教理その1

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3)年.1.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2006.1.23日 れんだいこ拝


 「さて某(それがし)は何も知らぬ者に侍れば、書籍にもよらず、旧(ふる)く聞きたる事もなく、儒も知らず仏も素より知らず、何を説かんと思う心もなし。ただ天照大神の御神慮をうけてこの鳩楽(くら、高座のこと)に直れば、大神の御神慮自ずと某が胸に来宿りて、すらすらと流れ出る事、源ある水のいずみてやまざる事の如くにして、今日の講釈となりて皆がたの聴に伝うるところなり」。

 「神と云い仏と云うも天地の誠の中に住める活きもの」(黒住教教書)。

 教祖の維新前没後、黒住教は、赤木忠春(①816-1865)の活動もあって尊王攘夷運動に加わった。1876(明治9)年、いち早く教義教説を整え、神道教派としての別派独立を果たす。宗忠が伊勢内宮神、天照大神を皇祖神化することで、近代天皇制適合的な神道教派として打ち出したことも、早い時期での公認化に与ったと考えられる。金光きょうの場合には、佐藤範雄(①856-1942)などが中心となり、悪戦苦闘の末に教説を練り上げ、1885(明治18)年、神道本局中分局内の神道金光きょう会の設置から、1900(明治33)年の別派独立=教派神道としての公認化を達成することになる。この時の神道金光教会規約の第1条、第2条は次の通り。第一条 三条教憲及び慎戒十二条に則り、惟神の大道を宣揚すべし。第2条、月乃大神、日乃大御神 金乃大神 右三柱の神を本会の主神とし、左右相殿に、産土神、教祖神霊を鎮祭す。天理教の場合、1896(明治29)年、内務省が訓令甲十二号を発して天理教を厳しく取り締まることを命じている。1899(明治32)年、第1回の独立請願。この時、宗務局長から「教義等も十分に組織する」ことを求められている。1903(明治36)年、「皇上は神裔にして、皇上の此の土に君臨し給うや、実に天神の命により」云々とする明治教典を制定する。1908(明治41)年、別派独立に漕ぎつける。
 伊邪那伎(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の命も人間、天照大神も人間なら、そのつづきの天子様も人間じやろうがの。宗忠の神も同じ事じや。神とは云ふけれども、皆、天地の神から人体を受けて居られるのじや。天地の調(ととの)へた五穀を頂かれねば、命(いのち)がもつまいがな。して見れば、矢張り皆、天が父、地が母じやろうが。




(私論.私見)