茨木基敬(もとよし)略伝その1



 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.6.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「茨木基敬(もとよし)略伝その1」を確認することにする。モリジロウ「私の『茨木基敬』考その1」、弓山達也「天啓のゆくえ―宗教が分派するとき」その他を参照する。

 2018(平成30).4.24日 れんだいこ拝


【茨木基敬(もとよし)の履歴】
 1855(安政2年)年、大阪の西成郡北野村(現大阪市北区)の松本佐兵衛の二男として生まれる。
 1929(昭和4)年10.29日、出直し(享年75歳)。

 1855(安政2年)年、大阪の西成郡北野村(現大阪市北区)の松本佐兵衛の二男として生まれる。
 20歳頃に天満で乾物商を営んでいた親戚の茨木家に養子入籍、継ぐ。
 1882(明治15)年11月、生来病弱だった次女「おらく」(良久子)が激しい痙れんを起こし、一命にもかかわりかねない容態となった。この時、かねてより付き合いのあった知人を通して泉田藤吉(多くの大教会長初代などを導いた有名な教祖派お助け人)を紹介され、助けて頂いた感激から天理教の信仰に入る。
 当局からの信仰攻撃、差し止めなどが多発する中で信仰の炎をより燃やし、話一条を得心するや布教に奔走し巡教も盛んに行った。
 1883(明治16)年、入信4か月後、初めてお屋敷で御教祖との対面が許された。その時のことが「伝記」に次のように記されている。
 教祖はたいそう喜んで、『よう帰って来た/\  よう帰って来たなァ』の、お慈悲溢るゝ言葉を以て迎へられ、御自ら「月日の模様入りの瀬戸盃」をお出しになって、お酒を注ぎ、お口づけられて『これは茨木様へ』と渡された。基敬は、初対面にかくもの御心添へに感泣し、有難く押し戴き口つけんとせられたのを、取次の先生から  『それは頂くのやない、持ち帰って家族一般の者へ分け與へるのや』と御注意せられたので、恐縮してお酒を白紙に濕らして、お盃と共に頂戴せられた。そこへ又、御教祖は、  『一寸お待ち』と仰せ有って「無地の襦袢の赤衣」を一枚お下げ下された。

 教祖みきに面会した際、赤衣の襦袢をいただいている。早くに赤衣をいただいた逸話は「飯田岩治郎」のそれに匹敵する。教組みきは、その人の心根や魂の因縁などを見通したうえで赤衣を与えているとすれば、茨木基敬(もとよし)は相当の人物と評されるべきだろう。 この時、お許しがあり独立して天地組総長となった。
 1884(明治17)年、天地租の講名を「おぢば」より頂いたのを機に商売を止めて布教一筋の道を歩みだし、大阪市土佐堀の油屋で布教を本格的に始めた。熱心な布教活動によって不思議なたすけが次々と現れ、その結果、多くの人びとが信仰に入るようになった。
 「清水由松傳稿本」122~123ページの「茨木基敬先生について」は「追々信徒も増加するにつれ一時中途で神代復古などと教の理にないこととなえて皆を困らしたことがあった」と記す。
 1888(明治21)年、教会本部が設置され各地の講が教会となる。
 1891(明治24)年、本部が神道本局直轄一等教会に昇格した頃にして教祖5年祭の頃、天地組が北分教会として再発足し基敬が初代会長に就任する。
 1907(明治40)年6.9日、飯降 伊蔵(いぶり いぞう)本席が出直す。
 以前から予言を的中させるなど噂されていたが、本席出直し前後より基敬に神様がお下がりになるという噂が広がる。基敬の信仰指導のもとで不思議なたすけが相次いだというだけではなく、夜中に筆をとっで悟りを信者に伝ええ始めている。本席出直し間もない頃であり、基敬は「おさしづ」の継承者として自認するようになる。
 同年11.27日、天理教が、神道本局の傘下から離れ一派独立を認可される。内務省秘乙第54号、内務大臣法学博士男爵・平田東助名で「書面願之趣許可す」(内務大臣・平田東助)。

 これにより、天理教は天皇制政府公認の神道教団となった。天理教管長は、勅任官の待遇を受け、閣下と敬称されることになり、本部に天理教庁が設置され、各級教会は大教会、分教会、支教会、宣教所の4段階に改変されることになった。 「神道直轄天理教会本部」は「天理教教会本部」と改められた。

【茨木基敬造反事件】
 1907(明治40)年、それまで北区の曽根崎新地にあった教会が手狭になったので東成郡生野村に移転する。この時、次のような逸話を遺している。当時、付近の住民から教会を移転して欲しいと要望され、警察が仲介にくるようになるに至り、やむなく基敬はこれに期日を切って移転を約束した。急拠の移転にもかかわらず、どうにか約束の期限を守って移転がほぼ完アしたのと時を合わせるかのように、旧教会地を含む曽根崎、天満、福島一体が大火に見舞われた。基敬の予知能力が神格化されることになった。
 1909(明治42)年、準員を拝命する。 教勢の伸展にともない大教会に昇格し、基敬は北大教会長となる。
 1911(明治44)年10.26日、北禮拝殿起工式の日に梶本宗太郎、山田伊八郎、井筒五三郎、畑林為七と共に本部員に任命される。(「その後、別席にも出ず」とあるが意味不明)
 本席の死から4年目のこの頃、身体に原因不明の異常が生じ、天理教会本部近くの北大教会詰所内の自邸で病床に伏すようになった。この頃の様子を、豊嶋泰國「天理の霊能者」P109が次のように記している。
 「すでに天理教の本部員(本部役員)に登用されていた茨木基敬に天啓とされる現象が起こったのは、本席の死から四年目の明治四十四年の晩秋からであった。その頃より身体に原因不明の異常が生じて、天理教本部近くの北大教会詰所内の自邸で病床に臥すようになった。腸出血から始まった病勢は進み、強度の神経痛をともなって日夜苦しみ悶えていたのである。当時、天理教教会本部では教祖三十年祭にともなう「大正普請」と呼ばれる本部神殿の建築計画を進めていたが、茨木基敬は「信者に必要以上に金銭的な負担をかけてはならない。また無理に寄付金を集めれば、その金には信者の惜しいという埃がついているので神も喜ばない」などと、本部員としてただ一人強硬に反対していた。そのため、本部からは白眼視されていた」。
 11.18日真夜中、病床にあった茨木基敬が突然神がかりし、「来年は七十五年目男の子を授ける程に。又、「えらい事が見えるで見えるで」とのお告げがあった。「男の子を授ける程に」は、茨木基忠の長男の基則の誕生(明治45.7.12日)の予告、「えらい事が見えるで」は翌年の明治天皇の崩御(明治45.7.30日)と元号が大正時代に変わる(大正元年7.31日)ことの予告と拝されている。 

 これより自称天啓者になった茨木基敬は天啓があると称して鳳凰紋の入った装束をつけ、本部へ乗込んで本席の座に座ると言い出した。最初は筆取りの体制も何もない中であったが、次第に書き取られるようになる。その啓示の指導により、北大教会部会での救済が燃え上がり、累積していた借金も返却されるほどの大金も御供えされたという。茨木氏の啓示は部内の会長を通じて、直属の教会長たちには筆写されたものが傳えられた。その中で、ある信徒がその筆写物3点ほどを本部に郵送して伝えることで、本部内において重大視することとなった。梶本宗太郎自叙伝稿の「ある事件」という箇所では、ある信徒が密かに音声の啓示を外から聞きとって、それを本部に届けたと書かれている。(「
新元号へ、明治天皇の崩御を預言した茨木基敬さんの最初の啓示」参照)

 かくて、天理教教会最大手の北大教会を率いる初代会長の茨木基敬が造反した。当時、初代本席の飯降のお指図により二代目本席として上田ナライトがいたが、新たな天啓者の登場が教内を揺るがすことになった。この時、上田ナライトは精神変調を伴う病気を理由に本席の務めを失効させていた。天啓者としての茨木が信者の間で評判となり、それを信用して部下教会の人達の中には大分経済的に支援した者もある。かくして教会本部事案となった。茨木基敬の造反は他の天啓者とは違い、天理教教会本部の本部員の立場の者のそれである。いわば外野席からの造反とは訳が違った。多くの本部員が困惑したのも想像に難くない。かくて茨木基敬造反は天理教史上初の大事件中の大事件となった。


 これを本席の場合と比較してみると、本席は身上で臥せっている時に神懸かり、初代真柱を呼び出し、本席と承知させて、その座についた経緯がある。本件では、初代真柱は茨木基敬に関しては黙殺したようで、後に茨木基敬は「気の毒やけれども、真柱はこの年の暮れは越せん」と予言したと伝えられている。結果的に真柱は大正3年の大みそかに首の悪性腫瘍で苦しみながら出直ししている。

 この大正7年の茨木事件の背景に、飯降伊蔵の本席継承者ナライトの身上問題があり、おさづけの拝戴がスムーズにいかない事情があった。教内に「神の啓示を告げる者の不在」事態への対応が要望されつつあった時、本部員である茨木基敬に神懸りがあったということになる。

 当時の本部を代表する調べ役の本部員が派遣され、胸調べすることとなった。やって来たのは、増野正兵衛(道友社初代社長)、喜多治郎吉(島ケ原大教会4代会長)、諸井国三郎(山名大教会初代会長)、梅谷四郎兵衛(船場大教会初代会長)であった。胸調べの結果、茨木基敬の天啓ぶりが示されたが、結果的に本部は「芽が出る前に潰す」方針を決定し、「神様の真似事をするな。わび状を書け」と迫った。

 増野道輿(鼓雪)(天理教校長や「みちのとも」の編集主任、道友社社長も勤め、教祖40年祭での教勢倍化運動など大正後期に大活躍した)は、茨木事件に関して、茨木基敬が本席の地位を得ようとした欲望があったと証言している(おやさと研究所「天理教事典」)。但し、茨木父子処分の大ナタを振るうことになる松村吉太郎を義父とする立場からの証言とも受けられる節があるので割り引いて拝聴するべきだろう。
 モリジロウの「私の『茨木基敬』考その1」は次のように記している。
 「また天啓の真偽を確かめに来た本部員(増野、喜多、諸井、梅谷、井筒)も真柱に正確に伝えなかったことから、茨木基敬の予言通りに順番に出直してしまう。神の怒りに触れてしまったのだろうか。まったく恐ろしいことである」。
 「茨木事件後、出直した1.2.3.4.5の本部員も真偽のほどは、はっきりと認識していたとも思う。この5番目の井筒五三郎だが、松村吉太郎の実弟で芦津の井筒家へ養子に行っている。その下の弟の松村隆一郎も兄の吉太郎に代わって高安大教会長を勤めたが大正6年9月に出直している。茨木が神懸ったのは明治44年秋からであり、大正に入って6年には既に松村吉太郎も茨木の天啓のことは知っていたはずだ。普通に考えれば、弟が二人も出直し、神の『かやし』だったのかと思わなかったのだろうか。大正6年の隆一郎の出直しは警告で、茨木父子を免職後の大正8年の五三郎の出直しは神の『かやし』だったように思えてならない。私には神の怒りに触れてしまったようにしか思えない」。

 モリジロウの「私の『茨木基敬』考その3」は次のように記している。
 増野鼓雪は松村吉太郎の娘つると結婚し、つるが出直し後、妹の八重子と再婚している。松村吉太郎は義父に当たるわけであり、大正7年1月に茨木基敬父子が免職された後、同年、秋に本部員に29歳の若さで登用されている。そのような人物の証言では、「本席の地位を得ようとした欲望があった」と証言しても、義父である松村吉太郎に言われたのか、あるいは忖度したのかとも、十分に考えられる。また、あるいは、新たに天啓者が出ては、まずいことになると、本人も思ったのかもしれない。真偽のほどは、謎だが、個人的な見解としては信じがたい。
 1918(大正7)年1月、本部が茨木に北大教会長休職の処置をとった。この措置では事態が治まらなかった。

 1918(大正7)年、本部が茨木基敬本部員を免職する(茨木事件)。北大教会の神様を伊勢町に奉還し山中彦七を後任会長に任命した。次いで生野分教会は分離して本部直轄となり、その后更に山中会長のあとをうけた村田慶藏さんの時、その直属部下のほとんどを分離して本部直轄としバラバラにした。この年、初代真柱は既に出直し二代真柱は14歳であった。代行者の山澤為造、事務方トップの松村吉太郎の采配が注目される。  

 この時のことを、松村吉太郎「道の八十年」p302~304が次のように記している。
 茨木さんに天啓が下る……とはすでに大正六年一月にきいた。そのとき本部では茨木さんに北大教会長休職の処置をとったが、それだけでは治まらなかった。その後も役員信徒を通じて、天啓降下の説を流布していた。或る日、息子の基忠さんを大阪教務支庁に呼んだ。「お父さんはどうしている…」。「御本部のおさしづに従いまして、その後はひきつづき謹慎しております……」。「お父さんは謹慎しているだろうが、あんた達はお父さんをどう思うているのか……」。私は彼の心底を押して偽りのない回答を求めた。すると、「正月よりこのかた、父に対する天啓は依然として継続しております。日と共に、私も信徒も所属教会長も、父に対する信仰を深めております」といった。その翌日、私は天啓の実否をたしかめるために、北詰所内の茨木さんの宅を訪ねた。客間に案内されて待っていると、茨木さんは両腕を麻縄でしばって次の間に端座した。意外な行動におどろいていると、「私は天理教の罪人でありますから、正当では、先生に面会できません。どうか、このままでお許しねがいます」といった。「休職というのは職務の執行を止められたまでであって、あなたはやはり従前どおり、本部役員であるし天理教教師です。そんなことをする必要はない。ここへ同席してください」、「いや、私は自分自身を罪人と思っています」、「私は罪人をただしに来たのではない……」。何度か押問答しているうちに、茨木さんは私の言葉を受け入れて、縄をほどいて同席した。

 私はいろいろと心情を聞き、その上で言葉をつくして改心をすすめてみたが頑として応じない。「神意を無視すれば我が身の滅亡を招くのみで、この窮地にいたっては自殺より外にないと思います。しかし、私は自殺できません。そうすれば、今後どのような困難な迫害に会っても、私の信ずるところを貫くより外に執るべき道がないと覚悟しています」と告白した。すると、妻のくに子もそこへ出て来て、「神様にそむくことはできません。これからの苦労は覚悟しています、神意をすてて、私どもの生はありません……」と強い意志を断言した。茨木さん夫婦の態度も心構えも、すでに明かであった。そのゆく道は定まっていた。さりながら、私はなおこれを、このままで葬りかねた。茨木さんの功績から考えても、また友情の上から思うても、なんとかして、この危地から救い上げたかった。私はもう一度、基忠さんと話し合ってみた。すると、「どんなに巧妙に偽造されていても、大蔵省印がない以上、紙幣として通用しないことは承知しています。もはや今日に至っては、どうも致し方ありません」と、冷淡きわまる答えであった。私の真情は、少しも通じていなかった。「父が窮地に陥ろうとしているのに、子としてこれを見捨てるのは、道義上から云っても不都合ではないか……」、「私にはどうすればよいかわかりません。子としての道を教示して下さい」、「この際、円満な解決をつけるには、お父さんに辞職させるのが最も適当な方法でしょう。私はそれ一つだと思う」、「今日まで父の天啓を信じ、役員も部下教会長も信じてきたのですから、今日におよんで私から辞職を勧告できません。実は父が休職になった際でした。免職ならお祝いでもするのに、休職ではせいがない……と申しまして、父はじめ一同も気抜けしたようなこともありました。ただ今では、教会長を甲乙に別け、甲部は父の天啓組です。必要であれば、その名簿も提出いたします」といった。ここに至っては、もう談じ合いの時期ではなかった。私としては事前にとるべき処置は十分にとった。理において情において、つくすべきはつくした。この上は「断」あるのみであった。本部員会議を経て、茨木父子を免職とし、山中(彦七)さんが北大教会長と定まった。

 茨木基敬父子を本部から放逐後、山中彦七を後任に据えたが、教内でも大きな北大教会の建物をどうするかについて問題があったようだ。松村吉太郎「道の八十年」p308が次のように記している。
 茨木さんは、おそらく建物をわたすまいと考えていた。その問題について情義をつくしていては時日が伸びるばかりである。それでは整理の意味をなさない。そう思って、数日前から弁護士を通じて差押えの手続きを用意しておいた私は、翌日、大阪裁判所へ差押への処置を取ってしまった。全く疾風迅雷と云ってよかった。事を潰すのは素よりお道の精神において好まない。さりながら、事、異端異説にかかる問題は、断行あるのみであろう。腐木は一日も早く斬らねばならぬ。
(私論.私見)
 松村吉太郎氏のこの時の公権力に依拠する対応ぶりと「腐木は一日も早く斬らねばならぬ」の論理は全く世俗的なものであり、少なくともお道の所作ではない。先枯れの道に入り込んでいる。
 北大教会は大正初期には部内も多く規模の大きい大教会であったが、この茨木事件がきっかけで部内が混乱した。本部が、本部の方針に従えば北大教会内の部内教会は本部の直属教会として認めるという案を出したことで、大正14年に本部の許しを得て次の教会が本部直属になった。麹町大教会、豊岡大教会、生野大教会、岡山大教会、府内大教会、青野原分教会、細川分教会、栗太分教会、淀分教会、名張分教会、鐸姫分教会、尾道分教会等々。茨木基敬は教祖一途派の面目に於いてか、分派して別教団を設立する道には向かっていない。  

 おさづけに関してはナライトからご母堂に移すとの決定がなされ、ご母堂(初代真柱の妻のたまえ)の授けが開始された。
 1917(大正6)年、茨木基敬の天啓を封じ込める為に本部が休職を命じた。その際、北大教会教会長を継いでいた基敬の息子の基忠と同教会役員一同が自発的に「今後、基敬の天啓を信じない」とする詫び状を本部に提出している。但し、基敬の天啓が続き、基忠らがこれに従った為、「詫び状を無視し、引き続き天啓の降下を一層盛んに宣伝するをもって本部としても取締りの上捨ておくべからざる場合に立ち至った」としている。(天理教機関誌「道の友」大正7年2月号の松村吉太郎の「茨木父子免職の顛末」参照)

 同年12.5日、松村とその配下の者が北大教会信徒詰所内の茨木基敬宅へ出向き、暫くの談じあいをしている。その後、松村、梅谷、諸井が出向き、茨木父子と面会、談じあいしたが平行線をたどった。その後、茨木父子の免職処分が決定された。北大教会の後任には山中彦七が就任することになった。

 1918(大正7)年、本部が、茨木基敬は気が違ったとの理由で免職処分に付した。北大教会を伊勢町に奉還し山中彦七を後任会長に任命した。
 井筒五三郎(松村吉太郎の弟、芦津大教会の井筒家へ養子。
 1921(大正10)年2.15日(1.16日?)、北大教会初代会長の茨木基敬が、長男の基忠と共に正式に免職される。この日をもって絶縁処分となった。当時の最高実力者であった高安大教会初代会長の松村吉太郎がこの処分を下した。明治30年に発生した飯田岩次郎免職事件(いわゆる水屋敷事件)が尾を引いていた。

 本件につき、次のように解説されている。
 「現体制を乱すとして基敬を追放した松村吉太郎は中山家と姻戚にあり、基敬を2代目本席にすれば中山家が弱体化すると恐れ茨木父子を免職したとある。 既に中山教化しているのが見て取れる。 基敬と絶縁した北大教会配下の教会が本部直轄になったのは組織の妙だ…」。

 松村吉太郎は「茨木父子免職の顛末」(「道の友」大正7年2月号)で、茨木基敬の天啓を今後、信じないと、息子の基忠らに詫び状を提出させたことを明らかにしている。
 同年11.14日、本部員解任後も「おぢば」に留まっていた北大教会初代会長の茨木基敬親子が「おぢば」を去り、奈良県生駒郡富雄村(現在の奈良市富雄町)に移り、一時期、天理教茨木本部と称して本部の「離れ屋敷」としていた。但し、教団としての活動はせず、自らを飯降伊蔵に続く天理の天啓者と捉え続けた。現在、「真道会」と称して信者が各地に点在するが教団としての活動は行なっていない。また、茨木家には後継ぎがなく、基敬の娘が母方が茨木一派の会員である幾田家に嫁ぎ、現在はその幾田家が団体の管理に携わっている。

 次のように評されている。
 「(「茨木基敬造のお指図」に対して)私masaの感想としては、これら茨木氏の言葉は本物であるかどうかは分かりませんが、教えを著しく歪曲させたものではないと思うし、少し教理を勉強した位で出るような言葉とも思えません。親神様の言葉ではないとしても、人間業ではないと思います。茨木氏は天理教を追放された後も、「別派を立てるような行為は慎むように」と戒め、その後も決して天理教に対し異端的な行動はとらず、神様も祭らず、おぢばを遙拝していたそうなので、他の自称天啓者とは異質だと思います」。
 1929(昭和4)年10.29日、出直し(享年75歳)。

【この頃の教内の動き】
 この頃の教内の動き、異変は次の通り。
1912 大正元 山田梅次郎事件
大西愛次郎のほんみち開教
1913 大正2 広池博士が天理中学校長になる。
初代真柱が身上の茨木基敬を見舞う。
控え柱の前川菊太郎出直し。
1914 大正3 神殿大正普請。
大晦日、初代真柱出直し。茨木基敬の「この年の暮れは越せん」という予言通りとなった。
増野正兵衛出直し。
1915 大正4 小川事件(松村吉太郎が天理教一派独立に関係する贈収賄容疑で逮捕・収監された事件、後に無罪)
真柱に変わり山澤為造摂行体制。
広池博士天中辞任。
1916 大正5 教祖三十年祭。 
井出クニの「教祖殿事件」。
1917 大正6 ナライト胃腸障害。  
9.2日、松村隆一郎(松村吉太郎の末弟、高安大教会の第4代会長)出直し(享年**歳)。
11.11日、喜多治郎吉出直し(享年66歳)。
須藤花井の誕生。
1918 大正7 茨木基敬罷免(茨木事件)
真柱のご母堂によるお授け開始 
6.22日、諸井國三郎出直し(享年79歳)。
1919 大正8 スペイン風邪流行。 
5.29日、梅谷四郎兵衛出直し(享年73歳)。  
11.8日、井筒五三郎(松村吉太郎の弟、芦津大教会の井筒家へ養子)出直し(享年*歳)。





(私論.私見)