れんだいこの民主党論

 (最新見直し2006.4.7日)

 民主党をどう評するべきか、れんだいこの観点を披瀝しておく。恐らく、ユニークにしてなるほどと思わしめるであろう。この民主党の可能性と限界を複眼的に知ることこそ現代政治に何がしかを志す者の一級課題ではなかろうか。

 2006.4.7日、民主党が結党以来の最強タッグとも云うべき小沢党首ー管幹事長体制執行部を生み出しそうだ。この時、滑稽なことに日本左派運動は評する言葉を失っているかのようだ。言葉を失うということは理論を持たないということである。既成の論法でものいえば責められ、その際に切り返す論法を持たないということである。左派運動の貧困現象を物語っていると云えよう。

 2004.5.15日、2004.67日再編集 れんだいこ拝


れんだいこの「民主党の器量論」 れんだいこ 2004/05/17
 民主党の歴史的意義は、漸くにして「政権取り」を目指す本格的政党が誕生したことにある。この際、それが本質的に見て自民党政治となんら変わらない、むしろ危険だなどと指摘する論の検証は後回しにしたい。議会政治の枠内であるが、いわゆる野党が責任政治を目指そうとしている姿勢そのものが重要である、という観点がほしい。とはいえ、その実態は、米国風二大政党制を手本とする単なる猿真似に過ぎないかも知れない。

 民主党が評価される所以は、「政権取り」を饒舌しているだけではなく、「責任与党政治」を目指していることである。実は、この点こそ社共運動との鮮やかな対比がある。もっとも、現実には、「政権取り」前に「責任与党政治化」するという陥穽を持っている点で、危ないものがあるのは事実である。鳩山党首時代の民主党は、急速度で「与党化」していったのがその証左である。そうなると、民主党が自民党の別働隊的意味しかもたなくなり、「政権取り」の歴史的意義も色褪せてしまうことが避けられない。そういう弱さを抱えているのが民主党の体質でもある。

 しかしながら、「政権取り」を目指すことこそ政治の本質であることを思えば、民主党の「政権取り」運動が批判される謂われは無い、とれんだいこ考える。それは、日本左派運動のあまりにも貧相な口先批判運動に対する反省からもたらされているものであり、一定の進歩を見て取るのが素直であろう。日本左派運動の主役社共運動が万年野党運動に堕して失望を与え続けてきたことを思えば、それはある種の期待を持たせるものである。

 れんだいこは、なぜこのことに拘るのか。それは戦後左派運動の万年野党式批判運動の無責任さを露にしたいからである。一体、物質化を伴わない批判にそれほどの意味があるのだろうか。批判そのものは有益だ。しかし、言葉というものは必ずその言葉の示すものを現実化したがる。その現実化を捨象した批判というものの空疎さについて、日本左派運動は真剣に自己批判せねばならない。先のような民主党批判は、己の宿アの政治対する無責任性のすり替え批判に堕し易い。まずもって、れんだいこはこのことを指摘したい。

 民主党の「責任与党政治」意欲は、いろんな形で現れている。一つは、「マニュフェスト宣言」である。「マニュフェスト」とは「政権青写真」とでも云えるものであり、これなくしては何事も覚束ないことを心得て「マニュフェスト宣言」を磨いていることは好ましいことである。

 ちなみに、日共の不破−志位党中央は公然と「青写真不要論」を唱えており、マルクスの言辞まで捏造的に引き合いに出してそれを合理化しようとしているのは許し難いことである。「青写真不要論的政治運動論」なぞ有り得る訳が無かろうに。それは運動の盲目化であり、唱える者も騙される者も無様な事この上ない。

 試しに左派運動のバイブル「共産主義者の宣言」を開いて見ればよい。「プロレタリアと共産主義者」の章末尾に10項目の提案が為されているではないか。これを読めばすぐさま不破の詭弁が批判されるだろうに、近頃の党員はバイブルさえろくに読んでおらず、首を縦に振る癖しか為しえない脳内革命ならぬピーマン党員にされてしまっている。愚かというより汝哀れなり。

 民主党の「責任与党政治」意欲の第二点は、「ネクスト・キャビネット」に認められる。「ネクスト・キャビネット」が実際にどのように機能しているのか疑わしいが、政権が転がり込んできた時に引き受け可能体制を取っている事が素晴らしい。政党は常にかく態勢を整えていることが望ましいのは論を俟たないであろう。この点で、社共運動がからきし駄目夫ぶりを見せていたのと比較すれば「ネクスト・キャビネット」の意義が分かろう。

 次のことも確認されねばならない。民主党の党的力量は、その機関運営主義に宿されている。機関運営主義は、規約論、組織論、運動論に繋がるものであるが、何を隠そうこの運営振りこそ政党の成熟度を計る物差しである。いわゆる大人と子供の違いということであるが、自民党、民主党こそ大人の政党であり、公明党は学生であり、社共たるや子供の段階のそれでしかない、にも拘わらず、社共系人士に限って小難しくインテリぶる態度が認められるのが可笑しい。

 当然のことながら、民主党の党的力量は、党史編纂能力、党内議論能力にも現れている。この両点で最も進んでいるのが自民党であることが案外知られていない。試しに、自民党の党史論「自民党の歩み」を開いてみればよい。歴代政権の提灯記事的編集になっているきらいはあるものの党史が克明に記されている。党史編纂は、党中央を預かってきたものの当然の政治責任であると思われるが、自民党がこれを為しえていることは当たり前とはいえさすがである。民主党もまた「民主党略年表」を用意しており、この点で自民党の党史論に次ぐものを揃えている。

 蛇足ながら指摘せざるを得ないが、社会党、共産党の党史のお粗末さと比較して見よ。「共産主義者の宣言」には冒頭で、「今や絶妙のその時を迎えている。共産主義者は、政治的なその見解、その目的、見通しを全世界のまえに公表すべきである。そして、共産主義の妖怪談に党自身の宣言を対置すべき時である」からしても、左派運動になると党史論が不要という理屈は通るまいに、今や「その見解、その目的、見通し、党史」を隠す悪知恵に憑りつかれているかのようだ。ほとんどビョウキの世界といえよう。

 以上の諸点こそ民主党の骨格を為すものであり、いわゆる器量と見ることができる。この器に何を盛るのかが問われている訳であるが、盛り付けの貧相さと器の評価とは別にせねばなるまい。別の言い方をすれば、器は役者の舞台ないしは装置であり、盛り付けは役者の演技でもある。世の民主党批判はこの点を識別せず、論じている点で解せないものがある。

 2004.5.16日 れんだいこ拝


【れんだいこの「民主党の党史概要」】
 1996.9.28日、小沢・羽田グループ、公明党、社会党を中核とする新進党とは又別の流れの第三極として、民主党が結成され、「鳩山・管の二人代表制」からスタートした。結党時の民主党の現職国会議員37名であった。

 1996.10.20日、結党直後の第41回衆議院選挙で52名が当選、衆院52名・参院5名の合計57名で野党第2党になる。

 1997.12.31日、新進党が解党し、その一部が民主党に雪崩れ込むことになる。

 1998.4.27日、民主党・民政党・新党友愛・民主改革連合の4党が合流し、「新・民主党」を結成する。衆院93名・参院38名(会派は41名)の総勢131名を擁することになり、 「新・民主党」は野党第一党に躍り出ることになった。民主党統一大会開催(第1回大会)が開かれ、「菅代表・羽田幹事長」の新体制が発足する(「管・羽田新体制」)。この時、自民党を倒し、政権を奪取する使命を負った。以降これが民主党の党是となる。

 1999.9.25日の代表選出大会で、鳩山が菅、横路を破り、代表に就任する。羽田幹事長が再任され、「鳩山・羽田新体制」が発足する。初代党首の菅は政調会長に就任する。

 2000.6.25日、第42回衆議院選挙で127名が当選、改選前の95議席を大きく上回った。衆院・130名・参院58名の総勢188名を擁することになった。

 2000.9.9日の代表選出大会で、鳩山が無投票で再選され、菅直人幹事長を選任し、「鳩山・管新体制」が発足する。羽田は特別代表に就任する。

 2001.7.29日、第19回参議院選挙で26名が当選、非改選含め59名になる。改選前の23議席を上回ったが、党勢に陰りが見えてきた。

 2002.9.23日の代表選出大会で、鳩山、菅、横路、野田の4名が争い、鳩山、菅の決戦投票で鳩山が三選される。鳩山代表は幹事長に中野幹事長を選任し、「鳩山・中野新体制」が発足する。羽田特別代表は留任。しかし、この時の代表戦での鳩山代表の采配に党内不信が生まれた。

 2002.12.13日、鳩山代表が辞任し、後継に菅が就任し、岡田を幹事長に指名し、「管・岡田新体制」が発足する。羽田特別代表は最高顧問に就任する。

 2003.9.24日、小沢自由党が解党し、民主党に合流した。衆院138名、参院69名、その他を含め204名になる。

 2003.11.9日の第43回衆議院選挙で177名が当選、改選前の137議席を大きく上回った。衆院・177名・参院58名の総勢235名を擁することになった。

 2003.12.11日の両院議員総会で、「管・岡田新体制」の再任、羽田最高顧問、小沢代表代行、中井、江田の副代表が決まった。

 2004.5.10日、菅代表が国民年金保険料未払いの責任を取り代表を辞任。後継に小沢代表代行の昇格が決まった。

 2004.5.18日、小沢代表代行の国民年金保険料未払い問題が浮上し、「小泉首相とのさし違い」狙いで突如辞退する。代わりに岡田幹事長の代表昇格が決まる。


【れんだいこの「民主党の政策的不一致論」】
 上記民主党史から判明することは、民主党が数次の党合同ないし吸収を経験しており如何に雑多な寄り合い世帯であるかということである。しかし、これを好評価すれば多士済々ということでもある。経緯順に見れば、「反自民・非新進党」系自民党離党者グループとしての鳩山派、社会党系市民運動グループとしての管派、社会党右派グループ横路派、社民連系の江田派等々の寄り合いから始発している。これを見れば、イデオロギーを振り回さず是々非々路線を目指す市民派政党に党是的基盤を置いていることが分かる。

 その後、新進党解党の余波として新進党の民政党・新党友愛・民主改革連合派が民主党に雪崩れ込むことになる。この時、小沢自由党と袂を分けた羽田派が参入する。

 その後、小沢自由党が解党し、民主党に合流する。小沢派が丸ごと吸収される。


 民主党の政治史的意義はどこにあるのか。最重要な観点は、自民党内の政争と大いに関係してこの党が誕生したことの的確に認識することであろう。以下、これをれんだいこなりに説明する。

 その前に、必要もあって戦後政党史を俯瞰しておく。この場合、社共運動はまったくくだらないという理由により、もうひとつの理由として民主党の出自に関係することにより自民党史を検証しておくことにする。

 1955年、自民党は、自由党と民主党の合同により誕生する。が、この当初より様々な座標を持つ寄り合い世帯であった。そういう雑多グループからなる自民党の党是は、政権党として責任政治を切り盛りすることにあった。ほぼこの一点で右派、市民主義派、左派まで包摂した稀有な党であった。そういう性格を持つ自民党は概ねハト派とタカ派に収斂して行くことになる。

 1970年初頭において俯瞰すれば、党内最大馬力がハト派系の田中派、大平派、これに対抗するタカ派が福田派、中曽根派、この四すくみ状態に中間派として三木派が存在していた。この5派閥にその他少数派閥、独立独歩派を交えて党運営が為されていた。その特質は、理想的な機関運営主義にあった。つまり、派閥は厳に存在し、札束の飛び交う熾烈な権力闘争を展開するが、派閥の長たる者は機関運営主義を無視したことはないという意味で「民主集中制」を発揮していた。

 しかし、最も勢いを持っていたのは田中派であり、60年代半ばから70年代初頭までの長期政権を維持した佐藤首相の後継争いで、田中派は福田派を破る。総裁派閥となった田中派はそのまま行けば自民党を呑み込む勢いを見せつつあった。人的能力(人材)、政策能力、資金源、選挙通、大衆掌握力のどの指標においても田中派の能力は飛びぬけて高かった。勢い「党中党」を形成し始めた。「党中党」とは、田中派だけで他のどの野党よりも大きな党派を結成し、あたかも独立の政党としての器量を備えていたという意味である。

 この状況に対し、日米最高権力体が危機を深め田中派追討の狼煙を上げる。総帥田中角栄を金脈批判で退陣に追い込み、「ロッキード事件」で逮捕し、長期裁判で括り付け、その影響力を殺ぎ始めた。これにより、自民党内のハト派とタカ派の政争は次第にタカ派有利の局面を生み出していった。その原因はいろいろ考えられる。ハト派ザ・bPの田中派が身動きされなくされ、bQの大平派がお公家集団といわれるほどに非戦闘的つまり宥和的であり過ぎたこともその理由である。タカ派の中曽根派が日米最高権力体の強力な支援を受け、次第に頭角を現していったこともその理由である。その他諸々。

 「ロッキード事件」以降ハト派とタカ派が血で血を洗う抗争に突入し、自民党内は荒れに荒れ揺れに揺れる。しかし、1980年、大平系鈴木善幸首相退陣の後を受けて中曽根が首相になるに及びタカ派勝利の座標が確定する。この中曽根首相が、それまで培ってきていた自民党の統治手法並びに党内で共有化されていた「戦後支配体制の構図」を破壊し始める。曰く、憲法改正、曰く、軍事防衛の国際的責務、曰く、教育基本法改正等々。

 話をはしょるが、この状況から自民党内ハト派の面々主として旧田中派のエリート達が党内を飛び出すことになる。旧田中派と云わざるを得ないのは、そこに至るまでに田中派から竹下派が生み出され、その竹下派と袂を分かった元田中派の面々であったからである。このグループの代表が小沢と羽田で、新生党を結成する。この連中が、野党であった社会党、公明党、民社党、その他市民主義派と結束し、宮沢内閣不信任決議を受けて細川政権誕生に漕ぎ着ける。細川政権誕生の本質は、自民党を下野させたことにあった。

 しかしながら、細川政権は難航する。その主たる理由に、社会党の驚くほどの政権担当能力の欠如にあった。かっての社会党系片山内閣時を髣髴とさせる無責任無能力を晒し続けた。もうひとつの理由に日の当たる坂道を登り続けてきた小沢の采配ぶりの強引さが却って嫉妬を買うという双方とも貧困なる政治家器量にあった、と思われる。いずれにせよ、そんなこんなで細川−羽田政権と二代続いた後、再度自民党に権力を渡す。この時、自民党は、社会党委員長を首相に担いで政権取りに向かうという裏技で勝利したことは銘記すべきことである。

 さて、権力を失った新生党は党的求心力を急速に失う。

 しかし、この党にはを自民党とは異なる政治手法での統治を目指す市民主義派として始発したとしいう民主党の歴史的経緯そのものが民主党の何者かを証左しているとする認識であろう。最初期の民主党は、管グループと鳩山グループ

 この経緯から見て、民主党の出自の本流が自民党から派生していることに対するそれとした認識を持つことであろう。しかしそれは否定的な意味においてではない。やや微妙ではあるが、自民党内の本質的政争つまりハト派とタカ派の力学的拮抗がタカ派の一方的勝利に帰着した頃に合わせて、反タカ派的潮流が渦巻き始め、その一角に民主党が誕生したという歴史的経緯そのものが民主党の何者かを証左しているように思われる。
 
 (以下後日)




(私論.私見)