夜明け前第一部上の5

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【夜明け前第一部上の5、第四章】
 一
安政大獄  中津川の商人、万屋(よろずや)安兵衛、手代(てだい)嘉吉、同じ町の大和屋李助(やまとやりすけ)、これらの人たちが生糸売り込みに目をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃を出発して来たのはやがて安政六年の十月を迎えたころである。中津川の医者で、半蔵のい師匠にあたる宮川寛斎も、この一行に加わって来た。もっとも、寛斎はただの横浜見物ではなく、やはり出稼ぎの一人として――万屋安兵衛の書役(かきやく)という形で。

 一行四人は中津川から馬籠峠を越え、木曾街道を江戸へと取り、ひとまず江戸両国の十一屋に落ち着き、あの旅籠屋を足だまりとして、それから横浜へ出ようとした。木曾出身で世話好きな十一屋の隠居は、郷里に縁故の深い美濃衆のためにも何かにつけて旅の便宜を計ろうとするような人だ。この隠居は以前に馬籠本陣の半蔵を泊め、今また寛斎の宿をして、弟子と師匠とを江戸に迎えるということは、これも何かの御縁であろうなどと話した末に言った。「皆さまは神奈川泊まりのつもりでお出かけになりませんと、浜にはまだ旅籠屋もございますまいよ。神奈川の牡丹屋(ぼたんや)、あそこは古くからやっております。牡丹屋なら一番安心でございますぞ」。こんな隠居の話を聞いて、やがて一行四人のものは東海道筋を横浜へ向かった。

 横浜もさみしかった。地勢としての横浜は神奈川より岸深(きしぶか)で、海岸にはすでに波止場も築(つ)き出されていたが、いかに言ってもまだ開けたばかりの港だ。たまたま入港する外国の貿易船があっても、船員はいずれも船へ帰って寝るか、さもなければ神奈川まで来て泊まった。下田を去って神奈川に移った英国、米国、仏国、オランダ等の諸領事はさみしい横浜よりもにぎやかな東海道筋をよろこび、いったん仮寓(かぐう)と定めた本覚寺その他の寺院から動こうともしない。こんな事情をみて取った寛斎らは、やはり十一屋の隠居から教えられたとおりに、神奈川の牡丹屋に足をとどめることにした。この出稼ぎは、美濃から来た四人のものにとって、かなりの冒険とも思われた。中津川から神奈川まで、百里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶということすら容易でない。おまけに、相手は、全く知らない異国の人たちだ。

 当時、異国のことについては、実にいろいろな話が残っている。ある異人が以前に日本へ来た時、この国の女を見て懸想(けそう)した。異人はその女をほしいと言ったが、許されなかった。そんなら女の髪の毛を三本だけくれろと言うので、しかたなしに三本与えた。ところが、どうやらその女は異人の魔法にでもかかったかして、とうとう異国へ往(い)ってしまったという。その次ぎに来た異人がまた、女の髪の毛を三本と言い出したから、今度は篩(ふるい)の毛を三本抜いて与えた。驚くべきことには、その篩が天に登って、異国へ飛んで往ったともいう。これを見たものはびっくりして、これは必ず切支丹(キリシタン)に相違ないと言って、皆な大いに恐懼(おそれ)を抱(いだ)いたとの話もある。

 異国に対する無知が、およそいかなる程度のものであったかは、黒船から流れ着いた空壜(あきびん)の話にも残っている。アメリカのペリイが来航当時のこと、多くの船員を乗せた軍艦からは空壜を海の中へ投げすてた。その投げすてられたものが風のない時は、底の方が重く口ばかり海面に出ていて、水がその中にはいるから、浪のまにまに自然と海岸に漂着する。それを拾って黙って家に持ちかえるものは罰せられた。だから、こういうものが流れ着いたと言って、一々届け出なければならない。その時の役人の言葉に、これは先方で毒を入れて置くものに相違ない、もしこの中に毒がはいっていたら大変だ、さもなければこんなものを流す道理もない、きっと毒が盛ってあって日本人を苦しめようという軍略であろう、ついては一か所捨て置く場所を設ける、心得違いのものがあって万一届け出ない場合があったら直ちに召し捕(と)るとのきびしい触れを出したものだ。そこであっちの村から五本、こっちの村から三本、と続々届け出るものがある。役人らは毎日それを取り上げ、一軒の空屋(あきや)を借り受け、そのなかに積んで置いて、厳重な戸締まりをした。それが異人らの日常飲用する酒の空壜であるということすらわからなかったという。

 すべてこの調子だ。籐椅子(とういす)が風のために漂着したと言っては不思議がり、寝椅子が一個漂着したと言っては不思議がった。ペリイ出帆の翌日、アメリカ側から幕府への献上物の中には、壜詰(びんづめ)、罐詰(かんづめ)、その他の箱詰があり、浦賀奉行への贈り物があったが、これらの品々は江戸へ伺い済みの上で、浦賀の波止場で焼きすてたくらいだ。後日の祟(たた)りをおそれたのだ。実際、寛斎が中津川の商人について神奈川へ出て来たのは、そういう黒船の恐怖からまだ離れ切ることができなかったころである。

 ちょうど、時は安政大獄(あんせいのたいごく)のあとにあたる。彦根の城主、井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)が大老の職に就いたころは、どれほどの暗闘と反目とがそこにあったかしれない。彦根と水戸。紀州と一橋(ひとつばし)。幕府内の有司と有司。その結果は神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれて来た。しかもそれらは大きな抗争の序幕であったに過ぎぬ。井伊大老の期するところは沸騰した国論の統一にあったろうけれど、彼は世にもまれに見る闘士として政治の舞台にあらわれて来た。いわゆる反対派の張本人なる水戸の御隠居(烈公)を初め、それに荷担した大名有司らが謹慎や蟄居(ちっきょ)を命ぜられたばかりでなく、強い圧迫は京都を中心に渦巻き始めた新興勢力の苗床(なえどこ)にまで及んで行った。京都にある鷹司(たかつかさ)、近衛(このえ)、三条の三公は落飾(らくしょく)を迫られ、その他の公卿(くげ)たちの関東反対の嫌疑のかかったものは皆な謹慎を命ぜられた。老女と言われる身で、囚人として江戸に護送されたものもある。

 民間にある志士、浪人、百姓、町人などの捕縛と厳刑とが続きに続いた。一人は切腹に、一人は獄門に、五人は死罪に、七人は遠島に、十一人は追放に、九人は押込(おしこめ)に、四人は所払(ところばら)いに、三人は手鎖(てじょう)に、七人は無構(かまいなし)に、三人は急度叱(きっとしかり)りに。勤王攘夷の急先鋒と目ざされた若狭(わかさ)の梅田雲浜(うんぴん)のように、獄中で病死したものが別に六人もある。水戸の安島帯刀(あじまたてあき)越前の橋本左内(さない)、京都の頼鴨崖(おうがい)、長州の吉田松陰なぞは、いずれも恨みをのんで倒れて行った人たちである。

 こんな周囲の空気の中で、だれもがまだ容易に信用しようともしない外国人の中へ、中津川の商人らは飛び込んで来た。神奈川条約はすでに立派に調印されて、外国貿易は公然の沙汰となっている。生糸でも売り込もうとするものにとって、なんの憚(はばか)るところはない。寛永十年以来の厳禁とされた五百石以上の大船を造ることも許されて、海はもはや事実において解放されている。遠い昔の航海者の夢は、二百何十年の長い鎖国の後に、また生き還(かえ)るような新しい機運に向かって来ている。

 寛斎がこの出稼ぎに来たころは六十に近かった。田舎(いなか)医者としての彼の漢方で治療の届くかぎりどんな患者でも診(み)ないことはなかったが、中にも眼科を得意にし、中津川の町よりも近在回りを主にして、病家から頼まれれば峠越しに馬籠へも行き、三留野(みどの)へも行き、蘭(あららぎ)、広瀬から清内路(せいないじ)の奥までも行き、余暇さえあれば本を読み、弟子を教えた。学問のある奇人のように言われて来たこの寛斎が医者の玄関も中津川では張り切れなくなったと言って、信州飯田の在に隠退しようと考えるようになったのも、つい最近のことである。今度一緒に来た万屋(よろずや)の主人は日ごろ彼が世話になる病院先のことであり、生糸売り込みもよほどの高に上ろうとの見込みから、彼の力にできるだけの手伝いもして、その利得を分けてもらうという約束で来ている。彼ももう年をとって、何かにつけて心細かった。最後の「隠れ家(が)」に余生を送るよりほかの願いもなかった。

 さしあたり寛斎の仕事は、安兵衛らを助けて横浜貿易の事情をさぐることであった。新参の西洋人は内地の人を引きつけるために、なんでも買い込む。どうせ初めは金を捨てなければいけないくらいのことは外国商人も承知していて、気に入らないものでも買って見せる。江戸の食い詰め者で、二進(にっち)も三進(さっち)も首の回らぬ連中なぞは、一つ新開地の横浜へでも行って見ようという気分で出かけて来る時だ。そういう連中が持って来るような、二文か三文の資本(もとで)で仕入れられるおもちゃ[底本では「おもちや」]の類(たぐい)でさえ西洋人にはめずらしがられた。徳川大名の置き物とさえ言えば、仏壇の蝋燭立(ろうそくだ)てを造りかえたような、いかがわしい骨董品(こっとうひん)でさえ二両の余に売れたという。まだ内地の生糸商人はいくらも入り込んでいない。万屋(よろずや)安兵衛、大和屋李助(りすけ)なぞにとって、これは見のがせない機会だった。

 だんだん様子がわかって来た。神奈川在留の西洋人は諸国領事から書記まで入れて、およそ四十人は来ていることがわかった。紹介してもらおうとさえ思えば、適当な売り込み商の得られることもわかった。おぼつかないながらも用を達(た)すぐらいの通弁は勤まるというものも出て来た。やがて寛斎は安兵衛らと連れだって、一人の西洋人を見に行った。二十戸ばかりの異人屋敷、最初の居留地とは名ばかりのように隔離した一区域が神奈川台の上にある。そこに住む英国人で、ケウスキイという男は、横浜の海岸通りに新しい商館でも建てられるまで神奈川に仮住居(かりずまい)するという貿易商であった。初めて寛斎の目に映るその西洋人は、羅紗(らしゃ)の丸羽織を着、同じ羅紗の股引(ももひき)をはき、羽織の紐(ひも)のかわりに釦(ぼたん)を用いている。手まわりの小道具一切を衣裳(いしょう)のかくしにいれているのも、異国の風俗だ。たとえば手ぬぐいは羽織のかくしに入れ、金入れは股引のかくしに入れ、時計は胴着のかくしに入れて鎖を釦の穴に掛けるというふうに。履物(はきもの)も変わっている。獣の皮で造った靴が日本で言って見るなら雪駄(せった)の代わりだ。

 安兵衛らの持って行って見せた生糸の見本は、ひどくケウスキイを驚かした。これほど立派な品ならどれほどでも買おうと言うらしいが、先方の言うことは燕(つばめ)のように早口で、こまかいことまでは通弁にもよくわからない。ケウスキイはまた、安兵衛らの結い立ての髷(まげ)や、すっかり頭を円(まる)めている寛斎の医者らしい風俗をめずらしそうにながめながら、煙草(たばこ)なぞをそこへ取り出して、客にも勧めれば自分でもうまそうに服(の)んで見せた。寛斎が近く行って見たその西洋人は、髪の毛色こそ違い、眸(ひとみ)の色こそ違っているが、黒船の連想と共に起こって来るような恐ろしいものでもない。幽霊でもなく、化け物でもない。やはり血の気の通(かよ)っている同じ人間の仲間だ。

 「糸目百匁あれば、一両で引き取ろうと言っています」。この売り込み商の言葉に、安兵衛らは力を得た。百匁一両は前代未聞の相場であった。早い貿易の様子もわかり、糸の値段もわかった。この上は一日も早く神奈川を引き揚げ、来る年の春までにはできるだけ多くの糸の仕入れもして来よう。このことに安兵衛と李助は一致した。二人が見本のつもりで持って来て、牡丹屋(ぼたんや)の亭主に預かってもらった糸まで約束ができて、その荷だけでも一個につき百三十両に売れた。「宮川先生、あなただけは神奈川に残っていてもらいますぜ」と安兵衛は言ったが、それはもとより寛斎も承知の上であった。「先生も一人で、鼠(ねずみ)にでも引かれないようにしてください」。手代の嘉吉は嘉吉らしいことを言って、置いて行くあとの事を堅く寛斎に託した。中津川と神奈川の連絡を取ることは、一切寛斎の手にまかせられた。
 二
 十一月を迎えるころには、寛斎は一人牡丹屋の裏二階に残った。「なんだかおれは島流しにでもなったような気がする」と寛斎は言って、時には孤立のあまり、海の見える神奈川台へ登りに行った。坂になった道を登れば神奈川台の一角に出られる。目にある横浜もさびしかった。あるところは半農半漁の村民を移住させた町であり、あるところは運上所(うんじょうしょ)(税関)を中心に掘立小屋(ほったてこや)の並んだ新開の一区域であり、あるところは埋め立てと繩張りの始まったばかりのような畑と田圃の中である。弁天の杜(もり)の向こうには、ところどころにぽつんぽつん立っている樹木が目につく。全体に湿っぽいところで、まだ新しい港の感じも浮かばない。

 長くは海もながめていられなくて、寛斎は逃げ帰るように自分の旅籠屋へ戻った。二階の窓で聞く鴉(からす)の声も港に近い空を思わせる。その声は郷里にある妻や、子や、やがては旧(ふる)い弟子たちの方へ彼の心を誘った。

 古い桐(きり)の机がある。本が置いてある。そのそばには弟子たちが集まっている。馬籠本陣の子息(むすこ)がいる。中津川和泉屋(いずみや)の子息がいる。中津川本陣の子息も来ている。それは十余年前に三人の弟子の顔のよくそろった彼の部屋の光景である。馬籠の青山半蔵、中津川の蜂谷香蔵、同じ町の浅見景蔵――あの三人を寛斎が戯れに三蔵と呼んで見るのを楽しみにしたほど、彼のもとへ本を読みに通って来たかずかずの若者の中でも、末頼もしく思った弟子たちである。ことに香蔵は彼が妻の弟にあたる親戚の間柄でもある。みんなどういう人になって行くかと見ている中にも、半蔵の一本気と正直さと来たら、一度これが自分らの行く道だと見さだめをつけたら、それを改めることも変えることもできないのが半蔵だ。考え続けて行くと、寛斎はそばにいない三人の弟子の前へ今の自分を持って行って、何か弁解せずにはいられないような矛盾した心持ちに打たれて来た。「待てよ、いずれあの連中はおれの出稼(でかせ)ぎを疑問にしているに相違ない」。

 「金銀欲(ほ)しからずといふは、例の漢やうの虚偽にぞありける」。この大先達(だいせんだつ)の言葉、『玉かつま』の第十二章にある本居宣長のこの言葉は、今の寛斎にとっては何より有力な味方だった。金もほしいと思いながら、それをほしくないようなことを言うのは、例の漢学者流の虚偽だと教えてあるのだ。「だれだって金のほしくないものはない」。そこから寛斎のように中津川の商人について、横浜出稼ぎということも起こって来た。本居大人(うし)のような人には虚心坦懐というものがある。その人の前にはなんでも許される。しかし、血気壮(さか)んで、単純なものは、あの寛大な先達のように貧しい老人を許しそうもない。そういう寛斎は、本居、平田諸大人の歩いた道をたどって、早くも古代復帰の夢想を抱いた一人である。この夢想は、京都を中心に頭を持ち上げて来た勤王家の新しい運動に結びつくべき運命のものであった。彼の教えた弟子の三人が三人とも、勤王家の運動に心を寄せているのも、実は彼が播(ま)いた種だ。今度の大獄に連座した人たちはいずれもその渦中(かちゅう)に立っていないものはない。その中には、六人の婦人さえまじっている。感じやすい半蔵らが郷里の方でどんな刺激を受けているかは、寛斎はそれを予想でありありと見ることができた。

 その時になって見ると、旧い師匠と弟子との間にはすでによほどの隔たりがある。寛斎から見れば、半蔵らの学問はますます実行的な方向に動いて来ている。彼も自分の弟子を知らないではない。古代の日本人に見るような「雄心(おごころ)」を振るい起こすべき時がやって来た、さもなくて、この国創(はじ)まって以来の一大危機とも言うべきこんな艱難(かんなん)な時を歩めるものではないという弟子の心持ちもわかる。

 新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた。先入主となった黒船の強い印象は容易にこの国の人の心を去らない。横浜、長崎、函館の三港を開いたことは井伊大老の専断であって、朝廷の許しを待ったものではない。京都の方面も騒がしくて、賢い帝(みかど)の心を悩ましていることも一通りでないと言い伝えられている。開港か、攘夷か。これほど矛盾を含んだ言葉もない。また、これほど当時の人たちの悩みを言いあらわした言葉もない。前者を主張するものから見れば攘夷は実に頑執妄排(がんしゅうもうはい)であり、後者を主張するものから見れば開港は屈従そのものである。どうかして自分らの内部(なか)にあるものを護(まも)り育てて行こうとしているような心ある人たちは、いずれもこの矛盾に苦しみ、時代の悩みを悩んでいたのだ。

 牡丹屋の裏二階からは、廊下の廂(ひさし)に近く枝をさし延べているの樹(しいのき)の梢(こずえ)が見える。寛斎はその静かな廊下に出て、ひとりで手をもんだ。「おれも、平田門人の一人として、こんな恐ろしい大獄に無関心でいられるはずもない。しかし、おれには、あきらめというものができた」。「さぞ、御退屈さまでございましょう」。そう言って、牡丹屋の年とった亭主はよく寛斎を見に来る。東海道筋にあるこの神奈川の宿は、古いといえば古い家で、煙草盆(たばこぼん)は古風な手さげのついたのを出し、大きな菓子鉢(ばち)には扇子形(せんすがた)の箸入(はしい)れを添えて出すような宿だ。でも、わざとらしいところは少しもなく、客扱いも親切だ。

 寛斎は日に幾たびとなく裏二階の廊下を往(い)ったり来たりするうちに、目につく椎の風情(ふぜい)から手習いすることを思いついた。枝に枝のさした冬の木にながめ入っては、しきりと習字を始めた。そこへ宿の亭主が来て見て、「オヤ、御用事のほかはめったにお出かけにならないと思いましたら、お手習いでございますか」。「六十の手習いとはよく言ったものさね」。「手前どもでも初めての孫が生まれまして、昨晩は七夜(しちや)を祝いました。いろいろごだごだいたしました。さだめし、おやかましかろうと存じます」。こんな言葉も、この亭主の口から聞くと、ありふれた世辞とは響かなかった。横浜の海岸近くに大きな玉楠(たまぐす)の樹がしげっている、世にやかましい神奈川条約はあの樹の下で結ばれたことなぞを語って見せるのも、この亭主だ。あの辺は駒形水神の杜と呼ばれるところで、玉楠の枝には巣をかける白い鴉があるが、毎年冬の来るころになるとどこともなく飛び去ると言って見せるのも、この亭主だ。生糸の売り込みとはなんと言ってもよいところへ目をつけたものだ、外国貿易ももはや売ろうと買おうと勝手次第だ、それでも御紋付きの品々、雲上の明鑑、武鑑、兵学書、その他甲冑(かっちゅう)刀剣の類は厳禁であると数えて見せるのも、この亭主だ。

 旧暦十二月のさむい日が来た。港の空には雪がちらついた。例のように寛斎は宿の机にむかって、遠く来ている思いを習字にまぎらわそうとしていた。そこへ江戸両国の十一屋から届いたと言って、宿の年とったかみさんが二通の手紙を持って来た。その時、かみさんは年老いた客をいたわり顔に、盆に載せた丼(どんぶり)を階下(した)から女中に運ばせた。見ると、寛斎の好きなうどんだ。「うどんのごちそうですか。や、そいつはありがたい」。「これはうでまして、それからダシで煮て見ました。お塩で味がつけてございます。これが一番さっぱりしているかと思いますが、一つ召し上がって見てください」。「うどんとはよい物を造ってくだすった。わたしはお酒の方ですがね、寒い日にはこれがまた何よりですよ」。「さあ、お口に合いますか、どうですか。手前どもではよくこれをこしらえまして、年寄りに食べさせます」。牡丹屋ではすべてこの調子だ。

 一通の手紙は木曾から江戸を回って来たものだ。馬籠の方にいる伏見屋金兵衛からのめずらしい消息だ。最愛の一人息子、鶴松の死がその中に報じてある。鶴松も弱かった子だ。あの少年のからだは、医者としての寛斎も診(み)てよく知っている。馬籠の伏見屋から駕籠(かご)で迎いが来るたびに、寛斎は薬箱をさげて、美濃と信濃の国境(うにざかい)にあたる十曲峠(じつきょくとうげ)をよく急いだものだ。筆まめな金兵衛はあの子が生前に寛斎の世話になった礼から始めて、どうかして助けられるものならの願いから、あらゆる加持祈祷を試み、わざわざ多賀の大社まで代参のものをやって病気全快を祈らせたことや、あるいは金毘羅大権現へ祈願のために落合の大橋から神酒(みき)一樽(たる)を流させたことまで、口説(くど)くように書いてよこした。病気の手当ては言うまでもなく、寛斎留守中は大垣の医者を頼み、おりから木曾路を通行する若州(じゃくしゅう)の典医、水戸姫君の典医にまですがって診察を受けさせたことも書いてよこした。とうとう養生もかなわなかったという金兵衛の残念がる様子が目に見えるように、その手紙の中にあらわれている。

 平素懇意にする金兵衛が六十三歳でこの打撃を受けたということは、寛斎にとって他事(ひとごと)とも思われない。今一通の手紙は旧いなじみのある老人から来た。それにはまた、筆に力もなく、言葉も短く、ことのほかに老い衰えたことを訴えて、生きているというばかりのような心細いことが書いてある。ただ、昔を思うたびに人恋しい、もはや生前に面会することもあるまいかと書いてある。「貴君には、いまだ御往生(ごおうじょう)もなされず候よし、」ともある。「いまだ御往生もなされず候よしは、ひどい」と考えて、寛斎は哭(な)いていいか笑っていいかわからないようなその手紙の前に頭をたれた。寛斎の周囲にある旧知も次第に亡くなった。達者で働いているものは数えるほどしかない。今度十七歳の鶴松を先に立てた金兵衛、半蔵の父吉左衛門――指を折って見ると、そういう人たちはもはや幾人も残っていない。追い追いの無常の風に吹き立てられて、早く美濃へ逃げ帰りたいと思うところへ、横浜の方へは浪士来襲のうわさすら伝わって来た。
 三
 とうとう、寛斎は神奈川の旅籠屋で年を越した。彼の日課は開港場の商況を調べて、それを中津川の方へ報告することで、その都度(つど)万屋からの音信にも接したが、かんじんの安兵衛らはまだいつ神奈川へ出向いて来るともわからない。

 年も万延元年と改まるころには、日に日に横浜への移住者がふえた。寛斎が海をながめに神奈川台へ登って行って見ると、そのたびに港らしいにぎやかさが増している。弁天寄りの沼地は埋め立てられて、そこに貸し長屋ができ、外国人の借地を願い出るものが二、三十人にも及ぶと聞くようになった。吉田橋架(か)け替えの工事も始まっていて、神奈川から横浜の方へ通う渡し舟も見える。ある日も寛斎は用達(ようたし)のついでに、神奈川台の上まで歩いたが、なんとなく野毛山も霞(かす)んで見え、沖の向こうに姿をあらわしている上総(かずさ)辺の断崖には遠い日があたって、さびしい新開地に春のめぐって来るのもそんなに遠いことではなかろうかと思われた。

 時には遠く海風を帆にうけて、あだかも夢のように、寛斎の視野のうちにはいって来るものがある。日本最初の使節を乗せた咸臨丸(かんりんまる)がアメリカへ向けて神奈川沖を通過した時だ。徳川幕府がオランダ政府から購(か)い入れたというその小さな軍艦は品川沖から出帆して来た。艦長木村摂津守、指揮官勝麟太郎をはじめ、運用方、測量方から火夫水夫まで、一切西洋人の手を借りることなしに、オランダ人の伝習を受け初めてからようやく五年にしかならない航海術で、とにもかくにも大洋を乗り切ろうという日本人の大胆さは、寛斎を驚かした。薩摩の沖で以前に難船して徳川政府の保護を受けていたアメリカの船員らも、咸臨丸で送りかえされるという。その軍艦は港の出入りに石炭を焚(た)くばかり、航海中はただ風をたよりに運転せねばならないほどの小型のものであったから、煙も揚げずに神奈川沖を通過しただけが、いささか物足りなかった。大変な評判で、神奈川台の上には人の黒山を築いた。不案内な土地の方へ行くために、使節の一行は何千何百足の草鞋を用意して行ったかしれないなぞといううわさがそのあとに残った。当時二十六、七歳の青年福沢諭吉が木村摂津守のお供という格で、その最初の航海に上って行ったといううわさなぞも残った。

 二月にはいって、寛斎は江戸両国十一屋の隠居から思いがけない便りを受け取った。それには隠居が日ごろ出入りする幕府奥詰(おくづめ)の医師を案内して、横浜見物に出向いて来るとある。その節は、よろしく頼むとある。

 旅の空で寛斎が待ち受けた珍客は、喜多村瑞見(ずいけん)と言って、幕府奥詰の医師仲間でも製薬局の管理をしていた人である。汽船観光丸の試乗者募集のあった時、瑞見もその募りに応じようとしたが、時の御匙法師(おさじほうし)ににらまれて、譴責(けんせき)を受け、蝦夷(えぞ)移住を命ぜられたという閲歴をもった人である。この瑞見は二年ほど前に家を挙(あ)げ蝦夷の方に移って、函館開港地の監督なぞをしている。今度函館から江戸までちょっと出て来たついでに、新開の横浜をも見て行きたいというので、そのことを十一屋の隠居が通知してよこしたのだ。

 瑞見は供の男を一人連れ、十一屋の隠居を案内にして、天気のよい日の夕方に牡丹屋へ着いた。神奈川には奉行組頭もある、そういう役人の家よりもわざわざ牡丹屋のような古い旅籠屋を選んで微行で瑞見のやって来たことが寛斎をよろこばせた。あって見ると、思いのほか、年も若い。三十二、三ぐらいにしか見えない。「きょうのお客さまは名高い人ですが、お目にかかって見ると、まだお若いかたのようですね」と牡丹屋の亭主が寛斎の袖を引いて言ったくらいだ。

 翌日は寛斎と牡丹屋の亭主とが先に立って、江戸から来た三人をまず神奈川台へ案内し、黒い館門(やかたもん)の木戸を通って、横浜道へ向かった。番所のあるところから野毛山の下へ出るには、内浦に沿うて岸を一回りせねばならぬ。程ヶ谷(ほどがや)からの道がそこへ続いて来ている。野毛には奉行の屋敷があり、越前の陣屋もある。そこから野毛橋を渡り、土手通りを過ぎて、仮の吉田橋から関内(かんない)にはいった。「横浜もさびしいところですね」。「わたしの来た時分には、これよりもっとさびしいところでした」。瑞見と寛斎とは歩きながら、こんな言葉をかわして、高札場(こうさつば)の立つあたりから枯れがれな太田新田の間の新道を進んだ。

 瑞見は遠く蝦夷の方で採薬、薬園、病院、疏水(そすい)、養蚕等の施設を早く目論(もくろ)んでいる時で、函館の新開地にこの横浜を思い比べ、牡丹屋の亭主を顧みてはいろいろと土地の様子をきいた。当時の横浜関内は一羽の蝶(ちょう)のかたちにたとえられる。海岸へ築(つ)き出した二か所の波止場はその触角であり、中央の運上所付近はそのからだであり、本町通りと商館の許可地は左右の翅(はね)にあたる。一番左の端にある遊園で、樹木のしげった弁天の境内(けいだい)は、蝶の翅に置く唯一の美しい斑紋(はんもん)とも言われよう。しかしその翅の大部分はまだ田圃(たんぼ)と沼地だ。そこには何か開港一番の思いつきででもあるかのように、およそ八千坪からの敷地から成る大規模な遊女屋の一郭もひらけつつある。横浜にはまだ市街の連絡もなかったから、一丁目ごとに名主を置き、名主の上に総年寄を置き、運上所わきの町会所で一切の用事を取り扱っていると語り聞かせるのも牡丹屋の亭主だ。

 やがて、その日同行した五人のものは横浜海岸通りの波止場に近いところへ出た。西洋の船にならって造った二本マストもしくは一本マストの帆前船(ほまえせん)から、従来あった五大力(ごだいりき)の大船、種々な型の荷船、便船、漁り船(いさりぶね)、小舟まで、あるいは碇泊(ていはく)したりあるいは動いたりしているごちゃごちゃとした光景が、鴉(からす)の群れ飛ぶ港の空気と煙とを通してそこに望まれた。二か所の波止場、水先案内の職業、運上所で扱う税関と外交の港務などは、全く新しい港のために現われて来たもので、ちょうど入港した一艘(そう)の外国船も周囲の単調を破っている。

 その時、牡丹屋の亭主は波止場の位置から、向こうの山下の方角を瑞見や寛斎にさして見せ、旧横浜村の住民は九十戸ばかりの竈(かまど)を挙げてそちらの方に退却を余儀なくされたと語った。それほどこの新開地に内外人の借地の請求が頻繁となって来た意味を通わせた。大岡川の川尻から増徳院わきへかけて、長さ五百八十間ばかりの堀川の開鑿(かいさく)も始まったことを語った。その波止場の位置まで行くと、海から吹いて来る風からして違う。しばらく瑞見は入港した外国船の方を望んだまま動かなかった。やがて、寛斎を顧みて、「やっぱりよくできていますね。同じ汽船でも外国のはどこか違いますね」。「喜多村先生のお供はかなわない」とその時、十一屋の隠居が横槍を入れた。「どうしてさ」。「いつまででも船なぞをながめていらっしゃるから」。「しかし、十一屋さん、早くわれわれの国でもああいうよい船を造りたいじゃありませんか。今じゃ薩州でも、土州(としゅう)でも、越前でも、二、三艘ぐらいの汽船を持っていますよ。それがみんな外国から買った船ばかりでさ。

 十一屋さんは昌平丸という船のことをお聞きでしたろうか。あれは安政二年の夏に、薩州侯が三本マストの大船を一艘造らせて、それを献上したものでさ。幕府に三本マストの大船ができたのは、あれが初めてだと思います。ところが、どうでしょう。昌平丸を作る時分には、まだ螺旋釘(ねじくぎ)を使うことを知らない。まっすぐな釘ばかりで造ったもんですから、大風雨(おおあらし)の来た年に、品川沖でばらばらに解けてこわれてしまいました」。「先生はなかなかくわしい」。「函館の方にだって、二本マストの帆前船がまだ二艘しかできていません。一艘は函館丸。もう一艘の船の方は亀田丸。高田屋嘉兵衛の呼び寄せた人で、豊治(とよじ)という船大工があれを造りましたがね」。「先生は函館で船の世話までなさるんですか」。「まあ、そんなものでさ。でも、こんな藪医者にかかっちゃかなわないなんて、函館の方の人は皆そう言っていましょうよ」。この「藪医者」には、そばに立って聞いている寛斎もうなった。

 入港した外国船を迎え顔な西洋人なぞが、いつのまにか寛斎らの周囲に集まって来た。波止場には九年母(くねんぼ)の店をひろげて売っているさんがある。そのかたわらに背中の子供をおろして休んでいる女がある。道中差(どうちゅうざし)を一本腰にぶちこんで、草鞋ばきのまま、何か資本(もとで)のかからない商売でも見つけ顔に歩き回っている男もある。おもしろい丸帽をかぶり、辮髪(べんぱつ)をたれ下げ、金入れらしい袋を背負(しょい)いながら、上陸する船客を今か今かと待ち受けているようなシナ人の両替商もある。見ると、定紋(じょうもん)のついた船印(ふなじるし)の旗を立てて、港の役人を乗せた船が外国船から漕ぎ帰って来た。そのあとから、二、三の艀(はしけ)が波に揺られながら岸の方へ近づいて来た。横浜とはどんなところかと内々想像して来たような目つきのもの、全く生(お)い立ちを異にし気質を異にしたようなもの、本国から来たもの、東洋の植民地の方から来たもの、それらの雑多な冒険家が無遠慮に海から陸(おか)へ上がって来た。いずれも生命(いのち)がけの西洋人ばかりだ。上陸するものの中にはまだ一人の婦人を見ない。中には、初めて日本の土を踏むと言いたそうに、連れの方を振り返るものもある。叔父(おじ)甥(おい)なぞの間柄かと見えて、迎えるものと迎えらるるものとが男同志互いに抱き合うのもある。その二人は、寛斎や瑞見の見ている前で、熱烈な頬(ほお)ずりをかわした。

 瑞見はなかなかトボケた人で、この横浜を見に来たよりも、実は牛肉の試食に来たと白状する。こんな注文を出す客のことで、あちこち引っぱり回されるのは迷惑らしい上に、案内者側の寛斎の方でもなるべく日のあるうちに神奈川へ帰りたかった。いつでも日の傾きかけるのを見ると、寛斎は美濃(みの)の方の空を思い出したからで。

 横浜も海岸へ寄った方はすでに区画の整理ができ、新道はその間を貫いていて、町々の角(かど)には必ず木戸を見る。帰り路(みち)には、寛斎らは本町一丁目の通りを海岸の方へ取って、渡し場のあるところへ出た。そこから出る舟は神奈川の宮下というところへ着く。わざわざ野毛山の下の方を遠回りして帰って行かないでも済む。牡丹屋の亭主はその日の夕飯にと言って瑞見から注文のあった肉を横浜の町で買い求めて来て、それをさげながら一緒に神奈川行きの舟に移った。「横浜も鴉の多いところですね」。「蝦夷の方ではゴメです。海の鴎(かもめ)の一種です。あの鳴き声を聞くと、いかにも北海らしい気持ちが起こって来ますよ。そう言えば、この横浜にはもう外国の宣教師も来てるというじゃありませんか」。「一人」。「なんでも、神奈川の古いお寺を借りて、去年の秋から来ているアメリカ人があります。ブラウンといいましたっけか。横浜へ着いた最初の宣教師です。狭い土地ですからすぐ知れますね」。「いったい、切支丹(きりしたん)宗は神奈川条約ではどういうことになりましょう」。「そりゃ無論内地のものには許されない。ただ、宣教師がこっちへ来ている西洋人仲間に布教するのは自由だということになっていましょう」。「神奈川へはアメリカの医者も一人来ていますよ」。「ますます世の中は多事だ」。だれが語るともなく、だれが答えるともなく、こんな話が舟の中で出た。

 牡丹屋へ帰り着いてから、しばらく寛斎は独(ひと)り居る休息の時を持った。例の裏二階から表側の廊下へ出ると、神奈川の町の一部が見える。晩年の彼を待ち受けているような信州伊那(いな)の豊かな谷と、現在の彼の位置との間には、まだよほどの隔たりがある。彼も最後の「隠れ家(が)」にたどり着くには、どんな寂しい路(みち)でも踏まねばならない。それにしても、安政大獄以来の周囲にある空気の重苦しさは寛斎の心を不安にするばかりであった。ますます厳重になって行く町々の取り締まり方と、志士や浪人の気味の悪いこの沈黙とはどうだ。すでに直接行動に訴えたものすらある。前の年の七月の夜には横浜本町で二人のロシヤの海軍士官が殺され、同じ年の十一月の夕には港崎町(こうざきまち)のわきで仏国領事の雇い人が刺され、最近には本町一丁目と五丁目の間で船員と商人との二人のオランダ人が殺された。それほど横浜の夜は暗い。外国人の入り込む開港場へ海から何か這(は)うようにやって来るの恐ろしさは、それを経験したものでなければわからない。彼は瑞見のような人をめずらしく案内して、足もとの明るいうちに牡丹屋へ帰って来てよかったと考えた。「お夕飯のおしたくができましてございます」という女中に誘われて、寛斎もその晩は例になく庭に向いた階下の座敷へ降りた。瑞見や十一屋の隠居なぞとそこで一緒になった。

 「喜多村先生や宮川先生の前ですが、横浜の遊女屋にはわたしもたまげました」と言い出すのは十一屋だ。「すこし繁昌して来ますと、すぐその土地にできるものは飲食店と遊郭です」と牡丹屋の亭主も夕飯時の挨拶に来て、相槌(あいづち)を打つ。牛鍋は庭で煮た。女中が七輪を持ち出して、飛び石の上でそれを煮た。その鍋を座敷へ持ち込むことは、牡丹屋のお婆さんがどうしても承知しなかった。「臭い、臭い」。

 奥の方では大騒ぎする声すら聞こえる。「ここにも西洋ぎらいがあると見えますね」と瑞見が笑うと、亭主はしきりに手をもんで、「いえ、そういうわけでもございませんが、吾家(うち)のお袋なぞはもう驚いております。牛の臭気(におい)がこもるのは困るなんて、しきりにそんなことを申しまして。この神奈川には、あなた、肉屋の前を避(よ)けて通るような、そんな年寄りもございます」。

 その時、寛斎は自分でも好きな酒をはじめながら、瑞見の方を見ると、客も首を延ばし、なみなみとついである方へとがらした口唇(くちびる)を持って行く盃(さかずき)の持ち方からしてどうもただではないので、この人は話せると思った。「こんな話がありますよ」と瑞見は思い出したように、「あれは一昨年(おととし)の七月のことでしたか、エルジンというイギリスの使節が蒸汽船を一艘幕府に献上したいと言って、軍艦で下田から品川まで来ました。まあ品川の人たちとしてはせっかくの使節をもてなすという意味でしたろう。その翌日に、品川の遊女を多勢で軍艦まで押しかけさしたというものです。さすがに向こうでも面くらったと見えて、あとになっての言い草がいい。あれは何者だ、いったい日本人は自分の国の女をどう心得ているんだろうッて、いかにもイギリス人の言いそうなことじゃありませんか」。

 「先生」と十一屋は膝(ひざ)を乗り出した。「わたしはまたこういう話を聞いたことがあります。こっちの女が歯を染めたり、を落としたりしているのを見ると、西洋人は非常にいやな気がするそうですね。ほんとうでしょうか。まあ、わたしたちから見ると、優しい風俗だと思いますがなあ」。「気味悪く思うのはお互いでしょう。事情を知らない連中と来たら、いろいろなことをこじつけて、やれ幕府の上役のものは西洋人と結託しているの、なんのッて、悪口ばかり。鎖攘(さじょう)、鎖攘(鎖港攘夷の略)――あの声はどうです。わたしに言わせると、幕府が鎖攘を知らないどころか、あんまり早く鎖攘し過ぎてしまった。蕃書(ばんしょ)は禁じて読ませない、洋学者は遠ざけて近づけない、その方針をよいとしたばかりじゃありません、国内の人材まで鎖攘してしまった。御覧なさい、前には高橋作左衛門を鎖攘する。土生玄磧(はぶげんせき)を鎖攘する。後には渡辺華山、高野長英を鎖攘する。その結果はと言うと、日本国じゅうを実に頑固なものにしちまいました。外国のことを言うのも恥だなんて思わせるようにまで――」。「先生、肉が煮えました」と十一屋は瑞見の話をさえぎった。

 女中が白紙を一枚ずつ客へ配りに来た。肉を突ッついた箸はその紙に置いてもらいたいとの意味だ。煮えた牛鍋(ぎゅうなべ)は庭から縁側の上へ移された。奥の部屋に、牡丹屋の家の人たちがいる方では、障子をあけひろげるやら、こもった空気を追い出すやらの物音が聞こえる。十一屋はそれを聞きつけて、「女中さん、そう言ってください。今にこちらのお婆さんでも、おかみさんでも、このにおいをかぐと飛んで来るようになりますよッて」。十一屋の言い草だ。「どれ、わたしも一つ薬食(くすりぐ)いとやるか」と寛斎は言って、うまそうに煮えた肉のにおいをかいだ。好きな酒を前に、しばらく彼も一切を忘れていた。盃の相手には、こんな頼もしい人物も幕府方にあるかと思われるような客がいる。おまけに、初めて味わう肉もある。
 四
 当時、全国に浪(なみ)打つような幕府非難の声からすれば、横浜や函館の港を開いたことは幕府の大失策である。東西人種の相違、道徳の相違、風俗習慣の相違から来るものを一概に未開野蛮として、人を食った態度で臨んで来るような西洋人に、そうやすやすとこの国の土を踏ませる法はない。開港が東照宮の遺志にそむくはおろか、朝廷尊崇の大義にすら悖(もと)ると歯ぎしりをかむものがある。しかし、瑞見に言わせると、幕府のことほど世に誤り伝えられているものはない。開港の事情を知るには、神奈川条約の実際の起草者なる岩瀬肥後守に行くに越したことはない。それにはまず幕府で監察(目付)の役を重んじたことを知ってかかる必要がある。

 監察とは何か。この役は禄(ろく)もそう多くないし、位もそう高くない。しかし、諸司諸職に関係のないものはないくらいだから、きわめて権威がある。老中はじめ三奉行の重い役でも、監察の同意なしには事を決めることができない。どうかして意見のちがうのを顧みずに断行することがあると、監察は直接に将軍なり老中なりに面会して思うところを述べ立てても、それを止めることもできない。およそ人の昇進に何がうらやましがられるかと言って、監察の右に出るものはない。その人を得ると得ないとで一代の盛衰に関する役目であることも想(おも)い知られよう。嘉永年代、アメリカの軍艦が渡って来た日のように、外国関係の一大事変に当たっては、幕府の上のものも下のものも皆強い衝動を受けた。その衝動が非常な任撰(にんせん)を行なわせた。人材を登庸(とうよう)しなければだめだということを教えたのも、またその刺激だ。

 従来親子共に役に就(つ)いているものがあれば、子は賢くても父に超えることはできなかったのが旧(ふる)い規則だ。それを改めて、三人のものが監察に抜擢せられた。その中の一人が岩瀬肥後なのだ。岩瀬肥後は名を忠震(ただなり)といい、字(あざな)を百里という。築地(つきじ)に屋敷があったところから、号を蟾州(せんしゅう)とも言っている。心あるものはいずれもこの人を推して、幕府内での第一の人とした。たとえばオランダから観光船を贈って来た時に矢田堀景蔵、勝麟太郎なぞを小(こ)普請役から抜いて、それぞれ航海の技術を学ばせたのも彼だ。下曽根金三郎、江川太郎左衛門には西洋の砲術を訓練させる。箕作阮甫(みつうりげんぽ)、杉田玄端(げんたん)には蕃書取調所の教育を任せる。そういう類のことはほとんど数えきれない。松平河内(かわち)、川路左衛門、大久保右近、水野筑後、その他の長老でも同輩でも、いやしくも国事に尽くす志のあるものには誠意をもって親しく交わらないものはなかったくらいだ。各藩の有為な人物をも延(ひ)いて、身をもって時代に当たろうとしたのも彼だ。

 瑞見に言わせると、幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人(けとうじん)と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとしたものの摧心(さいしん)と労力とは想像も及ばない。岩瀬肥後はそれを成した人だ。最初の米国領事ハリスが来航して、いよいよ和親貿易の交渉を始めようとした時、幕府の有司はみな尻込みして、一人として背負(しょ)って立とうとするものがない。皆な手をこまねいて、岩瀬肥後を推した。そこで彼は一身を犠牲にする覚悟で、江戸と下田の間を往復して、数か月もかかった後にようやく草稿のできたのが安政の年の条約だ。

 草稿はできた。諸大名は江戸城に召集された。その時、井伊大老が出(い)で、和親貿易の避けがたいことを述べて、委細は監察の岩瀬肥後に述べさせるから、とくときいたあとで諸君各自の意見を述べられるようにと言った。そこで大老は退いて、彼が代わって諸大名の前に進み出た。その時の彼の声はよく徹(とお)り、言うこともはっきりしていて、だれ一人異議を唱えるものもない。いずれも時宜に適(かな)った説だとして、よろこんで退出した。ところが数日後に諸大名各自の意見書を出すころになると、ことごとく前の日に言ったことを覆(くつがえ)して、彼の説を破ろうとするものが出て来た。それは多く臣下の手に成ったものだ。君侯といえどもそれを制することができなかったのだ。そこで彼は水戸の御隠居や、尾州の徳川慶勝(よしかつ)や、松平春嶽(しゅんがく)、鍋島閑叟(かんそう)、山内容堂の諸公に説いて、協力して事に当たることを求めた。岩瀬肥後の名が高くなったのもそのころからだ。

 しかし、条約交渉の相手方なるヨーロッパ人が次第に態度を改めて来たことをも忘れてはならない。来るものも来るものも、皆ペリイのような態度の人ばかりではなかったのだ。アメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケン、イギリスの使節エルジン、その書記オリファント、これらの人たちはいずれも日本を知り、日本の国情というものをも認めた。中には、日本に来た最初の印象は思いがけない文明国の感じであったとさえ言った人もある。すべてこれらの事情は、岩瀬肥後のようにその局に当たった人以外には多く伝わらない。それにつけても、彼にはいろいろな逸話がある。彼が頭脳(あたま)のよかった証拠には、イギリスの使節らが彼の聰明さに驚いたというくらいだ。彼はイギリス人からきいた言葉を心覚えに自分の扇子(せんす)に書きつけて置いて、その次の会見のおりには、かなり正確にその英語を発音したという。イギリスの方では、また彼のすることを見て、日本の扇子は手帳にもなり、風を送る器(うつわ)にもなり、退屈な時の手慰みにもなると言ったという話もある。

 もともと水戸の御隠居はそう頑(かたく)な人ではない。尊王攘夷という言葉は御隠居自身の筆に成る水戸弘道館の碑文から来ているくらいで、最初のうちこそ御隠居も外国に対しては、なんでも一つ撃(う)ち懲(こら)せという方にばかり志(こころざし)を向けていたらしいが、だんだん岩瀬肥後の説を聞いて大いに悟られるところがあった。御隠居はもとより英明な生まれつきの人だから、今日の外国は古(いにしえ)の夷狄(いてき)ではないという彼の言葉に耳を傾けて、無謀の戦いはいたずらにこの国を害するに過ぎないことを回顧するようになった。その時、御隠居は彼に一つのたとえ話を告げた。ここに一人の美しい娘がある。その娘にしきりに結婚を求めるものがある。再三拒んで容易に許さない。男の心がますます動いて来た時になって、始めて許したら、その二人の愛情はかえって濃(こま)やかで、多情な人のすみやかに受けいれるものには勝(まさ)ろうというのである。実際、あの御隠居が断乎として和親貿易の変更すべきでないことを彼に許した証拠には、こんな娘のたとえを語ったのを見てもわかる。御隠居がすでにこのとおり、外交のやむを得ないことを認めて、他の親藩にも外様(とざま)の大名にも説き勧めるくらいだ。

 それまで御隠居を動かして鎖攘(さじょう)の説を唱えた二人の幕僚、藤田東湖、戸田蓬軒(ほうけん)なども遠見(とおみ)のきく御隠居の見識に服して、自分らの説を改めるようになった。そこへ安政の大地震が来た。一藩の指導者は二人とも圧死を遂げた。御隠居は一時に両(ふた)つの翼を失ったけれども、その老いた精神はますます明るいところへ出て行った。御隠居の長い生涯のうちでも岩瀬肥後にあったころは特別の時代で、御隠居自身の内部に起こって来た外国というものの考え直しもその時代に行なわれた。

 しかし、岩瀬肥後にとっては、彼が一生のつまずきになるほどの一大珍事が出来(しゅったい)した。十三代将軍(徳川家定いえさだ)は生来多病で、物言うことも滞りがちなくらいであった。どうしてもよい世嗣(よつぎ)ぎを定めねばならぬ。この多事な日に、内は諸藩の人心を鎮(しずめ)め、外は各国に応じて行かねばならぬ。徳川宗室を見渡したところ、その任に耐えそうなものは、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)のほかにない。ことに一代の声望並ぶもののないような水戸の御隠居が現にその父親であるのだから、諸官一同申し合わせて、慶喜擁立のことを上請することになった。岩瀬肥後はその主唱者なのだ。水戸はもとより、京都方面まで異議のあろうはずもない。

 ところがこれには反対の説が出て、血統の近い紀州慶福(よしとみ)を立てるのが世襲伝来の精神から見て正しいと唱え出した。その声は大奥の深い簾(すだれ)の内からも出、水戸の野心と陰謀を疑う大名有司の仲間からも出た。この形勢をみて取った岩瀬肥後は、血統の近いものを立てるという声を排斥して、年長で賢いものを立てるのが今日の急務であると力説し、老中奉行らもその説に賛成するものが多く、それを漏れ聞いた国内の有志者たちも皆大いに喜んで、太陽はこれから輝こうと言い合いながら、いずれもその時の来るのを待ち望んだ。意外にも、その上請をしないうちに、将軍は脚気(かっけ)にかかって、わずか五年を徳川十三代の一期として、にわかに薨去(こうきょ)した。岩瀬肥後の極力排斥した慶福擁立説がまた盛り返して来た日を迎えて見ると、そこに将軍の遺旨を奉じて起(た)ち上がったのが井伊大老その人であったのだ。

 岩瀬肥後の政治生涯はその時を終わりとした。水戸の御隠居を始めとして、尾州、越前、土州の諸大名、およそ平生(へいぜい)彼の説に賛成したものは皆な江戸城に集まって大老と激しい議論があったが、大老は一切きき入れなかった。安政大獄の序幕はそこから切って落とされた。彼はもとより首唱の罪で、きびしい譴責(けんせき)を受けた。屏(しりぞ)けられ、すわらせられ、断わりなしに人と往来(ゆきき)することすら禁ぜられた。その時の大老の言葉に、岩瀬輩が軽賤(けいせん)の身でありながら柱石たるわれわれをさし置いて、勝手に将軍の継嗣問題なぞを持ち出した。その罪は憎むべき大逆無道にも相当する。それでも極刑に処せられなかったのは、彼も日本国の平安を謀(はか)って、計画することが図に当たり、その尽力の功労は埋(うず)められるものでもないから、非常な寛典を与えられたのであると。

 瑞見に言わせると、今度江戸へ出て来て見ても、水戸の御隠居はじめ大老と意見の合わないものはすべて斥(しりぞ)けられている。諸司諸役ことごとく更替して、大老の家の子郎党ともいうべき人たちで占められている。驚くばかりさかんな大老の権威の前には、幕府内のものは皆屏息(へいそく)して、足を累(かさ)ねて立つ思いをしているほどだ。岩瀬肥後も今は向島(むこうじま)に蟄居(ちっきょ)して、客にも会わず、号を鴎所(おうしょ)と改めてわずかに好きな書画なぞに日々の憂(う)さを慰めていると聞く。「幕府のことはもはや語るに足るものがない」と瑞見は嘆息して、その意味から言っても、罪せられた岩瀬肥後を憐(あわれ)んだ。そういう瑞見は、彼自身も思いがけない譴責(けんせき)を受けて、蝦夷移住を命ぜられたのがすこし早かったばかりに、大獄事件の巻き添えを食わなかったというまでである。

 十一屋の隠居は瑞見よりも一歩(ひとあし)先に江戸の方へ帰って行った。瑞見の方は腹具合を悪くして、寛斎の介抱などを受けていたために、神奈川を立つのが二、三日おくれた。瑞見は蝦夷から同行して来た供の男を連れて、寛斎にも牡丹屋(ぼたんや)の亭主にも別れを告げる時に言った。「わたしもまた函館の方へ行って、昼寝でもして来ます」。こんな言葉を残した。

 客を送り出して見ると、寛斎は一層さびしい日を暮らすようになった。毎晩のように彗星(すいせい)が空にあらわれて怪しい光を放つのは、あれは何かの前兆を語るものであろうなどと、人のうわさにろくなことはない。水戸藩へはまた秘密な勅旨が下った、その使者が幕府の厳重な探偵(たんてい)を避けるため、行脚僧(あんぎゃそう)に姿を変えてこの東海道を通ったという流言なぞも伝わって来る。それを見て来たことのようにおもしろがって言い立てるものもある。攘夷を意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさも絶えなかった。

 暖かい雨は幾たびか通り過ぎた。冬じゅうどこかへ飛び去っていた白い鴉は、また横浜海岸に近い玉楠の樹へ帰って来る。旧暦三月の季節も近づいて来た。寛斎は中津川の商人らをしきりに待ち遠しく思った。例の売り込み商を訪ねるたびに、貿易諸相場は上値(うわね)をたどっているとのことで、この調子で行けば生糸六十五匁か七十匁につき金一両の相場もあらわれようとの話が出る。江州、甲州、あるいは信州飯田あたりの生糸商人も追い追い入り込んで来る模様があるから、なかなか油断はならないとの話もある。神奈川在留の外国商人――中にもイギリス人のケウスキイなどは横浜の将来を見込んで、率先して木造建築の商館なりと打ち建てたいとの意気込みでいるとの話もある。「万屋さんも、だいぶごゆっくりでございますね」と牡丹屋の亭主は寛斎を見に裏二階へ上がって来るたびに言った。

 三月三日の朝はめずらしい大雪が来た。寛斎が廊下に出てはながめるのを楽しみにする椎の枝なぞは、夜から降り積もる雪に圧(お)されて、今にも折れそうなくらいに見える。牡丹屋では亭主の孫にあたるちいさな女の子のために初節句を祝うと言って、その雪の中で、白酒だ豆煎(まめい)りだと女中までが大騒ぎだ。割子(わりご)弁当に重詰め、客振舞(ぶるまい)の酒肴(さけさかな)は旅に来ている寛斎の膳にまでついた。

 その日一日、寛斎は椎の枝から溶け落ちる重い音を聞き暮らした。やがてその葉が雪にぬれて、かえって一層の輝きを見せるころには、江戸方面からの人のうわさが桜田門外の変事を伝えた。刺客およそ十七人、脱藩除籍の願書を藩邸に投げ込んで永(なが)の暇(いとま)を告げたというから、浪人ではあるが、それらの水戸の侍たちが井伊大老の登城を待ち受けて、その首級を挙げた。この変事は人の口から口へと潜むように伝わって来た。刺客はいずれも斬奸(ざんかん)主意書というを懐(ふところ)にしていたという。それには大老を殺害すべき理由を弁明してあったという。「あの喜多村先生なぞが蝦夷の方で聞いたら、どんな気がするだろう」と言って、思わず寛斎は宿の亭主と顔を見合わせた。

 井伊大老の横死(おうし)は絶対の秘密とされただけに、来たるべき時勢の変革を予想させるかのような底気味の悪い沈黙が周囲を支配した。首級を挙げられた大老をよく言う人は少ない。それほどの憎まれ者も、亡くなったあとになって見ると、やっぱり大きい人物であったと、一方には言い出した人もある。なるほど、生前の大老はとかくの評判のある人ではあったが、ただ、他人にまねのできなかったことが一つある。外国交渉のことにかけては、天朝の威をも畏(おそ)れず、各藩の意見のためにも動かされず、断然として和親通商を許した上で、それから上奏の手続きを執った。この一事は天地も容(い)れない大罪を犯したように評するものが多いけれども、もしこの決断がなかったら、日本国はどうなったろう。軽く見積もって蝦夷はもとより、対州(つしま)壱岐(いき)も英米仏露の諸外国に割(さ)き取られ、内地諸所の埠頭(ふとう)は随意に占領され、その上に背負い切れないほどの重い償金を取られ、シナの道光(どうこう)時代の末のような姿になって、独立の体面はとても保たれなかったかもしれない。大老がこの至険至難をしのぎ切ったのは、この国にとっての大功と言わねばなるまい。こんなふうに言う人もあった。ともあれ、大老は徳川世襲伝来の精神をささえていた大極柱(だいこぅばしら)の倒れるように倒れて行った。この報知(しらせ)を聞く彦根藩士の憤激、続いて起こって来そうな彦根と水戸両藩の葛藤は寛斎にも想像された。前途は実に測りがたかった。

 
神奈川付近から横浜へかけての町々の警備は一層厳重をきわめるようになった。鶴見の橋詰めには杉の角柱(かくばしら柱)大貫(おおぬき)を通した関門が新たに建てられた。夜になると、神奈川にある二か所の関門も堅く閉ざされ、三つ所紋の割羽織(わりばおり)に裁付袴(たっつけばかま)もいかめしい番兵が三人の人足を先に立てて、外国諸領事の仮寓(かぐう)する寺々から、神奈川台の異人屋敷の方までも警戒した。町々は夜ふけて出歩く人も少なく、あたりをいましめる太鼓の音のみが聞こえた。
 
 ようやく、その年の閏(うるう)三月を迎えるころになって、※「□万」、屋号を示す記号、角万かくまんとした生糸の荷がぽつぽつ寛斎のもとに届くようになった。寛斎は順に来るやつを預かって、適当にその始末をしたが、木曾街道の宿場宿場を経て江戸回りで届いた荷を見るたびに、中津川商人が出向いて来る日の近いことを思った。毎日のように何かの出来事を待ち受けさせるかのような、こんな不安な周囲の空気の中で、よくそれでも生糸の荷が無事に着いたとも思った。

 万屋安兵衛(よろづややすべえ)が手代の嘉吉を連れて、美濃の方を立って来たのは同じ月の下旬である。二人はやはり以前と同じ道筋を取って、江戸両国の十一屋泊まりで、旧暦四月にはいってから神奈川の牡丹屋に着いた。にわかに寛斎のまわりもにぎやかになった。旅の落し差(おとしざし)を床の間に預ける安兵衛もいる。部屋の片すみに脚絆(きゃはん)の紐を解く嘉吉もいる。二人は寛斎の聞きたいと思う郷里の方の人たちの消息――彼の妻子の消息、彼の知人の消息、彼の旧(ふる)い弟子たちの消息ばかりでなく、何かこう一口には言ってしまえないが、あの東美濃の盆地の方の空気までもなんとなく一緒に寛斎のところへ持って来た。

 寛斎がたったりすわったりしているそばで、嘉吉は働き盛りの手代らしい調子で、「宮川先生も、ずいぶんお待ちになったでしょう。なにしろ春蚕(はるご)の済まないうちは、どうすることもできませんでした。糸はでそろいませんし」と言うと、安兵衛も寛斎をねぎらい顔に、「いや、よく御辛抱が続きましたよ。こんなに長くなるんでしたら、一度国の方へお帰りを願って、また出て来ていただいてもとは思いましたがね」。

 百里の道を往復して生糸商売でもしようという安兵衛には、さすがに思いやりがある。「どうしても、だれか一人こっちにいないことには、浜の事情もよくわかりませんし、人任せでは安心もなりませんし――やっぱり先生に残っていていただいてよかったと思いました」とも安兵衛は言い添えた。やがて灯(い)ともしごろであった。三人は久しぶりで一緒に食事を済ました。町をいましめに来る太鼓の音が聞こえる。

 閏三月の晦日(みそか)まで隠されていた井伊大老の喪もすでに発表されたが、神奈川付近ではなかなか警戒の手をゆるめない。嘉吉は裏座敷から表側の廊下の方へ見に行った。陣笠をかぶって両刀を腰にした番兵の先には、弓張提灯(ゆみはりちょうちん)を手にした二人の人足と、太鼓をたたいて回る一人の人足とが並んで通ったと言って、嘉吉は目を光らせながら寛斎のいるところへ戻って来た。「そう言えば、先生はすこし横浜の匂いがする」と嘉吉が戯れて言い出した。「ばかなことを言っちゃいけない」。この七か月ばかりの間、親しい人のだれの顔も見ず、だれの言葉も聞かないでいる寛斎が、どうして旅の日を暮らしたか。嘉吉の目がそれを言った。「そんなら見せようか」。寛斎は笑って、毎日のように手習いした反古(ほご)を行燈(あんどん)のかげに取り出して来て見せた。過ぐる七か月は寛斎にとって、二年にも三年にも当たった。旅籠屋の裏二階から見える椎の木よりほかにこの人の友とするものもなかった。その枝ぶりをながめながめするうちに、いつのまにか一変したと言ってもいいほどの彼の書体がそこにあった。寛斎は安兵衛にも嘉吉にも言った。「去年の十月ごろから見ると、横浜も見ちがえるようになりましたよ」。

 糸目六十四匁につき金一両の割で、生糸の手合わせも順調に行なわれた。この手合わせは神奈川台の異人屋敷にあるケウスキイの仮宅で行なわれた。売り込み商と通弁の男とがそれに立ち合った。売り方では牡丹屋に泊まっている安兵衛も嘉吉も共に列席して、書類の調製は寛斎が引き受けた。ケウスキイはめったに笑わない男だが、その時だけは青い瞳(ひとみ)の目に笑(え)みをたたえて、「自分は近く横浜の海岸通りに木造の二階屋を建てる。自分の同業者でこの神奈川に来ているものには、英国人バルベルがあり、米国人ホウルがある。しかし、自分はだれよりも先に、あの商館を完成して、そこにイギリス第一番の表札を掲げたい」。こういう意味のことを通弁に言わせた。その時、ケウスキイは「わかってくれたか」という顔つきをして、安兵衛にも嘉吉にも握手を求め、寛斎の方へも大きな手をさし出した。このイギリス人は寛斎の手を堅く握った。「手合わせは済んだ。これから糸の引き渡しだ」。

 異人屋敷を出てから安兵衛がホッとしたようにそれを言い出すと、嘉吉も連れだって歩きながら、「旦那(だんな)、それから、まだありますぜ。請け取った現金を国の方へ運ぶという仕事がありますぜ」。「その事なら心配しなくてもいい。先生が引き受けていてくださる」。「こいつがまた一仕事ですぞ」。

 寛斎は二人のあとから神奈川台の土を踏んで、一緒に海の見えるところへ行って立った。目に入るかぎり、ちょうど港は発展の最中だ。野毛(のげ)町、戸部(とべ)町なぞの埋め立てもでき、開港当時百一戸ばかりの横浜にどれほどの移住者が増したと言って見ることもできない。この横浜は来たる六月二日を期して、開港一周年を迎えようとしている。その記念には、弁天の祭礼をすら迎えようとしている。牡丹屋の亭主の話によると、神輿(みこし)はもとより、山車(だし)、手古舞(てこまい)、蜘蛛(くも)の拍子舞(ひょうしまい)などいう手踊りの舞台まで張り出して、できるだけ盛んにその祭礼を迎えようとしている。

 だれがこの横浜開港をどう非難しようと、まるでそんなことは頓着(とんちゃく)しないかのように、いったんヨーロッパの方へ向かって開いた港からは、世界の潮(うしお)が遠慮会釈なくどんどん流れ込むように見えて来た。羅紗(らしゃ)、唐桟(とうざん)、金巾(かなきん)、玻璃(はり)、薬種、酒類なぞがそこからはいって来れば、生糸、漆器、製茶、水油、銅および銅器の類(たぐい)なぞがそこから出て行って、好(よ)かれ悪(あ)しかれ東と西の交換がすでにすでに始まったように見えて来た。郷里の方に待ち受けている妻子のことも、寛斎の胸に浮かんで来た。彼の心は中津川の香蔵、景蔵、それから馬籠の半蔵なぞの旧い三人の弟子の方へも行った。あの血気壮(さか)んな人たちが、このむずかしい時をどう乗ッ切るだろうかとも思いやった。

 生糸売り上げの利得のうち、小判で二千四百両の金を遠く中津川まで送り届けることが寛斎の手に委(ゆだ)ねられた。安兵衛、嘉吉の二人は神奈川に居残って、六月のころまで商売を続ける手はずであったからで。当時、金銀の運搬にはいろいろ難渋した話がある。※[するめ「魚+昜」]にくるんで乾物の荷と見せかけ、かろうじて胡麻(ごま)の蠅(はえ)の難をまぬかれた話もある。武州川越(かわごえ)の商人は駕籠(かご)で夜道を急ごうとして、江戸へ出る途中で駕籠かきに襲われた話もある。五十両からの金を携帯する客となると、駕籠かきにはその重さでわかるという。こんな不便な時代に、寛斎は二千四百両からの金を預かって行かねばならない。貧しい彼はそれほどの金をかつて見たこともなかったくらいだ。

 寛斎は牡丹屋の二階にいた。その前へ来てすわって、手さげのついた煙草盆(たばこぼん)から一服吸いつけたのが安兵衛だ。「先生に引き受けていただいて、わたしも安心しました。この役を引き受けていただきたいばかりに、わざわざ先生を神奈川へお誘いして来たようなものですよ」と安兵衛が白状した。しかし、これは安兵衛に言われるまでもなかった。もとより寛斎も承知の上で来たことだ。寛斎は前途百里の思いに胸のふさがる心地(ここち)でたちあがった。迫り来る老年はもはやこの人の半身に上っていた。右の耳にはほとんど聴(き)く力がなく、右の目の視(み)る力も左のほどにはきかなかった。彼はその衰えたからだを起こして、最後の「隠れ家(が)」にたどり着くための冒険に当たろうとした。その時、安兵衛は一人の宰領(さいりょう)を彼のところへ連れて来た。「先生、この人が一緒に行ってくれます」。見ると、荷物を護(まも)って行くには屈強な男だ。千両箱の荷造りには嘉吉も来て手伝った。

 四月十日ごろには、寛斎は朝早くしたくをはじめ、旅の落し差(おとしざし)に身を堅めて、七か月のわびしい旅籠屋住居(はたごやずまい)に別れて行こうとする人であった。牡丹屋の亭主の計らいで、別れの盃(さかずき)なぞがそこへ運ばれた。安兵衛は寛斎の前にすわって、まず自分で一口飲んだ上で、その土器(かわらけ)を寛斎の方へ差した。この水盃は無量の思いでかわされた。「さあ、退(ど)いた。退いた」という声が起こった。廊下に立つ女中なぞの間を分けて、三つの荷が二階から梯子段(はしごだん)の下へ運ばれた。その荷造りした箱の一つ一つは、嘉吉と宿の男とが二人がかりでようやく持ち上がるほどの重さがあった。「オヤ、もうお立ちでございますか。江戸はいずれ両国のお泊まりでございましょう。あの十一屋の隠居にも、どうかよろしくおっしゃってください」と亭主も寛斎のところへ挨拶に来た。

 馬荷一駄。それに寛斎と宰領とが付き添って、牡丹屋の門口を離れた。安兵衛や嘉吉はせめて宿(しゅく)はずれまで見送りたいと言って、一緒に滝の橋を渡り、オランダ領事館の国旗の出ている長延寺の前を通って、神奈川御台場の先までついて来た。その時になって見ると、郷里の方にいる旧い弟子たちの思惑もしきりに寛斎の心にかかって来た。彼が一歩(ひとあし)踏み出したところは、往来(ゆきき)するものの多い東海道だ。彼は老鶯(ろうおう)の世を忍ぶ風情(ふぜい)で、とぼとぼとした荷馬の※沓(わらぐつ)[「くさかんむり/稾」]の音を聞きながら、遠く板橋回りで木曾街道に向かって行った。





(私論.私見)