モサド考






(私論.私見)


イスラエルの情報機関

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機関長委員会ヴァーダト

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秘密情報庁モサド

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軍事情報部アマン

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科学関係局レケム

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外務省研究・政治計画センター

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連絡局ナチフ

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総合保安庁シン・ベト(シャバク)

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国家警察

 諜報部と保安機関の主要指導機関は、ヴァーダトの名で知られる機関長委員会(ヴァーダト・ラシェト・ハシェルチム)である。この委員会は、そのメンバーの作戦と活動を調整する。通常モサドの名で知られる秘密情報庁モサド(モサド・レタフキジム・メユハジム)は、国外作戦に対して主要責任を負い、首相に従属する。防諜部である総合保安庁(シェルトビタホンクラリ)、略してシン・ベト(又はシャバク)は、保安を担当し、首相に直属する。軍事情報部(アガフ・モディーン・シェル・マテ・クラリ)は、軍事戦略諜報及び電波傍受に対して責任を負い、イスラエル国防軍参謀総長に従属する。イスラエル外務省は、イスラエルの全特務機関の作戦の研究活動及び政治的計画立案における援助を保障する。内務省は、政治的調査及び国境警備の組織において、国家警察に援助を提供する。

 イスラエル諜報部及び保安機関の主要対象(目的)は、以下のものである。

  1. アラブ諸国、その能力及びイスラエルに対する意図、そのソ連その他の国との関係、世界全国におけるアラブ諸国の公式代表部及び施設、アラブ諸国の指導者、これらの国の国内及びアラブ間政策、心理要素、軍事準備その他の様相

  2. 米国の政策又は存在すれば、イスラエルに対して米国指導部により採択される決定に関する秘密情報の収集

  3. 米国その他の先進国における軍事技術情報の収集

  4. イスラエル、ユダヤ人移民問題に対するソ連及び東欧諸国の政府の政策の方針の解明

  5. 全世界における反シオニズム活動に対する完全な監視

  6. イスラエル諜報部にとって利益となる他の地域、例えば、アフリカの政治及び経済情報の収集

 イスラエル特務機関は、アラブのプロパガンダへの対抗及び反シオニズム活動の無力化に関する努力にも着手している。イスラエル人はまた、特にアフリカにおいて、大規模な秘密政治、経済及び準軍事プログラムも実施している。国外諜報部と国内保安機関に賦与された権限は、特別法により規定されていないが、イスラエルの法令に反映している。特別法第29節は、「政府には、その実現が法律により他のいかなる機関にも委任されないいかなる行為も、法律に従い、国家の名において実施する権利が賦与される」と宣言している。このことは、いかなる機関も、何らかの法律によってこの分野で活動する権限が与えられていない以上、諜報及び国家安全保障問題の統制が政府に委任されたことを意味する。

 政府及び特務機関自体の若干の公務員側からは、何年も、対外政策諜報及び保安機関の地位を定義し、その作戦実施を規制する法律を有する試みが着手されたが、この試みは失敗に終わった。イスラエルの法律は、国家安全に対するスパイ行為又は当該犯罪の共助、情報漏洩に対して、死刑又は禁固3年から15年の刑を規定している。

 対外政策諜報と防諜機関には、財務省(税関等)、観光省、国営航空会社「エル・アル」、国営海上航行会社ツィムのような政府組織が援助を提供している。イスラエルにセンターを有する非公式のシオニスト組織と全世界のユダヤ人共同体も、必要時、イスラエル特務機関の作戦に援助を提供している。

 諜報部と保安機関は、政府において強い立場を有し、両者は、共通の作戦で互いに関係している。建国のために働いた世代の代表であるこれらベテランは、非合法移民及び武器の輸送の組織のような長期に渡る行為において協同して行動した。現指導者の多くは、アラブ人に対する一連の戦争において各級の軍人であり、何らかの主要政党との関係のおかげで、政治の舞台に出た。彼ら全員が、秘密活動において一定の経験を有し、良好な諜報部と保安機関を有する必要性を個人的に確信している。諜報部と保安機関は、外務省の最大限の支援を享受している。また、国防省とユダヤ人庁(1929年に全世界シオニスト機構により創設された機関)は、諜報員の作戦活動に積極的に協力している。

 80年代末、モサドの戦術は、乱れ始めた。世界最良の諜報部は、起こりつつある変革に追いつけなかった。国を取り巻く敵意の環は、四散した。当初エジプトが、後にヨルダンが、イスラエルとの和平締結に入った。国連でも、変革が起こった。その指導者達は、ますます頻繁に、テロリズムの否定について語った。

 外部の脅威が消え、以前特務機関に全てを許した国は、彼らに不快な問題を突きつけ始めた。防諜部シン-ベトの捜査官が1984年に逮捕した2人のテロリストを死ぬまで殴打したとき、その組織は、イスラエルの新聞において「ユダヤのゲシュタポ」と烙印を押された。

 しかし、モサドがPLOの当てつけに、アラファトに敵対するイスラム・グループ「ハマス」と「ヒズボラ」を育て上げたことが分かったとき、より大きな騒動が起こった。「ハマス」と「ヒズボラ」は、イスラエル人の監督下から脱した。そして、モサドが彼らと戦うことは、以前のテロリストよりも難しかった。イスラム狂信者は、直ちに天国に行けるために、異教徒との闘いでの死を恐れなかった。彼らは、単に爆弾を体に巻きつけ、イスラエルの都市の街路で自爆し、数百人もの人々を死傷させた。あるいは、トラックに爆弾を積み、1983年のレバノンのように、異教徒の家に突入した。そこのアメリカの兵舎の爆破の際、241人の米海兵隊員が死亡した。ちなみに、トラックの車体には、今ロシアで悪名高いヘキソーゲンが存在した。

 イスラエル特務機関全体(つまり、モサドも)の評判に対する次なる打撃は、テルアビブにおいて、血塗られたユダヤ・アラブ間の争いを解こうとしたイツハク・ラビン首相が暗殺された1995年11月に加えられた。その暗殺者、イスラエル人イガル・アミルが、イスラエル防諜部シン・ベトの情報提供者だったことが分かった。新聞紙は、平和を創設した首相が自国の特務機関の陰謀の犠牲となったと推測した。エージェント網が粉砕され始めた。イラクとイランでは、数十人のイスラエルのスパイが摘発されて処刑され、モサドのために働いていたパレスチナ人が、ますます頻繁に、喉をかき切られて溝に捨てられ始めた。そして今日、イスラエル紙が書いているように、かつて誉高かった特務機関の業務を評価できる唯一の言葉は、「汚職、不案内かつ危機」である。

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最終更新日:2004/03/15

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秘密情報庁モサド

モサド・レタフキジム・メユハジム

 モサドは、国外での諜報情報の収集に従事し、政治性行為を実施し、テロ対策を行う。情報収集に関する任務の遂行の際、モサドの主要努力は、アラブ諸国、近東に関するアラブ人の民族問題がこの地域におけるイスラエルの利益と衝突する全世界、特に西欧及び合衆国のその公式代表及び施設に対するエージェント作戦の実施に集中している。

 モサドは、アラブ各国軍、配置、装備、士気、指導部に関する情報、並びにアラブ諸国の国内情勢、アラブ諸国指導者間の関係、アラブ世界における他国全ての外交活動に関する全情報を収集する。モサドは、アラブ諸国の商業活動、特に西側兵器の納入領域を追跡し、アラブ人による軍事、経済及び政治専門家の徴募を防止しようとしている。この際、主目的は、エージェントとしてその種の人物を徴募し、徴募失敗の場合、アラブ人に援助を提供することが合理的ではないことを納得させるか、その活動のデリケートな面を伝達することである。モサドは、アラブ人中に相互不信を促進し、並びに西側のアラブ世界への共感を失わせる騒擾を引き起こすために、教唆活動も実施する義務を有する。

 テロ対策領域において、イスラエル人は、時折、特に近東及び西欧諸国において、アラブ人テロリストに対する戦闘作戦を行っている。特に、レバノンがキリスト教徒、ドルーズ教徒及びムスリムから成る混成住民を有している事実は、同国領土を諜報作戦実施に魅力的なものにしている。イスラエル人は、レバノンに秘密口座を有し、同国で金融取引を実施している。彼らはまた、パレスチナ人テロリストのリーダー、パレスチナ組織の兵員及び難民キャンプに対して一連の襲撃を行った。

 アラブに対する作戦の外、モサドは、イスラエル国家、シオニズム及びユダヤ人全体の利益を保障するために、東西を問わず、政治、経済及び科学技術諜報情報の収集に従事している。主な努力は、その政治決定がイスラエル及びシオニストの目的に結果を有し得る米ソ、並びに国連に関する情報の入手に集中している。

 イスラエル諜報部がソ連及び東欧諸国において自らに課した任務には、イスラエルに対するこれらの国の政府の政策、ユダヤ人移民の状態に関する情報の収集、ソビエト連邦及び東欧諸国の官僚組織で戦略的に重要なポストを占め、思想又は打算的理由からシオニストを助けることに同意した者の徴募、並びにソビエト連邦及び東欧諸国によりイスラエル又はアラブ諸国の若干の政治集団に提供される援助のレベル及び質に関する情報の入手が属する。

 非アラブ諸国におけるモサドの支局は、通常、大使館及び領事館のカバーの下で行動する。モサドは、米国、欧州の首都の大部分、トルコ及びイランに支局を有している。南米、アフリカ及び極東では、モサドの戦略センターが活動している。支局の作戦は、これらの国の公式特務機関と連絡の維持及び情報交換から、アラブ人テロリストに対する戦闘行動の実施まで、様々な性格を帯びる。作戦実施の際、モサド将校と臨時のエージェントが行動する。1973年7月、16人から成るイスラエル兵のグループが、ノルウェーのリレハンメル市において、モロッコ出身のアラブ人を暗殺した。ノルウェー当局により、グループの6人が逮捕され、グループの6人が起訴され、残りの者は逃走した。裁判中、この作戦のために特別に徴募され、モサドがその地域センターを有するパリで主要訓練を受けた後、アラブ人テロリストの除去に関する特殊任務を帯びてノルウェーに到着したモサドのイスラエル人将校と欧州ユダヤ人からグループが構成されていたことが究明された。

 情報・特殊任務機関(モサド・レ-タフキジム・メ-ユハジム)の本部庁舎は、テルアビブのサウル王通りに位置する。

■歴史

 モサドは、40年代末、大小2人のイセルが創設した。大イセル・ベエリは、興奮のあまりヨルダンでスパイをしていた将校の射殺を命令したとき、裁判にかけられた。彼の仕事は、なくならず、リガからの帰還までイゼイ・ガリペリンだった小イセル・ハレルに移った。部下達は、彼がソ連に残っていれば、きっとKGBを指揮したはずだとジョークを言った。

 ハレルは、生まれつきのスパイだった。彼の冷たい青い目の視線は、対談者を缶詰のように切り開いた(今日、ロシアで、そのような視線をを持っているのは、ウラジーミル・プーチンだけである。)。ハレルの名前は、1961年の彼の退任まで、イスラエルでは誰も知らなかった。

 ハレルからは、病的な秘密主義、節約の習慣及び現代技術への不信等、モサドの多くの伝統が生まれた。ちなみに、家では、イセル雷帝は、全てにおいて妻に従っており、隣人達は、美人のリフカの小さく、静かな夫に同情していた。彼の匿名性は、妻が中佐の肩章(イスラエルにとって、これは非常に多く、イスラエル軍で最高の階級である中将は、通常、参謀総長が帯びる。)の付いた軍服を干し掛けたとき、偶然暴露された。

 イセルは、滅多に軍服を着なかったが、私服とサングラスを好んだ。「特殊任務」の遂行を監視しつつ、世界中を旅するのに好都合だった。モサドには、当時、アラブ人対策と逃亡したナチス犯罪者の捜索の2つの任務があった。

 モサドの最も効果的な作戦と考えられているのは、リカルド・クレメントの名前でアルゼンチンで暮らしていた迫害者No.1、アドルフ・エイヒマンの誘拐である。作戦のために、親戚全員がナチスの手により殺された絶対に信頼できる12人が選抜された。1960年5月11日、アイヒマンは、自宅の側で直接誘拐され、麻酔をかがされ、空港に運び込まれ、事故に遭って、包帯を巻かれたイスラエル外交官として飛行機に搭乗させられた。イスラエルでは死刑は適用されないが、アイヒマンに対しては、例外が行われた。

■作戦実施方法

 長年に渡って、モサドは、イスラエルにとって意義を有する各国の高官及び政府要人と信頼関係を維持している。ほぼ世界全国のユダヤ人共同体には、イスラエル諜報部の努力を積極的に支援するシオニストとイスラエル・シンパが存在する。そのような関係は、綿密に発達させられ、情報入手、偽情報の流布、プロパガンダその他の目的のためのルートとなっている。カバーとして諜報部が利用する公式な施設は、イスラエルの貿易使節団、国営観光組織、航空会社「エル・アル」、国営海上航行会社ツィム(その株式は、アメリカの「イスラエル・コーポレーション」社と欧州代理店に属する。)である。イスラエルの建設会社、産業グループ及び国際貿易組織も、諜報部に対して非公式なカバーを保障する。

 イスラエル諜報部は、国外の各種ユダヤ人共同体及び組織に著しく依存しており、エージェントの徴募及び情報入手のために利用している。全ユダヤ人がイスラエルに属し、イスラエルに戻らなければならないということが力説されるシオニズムの攻撃的な思想は、諜報作戦参加への同意と引き換えに譲歩される。

 通常、モサドは、ユダヤ人からエージェントを選抜する。それにも拘らず、この際、一方では、シオニズム国家イスラエルへの忠誠、他方では、自分の祖国に対する忠誠 という二重忠誠によりもたらされる暴露の危険が常に存在している。非ユダヤ人の徴募は、比較的稀にしか行われない。イスラエル人は、不誠実又は変節が担当作戦実施の挫折の脅威にさらすか、国家の安全を脅かす場合、自分の諜報員にも、エージェントにも、全く無慈悲になり得る。欧州では、イスラエル諜報部のために働いていたユダヤ人が、著しい金額の援助の下でエジプト人に買収されたいくつかの事例が起こった。これらのユダヤ人は、イスラエルに誘引されるか又は誘拐され、その後、秘密裁判により禁固10年から14年までを言い渡された。

■「サイアニム」

 イスラエル諜報部の支援者の国際ネットワークである。ヘブライ語で、「サイアン」は、「補佐」を意味する。サイアンには、純血なユダヤ人しかなれない。市民権を有する国に対する忠誠心を保持しつつ、サイアンは、同時に、イスラエル国への共感も感じている。ロンドンだけで、約2千人のサイアンを数え、英全土には更に1千人が、米国には10倍以上が分散している。彼らは、決して作戦に直接参加せず、何らかのサービスを提供するだけである。サイアンは、援助する作戦が生まれ育った国に向けられたものではないと常に信じているはずである。

 ロンドンに、パレスチナの地下組織に対して行動を実施する任務を帯びたモサドの作戦グループが来たと仮定する。グループには、自動車が必要である。その時、自動車販売に従事するサイアンに、本物のナンバープレートとキーの付いた支援自動車を一定の場所に残すように要請される。作戦終了後、自動車は、所有者に返却される。サイアンは、何のために彼の自動車が必要だったのか決して知らず、彼の明細書には、車が潜在的占有者に一時貸し出されたと書かれるだろう。

活動

bullet 秘密機関の苦難の日々:独立軍事評論、2000年9月8日

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最終更新日:2004/03/15

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秘密機関の苦難の日々

独立軍事評論、2000年9月8日

■イスラエル特務機関の管理者は、国外エージェント活動の安全をほとんど心配していない。

 その活動の歴史に渡って、イスラエルの秘密機関「モサド」は、数千もの秘密作戦を実施した。例えば、ヨゼフ・スターリンの犯罪に関するソ連共産党第20回会議へのニキータ・フルシチョフの報告のコピーを入手し、1965年にソビエト製MiG-21機で自国から逃亡したイラク人飛行士を上手く「工作」し、ナチス犯罪者アドルフ・アイヒマンをアルゼンチンで誘拐し、イスラエルの非合法エージェント、エリ・コーエンをシリアの支配者層に浸透させた。

 しかしながら、「モサド」には、崩壊がしばしばあった。失敗の簡単なリストを紹介する。

 1973年夏のテロリスト撃滅を目的とした作戦。イスラエルのエージェントは、ノルウェーの保養都市において、大変不得要領に行動した。彼らは、その人物を殺せなかっただけではなく、ノルウェー警察の手に落ちた。

 リビア機の誤認による撃墜。原因は、パレスチナ指導者の搭乗に関する不正確な情報である。

 レバノンの泥沼へのイスラエル国家のはまり込み。これは、同盟者としてのレバノンのキリスト教徒の信頼性に関する誤った情報を得たことにより起こった。

 1990年の「モサド」に関するヴィクトル・オストロフスキーの本のカナダ及び米国における出版を差し止めようと試みた奇妙な決定。数百万のもの人々は、イスラエル諜報部が、著者だった職員による本の出版を防止しようとしたのを見て、それが出版されたとき、それを買いに走った。

 英国における電話ボックスでの偽造英国パスポートの紛失及びパレスチナ人エージェントの徴募の失敗。2つの崩壊は、長期間の英国との関係冷却化をもたらした。

 1991年のニコシアでの4人の「モサド」エージェントの逮捕。当時、彼らは、イラン大使館の電話線への接続を試みていた。恥ずべき状況は、イスラエル人がたった1人の老警官に逮捕されたことにもあり、彼は、この事件のおかげで、勤務20年後、遂に昇進を果たした。同じキプロスにおいて、1998年11月、トルコのために活動していた更に2人の「モサド」エージェントが現行犯で逮捕された。

 そして、最後に、イスラエルに友好的なスイスでの「モサド」エージェントの崩壊。これは、諜報機関の長ダニ・ヤトムの更迭をもたらした。

 最後の崩壊については、詳細を語るべきである。

 1998年2月17日、航空会社「エル・アル」の定期便で、5人の「モサド」職員がスイスに到着した。2月19日夜、彼らは、外国の外交官が住んでいるベルン郊外の家屋の1つで、現地警察により拘束された。

 2人のエージェントは、外におり、3人は、イラン代表に属するアパートから行われた電話会話を盗聴及び録音していた。別の説によれば、このアパートには、親イラン過激派「ヒズボラ」と密接に関連するスイス人が住んでいた。同夜、眠れなかった住人の1人が、家の周りの不審者を見つけ、警察を呼んだ。

 しかしながら、逮捕された「モサド」のエージェントは、ロンドンの「タイムス」の続報によれば、電話会話の盗聴よりも重要な任務を有していた。何よりも、彼らは、ベルンで、「ヒズボラ」と関連した2人のビジネスマンを除去しなければならなかった。

 当紙は、自分のボスとの軋轢からこれを告白したブリュッセルの「モサド」支局職員から、この情報を記者が入手したと説明した。当インタビューを引用しつつ、「タイムス」は、逮捕されたエージェントの1人が、失敗したハレド・マシャリの暗殺に参加したことも報道した。

 除去されるはずだった者の1人は、南レバノンからの移住者であり、スイスに既に数年間居住している32歳のアブドラ・ゼインであった。「タイムス」の情報によれば、エージェントは、マシャリの除去に関する作戦で使用されたものと同じ毒を使用するつもりだった。

 ブリュッセル支局職員は、「スイス作戦」は元「モサド」長官ダニ・ヤトムが承認したと伝えた。ヨルダンにおける崩壊後、彼は、自分の名声、つまり、椅子を守ろうとした。

 イスラエルの特務機関は、1998年に隣国のレバノンにおいて重大な崩壊に遭った。当時、イスラエル軍諜報部「UNIT-504」職員により1995年に徴募された17人の現地市民が摘発及び逮捕された。

 スパイ情報に関する資料を、彼らは、イスラエル軍諜報部により借りられたアテネの私書箱に送った。エージェント活動への金銭報酬は、非常に高額だった。

 ベイルートの出版物の報道によれば、イスラエルのエージェント網の暴露は、その参加者の1人である、イスラエルにより支配される南レバノンの軍情報将校の「自首」の結果、起こった。彼の名前は、ラジャ・ヴァルドである。それにも関わらず、数人の専門家は、実際には、この将校がレバノン特務機関の二重スパイだったという考えに傾いている。彼らは、同じ「ダブル」の1人が、レバノンの国境近くの町にシーア派組織「アマル」の指導者の1人が隠れているという偽情報を「UNIT-504」に渡した1997年のスキャンダラスな事件との関連を想起した。彼の誘拐のために、イスラエル人は、特殊任務支隊を派遣したが、事前に準備された待ち伏せにおいてほぼ完全に撃滅された。

 レバノンの法令により、イスラエル特務機関のエージェントには、死刑の恐れがある。それと共に、被告の弁護士は、判決が軽減されると予想している。そのような前例は、1997年に存在しており、レバノン軍法会議は、87人から成る別のエージェント・グループの事件を審理し、懲役15年の判決を彼らに言い渡した。

 イスラエル特務機関の崩壊の原因を分析しつつ、多くの専門家は、イスラエルの政府及び情報共同体が、「1973年の自国の特務機関の崩壊から有益な教訓を引き出せなかった」という意見で一致している。当時、獲得された情報に精確な評価を与えるその分析官の無能力が明らかになった。エジプト及びシリアにおける軍事訓練の強化に関する情報が定期的に入ってきていたにも関わらず、「モサド」その他のイスラエル特務機関の指導部は、イスラエルに対する軍事攻撃は不可能であると確信していた。

 その外、諜報部では、イスラエルの安全保障のためには、特務機関が必要とみなす全てのことを行うべきであると確信した職員達が働き続けている。通常、彼らは、世界において形成された状況及び個々の国における諜報活動の条件を考慮することなく、刺激的な作戦実施の許可を受けつつ、政府層における「タカ派」の支持を見出していた。

 専門家の意見によれば、これらの作戦の実行者の無権限の外、その計画立案において重大な誤算が犯された。より具体的には、崩壊の可能性、従って、イスラエルの国家利益にとって否定的な政治的結果を無視していた。しかし、最も重要なのは、特務機関の管理者は、通常、国外エージェント活動の安全及び運命をほとんど心配していないことである・・・。

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