夜明け前第一部上の7、第六章

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


【夜明け前第一部上の7、第六章】
 一
和宮様御降嫁  和宮様御降嫁のことがひとたび知れ渡ると、沿道の人民の間には非常な感動をよび起こした。従来、皇室と将軍家との間に結婚の沙汰のあったのは、前例のないことでもないが、種々な事情から成り立たなかった。それの実現されるようになったのは全く和宮様を初めとするという。おそらくこれは盛典としても未曾有(みぞう)、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。今度の御道筋にあたる宿々村々のものがこの御通行を拝しうるというは非常な光栄に相違なかった。

 木曾谷(だに)、下(しも)四宿の宿役人としては、しかしただそれだけでは済まされなかった。彼らは一度は恐縮し、一度は当惑した。多年の経験が教えるように、この街道の輸送に役立つ御伝馬(おてんま)には限りがある。木曾谷中の人足を寄せ集めたところで、その数はおおよそ知れたものである。それにはどうしても伊那地方の村民を動かして、多数な人馬を用意し、この未曾有の大通行に備えなければならない。木曾街道六十九次の宿場はもはや嘉永年度の宿場ではなかった。年老いた吉左衛門や金兵衛がいつまでも忘れかねているような天保年度のそれではもとよりなかった。いつまで伊那の百姓が道中奉行の言うなりになって、これほど大がかりな人馬の徴集に応ずるかどうかはすこぶる疑問であった。

 馬は四分より一疋(ぴき)出す。人足は五分より一人出す。人馬共に随分丈夫なものを出す。老年、若輩、それから弱馬などは決して出すまい。これは伊那地方の村民総代と木曾谷にある下四宿の宿役人との間に取りかわされた文化年度以来の契約である。馬の四分とか、人足の五分とかは、石高(こくだか)に応じての歩合(ぶあい)をさして言うことであって、村々の人馬はその歩合によって割り当てを命じられて来た。もっともこの歩合は天保年度になって多少改められたが、人馬徴集の大体の方針には変わりがなかった。

 宿駅のことを知るには、このきびしい制度のあったことを知らねばならない。これは宿駅常置の御伝馬以外に、人馬を補充し、継立(つぎた)てを応援するために設けられたものであった。この制度がいわゆる助郷(すけごう)だ。徳川政府の方針としては、宿駅付近の郷村にある百姓はみなこれに応ずる義務があるとしてあった。助郷は天下の公役(こうえき)で、進んでそのお触れ当てに応ずべきお定めのものとされていた。この課役を命ずるために、奉行は時に伊那地方を見分した。そして、助郷を勤めうる村々の石高を合計一万三百十一石六斗ほどに見積もり、それを各村に割り当てた。たとえば最も大きな村は千六十四石、最も小さな村は二十四石というふうに。天龍川のほとりに住む百姓三十一か村、後には六十五か村のものは、こんなふうにして彼らの鍬(くわ)を捨て、彼らの田園を離れ、伊那から木曾への通路にあたる風越山(かざこしやま)の山道を越して、お触れ当てあるごとにこの労役に参加して来た。

 旅行も困難な時代であるとは言いながら、参覲交代の諸大名、公用を帯びた御番衆方(おばんしゅうがた)なぞの当時の通行が、いかに大げさのものであったかを忘れてはならない。徴集の命令のあるごとに、助郷を勤める村民は上下二組に分かれ、上組は木曾の野尻と三留野(みどの)の両宿へ、下組は妻籠と馬籠の両宿へと出、交代に朝勤め夕勤めの義務に服して来た。もし天龍川の出水なぞで川西の村々にさしつかえの生じた時は、総助郷で出動するという堅い取りきめであった。徳川政府がこの伝馬制度を重くみた証拠には、直接にそれを道中奉行所の管理の下に置いたのでもわかる。奉行は各助郷に証人を兼ねるものを出勤させ、また、人馬の公用を保証するためには権威のある印鑑を造って、それを道中宿々にも助郷加宿にも送り、紛らわしいものもあらば押え置いて早速注進せよというほどに苦心した。いかんせん、百姓としては、御通行の多い季節がちょうど農業のいそがしいころにあたる。彼らは従順で、よく忍耐した。中にはそれでも困窮のあまり、山抜け、谷崩(くず)れ、出水なぞの口実にかこつけて、助郷不参の手段を執るような村々をさえ生じて来た。

 そこへ和宮様の御通行があるという。本来なら、これは東海道経由であるべきところだが、それが模様替えになって、木曾街道の方を選ぶことになった。東海道筋はすこぶる物騒で、志士浪人が途(みち)に御東下を阻止するというような計画があると伝えられるからで。この際、奉行としては道中宿々と助郷加宿とに厳達し、どんな無理をしても人馬を調達させ、供奉(ぐぶ)の面々が西から続々殺到する日に備えねばならない。徳川政府の威信の実際に試さるるような日が、とうとうやって来た。
 寿平次は妻籠の本陣にいた。彼はその自宅の方で、伊那の助郷六十五か村の意向を探りに行った扇屋得右衛門の帰りを待ち受けていた。ちょうど、半蔵が妻のお民も、半年ぶりで実家のおばあさんを見るために、馬籠から着いた時だ。彼女はたまの里帰りという顔つきで、母屋(もや)の台所口から広い裏庭づたいに兄のいるところへもちょっと挨拶に来た。「来たね」。寿平次の挨拶は簡単だ。そこは裏山につづいた田舎風な庭の一隅(いちぐう)だ。寿平次は十間ばかりの矢場をそこに設け、粗末ながらに小屋を造りつけて、多忙な中に閑(ひま)を見つけては弓術に余念もない。庄屋らしい袴(はかま)をつけ、片肌ぬぎになって、右の手に※(「革+喋のつくり」、第4水準2-92-7)(ゆがけ)の革の紐を巻きつけた兄をそんなところに見つけるのも、お民としてはめずらしいことだった。お民は持ち前の快活さで、「兄さんも、のんきですね。弓なぞを始めたんですか」。「いくらいそがしいたって、お前、弓ぐらいひかずにいられるかい」。寿平次は妹の見ている前で、一本の矢を弦(つる)に当てがった。おりから雨があがったあとの日をうけて、八寸ばかりの的(まと)は安土(あずち)の方に白く光って見える。「半蔵さんも元気かい」と妹に話しかけながら、彼は的に向かってねらいを定めた。その時、弦を離れた矢は的をはずれたので、彼はもう一本の方を試みたが、二本とも安土の砂の中へ行ってめり込んだ。この寿平次は安土の方へ一手の矢を抜きに行って、また妹のいるところまで引き返して来る時に言った。「お民、馬籠のお父さん(吉左衛門)や、伏見屋の金兵衛さんの退役願いはどうなったい」。「あの話は兄さん、おきき届けになりませんよ」。「ほう。退役きき届けがたしか。いや、そういうこともあろう」。多事な街道のことも思い合わされて、寿平次はうなずいた。「お民、お前も骨休めだ。まあ二、三日、妻籠で寝て行くさ」。「兄さんの言うこと」。

 兄妹(きょうだい)がこんな話をしているところへ、つかつかと庭を回って伊那から帰ったばかりの顔を見せたのは、日ごろ勝手を知った得右衛門である。伊那でも有力な助郷総代を島田村や山村に訪ねるのに、得右衛門はその適任者であるばかりでなく、妻籠脇本陣の主人として、また、年寄役の一人として、寿平次の父が早く亡くなってからは何かにつけて彼の後見役となって来たのもこの得右衛門である。得右衛門の家で造り酒屋をしているのも、馬籠の伏見屋によく似ていた。

 寿平次はお民に目くばせして、そこを避けさせ、母屋の方へ庭を回って行く妹を見送った。小屋の荒い壁には弓をたてかけるところもある。彼は※(「革+喋のつくり」、第4水準2-92-7)(ゆがけ)のを解いて、その隠れた静かな場所に気の置けない得右衛門を迎えた。得右衛門の報告は、寿平次が心配して待っていたとおりだった。伊那助郷が木曾にある下四宿の宿役人を通し、あるいは直接に奉行所にあてて愁訴を企てたのは、その日に始まったことでもない。三十一か村の助郷を六十五か村で分担するようになったのも、実は愁訴の結果であった。ずっと以前の例によると、助郷を勤める村々は五か年を平均して、人足だけでも一か年の石高百石につき、十七人二分三厘三毛ほどに当たる。しかしこれは天保年度のことで、助郷の負担は次第に重くなって来ている。ことに、黒船の渡って来た嘉永年代からは、諸大名公役らが通行もしげく、そのたびに徴集されて嶮岨(けんそ)な木曾路を往復することであるから、自然と人馬も疲れ、病人や死亡者を生じ、継立(つぎた)てにもさしつかえるような村々が出て来た。

 いったい、助郷人足が宿場の勤めは一日であっても、山を越して行くには前の日に村方を出て、その晩に宿場に着き、翌日勤め、継ぎ場の遠いところへ継ぎ送って宿場へ帰ると、どうしてもその晩は村方へ帰りがたい。一日の勤めに前後三日、どうかすると四日を費やし、あまつさえ泊まりの食物の入費も多く、折り返し使わるる途中で小遣銭(こづかいせん)もかかり、その日に取った人馬賃銭はいくらも残らない。ことさら遠い村方ではこの労役に堪えがたく、問屋とも相談の上でお触れ当ての人馬を代銭で差し出すとなると、この夫銭(ぶせん)がまたおびただしい高に上る。村々の痛みは一通りではない。なかなか宿駅常備の御伝馬ぐらいではおびただしい入用に不足するところから、助郷村々では人馬を多く差し出し、その勤めも続かなくなって来た。おまけに、諸色(しょしき)は高く、農業にはおくれ、女や老人任せで田畠(たはた)も荒れるばかり。こんなことで、どうして百姓の立つ瀬があろう。なんとかして村民の立ち行くように、宿方の役人たちにもよく考えて見てもらわないことには、助郷総代としても一同の不平をなだめる言葉がない。今度という今度は、容易に請状(うけじょう)も出しかねるというのが助郷側の言い分である。

 「いや、大(おお)やかまし」と得右衛門は言葉をついだ。「そこをわたしがよく説き聞かせて、なんとかして皆の顔を立てる、お前たちばかりに働かしちゃ置かない。奉行所に願って、助郷を勤める村数を増すことにする。それに尾州藩だってこんな場合に黙って見ちゃいまい。その方からお手当ても出よう。こんな御通行は二度とはあるまいから、と言いましたところが、それじゃ村々のものを集めてよく相談して見ようと先方でも折れて出ましてね、そんな約束でわたしも別れて来ましたよ」。「そいつはお骨折りでした。早速、奉行所あての願書を作ろうじゃありませんか。野尻、三留野、妻籠、馬籠、これだけの庄屋連名で出すことにしましょう。たぶん、半蔵さんもこれに賛成だろうと思います」。「そうなさるがいい。今度わたしも伊那へ行って、つくづくそう思いました。徳川様の御威光というだけでは、百姓も言うことをきかなくなって来ましたよ」。「そりゃ得右衛門さん、おそい。いったい、諸大名の行列はもっと省いてもいいものでしょう。そうすれば、助郷も助かる。参覲交代なぞはもう時世おくれだなんて言う人もありますよ」。こういう庄屋が出て来るんですからねえ」。

 その時、寿平次は「今一手」と言いたげに、小屋の壁にたてかけた弓を取りあげて、弦(つる)に松脂(まつやに)を塗っていた。それを見ると、得右衛門も思い出したように、「伊那の方でもこれが大流行(おおはやり)。武士が刀を質に入れて、庄屋の衆が弓をはじめるか。世の中も変わりましたね」。「得右衛門さんはそう言うけれど、わたしはもっとからだを鍛えることを思いつきましたよ。ごらんなさい、こう乱脈な世の中になって来ては、蛮勇をふるい起こす必要がありますね」。寿平次は胸を張り、両手を高くさし延べながら、的に向かって深く息を吸い入れた。左手(ゆんで)の弓を押す力と、右手(めて)の弦をひき絞る力とで、見る見る血潮は彼の頬に上り、腕の筋肉までが隆起して震えた。背こそ低いが、彼ももはや三十歳のさかりだ。馬籠の半蔵と競い合って、木曾の「山猿」を発揮しようという年ごろだ。そのそばに立っていて、混ぜ返すような声をかけるのは、寿平次から見れば小父(おじ)さんのような得右衛門である。「ポツン」。「そうはいかない」。
 とりあえず寿平次らは願書の草稿を作りにかかった。第一、伊那方面は当分たりとも増助郷(ましすけごう)にして、この急場を救い、あわせて百姓の負担を軽くしたい。次に、御伝馬宿々については今回の御下向(ごげこう)のため人馬の継立(つぎた)方(かた)嵩(かさ)むから、その手当てとして一宿へ金百両ずつを貸し渡されるよう。ただし十か年賦にして返納する。当時米穀も払底で、御伝馬を勤めるものは皆難渋の際であるから、右百両の金子(きんす)で、米、稗(ひえ)、大豆を買い入れ、人馬役のものへ割り渡したい。一か宿、米五十五十駄ずつの御救助を仰ぎたい。願書の主意はこれらのことに尽きていた。下書きはできた。

 やがて、下四宿の宿役人は妻籠本陣に寄り合うことになった。馬籠からは年寄役金兵衛の名代として、養子伊之助が来た。寿平次、得右衛門、得右衛門が養子の実蔵もそれに列席した。「当分の増助郷至極もっともだとは思いますが、これが前例になったらどんなものでしょう」。「さあ、こんな御通行はもう二度とはありますまいからね」。宿役人の間にはいろいろな意見が出た。その時、得右衛門は伊那の助郷総代の意向を伝え、こんな願書を差し出すのもやむを得ないと述べ、前途のことまで心配している場合でないと力説した。「どうです、願書はこれでいいとしようじゃありませんか」と伊之助が言い出して、各庄屋の調印を求めようということになった。
 
 例のように寿平次は弓を手にして、裏庭の矢場に隠れていた。彼の胸には木曾福島の役所から来た回状のことが繰り返されていた。それは和宮(かずのみや)様の御通行に関係はないが、当時諸国にやかましくなった神葬祭(しんそうさい)の一条で、役所からその賛否の問い合わせが来たからで。

 しかし、「うん、神葬祭か」では、寿平次も済まされなかった。早い話が、義理ある兄弟の半蔵は平田門人の一人であり、この神葬祭の一条は平田派の国学者が起こした復古運動の一つであるらしいのだから。「おれは、てっきり国学者の運動とにらんだ。ほんとに、あのお仲間は何をやり出すかわからん」。

 砂を盛り上げ的を置いた安土(あづち)のところと、十間ばかりの距離にある小屋との間を往復しながら、寿平次はひとり考えた。同時代に満足しないということにかけては、寿平次とても半蔵に劣らなかった。しかし人間の信仰と風俗習慣とに密接な関係のある葬祭のことを寺院から取り戻して、それを白紙に改めよとなると、寿平次は腕を組んでしまう。これは水戸の廃仏毀釈に一歩を進めたもので、言わば一種の宗教改革である。古代復帰を夢みる国学者仲間がこれほどの熱情を抱いて来たことすら、彼には実に不思議でならなかった。彼はひとり言って見た。「まあ、神葬祭なぞは疑問だ。復古というようなことが、はたして今の時世に行なわれるものかどうかも疑問だ。どうも平田派のお仲間のする事には、何か矛盾がある」。

 まだ妹のお民が家に逗留(とうりゅう)していたので、寿平次は弓の道具を取りかたづけ、的もはずし、やがてそれをさげながら、自分の妻のお里や妹のいる方へ行って一緒になろうとした。裏庭から母屋の方へ引き返して行くと、店座敷のわきの板の間から、機(はた)を織る筬(おさ)の音が聞こえて来ている。

 寿平次の家も妻籠の御城山(おしろやま)のように古い。土地の言い伝えにも毎月三八の日には村市(むらいち)が立ったという昔の時代から続いて来ている青山の家だ。この家にふさわしいものの一つは、今のおばあさん(寿平次兄妹きょうだいの祖母)が嫁に来る前からあったというほど古めかしく錆(さ)び黒ずんだ機(はた)の道具だ。深い窓に住むほど女らしいとされていたころのことで、お里やお民はその機の置いてあるところに集まって、近づいて来る御通行のおうわさをしたり、十四代将軍(徳川家茂いえもち)の御台所(みだいどころ)として降嫁せらるるという和宮様はどんな美しいかただろうなぞと語り合ったりしているところだった。

 いくらかでも街道の閑(ひま)な時を見て、手仕事を楽しもうとするこの女たちの世界は、寿平次の目にも楽しかった。織り手のお里は機に腰掛けている。お民はそのそばにいて(おな)年齢(どし)嫂(あによめ)がすることを見ている。周囲には、小娘のお粂(くめ)も母親のお民に連れられて馬籠の方から来ていて、手鞠(てまり)の遊びなぞに余念もない。おばあさんはおばあさんで、すこしもじっとしていられないというふうで、あれもこしらえてお民に食わせたい、これも食わせたいと言いながら、何かにつけて孫が里帰りの日を楽しく送らせようとしている。

 その時、お民は兄の方を見て言った。「兄さんは弓にばかり凝ってるッて、おばあさんがコボしていますよ」。「おばあさんじゃないんだろう。お前たちがそんなことを言っているんだろう。おれもどうかしていると見えて、きょうの矢は一本も当たらない。そう言えば、半蔵さんは弓でも始めないかなあ」。「吾夫(うち)じゃ暇さえあれば本を読んだり、お弟子を教えたりしですよ、男のかたもいろいろですねえ。兄さんは私たちの帯の世話までお焼きなさる方でしょう。吾夫と来たら、わたしが何を着ていたって、知りゃしません」。「半蔵さんはそういう人らしい」。

 割合に無口なお里は織りかけた田舎縞(いなかじま)の糸をしらべながら、この兄妹(きょうだい)の話に耳を傾けていた。お民は思い出したように、「どれ、姉さん、わたしにもすこし織らせて。この機を見ると、わたしは娘の時分が恋しくてなりませんよ」。「でも、お民さんはそんなことをしていいんですか」とお里に言われて、お民は思わず顔を紅(あか)らめた。とかく多病で子供のないのをさみしそうにしているお里に比べると、お民の方は肥(ふと)って、若い母親らしい肉づきを見せている。「兄さんには、おわかりでしょう」とお民はまた顔を染めながら言った。「わたしもからだの都合で、またしばらく妻籠へは来られないかもしれません」。「お前たちはいいよ。結婚生活が順調に行ってる証拠だよ。おれのところをごらん、おれが悪いのか、お里が悪いのか、そこはわからないがね、六年にもなってまだ子供がない。おれはお前たちがうらやましい」。そこへおばあさんが来た。おばあさんは木曾の山の中にめずらしい横浜土産(みやげ)を置いて行った人があると言って、それをお民のいるところへ取り出して来て見せた。「これだよ。これはお洗濯する時に使うものだそうなが、使い方はこれをくれた人にもよくわからない。あんまり美しいものだから横浜の異人屋敷から買って来たと言って、飯田の商人が土産に置いて行ったよ」。

 石鹸(せっけん)という言葉もまだなかったほどの時だ。くれる飯田の商人も、もらう妻籠のおばあさんも、シャボンという名さえ知らなかった。おばあさんが紙の包みをあけて見せたものは、異国の花の形にできていて、薄桃色と白とある。「御覧、よい香気(におい)だこと」とおばあさんに言われて、お民は目を細くしたが、第一その香気に驚かされた。「お粂、お前もかいでごらん」。お民がその白い方を女の子の鼻の先へ持って行くと、お粂はそれを奪い取るようにして、いきなり自分の口のところへ持って行こうとした。「これは食べるものじゃないよ」とお民はあわてて、娘の手を放させた。「まあ、この子は、お菓子と間違えてさ」。

 新しい異国の香気は、そこにいるだれよりも寿平次の心を誘った。めずらしい花の形、横に浮き出している精巧なローマ文字――それはよく江戸土産にもらう錦絵(にしきえ)や雪駄(せった)なぞの純日本のものにない美しさだ。実に偶然なことから、寿平次は西洋ぎらいでもなくなった。古銭を蒐集(しゅうしゅう)することの好きな彼は、異国の銀貨を手に入れて、人知れずそれを愛翫(あいがん)するうちに、そんな古銭にまじる銀貨から西洋というものを想像するようになった。しかし彼はその事をだれにも隠している。「これはどうして使うものだろうねえ」とおばあさんはまたお民に言って見せた。「なんでも水に溶かすという話を聞いたから、わたしは一つ煮て見ましたよ。これが、お前、ぐるぐる鍋の中で回って、そのうちに溶けてしまったよ。棒でかき回して見たら、すっかり泡になってさ。なんだかわたしは気味が悪くなって、鍋ぐるみ土の中へ埋めさせましたよ。ひょっとすると、これはお洗濯するものじゃないかもしれないね」。「でも、わたしは初めてこんなものを見ました。おばあさんに一つ分けていただいて、馬籠の方へも持って行って見せましょう」とお民が言う。「そいつは、よした方がいい」。寿平次は兄らしい調子で妹を押しとどめた。

 文久元年の六月を迎えるころで、さかんな排外熱は全国の人の心を煽り立てるばかりであった。その年の五月には水戸藩浪士らによって、江戸高輪東禅寺(たかなわとうぜんじ)にあるイギリス公使館の襲撃さえ行なわれたとの報知(しらせ)もある。その時、水戸側で三人は闘死し、一人は縛に就(つ)き、三人は品川で自刃(じじん)したという。東禅寺の衛兵で死傷するものが十四人もあり、一人の書記と長崎領事とは傷ついたともいう。これほど攘夷の声も険しくなって来ている。どうして飯田の商人がくれた横浜土産の一つでも、うっかり家の外へは持ち出せなかった。

 お民が馬籠をさして帰って行く日には、寿平次も半蔵の父に用事があると言って、妹を送りながら一緒に行くことになった。彼には伊那助郷の願書の件で、吉左衛門の調印を求める必要があった。野尻、三留野はすでに調印を終わり、残るところは馬籠の庄屋のみとなったからで。

 ちょうど馬籠の本陣からは、下男の佐吉がお民を迎えに来た。佐吉はお粂を背中にのせ、後ろ手に幼いものを守るようにして、足の弱い女の子は自分が引き受けたという顔つきだ。お民もしたくができた。そこで出かけた。「寿平次さま、横須賀行きを思い出すなし」。足掛け四年前の旅は、佐吉にも忘れられなかったのだ。寿平次が村のあるところは、大河の流れに近く、静母(しずも)、蘭(あららぎ)の森林地帯に倚(よ)り、木曾の山中でも最も美しい谷の一つである。馬籠の方へ行くにはこの谷の入り口を後ろに見て、街道に沿いながら二里ばかりの峠を上る。めったに家を離れることのないお民が、兄と共に踏んで行くことを楽しみにするも、この山道だ。街道の両側は夏の日の林で、その奥は山また山だ。木曾山一帯を支配する尾張藩の役人が森林保護の目的で、禁止林の盗伐を監視する白木(しらき)の番所も、妻籠と馬籠の間に隠れている。

 午後の涼しい片影ができるころに、寿平次らは復興最中の馬籠にはいった。どっちを向いても火災後の宿場らしく、新築の工事は行く先に始まりかけている。そこに積み重ねた材木がある。ここに木を挽(ひ)く音が聞こえる。寿平次らは本陣の焼け跡まで行って、そこに働いている吉左衛門と半蔵とを見つけた。小屋掛けをした普請場の木の香の中に。

 半蔵は寿平次に伴われて来た妻子をよろこび迎えた。会所の新築ができ上がったことをも寿平次に告げて、本陣の焼け跡の一隅(いちぐう)に、以前と同じ街道に添うた位置に建てられた瓦葺の家をさして見せた。会所ととなえる宿役人の詰め所、それに問屋場(といやば)なぞの新しい建物は、何よりもまずこの宿場になくてならないものだった。寿平次は半蔵の前に立って、あたりを見回しながら言った。「よくそれでもこれだけに工事のしたくができたと思う」。「みんな一生懸命になりましたからね。ここまでこぎつけたのも、そのおかげだと思いますね」。

 吉左衛門はこの二人の話を引き取って、「三年のうちに二度も大火が来てごらん、たいていの村はまいってしまう。まあ、吾家でも先月の三日に建前(たてまえ)の手斧(ちょうな)始めをしたが、これで石場搗(いしばづ)きのできるのは二百十日あたりになろう。和宮さまの御通行までには間に合いそうもない」。

 その時、寿平次が助郷願書の件で調印を求めに来たことを告げると、半蔵は「まあ、そこへ腰掛けるさ」と言って、自分でも普請場の材木に腰掛ける。お民はそのそばを通り過ぎて、裏の立ち退(の)き場所にいる姑(しゅうとめ)のお万の方へと急いだ。「寿平次さん、君はよいことをしてくれた。助郷のことは隣の伊之助さんからも聞きましたよ。阿爺(おやじ)はもとより賛成です」と半蔵が言う。「さあ、これから先、助郷もどうなろう」と吉左衛門も案じ顔に、「これが大問題だぞ。先月の二十二日、大坂のお目付がお下りという時には、伊那の助郷が二百人出た。例幣使(日光への定例の勅使)の時のことを考えてごらん。あれは四月の六日だ。四百人も人足を出せと言われるのに、伊那からはだれも出て来ない」。「結局、助郷というものは今のままじゃ無理でしょう」と半蔵は言う。「宿場さえ繁昌(はんじょう)すればいいなんて、そんなはずのものじゃないでしょう。なんとかして街道付近の百姓が成り立つようにも考えてやらなけりゃうそですね」。「そりゃ馬籠じゃできるだけその方針でやって来たがね。結局、東海道あたりと同じように、定助郷(じょうすけごう)にでもするんだが、こいつがまた容易じゃあるまいて」と吉左衛門が言って見せる。

 「いったい、」と寿平次もその話を引き取って、「二百人の、四百人のッて、そう多勢の人足を通行のたびに出せと言うのが無理ですよ」。「ですから、諸大名や公役の通行をもっと簡略にするんですね」と半蔵が言葉をはさんだ。「だんだんこういう時世になって来た」と吉左衛門は感じ深そうに言った。「おれの思うには、参覲交代ということも今にどうかなるだろうよ。こう御通行が頻繁(ひんぱん)にあるようになっちゃ、第一そうは諸藩の財政が許すまい」。しかし、その結果は。六十三年の年功を積んだ庄屋吉左衛門にも、それから先のことはなんとも言えなかった。その時、吉左衛門は普請場の仕事にすこし疲れが出たというふうで、「まあ、寿平次さん、調印もしましょうし、お話も聞きましょうに、裏の二階へ来てください。おまんにもあってやってください」と言って誘った。

 隠れたところに働く家族のさまが、この普請場の奥にひらけていた。味噌納屋(なや)の前には襷(たすき)がけ手ぬぐいかぶりで、下女たちを相手に、見た目もすずしそうな新茄子(しんなす)を漬けるおまんがいる。そのそばには二番目の宗太を抱いてやるお民がいる。おまんが漬け物桶(おけ)の板の上で、茄子の蔕(へた)を切って与えると、孫のお粂は早速それを両足の親指のところにはさんで、茄子の蔕を馬にして歩き戯れる。裏の木小屋の方からは、梅の実の色づいたのをもいで来て、それをお粂や宗太に分けてくれる佐吉もいる。
 「お父さん、あなたの退役願いはまだおきき届けにならないそうですね」。「そうさ。退役きき届けがたしさ」。寿平次は吉左衛門のことを「お父さん」と呼んでいる。その日の夕飯後のことで、一緒に食事した半蔵はちょっと会所の方へ行って来ると言って、父のそばにいなかった時だ。「寿平次さん、」と吉左衛門は笑いながら言った。「吾家(うち)へはその事でわざわざ公役が見えましてね、金兵衛さんと私を前に置いて、いろいろお話がありました。二人とも、せめてもう二、三年は勤めて、役を精出せ、そう言われて、願書をお下げになりました。金兵衛さんなぞは、ありがたく畏(おそ)れ奉って、引き下がって来たなんて、あとでその話が出ましたっけ」。

 そこは味噌納屋の二階だ。大火以来、吉左衛門夫婦が孫を連れて仮住居(かりずまい)しているところだ。寿平次はその遠慮から、夕飯の馳走になった礼を述べ、同じ焼け出された仲間でも上の伏見屋というもののある金兵衛の仮宅の方へ行って泊めてもらおうとした。「どうもまだわたしも、お年貢の納め時(どき)が来ないと見えますよ」と言いながら、吉左衛門は梯子段の下まで寿平次を送りに降りた。夕方の空に光を放つ星のすがたを見つけて、それを何かの暗示に結びつけるように、寿平次にさして見せた。「箒星(ほうきぼし)ですよ。午年(うまどし)に北の方へ出たのも、あのとおりでしたよ。どうも年回りがよくないと見える」。この吉左衛門の言葉を聞き捨てて、寿平次は味噌納屋の前から同じ屋敷つづきの暗い石段を上った。月はまだ出なかったが、星があって涼しい。例の新築された会所のそばを通り過ぎようとすると、表には板庇(いたひさし)があって、入り口の障子も明いている。寿平次は足をとめて、思わずハッとした。「どうも半蔵さんばかりじゃなく、伊之助さんまでが賛成だとは意外だ」。「でも結果から見て悪いと知ったことは、改めるのが至当ですよ」。

 こんな声が手に取るように聞こえる。宿役人の詰め所には人が集まると見えて、灯(ひ)がもれている。何かがそこで言い争われている。「そんなことで、先祖以来の祭り事を改めるという理由にはなりませんよ」。「しかし、人の心を改めるには、どうしてもその源(みなもと)から改めてかからんことにはだめだと思いますね」。「それは理屈だ」。「そんなら、六十九人もの破戒僧が珠数(じゅず)つなぎにされて、江戸の吉原や、深川や、品川新宿のようなところへ出入(ではいり)りするというかどで、あの日本橋で面(かお)を晒(さら)された上に、一か寺の住職は島流しになるし、所化(しょけ)の坊主は寺法によって罰せられたというのは」。

 神葬祭の一条に関する賛否の意見がそこに戦わされているのだ。賛成者は半蔵や伊之助のような若手で、不賛成を唱えるのは馬籠の問屋九太夫らしい。「お寺とさえ言えば、むやみとありがたいところのように思って、昔からたくさんな土地を寄付したり、先祖の位牌を任せたり、宗門帳まで預けたりして、その結果はすこしも措(お)いて問わないんです」とは半蔵の声だ。「これは聞きものだ」。九太夫の声で。半蔵の意見にも相応の理由はある。彼に言わせると、あの聖徳太子が仏教をさかんに弘(ひろ)めたもうてからは、代々の帝(みかど)がみな法師を尊信し、大寺(だいじ)大伽藍を建てさせ、天下の財用を尽くして御信心が篤(あつ)かったが、しかし法師の方でその本分を尽くしてこれほどの国家の厚意に報いたとは見えない。あまつさえ、後には山法師などという手合いが日吉(ひえ)七社の神輿(みこし)をかつぎ出して京都の市中を騒がし、あるいは大寺と大寺とが戦争して人を殺したり火を放ったりしたことは数え切れないほどある。

 平安期以来の皇族公卿たちは多く仏門に帰依せられ出(しゅつ)世間の道を願われ、ただただこの世を悲しまれるばかりであったから、救いのない人の心は次第に皇室を離れて、ことごとく武士の威力の前に屈服するようになった。今はこの国に仏寺も多く、御朱印といい諸大名の寄付といって、寺領となっている土地も広大なものだ。そこに住む出家、比丘尼(びくに)、だいこく、所化(しょけ)、男色の美少年、その他青侍(あおざむらい)にいたるまで、田畑を耕すこともなくて上白(じょうはく)の飯を食い、糸を採り機を織ることもなくてよい衣裳を着る。諸国の百姓がどんなに困窮しても、寺納を減らして貧民を救おうと思う和尚はない。凶年なぞには別して多く米銭を集めて寺を富まそうとする。百姓に餓死するものはあっても、餓死した僧のあったと聞いたためしはない。長い習慣はおそろしいもので、全国を通じたら何百万からのそれらの人たちが寺院に遊食していても、あたりまえのことのように思われて来た。これはあまりに多くを許し過ぎた結果である。そこで、祭葬のことを寺院から取り戻して、古式に復したら、もっとみんなの目もさめようと言うのである。

 「今日(こんにち)ほど宗教の濁ってしまった時代もめずらしい」とまた半蔵の声で、「まあ、諸国の神宮寺なぞをのぞいてごらんなさい。本地垂跡(ひんじすいじゃく)なぞということが唱えられてから、この国の神は大日如来や阿弥陀如来の化身(けしん)だとされていますよ。神仏はこんなに混淆されてしまった」。「あなたがたはまだ若いな」と九太夫の声が言う。「そりゃ権現さまもあり、妙見さまもあり、金毘羅さまもある。神さまだか、仏さまだかわからないようなところは、いくらだってある。あらたかでありさえすれば、それでいいじゃありませんか」。「ところが、わたしどもはそうは思わないんです。これが末世(まっせ)の証拠だと思うんです。金胎(こんたい)両部なぞの教えになると、実際ひどい。仏の力にすがることによって、はじめてこの国の神も救われると説くじゃありませんか。あれは実に神の冒涜(ぼうとく)というものです。

 どうしてみんなは、こう平気でいられるのか。話はすこし違いますが、嘉永六年に異国の船が初めて押し寄せて来た時は、わたしの二十三の歳でした。しかしあれを初めての黒船と思ったのは間違いでした。考えて見ると遠い昔から何艘の黒船がこの国に着いたかしれない。まあ、わたしどもに言わせると、伝教(でんぎょう)でも、空海でも――みんな、黒船ですよ」。「どうも本陣の跡継ぎともあろうものが、こういう議論をする。そんなら、わたしは上の伏見屋へ行って聞いて見る。金兵衛さんはわたしの味方だ。お寺の世話をよくして来たのも、あの人だ。よろしいか、これだけのことは忘れないでくださいよ――馬籠の万福寺は、あなたの家の御先祖の青山道斎が建立したものですよ」。

 この九太夫は、平素自分から、「馬籠の九太夫、贄川(にえがわ)の権太夫(ごんだゆう)」と言って、太夫を名のるものは木曾十一宿に二人しかないというほどの太夫自慢だ。それに本来なら、吉左衛門の家が今度の和宮様のお小休み所にあてられるところだが、それが普請中とあって、問屋分担の九太夫の家に振り向けられたというだけでも鼻息が荒い。思わず寿平次は半蔵の声を聞いて、神葬祭の一条が平田篤胤没後の諸門人から出た改革意見であることを知った。彼は会所の周囲を往(い)ったり来たりして、そこを立ち去りかねていた。
 その晩、お民は裏の土蔵の方で、夫の帰りを待っていた。山家にはめずらしく蒸し暑い晩で、両親が寝泊まりする味噌納屋の二階の方でもまだ雨戸が明いていた。「あなた、大変おそかったじゃありませんか」と言いながら、お民は会所の方からぶらりと戻って来た夫を土蔵の入り口のところに迎えた。火災後の仮住居(かりずまい)で、二人ある子供のうち姉のお粂は納屋の二階の方へ寝に行き、弟の宗太だけがそこによく眠っている。子供の枕もとには昔風な行燈(あんどん)なぞも置いてある。お民は用意して待っていた山家風なネブ茶に湯をついだ。それを夫にすすめた。

 その時、半蔵は子供の寝顔をちょっとのぞきに行ったあとで、熱いネブ茶に咽喉(のど)をうるおしながら言った。「なに、神葬祭のことで、すこしばかり九太夫さんとやり合った。壁をたたくものは手が痛いぐらいはおれも承知してるが、あんまり九太夫さんがわからないから。あの人は大変な立腹で、福島へ出張して申し開きをするなんて、そう言って、金兵衛さんのところへ出かけて行ったよ。でも、伊之助さんがそばにいて、おれの加勢をしてくれたのは、ありがたかった。あの人は頼もしいぞ」。

 一年のうちの最も短い夜はふけやすいころだった。お民の懐妊はまだ目だつほどでもなかったが、それでもからだをだるそうにして、夫より先に宗太のそばへ横になりに行った。妻にも知らせまいとするその晩の半蔵が興奮は容易に去らない。彼は土蔵の入り口に近くいて、石段の前の柿の木から通って来る夜風を楽しみながらひとり起きていた。そのうちに、お民も眠りがたいかして、寝衣(ねまき)のままでまた夫のそばへ来た。

 「お民、お前はもっとからだをだいじにしなくてもいいのかい」。「妻籠でもそんなことを言われて来ましたっけ」。「そう言えば、妻籠ではどんな話が出たね」。「馬籠のお父さんと半蔵さんとは、よい親子ですって」。「そうかなあ」。「兄さんも、わたしも、親には早く別れましたからね」。「何かい。神葬祭の話は出なかったかい」。「わたしは何も聞きません。兄さんがこんなことは言っていましたよ――半蔵さんも夢の多い人ですって」。「へえ、おれは自分じゃ、夢がすくなさ過ぎると思うんだが――夢のない人の生涯ほど味気(あじき)ないものはない、とおれは思うんだが河合悠祐(43)」。「ねえ、あなたが中津川の香蔵さんと話すのをそばで聞いていますと、吾家(うち)の兄さんと話すのとは違いますねえ」。「そりゃ、お前、香蔵さんとおれとは同じだもの。そこへ行くと寿平次さんの方は、おれの内部(なか)にいろいろなものを見つけてくれる。おれはお前の兄さんの顔を見ていると、何か言って見たくなるよ」。「あなたは兄さんがきらいですか」。「どうしてお前はそんなことを言うんだい。寿平次さんとおれとは、同じように古い青山の家に生まれて来た人間さ。立場は違うかもしれないが、やっぱり兄弟は兄弟だよ」。

 半蔵はお民のからだを心配して床につかせ、自分でも休もうとして、いったんは妻子のそばに横になって見た。眠りがたいままに、また起き出して入り口の戸をあけて見ると、東南の方角にあたる暗い空は下の方から黄ばんだ色にすこしずつ明るくなって来て、深夜の感じを与える。

 遠い先祖代々の位牌、青山家の古い墓地、それらのものを預けてある馬籠の寺のことから、そこに黙って働いている松雲和尚のことがしきりに半蔵には問題の人になって来た。彼はあの万福寺の新住職として松雲を村はずれの新茶屋に迎えた日のことを思い出した。あれは雨のふる日で、六年の長い月日を行脚(あんぎゃ)の旅に送って来た松雲が笠も草鞋もぬれながら、西からあの峠に着いた時であったことを思い出した。あのころは彼もまだ若かったが、すでに平田派の国学にこころざしていて、中世以来学問道徳の権威としてこの国に臨んで来た漢学(からまな)び風(ふう)の因習からも、仏の道で教えるような物の見方からも離れよということを深く心に銘ずるころであったから、新たに迎える住職のことを想像し、その住職の尊信する宗教のことを想像し、その人にも、その人の信仰にも、行く行くは反対を見いだすかもしれないような、ある予感に打たれずにはいられなかったことを思い出した。とうとう、その日がやって来たのだ。もっとも、廃仏を意味する神葬祭の一条は福島の役所からの諮問案で、各村の意見を求める程度にまでしか進んでいなかったが。

 いつのまにか暗い空が夏の夜の感じに澄んで来た。青白い静かな光は土蔵の前の冷たい石段の上にまでさし入って来た。ひとり起きている彼の膝(ひざ)の上まで照らすようになった。次第に、月も上った。

 八百千年(やおちとせ)ありこしことも諸人(もろびと)の悪(あ)しとし知らば改めてまし
 まがごととみそなはせなば事ごとに直毘(なおび)の御神(みかみ)直したびてな
 眼(め)のまへに始むることもよくしあらば[「よくしあらば」は底本では「よくあらば」]惑ふことなくなすべかりけり

 正道に入り立つ徒(とも)よおほかたのほまれそしりはものならなくに半蔵の述懐だ。
 
 旧暦九月も末になって、馬籠峠へは小鳥の来るころになった。もはや和宮様お迎えの同勢が関東から京都の方へ向けて、毎日のようにこの街道を通る。そうなると、定例の人足だけでは継立(つぎた)ても行き届かない。道中奉行所の小笠原美濃守は公役としてすでに宿々の見分に来た。十月にはいってからは、御通行準備のために奔走する人たちが一層半蔵の目につくようになった。尾州方(びしゅうかた)の役人は美濃路から急いで来る。上松(あげまつ)の庄屋は中津川へ行く。早駕籠で、夜中に馬籠へ着くものすらある。尾州の領分からは、千人もの人足が隣宿美濃落合のお継(つ)所(しょ)(継立ての場所)へ詰めることになって、ひどい吹き降(ぶ)りの中を人馬共にあの峠の下へ着いたとの報知(しらせ)もある。「半蔵、どうも人足や馬が足りそうもない。おれはこれから中津川へ打ち合わせに行って、それから京都まで出かけて行って来るよ」。「おさん、大丈夫ですかね」。親子はこんな言葉をかわした。道中奉行所から渡された御印書によって、越後越中の方面からも六十六万石の高に相当する人足がこの御通行筋へ加勢に来ることになったが、よく調べて見ると、それでも足りそうもないと言う父の話は半蔵を驚かした。

 「美濃の方じゃ、お前、
伊勢路からも人足を許されて、もう触れ当てに出かけたものもあるというよ。美濃の鵜沼宿(うぬましゅく)から信州本山(もとやま)まで、どうしても人足は通しにするよりほかに方法がない。おれは京都まで御奉行様のあとを追って行って、それをお願いして来る。おれも今度は最後の御奉公のつもりだよ」。この年老いた父の奮発が、半蔵にはひどく案じられてならなかった。そうかと言って、彼が父に代わられる場合でもない。街道には街道で、彼を待っている仕事も多かった。その時、継母のおまんも父のそばに来て、「あなたも御苦労さまです。ほんとに、万事大騒動になりましたよ」と案じ顔に言っていた。吉左衛門はなかなかの元気だった。六十三歳の老体とは言いながら、いざと言えばそばにいるものがびっくりするような大きな声で、「オイ、駕籠だ」と人を呼ぶほどの気力を見せた。

 宮様お迎え御同勢の通行で、にぎわしい街道の混雑はもはや九日あまりも続いた。伊那の百姓は自分らの要求がいれられたという顔つきで、二十五人ほどずつ一組になって、すでに馬籠へも働きに入り込んで来た。やかましい増助郷(ましすけごう)の問題のあとだけに朝勤め夕勤めの人たちを街道に迎えることは半蔵にも感じの深いものがあった。どうして、この多数の応援があってさえ、続々関東からやって来る御同勢の継立てに充分だとは言えなかったくらいだ。馬籠峠から先は落合に詰めている尾州の人足が出て、お荷物の持ち運びその他に働くというほどの騒ぎだ。時には、半蔵はこの混雑の中に立って、怪我人(けがにん)を載せた四挺(ちょう)の駕籠が三留野の方から動いて来るのを目撃した。宮様のお泊まりにあてられるという三留野の普請所では、小屋がつぶれて、けがをした尾張の大工たちが帰国するところであるという。その時になると、神葬祭の一条も、何もかも、この街道の空気の中に埋(うず)め去られたようになった。和宮様御下向(ごげこう)のうわさがあるのみだった。

 宮様は親子(ちかこ)内親王という。京都にある帝とは異腹(はらちがい)の御兄妹(ごきょうだい)である。先帝第八の皇女であらせらるるくらいだから、御姉妹も多かった。それがだんだん亡くなられて、御妹としては宮様ばかりになったから、帝の御いつくしみも深かったわけである。宮様は幼いころから有栖川(ありすがわ)家と御婚約の間柄であったが、それが徳川将軍に降嫁せらるるようになったのも、まったく幕府の懇望にもとづく。

 もともと公武合体の意見は、当時の老中安藤対馬なぞのはじめて唱え出したことでもない。天璋院(てんしょういん)といえば、当時すでに未亡人であるが、その人を先の将軍の御(み)台所として徳川家に送った薩摩の島津氏などもつとに公武合体の意見を抱いていて、幕府有司の中にも、諸藩の大名の中にもこの説に共鳴するものが多かった。言わば、国事の多端で艱難(かんなん)な時にあらわれて来た協調の精神である。幕府の老中らは宮様の御降嫁をもって協調の実を挙(あ)ぐるに最も適当な方法であるとし、京都所司代の手を経(へ)、関白を通して、それを叡聞(えいぶん)に達したところ、帝にはすでに有栖川家と御婚約のある宮様のことを思い、かつはとかく騒がしい江戸の空へ年若な女子を遣(つか)わすのは気づかわれると仰せられて、お許しがなかった。

 この御結婚には宮様も御不承知であった。ところが京都方にも、公武合体の意見を抱いた岩倉具視(ともみ)、久我建通(たてみち)、千種有文(ちぐさありぶみ)、富小路敬直(とみのこうじひろなお)なぞの有力な人たちがあって、この人たちが堀河の典侍(てんじ)を動かした。堀河の典侍は帝の寵妃(ちょうひ)であるから、この人の奏聞(そうもん)には帝も御耳を傾けられた。宮様には固く辞して応ずる気色(かしき)もなかったが、だんだん御乳の人絵島の言葉を聞いて、ようやく納得せらるるようになった。年若な宮様は健気(けなげ)にも思い直し、自ら進んで激しい婦人の運命に当たろうとせられたのである。

 この宮様は婿君(むこぎみ)(十四代将軍、徳川家茂いえもち)への引き出物として、容易ならぬ土産を持参せらるることになった。「蛮夷(ばんい)を防ぐことを堅く約束せよ」との聖旨がそれだ。幕府としては、今日は兵力を動かすべき時機ではないが、今後七、八年ないし十年の後を期し、武備の充実する日を待って、条約を引き戻すか、征伐するか、いずれかを選んで叡慮を安んずるであろうという意味のことが、あらかじめ奉答してあった。

 しかし、このまれな御結婚には多くの反対者を生じた。それらの人たちによると、幕府に攘夷の意志のあろうとは思われない。その意志がなくて蛮夷の防禦を誓い、国内人心の一致を説くのは、これ人を欺き自らをも欺くものだというのである。宮様の御降嫁は、公武の結婚というよりも、むしろ幕府が政略のためにする結婚だというのである。幕府が公武合体の態度を示すために、帝に供御(くご)の資を献じ、親王や公卿に贈金したことも、かえって反対者の心を刺激した。「欺瞞だ。欺瞞だ」。この声は、どんな形になって、どんなところに飛び出すかもしれなかった。西は大津から東は板橋まで、宮様の前後を警衛するもの十二藩、道中筋の道固めをするもの二十九藩――こんな大げさな警衛の網が張られることになった。美濃の鵜飼(うがい)から信州本山(もとやま)までの間は尾州藩、本山から下諏訪までの間は松平丹波守、下諏訪から和田までの間は諏訪因幡守の道固めというふうに。

 十月の十日ごろには、尾州の竹腰山城守が江戸表から出発して来て、本山宿の方面から順に木曾路の道橋を見分し、御旅館やお小休み所にあてらるべき各本陣を見分した。ちょうど馬籠では、吉左衛門も京都の方へ出かけた留守の時で、半蔵が父に代わってこの一行を迎えた。半蔵は年寄役金兵衛の付き添いで、問屋九太夫の家に一行を案内した。峠へはもう十月らしい小雨が来る。私事ながら半蔵は九太夫と言い争った会所の晩のことを思い出し、父が名代の勤めもつらいことを知った。「伊之助さん、お継立ての御用米が尾州から四十八俵届きました。これは君のお父さん(金兵衛)に預かっていただきたい」。半蔵が隣家の伊之助と共に街道に出て奔走するころには、かねて待ち受けていた御用の送り荷が順に到着するようになった。この送り荷は尾州藩の扱いで、奥筋のお泊まり宿へ送りつけるもの、その他諸色(しょしき)がたくさんな数に上った。日によっては三留野泊まりの人足九百人、ほかに妻籠泊まりの人足八百人が、これらの荷物について西からやって来た。「寿平次さんも、妻籠の方で目を回しているだろうなあ」。それを思う半蔵は、一方に美濃中津川の方で働いている友人の香蔵を思い、この際京都から帰って来ている景蔵を思い、その話をよく伊之助にした。

 馬籠では峠村の女馬まで狩り出して、毎日のようにやって来る送り荷の継立てをした。峠村の利三郎は牛行司(うしぎょうじ)ではあるが、こういう時の周旋にはなくてならない人だった。世話好きな金兵衛はもとより、問屋の九太夫、年寄役の儀助、同役の新七、同じく与次衛門、それらの長老たちから、百姓総代の組頭庄兵衛まで、ほとんど村じゅう総がかりで事に当たった。その時になって見ると、金兵衛の養子伊之助といい、九太夫の子息(むすこ)九郎兵衛といい、庄兵衛の子息庄助といい、実際に働けるものはもはや若手の方に多かった。

 十月の二十日は宮様が御東下の途に就(つ)かれるという日である。まだ吉左衛門は村へ帰って来ない。半蔵は家のものと一緒に父のことを案じ暮らした。もはや御一行が江州(ごうしゅう)草津まで動いたという二十二日の明け方になって、吉左衛門は夜通し早駕籠を急がせて来た。京都から名古屋へ回って来たという父が途中の見聞を語るだけでも、半蔵には多くの人の動きを想像するに充分だった。宮様御出発の日には、帝にもお忍びで桂の御所を出て、宮様の御旅装を御覧になったという。「時に、送り荷はどうなった」という父の無事な顔をながめて、半蔵は尾州から来る荷物の莫大(ばくだい)なことを告げた。それがすでに十一日もこの街道に続いていることを告げた。木曾の王滝、西野、末川の辺鄙(へんぴ)な村々、向(むか)い郡の附知村(つけちむら)あたりからも人足を繰り上げて、継立ての困難をしのいでいることを告げた。

 道路の改築もその翌日から始まった。半蔵が家の表も二尺通り石垣を引っ込め、石垣を取り直せとの見分役(けんぶんやく)からの達しがあった。道路は二間にして、道幅はすべて二間見通しということに改められた。石垣は家ごとに取り崩された。この混雑のあとには、御通行当日の大釜の用意とか、膳飯(ぜんぱん)の準備とかが続いた。半蔵の家でも普請中で取り込んでいるが、それでも相応なしたくを引き受け、上の伏見屋なぞでは百人前の膳飯を引き受けた。やがて道中奉行が中津川泊まりで、美濃の方面から下って来た。一切の準備は整ったかと尋ね顔な奉行の視察は、次第に御一行の近づいたことを思わせる。順路の日割によると、二十七日、鵜沼宿御昼食、太田宿お泊まりとある。馬籠へは行列拝見の客が山口村からも飯田方面からも入り込んで来て、いずれも宮様の御一行を待ち受けた。

 そこへ先駆だ。二十日に京都を出発して来た先駆の人々は、八日目にはもう落合宿から美濃境の十曲峠(じっきょくとうげ)を越して、馬籠峠の上に着いた。随行する人々の中には、万福寺に足を休めて行くものが百二十人もある。先駆の通行は五つ半時であった。奥筋へ行く千人あまりの尾州の人足がそのあとに続いて、群衆の中を通った。それを見ると、伊那から来ている助郷の中には腕をさすって、ぜひともお輿(こし)をかつぎたいというものが出て来る。大変な御人気だ。半蔵は父と同じように、麻の※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)(かみしも)をつけ、袴(はかま)の股立(ももだ)ちを取って、親子してその間を奔走した。「姫君さまのお輿(こし)なら、おれも一肩(ひとかた)入れさせてもらいたいな」。これも篤志家の一人の声だった。
 
 翌日は中津川お泊まりの日取りである。その日は雨になって、夜中からひどく降り出した。しかしその大雨の中でも、もはや道固めの尾州の家中が続々馬籠へ繰り込んで来るようになったので、吉左衛門も半蔵も全く一晩じゅう眠らなかった。いよいよ馬籠御通行という日が来た。本陣の仮住居の方では、おまんが孫のそばに目をさますと、半蔵も父も徹夜でいそがしがって、ほとんど家へは寄りつかない。嫁のお民は、と見ると、この人は肩で息をして、若い母らしい前垂(まえだれ)れなぞにもはや重そうなからだを隠そうとしている。

 おまんは佐吉を呼んで、孫のお粂をおぶわせ、村はずれに宮様をお迎えさせることにした。そこへ来た新宅のお喜佐(おまんの実の娘、半蔵の異母妹)には宗太をつけて、これも家の下女たちと一緒にやることにした。「粂さま、おいで」と佐吉はお粂を背中にのせて、その顔をおまんに見せながら、「これで粂さまも、きょうあったことを――ずっと大きくなるまで――覚えていさっせるずらか」。「なにしろ、六つじゃねえ」。「覚えてはいさっせまいか」。「そうばかりでもないよ」とお喜佐は二人の話を引き取って言った。「この子もこれで、夢のようには覚えているだろうよ。わたしだって、五つの歳のことをかすかに覚えているもの」。「ほんとに、きょうはあいにくな雨だこと」とおまんは言った。「わたしもお迎えしたいは山々だが、お民がこんなじゃ、どうしようもない。わたしたち二人はお留守居しますよ」。佐吉はお粂を、お喜佐は宗太をまもりながら、御行列拝見の人々が集まる村はずれの石屋の坂あたりまで行った。なにしろ多勢の御通行で、佐吉らは吉左衛門や半蔵の働いている姿をどこにも見いだすことができなかった。それに、御通行筋は公私の領分の差別なく、旅館の前後里程三日路の旅人の通行を禁止するほどの警戒ぶりだ。

 九つ半時に、姫君を乗せたお輿は軍旅のごときいでたちの面々に前後を護(まも)れながら、雨中の街道を通った。いかめしい鉄砲、纏(まとい)、馬簾(ばれん)の陣立ては、ほとんど戦時に異ならなかった。供奉(ぐぶ)の御同勢はいずれも陣笠、腰弁当で、供男一人ずつ連れながら、そのあとに随(したが)った。中山大納言、菊亭中納言、千種(ちぐさの)少将(有文)、岩倉少将(具視ともみ)、その他宰相の典侍(てんじ)、命婦能登(みょうぶのと)などが供奉の人々の中にあった。京都の町奉行関出雲守がお輿の先を警護し、お迎えとして江戸から上京した若年寄加納遠江守(とうとうみのかみ)、それに老女らもお供をした。これらの御行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きの絶えることもなかった。

 「いや、御苦労、御苦労」。御通行の翌日、吉左衛門は三留野のお継ぎ所の方へ行く尾州の竹腰山城守を見送ったあとで、いろいろあと始末をするため会所のなかにある宿役人の詰め所にいた。吉左衛門はそこにいる人たちをねぎらうばかりでなく、自分で自分に言うように、「御苦労、御苦労」を繰り返した。

 連日の過労に加えて、その日も朝から雨だ。一同は疲れて、一人として行儀よくしているものもない。そこには金兵衛もいて、長い街道の世話を思い出したように、「吉左衛門さんは御存じだが、わたしたちが覚えてから大きな御通行というものは、この街道に三度ありましたよ。一度は水戸の姫君さまのお輿入れの時。一度は尾州の先の殿様が江戸でお亡くなりになって、その御遺骸がこの街道を通った時。今一度は例の黒船騒ぎで、交易を許すか許さないかの大評定(だいひょうじょう)で、尾州の殿様(徳川慶勝よしかつ)の御出府の時。あの先の殿様の時は、木曾谷中から寄せた七百三十人の人足でも手が足りなくて、伊那の助郷が千人あまりも出ました。諸方から集めた馬の数が二百二十匹さ」。

 「金兵衛さんはなかなか覚えがいい」と畳の上に頬杖(ほおづえ)つきながら言うものがある。「まあ、お聞きなさい。今の殿様が江戸へ御出府の時は、木曾寄せの人足が七百三十人、伊那の助郷が千七百七十人、この人数を合わせると二千五百人からの人足が出ましたぜ。あの時、馬籠の宿場に集まった馬の数が百八十匹だったと思う。あれほどの御通行でも和宮さまの場合とはとうてい比べものにならない。今度のような大きな御通行は、わたしは古老の話にも聞いたことがない」。「どうです。金兵衛さん、これこそ前代未聞でしょう」と混ぜ返すものがある。金兵衛は首を振って、「いや、前代未聞どころか、この世初まって以来の大御通行だ」。聞いているものは皆笑った。

 いつのまにか吉左衛門は高いびきだ。彼はその部屋の片すみに横になって、まるで死んだようになってしまった。その時になって見ると、美濃路から木曾へかけてのお継ぎ所でほとんど満足なところはなかった。会所という会所は、あるいは損じ、あるいは破れた。これは道中奉行所の役人も、尾州方の役人も、ひとしく目撃したところである。中津川、三留野の両宿にたくさんな死傷者もできた。街道には、途中で行き倒れになった人足の死体も多く発見された。御通行後の二日目は、和宮様の御一行も福島、藪原(やぶはら)を過ぎ、鳥居峠を越え、奈良井宿お小休み、贄川宿(にえがわじゅく)御昼食の日取りである。

 半蔵と伊之助の二人は連れだって、その日三留野お継ぎ所の方から馬籠へ引き取って来た。伊之助は伊那助郷の担当役、半蔵も父の名代として、いろいろとあと始末をして来た。ちょうど吉左衛門は上の伏見屋に老友金兵衛を訪ねに行っていて、二人茶漬けを食いながら、話し込んでいるところだった。そこへ半蔵と伊之助とが帰って来た。

 その時だ。伊之助は声を潜めながら、木曾の下四宿から京都方の役人への祝儀として、先方の求めにより二百二十両の金を差し出したことを語った。祝儀金とは名ばかり、これはいかにも無念千万のことであると言って、お継ぎ所に来ていた福島方の役人衆までが口唇(くちびる)をかんだことを語った。伊那助郷の交渉をはじめ、越後、越中の人足の世話から、御一行を迎えるまでの各宿の人々の心労と尽力とを見る目があったら、いかに強欲な京都方の役人でもこんな暗い手は出せなかったはずであると語った。「御通行のどさくさに紛れて、祝儀金を巻き揚げて行くとは――実に、言語(ごんご)に絶したやり方だ」と言って、金兵衛は吉左衛門と顔を見合わせた。

 若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らなかった。黒船来訪以来はおろか、それ以前からたといいかに封建社会の堕落と不正とを痛感するような時でも、それを若者の目や耳からは隠そう隠そうとして来たのも、この二人の村の長老だ。庄屋風情(ふぜい)、もしくは年寄役風情として、この親たちがふぜい日ごろの願いとして来たことは、徳川世襲の伝統を重んじ、どこまでも権威を権威とし、それを子の前にも神聖なものとして、この世をあるがままに譲って行きたかったのである。伊之助が語って見せたところによると、こうした役人の腐敗沙汰にかけては、京都方も江戸方もすこしも異なるところのないことを示していた。二人の親たちはもはや隠そうとして隠し切れなかった。六日目になると、宮様御一行は和田宿の近くまで行ったころで、お道固めとして本山までお見送りをした尾州の家中衆も、思い思いに引き返して来るようになった。奥筋までお供をした人足たちの中にも、ぼつぼつ帰路につくものがある。七日目には、もはやこの街道に初雪を見た。

 人一人動いたあとは不思議なもので、御年も若く繊弱(かよわ)い宮様のような女性でありながらも、ことに宮中の奥深く育てられた金枝玉葉(きんしぎょくよう)の御身で、上方(かみがた)とは全く風俗を異にし習慣を異にする関東の武家へ御降嫁されたあとには、多くの人心を動かすものが残った。遠く江戸城の方には、御母として仕うべき天璋院も待っていた。十一月十五日には宮様はすでに江戸に到着されたはずである。あの薩摩生まれの剛気で男まさりな天璋院にもすでに御対面せられたはずである。これはまれに見る御運命の激しさだとして、憐(あわれ)みまいらせるものがある。その犠牲的な御心の女らしさを感ずるものもある。二十五日の木曾街道の御長旅は、徳川家のために計る老中安藤対馬らの政略を助けたというよりも、むしろ皇室をあらわす方に役立った。

 長いこと武家に圧せられて来た皇室が衰微のうちにも絶えることなく、また回復の機運に向かって来た。この島国の位置が位置で、たとい内には戦乱争闘の憂いの多い時代があったにもせよ、外に向かって事を構える場合の割合に少なかった東洋の端に存在したことは、その日まで皇室の平静を保ち得た原因の一つであろうと言うものもある。過去の皇室の衰え方と言えば、諸国に荒廃した山陵を歴訪して勤王の志を起こしたという蒲生君平(がもうくんぺい)や、京都のさびしい御所を拝して哭(な)いたという高山彦九郎のような人物のあらわれて来たのでもわかる。応仁の乱後の京都は乱前よりも一層さびれ、公家の生活は苦しくなり、すこし大げさかもしれないが三条の大橋から御所の燈火(あかり)が見えた時代もあったと言わるるほどである。これほどの皇室が、また回復の機運に向かって来たことは、半蔵にとって、実に意味深きことであった。

 時代は混沌として来た。彦根と水戸とが互いに傷ついてからは、薩州のような雄藩の擡頭となった。関ヶ原の敗戦以来、隠忍に隠忍を続けて来た長州藩がこの形勢を黙ってみているはずもない。しかしそれらの雄藩でも、京都にある帝を中心に仰ぎ奉ることなしに、人の心を収めることはできない。天朝の威をも畏(おそ)れず、各藩の意見のためにも動かされず、断然として外国に通商を許したというあの井伊大老ですら、幕府の一存を楯(たて)にして単独な行動に出ることはできなかった。後には上奏の手続きを執った。井伊大老ですらそのとおりだ。薩長二藩の有志らはいずれも争って京都に入り、あるいは藩主の密書を致(いた)したり、あるいは御剣(ぎょけん)を奉献したりした。

 一庄屋の子としての半蔵から見ると、これは理由のないことでもない。水戸の大日本史に、尾張の類聚日本紀(るいじゅうにほんぎ)に、あるいは頼(らい)氏の日本外史に、大義名分を正そうとした人たちのまいた種が深くもこの国の人々の心にきざして来たのだ。南朝の回想、芳野(よしの)の懐古、楠(くすのき)氏の崇拝――いずれも人の心の向かうところを語っていないものはなかった。そういう中にあって、本居宣長のような先覚者をはじめ、平田一門の国学者が中世の否定から出発して、だんだん帝を求め奉るようになって行ったのは、臣子の情として強い綜合の結果であったが……

 年も文久二年と改まるころには、半蔵はすでに新築のできた本陣の家の方に引き移っていた。吉左衛門やおまんは味噌納屋の二階から、お民はわびしい土蔵の仮住居から、いずれも新しい木の香のする建物の方に移って来た。馬籠の火災後しばらく落合の家の方に帰っていた半蔵が弟子の勝重なぞも、またやって来る。新築の家は、本陣らしい門構えから、部屋部屋の間取りまで、火災以前の建て方によったもので、会所を家の一部に取り込んだところまで似ている。表庭のすみに焼け残った一株の老松もとうとう枯れてしまったが、その跡に向いて建てられた店座敷が東南の日を受けるところまで似ている。

 美濃境にある恵那山を最高の峰として御坂越(みさかごえ)の方に続く幾つかの山嶽(さんがく)は、この新築した家の南側の廊下から望まれる。半蔵が子供の時分から好きなのも、この山々だ。さかんな雪崩(なだれ)の音はその廊下の位置からきかれないまでも、高い山壁から谷まで白く降り埋(うず)める山々の雪を望むことはできる。ある日も、半蔵は恵那山の上の空に、美しい冬の朝の雲を見つけて、夜ごとの没落からまた朝紅の輝きにと変わって行くようなあの太陽に比較すべきものを想像した。ただ御一人の帝、その上を措いて時代を貫く朝日の御勢にたとうべきものは他に見当たらなかった。
 正月早々から半蔵は父の名代として福島の役所へ呼ばれ、木曾十一宿にある他の庄屋問屋と同じように金百両の分配を受けて来た。このお下(さ)げは各宿救助の意味のものだ。ちょうど家では二十日(はつか)正月を兼ねて、暮れに生まれた男の子のために小豆粥(あずきがゆ)なぞを祝っていた。お粂、宗太、それから今度生まれた子には正己(まさみ)という名がついて、吉左衛門夫婦ももはや三人の孫のおじいさん、おばあさんである。お民はまだ産後の床についていたが、そこへ半蔵が福島から引き取って来た。和宮様の御通行前に、伊那助郷総代へ約束した手当ての金子(きんす)も、追って尾州藩から下付せらるるはずであることなぞを父に告げた。「助郷のことは、これからが問題だぞ。今までのような御奉公じゃ百姓が承知しまい」と吉左衛門は炬燵(こたつ)の上に手を置きながら、半蔵に言って見せた。その日半蔵はお下げ金のことで金兵衛の知恵を借りて、御通行の日から残った諸払いをした。
坂下門の変事  やがてそのあと始末もできたころに、人の口から口へと伝わって来る江戸の方のうわさが坂下門の変事を伝えた。決死の壮士六人、あの江戸城の外のお濠(ほり)ばたの柳の樹(き)のかげに隠れていたのは正月十五日とあるから、山家のことで言えば左義長(さぎちょう)の済むころであるが、それらの壮士が老中安藤対馬の登城を待ち受けて、まず銃で乗り物を狙撃した。それが当たらなかったので、一人の壮士が馳(は)せ寄って、刀を抜いて駕籠を横から突き刺した。安藤対馬は運強く、重傷を被りながらも坂下門内に駆け入って、わずかに身をもって難をまぬかれた。この要撃の光景をまるで見て来たように言い伝えるものがある。「またか」という吉左衛門にも、思わず父と顔を見合わせる半蔵の胸にも、桜田事変当時のことが来た。

 刺客はいずれも斬奸(ざんかん)趣意書なるものを懐(ふところ)にしていたという。これは幕府の手で秘密に葬られようとしたが、六人のほかに長州屋敷へ飛び込んで自刃(じじん)した壮士の懐から出て来たもので明らかにされ、それからそれへと伝えられるようになった。それには申年(さるどし)の三月に赤心報国の輩(ともがら)が井伊大老を殺害に及んだことは毛頭も幕府に対し異心をはさんだのではないということから書き初めて、彼らの態度を明らかにしてあったという。彼らから見れば、井伊大老は夷狄(いてき)を恐怖する心から慷慨(こうがい)忠直の義士を憎み、おのれの威力を示そうがために奸謀(かんぼう)をめぐらし、天朝をも侮る神州の罪人である、そういう奸臣を倒したなら自然と幕府においても悔いる心ができて、これからは天朝を尊び夷狄を憎み、国家の安危と人心の向背(こうはい)にも注意せらるるであろうとの一念から、井伊大老を目がけたものはいずれも身命を投げ捨てて殺害に及んだのである。ところがその後になっても幕府には一向に悔心の模様は見えない、ますます暴政のつのるようになって行ったのは、幕府役人一同の罪ではあるが、つまりは老中安藤対馬こそその第一の罪魁(ざいかい)であるという意味のことが書いてあったという。

 その趣意書には、老中の罪状をもあげて、皇妹和宮様が御結婚のことも、おもてむきは天朝より下し置かれたように取り繕い、公武合体の姿を示しながら、実は奸謀と威力とをもって強奪し奉ったも同様である、これは畢竟(ひっきょう)皇妹を人質にして外国交易の勅諚(ちょくじょう)を強請する手段であり、もしそれもかなわなかったら帝の御譲位をすら謀(はか)ろうとする心底であって、実に徳川将軍を不義に引き入れ、万世の後までも悪逆の名を流させようとする行為である、北条足利にもまさる逆謀というのほかはない、これには切歯(せっし)痛憤、言うべき言葉もないという意味のことが書いてあったという。その中にはまた、外夷(がいい)取り扱いのことをあげて、安藤老中は何事も彼らの言うところに従い、日本沿海の測量を許し、この国の形勢を彼らへ教え、江戸第一の要地ともいうべき品川御殿山を残らず彼らに貸し渡し、あまつさえ外夷の応接には骨肉も同様な親切を見せながら、自国にある忠義憂憤の者はかえって仇敵(きゅうてき)のように忌みきらい、国賊というにも余りあるというような意味のことが書いてあったという。

 しかし決死の壮士が書きのこしたものは、ただそれだけの意味にとどまらなかった。その中には「明日」への不安が、いろいろと書きこめてあったともいう。もし今日のままで弊政を改革することもなかったら、天下の大小名はおのおの幕府を見放して、自己の国のみを固めるようになって行くであろう、外夷の取り扱いにさえ手に余るおりから、これはどう処置するつもりであろうという意味のことも書いてあり、万一攘夷を名として旗を挙げるような大名が出て来たら、それこそ実に危急の時である、幕府では皇国の風俗というものを忘れてはならぬ、君臣上下の大義をわきまえねばならぬ、かりそめにも天朝の叡意(えいい)にそむくようなところが見えたら、忠臣義士の輩(ともがら)は一人も幕府のために身命をなげうつものはあるまいという意味のことも書きのこしてあったという。

 これらの刺客の多くが水戸人であることもわかって来た。いずれも三十歳前後の男ざかりで、中には十九歳の青年がこの要撃に加わっていたこともわかって来た。安藤対馬の災難は不思議にもその傷が軽くて済んだが、多くの人の同情は生命拾(いのちびろい)をした老中よりも、現場に斃(たお)れた青年たちの上に集まる。しかし、その人の傷ついたあとになって見ると、一方には世間の誤解や無根の流言がこの悲劇を生む因(もと)であったと言って、こんなに思い詰めた壮士らの暴挙を惜しむと言い出したものもあった。安藤対馬その人を失ったら、あれほど外交の事に当たりうるものは他に見いだせない、アメリカのハリスにせよ、イギリスのアールコックにせよ、彼らに接して滞ることなく、屈することもなく、外国公使らの専横を挫(くじ)いて、凜然(りんぜん)とした態度を持ち続けたことにかけては、老中の右に出るものはなかったと言い出したものもあった。

 幕府はすでに憚(はばか)るべき人と、憚るべき実(じつ)とがない。井伊大老は斃(たお)れ、岩瀬肥後は喀血(かっけつ)して死し、安藤老中までも傷ついた。四方の侮りが競うように起こって来て、儒者は経典の立場から、武士剣客は士道の立場から、その他医者、神職、和学者、僧侶なぞの思い思いに勝手な説を立てるものがあっても、幕府ではそれを制することもできないようになって来た。この中で、露国の船将が対馬尾崎浦に上陸し駐屯しているとの報知(しらせ)すら伝わった。港は鎖(とざ)せ、ヨーロッパ人は打ち攘(はら)え、その排外の風がいたるところを吹きまくるばかりであった。
 四
 一人の旅人が京都の方面から美濃の中津川まで急いで来た。この旅人は、近くまで江戸桜田邸にある長州の学塾有備館の用掛りをしていた男ざかりの侍である。かねて長州と水戸との提携を実現したいと思い立ち、幕府の嫌疑を避くるため品川沖合いの位置を選び、長州の軍艦丙辰丸(へいしんまる)の艦長と共に水戸の有志と会見した閲歴を持つ人である。坂下門外の事変にも多少の関係があって、水戸の有志から安藤老中要撃の相談を持ちかけられたこともあったが、後にはその暴挙に対して危惧の念を抱(いだ)き、次第に手を引いたという閲歴をも持つ人である。

 中津川の本陣では、半蔵が年上の友人景蔵も留守のころであった。景蔵は平田門人の一人として、京都に出て国事に奔走しているころであったからで。この旅人は恵那山を東に望むことのできるような中津川の町をよろこび、人の注意を避くるにいい位置にある景蔵の留守宅を選んで、江戸麻布(あざぶ)の長州屋敷から木曾街道経由で上京の途にある藩主(毛利慶親よしちか)をそこに待ち受けていた。その目的は、京都の屋敷にある長藩世子(せいし)(定広)の内命を受けて、京都の形勢の激変したことを藩主に報じ、かねての藩論なる公武合体、航海遠略の到底実行せらるべくもないことを進言するためであった。それよりは従来の方針を一変し、大いに破約攘夷を唱うべきことを藩主に説き勧めるためであった。雄藩擡頭の時機が到ったことは、長いことその機会を待っていた長州人士を雀躍(こおどり)させたからであった。

 旅にある藩主はそれほど京都の形勢が激変したとは知らない。まして、そんな旅人が世子の内命を帯びて、中津川に自分を待つとは知らない。さきに幕府への建白の結果として、公武間周旋の依頼を幕府から受け、いよいよ正式にその周旋を試みようとして江戸を出発して来たのであった。この大名は、日ごろの競争者で薩摩に名高い中将斎彬(なりあきら)の弟にあたる島津久光がすでにその勢力を京都の方に扶植し始めたことを知り、さらに勅使左衛門督(さえもんのかみ)大原重徳(しげのり)を奉じて東下して来たほどの薩摩人の活躍を想像しながら、その年の六月中旬には諏訪にはいった。あだかも痳疹(はしか)流行のころである。一行は諏訪に三日逗留(とうりゅう)し、同勢四百人ほどをあとに残して置いて、三留野泊まりで木曾路を上って来た。馬籠本陣の前まで来ると、そこの門前には諸大名通行のおりの定例のように、すでに用意した札の掲げてあるのを見た。
松平大膳太夫(だいぜんだゆう)
様 御休所

 松平大膳太夫とあるは、この大名のことで、長門国(ながとのくに)三十六万九千石の領主を意味する。その時、半蔵は出て、一行の中の用人に挨拶した。「わたしは吉左衛門の忰(せがれ)でございます。父はこの四月から中風(ちゅうふう)にかかりまして、今だに床の上に臥(ね)たり起きたりしております。お昼は申し付けてございますが、何か他に御用もありましたら、わたしが承りましょう」。「御主人は御病気か。それはおだいじに。ここから中津川まで何里ほどありましょう」。「三里と申しております。ここの峠からは下りでございますから、そうお骨は折れません」。この半蔵の言葉を聞くと、用人は本陣の門の内外を警衛する人たちに向かって、「諸君、中津川まではもう三里だそうですよ。ここで昼食をやってください」と呼んだ。

 馬籠の宿ではその日より十日ほど前に、彦根藩の幼主が江戸出府を送ったばかりの時であった。十六歳の殿様、家老、用人、その時の同勢はおびただしい人数で、行列も立派ではあったが、もはや先代井伊掃部頭(かもんのかみ)が彦根の城主としてよくこの木曾路を往来したころのような気勢は揚がらない。そこへ行くと、千段巻(まき)の柄(え)のついた黒鳥毛(くろとりげ)の鎗(やり)から、永楽通宝の紋じるしまで、はげしい意気込みでやって来た長州人は彦根の人たちといちじるしい対照を見せる。

 その日、半蔵は父の名代として、隣家の伊之助や問屋の九郎兵衛と共に、一行を宿はずれの石屋の坂あたりまで見送り、そこから家に引き返して来て、父の部屋をのぞきに行った。病床から半ば身を起こしかけている吉左衛門は山の中へ来る六月の暑さにも疲れがちであった。半蔵は一度倒れたこの父が回復期に向かいつつあるというだけにもやや胸をなでおろして、なるべく頭を悩まさせるようなことは父の耳に入れまいとした。

 京都の方にある景蔵からは、容易ならぬ彼地(かのち)の形勢を半蔵のところへ報じて来た。伏見寺田屋の変をも知らせて来た。王政復古と幕府討伐の策を立てた八人の壮士があの伏見の旅館で斃(たお)れたことをも知らせて来た。公武間の周旋をもって任ずる千余人の薩摩の精兵が藩主に引率されて来た時は、京都の町々はあだかも戒厳令の下にあったことをも知らせて来た。

 
しかし半蔵は何事も父の耳に入れなかった。夕方に、彼は雪隠(せっちん)へ用を達(た)しに行って、南側の廊下を通った。長州藩主がその日の泊まりと聞く中津川の町の方は早く暮れて、遠い夕日の反射が西の空から恵那山の大きな傾斜に映るのを見た。
 病後の吉左衛門には、まだ裏の二階へ行って静養するほどの力がない。あの先代半六が隠居所となっていた味噌納屋の二階への梯子段昇ったり降りたりするには、足もとがおぼつかなかった。この父は四月の発病以来、ずっと寛(くつろ)ぎの臥たり起きたりしている。その部屋は風呂場に近い。家のものが入浴を勧めるには都合がよい。一方は本陣の囲炉裏ばたや勝手に続いている。みんなで看護するにも都合がよい。そのかわり朝に晩に用談なぞを持ち込む人たちが出たりはいったりして、半蔵としてはいつまでも父の寝床をその部屋に敷いて置くことを好まなかった。どうかすると頭を冷やせの、足を温めろのという父を見るたびに、半蔵は悲しがった。さびしい病後のつれづれから、父は半蔵に向かっていろいろ耳にしたことの説明を求める。六十四歳の晩年になってこんな思いがけない中風にかかったというふうに。まだ退役願いもきき届けられない馬籠の駅長の身で、そうそう半蔵任せにして置かれないというふうにも。半蔵は京都や江戸にある平田同門の人たちからいろいろな報告を受けて、そのたびに山の中に辛抱してはいられぬような心持ちにもなるが、また思い返しては本陣問屋庄屋の父の代わりを勤めた。
 中津川の会議が開かれて、長藩の主従が従来の方針を一変し、吉田松陰以来の航海遠略から破約攘夷へと大きく方向の転換を試み始めたのも、それから藩主の上京となって、公卿を訪(おとな)い朝廷の御機嫌を伺い、すでに勅使を関東に遣(つか)わされているから、薩藩と共に叡慮の貫徹に尽力せよとの御沙汰を賜わったのも、六月の二十日から七月へかけてのことであった。薩藩と共に輦下(れんか)警衛の任に当たることにかけては、京都の屋敷にある世子定広がすでにその朝命を拝していた。薩長二藩のこれらの一大飛躍は他藩の注意をひかずには置かない。ようやく危惧の念を抱き始めたものもある。強い刺激を受けたものもある。こういう中にあって、薩長二藩の京都手入れから最も強い刺激を受けたものは、言うまでもなく幕府側にある人たちであらねばならない。

 従来幕府は事あるごとに京都に向かって干渉するのを常とした。今度勅使の下向(げこう)を江戸に迎えて見ると、かねて和宮様御降嫁のおりに堅く約束した蛮夷防禦のことが勅旨の第一にあり、あわせて将軍の上洛、政治の改革にも及んでいて、幕府としては全く転倒した位置に立たせられた。干渉は実に京都から来た。しかも数百名の薩摩隼人を引率する島津久光を背景にして迫って来た。この干渉は幕府にある上のものにも下のものにも強い衝動を与えた。その衝動は、多年の情実と弊害とを払いのけることを教えた。もっと政治は明るくしなければだめだということを教えた。
 時代はおそろしい勢いで急転しかけて来た。かつて岩瀬肥後が井伊大老と争って、政治生涯を賭(と)してまで擁立しようとした一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)は将軍の後見に、越前藩主松平春嶽(しゅんがく)は政事総裁の職に就くようになった。これまで幕府にあってとかくの評判のあった安藤対馬、およびその同伴者なる久世大和の二人は退却を余儀なくされた。天朝に対する過去の非礼を陳謝し、協調の誠意を示すという意味で、安藤久世の二人は隠居急度慎(きっとつつしみ)みの罰の薄暗いところへ追いやられたばかりでなく、あれほどの大獄を起こして一代を圧倒した井伊大老ですら追罰を免れなかった。およそ安政、万延のころに井伊大老を手本とし、その人の家の子郎党として出世した諸有司の多くは政治の舞台から退却し始めた。あるものは封(ほう)一万石を削られ、あるものは禄(ろく)二千石を削られた。あるものはまた、隠居、蟄居(ちっきょ)、永蟄居、差扣(さしひか)えというふうに。

 この周囲の空気の中で、半蔵は諸街道宿駅の上にまであらわれて来るなんらかの改変を待ち受けながら、父が健康の回復を祈っていた。発病後は父も日ごろ好きな酒をぱったりやめ、煙草(たばこ)もへらし、わずかに俳諧や将棋の本なぞをあけて朝夕の心やりとしている。何かこの父を慰めるものはないか、と半蔵は思っているところへ、ちょうど人足四人持ちで、大きな籠を本陣の門内へかつぎ入れた宰領があった。宰領は半蔵の前に立って言った。「旦那、これは今度、公儀から越前様へ御拝領になった綿羊(めんよう)というものです。めずらしい獣です。わたしたちはこれを送り届けにまいる途中ですが、しばらくお宅の庭で休ませていただきたい」。江戸の方からそこへかつがれて来たのは、三疋(びき)の綿羊だ。こんな木曾山の中へは初めて来たものだ。早速(さっそく)半蔵はお民を呼んで、表玄関の広い板の間に座蒲団を敷かせ、そこに父の席をつくった。「みんな、おいで」とおまんも孫たちを呼んだ。「越前様の御拝領かい」と言いながら、吉左衛門は奥の方から来てそこへ静かにすわった。「越前様といえば、五月の十一日にこの街道をお通りになったじゃないか。おれは寝ていてお目にもかからなかったが、今度政事総裁職になったのもあのお大名だね」。ちょっとしたことにも吉左衛門はそれをこの街道に結びつけて、諸大名の動きを読もうとする。「あなたはそれだから、いけない」とおまんは言った。「病気する時には病気するがいいなんて自分で言っていながら、そう気をつかうからいけない。まあ、このやさしい羊の目を御覧なさい」。

 街道では痲疹(はしか)の神を送ったあとで、あちこちに病人や死亡者を出した流行病の煩(わずら)いから、みんなようやく一息ついたところだ。その年の渋柿のできのうわさは出ても、京都と江戸の激しい争いなぞはどこにあるかというほど穏やかな日もさして来ている。宰領の連れて来た三疋の綿羊が籠の中で顔を寄せ、もぐもぐ鼻の先を動かしているのを見ると、動物の好きなおや宗太は大騒ぎだ。持病の咳(せき)で引きこもりがちな金兵衛まで上の伏見屋からわざわざ見に出かけて来て、いつのまにか本陣の門前には多勢の人だかりがした。「金兵衛さん、こういうめずらしい羊が日本に渡って来るようになったかと思うと、世の中も変わるはずですね。わたしは生まれて初めてこんな獣を見ます」と吉左衛門は言って、なんとなく秋めいた街道の空を心深げにながめていた。

 「半蔵、まあ見てくれよ。おれの足はこういうものだよ」と言って、病み衰えた右の足を半蔵の前に出して見せるころは、吉左衛門もめっきり元気づいた。早く食事を済ました夕方のことだ。付近の村々へは秋の祭礼の季節も来ていた。「お父さんが病気してから、もう百四十日の余になりますものね」。半蔵は試みに、自分の前にさし出された父の足をなでて見た。健脚でこの街道を奔走したころの父の筋肉はどこへ行ったかというようになった。発病の当時、どっと床についたぎり、五十日あまりも安静にしていたあげくの人だ。堅く隆起していたような足の「ふくらっぱぎ」も今は子供のそれのように柔らかい。「ひどいものじゃないか」と吉左衛門は自分の足をしまいながら言った。「人が中気(ちゅうき)すると、右か左か、どっちかをやられると聞いてるが、おれは右の方をやられた。そう言えば、おれは耳まで右の方が遠くなったようだぞ」と笑って、気を変えて定広、「しかし、きょうはめずらしくよい気持ちだ。おれは金兵衛さんのところへお風呂でももらいに行って来る」。これほど父の元気づいたことは、ひどく半蔵をよろこばせた。「お父さん、わたしも一緒に行きましょう」と彼もたち上がった。

 この親子の胸には、江戸の道中奉行所の方から来た達しのことが往来(ゆきき)していた。かねてうわさには上っていたが、いよいよ諸大名が参覲交代制度の変革も事実となって来た。これには幕府の諸有司の中にも反対するものが多かったというが、聰明で物に執着することの少ない一橋慶喜と、その相談相手なる松平春嶽とが、惜しげもなくこの英断に出た。言うまでもなく、参覲交代の制度は幕府が諸藩を統御するための重大な政策である。これが変革されるということは、深い時代の要求がなくては叶(かな)わない。この一大改革はもう長いこと上にある識者の間に考えられて来たことであろうが、しかし吉左衛門親子のように下から見上げるものにとっても、この改変を余儀なくされるほどの幕府の衰えが目についた。諸大名が実際の通行に役立つ沿道の人民の声にきいて課役を軽くしないかぎり、ただ徳川政府の威光というだけでは、多くの百姓ももはや動かなくなって来た。本陣の門を出る時、吉左衛門はそのことを半蔵にきいた。「お前は今度のお達しをよく読んで見たかい。参覲交代が全廃というわけではないんだね」。「お父さん、全廃じゃありません。諸大名は三年目ごとに一度、御三家や溜詰(たまりづめ)は一月(ひとつき)ずつ江戸におれとありますがね、奥方や若様は帰国してもいいと言うんですから、まあほとんど骨抜きに近いようなものでしょう」。

 夕方になるととかく疲れが出て引きこもりがちな吉左衛門が、その晩のように上の伏見屋まで歩こうと言い出したことは、病後初めての事と言ってもよかった。この父は久しぶりで家を出て見るというふうで、しばらく門前にたたずんで、まだ暮れ切らない街道の空をながめた。「半蔵、この街道はどうなろう」。「参覲交代がなくなったあとにですか」。「そりゃ、お前、参覲交代はなくなっても、まるきり街道がなくなりもしまいがね。まあ、金兵衛さんにもあって、話して見るわい」。心配してついて行く半蔵に助けられながら、吉左衛門は坂になった馬籠の町を非常に静かに歩いた。右に問屋、蓬莱屋、左に伏見屋、桝田屋なぞの前後して新築のできた家々が両側に続いている。

 その間の宿場らしい道を登って行くと、親子二人のものはある石垣のそばで向こうからやって来る小前(こまえ)の百姓にあった。百姓は吉左衛門の姿を見ると、いきなり自分の頬(ほお)かぶりしている手ぬぐいを取って、走り寄った。「大旦那、どちらへ、半蔵さまも御一緒かなし。お前さまがこんなに村を出歩かせるのも、御病気になってから初めてだらずに」。「あい。おかげで、日に日にいい方へ向いて来たよ」。「まあ、おれもどのくらい心配したか知れすかなし。御病気が御病気だから、井戸の水で頭を冷やすぐらいは知れたものだと思って、おれはお前さまのために恵那山までよく雪を取りに行って来たこともある」。吉左衛門から見れば、これらの小前のものはみんな自分の子供だった。そこまで行くと、上の伏見屋も近い。ちょうど金兵衛は山口村の祭礼狂言を見に二日泊まりで出かけて行って、その日の午後に帰って来たというところだった。「おゝ、吉左衛門さんか。これはおめずらしい」と言って、金兵衛は後添(のちぞ)いのお玉と共によろこび迎えた。

 金兵衛も吉左衛門と同じように、もはや退役の日の近いことを知っていた。新築した伏見屋は養子伊之助に譲り、火災後ずっと上の伏見屋の方に残っていて、晩年のしたくに余念もない。六十六歳の声を聞いてから、中新田へ杉苗四百本、青野へ杉苗百本の植え付けなぞを思い立つ人だ。「お玉、お風呂を見てあげな」という金兵衛の声を聞いて、半蔵は薄暗い湯どのの方へ父を誘った。病後の吉左衛門にとって長湯は大の禁物だった。半蔵は自分でも丸はだかになって、手ばしこく父の背中を流した。その不自由な手を洗い、衰えた足をも洗った。「お父さん、湯ざめがするといけませんよ、またこないだのようなことがあると、大変ですよ」。病後の父をいたわる半蔵の心づかいも一通りではなかった。

 間もなく上の伏見屋の店座敷では、山家風な行燈を置いたところに主客のものが集まって、夜咄(よばなし)にくつろいだ。「金兵衛さん、わたしも命拾いをしましたよ」と吉左衛門は言った。「ひところは、これで明日(あした)もあるかと思いましてね、枕についたことがよくありましたよ」。「そう言えば、あの和宮さまの御通行の時分から弱っていらしった」と金兵衛も茶なぞを勧めながら答える。「吉左衛門さんはあんなに無理をなすって、あとでお弱りにならなければいいがって、お玉ともよくあの時分におうわさしましたよ」。「もう大丈夫です。ただ筆を持てないのと、箒(ほうき)を持てないのには――これにはほとんど閉口です」。「吉左衛門さんの庭掃除は有名だから」。金兵衛は笑った。

 そこへ伊之助も新築した家の方からやって来る。一同の話は宿場の前途に関係の深い今度の参覲交代制度改革のことに落ちて行った。「助郷にも弱りました」と言い出すのは金兵衛だ。「宮様御通行の時は特別の場合だ、あれは当分の臨機の処置だなんて言ったって、そうは時勢が許さない。一度増助郷の例を開いたら、もう今までどおりでは助郷が承知しなくなったそうですよ」。「そういうことが当然起こって来ます」と吉左衛門が言う。「現に、」伊之助は二人の話を引き取って、「あの公家衆の御通行は四月の八日でしたから、まだこんな改革のお達しの出ない前です。あの時は大湫(おおくて)泊まりで、助郷人足六百人の備えをしろと言うんでしょう。みんな雇い銭でなけりゃ出て来やしません」。「いくら公家衆でも、六百人の人足を出せはばかばかしい」と半蔵は言った。

 「それもそうだ」と金兵衛は言葉をつづける。「あの公家衆の御通行には、差し引き、四両二分三朱、村方の損になったというじゃありませんか」。「とにかく、御通行はもっと簡略にしたい」とまた半蔵は言った。「いずれこんな改革は道中奉行へ相談のあったことでしょう。街道がどういうことになって行くか、そこまではわたしにも言えませんがね。しかし上から見ても下から見ても、参覲交代のような儀式ばった御通行がそういつまで保存のできるものでもないでしょう。繁文縟礼(はんぶんじょくれい)を省こう、その費用をもっと有益な事に充(あ)てよう、なるべく人民の負担をも軽くしよう――それがこの改革の御趣意じゃありませんかね」。「金兵衛さん、君はこの改革をどう思います。今まで江戸の方に人質のようになっていた諸大名の奥方や若様が、お国もとへお帰りになると言いますぜ」と吉左衛門が言うと、旧い友だちも首をひねって、「さあ、わたしにはわかりません。――ただ、驚きます」。
 その時になって見ると、江戸から報じて来る文久年度の改革には、ある悲壮な意志の歴然と動きはじめたものがあった。参覲交代のような幕府にとって最も重大な政策が惜しげもなく投げ出されたばかりでなく、大赦は行なわれる、山陵は修復される、京都の方へ返していいような旧い慣例はどしどし廃された。幕府から任命していた皇居九門の警衛までも撤去された。およそ幕府の力にできるようなことは、松平春嶽を中心の人物にし山内容堂を相談役とする新内閣の手で行なわれるようになった。

 封建時代にあるものの近代化は、後世を待つまでもなく、すでにその時に始まって来た。松平春嶽、山内容堂、この二人はそれぞれの立場にあり、領地の事情をも異にしていたが、時代の趨勢に着眼して早くから幕政改革の意見を抱いたことは似ていた。その就職以前から幕府に対して同情と理解とを持つことにかけても似ていた。水戸の御隠居、肥前の鍋島閑叟(かんそう)、薩摩の島津久光の諸公と共に、生前の岩瀬肥後から啓発せらるるところの多かったということも似ていた。あの四十に手が届くか届かないかの若さで早くこの世を去った岩瀬肥後ののこした開国の思想が、その人の死後になってまた働き初めたということにも不思議はない。蕃書(ばんしょ)調所は洋書調所(開成所、後の帝国大学の前身)と改称される。江戸の講武所における弓術や犬追物(いぬおうもの)なぞのけいこは廃されて、歩兵、騎兵、砲兵の三兵が設けられる。井伊大老在職の当時に退けられた人材はまたそれぞれの閑却された位置から身を起こしつつある。門閥と兵力とにすぐれた会津藩主松平容保(かたもり)は、京都守護職の重大な任務を帯びて、新たにその任地へと向かいつつある。

 時には、オランダ留学生派遣のうわさが夢のように半蔵の耳にはいる。二度も火災をこうむった江戸城建築のころは、まだ井伊大老在職の日で、老中水野越前守が造り残した数百万両の金銀の分銅(ふんどう)はその時に費やされたといわれ、公儀の御金庫(おかねぐら)はあれから全く底を払ったと言われる。それほど苦しい身代のやり繰りの中で、今度の新内閣がオランダまで新知識を求めさせにやるというその思い切った方針が、半蔵を驚かした。

 ちょうど、父吉左衛門は家にいて、例の寛(くつろ)ぎの間にこもって、もはや退役の日のしたくなぞを始めていた。祖父半六は六十六歳まで宿役人を勤め、それから家督を譲って隠居したが、父は六十四歳でそれをするというふうに。半蔵はこの父の様子をちょっとのぞいたあとで、南側の長い廊下を歩いて見た。オランダ留学生のうわさを思いながら、ひとり言って見た。「黒船はふえるばかりじゃないかしらん」。

 とうとう、半蔵は父の前に呼ばれて、青山の家に伝わった古い書類なぞを引き渡されるような日を迎えた。父の退役はもはや時の問題であったからで。本陣問屋庄屋の三役を勤めるに必要な公用の記録から、田畑家屋敷に関する反別(たんべつ)年貢掟(おきて)年貢なぞをしつけた帳面のまでが否応なしに半蔵の前に取り出された。吉左衛門は半蔵に言いつけて、古い箱につけてある革(かわ)を解かせた。人馬の公用を保証するために、京都の大舎人寮(おおとねりりょう)、江戸の道中奉行所をはじめ、その他全国諸藩から送ってよこしてある大小種々の印鑑がその中から出て来た。宿駅の合印(あいじるし)だ。

 吉左衛門はまた半蔵に言いつけて、別の箱の紐を解かせた。その中には、遠く慶長享保年代からの御年貢皆済(かいさい)目録があり、代々持ち伝えても破損と散乱との憂いがあるから、後の子孫のために一巻の軸とすると書き添えた先祖の遺筆も出て来た。「これはお前の方へ渡す」。父は半蔵の方で言おうとすることを聞き入れようともしなかった。親の譲るものは、子の受け取るべきもの。そうひとりできめて、いろいろな事務用の帳面や数十通の書付なぞをそこへ取り出した。村方の関係としては、当時の戸籍とも言うべき宗門人別から、検地、年貢、送籍、縁組、離縁、訴訟の手続きまでを記しつけたもの。「これも大切な古帳だ」と吉左衛門は言って、左の手でそれを半蔵の方へ押しやった。木曾山中の御免荷物として、木材通用の跡を記しつけたものだった。森林保護の目的から伐採を禁じられている五木の中でも、毎年二百駄ずつの檜(ひのき)、椹(さわら)の類の馬籠村にも許されて来たことが、その中に明記してあった。

 「なんだかおれも遠く来たような気がする」と吉左衛門は言った。「おれの長い道づれはあの金兵衛さんだが、どうやらけんかもせずにここまで来た。まあ、何十年の間、おれはほとんどあの人と言い合ったことがない。ただ二度――そうさ、ただ二度あるナ。一度はお喜佐と仙十郎(上の伏見屋の以前の養子)の間にできた子供のことで。今一度は古い地所のことで。半蔵は覚えがあろう、あの地所のことでは金兵衛さんが大変な立腹で、いったい青山の欲心からこんなことが起こる、末長く御懇意に願いたいと思っているのに今からこんな問題が起こるようでは孫子の代が案じられるなんて、そう言っておれを攻撃したそうだ。おれはあとになって人からその話を聞いた。何にしろあの時は金兵衛さんが顔色を変えて、おれの家へ古い書付なぞを見せに持ち込んで来た。あれはおれの覚えちがいだったかもしれんが、あんなに金兵衛さんも言わなくても済むことさ。いくらよい友だちでも、やっぱりあの人と、おれとは違う。今になって見ると、よく二人はここまで一緒に歩いて来られたものだという気もするね。おれはお前、このとおりな人間だし、金兵衛さんと来たら、あの人はなかなか細かいからね。土蔵の前の梨(なし)の木に紙袋(かんぶくろ)をかぶせて置いて、大風に落ちた三つの梨のうちで、一番大きい梨の目方が百三匁、ほかの二つは目方が六十五匁あったと、そう言うような人なんだからね」。
 過ぐる年の大火に、馬籠本陣の古い書類も多く焼失した。かろうじて持ち出したもの、土蔵の方へ運んであったものは残った。例の相州三浦にある本家から贈られた光琳の軸、それに火災前から表玄関の壁の上に掛けてあった古い二本の鎗(やり)だけは遠い先祖を記念するものとして残った。その時、吉左衛門は『青山氏系図』としてあるものまで取り出して半蔵の前に置いた。「半蔵、お前も知ってるように、吾家(うち)には出入りをする十三人の百姓がある。中には美濃の方から吾家へ嫁に来た人に随(つ)いて馬籠に移住した関係のものもある。正月と言えば吾家へ餅をつきに来たり、松を立てたりしに来るのも、先祖以来の関係からさ。あの百姓たちには目をかけてやれよ。それから、お前に断わって置くが、いよいよおれも隠居する日が来たら、何事もお前の量見一つでやってくれ――おれは一切、口を出すまいから」。父はこの調子だ。半蔵の方でもう村方のことから街道の一切の世話まで引き受けてしまったような口ぶりだ。

 その日、半蔵は父のいる部屋から店座敷の方へ引きさがって来た。こういう日の来ることは彼も予期していた。長い歴史のある青山の家を引き継ぎ、それを営むということが、もとより彼の心をよろこばせないではない。しかし、実際に彼がこの家を背負(しょ)って立とうとなると、これがはたして自分の行くべき道かと考える。国学者としての多くの同志――ことに友人の景蔵なぞが寝食を忘れて国事に奔走している中で、父は病み、実の兄弟はなし、ただ一人お喜佐のような異腹(はらちがい)の妹に婿養子の祝次郎はあっても、この人は新宅の方にいて彼とはあまり話も合わなかった。

 秋らしい日が来ていた。店座敷の障子には、裏の竹林の方からでも飛んで来たかと思われるようなきりぎりすがいて、細長い肢(あし)を伸ばしながら静かに障子の骨の上をはっている。半蔵の目はそのすずしそうな青い羽をながめるともなくながめて、しばらく虫の動きを追っていた。お民は店座敷へ来て言った。「あなた、顔色が青いじゃありませんか」。「そりゃ、お前、生きてる人間だもの」。これにはお民も二の句が継げなかった。そこへ継母のおまんが一人の男を連れてはいって来た。「半蔵、清助さんがこれから吾家へ手伝いに通って来てくれますよ」。和田屋の清助という人だ。半蔵の家のものとは遠縁にあたる。本陣問屋庄屋の雑務を何くれとなく手伝ってもらうには、持って来いという人だ。清助は吉左衛門が見立てた人物だけあって、青々と剃(そ)り立てた髯(ひげ)の跡の濃い腮(あご)をなでて、また福島の役所の方から代替り本役の沙汰もないうちから、新主人半蔵のために祝い振舞(ぶるまい)の時のしたくなぞを始めた。客は宿役人の仲間の衆。それに組頭一同。当日はわざと粗酒一献(こん)。そんな相談をおまんにするのも、この清助だ。

 青山、小竹両家で待たれる福島の役所からの剪紙(きりがみ/召喚状)が届いたのは、それから間もなかった。それには青山吉左衛門忰(せがれ)、年寄役小竹金兵衛忰、両人にて役所へまかりいでよとある。付添役二人、宿方惣代(そうだい)二人同道の上ともある。かねて願って置いた吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられ、跡役は二人の忰(せがれ)たちに命ずると書いてないまでも、その剪紙の意味はだれにでも読めた。

 半蔵も心を決した。彼は隣家の伊之助を誘って、福島をさして出かけた。木曾路に多い栗の林にぱらぱら時雨(しぐれ)の音の来るころには、やがて馬籠から行った惣代の一人、桝田屋の相続人小左衛門、それに下男の佐吉なぞと共に、一同連れだって福島からの帰路につく人たちであった。彼が奥筋から妻籠まで引き返して来ると、そこの本陣に寿平次が待ち受けていて、一緒に馬籠まで行こうという。「寿平次さん、とうとうわたしも君たちのお仲間入りをしちまいましたよ」。「みんなで寄ってたかって、半蔵さんを庄屋にしないじゃ置かないんです。お父さんも、さぞお喜びでしょう」。寿平次も笑ったり、祝ったりした。

 宮様御降嫁の当時、公武一和の説を抱いて供奉(ぐぶ)の列の中にあった岩倉、千種(ちぐさ)、富小路(とみのこうじ)の三人の公卿が近く差し控えを命ぜられ、つづいて蟄居を命ぜられ、すでに落飾(らくしょく)の境涯にあるというほど一変した京都の方の様子も深く心にかかりながら、半蔵は妻籠本陣に一晩泊まったあとで、また連れと一緒に街道を踏んで行った。妻籠からは、彼は自分を待ち受けてくれる人たちにと思って、念のために帰宅を報じて置いた。

 寿平次を加えてからの帰路は、一層半蔵に別な心持ちを起こさせた。大橋を渡り、橋場というところを過ぎて、下り谷(くだりだに)にかかった。歩けば歩くほど新生活のかどでにあるような、ある意識が彼の内部(なか)にさめて行った。「寿平次さん、君の方へは何か最近に来た便りがありますか――江戸からでも」。「さあ、最近に驚かされたと言えば、生麦(なまむぎ)事件ぐらいのものです」。「あの報知(しらせ)はわたしの方へも早く来ました。ほら、横須賀の旅に、あの辺は君と二人で歩いて通ったところなんですがね」。武州の生麦と言えば、勅使に随行した島津久光の一行、その帰国を急ぐ途中での八月二十一日あたりの出来事は江戸の方から知れて来ていた。

 あの英人の殺傷事件を想像しながら、木曾の尾垂(おたる)の沢深い山間(やまあい)を歩いて行くのは薄気味悪くもあるほど、まだそのうわさは半蔵らの記憶になまなましい。「寿平次さん、わたしはそれよりも、あの薩摩の同勢の急いで帰ったというのが気になりますよ。あれほどの事件が途中で起こったというのに、それをうっちゃらかして置いて行くくらいですからね。京都の方はどうでしょう。それほど雲行きが変わって来たんじゃありませんかね」。「さあねえ」。「寿平次さんは岩倉様の蟄居を命ぜられたことはお聞きでしたかい」。「そいつは初耳です」。「どうもいろいろなことをまとめて考えて見ると、何か京都の方には起こっている――」。「半蔵さんのお仲間からは何か言って来ますか。今じゃ平田先生の御門人で、京都に集まってる人もずいぶんあるんでしょう」。「しばらく景蔵さんからも便りがありません」。「なにしろ世の中は多事だ。これからの庄屋の三年は、お父さん時代の人たちの二十年に当たるかもしれませんね」。二人は話し話し歩いた。

 一石栃(いちこくとち)まで帰って行くと、そこは妻籠と馬籠の宿境にも近い。歩き遅れた半蔵らは連れの伊之助や小左衛門なぞに追いついて、峠の峰まで帰って行った。「へえ、旦那、おめでとうございます」。半蔵はその峰の上で、そこに自分を待ち受けている峠村の組頭、その他二、三の村のものの声を聞いた。清水というところまで帰って行った。馬籠の町内にある五人組の重立ったものが半蔵を出迎えた。陣場まで帰って行った。問屋の九郎兵衛、馬籠の組頭で百姓総代の庄助、本陣新宅の祝次郎、その他半蔵が内弟子の勝重から手習い子供まで、それに荒町からのものなぞを入れると、十六、七人ばかりの人たちが彼を出迎えた。上町(かみまち)まで帰って行くと、問屋九太夫をはじめ、桝田屋、蓬莱屋、梅屋、いずれももう髪の白いそれらの村の長老たちが改まった顔つきで、馬籠の新しい駅長をそこに待ち受けていた。
 
 「あなたは勤王家ですか」。「勤王家かとはなんだい」。「その方のお味方ですかッて、きいているんですよ」。「お民、どうしてお前はそんなことをおれにきくんだい」。半蔵は本陣の奥の上段の間にいた。そこは諸大名が宿泊する部屋にあててあるところで、平素はめったに家のものもはいらない。お民は仲の間の方から、そこに片づけものをしている夫を見に来た時だ。「どうしてということもありませんけれど、」とお民は言った。「お母(っか)さんがそんなことを言ってましたから」。半蔵は妻の顔をながめながら、「おれは勤王なんてことをめったに口にしたこともない。今日、自分で勤王家だなんて言う人の顔を見ると、おれはふき出したくなる。そういう人は勤王を売る人だよ。ごらんな――ほんとうに勤王に志してるものなら、かるがるしくそんなことの言えるはずもない」。「わたしはちょっときいて見たんですよ――お母さんがそんなことを言っていましたからね」。「だからさ、お前もそんなことを口にするんじゃないよ」。

 お民は周囲を見回した。そこは北向きで、広い床の間から白地に雲形を織り出した高麗縁(こうらいべり)の畳の上まで、茶室のような静かさ厳粛さがある。厚い壁を隔てて、街道の方の騒がしい物音もしない。部屋から見える坪庭には、山一つ隔てた妻籠より温暖(あたたか)な冬が来ている。「そう言えば、これは別の話ですけれど、こないだ兄さん(寿平次)が来た時に、わたしにそう言っていましたよ――平田先生の御門人は、幕府方から目をつけられているようだから、気をおつけッて」。「へえ、寿平次さんはそんなことを言っていたかい」。
将軍上洛  将軍上洛の前触れと共に、京都の方へ先行してその準備をしようとする一橋慶喜の通行筋はやはりこの木曾街道で、旧暦十月八日に江戸発駕(はつが)という日取りの通知まで来ているころだった。道橋の見分に、宿割(しゅくわり)に、その方の役人はすでに何回となく馬籠へも入り込んで来た。半蔵はこの山家に一橋公を迎える日のあるかと想(おも)って見て、上段の間を歩き回っていた。「どれ、お大根でも干して」。お民は出て行った。山家では沢庵漬けの用意なぞにいそがしかった。いずれももう冬じたくだ。野菜を貯(たくわ)えたり、赤蕪(かぶ)を漬けたりすることは、半蔵の家でも年中行事の一つのようになっていた。その時、半蔵は妻を見送ったあとで、彼女のそこに残して置いて行った言葉を考えて見た。深い窓にのみこもり暮らしているような継母のおまんが、しかも「わたしはもうお婆さんだ」を口癖にしている五十四歳の婦人で、いつのまに彼の志を看破(みやぶ)ったろうとも考えて見た。その心持ちから、彼は一層あの賢い継母を畏(おそ)れた。

 数日の後、半蔵は江戸の道中奉行所から来た通知を受け取って見て、一橋慶喜の上京がにわかに東海道経由となったことを知った。道普請まで命ぜられた木曾路の通行は何かの都合で模様替えになった。その冬の布告によると、将軍上洛の導従が東海道を通行するものが多いから、十二月九日以後は旅人は皆東山道を通行せよとある。「半蔵さま、来年は街道もごたごたしますぞ」。「さあ、おれもその覚悟だ」。清助と半蔵とはこんな言葉をかわした。

 年も暮れて行った。明ければ文久三年だ。その時になって見ると、東へ、東へと向かっていた多くの人の足は、全く反対な方角に向かうようになった。時局の中心はもはや江戸を去って、京都に移りつつあるやに見えて来た。それを半蔵は自分が奔走する街道の上に読んだ。彼も責任のあるからだとなってから、一層注意深い目を旅人の動きに向けるようになった。

 本馬(ほんま)六十三文、軽尻(からじり)四十文、人足四十二文、これは馬籠から隣宿美濃の落合までの駄賃として、半蔵が毎日のように問屋場の前で聞く声である。将軍上洛の日も近いと聞く新しい年の二月には、彼は京都行きの新撰組の一隊をこの街道に迎えた。一番隊から七番隊までの列をつくった人たちが雪の道を踏んで馬籠に着いた。いずれも江戸の方で浪士の募集に応じ、尽忠報国をまっこうに振りかざし、京都の市中を騒がす攘夷党の志士浪人に対抗して、幕府のために粉骨砕身しようという剣客ぞろいだ。一道の達人、諸国の脱藩者、それから無頼な放浪者なぞから成る二百四十人からの群れの腕が馬籠の問屋場の前で鳴った。
暮田正香  二月も末になって、半蔵のところへは一人の訪問者があった。宵(よい)の口を過ぎたころで、道に迷った旅人なぞの泊めてくれという時刻でもなかった。街道もひっそりしていた。「旦那、大草仙蔵というかたが見えています」。囲炉裏ばたで※造(わらづく)[「くさかんむり/稾」]りをしていた下男の佐吉がそれを半蔵のところへ知らせに来た。「大草仙蔵?」。「旦那にお目にかかればわかると言って、囲炉裏ばたの入り口の方においでたぞなし」。不思議に思って半蔵は出て見た。京都方面で奔走していると聞いた平田同門の一人が、着流しに雪駄(せった)ばきで、入り口の土間のところに立っていた。大草仙蔵とは変名で、実は先輩の暮田正香(くれたまさか)であった。

 「青山君、君にお願いがあって来ました」と客は言ったが、周囲に気を兼ねてすぐに切り出そうともしない。この先輩は歩き疲れたというふうで、上がり端(はな)のところに腰をおろした。ちょうど囲炉裏の方には人もいないのを見すまし、土間の壁の上に高く造りつけてある鶏の鳥屋(とや)まで見上げて、それから切り出した。「実は、今、中津川から歩いて来たところです。君のお友だちの浅見(景蔵)君はお留守ですが、ゆうべはあそこの家に泊めてもらいました。青山君、こんなにおそく上がって御迷惑かもしれませんが、今夜一晩御厄介になれますまいか。青山君はまだわたしたちのことを何もお聞きになりますまい」。「しばらく景蔵さんからも便りがありませんから」。「わたしはこれから伊那の方へ行って身を隠すつもりです」。客の言葉は短い。事情もよく半蔵にはわからない。しかし変名で夜おそく訪ねて来るくらいだ。それに様子もただではない。「この先輩は幕府方の探偵にでもつけられているんだ」。その考えがひらめくように半蔵の頭へ来た。「暮田さん、まあこっちへおいでください。しばらく待っていてください。くわしいことはあとで伺いましょう」。半蔵は土間にある草履を突ッかけながら、勝手口から裏の方へ通う木戸をあけた。その戸の外に正香を隠した。

 とにかく、厄介な人が舞い込んで来た。村には目証(めあかし)も滞在している。狭い土地で人の口もうるさい。どうしたら半蔵はこの夜道に疲れて来た先輩を救って、同志も多く安全な伊那の谷の方へ落としてやることができようと考えた。家には、と見ると、父は正月以来裏の二階へ泊まりに行っている。お民は奥で子供らを寝かしつけている。通いで来る清助はもう自宅の方へ帰って行っている。弟子の勝重はまだ若し、佐吉や下女たちでは用が足りない。「これはお母(っか)さんに相談するにかぎる」。その考えから、半蔵はありのままな事情を打ち明けて、客をかくまってもらうために継母のおまんを探(さが)した。 「平田先生の御門人か。一晩ぐらいのことなら、土蔵の中でもよろしかろう」。おまんは引き受け顔に答えた。

 暮田正香は半蔵と同国の人であるが、かつて江戸に出て水戸藩士藤田東湖の塾に学んだことがあり、東湖没後に水戸の学問から離れて平田派の古学に目を見開いたという閲歴を持っている。信州北伊那郡小野村の倉沢義髄(よしゆき)を平田鉄胤(かねたね)の講筵(こうえん)に導いたのも、この正香である。後に義髄は北伊那における平田派の先駆をなしたという関係から、南信地方に多い平田門人で正香の名を知らないものはない。この人を裏の土蔵の方へ導こうとして、おまんは提灯を手にしながら先に立って行った。半蔵も蓙(ござ)や座蒲団なぞを用意してそのあとについた。「足もとにお気をつけくださいよ。石段を降りるところなぞがございますよ」とおまんは客に言って、やがて土蔵の中に用でもあるように、大きな鍵で錠前をねじあけ、それを静かに抜き取った。金網の張ってある重い戸があくと、そこは半蔵夫婦が火災後しばらく仮住居にもあてたところだ。蓙でも敷けば、客のいるところぐらい設けられないこともなかった。「お客さんはお腹(なか)がおすきでしたろうね」。それとなくおまんが半蔵にきくと、正香はやや安心したというふうで、「いや、したくは途中でして来ました。なにしろ、京都を出る時は、二昼夜歩き通しに歩いて、まるで足が棒のようでした。それから昼は隠れ、夜は歩くというようにして、ようやくここまでたどり着きました」。おまんは提灯の灯(ひ)を片すみの壁に掛け、その土蔵の中に二人のものを置いて立ち去った。「半蔵、お客さんの夜具はあとから運ばせますよ」との言葉をも残した。
 「青山君、やりましたよ」。二人ぎりになった時、正香はそんなことを言い出した。その調子が半蔵には、実に無造作にも、短気にも、とっぴにも、また思い詰めたようにも聞こえた。同志九人、その多くは平田門人あるいは準門人であるが、等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って、二十三日の夜にそれを三条河原に晒(さら)しものにしたという。それには、今の世になってこの足利らが罪状の右に出るものがある、もし旧悪を悔いて忠節を抽(ぬき)んでることがないなら、天下の有志はこぞってその罪を糺(ただ)すであろうとの意味を記し添えたという。ところがこの事を企てた仲間のうちから、会津方(京都守護の任にある)の一人の探偵があらわれて、同志の中には縛に就いたものもある。正香は二昼夜兼行でその難をのがれて来たことを半蔵の前に白状したのであった。

 正香に言わせると、将軍上洛の日も近い。三条河原の光景は、それに対する一つの示威である、尊王の意志の表示である、死んだ武将の木像の首を晒(さら)しものにするようなことは子供らしい戯れとも聞こえるが、しかしその道徳的な効果は大きい、自分らはそれをねらったのであると。この先輩の大胆さには、半蔵も驚かされた。「物学びするともがら」の実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったかと考えさせられた。同時に、平田大人(うし)没後の門人と一口には言っても、この先輩に水戸風な学者の影響の多分に残っていることは争えないとも考えさせられた。

 「だれか君を呼ぶ声がする」。正香は戸に近づく人のけはいを聞きとがめるようにして、耳のところへ手をあてがった。半蔵も耳を澄ました。お民だ。彼女は佐吉に手伝わせて客の寝道具をそこへ持ち運んで来た。「暮田さん、非常にお疲れのようですから、これでわたしも失礼します。お話はあす伺います。お休みください」。そのまま半蔵は正香のそばを離れて、母屋(もや)の方へ帰って行った。どれほどの人の動き始めたとも知れないような京都の方のことを考え、そこにある友人の景蔵のことなぞを考えて、その晩は彼もよく眠られなかった。

 翌日の昼過ぎに、半蔵はこっそり正香を見に行った。御膳何人前、皿(さら)何人前と箱書きのしてある器物の並んだ土蔵の棚を背後(うしろ)にして、蓙(ござ)を敷いた座蒲団の上に正香がさびしそうにすわっていた。前の晩に見た先輩の近づきがたい様子とも違って、多感で正直な感じのする一人の国学者をそこに見つけた。

 その時、半蔵は腰につけて持って行った瓢箪(ふくべ)を取り出した。木盃(もくはい)を正香の前に置いた。くたぶれて来た旅人をもてなすようにして、酒を勧めた。「ほ」と正香は目をまるくして、「君はめずらしいものをごちそうしてくれますね」。「これは馬籠の酒です。伏見屋と桝田屋と、二軒で今造っています。一つ山家の酒を味わって見てください」。「どうも瓢箪のように口の小さいものから出る酒は、音からして違いますね。コッ、コッ、コッ、コッ――か。長道中でもして来た時には、これが何よりですよ」。まるで子供のようなよろこび方だ。

 この先輩が瓢箪から出る酒の音を口まねまでしてよろこぶところは、前の晩に拳(こぶし)を握り固め、五本の指を屈(かが)め、後ろから髻(やぶさ)でもつかむようにして、木像の首を引き抜く手まねをして見せながら等持院での現場の話を半蔵に聞かせたその同じ豪傑とも見えなかった。そればかりではない。京都麩屋町(ふやまち)の染め物屋で伊勢久(いせきゅう)と言えば理解のある義気に富んだ商人として中津川や伊那地方の国学者で知らないもののない人の名が、この正香の口から出る。

 平田門人、三輪田綱一郎、師岡正胤(もろおかまさたね)なぞのやかましい連中が集まっていたという二条衣(ころも)の棚――それから、同門の野代広助、梅村真一郎、それに正香その人をも従えながら、秋田藩物頭役(ものがしらやく)として入京していた平田鉄胤が寓居(ぐうきょ)のあるところだという錦小路(にしきこうじ)――それらの町々の名も、この人の口から出る。

 伊那から出て、公卿と志士の間の連絡を取ったり、宮廷に近づいたり、鉄胤門下としてあらゆる方法で国学者の運動を助けている松尾多勢子(たせこ)のような婦人とも正香は懇意にして、その人が帯の間にはさんでいる短刀、地味な着物に黒繻子(くろじゅす)の帯、長い笄(こうがい)、櫛巻(くしま)きにした髪の姿までを話のなかに彷彿(ほうふつ)させて見せる。日ごろ半蔵が知りたく思っている師鉄胤や同門の人たちの消息ばかりでなく、京都の方の町の空気まで一緒に持って来たようなのも、この正香だ。

 「そう言えば、青山君」と正香は手にした木盃を下に置いて、膝(ひざ)をかき合わせながら言った。「君は和宮さまの御降嫁あたりからの京都をどう思いますか。薩摩が来る、長州が来る、土佐が来る、今度は会津が来る。諸大名が動いたから、機運が動いて来たと思うのは大違いさ。機運が動いたからこそ、薩州公などは鎮撫(ちんぶ)に向かって来たし、長州公はまた長州公で、藩論を一変して乗り込んで来た。そりゃ、君、和宮さまの御降嫁だっても、この機運の動いてることを関東に教えたのさ。ところが関東じゃ目がさめない。勅使下向となって、慶喜公は将軍の後見に、越前公は政事総裁にと、手を取るように言って教えられて、ようやくいくらか目がさめましたろうさ。しかし、君、世の中は妙なものじゃありませんか。あの薩州公や、越前公や、それから土州公なぞがいくらやきもきしても、名君と言われる諸大名の力だけでこの機運をどうすることもできませんね。

 まあ薩州公が勅使を奉じて江戸の方へ行ってる間にですよ、もう京都の形勢は一変していましたよ。この正月の二十一日には、大坂にいる幕府方の名高い医者を殺して、その片耳を中山大納言の邸(やしき)に投げ込むものがある。二十八日には千種(ちがさ)家の臣(けらい)を殺して、その右の腕を千種家の邸に、左の腕を岩倉家の邸に投げ込むものがある。攘夷の血祭りだなんて言って、そりゃ乱脈なものさ。岩倉様なぞが恐れて隠れるはずじゃありませんか。

 まあ京都へ行って見たまえ、みんな勝手な気焔(きえん)を揚げていますから。中にはもう関東なんか眼中にないものもいますから。こないだもある人が、江戸のようなところから来て見ると、京都はまるで野蛮人の巣だと言って、驚いていましたよ。そのかわり活気はあります。参政寄人(よりうど)というような新しいお公家様の政事団体もできたし、どんな草深いところから出て来た野人でも、学習院へ行きさえすれば時事を建白することができる。見たまえ――今の京都には、なんでもある。公武合体から破約攘夷まである。そんなものが渦(うず)を巻いてる。ところでこの公武合体ですが、こいつがまた眉唾物(まゆつばもの)ですて。そこですよ、わたしたちは尊王の旗を高く揚げたい。ほんとうに機運の向かうところを示したい。足利尊氏のような武将の首を晒しものにして見せたのも、実を言えばそんなところから来ていますよ」。

 「暮田(くれた)さん」と半蔵は相手の長い話をさえぎった。「鉄胤先生は、いったいどういう意見でしょう」。「わたしたちの今度やった事件にですか。そりゃ君、鉄胤先生にそんな相談をすれば、笑われるにきまってる。だからわたしたちは黙って実行したんです。三輪田元綱がこの事件の首唱者なんですけれど、あの晩は三輪田は同行しませんでした」。沈黙が続いた。

 半蔵はそう長くこの珍客を土蔵の中に隠して置くわけに行かなかった。暮れないうちに早く馬籠を立たせ、すくなくもその晩のうちに清内路(せいないじ)までは行くことを教えねばならなかった。清内路まで行けば、そこは伊那道にあたり、原信好(のぶよし)のような同門の先輩が住む家もあったからで。半蔵は正香にきいた。「暮田さんは、木曾路は初めてですか」。「権兵衛街道から伊那へはいったことはありますが、こっち[底本では「こつち」]の方は初めてです」。「そんなら、こうなさるといい。これから妻籠(つまご)の方へ向かって行きますと、橋場(はしば)というところがありますよ。あの大橋を渡ると、道が二つに分かれていまして、右が伊那道です。実は母とも相談しまして、橋場まで吾家(うち)の下男に送らせてあげることにしました」。「そうしていただけば、ありがたい」。「あれから先はかなり深い山の中ですが、ところどころに村もありますし、馬も通います。中津川から飯田へ行く荷物はあの道を通るんです。蘭川(あららぎがわ)について東南へ東南へと取っておいでなさればいい」。

 おまんは着流しでやって来た客のために、脚絆(きゃはん)などを母屋(もや)の方から用意して来た。粗末ではあるが、と言って合羽(かっぱ)まで持って来て客に勧めた。佐吉も心得ていると見えて、土蔵の前には新しい草鞋がそろえてあった。正香は性急な人で、おまんや半蔵の見ている前で無造作に合羽へ手を通した。礼を述べるとすぐ草鞋をはいて、その足で土蔵の前の柿の木の下を歩き回った。「暮田さん、わたしもそこまで御一緒にまいります」と言って、半蔵は表門から出ずに、裏の木小屋の方へ客を導いた。木戸を押すと、外に本陣の稲荷(いなり)がある。竹藪がある。石垣がある。小径(こみち)がある。その小径について街道を横ぎって行った。樋(とい)をつたう水の奔(はし)り流れて来ているところへ出ると、静かな村の裏道がそこに続いている。

 その時、正香はホッと息をついた。半蔵や佐吉に送られて歩きながら、「青山君、篤胤(あつたね)先生の古史伝を伊那の有志が上木(じょうぼく)しているように聞いていますが、君もあれには御関係ですかね」。「そうですよ。去年の八月に、ようやく第一帙(ちつ)を出しましたよ」。「地方の出版としては、あれは大事業ですね。秋田(篤胤の生地)でさえ企てないようなことを伊那の衆が発起してくれたと言って、鉄胤先生なぞもあれには身を入れておいででしたっけ。なにしろ、伊那の方はさかんですね。先生のお話じゃ、毎年門人がふえるというじゃありませんか」。「ある村なぞは、全村平田の信奉者だと言ってもいいくらいでしょう。そのくせ、松沢義章という人が行商して歩いて、小間物類をあきないながら道を伝えた時分には、まだあの谷には古学というものはなかったそうですが」。「機運やむべからずさ。本居、平田の学説というものは、それを正しいとするか、あるいは排斥するか、すくなくも今の時代に生きるもので無関心ではいられないものですからねえ」。

 あわただしい中にも、送られる正香と、送る半蔵との間には、こんな話が尽きなかった。半蔵は峠の上まで客と一緒に歩いた。別れぎわに、「暮田さんは、宮川寛斎という医者を御存じでしょうか」。「美濃の国学者でしょう。名前はよく聞いていますが、ついあったことはありません」。「中津川の景蔵さん、香蔵さん、それにわたしなぞは、三人とも旧(ふるい)い弟子ですよ。鉄胤先生に紹介してくだすったのも宮川先生です。あの先生も今じゃ伊那の方ですが、どうしておいででしょうか――」。「そう言えば、青山君は鉄胤先生に一度あったきりだそうですね。一度あったお弟子でも、十年そばにいるお弟子でも、あの鉄胤先生には同じようだ。君の話もよく出ますよ」。この人の残して置いて行った言葉も、半蔵には忘れられなかった。

 もはや、暖かい雨がやって来る。二月の末に京都を発(た)って来たという正香は尾張や仙台のような大藩の主人公らまで勅命に応じて上京したことは知るまいが、ちょうどあの正香が夜道を急いで来るころに、この木曾路には二藩主の通行もあった。三千五百人からの尾張の人足が来て馬籠の宿に詰めた。あの時、二百四十匹の継立(つぎた)ての馬を残らず雇い上げなければならなかったほどだ。木曾街道筋の通行は初めてと聞く仙台藩主の場合にも、時節柄同勢やお供は減少という触れ込みでも、千六百人の一大旅行団が京都へ向けてこの宿場を通過した。しかも応接に困難な東北弁で。「半蔵、お前のところへ来たお客さんも、無事に伊那の小野村まで落ち延びていらしったろうか」。
 こんなうわさをおまんがするころは、そこいらは桃の春だった。一橋慶喜の英断に出た参覲交代制度の変革の結果は、驚かれるほどの勢いでこの街道にあらわれて来るようになった。旧暦三月のよい季節を迎えて見ると、あの江戸の方で上巳(じょうみ)の御祝儀を申し上げるとか、御能(おのう)拝見を許されるとか、または両山の御霊屋(おたまや)へ参詣するとかのほかには、人質も同様に、堅固で厳重な武家屋敷のなかにこもり暮らしていたどこの簾中(れんちゅう)とかどこの若殿とかいうような人たちが、まるで手足の鎖を解き放たれたようにして、続々帰国の旅に上って来るようになった。越前の女中方、尾張の若殿に簾中、紀州の奥方ならびに女中方、それらの婦人や子供の一行が江戸の方から上って来て、いずれも本陣や問屋の前に駕籠を休めて行った。尾州の家中成瀬隼人正(はやとのしょう)の女中方、肥前島原の女中方、因州の女中方なぞの通行が続きに続いた。これが馬籠峠というところかの顔つきの婦人もある。ようやく山の上の空気を自由に吸うことができたと言いたげな顔つきのものもある。半蔵の家に一泊ときめて、五、六人で比丘尼寺(びくにでら)の蓮池(はすいけ)の方まで遊び回り、谷川に下帯洗濯なぞをして来る女中方もある。

 上の伏見屋の金兵衛は、半蔵の父と同じようにすでに隠居の身であるが、持って生まれた性分からじっとしていられなかった。きのうは因州の分家にあたる松平隠岐守の女中方が通り、きょうは岩村の簾中方が子供衆まで連れての通行があると聞くと、そのたびに旧い友だちを誘いに来た。「吉左衛門さん、いくら御静養中だって、そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。まあすこし出てごらんなさい。おきれいと言っていいか、おみごとと言っていいか、わたしは拝見しているうちに涙がこぼれて来ますよ」。毎日のような女中方の通行だ。半蔵や伊之助は見物どころではなかった。この帰国する人たちの通行にかぎり、木曾下四宿へ五百人の新助郷が許され、特にお定めより割のよい相対雇(あいたいやと)いの賃銭まで許され、百人ばかりの伊那の百姓は馬籠へも来て詰めていた。町人四分、武家六分と言われる江戸もあとに見捨てて来た屋敷方の人々は、住み慣れた町々の方の財界の混乱を顧みるいとまもないようであった。「国もとへ、国もとへ」。その声は――解放された諸大名の家族が揚げるその歓呼は――過去三世紀間の威力を誇る東照宮の覇業も、内部から崩れかけて行く時がやって来たかと思わせる。中には、一団の女中方が馬籠の町のなかだけを全部徒歩(おひろい)で、街道の両側に群がる普通の旅行者や村の人たちの間を通り過ぎるのもある。桃から山桜へと急ぐ木曾の季節のなかで、薩州の御隠居、それから女中の通行のあとには、また薩州の簾中の通行も続いた。





(私論.私見)