなる故に皆な下りたるなり。例えば今の米屋が稲荷様と同じ理也。米買うもの正直にやれば御得意様と米屋主は敬えど、代金は怠惰し又払わざる時は皆ののしりを請けるなり。命の親たる米なればその心得大切にすべきものなり。世間に往々狐為に騙らかされ路に迷い困難する者あり。狐は卑しき獣類心にして金銭出入り交際を偽り或いは命の親たる米屋を騙したる種の生ずる故に一の獣類たる狐の為に困難するは恥ずかしき次第なり、よく/\注意専一なり。

 家々かまどの上に祭る三宝大荒神は人間の命、世界水火風三つの宝、身体にては水気温熱呼吸の三なり。この三つは平常一秒間も欠ぐべからざる物なれど洪水、大火事、暴風となる時は恐るべき大の荒神なり。故に三宝大荒神と崇むなり。かまどは六台の事なり。六台とは木、火、土、金、水、風の六つにて命を保つ故に九の土と云うなり。くど九つ胴、六台に三つ載る理。

 出雲大社は大国主命、第三くにさづちの尊の御変化なり、縁結びの神又弁才天と祭るも同じ。金毘羅宮も同じ、金の神と祭る金銭も続ぎ舟も続ぎ全て乗り物は皆な女の理なり。弁財天美女の姿を描きたるはくにさづちの尊の御徳を現わす。恨み残念三代持越せば癩病と云うはこの神様の立腹。この神様は人間万物続ぎ一切、又表の神様ゆえ見えるところ美しき、奇麗なるは何物に限らず表の続ぎはこの神様の御神徳の現われ故。例えば、人間も如何なる美人と云うても癩病、皮膚病の如く皮続ぎ腐れ破れ或いは体内の続ぎ切れて病体と成れば醜き姿となるが如く、この神様の心に叶いその道に徳を積んだ心の理が美人と現われるなり。人を続ぐは人を立てる天の理を立てるも同じ理。又音声の美はかしこねの尊の御神徳。

 又つきよみの尊は昔より弓矢八幡大明神と祈りたる軍の神様にて勢いの神と云う。破軍星軍を破ると書くと如く誠を立て貫きて悪を破る勢いの強き立ちきつたる御心にてこの神様の徳によって世界万物は倒れず立って居る万の物事成り立つ納めの神、誠を以って世界を立てる事に強い善に突っ張り抜く挫けぬという神様なり。勢いが弱くては何事も立たぬものなり。故に人間も天の理を守りて誠を立て人を立て、理を立てて行けばつきよみの尊の御心故、破軍星と云う、向かうて来るものが皆ことごとく負けてしまう突き破らるゝなり。立てる事に強き神様なり。人間の埃と云うは我が身の思惑を立てんとして誠を失い、天の理を立てぬ破る故我が身が立たぬようになるなり。

 御教祖は天保九年秋戌の十月より神様の御命を承り給い立てゝ下された、用い下されたも同一(戌亥が建て始まり)。その神様の思惑を立てるために我が身我が家我が子を犠牲にしてあらゆる迫害の中幾度の監獄、如何なる御艱難も御厭いなくその突き立った御心を五十年間くるわず御通り下され、神の思召しを立ち貫き下されてこの道が立始まり立教となった。御教祖は有形の物は人に施されたけど心は即ち神を立てられたものである。教祖には恩の送り様がないとの神様の御言葉もあり。故に御道は人間の親たる神の思惑を立てる道なれば、人間の我が身勝手の思惑を立てよと思うは間違う故神に水くさい。成り立ちぬ人間心で成り立つ道でない、人間心はすっきりいらんとの御言葉なり。

 又この神様は道教えの神と云う、地蔵神とも云うて道分け例えば此方は山、此方は海という、こう行けば間違う、こう行けば道という教えがこの神様が抜けてある人はできぬ。

 この神様の御心は八方八神の括り故、この理が立てば皆理が治まる。一日立つ一月立つ一年立つと天理を読み給う理、万納めの神様にてつきよみの尊と云う、人間も万事成り立ちせざれば十分胸の内に治めてあれば如何なる人にも十分満足与える事ができる。

 又五行の道では礼というはこの神様より出て居る人を大切にする、人は互いに立て合い助け合う礼儀という。この理がなくては畜生に等し。人間も古き昔は野蛮時代で獣類の如く力づくで倒し合い強い者が弱い者を倒し、喧嘩ばかり家宅の取り合いと云う風な悪気であったもので神が段々戒め成人に応じて教えを布き善道に導きて育て下さって進んで来た。例えば獣類は親も子もない目上目下の順序も恩を知る事も或いは色情でも誰彼の区別なく義理も情けも礼儀作法もない、人の作物我がの作物の区別もない只食う事ばかりの心、大小便及び汚い事も掃除する事も何も知らぬ如く人間も追々成人して神に近つくに従い人を立てる事、行儀作法などが分かって来る、あたかも子供が成人するに従いて何かに分かって来るが如く、人間も神の世に進むに従って心が進んで行くから我が欲の汚い心が清浄な立て合い助け合いの神の心に進んで居る。故に下等社会程この理が心にないのである。段々心が汚れると獣類に近くなる。それで段々この理のないもの程下等に住まい暮らしが立たぬ難儀をする神様も段々と子供の成人を待ち兼ねる、神の思惑之ればかりなり。又成人次第見えて来るぞやと仰しゃってある通り子供時代には大人の教育しても分からん如し。

 故に御道は皆深い尊い事が云うてあるなれど我々の心が進んで行かねば聞いても分からん。神世はこれから先にできるのである。なり。神は何から何迄拵えができて居ると御言葉にある通り神の守護により世界が神の世に進んで居る。例えば昔は日本の内輪一国一郡でも取り合いをして居た如く又川向うの火事と云うて眺めて居た如く、今は他県の火事でも全国が知り全国から互い助け合うようになった如し。

 又聖徳太子様はこの神様の御変化なり。建築大工業の守り神と祭り来るは立ち木建物立ち柱と云う大工業はこの神様の理。建てる役、正しい定規を以って立てる。ゆがんだ傾いた物は立たん倒れる。宇宙間一切の建築物はこの神様の理によりて建って居る、倒れぬ也。かの昔より城頭棟頭にしゃちを飾りたるはこの神様の理を以って立って倒れぬという理なり。甘露台勤めに鼻高面としゃちほこをこの神様の所に飾るはこの神の御神徳をかたどりたるもので鼻高と云う理がこの神様に有る。鼻柱顔の辛鼻で顔が立つ。鼻も立つという理はこの神様の理なり。筋道を立てるという、誠を立てる道を立て人を立て親を親上を上と立て女なれば夫に貞女操立てる如し。成すべき事をきちん/\と成す、人に恩を受けば恩を返す如き皆筋道を立てる理。鼻は人道ともいう、人の道を守りて崩さず立てる誠一筋というが如く鼻は世界の花と云うも同じ理。花も種々ある如し、人間の花も種々、花は実を結ぶもの、人間の鼻は考える道具。その考えたる事を行う故一つ/\実が入る理成ってくる。

 例えばあの人は鼻を高うして居るというが如く人間は成すべき事を成して踏むべき道をふみ、何所へ出ても恥ずかしからぬ道を通り立派に行うて居れば鼻高うしてぴんとして居れると同じ。低いはその反対で立てて居らぬ人にすべき事をせぬ、例えばこうすればよいに、あゝすればよいけれどと思う事をせずに置くが如く、成さねば実が乗らぬ、その成さんのは埃から成さんその因縁で物が与わらぬからようせぬ、故に人の中に出ても鼻低うして居らにゃならんが如し、全て鼻の高低等は前世の理なり。

 鼻筋の潰れたる者は前世に以上の理に依り我行うべき理を立てずして大いに人の恩をかぶりて来たる理、鼻筋の立つはこの神様男一の道具も同じ理、例えば一道具を使って伝来の財産も潰し身を持ち崩し家が立たぬから鼻落ちるが如し、又一の道具が立たねば一家世界も立たぬ。鼻は舵取り鼻の落ちた者に考えのよいものはない。又鼻高天狗はたいしょくてん様の理で切れ物が上手なり。思い切るから立つ全て天狗など云う事は理想を給いたもので昔話なれど一に勢いと云うて天狗は神故に人間の心の勢いに乗って働くものなり。恐れて逃げるような弱い心の時には天狗に逃げて居る。これは理を云うたものなり。

 天理の事を読むからつきよみの尊、天理の風を守るから大日如来、天理の道を守るから不動明王。大日如来はかしこねの尊の御変化。この神様一番大役故一世は、大日如来と変化し給う、世界中のものが物を云うて居る。日々に大きいと云う意味、この神様休みなし、人体でも肺は生まれてから死ぬるまで夜昼一つも息は休まぬ如く、かしこねの尊は風の神、誠の神様故人を憎まぬ治める神なり。人に満足与えると云う御心にて堪忍の風というて不足腹立ちを風に出さず寛大にしてどんな者にも分かる様説いて聞かす如何なる事でも善き方/\と物事の治まる様/\人に足納与えるよう、誠から優しく言葉を吹かすのがかしこねの尊の智恵なり。それ故に如何なる事も皆善悪が分かりて世が治まるなり。

 聞かすという助けると云うは心を治めるも同じ。この世は言葉の理で治まる世界なり。陰陽和合によりて陽気を生ず水気と温みが合うから風が出る如く天の理に合えば誠の風知恵が出る。御教祖が月日の御心に合致せられて神様の御言葉が出たるにより世界助けの御道が始まる。教祖の神聖なる言行風儀は天理の風なり。又神がかりの言葉の一条が天の自由用と云うなり。

 人間も天の理に合わぬ天理に切れて居る心を以って働き居ては陽気に勇む事ができず、智恵も出ぬ一身が治まらん。例えば人と人との心が合わず仲が悪ければ物云わぬ心、合わして睦まじければ家内の中でも陽気、又人と交際して智が付く如く例えば子供が学校に行きて一年の間に非常に智恵が付いたという。これは先生が教える事を一心に覚えて守って居るからである。全て心の合うた先生につかねば智恵が付かんが如し。教える師匠は我に取ってはくにとこたちの尊。君臣の間は主君がくにとこたちの尊、親子にては親がくにとこたちの尊、夫婦の間は夫がくにとこたちの尊。皆水と火陰と陽が合うて成り立つ世界、故に親に切れ主人に切れ師に切れ兄弟親戚に切れ人に切れて居ては天の理に切れて居る。天の理に合わぬのであるから何程苦心しても頭が進んで行かん。

 又この神様は義の神様、義理と云うも同じ。この神様から義と云う事は出て居る。全て皆月日両神から出るなれど月日二神からかしこねの尊に美と云う事は御任せになって居る。人と交際、言葉一条、白紙に文字を書いたらもう直すと云う事ができんと同じく云うた事を違えん。云うた事の違わぬという定役をたがえぬ如く人間は義が大切、義理の道万事義と云う事はこの神様未申、羊に我と書く、羊程義の堅いものはない。羊は虎に向う時は朋友を助けるために我も/\と皆先に/\進んで行く。食われるという我が身を虎にあてごうて朋友を助けようとする性を持つ。昔の武士道でも義で持って居た。例えば武士に二言なしと云いて義を守り、又向うが刀を捨てれば自分も刀を捨てて掛る如し。義を立て、不義なる事は死しても成さんという義を重んじた事、是れ義の徳也。羊でもかしこねの尊の理が付いて居るからその性が有る。神様が羊にも虎にも狗にも十二支に御変化下さって開闢の間潜って通って下さった故にその理が動物にある。人間には勿論義がなくてはならぬ、義は誠。我が身の小さい欲を捨てて例え我が身を犠牲にしても人を助けると云う、又国家の万人の為に尽くすという真実誠なればその心は神と同一、必ず神に分通する故天晴れの働きができる。神は人間の心に乗って働き給う故誠によって神の働きが現れる。神言に、我が身捨ててもと云う心なれば神が働くと仰せある通り、人間は我が身を案じ身欲から心が小さく穢く暗くなって徳を落とす。真の誠なれば天が守り給う故、天運尽きず長久なり。誠がなくしてこの世の役にも立たず。又人にをなし埃を積み、天の龍頭が切れて神退けば人間程脆いものはない。

 何所に居てもどおして居てもいわゆる畳の上からでも死なねばならん。天の龍頭さえ切れねばどんな危ない所でも大丈夫通れる。たとえあられの如く飛び来る弾丸の中を潜っても又昔で云えば矢の中でも身に当る理がなくては当らぬ。例えば昔の太閤秀吉でも徳川家康でも天が世の中に必要有って守って御座った故殺されず天下を統一したと同じ。

 昔より臆病者が世に勲功を残し、天下に天晴れの名を残した者はない。もし秀吉や家康が臆病者で戦場を恐れて出なかったとすればかくの事業はできないが如く神は心に乗って働き有るものなり。又国家の為世の為に犠牲となって功労を残して死したる魂は直ちに生まれ出でて国家の上に立つ天徳を以って世に現れる故万人の尊敬を受ける。上に立たるる人は皆前世に世の為に尽くされた因縁ある魂にて、これが因縁心の道なり。

 御教祖が照之丞を助ける為に我が子の命を神に捧げて助け給う教祖の真実を神が見定めて、天保九年より教祖を神の社として天下り給う。教祖は二十五年の命を縮めて魂一つとなって存命通りと働くと仰せられ、又一列の子供が成人したならば教祖は再び生まれ出ると仰せられたのであるが勿論一代を犠牲にして世界の為に働かれた御方々が再び世に出られぬ様な事ではこの世に神はなきも同然暗闇も同じ。

 この世は神の世界で一寸先の分からぬ人間の自由になる世界ではない。人の神魂は神の分心故、代々この世に出て居るものなり。身体はいわゆる水の泡同然のものなるが、魂は神と共に不滅なり。人間の生死は全く神の支配にて決して人力の左右すべきものに非ずして神の自由に在り。又我が身の欲を去って我が身を犠牲にして人の為国の為に尽くすという位な真実があればこの神様入込み給うて実が利くなり。我が身の欲で田地や山林や財産を持ち又金を貯めようとするような間はこの神様の通力が利かぬ故言葉一で世の為をするとか息で働く天徳はできん。身薄になくてはできん。身薄にならねばこの神の実が利かん。

 世の中に芸人とか歌或いは浪花節とか鳴り物を以って人を喜ばす事に達者なものも理は同じ、又天性美声にして人に珍重敬慕を受ける人はこの神様の理に叶うたきれいな心にて前世に人の為になる言葉を使いてある理で或いは人を喜ばせ人を助けその道に徳を積んだ因縁有るなり。すべて陽気に面白く話しをして人を喜ばすとか勇むとか笑わす方面はこの神様の理に叶う方であるが、これの反対で我の欲心から色々と人を害する、人の心を煩わしい人の腹立ち恨むような悪口そしり話や悪風を吹かす方は皆我の徳を落として行くなり。

 声のよいと云う理は中々意味が深い也。又鳴り物は人間言葉の理と同じく鳴り物の一番はが第一位のものなり。これは心の格好という理で、心の格好は悪しき所を立替せねば格好よくならぬ。又三味線は鳴り物の中でも広く用いられ僅か三筋にて最も美妙なる音調を発し人心に陽気を与えるものなるが、三味とは言葉の理にて三つの味わいと云う理で強いと弱いと中程全て言葉は心の現われにて人を助ける事も人を苦しめる事も大にしては世を治める事も世を乱す事も皆言葉が働いて居るもので大切のものなるが、例えば御道一条或いは一家の子弟を教育するにも何時も柔らかな言葉だけでも育たぬ、助からぬ者あり、却ってその者一生をあやまる事あり。強気厳しき教育にて助かり、生涯の出世さす者とあり、皆云うに云えぬこきゅうがある如く、兎に角埃なききれいな即ち誠親心より施す言葉はたとえきびしき内にも温かき味わいのあるのみならず、人心を感化し教訓するの力あるもの故、人の心育つなり。

 不動明王はおおとのべの尊の御変化不動は動せぬという理。 盤石の如くと云うて人を助ける為には、誠の為には心を変えぬという理なり。かの仏像に炎の中に真っ黒の像が剣を以って泰然たる姿を描きたるはたとえ如何なる中でも心を動せず苦労を厭わぬという。

 この神様の御心の姿を教え給う御道なれば如何なる悪因縁埃の中も切りぬきて埃にまびれぬ心を倒さぬ、人を助けるためには真心を変えん誠一筋押し通すと云う真実、定まったのが不動の精神。

 又この神様とつきよみの尊二神で秋ができて居る故御心もこの二神同じ所がある。酉戌亥秋の神、力の神、働きの神、御守護も御添い下さる。この神様は出世神とも云うて人間は自慢や高慢では出世できるものではない。低い心で万事行き届く心を開き自分が守り行うて実力を拵え価値さえあれば自然に神が引き出しなさる。万物引き出しの神様、引き出し下さるは何の為かといえば万引き与えて満足与え下さる神故に人間も人に引き与える、満足与えるという、全て我が働き骨折りして人に十分与えると云う心になるから我が身に力が備わる。

 又恩を返すと云う事に力を入れて人に引き与えすれば自身に力ができる(殊に御道はこの理が大切なり)身の内では筋の御守護、筋は全身に行き渡って働いて居る。たとえ一小部分でもいささか一分でも足らんとか短かったら筋を釣って伸縮の自由叶わぬ如くで隅から/\迄行き届く一つの抜け目なく八方に心を配りよく行き届く神様人間もその心の理で十分物事を心に納める。それ故に人に満足が与えられるなり。

 筋は骨の行き渡る所は筋が行き渡って居るが如くでこの神様の理は人のするだけの事はする人に引けん人のなす事、人の知る事は我が成せん知れんという事はない。人に負けん後れぬ劣らぬ人より優るという心、例えば十あるものを六七分知りて私は是れでよい分かったと思うて居る如きものゆえ高慢、私は行き届かんまだ/\十分学びて上達せにゃならんと自分の短所欠点と人の長所が見えて人を見下げる心切る心なく、心使いの低い柔らかにして熱心の強い心から日々に得が付いて上達する。

 又人がこう云うから人がどうしたからとて心がたよ/\して倒れるような真実の定まらぬ薄弱な心では何事もできん。たとえ人がどう云おうとも我がこれをやりぬかねばおかんという変らんくるわん、真実の据わった辛が立つから延び上がる事ができる。この心のないような者は役に立たん。と云うのは世の中は多くは埃に染まりて徳を落とすのであるから自分の前世の悪性質を切り天の理を胸に納め心澄まして誠一筋押し切って世の中の為人を助ける技量実力の天徳を得るに意思の強固なる迷わん動せん強気誠を立ち抜く真実親心が不動明王なり。

 御教祖が雛形、教祖が如何なる中も世界の子供助けるために盤石の如き心にて御苦労下された故、この道ができ立った。もし御教祖が御苦労艱難に堪えられず中途御心倒し心を変えて居られたら、神の思惑たるこの道どうなって居るかと云う、その強気誠が末代まで光り輝くのである。

 又高慢は学ぶ事を学ばず自身行わずに理屈で人を押さえるとか知らん事でも知り顔をする人よりえらそうに思うても自身に行わぬ、通らぬたしかに心に分からん事はうそになる。又自分で分からん事や無い事云うて人を迷わし人に迷惑を与える。高慢では力はできん。高慢から去るから力が与わる。心に力のできるはこの神様つきよみ様の理。

 例えば理屈が達者になって人を押さえて見たところがその実人を教育する仕込む、全て実力がなくては役に立たぬ。又身の内はこの神様の入込んではし/\迄何所でも伸縮自由自在できるはこのぐらい優しい素直な心はない、十人は/\に人を引き出す押し出す人を連れると云う神様なり。自分の気に合わぬ者にも気を合わして行くのが引き連れる心。又人間は心が低うなくては行き届かず低い心で働かねば徳が取れぬ。どんな人の云う事でも聞分けるという度量の広い人を容るゝという理で我が心広く大海になる埃の中にも正味有り。よき所は心に治める又力は血、地からという意味ありて低い所にある水は低い所/\と流るゝものでこの世の中に水程強い力あるものなし。

 水程やさしいすなおなものはない、例えば下駄をはいて居て力出すよりも足を地に落として踏ん張る方が力が出るようなもので我が身の低い程力が出る如し、草木でも根張りが下に下にと下りるほど上に延長して大本になる程多く花実が稔る如く、又親は根で有る、(一切の親)根に切れては実が乗らん、肥がなければ太らん如く、道を治むるにも我が心落として師に仕え、十分勉強して恩を返す、根にを肥する程自分に徳ができる大人となる。

 例えば人に従うとか頭を下げる人を立てる事がうるさいから頭を下げて物を学ぶとか習う事をせず、初めから物知り顔で先生顔がしたいようなもので、たとえ如何なる賢人、聖人というても天下に名を輝かす様な御方でも生まれながらに物を知っては御座らぬ、幼少の時代には或いは学校で先生に習い、段々目上や先輩に習い従うて自分が先生になる、元々より先に生まれて又先に学んで居るものが先生、昔からでも一世に名を挙げられた位の御肩は皆師に従い苦労せし修養の根が有って世に現れた如し。

 又世の中に物のよくできる人、出世せる人は或いは高慢も強く人を見下げるように見える人もあれど、その実は心が届いて働きが多く強くしてある熱心が強いから徳を積んで高慢の埃なく理に叶うから出世成功できるなり。又心の届かん物事のできぬ人に満足与えん人は天理にては高慢なり。例えば高慢の埃に前世から迫って居る故に心には行き届かそう満足与えよと思うてもようせぬ、天から押さえられて居る。つる類は皆この神様の理故どんな事にも人より延び上がって下向きに頭を垂れると云うのがこの神様の御心の理が現れる。かの藤は美しい花を咲かして高い所から下にうつむいて花を見せる。人間も如何程出世しても心を低めて人に花を見せる心の味わいこの理がおおとのべの尊の御心に叶う所を人間に見せて居って下さる。さがりやさがるほど人の見上げる白藤の花、咲いて実のない山吹の花、つる類は何でも他の物につるが優しく添うて伸びる。そのものよりどしてもう一段伸び出るという性、低い柔らか、やしゅうて実力の勢いが強いもの。又人間に対する高慢は人の云う事成す事つきくずす、或いは我が身を顧みる智恵無く人を恨み人が行き届かぬように思い又人を見下げ我がえらいように思うて我が事を鼻にかける、人に折れそれのない高い心高慢から人の云う事でも耳に入らん。用いん人に情けのない小さい心から胸の内が暗くなる。

 神様に対するの高慢は己が前世より今世のよごした埃が十分有りながらそれを祓うて心を磨く事、心に主とせず又気付かずして清浄なるように思うて自分の目的や思惑を立てようとする心で道を通る心、我の勝手思惑あれば天の理を正直に守る、即ち神に素直になる事ができん故高慢があっては話が納まらん、教え通り行えん。例えば日夜の身上の大恩を思い神様の御守護で働かして貰えた、さして頂けると云う心でなくして之れは我が力で成したものだ、我が助けたものだ、我が働いて我が食うて居ると思う、心は神に対する高慢神の理を突き崩す理。故に形は人に与えて?心は与える、尽くす心なき理である。

 道に年限重ねて人を助ける位置に在る人には神様に対する理の諭しがある。人を出世させようと思う誠の心が我が身の出世できる心である。欲と高慢大嫌いと御教祖は始終仰せられたり。


 2004年5月、日本史研究500号「民衆宗教の宗教化・神道化過程 ――国家神道と民衆宗教――」。
 一、宗教と神道という概念


  ふり返れば、戦後研究は近代天皇制国家と宗教の問題、換言するならば近代日本における政教関係(国家神道体制と名づけられた)について、長らく近代天皇制国家の特質、多分に絶対主義的と捉えられたその特質と不可分の問題群として捉えてきた。すなわち、市民社会の未成熟(非民主的社会)の表徴として、政教未分離(「信教の自由」の未確立)を捉え、まさに西欧絶対王政が神聖国家として自らを表明したのと同様に、近代天皇制国家が神道国家として自らを表明したと捉えてきたのである。そこには、「未完成の国家が、それの特殊なあり方のうちにふくまれている欠陥のために、欠陥のある国家として、宗教をその基礎として宣言している」[1]という見方が、頑強に存在していた。

  そして、少なくともこうした見方は、昭和ファシズム期における宗教統制・宗教弾圧、更に植民地における神社参拝の強要などを、直接・間接に経験・目撃してきた研究者にとっては見方というよりも実感であった[2]。無論、そこには戦後のいわゆる「神道指令」(The Shinto Directives、一九四五年[昭和二〇]一二月五日)が、日本の侵略戦争の背景に神社神道・国家神道の存在を捉え、「宗教ヲ国家ヨリ分離」することを求めていたことの影響も関係していよう。だが、一部に見られるように、国家神道論[3]のすべてをこの「神道指令」に淵源するものと捉え、その後の研究が占領軍の見方を安易に継承したものと捉えるのも、あまりに一面的である[4]。なるほど、国家神道という概念にまつわる曖昧さは、この「神道指令」にも存在しているし、その後の研究がそれを継承した側面もないとはいえない。だが、国家神道論とは、戦後初期の「神道指令」の影響も含めて、近代天皇制国家をどのように捉えるのかという課題をめぐって、その後の政治状況とも密接に関連しながら推移してきた歴史的言説であって[5]、その初発の問題だけに全て還元しうるものではないことはいうまでもない。

  とはいえ今日、国家神道論が大きな転機を迎えているのは間違いない。何よりも近代天皇制国家を絶対主義的という概念によって捉える見方が大きく後退したことは、国家神道論の根底を大きく揺さぶっているといわなければならない。すなわち、戦前期の政教関係全体を、仮構された西欧市民社会と比較しながら、半近代的・絶対主義的なものであったとする理解は、今日ではあまりに昭和ファシズム期の体制を明治に遡らせた理解であることが明らかとなった[6]。同時に、国民国家論の登場によって[7]、国家神道も近代国民国家における国民化のイデオロギー装置の一つと捉えられ、強要された側面よりもどのように主体的に受容する担い手(国民=臣民)となっていくのかが問われ始めた。だが、国民国家論とも相まって、何よりも宗教と神道という、これまでの研究が自明視してきた概念が根底的に問い直されていることが、国家神道論にとっては決定的な問題となったといわなければならない。行論上、以下ではこの問題について言及しておかねばならない。

  まず、宗教概念に関わっては、村上重良ら代表的国家神道研究者が自明なものとして用いてきたこととは異なって、それ自体が日本の近代化の産物として、Religionの翻訳語として登場してきた歴史的概念であることに注意が向けられるようになってきた[8]。つまり、宗教という概念は、実は近代天皇制国家が形成・確立していく過程と並行しながら、更に道徳・神道・仏教という同じく近代に生まれた概念とも並行しながら定着していった概念であって、その概念の定着過程自体に、実は近代天皇制国家のイデオロギー編制、更には戦後に国家神道体制とよばれた戦前期の政教関係の特質も内在していると捉えられるようになったのである。

現在もっとも説得的な議論を展開していると思われる磯前順一によれば[9]、明治維新から一八七七年(明治一〇)頃までの時期(神祇官、神祇省、教部省期)、徳川時代までの宗門のプラクティス(非言語的な慣習行為や儀礼的行為)は、未だ宗教という概念で捉えられていなかった。しかしながら、文明開化の進行とともに、プラクティス的なものを下位におき、一部についてはそれを反文明的なものとして排除する主張を伴いながら、キリスト教を基軸とするビリーフ(概念化された信念体系=教義)的な宗教概念が、次第に浸透していくこととなる。教部省が廃止された一八七七年以降になると、国民統合に適合的な宗教はどれなのかを競い合いながら、「日本型政教分離」が進行していく[10]。同時に科学と宗教の対立(明治一〇年代後半)、国家と宗教の対立(明治二〇年代初頭期)という論争[11]を経て、公的な道徳(道)と私的な宗教(教)の分離=政教分離という認識様式が形成されていく。井上哲次郎が、道徳・哲学の宗教に対する優位という認識の上で国民道徳論を唱えたのは、この時期の典型的な言説といえるが、これに呼応して、宗教界でも倫理化・合理化が進行し、政府の側からは神社神道非宗教論=道徳論が提示されていくこととなる。これに伴って、宗教の範疇に属するものは「教」に(仏教、キリスト教など)、そして道徳の範疇に属するものは「道」「学」に(神道、儒学、皇道など)、という概念の固定化も進められていく。以上を踏まえて、磯前は国家神道については、次のように結論づけている。

  政府は神道のビリーフ面の弱さをおぎなうために、神道国教期から教部省期にかけて教義面での体系化と統一をはかったのだが、これらの政策がいずれも破綻したことが示すように、結局のところ、それは成功をおさめることができなかった。そこで、ビリーフ中心的な宗教概念が神道のプラクティス的性質に合致しないことを逆手にとって、政府はあえて神社神道を西洋的な宗教概念の埒外に置こうとしたのである。(中略)神社崇拝は個人的な宗教信条にかかわりなく、道徳行為たる「崇敬」として、ひとしく国民に義務化されてゆくことになる[12]

  磯前の議論は、細かな制度史に即して立論されているわけではない。したがって、村上以来の研究史、ことに制度史的な修正に費やされてきた多くの研究に照らした場合、無論不満が残ることは予想される。しかしながら、国家と宗教、換言するならば近代政教関係を検討するに際して、同時にその概念自体も形成されていったとする視点は、たとえばなぜ神道が非宗教と見なされるようになったのかという問題を考える上では、きわめて示唆的なものといえよう。翻訳概念としての宗教概念の定着こそが、神道=非宗教論を構成する不可欠の前提であったわけである。

  ところで、磯前が宗教と並んで近代的概念として注意を喚起しているのが、実は神道という概念である。神道概念も、自明に見えて、実は近代以降に非宗教としての自己認識を伴いながら再定義された概念なのである、と。もっとも、この神道概念の見直しについては、早くから黒田俊雄が注意を喚起していたことが想起されねばならない。すなわち、黒田は古代以来の神道の用例を検討し、神道という言辞が近代以前には「自立的な宗教」として用いられたことはなく、それは主として「土俗的信仰一般」「神の権威・はたらき」「道教」という三様の意味において用いられ、中世ではことに「日常生活全般にまで貫徹した仏教的体系に裏づけられ」た世俗的概念であることを明らかにした。そして、以下のような注目すべき見解をのべている。

  “日本の民族的宗教としての神道”は、本居宣長らの国学と“復古神道”から明治の“国家神道”の成立にいたる近代ナショナリズム勃興の段階で、ようやく名実ともに備わった形で出現する。“神仏分離”と“廃仏毀釈”という強制的・破壊的“矯正”が、政治権力の手で推進され、神道はいびつながらも独自の宗教としての地位を、はじめて獲得することになった。そして、神道という名称の民族的宗教が古くから日本にあったという“歴史的認識”が、ここではじめて明確にされ定式化される。(中略)だが、それとともに注目すべきことが起こった。“神仏分離”によって、神道は過去の日本人が到達した最高水準の宗教的哲理から切り離され、不可避的にかつ作為的に原始的な信仰そのもののような相貌を呈するようになった。神道は、自立性をあたえられると同時に“宗教ではない”と強弁されるような宗教に転落したのである[13]

  この黒田の見解を受けて、羽賀祥二は神道とは「民族の歴史的価値に根ざす鎮魂のための、また国民的礼典としての儀礼体系」「共同体的な危機のなかで形成されつつあった心的な交流とそれを支えたシステム」と捉え、「近代的人間関係、近代社会の形成期に現われた精神的構造を宗教的観点から把握したもの」と定義づけた[14]。この黒田・羽賀あるいは磯前の見解に従えば、村上が古代以来の神道の存在を前提に国家神道の成立を論じていたことは今や根底から問い直される必要があることは、いうまでもない。

以上、やや長きにわたって現在の研究状況について、とくに宗教・神道概念を中心に整理を試みてきた。それというのも、現在の近代政教関係に関わる研究、神道と天皇制の問題を考える上では、こうした宗教・神道概念に関わる問題は、もはや避けてとおれない問題になっていると考えたからにほかならない。

  しかも、宗教・神道概念の成立過程に注目するということは、ある歴史的事象がそのよ概念によって捉えられるようになった、ということではすまされない問題にわれわれを誘う。すなわち、宗教・神道概念の成立によって、ある事象がそのように捉えられるということは、他方に宗教・神道にあらざるものが措定され、それとの差異化が図られ、それを抑圧、規制していく過程でもあるのだ。さらに、自ら自身を宗教(非宗教)・神道と自覚し、そのことを受容していく営みのなかにも、自身に色濃く刻印されている宗教(非宗教)・神道にあらざるものに対する封印が働いている。如上の概念の問題が鋭く突きつけているのは、実はこうした抑圧、規制の機制であることが看過されてはならないのである。

  したがって、昨今の国家神道論が、(絶対主義的天皇制論から自由になった分だけ)村上らによって抑圧的に描きだされてきた国家神道体制が、その全般にわたってあたかも「虚構」であったかのごとくのべていることは、近代国家の宗教・神道体制の深部に作動していた抑圧性をことさらに隠蔽するものといわざるをえない。以下では、この点を検討するためにも、筆者が従事してきた民衆宗教、金光教の研究に即して、それらが宗教や神道という概念で理解されるに至る過程(以下、宗教化、神道化という)について、検討を進めていきたい[15]。もとより、国家神道論の全般的再検討を行うことは、ここでの任ではないし、何よりも筆者の能力を超えている。したがって、以下での立論も、金光教を中軸とする民衆宗教の変容過程を、宗教化、神道化という視点から追ったものに過ぎない。だが、民衆宗教の宗教化、神道化過程を検討することは、近代天皇制国家によるイデオロギー的抑圧機制、すなわち国家神道体制のより深部に作動していた抑圧・規制の機制を捉えることに有効であると考えている。
 二、民衆宗教の「病気直し」[16]


  いうまでもなく、民衆宗教(ここでは黒住教、天理教、金光教を念頭においている)は、幕末から一八七七年(明治一〇)頃まで、支配層・知識人はもとより巷間においても、神道や宗教という概念で捕捉しうるものではなかった[17]。それは、端的に「病気直し」とよぶべきものであったことは、これら民衆宗教の主要な伸長の要因が「病気直し」であったことに示されている。人々は、何よりも労働や生活を阻害するものとしてあった「病気」の「直し」を切望して、これら民衆宗教の教祖たち、黒住宗忠、中山みき、赤沢文治らの下へと集い、教祖の口を通して直接的に伝えられる神々のコトバや、禁厭や神水・神米などによって「病気直し」を実現していたのである。そして、これら教祖たち自身が、実は民俗的神々を刷新しての、新しい神々と出会うことで、自らの「病気直し」を実現した先駆者であり、その体験こそが民衆宗教開教の直接の契機であった[18]。無論、教祖たちには、「病気直し」以前に多くの苦悩・修練の経験があり、そこでの神々たちとの応答関係が蓄積されることで、初めて開教に至った側面も軽視できない。だが、その苦悩・修練の背後にも、直ちに貧窮・没落につながりかねないものとしてあった「病気」の影がつきまとっていた。

  ところで、ここでいう「病気」とは何であったのか。超歴史的に捉えられがちな「病気」も、実は近代以降の病気観とは異なるものであったことに留意しなければならない。すなわち、教祖たちにおいて「病気」=「難儀」は、何よりも神々との関係的問題として現出するものであった。「病気」とは神々との関係が阻害されることで現出する「難儀」であり、したがって、「病気直し」とは、神々との関係の回復・活性化を抜きには実現されないものと捉えられていた。同時に、教祖たちが施した「病気直し」は、人々の関係をも刷新する性格を有していた。神々との関係を、「病気直し」によって回復・活性化した人々は、今度は神々を媒介とする者同士の「互恵的」[19]な新しい共同体=「神代」(=金光教)を実現していくこととなる。つまり、「病気直し」とは、個々人の「直し」に収束するものではなく、神々と交流し合う人々の関係そのもの=講社から始まりやがて人類全体に至る、その共同体の刷新(「世直り」=天理教)をもたらすものとして実践されていったものなのである。

  「病気」や「病気直し」がこのようなものであったとするならば、「病気直し」の場に現出する神々たちとは、何よりも関係的働きであったことにも留意する必要がある。神々とは、(しばしば宗教概念・宗教学が成立して以降の神学論争にありがちな)「存在するか否か」が問われる存在ではなく、神と人、人と人の間で「働くものなのか否か」が問われるものなのであり、関係間に何がしかの威力で直接的に働きかける、多くは教祖の口から語られるコトバに宿る霊験自体であったと捉えられる。

   「神といゝ仏といふも天地の誠の中に住める活もの」(『黒住教教書』)。

   「このよふハ 一れつハみな 月日なり にんけんハみな 月日のかしもの」(『おふでさき』)。

   「其方取次で、神も立ち行き、氏子も立ち、氏子あっての神、神あっての氏子」(『金光大神御覚書』)[20]

 これらの史料が物語っているものは、まさに天地=神々と人間との相互関係において働く「活もの」としての神々の姿といえる。

  それでは、実際の「病気直し」の場とはどのようなものであったのか。金光教の場合は、「病気」に苦しんで集まってきた人々に対して、文治はまず金神に対して祈祷を捧げ(祈念)、次いで時には「おいさみ」と呼ばれる神がかりを伴いながら神意をうかがい[21]、金神のコトバ=「裁伝」が人々に伝えられた。「大谷の金神」と呼ばれていた文治のみならず、中心的信者層が「中井の金神」「鍛冶屋の金神」「こうやの金神」などとよばれていたことから理解されるように[22]、かれらが神のコトバを語り、そのコトバによって神々の働きを顕現させる「生き神」集団として捉えられていたことは間違いない。

民衆宗教とは、このように働きとしての神々が、それ以前の修験者などの特権的職業的担い手を離れて、非特権的立場にあった百姓らの関係間に「現出」し、「病気直し」を中軸とする実践(プラクティス)によって新たな共同体が構想されていった歴史的運動であったといえる。

 三、民衆宗教の文明化と宗教化


 明治期、いち早く別派独立を果たした黒住教を除くならば、天理教・金光教は、幕末期と概ねにおいて変わることのない「病気直し」に従事した。とりわけ、天理教・金光教は、教祖の存命中はそうであったといえる。だが、一八八二年(明治五)以降、その活動(=「病気直し」)は大きく制約されざるをえなかった。すなわち、文明ならざるものは淫祠邪教であるという眼差しに晒されながら、自らを文明開化に適合的なものであるとする言説(以下、文明化という)が登場し、そのことによる宗教化という問題が立ち現れることとなる。以下、その経緯について、金光教を中心に検討してみたい。

  明治維新直後の一八六八年(明治元)にだされた神仏分離令は、文治の居住する大谷村でも「神社神体不残改」という事態や「稲荷大明神」「石鎚大権現」などの「取除」、「金毘羅宮」の社号改称という事態を引き起こしているが[23]、文治の基本的姿勢を未だ大きく抑圧する程のものではなかったといえる。結論的にいえば、『御覚書』や『お知らせ事覚帳』を見る限りでは、神祇官・神祇省期の政策は、文治の活動を大きく制約するものではなかった。文治は「天下太平、諸国成就祈念、総氏子身上安全の幟染めて立て、日々祈念」という活動を継続していた(『お知らせ事覚帳』[24])。また、引き続き、祈念や「裁伝」を中心とした「病気直し」に従事していたことは、たとえば次の所伝からもうかがえる。

  明治二年七月一日、酒井左吉さんとともにお広前に参った。(中略)金光様は、さっそくご神前に進まれ、「卯の年の氏子、大阪からはるばる参りました」と神様にお届けのご祈念をしてくださった。そして後ろに振り向き、「卯の年の氏子、信心して神になれ」と仰せられ(後略)(「金光大神御理解集第二類、福嶋儀兵衛の伝え」[25])。

無論、神祇官・神祇省下での神仏分離政策、宣教使などによる人心収攬政策も、多くの神社や寺院に甚大な変容と再編を迫るものであった。激しい廃仏毀釈などが、実は「失敗」では済まされない「負の刻印」を現代に伝えていることも、あながち軽視すべきことではなかろう[26]。しかながら、少なくともこの段階においては、政府サイドにおける「国家祭祀の天皇主義化」(宮地)に主眼が置かれていたことは間違いなく、それは「病気直し」などの活動を、個別に「教義」「教則」で規制していく性格のものではなかったと考えられる。

だが、一八七一年(明治四)の廃藩置県、翌年の戸籍法実施を経ての教部省の設置(太政官布告第八二号)とその管轄下における教導職の設置(太政官布告第一三二号)は、「病気直し」の近代的編成にとっては最初の画期ともなる重要なものであり、文治の活動も大きな変容を余儀なくされることとなる[27]。教部省・教導職に関していえば、「教儀干係ノ事件ニ付神官僧侶等ヘ達ノ儀ハ教部省ヨリ其教導職管長ヲ以テ可相達候」(太政官布告第一四一号)という布告の下、「教義ニ関スル一切ノ事務ヲ統理」する教部省・教導職が「教義並教派」「教則」を規制する体制がここに整えられ、教部省・教導職を中心に、神官・僧侶を巻き込んでの、「三条教則」を基本理念とする「包括的宣教」が推進されていくことは周知のとおりだが、「教義」を前面に掲げての「病気直し」の規制体制がここに本格的に始動することとなる。この過程で、「おかげは和賀心(わがこころ)にあり」という「天地書附」にみられるような信仰の内面化が進行し、また文治の布教姿勢もそれまでの祈祷者としてのそれから「取次者」としてのそれへ転換していったことについては、かつて拙著で論じた[28]。ここで留意しなければならないのは、この過程は金光教の宗教化過程として最初の重要な契機となった文明化、換言するならば「病気直し」の抑圧・規制過程であったことである。以下、この点を見ていきたい。

 一八七三年(明治六)、新聞紙上において、金光教を「怪シキ祈祷者」と把握する記事が登場する。

   小田郡大谷村ニ金神大明神ト號シ、怪シキ祈祷者アリ、又所々ニ分派アリテ多クノ人民ヲ惑ハシ、許多ノ財貨ヲ貪リ、頗ル富ヲ致スト云(『大阪新聞』一月二四日付)[29]

 この史料は、新聞という媒体による、金光教を「怪シキ祈祷者」と捉える言説のもっとも初期のものである。こうした記事がでてきた背景には、同年に布達された「梓座、巫、市子、憑祈祷、狐下ゲ」の禁止(教部省布達第二二号)などの一連の教化政策が存在し、かつ安丸良夫が指摘するように、前年からの集中的な文明開化政策によって、「民俗的なもの」を淫祠邪教視する風潮が急速に形成されていったことが関係していた[30]。ところで、こうした風潮において目立つのは、いずれも「病気直し」を問題視していることであった。たとえば黒住教において、別派独立(一八七九年[明治九])の前に専ら「禁厭」とよばれる「病気直し」が「全ク人民ヲ愚弄シ蒙昧ニ導クノ所業」として問題視されていた。

   死灰再燃咀禁厭ノ法ヲ修シ病者ヲシテ医薬鍼灸ヲ止メ所謂黄巾白蓮ノ徒ノ所為ノ如ク符水ヲ以テ病ヲ療シ死ニ至ルマテ医療ヲ得サラシメ其愚夫愚婦ヲ蠱惑スル弊害挙ケテ数フ可カラス(「黒住祈祷之儀ニ付伺」愛媛県、一八七三年[明治六])。

人畜ノ生死霊及狐狸ノ人体ニ付着スル等現ニ有之説ヲ主張シ之カ為ニ禁厭ヲ売ル等ニ至テハ全ク人民ヲ愚弄シ蒙昧ニ導クノ所業ニテ病者ノ医薬ヲ禁スルト其弊害同轍ノ事ニ可有之即今人智開明ノ御趣意ト霄壌ノ懸隔有之候(「黒住講社ノ義ニ付再伺」名東県、一八七五年[明治八])[31]


  これらの「伺」は、ほかにも兵庫県、島根県などから再三だされているが、まさに「人智開明ノ御趣意」をかざして、「医療ヲ得サラシメ」「医薬ヲ禁スル」かに見えた「病気直し」を「黄巾白蓮ノ徒ノ所為」と重ねて指弾している論理が看取できる。


 天理教の場合も同様であった。『稿本天理教祖伝』によれば、一八七五年(明治八)に天理教祖中山みきが弾圧を受けた際に問題になったのは、「天理王命という神はない、その証拠を示せ、なぜ病気が直るのか、現在建築中の建物の経費はどこからだされているのか」ということであったという[32]。ここには、「天理王命」「経費」も問題となったことも見えるが、それと並んで「病気」の問題が取り上げられていることが注目される。黒住教への眼差しと同様の眼差しが天理教にも向けられていたことは間違いなく、しかも天理教の場合は、一九〇八年(明治四一)の別派独立まで、さらにはそれ以後もこの眼差しに晒され続けたのであった。


 金光教の場合は、一八七二年(明治五)に文治が獲得した白川家輩下の「金神社」神官という資格が奪い取られ無資格となったことに関連する弾圧が『御覚書』に記されているが[33]、大阪などでの弾圧ではやはり「病気直し」にまつわる「おいさみ」が問題視されていたことが分かる。

  明治十二年頃より大阪に道が開けるとともに、其の筋の注意を引くこと甚し。其は何であったか。「おいさみ」という信心表現状態に就いてであった。信者が両手を指と指と組み合せて神拝する時に一心に願い居ると、組みたるまま「ポコンポコン」いわせて手を打ちつつ、さながら神憑りのようで、又狐つきのようである(「金光大神事蹟集」[34])。

また、同時期に布教許可を得つつあった仏教系組織による、「病気直し」に対する圧迫も強まりつつあった[35]。こうした風潮は、「病気直し」こそ、その活動の中核的部分であった民衆宗教にとっては、きわめて深刻な問題を惹起することになったのはいうまでもない。

ところで、文治の手になる『覚帳』においては、一八七一年(明治四)以降に「世間、不評申し候」「世間に不評あり」という記述が登場し、風潮の変容は敏感に把握されていたことが分かる。もっとも、文治はそれを「世の狂い」「世のめげる」事態と批判的に受けとめ、「世は変わりもの、五年の辛抱」「世の狂いになれば変わるもの、先楽しみ」という、いわば先々に希望を託した忍従によって切り抜けようとしていた[36]。だが、こうした文明化の風潮は、次第に金光教の布教者・信者自体をも捉えていくこととなる。

  たとえば、金光教の文書布教の最も古いものに挙げられる初代白神新一郎の『御道案内』[37]は、その初版(藤沢本といわれる。一八七一年[明治四]執筆)においては、民俗的金神の色彩が色濃く見られ、主神も未だ「金乃御神様」「日月金神様」「きもん金乃神」などと記されて、後の「天地金乃神」という神名は登場していない。ところが、一八八一年(明治一四)頃に成った『御道案内』(伊原本といわれる)には、まさに文明の言説が随所に見られるようになる。「文明開化御一新の御時に到り、此の御道も同然、旧習を廃し」「文明開化御一新と此御道同然なり」「当時御規則と此御道と万同じ事を得く考へ、思ひ競べ合せて見るべし」など。そして、このことと同時に「天地金乃神様」という神名も登場してくるのである。これらの言説が、初代白神新一郎の「方便」であったかどうかは、今日では判然としない。だが、この『御道案内』という布教書の性格を考えるならば、まさしく文明の言説と整合的なものとして、信者の内部において金光教の信仰が描きだされ定着していったことは明らかである。また、「本朝は元神道なるを、後儒道仏法 頑に何宗彼宗のと分隔ども、此の御道は天ケ下神儒仏世界一統皆御氏子」「御一新同然御仁恵の御代に天地開闢以来此道初めて開けしはかしこくも神国の神験相顕る者か」「皇国神道にして敬神なすべき事は勿論其道の御方は格別の事なり」という言説に見られるように、「本朝は元神道」「皇国神道」などという理解とともに、自らを捉える認識が生まれつつあることも注目される。無論、伊原本全体は「病気直し」の霊験話で占められ、何よりも自らを「御道」と捉えている点など、藤沢本との共通性も著しいといえる。だが、文明化の自覚が、まさに文明の占有者と同義語でもあった「皇国」「本朝」の内部に自己を位置づける眼を育みつつあったことは否定すべくもない。

  そして、こうした文明の言説として、自らを整序していく過程こそが、実は宗教化のための重要な第一歩であった。何故なら、近代的概念として登場してきた宗教概念とは、いうまでもなく同時に、淫祠邪教とは異なった近代文明の概念としても存在していたからである。このことは、この概念の普及に大きな役割を果たした福沢諭吉、島地黙雷などの言説から知られるが[38]、金光教が文明開化を意識した「教へ」=教説による活動へと転回していく様相にも、それは刻印されている。淫祠邪教視から逃れるためには、「病気直し」を抑圧、規制し、文明化=宗教化することしか選択はありえなかったのである。

 四、民衆宗教の宗教化と神道化


1.近代神道論の形成


  文明化のなかで金光教が宗教化していく過程を見てきた。だが、教祖没後になると金光教は、神道化することで宗教化を進めることとなり、時あたかも起こってきた神道=非宗教論などの近代神道論のなかで深刻なジレンマを抱え込むことになる。この点を検討するためには、まずは神道をめぐる動向に簡単に言及しておかなければならない。

  「神武創業」への「王政復古」が実現し、二官六省制の太政官政府が成立した一八六九年(明治二)、さまざまな政治的思惑が錯綜し、未だ明治維新政府の方向性が定まっていない段階において、確かに「王政復古」「祭政一致」を掲げた矢野玄道ら復古神道派[39]は、神祇行政に一定の影響力を行使していた(宣教使内の教官には常世長胤、平田延胤、内藤存守、神田息胤など「大抵平田門ノ人ノミ多カレバ」[40]という状況が生まれていた)。そのこと自体は、徳川時代の神道(神祇道)とは切断された新しい神道が期待されていたなかでの復古神道派の台頭と考えられる[41]。だが、阪本是丸らが明らかにしているように[42]、復古神道派の主張は神祇官での造化三神・オオクニヌシなど主に復古神道派の幽冥論・宇宙論・神秩序論に基づく祭祀であって、他方では宮中祭祀に基づく天皇親祭体制を企図していた福羽美静ら大国隆正派との確執は深まりつつあった。そこには、木戸孝允・大久保利通ら「維新功臣グループ」と結びついた大国派と、古代律令制的(と捉えられた)祭政一致観に立つ「廷臣グループ」との対立があったといわれているが(阪本)、後者を完全に駆逐するにはいたらなかったものの、実質的には既に神祇官段階での神祇行政すら、前者を中軸に担われていた。復古神道派の総帥平田銕胤や玄道らは、玉松操とともに京都での大学校創設に奔走していたからである。そして、神祇官の廃止、神祇省への「格下げ」、それに続く教部省設置とは、前者による(一定の国学者を巻き込んでの)路線が確立していった過程であった。

 かくて、一八七二年(明治五)、それまでに多くの復古神道派が神祇行政中枢から追放されていったことを踏まえて[43]、「三条教則」による教化体制が出発するが、それは「治教」としての神道(後にいう非宗教としての神道)へ向けた最初の一歩であったと考えられる。周知のように、それは外教=キリスト教に対抗しつつ、国民統合を押し進める神仏合同の活動として展開されていく。その教化・説教内容が、それなりに「近代的・進化主義的」なものであったにせよ[44]、当の神道における「教義」は未確立のままであった。未だ復古神道派の影響力が濃厚なこの頃の教書をいくつか覗くと、ほとんどが「造化三神」から話を起こし、次いで「顕幽」の分化、「幽冥」でのオオクニヌシの主宰と「顕界」でのアマテラスの主宰、さらに最終的に通俗道徳の実践と天皇・政府への服従を説く型になっていることが分かる。たとえば、渡辺重石丸の兄渡辺重春の『教義諺解』[45](一八七四年[明治七])では、「三条教則」の三条のいずれの解説も「魂ノ主」であるアメノミナカヌシ、「体ヲ結」ぶ神であるムスビノカミの「造化三神」から始まり、「夫婦ノ道ヲ御始遊」ぶイザナギ・イザナミ、そして「万物生成ノ功」を遂げるアマテラスと続く。次いで氏神やオオクニヌシが「死デ先ノ世マデモ、御守下サ」る神として説明され、これらの神と人間の関係が親子関係に譬えられ、最終的に通俗道徳の実践、「国家ノ御用ニ立ツ」ことが求められる。

 これらからは、一八七二年(明治五)の教部省布達[46]が「説教者ノ内従来幽冥ニ事倚セ或ハ無根ノ怪説ヲ述ヘ候弊モ有之」とのべるように、神道系の説教が、神学的宇宙論・幽冥論の故に(後の定義からすれば)あまりに宗教的であり、だが同じ布達が「神官之説教或ハ未熟ニテ徒ニ説教ノ下案ヲ読ミ或ハ読ム能ハサル人モ有之哉ノ趣キ不体裁ノ至ニ候」とのべているように、説法としてはあまりに脆弱であったことがうかがえる。徳川時代の宗門として確固たる地歩を築いてきた仏教勢力は、なるほどこの教化体制のなかで重要な改編を迫られていたとはいえ、「三條ヲ略シ解キ私席ニ於テ説法談義法談ト唱ヘテ宗意ノミヲ弁シ」た姿を伝えており、その実力が推察されるのとは鮮やかな対照をなしている。

  こうした神道派の混乱を収拾すべく、大教院内では「教化基準」確定に向けた作業も進行していた[47]。すなわち、一八七三年(明治六)、「教典訓法章程」「教書編輯条例」が大教院で審議されている。それはたとえば「①『古事記』ハ『古訓古事記』ニ拠ルベキ事。②「神代巻」ハ『神代巻葦牙』ニ拠ルベシ。但神名ハ『古史成文』ニ拠ルベキ事。③「祝詞式」ハ『祝詞正訓』ニ拠ルベキ事。(後略)」(「教典訓法章程」)とあるように、記紀の「読み」や解釈について、本居宣長、平田篤胤、栗田土満などの説に依拠して確定していこうとする作業であった。また、「教書編輯条例」は、第二条では『三大考』的宇宙論を示すと考えられる『天地泉ノ説』を定説とし、続く第三条では、渡辺玄包などの「夜見国=地胎」説が退けられて、玄道の『予美考証』での「夜見国=月」説が採用されている。第七条には「妄ニ新説ヲ発シテ世人ノ視聴ヲ乱ルマシキ事」とあり、これらは『三大考』以来の論議にひとまずの終止符を打つことを企図したものと見ることができる。だが、以上に明らかなように、大教院の「教化基準」確定とは、『三大考』に由来する問題、要するに復古神道派の幽冥論・宇宙論・神秩序論の整序の域をでるものではなく、宗教概念に照らしてあまりに未整備であるばかりか、「治教」としても用いがたい形而上学的性格のものだったのである。

  結局のところ、「三条教則」による教部省体制は、島地黙雷の言説に見られるような[48]、政教分離に基づく近代的宗教として改編を遂げつつあった真宗教団の離脱によって(一八七四~五年)、また左院の建議や運動もあって[49]、「治教」と宗教の、後者の前者への統合を前提とした上での、区分の明確化を迫られることなる。神道派には、無論真宗のごとくに、「教義」を鮮明化し「治教」とはひとまず一線を画した宗教教団への道は、一応開かれていた。そして、後に教派神道として最初の別派独立を果たす神道集団はその道を辿りつつあったとひとまず評価できよう(神道黒住派、神道修成派、神道大成派、神道神習派、神道実行派など)。だが、依然として神道国教化=祭政教一致に固執していた神官の多くは、最終的には祭神論争[50]と一八八二年(明治一五)の神官と教導職の分離に至って、神道=非宗教論によって「治教」の道を選択していくこととなる。

  ことに祭神論争は、神道=非宗教論が台頭してくる上では重要な役割を担っていた。祭神論争の詳細な過程については、ここでは割愛するが、この論争は、神道界では、オオクニヌシを合祀するか否かという、教学的問題を争う相貌を有しつつも、最終段階には新聞報道などに神道=非宗教論が大々的に登場していることが注目される。たとえば、『東京日日新聞』は、次のような論説を載せている。

  明治政府ハ維新ノ初ヨリ曽テ神道ヲ宗教トハ認メラレサルナリ、(中略)列皇相承ケ、億兆同心治教上ニ明カニシテ、風俗下ニ美ナリ、君民ノ名分無窮ニ変ルコトナキヲ以テ、神道ノ極意ト云ヘルニ非スヤ、治教ヲ外ニシテ吾曹我国ノ神道ト称スヘキモノアルヲ知ラサルナリ、(中略)治教ハ固ヨリ宗教ニ関繋ナキヲ以テ、政府ハ祭祀ヲ司トルノ神官モ、宗教ヲ専トスルノ僧侶モ、倶ニ教導職ニ任シタルノミ、以テ教導職トハ治教ヲ宣布スル為ノ名ニシテ、宗教ヲ宣布スル為ノ名ニ非サルヲ知ルニ足レリ(一八八〇[明治一三]年二月三日付[51])。

  ここでは、宗教と「治教」の分離が主張され、明治初年に遡って、明治政府の宣教活動が専ら「治教」、すなわち国民教化に主眼がおかれたものであったとのべられている。この観点からすれば、神道とは「治教」であって、宗教ではない。教導職とは、この「治教」を行う職であって、したがって神道が「宗教タルト否トハ」政府の関与すべき問題ではなく、まして祭神論争にも政府は関知すべきではない。こうした主張の背景には、「吾曹固ヨリ宗教ノ信仰ヲ自由ニ任スルノ本意」という、一八七五年(明治八)一一月の「信教の自由保障の口達」を嚆矢とする「信教自由」論が存在していたことはいうまでもない。同様の論調は、祭神論争の発端期と見なされる一八七四年以降の新聞に徐々に登場し始め、一八八〇年頃にはかなり影響力を広げていることが理解される。いずれも、神道を宗教と捉えるならば、それは「信教自由」を侵すばかりか、「国体」に関わる神道を「一ノ雑神教」に陥らせ、却って「皇室ノ瑕瑾」となるという主張であった[52]。恐らくは、こうした新聞論調にも影響されて、祭神論争の当事者たる出雲派・伊勢派の両者も、この神道=非宗教論を自己のものとしていったと考えられる。たとえば、神道大会議の第二回審議では「我国神道ト称スルハ、仏法ニ対シタル称ナルヘシ、(中略)世間神道ノ皇道タルヲ知ラス、神道ヲ他ノ宗教ト同視スルモノ多シ」という意見が提示され、出雲派として活動した本居豊頴も第四回審議において「我神道ハ、各宗教ト大ニ異ニシテ、神道ハ則帝道、帝道ハ則神ナカラノ大道ナリ、(中略)我神道ヲ目シテ宗教ナリト云フハ、深ク究メサルノ誤ナリ」とのべている[53]。ちなみに、出雲派の主導者千家尊福は、一八七四年(明治七)段階には政教一致の立場から神祇官復古を唱えており、ロシアに倣った「国教」制度を主張していたが[54]、祭神論争を経た一八八八年(明治二一)には、次のようにのべている。

  神道ハ祖宗伝来伝ハル所ノ大教ニシテ、皇室ト密着ノ関係ヲ有シ、敬神尊皇ノ道ヲ講明シ、忠君節義ノ精神ヲ感化養成スルヲ本義トスル者ナリ。然ルニ神道講明ニ従事スル者自カラ神道ヲ以テ信仰ヲ自由ニ任スル宗教トシ、皇室トノ関係ヲ薄クスルガ如キハ、豈思ハザルノ甚シキ者ナラズヤ(「神道のあり方につき意見書」[55])。

  これが神道=非宗教論に立った主張であることは明白であるが、看過すべきではないことは、この千家の議論が、実は一八八二年(明治一五)の神官・教導職の兼補の廃止に伴う神道神宮派・神道大社派などの別派独立以後になされている点である。いうまでもなく、神官・教導職分離を経て、ここに別派独立した部分は、少なくとも近代宗教として存立する神道(=教派神道)であるはずであった。そして、千家自体は無論神道大社派(大社教)の初代管長に就任していたのである。

 だが、いわゆる神社神道界では、少なくとも神官、教導職の分離は容易なものとは認識されていなかった。というよりも、神道をこのように分離することは、事実上は天皇と不可分の神社で政府が特別に財政的に支える官・国幣社と、同じく神社でありながら宗教として位置づけられ政府から切り捨てられる府県社以下の民社を分離することしか意味していなかったのである[56]。したがって、神社神道界では法制面では宗教とされた教派神道内部の部分も含めて、自らを非宗教としての国家祭祀と位置づけ、政府援助を要求する動きが再三登場することとなっていくのは、この後の神祇官興復運動、神社局の独立に至る過程が鮮明に物語っているところである[57]。たとえば、「神官有志神祇官設置陳情書」(一八九一年[明治二四])は次のようにのべる。

  大小ノ神社ハ国家ノ宗祀ニシテ、実ニ国家精神ノ府タリ。然モ我同胞ニシテ動モスレバ之ヲ軽侮スルモノアリ。是レ俗間ニ行ハルゝ宗教主義神道又ハ祈祷卜相的神道ヲ真成ノ神祇道ト誤認シ、数千万年養成サレ来リシ美風良俗ヲ旧弊頑固トナス、(中略)夫レ大小ノ神社ハ皇祖皇宗ナリ、臣民ノ祖宗ナリ、乃チ国家ノ宗祀ナリ。神祇道ハ国家祖宗ノ遺訓ナリ[58]

  ここでは、「大小ノ神社」全てを「国家ノ宗祀」と位置づけているが、それが同時に「俗間ニ行ハルゝ宗教主義神道又ハ祈祷卜相的神道」との差異化の主張となっていることにも注目したい。神道=非宗教論は、なるほど神社全般を非宗教として位置づける言説ではあったが、他方で宗教としての「俗間」の「宗教主義神道」「祈祷卜相的神道」との対照で語りだされる言説でもあったわけである。そして、自らを「真成ノ神道」とすることで、明らかに神道としては、優位性を宣揚していることも重要である。この視点こそが、「宗教主義的神道」を以後も抑圧・規制していくものとなるからである。

  いずれにせよ、一九〇〇年(明治三三)、神社局が内務省社寺局から独立し、神社神道が宗教ではない「国家祭祀」であることが鮮明にされ、実質的には神祇官復興は成った。だが、それは徳川時代までの神道(神祇道)は無論のこと、幕末・明治期にそれなりに展開を遂げてきた復古神道派とは最終的に切断された、宗教ならざる「治教」としての全く新しい近代神道の確立を告げるものであった。しかも、それは宗教たる神道との区分を実質的には曖昧にしながら、しかしながらそれに対する差別性を明確にすることで、「信教自由」の問題や宗教抑圧の問題を常に惹起し続けることになるのである。

 2.金光教の神道化過程


  以上を踏まえて、以下では金光教の神道化過程について検討していきたい。金光教の神道化にとって、まず注目されるのは、文治が一八六七年(慶応三)に白川家に入門し、「金神社神主」の資格を得ていた問題がある。このことから、従来、金光教が後に(教派)神道に編入されるに至った蓋然性が説明されてきた。だが、白川家がなるほど吉田家と対抗しつつ徳川時代後期に台頭し復古的風潮に乗りつつ勢力を拡大したとしても[59]、それはあくまで徳川時代における伯家神道=神祇道家としてのそれであって、文治の入門も幕末期における白川家の百姓町人身分へ勢力拡大の一例と捉えられる。何よりも注意しなければならないのは、『御覚書』『覚帳』を精査する限りでは、文治においては白川家門人であることは全く問題となっていないことである。文治の側では近代以降の教導職体制に対する激しい拒絶反応[60]と比較すると、白川家入門には抵抗がなかったのであり、白川家の神職として、配下の「近世的宮社」・講社の一つ「金神社」(結局それは実現しなかったが)において「病気直し」を行うことは、さほど違和感はなかったのである。そこに、徳川時代の伯家神道と「病気直し」の間の「親近性」も示されていると思われるが、ここではおく。いずれにせよ、文治らの白川家入門は、(伯家神道が近代神道ではなかったのと同様に)近代以降の金光教の神道化と直接関連する事態ではなかったと考えられる。

だが、これと関連した社殿建築問題は、維新以降に重要な問題を投げかけることとなる。すなわち、文治は一八六四年(元治元)に「天地金乃神には、日本に宮社なし、まいり場所もなし、二間四面の宮を建ててくれい」(『御覚書』[61])とあるように、金神の「まいり場所」建築の神伝を受け、その実現に尽力していたが、維新後に無資格となったことなどもあって、一八七二年(明治五)にはその建築を実質的に断念せざるをえない事態となっていた。当初白川家に入門してその実現に努めたことは先にのべたが、この「まいり場所」とは、文治による「病気直し」が執り行われる場所として構想されていたものと考えられる。そして、いうまでもなく、明治維新後になると社殿建築の意味が変わってくることとなる。文治の願った「まいり場所」(=「金神社」)設立は、維新後になると、まさに神社の位置づけをめぐる紆余曲折の坩堝に投げ込まれることとなるのである。

  すなわち、一八七七年(明治一〇)、文治の居住する大谷村の保長らが頓挫していた「金神社」設立を働きかけてきた。その背景には、前年のいわゆる「教部省三布達」を受けての「合法的」な村落の氏神祭祀を求める村落指導層の要求などがあったといわれているが[62]、文治は「人様のごやっかいにならず、今のとおりに説諭できればよし。お上より説諭もできんと申されれば、いたしかたなし」(『覚帳』[63])と否定的姿勢を示しつつも、結局はその動きを許容している。無論、それが元治年間に神伝を下された際の「まいり場所」、「近世的宮社」としての「まいり場所」とは異なったものにならざるをえないことは、少なくとも文治においては次第に自覚されていった模様である。だが、村人の神道体制に認知された氏神社設置の強い願いを顧慮して文治はこれを許容せざるをえなかったのであろう。この結果、文治の四男萩雄が大谷村村社賀茂神社祠掌となり(『覚帳』一八七八年[明治一一])[64]、その上で同神社付属社としての「金之神社」設立願が岡山県にだされている。その際に祭神は「素盞鳴命」とされたが、このために社号は結局「素盞鳴神社」と改めさせられて認可されることとなる(同年)。

  この「素盞鳴神社」を抱えた文治の広前では、氏子祭りや天長祭さえも執行されるに至り、また氏神神社としての「札」や「みくじ」「富」などがだされていたことが『覚帳』には記載されている[65]。文治は、これに対して「氏子にむしん、勧化申し。神も気ざわり、立腹いたし」「札の、守りの代、初穂、益を取るのという神とは、此方は神がちがう」と強い怒りを表明するに至っている(『覚帳』[66])。結局、文治の没後に「素盞鳴神社」は再三の社号改称願によって「金之神社」として再認可されることとなるが(一八八四年[明治一七])[67]、いずれにしても、ここに設立された「素盞鳴神社」「金之神社」は、文治が構想した「まいり場所」と本質的に相違する、「治教」の面を合わせもった、その意味では変貌を遂げつつあった当該期の神社神道の末端神社にならざるをえなかったことに注意しなければならない。文治の信仰に発した「まいり場所」は、時あたかも神官・教導職分離を経つつも、きわめて過渡的な性格を帯びた神社神道の(前述)、その施設として制度的に位置づけられるものとならざるをえなかったのである。だが、後にこの「金之(乃)神社」信徒の神道広島事務分局への結収によって、金光教の教派神道下での第一歩が踏みだされたことを思えば、この「金之神社」設立は、どのような動機からであれ、結果的に金光教の神道化を一挙に加速させていく契機となったといわなければならない。

  これと並んで注目されるのは、一八八九年(明治二二)までに二二二名に及ぶ信者・布教者が教導職となっていた事実である(ただし、一八八四年に教導職は廃止されているので、それ以降は神道事務局などの神道各派管轄の教導職)[68]。そして、これらの信者・布教者の多くが、それぞれ吐普加美講、神風講社、あるいは神道各派の各級講社に所属しながら、金光教の布教に努めていたのである。無論それは教導職ならざる者の布教活動が厳禁されていたことを思えば、止むをえない措置であったと考えることができる。だが、一八八〇年代以降に教導職として活動することは、その神道化において決定的な役割を果たすこととなる。たとえば、ここでは、この点を後に金光教の神道化を中軸で担うことになる佐藤範雄の回顧するところに従って検討しておきたい[69]

  一八七五年(明治八)に金光教に入信した佐藤は、「教導職にあらずては他人の祈念をするを得ざれば、その資格を得ん」と決意し、その受験準備を一八七九年(明治一二)から開始している。一方、その準備の一環として前年に、大国隆正派と考えられる黒阪昌芳に入門し、「大国隆正流の古事記講義」などを受けている。かくて、一八七九年に神道広島事務分局安那郡支局で「一試済」となり、翌年には同福山出張所で「教導職試補試験に及第」している。この時に所長中島年光なる神職から「佐藤君、やるなら本気でやれ」と励まされ、かつ復古神道派の教説を意識してか、『霊能真柱』などの平田篤胤の著書を次々と借覧している。教導職となった佐藤は、一八八三年(明治一六)から翌年にかけて、神道広島事務分局五等宣教使(翌年から四等宣教使)として、宣教使野田菅麿に随行して沼田郡、備後・備中方面を宣教、「五箇条誓文」「宣布大教詔」「三条教則」の解説を中心とした説教活動を行っている。

  ここで注目されるのは、佐藤において教導職たることは、無論金光教の「一派独立」を目指すための手段にすぎなかったとはいえ、同時に宣教活動・説教活動や神道宣教使との交流を通じて、宗教や神道とはどのような組織を必要とし、どのような「教義」を整えなければならないものなのか、また神道の儀礼はどのように行われるべきものなのか、ということが学ばれていく過程でもあったことである。たとえば、一八八〇年(明治一三)に、佐藤は「本教祭式の始にりしならん」とのべる祭典を、祠掌北村真寿美なる神職を「頼み」に執行しているが、その祝詞は「掛巻毛綾尓畏支、天地金乃神能大前尓白志弖白佐久」云々というものであり、かつ祭典の際の着衣についても北村から注意を受けていた。また、同年に執行された、のちに金光教芸備教会となる広前神殿の落成奉斎式にも近隣の祠官・祠掌・教導職が多数参加している。さらに、一八八二年(明治一五)に「如何にかして一派独立教の許可を其の筋へ願はねばならぬと決心」した際には、次のようなやりとりが行われている。

  八月、沼名前神社に参詣し、吉岡宮司の宅を訪ねて、「斯やう斯やうの道である。一派独立教として立つやう其の筋へ願ひたいが、御尽力を乞ふ」といへば、「それは成らぬ事はあるまい。信条といふ教義を書いたものを見たい」との事であったから「宜しく御頼み致します」とて辞し帰る[70]

  すなわち、「教義」=「信条といふ教義を書いたもの」が宗教や神道には必要なのだということを、佐藤は神道事務局から学んだのである。かくて佐藤の教導職としての活動、神道広島事務分局での活動によって、金光教会結収運動、すなわち神道備中事務分局(一八八六年[明治一九]からは神道事務局は神道本局と改称)内での神道金光教会設置、その上での神道本局直轄教会への昇格などは比較的順調に進展し、これとともに金光教の神道化が推進されていくこととなる。

  さて、「信条といふ教義を書いたもの」は、この間に徐々に形成されつつあった。すなわち、一八八二年(明治一五)八月に佐藤が文治に「お隠れの後は何か書いた物がありませぬと、世のはやり神と同じように思われます」とのべたところ、「此方は人が助かる事さへ出来ればそれで結構である」と一度は拒絶した文治も、再三の要請に「神の教えることを何か書いておくがよかろう」とのべ、かくて文治の四男萩雄と「相合わせて」文治の教えを翌年にかけて書きつづったものが、その最初の「教義」ともいうべき『神誡』『神訓』となった[71]。『神誡』は「慎誡」「真道乃心得」、『神訓』は「信心乃心得・道教乃大綱」ともよばれ、それらは佐藤がのべているように[72]、翌年にはほぼ原型ができていたと思われるが、「真道乃心得」(『神誡』)の方は一八八五年(明治一八)の神道本局備中事務分局下での神道金光教会が成立した際の規約の中心として明記されるに至り、一八九〇年代には更に佐藤によってその『正伝』が執筆され、一九〇〇年(明治三三)の別派独立の際の規約には、むしろこの「神誡正伝」が教義の筆頭に掲げられるという経過を辿っていくこととなる。

  ここでは、一八八五年(明治一八)に神道管長に提出された「金光教会講社結収之件御願」を見てみる。「岡山県備中国浅口郡大谷村金之神社神官亡金光大陣、多年神祇道興隆之義ニ尽力罷在、慎誡十二條ヲ設ケ遍ク人民ヲ教導仕候、余徳今日ニ至リ、慎誡ヲ遵守スル徒多ク、只ニ本県下而巳ニ非ス他府県ニモ夥多信者之レ有リ候処、今般規約相設教会講社結収之レ有リ度段、各信徒ヨリ続々申出候」という書きだしで始まるそれは、「教会神徳大意」では次のようにのべている。

  天照日大御神は日界の大主宰にして、日球中に永遠に大座々て、日々高天より此大地上に御陽気を降し給ふ。(中略)月の大神は月界の大主宰にして、日に次き座して夜を知らせ給ふ。(中略)金の大神は此の大地球の真機とも仰くへき御徳に座々て、国土人類万物の締り固むる原素なれは、大地の限り此大神の御威徳充満せさる所もなく、有りと在らゆる物此大神の恩徳を蒙らさる物もなし。故に吾教祖此の御三方の大神を天地金乃神と称し奉りて(後略)[73]

  冒頭に「天照日大御神」「月の大神」を掲げ、これに「国土人類万物の締り固むる原素」としての「金の大神」を総合しての天地金乃神という表現自体は、文治の信仰を大きく逸脱するものではないといえなくもないが、当時確立しつつあった神道としての金光教の神観念が強く意識された表現になっている。次いで、信者像は次のようにのべられている。

  信徒タル者ハ、天性禀所ノ善念ヲ拡充シテ神恩ヲ報シ、以テ文明ノ治ヲ裨ケ、神州固有無上至尊ノ国体ヲ明ニシ、惟神ノ大意ヲ遵奉シ、以テ妖教邪道ニ惑溺セラレス、盛衰栄枯吾神明ニ信頼シ、衆意合力安心立命ノ根拠ヲ立ツヘシ[74]

  「文明ノ治ヲ裨ケ」る、「妖教邪道ニ惑溺セラレ」ない信者像が注目されるが、ここに近代宗教=教派神道としての金光教の歩みは開始されていくこととなる。

  ところで、今や神道化することで宗教として自立した金光教団は、この神道化によって神道自体が抱え込んでいた問題、とりわけ別派独立以前には神道事務局(一八八六年からは神道本局)の抱え込んでいた問題をも自らの内に抱え込むこととなる。神道事務局は、元来は真宗の離脱に伴う大教院解散を受けて神官教導職の統一のために一八七五年(明治八)年に設置されたもので(当初は伊勢神宮による主導権確立が企図されたものといわれている)、個別の教派とはいいがたい存在であった[75]。ところが、一八八二年(明治一五)の神官・教導職の兼補の廃止、更に一八八四年の教導職の廃止などを受けて、神官教導職兼補の廃止に猛烈に反対した経緯から、教導職兼務の神官の組織化を掲げて、いわば政府に押しだされる形で独立した教派であった。したがって、法制上は教派神道として取り扱われたものの、宗教としての自覚は乏しく「三条教則」や「惟神の大道」を掲げる「治教」的な組織として存在し続けることとなる(このことが戦前期の神道の性格を著しく曖昧にすることにつながったと思われることは、先にのべた大社教と同様である)。

佐藤は当初は、「治教」下での宗教化という課題を達成するためには、むしろ神道事務局下での組織化は有効であると判断していたようである[76]。神道事務局が「治教」的であれば、それとの区分けを明白にしながらの実質的には独立している金光教の宗教化は、政教分離から見ても妥当であると考えていたのであろう。だが、神官・教導職分離を受けて、上部団体たる神道事務局自体が次第に危機的状況に追い込まれることとなった。すなわち、神道各派の相次ぐ別派独立、更には仏教側の勢力挽回などが神道事務局の組織力・影響力を著しく低下させ、何よりも神道事務局自体が教派神道と位置づけられることで、今や「治教」と宗教の狭間でいずれかを志向しながら、急ぎ準備を整えなければならない状況が生まれていたのである。結論的にいえば、神道事務局は神道本局と名を変えて以降も、「治教」的組織として自己を位置づけ、昭和に至るまで(一九四〇年[昭和一五]に神道大教と改称)教導職体制を維持しながら、(官・国幣社とは一線を画しつつも[77])神道=「国家祭祀」の主張の代弁者の一人として活動することになるが、佐藤が神道事務局と深く関わったのは、実はこうした危機的状況にある時期であった。佐藤も、神官・教導職の分離には、神道事務局同様に猛烈に反対しているが、ことに一八九〇年(明治二三)、神官・教導職分離時に「但府県社以下神官ハ当分従前之通」とあった項目が削除されるかもしれないという情報に接して、次のような意見書を要路に提出している。

  神道ハ顕幽無敵ノ大道ニシテ、敬神尊皇愛国ノ三大綱ヲ以テ教旨トナシ、此ノ教旨ヲ顕 揚スル、之ヲ惟神ノ大道ト為ス。今ヤ、神官ト教導職ト、其ノ名称ヲ異ニスト雖モ、上神明ニ奉仕スルト、下庶民ニ宣教スルト、全ク其趣意ニ到テハ、異途殊別アルモノ非ス。

(中略)神社奉仕神官ヲシテ、或ハ教導ニ従事セシメス、或ハ葬儀ニ関セシメストセハ、一ハ神社ノ衰頽ヲ来シ、二ハ人民分子間ノ中心力ヲ滅却、我国人民ノ思想ヲ離散セシメ、三ハ信仰自由ノ美徳ニ憑ル能ハサラシム[78]

  佐藤が神道を「治教」的に捉えていたことを示す史料であるが、一方で郷村社の神官が葬儀に関わることを禁止すべきではないことに「信仰自由」論を持ちだしている点も注目される。葬儀に関わる限りは、神道は宗教とも自覚されているわけであり、ここに佐藤においても、当時神道事務局が抱えていた問題、「治教」と宗教との過渡的性格が色濃く影を落としている。そして、それはやがて神道化した金光教に「治教」が重くのしかかってくることを告げている。

 五、おわりに


 一八九四年(明治二七)に日清戦争が開始されると、金光教会本部は「広島予備病院に後送されたる傷病兵慰問並に戦時説教に、日夜繁忙を極めたり」という状況を呈した[79]。この時にあたって金光教会本部は「吾等世の先導者たる教職は心の及ぶ限り身の続く限り布教すべきの秋」と位置づけ、金光大陣(=四男萩雄)の編輯(恐らく佐藤範雄の執筆か)になる『日清宣戦大詔説教』を刊行し[80]、「活字の力を借りて印刷し全国部下一般の講師へ頒布し」、これを雛形とした説教・巡教を指示した。その内容を見てみると、日清戦争の宣戦布告の詔勅を冒頭に掲げ、それについて逐語に解説することを旨とした形式を取っているが、「此大地の主宰に座す天御中主大御神高御産日大御神神御産日大御神天照大御神の御神助の御守りのまにまに遠き神代の大古に天上高天原に於て天祖大御神等の神勅もて(中略)大日本帝国は吾子孫の天地と共に王たるべきの国なりと宣たまひて」という文言に始まり、以下明治維新以降の文明開化と対外関係の基本、朝鮮との関係とそれに対する清国の「暴状」などが説かれる内容になっている。いうまでもなく、それは当時の政府の立場を全面的に支持し、しかも記紀神話解釈との附会を全面的に採用するものとなっている。そして、それに続けて「三千年来の大御恩を蒙りたる萬世一系の大君様に万分の一たる各其権能に応じて酬ひ奉らではなりませぬ(中略)吾教祖の神誡第一条に神国の人に生れて神と皇上との大恩をと遺訓せられしも此事ぞや」とのべ、一八八三年(明治一六)以降に金光教会の教義の中軸となる『神誡』からの引用を付会している点も注目される。

  こうした説教集が実際にどれ程の効果をもったかは不明である。しかしながら、日清戦争下において、元来自在に解釈可能であり、それ故に現場の「指針」としても用いられてきた『神誡』が、記紀神話などと明確な接合を開始したことは看過しえないだろう。こうした率先しての国家イデオロギーと「教義」の接合は、別派独立達成のための「方便」の側面があったとしても、先にのべた「治教」としての神道という自覚が、然らしめたものと考えざるをえない。宗教化を神道化として達成した金光教のこの帰結は、だが一人金光教の責任に帰されるべきものではなく、国家神道体制がいかに宗教化・神道化システムによって、民衆宗教を内から抑圧、規制していったのかを克明に物語るものといえる。

 

  金光教は、宗教として「教則」「教義」を整え、教派神道として、換言するならば宗教的神道として自己のアイデンティティを確立する道を歩んだ。それは、無論徳川時代以来の教祖などが行ってきた「病気直し」を近代国家内で、より合法的に継続するために採られた選択であったと見ることができる。だが、その結果抱え込まなければならなかった問題群は、大きくは二つあったと考えられる。一つは、近代宗教を志向することで、教説化と組織化が進行し、「病気直し」が風化していったことである。すなわち、近代的な医療制度や教育制度との併存のなかで、近代宗教は文明の言説として自己を提示し、そのことで自己の役割をある分野に限定せざるをえなくなる。だが、そのことで「病気直し」や「生き神」集団が有していた共同体を根底から刷新する性格は、著しく弱められていくこととならざるをえないだろう。もう一つの問題は、金光教が責めを負うべき問題ではないとはいえ、神道教団であったが故の問題である。本稿で論じてきたように、神道教団は、宗教として立った教団と、「治教」として立った教団に大きくは分けられることになるが、たとえ宗教として立ったとしても「治教」の優位を承認した上での区分けであり、更に同じ神道であるという自己規定が(ましてや非宗教的部分と宗教的部分を曖昧にした神道という自己規定が)、どうしても神道教団には、その土台から「治教」的性格を付与し続けることになる。そこに、仏教教団やキリスト教団とは異なる、宗教としての神道教団特有の問題があったといわなければならない。無論、神道系であることが、直ちに国家イデオロギーとの親和性を意味せず、むしろ〈似而非〉こそ最も本質を穿つものであることは、たとえば大本教の事例を見れば理解されよう。そうであればこそ、大本教は厳しく弾圧されたわけであり、また金光教、天理教に対する明治期を通じた抑圧も、それと類似したものであったと考えられる。とはいえ、一度神道教団として自覚していくことが、どのような大きな抑圧、規制をもたらすことになるのか、国家神道体制の明治以来の抑圧的性格は、この過程に深く刻印されている。

[1] マルクス『ユダヤ人問題によせて』『マルクス・エンゲルス全集』第一巻(大月書店、一九五九年)三九五頁。

[2] たとえば藤谷俊雄は次のようにのべている。「わたくしは戦前戦中の生活体験から、日本の専制的な政治体制であった天皇制を支えるイデオロギーとして、国家神道の果たした役割がきわめて大きかったことを痛感した」『神道信仰と民衆・天皇制』(法律文化社、一九八〇年)一頁。

[3] 国家神道という概念は、恐らく戦前における加藤玄智の使用がその最初のものと思われるが(『神道の宗教発達史的研究』中文館書店、一九三五年)、何といっても戦後のいわゆる「神道指令」が「国家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依ツテ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派、即チ国家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派ヲ指ス」とのべて、「宗教ヲ国家ヨリ分離」しての「宗教ノ自由」を指示したことから一般的に用いられるようになったといわれている。研究史の上では、周知のように藤谷俊雄、村上重良、安丸良夫、宮地正人、中島三千男、阪本是丸、島薗進、羽賀祥二らが国家神道研究を進めてきたといえるが、国家神道体制という概念を定着させる上で、学界に多大な影響を与えてきたのは、村上の『国家神道』(岩波書店、一九七〇年)に代表される一連の研究であろう。

[4] こうした見方は、いわゆる神道者・神道学者にほぼ共通の見方であるといってよい。葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』(神社新報社、一九八七年)など。最近でも新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP研究所、二〇〇三年)が、この「神道指令」によって国家神道論は「決定的に拘束されてきた」としている。また、昨今の「新しい歴史教科書をつくる会」を指導してきた西尾幹二も、国家神道論のみならず、「日本は民主主義の伝統を欠いていたから侵略戦争を犯すに至った」という見方自体を、占領軍の「戦後の戦争」政策の宣伝と見て、そこからの脱却を説いていたことは記憶に新しい(『国民の歴史』産経新聞社、一九九九年)。なお、これらの見解がいかに錯誤に満ちたものであるかについては、子安宣邦「国家と祭祀」(『現代思想』第三十一巻第九号以降に連載中、二〇〇三年~二〇〇四年)が鋭く切開している。

[5] ここで簡潔に戦後の国家神道研究をふり返っておきたい。もっとも初期の研究者の一人藤谷俊雄は、維新後の宗教政策を端的に「絶対主義の宗教政策」とよび、「絶対主義体制にもっともふさわしく、きわめて巧妙に創り上げられた新宗教」が国家神道であったとしている(「国家神道の成立」『日本宗教史講座』第一巻所収、三一書房、一九五九年、『神道信仰と民衆・天皇制』法律文化社、一九八〇年など)。この藤谷の論点を概ねにおいて継承し、より詳細な国家神道の通史を書いたのが村上重良である。村上は前掲『国家神道』では、確かに絶対主義という概念は用いられていない。しかしながら、国家神道は、西欧とは異なった宗教的背景(「神社神道という、あまりに特異な民族宗教の存在」)と、「近代的なネーション段階の国民意識をつくりだす」必要性から構築された「近代天皇制の国家権力の宗教的基礎」であったとする見方には、やはり西欧市民社会を基準とした比較が存在していたことは否定できず、西欧市民社会とは異なった「特殊」なものとして国家神道体制を捉えようとしていたことは間違いない。その村上によれば、国家神道は戦前期の「日本国民を支配していた国家宗教」であり、「民族宗教としての神社神道を、二〇世紀なかばにいたるまで固定化した、時代錯誤の国教制度」であったが、同時にそれは「内容を欠いた国教」であるが故に「フリーハンドで恣意的な内容」をもりこみ、かくて「政治的にきわめて有効な機能を獲得した」と捉えられている。村上が具体的にのべている国家神道論は、大きく二つの部分からなる。一つは神道論とでもいうべき部分で、村上は国家神道の前提として、古代以来の原始神道・民族宗教の系譜に立つ皇室神道、神社神道、学派神道、教派神道、民間神道の五領域を挙げている。この内、神社神道と皇室神道と学派神道の一部の復古神道が結合して国家神道が形成されたというのが村上の理解であるが、とりわけ神社神道が「発展した民族宗教としては他に類例のない」「原始的な特異な宗教」であったことが、近代天皇制国家の「家族国家観」「共同体意識」の基礎となったとされ、その中核に存在している。もう一つは、国家神道体制の具体的確立過程に関わる議論である。すなわち、村上は明治維新から明治二〇代初頭期を形成期、帝国憲法発布~日露戦争期を教義的完成期、明治三〇年代末から昭和初期を制度的完成期、満州事変から敗戦をファシズム的国教期と捉えている。ことに形成期に関わっては、大きくは神祇官期の国教政策期、神祇省・教部省期の国民教化政策期、内務省社寺局期の祭教分離に分けて、それらの試行錯誤の末に国家神道体制は確立したと捉えられている。

その後の国家神道研究は、一言でこの村上の研究に対する批判としてあったといってよい。主として批判点となってきたことを列挙するならば、国家神道の内容の曖昧さに関わる批判、昭和ファシズム期のそれを明治期に遡った観のする国家神道像に対する批判、さらに確立期をいつとするかという問題に関わる批判、「信教の自由」論の評価に関わる批判、村上の国家神道像とは異なる神社神道像の提示などであるが、ここでは詳述しない。もっとも、ここで一言だけいっておきたいのは、これらの批判の上に、山口輝臣のごとくに村上らの「国家神道研究を『かつて』のものとする方向へと力が働いている」とのべてしまうことには問題がある(『明治国家と宗教』東京大学出版会、一九九九年)。なるほど、本文でものべているように、村上の国家神道論は、今日では大きく修正されねばならないだろう。だが、それらの批判や修正にも拘わらず、村上の国家神道論が提示した問題群は、依然として焦眉の課題であり続けている、とわたくしは考えている。村上の言葉を借りるならば、「国家神道は、終始、日本における民主主義の対極をなす存在であったから、(中略)国家神道の本質と役割の究明は、まさしく現在の問題というべき」だという視点は、現職首相の度重なる靖国神社参拝や憲法改正宣言など、「戦後の清算」を求める動きが加速している今こそ真剣に顧みられるべきものだろう。

[6] 安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店、一九九二年)など。

[7] 周知のように、国民国家論は、近代的学問=学術を国民化のイデオロギー装置として捉え、ことに国民の始源と系譜を一貫して語ってきた一国歴史学に対して鋭い批判を行っている。すなわち、一国的境界に仕切られた、それ自身近代の産物にほかならない領域の内部の歴史を過去に遡って自明視しつつ記述する一国歴史学こそが、実はナショナリズムを言説・学問上に構成する最も強力なイデオロギー装置の一つであったことが俎上に載せられているのである。たとえば、酒井直樹は、天皇制が実体化されていくのは、むしろ近代の言説上でそれが現在に至るまで繰り返し過去に遡って記述されることによってであり、そのことによって「国民としての日本人」「国民文化としての日本文化」「国民言語としての日本語」、そして天皇制が、「いわば『常識』として共有され、あまりにも当然視され」、「それなしにはたんに合意だけでなく論争や対立さえ不可能になってしまうような」実体性を帯びてくるのだとしている(『死産される日本語・日本人』新曜社、一九九六年、初出は『日本史研究』三六一号、一九九二年)。この酒井ののべる天皇制の部分を、そのまま神道とおき換えるならば、まさに国家神道論も同様の問題を孕んでいることが理解されよう。

ところで、近代日本の学術的言説の多くがそうであったように、国民国家論も最近では学術言説化を遂げ、一つの技法になってしまった感がある。あるいは、いたずらに近代日本の国民国家性=近代性を主張する議論、創造性の「発見」の議論となってしまい、中には国民国家論をそのようなものと誤解して批判する者まで現れている。だが、国民国家論とは、何よりも学術的言説に孕まれた問題群を摘出する方法的視点であることは、その議論に重大な影響を与えたアンダーソン(B.Anderson)、ホヴスボウム(E.Hobsbawm)、サイード(E.Said)、さらに西川長夫、子安宣邦らの著書に明らかなとおりである。

[8]宗教概念の形成自体に着目しつつ幕末~明治期の政教関係を検討した代表的な研究としては、羽賀祥二『明治維新と宗教』(筑摩書房、一九九四年)、新田均『近代政教関係の基礎的研究』(大明堂、一九九七年)、島薗進「日本における『宗教』概念の形成」山折哲雄他編『日本人はキリスト教をどのように受容したか』所収(国際日本文化研究センター、一九九八年)、山口前掲『明治国家と宗教』、磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜』(岩波書店、二〇〇三)年などが挙げられる。

[9] 磯前前掲書第一章「近代における『宗教』概念の形成過程」(初出は二〇〇二年)。

[10] 「日本型政教分離」とは、安丸良夫『神々の明治維新』(岩波書店、一九七九年)が提唱し、その後、阪本是丸「日本型政教関係の形成過程」井上順孝他編『日本型政教関係の誕生』所収(第一書房、一九八七年)などで定着していった概念で、安丸の言葉でいえば「三条の教則の遵奉が独自の布教活動を共約する原則」となりつつ「各宗派がみずから有効性を証明してみせる自由競争」を行う政教分離をいう。

[11] 周知のように、前者は進化論の伝来による論争であり、後者は内村鑑三事件以後の論争をさしている。なお、磯前前掲書四五頁以下を参照。

[12] 磯前前掲書五三~五四頁。

[13] 黒田俊雄「日本宗教史上の『神道』」『黒田俊雄著作集』第四巻所収(法蔵館、一九九五年、初出は一九八三年)一九五頁。なお、黒田は宗教概念については自明視し吟味していないと思われる。この黒田の議論を前提に、中近世における神道概念が、どのように変容を遂げ、近代に至るのかを、主として神社や神祇信仰の実態に即して検証しようとした研究として、井上寛司「中世末・近世における『神道』概念の転換」『大阪工業大学紀要』四八-一号(二〇〇三年)が注目される。

[14] 羽賀前掲書第十一章「宗教・歴史・『神道』」。ただし、羽賀の神道概念は方法的概念というべきもので、それは後に『史蹟論』(名古屋大学出版会、一九九八年)としてまとめられた。本稿では、神道概念については、羽賀とは異なって「神道と称されたもの」の意に限定して用いている。

[15] したがって、本稿は、以下の拙著と密接に関連している。拙著『幕末民衆思想の研究』(文理閣、一九九二年)、同『思想史の一九世紀』(ぺりかん社、一九九九年)。

[16] 本節で論じている点の詳細については、拙稿「『病気直し』から『教説の時代』へ」『環』一三号(藤原書店、二〇〇三年)を参照されたい。

[17] したがって、民衆宗教という概念自体、実は問題を帯びているが、ここでは学界の通念に従ってこの概念を用いている。黒住教・天理教・金光教などを教派神道という概念から解き放ち、これを民衆宗教と命名したのは村上重良だが(『近代民衆宗教史の研究』法蔵館、一九五八年)、この概念自体に先にのべた国家神道論のなかでの宗教理解が埋め込まれている。これらのことについては、拙稿「民衆宗教史研究・研究史雑考」『日本思想史学』三四号(二〇〇二年)を参照されたい。

[18] 民衆宗教については、前掲拙著のほかに、村上前掲『近代民衆宗教史の研究』、『日本思想大系67民衆宗教の思想』(岩波書店、一九七一年)、小沢浩『生き神の思想史』(岩波書店、一九八八年)、島薗進・安丸良夫他編『宗教から東アジアの近代を問う』(ぺりかん社、二〇〇二年)などを参照されたい。

[19] 神田秀雄「一九世紀日本における民衆宗教の終末観と社会運動」歴史学研究会編『再生する終末思想』所収(青木書店、二〇〇〇年)。

[20] 『黒住教教書』は同『御歌の部』(黒住教日新社、一九七四年)九九番、『おふでさき』は前掲『日本思想大系67民衆宗教の思想』二二九頁、『金光大神御覚書』(以下『御覚書』と略記)は『金光教教典』(金光教本部教庁、一九八三年、以下『教典』と略記)四二頁。

[21] 金光教の場合、「おいさみ」とよばれる神がかりが、「病気直し」には伴われていたことは、多くの所伝からうかがえる。「教祖様は口走りもあった。才崎金光様には胸浮びもあり右手首にも感じた。金子明神様は胸浮びと左手首であり、中井金子明神様は左手首だけ。亀三郎金用明神様は右中高指でした」(「金光大神事蹟集一一一、片岡宏郎の伝え」『金光教学』二五号、金光教教学研究所[以下同]、一九八五年)。「初代(斎藤重右衛門-桂島)は出獄後、笠岡独特のゲップのお取払いの徳を頂かれた。ゲップのお取り払いとは、願い人の病気が初代の身体に乗り移ってきてゲップとなって、病気を取払うことである」(青木茂『笠岡金光大神』金光教笠岡教会、一九五五年、一九〇頁)など。

[22] 藤尾節昭「布教史試論」『金光教学』一六号(一九七六年)などを参照。

[23] 『永世御用記』一八六九年(明治二年)条(金光教教学研究所蔵、『金光教学』二〇号[一九八〇年]に翻刻されている)。

[24] 『教典』九〇頁。以後『お知らせ事覚帳』は『覚帳』と略記する。

[25] 『教典』六六七頁。

[26] 宮地正人「国家神道形成過程の問題点」『日本近代思想大系5宗教と国家』所収(岩波書店、一九八八年)。

[27] 以下、「太政官布告」などについては、さしあたり伊達光美『日本宗教制度史料類聚考』(臨川書店、一九七四年)、前掲『日本近代思想大系⑤宗教と国家』から引用した。

[28] 前掲拙著『幕末民衆思想の研究』第五章「民衆宗教と民俗信仰」。

[29] 『新聞集成明治編年史』二巻(本邦書籍、一九八二年)三頁。

[30] 安丸前掲『近代天皇像の形成』参照。天理教における同様の事態に関わる史料については、幡鎌一弘「[史料]宗教・開化政策に関する奈良県法令」『天理大学おやさと研究所年報』二号(一九九六年)を参照。

[31] 『社寺取調類纂(神道・教化篇)』(國學院大学日本文化研究所、一九九〇年)一五、三二頁。

[32] 『稿本天理教祖伝』(天理教教会本部、一九五六年)一三二頁。

[33] 『教典』五九頁。

[34] 「金光大神事蹟集」四五六、『金光教学』二七号(一九八七年)。

[35] 「金光喜玉の布教資格取得」『教団史基本資料集成』上巻(金光教教学研究所、二〇〇一年)、一九頁。

[36] 『教典』五三~六七頁。

[37] 『御道案内』の諸本については、福嶋真喜一「『御道案内』について」『金光教学』六号(一九六六年)を参照。なお、藤沢本は『教典』所収のもの、伊原本は『御道案内』(金光教大阪教会、一九八二年)によった。

[38] 福沢諭吉『西洋事情』『文明論之概略』、島地黙雷「三条教則批判建白書」前掲『日本近代思想大系5宗教と国家』所収など。なお、福沢の宗教観については福島栄寿『思想史としての「精神主義」』(法蔵館、二〇〇三年)が明快に分析している。

[39] 本居宣長・平田篤胤以降の国学を復古神道と称するようになるのは、慶応三(一八六七)年の神道事務局で立案された『皇国内宗門 復古神道ニ御定被仰出』という文言以後のことであり、徳川時代に宣長・篤胤がそのように自称していたわけではない。なお、國學院大学日本文化研究所編『神道事典』(弘文堂、一九九四年)を参照。

[40] 常世長胤『神教組織物語』前掲『日本近代思想大系5宗教と国家』所収、三七〇頁。

[41] 復古神道派=平田派国学は、篤胤以降、ほぼ明治の祭神論争期頃まで、幽冥論・宇宙論・神秩序論の発展を達成し、宗門化の様相も呈していた。その幽冥論の展開の詳細はここでは割愛せざるをえないが、篤胤は、幽冥論を服部中庸『三大考』の修正という形で提示することで、記紀神話を宇宙論・神秩序論的に整序する道に先鞭をつけることとなり、篤胤生前から、門人も含めてこの幽冥論・宇宙論・神秩序論と関わった多様な説が展開されていくことになる。その活動が言説にとどまらず実践的にも一個の宗門化の様相を呈し始めていたことは、たとえば門人生田萬が、一八二八年(文政一一)に「旅行講談毎に或は六七十人或は二三十人集り、泣く者あり笑ふ者あり其模様徳本か今弘法の遊歴するが如く」とのべている点からもうかがえる(『生田萬 荒井静埜』館林郷土史談会、一九三六年、六二頁)。実は、こうした活動は、同じ神道(神祇道)として、宗門的活動を行っていた吉田神道などと衝突するものであったと考えられる。篤胤やその門人たちが激しく「俗神道」を、ことに吉田神道を非難したのも(『俗神道大意』『新修平田篤胤全集』第八巻所収、名著出版、一九七六年、二二二頁など)、その活動する場に重なるところが多かったことを抜きに考えることはできない。要するに、復古神道派は、宗門的様相も呈しながら、明治初年期まで、吉田家などの神道・神祇道などとの差異化を強く意識した一種の新興神道運動として存在していたのであって、(尊王攘夷運動への一部の参画もあり)そこに維新政府に当初それなりに期待されていた理由もあった。

[42] 阪本是丸『明治維新と国学者』(大明堂、一九九三年)、武田秀章『維新期天皇祭祀の研究』(大明堂、一九九六年)などを参照。

[43] 阪本によれば、大国隆正派を別とすれば、既に明治二~三年段階で、平田派は政治的に没落していた(前掲『明治維新と国学者』)。このほか、高木博志「神道国教化政策崩壊過程の政治史的考察」『ヒストリア』一〇四号(一九八四年)などを参照。

[44] 安丸良夫「近代転換期における宗教と国家」前掲『日本近代思想大系5宗教と国家』所収、五二九頁。

[45]架蔵本(京都池村久兵衛版本)。

[46] 伊達前掲『日本宗教制度史料類聚考』六三四頁。

[47] 以下、「教典訓法章程」「教書編輯条例」は大洲市立図書館矢野玄道文庫版本による。なお、これらについては、徳重浅吉『維新政治宗教史研究』(歴史図書社、一九七四年、初刊は一九三五年)、高橋陽一「大教院の教化基準」『明治聖徳記念学会紀要』復刊第五号(一九九一年)などに詳しい。

[48]「大教院分離建白書」前掲『日本近代思想大系5宗教と国家』所収、二四三頁以下。

[49] 阪本是丸『国家神道形成過程の研究』(岩波書店、一九九四年)第六章参照。

[50]祭神論争については、藤井貞文『明治国学発生史の研究』(吉川弘文館、一九七七年)などを参照。

[51] 立命館大学図書館蔵、マイクロ版。

[52] 『教義新聞』一八七四年(明治七)八月二九日付、『朝野新聞』一八八一年(明治八)三月九日付など。いずれも前掲『日本近代思想大系5宗教と国家』所収。

[53] 藤井前掲書六六一、六七六頁。

[54]「神祇官を復興する議につき建白」前掲『日本近代思想大系5宗教と国家』所収、四五-四八頁。

[55] 前掲『日本近代思想大系5宗教と国家』所収、八三~八五頁。

[56] 阪本前掲『国家神道形成過程の研究』第八章「神社非宗教論と国家神道の形成」参照。

[57] 神社新報政教研究室編『近代神社神道史』(神社新報社、一九七六年)、阪本前掲『国家神道形成過程の研究』などを参照。

[58] 前掲『日本近代思想大系5宗教と国家』所収、一〇五頁。

[59] 白川家、さらに同じ徳川時代の神祇道家であった吉田家については、「白川家門人帳について」『白川家門人帳』所収(清文堂、一九七二年)、井上智勝「享保~宝暦期の吉田家をめぐる動向と吉見幸和」衣笠安喜編『近世思想史研究の現在』所収(思文閣出版、一九九五年)、同「近世本所の成立と展開」『日本史研究』四八七号(二〇〇三年)などを参照。

[60] 『覚帳』一八七六年(明治九)六月条、一八八〇年(明治一三)六月条、同年一一月条など。『教典』一二四、一五三、一五八頁。

[61] 『教典』四一頁。

[62] 教部省三布達とは、明治九年一二月一五日の第三六号、第三七号、第三八号を指す。府県社以下の実態把握を行い、社格制定あるいは合併を行うが、永続方法を立てて出願するならば無格社についても合併存廃措置が講ぜられるとしている。なお、早川公明「『金之神社』考」『金光教学』二二号(一九八二年)などを参照。

[63] 『教典』一三三頁。

[64] 『教典』一四一頁。

[65] 『教典』一四三、一四四、一五〇頁。

[66] 『教典』一五〇頁。

[67] 再三「金神社」に改称する伺が岡山県に提出されているが、「該社号は祭神に不適当なるのみならず淫祠に属するの嫌も有之」という理由でなかなか認められることはなかった(「社号改称願」前掲『教団史基本資料集成』上巻所収、三七~三八頁)。

[68] 佐藤光俊「擬態としての組織化」『金光教学』一八号(一九七八年)。

[69] 以下の叙述は、佐藤範雄『信仰回顧六十五年』(上)(下)(同刊行会、一九七〇~七一年)による。なお、佐藤の蔵書を調査してみると(神徳書院文庫として金光図書館に所蔵)、権田直助『教院講録』などを始めとして、夥しい復古神道、神道事務局関連の書類、書籍が保有されていたことが分かる。以下の史料は、適宜それらで補訂してある。

[70] 同前(上)五六-五七頁。

[71] 『神誡』『神訓』については、畑愷『金光教教典研究』(一九七二年)、宮田喜代秀「金光大神教語記録編纂の歴史過程」『金光教学』二一号(一九八一年)、藤井喜代秀「教典編纂委員会における教祖伝の編纂過程について」『金光教学』二三号(一九八三年)、渡辺順一「『信忠孝一本』教義の成立とその意味」『金光教学』三〇号(一九九〇年)などを参照。

[72] 佐藤前掲『信仰回顧六十五年』(上)五六~五七頁、佐藤「内伝」『教典』九〇七~九〇九頁など。

[73] 佐藤前掲『信仰回顧六十五年』(上)一一三頁。

[74] 同前一一四頁。

[75] 田中義能『神道本局の研究』(日本学術研究会、一九三九年)、『神道大教「要論」』(神道大教本局・神道大教院、一九六四年)、阪本健一『明治神道史の研究』(国書刊行会、一九八三年)、井上順孝『教派神道の形成』(弘文堂、一九九一年)などを参照。

[76] 佐藤前掲「擬態としての組織化」は、「未公認宗教の布教者にとって、(神道事務局傘下での――桂島)神道教導職は当時にあって殆ど取得し得る唯一の公的布教資格であった」としている。

[77] この点については前掲『神道大教「要論」』に詳しい。

[78] 佐藤前掲『信仰回顧六十五年』(上)二三八頁。

[79] 佐藤前掲『信仰回顧六十五年』(上)二九二頁。

[80] 金光図書館蔵。神道金光教会長金光大陣編輯兼発行。ただし、「すゑがき」を佐藤が執筆しており、その発刊には佐藤の主導があったと想定される。

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