夜明け前第一部上の3

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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夜明け前第一部上の3、第二章
 一
松雲和尚  十曲峠(じっきょくとうげ)の上にある新茶屋には出迎えのものが集まった。今度いよいよ京都本山の許しを得、僧智現(ちげん)の名も松雲(しょううん)と改めて、馬籠万福寺の跡を継ごうとする新住職がある。組頭(くみがしら)笹屋の庄兵衛(しょうべえ)はじめ、五人組仲間、その他のものが新茶屋に集まったのは、この人の帰国を迎えるためであった。山里へは旧暦二月末の雨の来るころで、年も安政(あんせい)元年と改まった。一同が待ち受けている和尚(おしょう)は、前の晩のうちに美濃手賀野(てがの)村の松源寺(しょうげんじ)までは帰って来ているはずで、村からはその朝早く五人組の一人を発(た)たせ、人足も二人つけて松源寺まで迎えに出してある。そろそろあの人たちも帰って来ていいころだった。「きょうは御苦労さま」。出迎えの人たちに声をかけて、本陣の半蔵もそこへ一緒になった。半蔵は父吉左衛門の名代(みょうだい)として、小雨の降る中をやって来た。

 こうした出迎えにも、古い格式のまだ崩(くず)れずにあった当時には、誰と誰はどこまでというようなことをやかましく言ったものだ。たとえば、村の宿役人仲間は馬籠の石屋の坂あたりまでとか、五人組仲間は宿はずれの新茶屋までとかというふうに。しかし半蔵はそんなことに頓着(とんちゃく)しない男だ。のみならず、彼はこうした場処に来て腰掛けるのが好きで、ここへ来て足を休めて行く旅人、馬をつなぐ馬方、または土足のまま茶屋の囲炉裏ばたに踏ん込(ご)んで木曾風な「めんぱ」(木製割籠)を取り出す人足なぞの話にまで耳を傾けるのを楽しみにした。

 馬籠の百姓総代とも言うべき組頭庄兵衛は茶屋を出たりはいったりして、和尚の一行を待ち受けたが、やがてまた仲間のもののそばへ来て腰掛けた。御休処(おやすみどころ)とした古い看板や、あるものは青くあるものは茶色に諸講中(こうじゅう)のしるしを染め出した下げ札などの掛かった茶屋の軒下から、往来一つ隔てて向こうに翁塚(おきなづか)が見える。芭蕉の句碑もその日の雨にぬれて黒い。間もなく、半蔵のあとを追って、伏見屋の鶴松が馬籠の宿(しゅく)の方からやって来た。鶴松も父金兵衛の名代(みょうだい)という改まった顔つきだ。「お師匠さま」。「君も来たのかい。御覧、翁塚のよくなったこと。あれは君のお父(とっ)さんの建てたんだよ」。「わたしは覚えがない」。半蔵が少年の鶴松を相手にこんな言葉をかわしていると、庄兵衛も思い出したように、「そうだずら、鶴さまは覚えがあらっせまい」と言い添えた。

 小雨は降ったりやんだりしていた。松雲和尚の一行はなかなか見えそうもないので、半蔵は鶴松を誘って、新茶屋の周囲を歩きに出た。路傍(みちばた)に小高く土を盛り上げ、榎(えのき)を植えて、里程を示すたよりとした築山(つきやま)がある。駅路時代の一里塚だ。その辺は信濃と美濃の国境(くにざかい)にあたる。西よりする木曾路の一番最初の入り口ででもある。しばらく半蔵は峠の上にいて、学友の香蔵や景蔵の住む美濃の盆地の方に思いを馳(は)せた。今さら関東関西の諸大名が一大合戦(かっせん)に運命を決したような関ヶ原の位置を引き合いに出すまでもなく、古くから東西両勢力の相接触する地点と見なされたのも隣の国である。学問に、宗教に、商業に、工芸に、いろいろなものがそこに発達したのに不思議はなかったかもしれない。すくなくもそこに修業時代を送って、そういう進んだ地方の空気の中に僧侶としてのたましいを鍛えて来た松雲が、半蔵にはうらやましかった。その隣の国に比べると、この山里の方にあるものはすべておそい。あだかも、西から木曾川を伝わって来る春が、両岸に多い欅(けやき)や雑木の芽を誘いながら、一か月もかかって奥へ奥へと進むように。万事がそのとおりおくれていた。

 その時、半蔵は鶴松を顧みて、「あの山の向こうが中津川だよ。美濃はよい国だねえ」と言って見せた。何かにつけて彼は美濃尾張の方の空を恋しく思った。もう一度半蔵が鶴松と一緒に茶屋へ引き返して見ると、ちょうど伏見屋の下男がそこへやって来るのにあった。その男は庄兵衛の方を見て言った。「吾家(うち)の旦那はお寺の方でお待ち受けだげな。和尚さまはまだ見えんかなし」。「おれはさっきから来て待ってるが、なかなか見えんよ」。「弁当持ちの人足も二人出かけたはずだが」。「あの衆は、いずれ途中で待ち受けているずらで」。

 半蔵がこの和尚を待ち受ける心は、やがて西から帰って来る人を待ち受ける心であった。彼が家と万福寺との縁故も深い。最初にあの寺を建立(こんりゅう)して万福寺と名づけたのも青山の家の先祖だ。しかし彼は今度帰国する新住職のことを想像し、その人の尊信する宗教のことを想像し、人知れずある予感に打たれずにはいられなかった。早い話が、彼は中津川の宮川寛斎に就(つ)いた弟子(でし)である。

 寛斎はまた平田派の国学者である。この彼が日ごろ先輩から教えらるることは、暗い中世の否定であった。中世以来学問道徳の権威としてこの国に臨んで来た漢学(からまな)風(ふう)の因習からも、仏の道で教えるような物の見方からも離れよということであった。それらのものの深い影響を受けない古代の人の心に立ち帰って、もう一度心寛(こころゆた)かにこの世を見直せということであった。一代の先駆、荷田春満(かだのあずまろ)をはじめ、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、それらの諸大人が受け継ぎ受け継ぎして来た一大反抗の精神はそこから生まれて来ているということであった。

 彼に言わせると、「物学びするともがら」の道は遠い。もしその道を追い求めて行くとしたら、彼が今待ち受けている人に、その人の信仰に、行く行く反対を見いだすかもしれなかった。こんな本陣の子息(むすこ)が待つとも知らずに、松雲の一行は十曲峠の険しい坂路(さかみち)を登って来て、予定の時刻よりおくれて峠の茶屋に着いた。

 松雲は、出迎えの人たちの予想に反して、それほど旅やつれのした様子もなかった。六年の長い月日を行脚あんぎゃの旅に送り、さらに京都本山まで出かけて行って来た人とは見えなかった。一行六、七人のうち、こちらから行った馬籠の人足たちのほかに、中津川からは宗泉寺の老和尚も松雲に付き添って来た。「これは恐れ入りました。ありがとうございました」と言いながら松雲は笠の紐(ひも)をといて、半蔵の前にも、庄兵衛たちの前にもお辞儀をした。「鶴さんですか。見ちがえるように大きくお成りでしたね」とまた松雲は言って、そこに立つ伏見屋の子息の前にもお辞儀をした。手賀野村からの雨中の旅で、笠も草鞋(わらじ)もぬれて来た松雲の道中姿は、まず半蔵の目をひいた。「この人が万福寺の新住職か」と半蔵は心の中で思わずにはいられなかった。和尚としては年も若い。まだ三十そこそこの年配にしかならない。そういう彼よりは六つか七つも年長としうえにあたるくらいの青年の僧侶だ。とりあえず峠の茶屋に足を休めるとあって、京都の旅の話なぞがぽつぽつ松雲の口から出た。京都に十七日、名古屋に六日、それから美濃路回りで三日目に手賀野村の松源寺に一泊――それを松雲は持ち前の禅僧らしい調子で話し聞かせた。ものの小半時(こはんとき)も半蔵が一緒にいるうちに、とてもこの人を憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主を彼は自分のそばに見つけた。

 やがて一同は馬籠の本宿をさして新茶屋を離れることになった。途中で松雲は庄兵衛を顧みて、「ほ。見ちがえるように道路がよくなっていますな」。「この春、尾州(びしゅう)の殿様が江戸へ御出府だげな。お前さまはまだ何も御存じなしか」。「その話はわたしも聞いて来ましたよ」。「新茶屋の境から峠の峰まで道普請(みちぶしん)よなし。尾州からはもう宿割(しゅくわり)の役人まで見えていますぞ。道造りの見分(けんぶん)、見分で、みんないそがしい思いをしましたに」。

 うわさのある名古屋の藩主(尾張慶勝よしかつ)の江戸出府は三月のはじめに迫っていた。来たる日の通行の混雑を思わせるような街道を踏んで、一同石屋の坂あたりまで帰って行くと、村の宿役人仲間がそこに待ち受けるのにあった。問屋(といや)の九太夫(くだゆう)をはじめ、桝田屋(ますだや)の儀助、蓬莱屋(ほうらいや)の新七、梅屋の与次衛門(よじえもん)、いずれも裃(かみしも)着用に雨傘(あまがさ)をさしかけて松雲の一行を迎えた。当時の慣例として、新住職が村へ帰り着くところは寺の山門ではなくて、まず本陣の玄関だ。出家の身としてこんな歓迎を受けることはあながち松雲の本意ではなかったけれども、万事は半蔵が父の計らいに任せた。付き添いとして来た中津川の老和尚の注意もあって、松雲が装束(しょうぞく)を着かえたのも本陣の一室であった。乗り物、先箱(さきばこ)、台傘(だいがさ)で、この新住職が吉左衛門(きちざえもん)の家を出ようとすると、それを見ようとする村の子供たちはぞろぞろ寺の道までついて来た。

 
万福寺は小高い山の上にある。門前の墓地に茂る杉の木立(こだち)の間を通して、傾斜を成した地勢に並び続く民家の板屋根を望むことのできるような位置にある。松雲が寺への帰参は、沓(くつ)ばきで久しぶりの山門をくぐり、それから方丈(ほうじょう)へ通って、一礼座了(いちれいざりょう)で式が済んだ。わざとばかりの饂飩振舞(うどんぶるまい)のあとには、隣村の寺方(てらかた)、村の宿役人仲間、それに手伝いの人たちなぞもそれぞれ引き取って帰って行った。「和尚さま」と言って松雲のそばへ寄ったのは、長いことここに身を寄せている寺男だ。その寺男は主人が留守中のことを思い出し顔に、「よっぽど伏見屋の金兵衛さんには、お礼を言わっせるがいい。お前さまがお留守の間にもよく見舞いにおいでて、本堂の廊下には大きな新しい太鼓が掛かったし、すっかり屋根の葺(ふ)き替えもできました。あの萱(かや)だけでも、お前さま、五百二十把(ぱ)からかかりましたよ。まあ、おれは何からお話していいか。村へ大風の来た年には鐘つき堂が倒れる。そのたびに、金兵衛さんのお骨折りも一通りじゃあらすか」。松雲はうなずいた。

 
諸国を遍歴して来た目でこの境内を見ると、これが松雲には馬籠の万福寺であったかと思われるほど小さい。長い留守中は、ここへ来て世話をしてくれた隣村の隠居和尚任せで、なんとなく寺も荒れて見える。方丈には、あの隠居和尚が六年もながめ暮らしたような古い壁もあって、そこには達磨(だるま)の画像が帰参の新住職を迎え顔に掛かっていた。「寺に大地小地なく、住持(じゅうじ)に大地小地あり」。この言葉が松雲を励ました。

 松雲は周囲を見回した。彼には心にかかるかずかずのことがあった。当時の戸籍簿とも言うべき宗門帳は寺で預かってある。あの帳面もどうなっているか。位牌堂の整理もどうなっているか。数えて来ると、何から手を着けていいかもわからないほど種々雑多な事が新住職としての彼を待っていた。毎年の献鉢(けんばち)を例とする開山忌(かいざんき)の近づくことも忘れてはならなかった。彼は考えた。ともかくもあすからだ。朝早く身を起こすために何かの目的を立てることだ。それには二人の弟子や寺男任せでなしに、まず自分で庭の鐘楼に出て、十八声の大鐘を撞(つ)くことだと考えた。

 翌朝は雨もあがった。松雲は夜の引き明けに床を離れて、山から来る冷たい清水(しみず)に顔を洗った。法鼓(ほうこ)、朝課(ちょうか)はあと回しとして、まず鐘楼の方へ行った。恵那山を最高の峰としてこの辺一帯の村々を支配して立つような幾つかの山嶽(さんがく)も、その位置からは隠れてよく見えなかったが、遠くかすかに鳴きかわす鶏の声を谷の向こうに聞きつけることはできた。まだ本堂の前の柊(ひいらぎ)も暗い。その時、朝の空気の静かさを破って、澄んだ大鐘の音が起こった。力をこめた松雲のき鳴らす音だ。その音は谷から谷を伝い、畠から畠を匍(は)って、まだ動きはじめない村の水車小屋の方へも、半分眠っているような馬小屋の方へもひびけて行った。
 
尾張藩主出府  ある朝、半蔵は妻のそばに目をさまして、街道を通る人馬の物音を聞きつけた。妻のお民は、と見ると、まだ娘のような顔をして、寝心地(ねごこち)のよい春の暁を寝惜しんでいた。半蔵は妻の目をさまさせまいとするように、自分ひとり起き出して、新婚後二人の居間となっている本陣の店座敷の戸を明けて見た。旧暦三月はじめのめずらしい雪が戸の外へ来た。暮れから例年にない暖かさだと言われたのが、三月を迎えてかえってその雪を見た。表庭の塀(へい)の外は街道に接していて、雪を踏んで行く人馬の足音がする。半蔵は耳を澄ましながらその物音を聞いて、かねてうわさのあった尾張藩主の江戸出府がいよいよ実現されることを知った。「尾州の御先荷(おさきに)がもうやって来た」と言って見た。

 
宿継ぎ差立(さした)てについて、尾張藩から送られて来た駄賃金(だちんがね)が馬籠の宿だけでも金四十一両に上った。駄賃金は年寄役金兵衛が預かったが、その金高を聞いただけでも今度の通行のかなり大げさなものであることを想像させる。半蔵はうすうす父からその話を聞いて知っていたので、部屋にじっとしていられなかった。台所に行って顔を洗うとすぐ雪の降る中を屋外(そと)へ出て見ると、会所では朝早くから継立(つぎた)てが始まる。あとからあとからと坂路(さかみち)を上って来る人足たちの後ろには、鈴の音に歩調を合わせるような荷馬の群れが続く。朝のことで、馬の鼻息は白い。時には勇ましいいななきの声さえ起こる。村の宿役人仲間でも一番先に家を出て、雪の中を奔走していたのは問屋の九太夫であった。

 前の年の六月に江戸湾を驚かしたアメリカの異国船は、また正月からあの沖合いにかかっているころで、今度は四隻の軍艦を八、九隻に増して来て、武力にも訴えかねまじき勢いで、幕府に開港を迫っているとのうわさすら伝わっている。全国の諸大名が江戸城に集まって、交易を許すか許すまいかの大評定(だいひょうじょう)も始まろうとしているという。半蔵はその年の正月二十五日に、尾州から江戸送りの大筒(おおづつ)の大砲や、軍用の長持が二十二棹(さお)もこの街道に続いたことを思い出し、一人持ちの荷物だけでも二十一荷(か)もあったことを思い出して、目の前を通る人足や荷馬の群れをながめていた。

 
半蔵が家の方へって行って見ると、吉左衛門はゆっくりしたもので、炉ばたで朝茶をやっていた。その時、半蔵はきいて見た。「おさん、けさ着いたのはみんな尾州の荷物でしょう」。「そうさ」。「この荷物は幾日ぐらい続きましょう」。「さあ、三日も続くかな。この前に唐人船の来た時は、上のものも下のものも大あわてさ。今度は戦争にはなるまいよ。何にしても尾州の殿様も御苦労さまだ」。

 
馬籠の本陣親子が尾張藩主に特別の好意を寄せていたのは、ただあの殿様が木曾谷や尾張地方の大領主であるというばかりではない。吉左衛門には、時に名古屋まで出張するおりなぞには藩主のお目通りを許されるほどの親しみがあった。半蔵は半蔵で、『神祇(じんぎ)宝典』や『類聚日本紀るいじゅうにほんぎなどをえらんだ源敬公以来の尾張藩主であるということが、彼の心をよろこばせたのであった。

 彼はあの源敬公の仕事を水戸の義公(ぎこう)に結びつけて想像し、『大日本史』の大業を成就したのもそういう義公であり、僧の契沖(けいちゅう)をして『万葉代匠記』(だいしょうき)をえらばしめたのもこれまた同じ人であることを想像し、その想像を儒仏の道がまだこの国に渡って来ない以前のまじりけのない時代にまでよく持って行った。

 
彼が自分の領主を思う心は、当時の水戸の青年がその領主を思う心に似ていた。その日、半蔵は店座敷にこもって、この深い山の中に住むさみしさの前に頭をたれた。障子の外には、に近い松の枝をすべる雪の音がする。それが恐ろしい響きを立てて庭の上に落ちる。街道から聞こえて来る人馬の足音も、絶えたかと思うとまた続いた。「こんな山の中にばかり引っ込んでいると、なんだかおれは気でも違いそうだ。みんな、のんきなことを言ってるが、そんな時世じゃない」と考えた。そこへお民が来た。お民はまだ十八の春を迎えたばかり、妻籠本陣への里帰りを済ましたころから眉(まゆ)剃(そ)り落としていて、いくらか顔のかたちはちがったが、動作は一層生き生きとして来た。「あなたの好きなねぶ茶をいれて来ました。あなたはまた、何をそんなに考えておいでなさるの」とお民がきいた。ねぶ茶とは山家で手造りにする飲料である。「おれか。おれは何も考えていない。ただ、こうしてぼんやりしている。お前とおれと、二人一緒になってから百日の余にもなるが――そうだ、百日どころじゃないや、もう四か月にもなるんだ――その間、おれは何をしていたかと思うようだ。阿爺(おやじ)の好きな煙草(たばこ)の葉を刻んだことと、祖母(おばあ)さんの看病をしたことと、まあそれくらいのものだ」。

 半蔵は新婚のよろこびに酔ってばかりもいなかった。学業の怠りを嘆くようにして、それをお民に言って見せた。「わたしはお節句のことを話そうと思うのに、あなたはそんなに考えてばかりいるんですもの。だって、もう三月は来てるじゃありませんか。この御通行が済むまでは、どうすることもできないじゃありませんか」。新婚のそもそもは、娘の昔に別れを告げたばかりのお民にとって、むしろ苦痛でさえもあった。それが新しいよろこびに変わって来たころから、とかく店座敷を離れかねている。いつのまにか半蔵のはお民の方へ向いた。彼はまるで尻餅(しりもち)でもついたように、後ろ手を畳の上に落として、それで身をささえながら、妻籠から持って来たという記念の雛(ひな)人形の話なぞをするお民の方をながめた。手織り縞(じま)でこそあれ、当時の風俗のように割合に長くひいた裾(すそ)の着物は彼女に似合って見える。り落としたのあとも、青々として女らしい。半蔵の心をよろこばせたのは、ことにお民の手だ。この雪に燃えているようなその娘らしい手だ。彼は妻と二人ぎりでいて、その手に見入るのを楽しみに思った。

 実に突然に、お民は夫のそばですすり泣きを始めた。「ほら、あなたはよくそう言うじゃありませんか。わたしに学問の話なぞをしても、ちっともわけがわからんなんて。そりゃ、あのお母さん姑(しゅうとめ、おまん)のまねはわたしにはできない。今まで、妻籠の方で、だれもわたしに教えてくれる人はなかったんですもの」。「お前は機(はた)でも織っていてくれれば、それでいいよ」。お民は容易にすすり泣きをやめなかった。半蔵は思いがけない涙を聞きつけたというふうに、そばへ寄って妻をいたわろうとすると、「教えて」と言いながら、しばらくお民は夫の膝(ひざ)に顔をうずめていた。

 ちょうど本陣では隠居が病みついているころであった。あの婆さんももう老衰の極度にあった。「おい、お民、お前は祖母(おばあ)さんをよく看(み)てくれよ」と言って、やがて半蔵は隠居の臥(ね)ている部屋の方へお民を送り、自分でも気を取り直した。

 いつでも半蔵が心のさみしいおりには、日ごろ慕っている平田篤胤の著書を取り出して見るのを癖のようにしていた。『霊(たま)の真柱(まはしら)』、『玉だすき』、それから講本の『古道大意』なぞは読んでも読んでも飽きるということを知らなかった。大判の薄藍色(うすあいいろ)の表紙から、必ず古紫の糸で綴(と)じてある本の装幀(そうてい)までが、彼には好ましく思われた。『静(しず)の岩屋』、『西籍概論』(さいせきがいろん)の筆記録から、三百部を限りとして絶版になった『毀誉(きよ)相半ばする書』のような気吹(いぶき)の舎(や)の深い消息までも、不便な山の中で手に入れているほどの熱心さだ。平田篤胤は天保十四年に没している故人で、この黒船騒ぎなぞをもとより知りようもない。あれほどの強さに自国の学問と言語の独立を主張した人が、嘉永安政の代に生きるとしたら――すくなくもあの先輩はどうするだろうとは、半蔵のような青年の思いを潜めなければならないことであった。

 
新しい機運は動きつつあった。全く気質を相異あいことにし、全く傾向を相異にするようなものが、ほとんど同時に踏み出そうとしていた。長州萩(はぎ)の人、吉田松陰は当時の厳禁たる異国への密航を企てて失敗し、信州松代(まつしろ)の人、佐久間象山(しょうざん)はその件に連座して獄に下ったとのうわさすらある。美濃の大垣あたりに生まれた青年で、異国の学問に志し、遠く長崎の方へ出発したという人の話なぞも、決してめずらしいことではなくなった。「黒船」。雪で明るい部屋の障子に近く行って、半蔵はその言葉を繰り返して見た。遠い江戸湾のかなたには、実に八、九艘(そう)もの黒船が来てあの沖合いに掛かっていることを胸に描いて見た。その心から、彼は尾張藩主の出府も容易でないと思った。

 木曾寄せの人足七百三十人、伊那助郷(すけごう)千七百七十人、この人数合わせて二千五百人を動かすほどの大通行が、三月四日に馬籠の宿を経て江戸表へ下ることになった。宿場に集まった馬の群れだけでも百八十匹、馬方百八十人にも上った。松雲和尚は万福寺の方にいて、長いこと留守にした方丈にもろくろく落ちつかないうちに、三月四日を迎えた。前の晩に来たはげしい雷鳴もおさまり、夜中ごろから空も晴れて、人馬の継ぎ立てはその日の明け方から始まった。

 
尾張藩主が出府と聞いて、寺では徒弟僧(とtりそう)も寺男もじっとしていない。大領主のさかんな通行を見ようとして裏山越しに近在から入り込んで来る人たちは、門前の石段の下に小径(こみち)の続いている墓地の間を急ぎ足に通る。「お前たちも行って殿様をお迎えするがいい」と松雲は二人の弟子にも寺男にも言った。旅にある日の松雲はかなりわびしい思いをして来た。京都の宿で患(わずら)いついた時は、書きにくい手紙を伏見屋の金兵衛にあてて、余分な路銀の心配までかけたこともある。もし無事に行脚(あんぎゃ)の修業を終わる日が来たら、村のためにも役に立とう、貧しい百姓の子供をも教えよう、そう考えて旅から帰って来た。周囲にある空気のあわただしさ。この動揺の中に僧侶の身をうけて、どうして彼は村の幼く貧しいものを育てて行こうかとさえ思った。

 「和尚さま」と声をかけて裏口からはいって来たのは、日ごろ、寺へ出入りの洗濯婆(せんたくばあ)さんだ。腰に鎌をさし、※草履(わらぞうり)[くさかんむり/稾]をはいて、男のような頑丈(がんじょう)な手をしている山家の女だ。「お前さまはお留守居かなし」。「そうさ」。「おれは今までにいたが、餅草どころじゃあらすか。きょうのお通りは正五(しょういつ)つ時(どき)だげな。殿様は下町の笹屋(ささや)の前まで馬に騎(の)っておいでで、それから御本陣までお歩行(ひろい)だげな。お前さまも出て見さっせれや」。「まあ、わたしはお留守居だ」。「こんな日にお寺に引っ込んでいるなんて、そんなお前さまのような人があらすか」。「そう言うものじゃないよ。用事がなければ、親類へも行かない。それが出家の身なんだもの。わたしはお寺の番人だ。それでたくさんだ」。婆さんは鉄漿(おはぐろ)のはげかかった半分黒い歯を見せて笑い出した。庭の土間での立ち話もそこそこにして、また裏口から出て行った。

 やがて正五つ時も近づくころになると、寺の門前を急ぐ人の足音も絶えた。物音一つしなかった。何もかも鳴りをひそめて、静まりかえったようになった。ちょうど例年より早くめずらしい陽気は谷間に多い花の蕾(つぼみ)をふくらませている。馬に騎(の)りかえて新茶屋あたりから進んで来る尾張藩主が木曾路の山ざくらのかげに旅の身を見つけようというころだ。松雲は戸から外へ出ないまでも、街道の両側に土下座する村民の間を縫ってお先案内をうけたまわる問屋の九太夫をも、まのあたり藩主を見ることを光栄としてありがたい仕合わせだとささやき合っているような宿役人仲間をも、うやうやしく大領主を自宅に迎えようとする本陣親子をも、ありありと想像で見ることができた。方丈もしんかんとしていた。まるでそこいらはからっぽのようになっていた。松雲はただ一人黙然もくねんとして、古い壁にかかる達磨(だるま)の画像の前にすわりつづけた。
 三
 なんとなく雲脚(くもあし)の早さを思わせるような諸大名諸公役の往来は、それからも続きに続いた。尾張藩主の通行ほど大がかりではないまでも、土州、雲州、讃州などの諸大名は西から。長崎奉行永井岩之丞(いわのじょう)の一行は東から。五月の半ばには、八百人の同勢を引き連れた肥後の家老長岡監物の一行が江戸の方から上って来て、いずれも鉄砲持参で、一人ずつ腰弁当でこの街道を通った。

 仙洞御所(せんとうごしょ)の出火のうわさ、その火は西陣までの町通りを焼き尽くして天明年度の大火よりも大変だといううわさが、京都方面から伝わって来たのもそのころだ。この息苦しさの中で、年若な半蔵なぞが何物かを求めてやまないのにひきかえ、村の長老たちの願いとしていることは、結局現状の維持であった。黒船騒ぎ以来、諸大名の往来は激しく、伊那あたりから入り込んで来る助郷の数もおびただしく、その弊害は覿面(てきめん)に飲酒賭博(とばく)の流行にあらわれて来た。庄屋としての吉左衛門が宿役人らの賛成を得て、賭博厳禁ということを言い出し、それを村民一同に言い渡したのも、その年の馬市が木曾福島の方で始まろうとするころにあたる。

 「あの時分はよかった」。年寄役の金兵衛が吉左衛門の顔を見るたびに、よくそこへ持ち出すのも、「あの時分」だ。同じ駅路の記憶につながれている二人の隣人は、まだまだ徳川の代が平和であった時分のことを忘れかねている。新茶屋に建てた翁塚(おきなづか)、伏見屋の二階に催した供養の俳諧(はいかい)、蓬莱屋(ほうらいや)の奥座敷でうんと食ったアトリ三十羽に茶漬け三杯――「あの時分」を思い出させるようなものは何かにつけ恋しかった。この二人には、山家が山家でなくなった。街道はいとわしいことで満たされて来た。もっとゆっくり隣村の湯舟沢や、山口や、あるいは妻籠からの泊まり客を家に迎え、こちらからも美濃の落合の祭礼や中津川あたりの狂言を見に出かけて行って、すくなくも二日や三日は泊まりがけで親戚知人の家の客となって来るようでなくては、どうしても二人には山家のような気がしなかった。
祭礼狂言  その年の祭礼狂言をさかんにするということが、やがて馬籠の本陣で協議された。組頭庄兵衛もこれには賛成した。ちょうど村では金兵衛の胆煎(こもい)りで、前の年の十月あたりに新築の舞台普請をほぼ終わっていた。付近の山の中に適当な普請木(ふしんぎ)を求めることから、舞台の棟上(むなあ)げ、投げ餅(もち)の世話まで、多くは金兵衛の骨折りでできた。その舞台は万福寺の境内に近い裏山の方に造られて、もはや楽しい秋の祭りの日を待つばかりになっていた。

 
この地方で祭礼狂言を興行する歴史も古い。それだけ土地の人たちが歌舞伎そのものに寄せている興味も深かった。当時の南信から濃尾(のうび)地方へかけて、演劇の最も発達した中心地は、近くは飯田、遠くは名古屋であって、市川海老蔵のような江戸の役者が飯田の舞台を踏んだこともめずらしくない。それを聞くたびに、この山の中に住む好劇家連は女中衆まで引き連れて、大平峠(おおだいらとうげ)を越しても見に行った。あの蘭(あららぎ)、広瀬あたりから伊那の谷の方へ出る深い森林の間も、よい芝居を見たいと思う男や女には、それほど遠い道ではなかったのである。金兵衛もその一人だ。彼は秋の祭りの来るのを待ちかねて、その年の閏(うるう)七月にしばらく村を留守にした。伏見屋もどうしたろう、そう言って吉左衛門などがうわさをしているところへ、豊川、名古屋、小牧、御嶽(おんたけ)、大井を経て金兵衛親子が無事に帰って来た。そのおりの土産話(みやげばなし)が芝居好きな土地の人たちをうらやましがらせた。名古屋の若宮の芝居では八代目市川団十郎が一興行を終わったところであったけれども、橘町(たちばなちょう)の方には同じ江戸の役者三桝(みます)大五郎、関三十郎、大谷広右衛門などの一座がちょうど舞台に上るころであったという。

 
九月も近づいて来るころには、村の若いものは祭礼狂言のけいこに取りかかった。荒町からは十一人も出て舞台へ通う村の道を造った。かねて金兵衛が秘蔵子息(むすこ)のために用意した狂言用の大小の刀も役に立つ時が来た。彼は鶴松ばかりでなく、上の伏見屋の仙十郎をも舞台に立たせ、日ごろの溜飲(りゅういん)を下げようとした。好ましい鬘(かずら)を子にあてがうためには、一分(ぶ)朱(しゅ)ぐらいの金は惜しいとは思わなかった。

 
狂言番組。式三番叟(しきさんばそう)。碁盤太平記。白石噺(しらいしばなし)三の切り。小倉色紙(おぐらしきし)。最後に戻り籠(かご)。このうち式三番叟と小倉色紙に出る役と、その二役は仙十郎が引きうけ、戻り籠に出る難波治郎作(なにわじろさく)の役は鶴松がすることになった。金兵衛がはじめて稽古場へ見物に出かけるころには、ともかくも村の若いものでこれだけの番組を作るだけの役者がそろった。

 
その年の祭りの季節には、馬籠以外の村々でもめずらしいにぎわいを呈した。各村はほとんど競争の形で、神輿(みこし)を引き出そうとしていた。馬籠でさかんにやると言えば、山口でも、湯舟沢でも負けてはいないというふうで。中津川での祭礼狂言は馬籠よりも一月ほど早く催されて、そのおりは本陣のおまんも仙十郎と同行し、金兵衛はまた吉左衛門とそろって押しかけて行って来た。目にあまる街道一切の塵埃(ほこり)ッぽいことも、このにぎやかな祭りの気分には埋(うず)められそうになった。

 
そのうちに、名古屋の方へ頼んで置いた狂言衣裳(いしょう)の荷物が馬で二駄も村に届いた。舞台へ出るけいこ最中の若者らは他村に敗(ひけ)を取るまいとして、振付(ふりつけ)は飯田の梅蔵に、唄(うた)は名古屋の治兵衛に、三味線(しゃみせん)は中村屋鍵蔵に、それぞれ依頼する手はずをさだめた。祭りの楽しさはそれを迎えた当日ばかりでなく、それを迎えるまでの日に深い。浄瑠璃方(かた)がすでに村へ入り込んだとか、化粧方が名古屋へ飛んで行ったとか、そういううわさが伝わるだけでも、村の娘たちの胸にはよろこびがわいた。こうなると、金兵衛はじっとしていられない。毎日のように舞台へ詰めて、桟敷(さじき)をかける世話までした。伏見屋の方でも鶴松に初舞台を踏ませるとあって、お玉の心づかいは一通りでなかった。中津川からは親戚の女まで来て衣裳ごしらえを手伝った。「きょうもよいお天気だ」。そう言って、金兵衛が伏見屋の店先から街道の空を仰いだころは、旧暦九月の二十四日を迎えた。例年祭礼狂言の初日だ。朝早くから金兵衛は髪結いの直次を呼んで、年齢(とし)相応の髷(まげ)に結わせた。五十八歳まで年寄役を勤続して、村の宿役人仲間での年長者と言われる彼も、白い元結(もとゆい)で堅く髷の根を締めた時は、さすがにさわやかな、祭りの日らしい心持ちに返った。剃り立てた顋(あご)のあたりも青く生き生きとして、平素の金兵衛よりもかえって若々しくなった。「鶴、うまくやっておくれよ」。「大丈夫だよ。お父、安心しておいでよ」。伏見屋親子はこんな言葉をかわした。

 そこへ仙十郎もちょっと顔を出しに来た。金兵衛はこの義理ある甥(おい)の方を見た時にも言った。「仙十郎しっかり頼むぜ。式三番と言えば、お前、座頭(ざがしら)の勤める役だぜ」。仙十郎は美濃の本場から来て、上の伏見屋を継いだだけに、こうした祭りの日なぞには別の人かと見えるほど快活な男を発揮した。彼はこんな山の中に惜しいと言われるほどの美貌(びぼう)で、その享楽的な気質は造り酒屋の手伝いなぞにはあまり向かなかった。「さあ。きょうは、うんと一つあばれてやるぞ。村の舞台が抜けるほど踊りぬいてやるぞ」。仙十郎の言い草だ。まだ狂言の蓋(ふた)もあけないうちから、金兵衛の心は舞台の楽屋の方へも、桟敷(さじき)の方へも行った。だんだら模様の烏帽子(えぼし)をかぶり、三番叟(さんばそう)らしい寛濶(かんかつ)な狂言の衣裳をつけ、鈴を手にした甥の姿が、彼の目に見えて来た。戻り籠に出る籠かき姿の子が杖でもついて花道にかかる時に、桟敷の方から起こる喝采は、必ず「伏見屋」と来る。そんな見物の掛け声まで、彼の耳の底に聞こえて来た。「ほんとに、おれはこんなばかな男だ」。金兵衛はそれを自分で自分に言って、束にして掛けたの葉のしるしも酒屋らしい伏見屋の門口を、出たりはいったりした。

 
三日続いた狂言はかなりの評判をとった。たとい村芝居でも仮借(かしゃく)はしなかったほど藩の検閲は厳重で、風俗壊乱、その他の取り締まりにと木曾福島の役所の方から来た見届け奉行(ぶぎょう)なぞも、狂言の成功を祝って引き取って行ったくらいであった。いたるところの囲炉裏(いろり)ばたでは、しばらくこの狂言の話で持ち切った。何しろ一年に一度の楽しい祭りのことで、顔だちから仕草(しぐさ)から衣裳まで三拍子そろった仙十郎が三番叟の美しかったことや、十二歳で初舞台を踏んだ鶴松が難波治郎作のいたいけであったことなぞは、村の人たちの話の種になって、そろそろ大根引きの近づくころになっても、まだそのうわさは絶えなかった。

 旧暦十一月の四日は冬至(とうじ)の翌日である。多事な一年も、どうやら滞りなく定例の恵比須講(えぶすこう)を過ぎて、村では冬至を祝うまでにこぎつけた。そこへ地震だ。あの家々に簾(すだれ)を掛けて年寄りから子供まで一緒になって遊んだ祭りの日から数えると、わずか四十日ばかりの後に、いつやむとも知れないようなそんな地震が村の人たちを待っていようとは。

 
吉左衛門の家では一同裏の竹藪(たけやぶ)へ立ち退(の)いた。おまんも、お民も、皆な足袋(たび)跣足(はだし)で、半蔵に助けられながら木小屋の裏に集まった。その時は、隠居はもはやこの世にいなかった。七十三の歳(とし)まで生きたあのおばあさんも、孫のお民が帯祝いの日にあわずじまいに、ましてお民に男の子の生まれたことも、生まれる間もなくその子の亡(な)くなったことも、そんな慶事と不幸とがほとんど[「ほとんど」は底本では「ほんど」]同時にやって来たことも知らずじまいに、その年の四月にはすでに万福寺の墓地の方に葬られた人であった。「あなた、遠くへ行かないでくださいよ。皆と一緒にいてくださいよ」とおまんが吉左衛門のことを心配するそばには、産後三十日あまりにしかならないお民が青ざめた顔をしていた。また揺れて来たと言うたびに、下男の佐吉も二人の下女までも、互いに顔を見合わせて目の色を変えた。

 太い青竹の根を張った藪の中で、半蔵は帯を締め直した。父と連れだってそこいらへ見回りに出たころは、本陣の界隈に住むもので家の中にいるものはほとんどなかった。隣家のことも気にかかって、吉左衛門親子が見舞いに行くと、伏見屋でもお玉や鶴松なぞは舞台下の日刈小屋の方に立ち退(の)いたあとだった。さすがに金兵衛はおちついたもので、その不安の中でも下男の一人を相手に家に残って、京都から来た飛脚に駄賃を払ったり、判取り帳をつけたりしていた。「どうも今年は正月の元日から、いやに陽気が暖かで、おかしいおかしいと思っていましたよ」。それを吉左衛門が言い出すと、金兵衛も想(おも)い当たるように、「それさ。元日に草履(ぞうり)ばきで年始が勤まったなんて、木曾じゃ聞いたこともない。おまけに、寺道の向こうに椿(つばき)が咲き出す、若餅(わかもち)でも搗(つ)こうという時分に蓬(よもぎ)が青々としてる。あれはみんなこの地震の来る知らせでしたわい。なにしろ、吉左衛門さん、吾家(うち)じゃ仙十郎の披露(ひろう)を済ましたばかりで、まあおかげであれも組頭(くみがしら)のお仲間入りができた。わたしも先祖への顔が立った、そう思って祝いの道具を片づけているところへ、この地震でしょう」。「申年(さるどし)の善光寺の地震が大きかったなんて言ったってとても比べものにはなりますまいよ、ほら、寅年(とらどし)六月の地震の時だって、こんなじゃなかった」。「いや、こんな地震は前代未聞にも、なんにも」。

 とりあえず宿役人としての吉左衛門や金兵衛が相談したことは、老人女子供以外の町内のものを一定の場所に集めて、火災盗難等からこの村を護(まも)ることであった。場所は問屋と伏見屋の前に決定した。そして村民一同お日待(ひまち)をつとめることに申し合わせた。天変地異に驚く山の中の人たちの間には、春以来江戸表や浦賀辺を騒がしたアメリカの船をも、長崎から大坂の方面にたびたび押し寄せたというオロシャの船をも、さては仙洞御所(せんとうごしょ)の出火までも引き合いに出して、この異変を何かの前兆に結びつけるものもある。夜一夜、だれもまんじりとしなかった。半蔵もその仲間に加わって、産後の妻の身を案じたり、竹藪(たけやぶ)背戸田(せどた)に野宿する人たちのことを思ったりして、太陽の登るのを待ち明かした。

 
翌日は雪になったが、揺り返しはなかなかやまなかった。問屋、伏見屋の前には二組に分れた若者たちが動いたり集まったりして、美濃の大井や中津川辺は馬籠よりも大地震だとか、隣宿の妻籠も同様だとか、どこから聞いて来るともなくいろいろなうわさを持っては帰って来た。恵那山川上山(かおれやま)鎌沢山(kさまざわやま)のかなたには大崩(おおくず)れができて、それが根の上あたりから望まれることを知らせに来るのも若い連中だ。その時になると、まれに見るにぎわいだったと言われた祭りの日のよろこびも、狂言の評判も、すべて地震の騒ぎの中に浚(さら)われたようになった。
 揺り返し、揺り返しで、不安な日がそれから六日も続いた。宿では十八人ずつの夜番が交替に出て、街道から裏道までを警戒した。祈祷のためと言って村の代参を名古屋の熱田(あった)神社へも送った。そのうちに諸方からの通知がぽつぽつ集まって来て、今度の大地震が関西地方にことに劇(はげ)しかったこともわかった。東海道岡崎宿あたりへは海嘯(つなみ)がやって来て、新井の番所なぞは海嘯のために浚(さら)われたこともわかって来た。

 
熱田からの代参の飛脚が村をさして帰って来たころには、怪しい空の雲行きもおさまり、そこいらもだいぶ穏やかになった。吉左衛門は会所の定使(じょうづかい)に言いつけて、熱田神社祈祷の札を村じゅう軒別に配らせていると、そこへ金兵衛の訪(たず)ねて来るのにあった。「吉左衛門さん、もうわたしは大丈夫と見ました。時に、あすは十一月の十日にもなりますし、仏事をしたいと思って、お茶湯(ちゃとう)のしたくに取りかかりましたよ。御都合がよかったら、あなたにも出席していただきたい」。「お茶湯とは君もよいところへ気がついた。こんな時の仏事は、さぞ身にしみるだろうねえ」。

 
その時、金兵衛は一通の手紙を取り出して吉左衛門に見せた。舌代(ぜつだい)として、病中の松雲和尚から金兵衛にあてたものだ。それには、伏見屋の仏事にも弟子を代理として差し出すという詫(わ)びからはじめて、こんな非常時には自分のようなものでも村の役に立ちたいと思い、行脚(あんぎゃ)の旅にあるころからそのことを心がけて帰って来たが、あいにくと病に臥(ふ)していてそれのできないのが残念だという意味を書いてある。寺でも経堂その他の壁は落ち、土蔵にもエミ(亀裂、きれつ)を生じたが、おかげで一人怪我もなくて済んだと書いてある。本陣の主人へもよろしくと書いてある。「いや、和尚さまもお堅い、お堅い」。「なにしろ六年も行脚に出ていた人ですから、旅の疲れぐらいは出ましょうよ」。それが吉左衛門の返事だった。「お宅では」。「まだみんな裏の竹藪(たけやぶ)です。ちょっと、おまんにもあってやってください」。そう言って吉左衛門が金兵衛を誘って行ったところは、おそろしげに壁土の落ちた土蔵のそばだ。木小屋を裏へ通りぬけると、暗いほど茂った竹藪がある。その辺に仮小屋を造りつけ、戸板で囲って、たいせつな品だけは母屋(もや)の方から運んで来てある。そこにおまんや、お民なぞが避難していた。「わたしはお民さんがお気の毒でならない」と金兵衛は言った。「妻籠からお嫁にいらしって、翌年にはこの大地震なんて全くやり切れませんねえ」。

 
おまんはその話を引き取って、「お宅でも、皆さんお変わりもありませんか」。「えゝ、まあおかげで。たった一人おもしろい人物がいまして、これだけは無事とは言えないかもしれません。実は吾家(うち)で使ってる源吉のやつですが、この騒ぎの中で時々どこかへいなくなってしまう。あれはすこし足りないんですよ。あれはアメリカという人相ですよ」。「アメリカという人相はよかった。金兵衛さんの言いそうなことだ」と吉左衛門もかたわらにいて笑った。こんな話をしているところへ、生家(さと)の親たちを見に来る上の伏見屋のお喜佐、半蔵夫婦を見に来る乳母(うば)のおふきさん、いずれも立ち退き先からそこへ一緒になった。主従の関係もひどくやかましかった封建時代に、下男や下女までそこへを突き合わせて、目上目下の区別もなく、互いに食うものを分け、互いに着るものを心配し合う光景は、こんな非常時でなければ見られなかった図だ。

 村民一同が各自の家に帰って寝るようになったのは、ようやく十一月の十三日であった。はじめて地震が来た日から数えて実に十日目に当たる。夜番に、見回りに、ごく困窮な村民の救恤(きゅうじゅつ)に、その間、半蔵もよく働いた。彼は伏見屋から大坂[「大坂」は底本では「大阪」]地震の絵図なぞを借りて来て、それを父と一緒に見たが、震災の実際はうわさよりも大きかった。大地震の区域は伊勢の山田辺から志州(ししゅう)の鳥羽にまで及んだ。東海道の諸宿でも、出火、潰(つぶ)れ家(や)など数えきれないほどで、宮の宿(しゅく)から吉原の宿までの間に無難なところはわずかに二宿しかなかった。

 
やがて、その年初めての寒さも山の上へやって来るようになった。一切を沈黙させるような大雪までが十六日の暮れ方から降り出した。その翌日は風も立ち、すこし天気のよい時もあったが、夜はまた大雪で、およそ二尺五寸も積もった。石を載せた山家の板屋根は皆さびしい雪の中に埋(うず)もれて行った。

 「九太夫さん、どうもわたしは年回りがよくないと思う」。「どうでしょう、馬籠でも年を祭り替えることにしては」。「そいつはおもしろい考えだ」。「この街道筋でも祭り替えるようなうわさで、村によってはもう松を立てたところもあるそうです」。「早速(さっそく)、年寄仲間や組頭の連中を呼んで、相談して見ますか」。本陣の吉左衛門と問屋の九太夫とがこの言葉をかわしたのは、村へ大地震の来た翌年安政二年の三月である。

 
流言。流言には相違ないが、その三月は実に不吉な月で、悪病が流行するか、大風が吹くか、大雨が降るかないし大饑饉が来るか、いずれ天地の間に恐ろしい事が起こる。もし年を祭り替えるなら、その災難からのがれることができる。こんなうわさがどこの国からともなくこの街道に伝わって来た。九太夫が言い出したこともこのうわさからで。

 
やがて宿役人らが相談の結果は村じゅうへ触れ出された。三月節句の日を期して年を祭り替えること。その日およびその前日は、農事その他一切の業務を休むこと。こうなると、流言の影響も大きかった。村では時ならぬ年越しのしたくで、暮れのような餅搗(もちつ)きの音が聞こえて来る。松を立てた家もちらほら見える。「そえご」と組み合わせた門松の大きなのは本陣の前にも立てられて、日ごろ出入りの小前(こまえ)のものは勝手の違った顔つきでやって来る。その中の一人は、百姓らしい手をもみもみ吉左衛門にたずねた。「大旦那、ちょっくら物を伺いますが、正月を二度すると言えば、年を二つ取ることだずら。村の衆の中にはそんなことを言って、たまげてるものもあるわなし。おれの家じゃ、お前さま、去年の暮れに女の子が生まれて、まだ数え歳(どし)二つにしかならない。あれも三つと勘定したものかなし」。「待ってくれ」。

 
この百姓の言うようにすると、吉左衛門自身は五十七、五十八と一時に年を二つも取ってしまう。伏見屋の金兵衛なぞは、一足飛びに六十歳を迎える勘定になる。「ばかなことを言うな。正月のやり直しと考えたらいいじゃないか」。そう吉左衛門は至極まじめに答えた。一年のうちに正月が二度もやって来ることになった。まるでうそのように。気の早い連中は、屠蘇(とそ)を祝え、雑煮(ぞうに)を祝えと言って、節句の前日から正月のような気分になった。当日は村民一同夜のひきあけに氏神諏訪社への参詣を済まして来て、まず吉例として本陣の門口に集まった。その朝も、吉左衛門は麻の※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)(かみしも)着用で、にこにこした目、大きな鼻、静かな口に、馬籠の駅長らしい表情を見せながら、一同の年賀を受けた。「へい、大旦那、明けましておめでとうございます」。「あい、めでたいのい」。これも一時の気休めであった。

 
その年、安政二年の十月七日には江戸の大地震を伝えた。この山の中のものは彦根の早飛脚からそれを知った。江戸表は七分通りつぶれ、おまけに大火を引き起こして、大部分焼失したという。震災後一年に近い地方の人たちにとって、この報知(しらせ)は全く他事(ひとごと)ではなかった。もっとも、馬籠のような山地でもかなりの強震を感じて、最初にどしんと来た時は皆な屋外(そと)へ飛び出したほどであった。それからの昼夜幾回とない微弱な揺り返しは、八十余里を隔てた江戸方面からの余波とわかった。

 
江戸大地震の影響は避難者の通行となって、次第にこの街道にもあらわれて来た。村では遠く江戸から焼け出されて来た人たちに物を与えるものもあり、またそれを見物するものもある。月も末になるころには、吉左衛門は家のものを集めて、江戸から届いた震災の絵図をひろげて見た。一鶯斎国周(いちおうさいくにちか)画、あるいは芳綱(よしつな)画として、浮世絵師の筆になった悲惨な光景がこの世ながらの地獄のようにそこに描き出されている。下谷(したや)広小路から金龍山の塔までを遠見にして、町の空には六か所からも火の手が揚がっている。右に左にと逃げ惑う群衆は、京橋四方蔵(しほうぐら)から竹河岸(たけがし)あたりに続いている。深川方面を描いたものは武家、町家いちめんの火で、煙につつまれた火見櫓(ひのみやぐら)も物すごい。目もくらむばかりだ。

 
半蔵が日ごろその人たちのことを想望していた水戸の藤田東湖戸田蓬軒(ほうけん)なぞも、この大地震の中に巻き込まれた。おそらく水戸ほど当時の青年少年の心を動かしたところはなかったろう。彰考館(しょうこうかん)の修史、弘道館の学問は言うまでもなく、義公、武公、烈公のような人たちが相続いてその家に生まれた点で。御三家の一つと言われるほどの親藩でありながら、大義名分を明らかにした点で。『常陸帯』(ひたちおび)を書き『回天詩史』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物の一人として、少年時代の半蔵の目にも映じたのである。あの『正気(せいき)の歌』なぞを諳誦(あんしょう)した時の心は変わらずにある。そういう藤田東湖は、水戸内部の動揺がようやくしげくなろうとするころに、開港か攘夷かの舞台の序幕の中で、倒れて行った。「東湖先生か。せめてあの人だけは生かして[「生かして」は底本では「生かし」]置きたかった」と半蔵は考えて、あの藤田東湖の死が水戸にとっても大きな損失であろうことを想(おも)って見た。やがて村へは庚申講(こうしんこう)の季節がやって来る。半蔵はそのめっきり冬らしくなった空をながめながら、自分の二十五という歳もむなしく暮れて行くことを思い、街道の片すみに立ちつくす時も多かった。
 四
 安政三年は馬籠の万福寺で、松雲和尚が寺小屋を開いた年である。江戸の大地震後一年目という年を迎え、震災のうわさもやや薄らぎ、この街道を通る避難者も見えないころになると、なんとなくそこいらは嵐(あらし)の通り過ぎたあとのようになった。当時の中心地とも言うべき江戸の震災は、たしかに封建社会の空気を一転させた。嘉永六年の黒船騒ぎ以来、続きに続いた一般人心の動揺も、震災の打撃のために一時取り沈められたようになった。もっとも、尾張藩主が江戸出府後の結果も明らかでなく、すでに下田の港は開かれたとのうわさも伝わり、交易を非とする諸藩の抗議には幕府の老中もただただ手をこまねいているとのうわさすらある。しかしこの地方としては、一時の混乱も静まりかけ、街道も次第に整理されて、米の値までも安くなった。

 各村倹約の申し渡しとして、木曾福島からの三人の役人が巡回して来たころは、山里も震災のあとらしい。土地の人たちは正月の味噌搗(つ)きに取りかかるころから、その年の豊作を待ち構え、あるいは杉苗(すぎなえ)植え付けの相談なぞに余念もなかった。ある一転機が半蔵の内部(なか)にもきざして来た。その年の三月には彼も父となっていた。お民は彼のそばで、二人の間に生まれた愛らしい女の子を抱くようになった。お粂(くめ)というのがその子の名で、それまで彼の知らなかったちいさなものの動作や、物を求めるような泣き声や、無邪気なあくびや、無心なほほえみなぞが、なんとなく一人前になったという心持ちを父としての彼の胸の中によび起こすようになった。その新しい経験は、今までのような遠いところにあるものばかりでなしに、もっと手近なものに彼の目を向けさせた。「おれはこうしちゃいられない」。そう思って、辺鄙(へんぴ)な山の中の寂しさ不自由さに突き当たるたびに、半蔵は自分の周囲を見回した。

 「おい、峠の牛方衆(うしかたしゅう)――中津川の荷物がさっぱり来ないが、どうしたい」。「当分休みよなし」。「とぼけるなよ」。「おれが何を知らすか。当分の間、角十(かどじゅう)の荷物を付け出すなと言って、仲間のものから差し留めが来た。おれは一向知らんが、仲間のことだから、どうもよんどころない」。「困りものだな。荷物を付け出さなかったら、お前たちはどうして食うんだ。牛行司(うしぎょうじ)にあったらよくそう言ってくれ」。往来のまん中で、尋ねるものは問屋の九太夫、答えるものは峠の牛方だ。

 最初、半蔵にはこの事件の真相がはっきりつかめなかった。今まで入荷(いりに)出荷(でに)とも付送(つけおく)りを取り扱って来た中津川の問屋角十(かどじゅう)に対抗して、牛方仲間が団結し、荷物の付け出しを拒んだことは彼にもわかった。角十の主人、角屋(かどや)十兵衛が中津川からやって来て、伏見屋の金兵衛にその仲裁を頼んだこともわかった。事件の当事者なる角十と、峠の牛行司二人(ふたり)の間に立って、六十歳の金兵衛が調停者としてたつこともわかった。双方示談の上、牛馬共に今までどおりの出入りをするように、それにはよく双方の不都合を問いただそうというのが金兵衛の意思らしいこともわかった。西は新茶屋から東は桜沢まで、木曾路の荷物は馬ばかりでなく、牛の背で街道を運搬されていたので。

 荷物送り状の書き替え、駄賃の上刎(うわは)ね――駅路時代の問屋の弊害はそんなところに潜んでいた。角十ではそれがはなはだしかったのだ。その年の八月、小草山の口明けの日から三日にわたって、金兵衛は毎日のように双方の間に立って調停を試みたが、紛争は解けそうもない。中津川からは角十側の人が来る。峠からは牛行司の利三郎、それに十二兼村(かねむら)の牛方までが、呼び寄せられる。峠の組頭、平助は見るに見かねて、この紛争の中へ飛び込んで来たが、それでも埓(らち)は明きそうもない。

 半蔵が本陣の門を出て峠の方まで歩き回りに行った時のことだ。崖(がけ)に添うた村の裏道には、村民の使用する清い飲料水が樋(とい)をつたってあふれるように流れて来ている。そこは半蔵の好きな道だ。その辺にはよい樹陰(こかげ)があったからで。途中で彼は峠の方からやって来る牛方の一人に行きあった。「お前たちもなかなかやるねえ」。「半蔵さま。お前さまも聞かっせいたかい」。「どうも牛方衆は苦手だなんて、平助さんなぞはそう言ってるぜ」。「冗談でしょう」。その時、半蔵は峠の組頭から聞いた言葉を思い出した。いずれ中津川からも人が出張しているから、とくと評議の上、随分一札(いっさつ)も入れさせ、今後無理非道のないように取り扱いたい、それが平助を通して聞いた金兵衛の言葉であることを思い出した。「まあ、そこへ腰を掛けろよ。場合によっては、吾家うち阿父(おやじ)に話してやってもいい」。

 
牛方は杉の根元にあった古い切り株を半蔵に譲り、自分はその辺の樹陰(こかげ)にしゃがんで、路傍(みちばた)の草をむしりむしり語り出した。「この事件は、お前さま、きのうやきょうに始まったことじゃあらすか。角十のような問屋は断わりたい。もっと他の問屋に頼みたい、そのことはもう四、五年も前から、下海道(しもかいどう)辺の問屋でも今渡(いまど)(水陸荷物の集散地)の問屋仲間でも、荷主まで一緒になって、みんな申し合わせをしたことよなし。ところが今度という今度、角十のやり方がいかにも不実だ、そう言って峠の牛行司が二人とも怒ってしまったもんだで、それからこんなことになりましたわい。伏見屋の旦那の量見じゃ、『おれが出たら』と思わっせるか知らんが、この事件がお前さま、そうやすやすと片づけられすか。そりゃ峠の牛方仲間は言うまでもないこと、宮の越(こし)の弥治衛門(やじえもん)に弥吉から、水上村の牛方や、山田村の牛方まで、そのほかアンコ馬まで申し合わせをしたことですで。まあ、見ていさっせれ――牛方もなかなか粘りますぞ。いったい、角十は他の問屋よりも強欲(ごうよく)すぎるわなし。それがそもそも事の起こりですで」。

 
半蔵はいろいろにしてこの牛方事件を知ることに努めた。彼が手に入れた「牛方より申し出の個条(かじょう)」は次のようなものであった。
 一、これまで駄賃(だちん)の儀、すべて送り状は包み隠し、控えの付(つけ)にて駄賃等書き込みにして、別に送り状を認(したため)め荷主方へ付送(つけおくり)りのこと多く、右にては一同掛念(けねん)やみ申さず。今後は有体(ありてい)に、実意になし、送り状も御見せ下さるほど万事親切に御取り計らい下さらば、一同安心致すべきこと。

 一、牛方どものうち、平生(へいぜい)心安き者は荷物もよく   、また駄賃等も御贔屓(ごひいき)あり。しできるでせうか   かるに向きに合わぬ牛方、並びに丸亀屋出入りの牛方   どもには格別不取り扱いにて、有り合わせし荷物も早速   には御渡しなく、願い奉る上ならでは付送り方(かた)に   御回し下さらず、これも御出入り牛方同様に不憫を加え   、荷物も早速御出し下さるよう御取り計らいありたきこと   。(もっとも、寄せ荷物なき時は拠(よんどころ)なく、その   節はいずれなりとも御取り計らいありたし)
一、大豆売買の場合、これを一駄四百五十文と問屋の利 分を定め、その余は駄賃として牛方どもに下されたきこ と。
 一、送り荷の運賃、運上(うんじょう)は一駄一分割(いちぶ   わり)と御定めもあることなれば、その余を駄賃として残   らず牛方どもへ下さるよう、今後御取り極(き)めありたき   こと。
 一、通し送り荷駄賃、名古屋より福島まで半分割(はんぶ    わり)の運上引き去り、その余は御刎(おは)ねなく下さ   れたきこと。
 一、荷物送り出しの節、心安き牛方にても、初めて参り候(   そうろう)牛方にても、同様に御扱い下され、すべて今渡   (いまど)の問屋同様に、依怙贔屓(えこひいき)なきよう   願いたきこと。
 一、すべて荷物、問屋に長く留め置き候ては、荷主催促に   及び、はなはだ牛方にて迷惑難渋仕(つかまつ)り候間   、早速付送(つけおく)り方、御取り計らい下され候よう    願いたきこと。
 一、このたび組定(くみじょう)とりきめ候上は、双方堅く相    守り申すべく、万一問屋無理非道の儀を取り計らい候    わば、その節は牛方どもにおいて問屋を替え候とも苦し   からざるよう、その段御引き合い下されたく候こと。

 これは調停者の立場から書かれたもので、牛方仲間がこの個条書をそっくり認めるか、どうかは、峠の牛行司でもなんとも言えないとのことであった。はたして、水上村から強い抗議が出た。八月十日の夜、峠の牛方仲間のものが伏見屋へ見えての話に、右の書付を一同に読み聞かせたところ、少々腑(ふ)に落ちないところもあるから、いずれ仲間どもで別の案文を認(したため)めた上のことにしたい、それまで右の証文は二人の牛行司の手に預かって置くというようなことで、またまた交渉は行き悩んだらしい。

 ちょうど、中津川の医者で、半蔵が旧(ふる)い師匠にあたる宮川寛斎が桝田屋の病人を見に馬籠へ頼まれて来た。この寛斎からも、半蔵は牛方事件の成り行きを聞くことができた。牛方仲間に言わせると、とかく角十の取り扱い方には依怙贔屓があって、駄賃書き込み等の態度は不都合もはなはだしい、このまま双方得心(とくしん)ということにはどうしても行きかねる、今一応仲間のもので相談の上、伏見屋まで挨拶しようという意向であるらしい。牛方仲間は従順ではあったが、決して屈してはいなかった。

 とうとう、この紛争は八月の六日から二十五日まで続いた。長引けば長引くほど、事件は牛方の側に有利に展開した。下海道の荷主が六、七人も角十を訪れて、峠の牛方と同じようなことは何も言わないで、今まで世話になった礼を述べ、荷物問屋のことは他の新問屋へ依頼すると言って、お辞儀をしてさっさと帰って行った時は、角屋十兵衛もあっけに取られたという。その翌日には、六人の瀬戸物商人が中津川へ出張して来て、新規の問屋を立てることに談判を運んでしまった。中津川の和泉屋(いずみや)は、半蔵から言えば親しい学友蜂谷香蔵(はちやこうぞう)の家である。その和泉屋が角十に替(かわ)って問屋を引き受けるなぞも半蔵にとっては不思議な縁故のように思われた。もみにもんだこの事件が結局牛方の勝利に帰したことは、半蔵にいろいろなことを考えさせた。あらゆる問屋が考えて見なければならないような、こんな新事件は彼の足もとから動いて来ていた。ただ、彼ら、名もない民は、それを意識しなかったまでだ。

 生みの母を求める心は、早くから半蔵を憂鬱(ゆううつ)にした。その心は友だちを慕わせ、師とする人を慕わせ、親のない村の子供にまで深い哀憐(あわれみ)を寄せさせた。彼がまだ十八歳のころに、この馬籠の村民が木曾山の厳禁を犯して、多分の木を盗んだり背伐(せぎ)りをしたりしたという科(とが)で、村から六十一人もの罪人を出したことがある。その村民が彼の家の門内に呼びつけられて、福島から出張して来た役人の吟味を受けたことがある。彼は庭のすみの梨(なし)の木のかげに隠れて、腰繩(こしなわ)手錠をかけられた不幸な村民を見ていたことがあるが、貧窮な黒鍬(くろくわ)や小前(こまえ)のものを思う彼の心はすでにそのころから養われた。馬籠本陣のような古い歴史のある家柄に生まれながら、彼の目が上に立つ役人や権威の高い武士の方に向かわないで、いつでも名もない百姓の方に向かい、従順で忍耐深いものに向かい向かいしたというのも、一つは継母(ままはは)に仕えて身を慎んで来た少年時代からの心の満たされがたさが彼の内部(なか)に奥深く潜んでいたからで。この街道に荷物を運搬する牛方仲間のような、下層にあるものの動きを見つけるようになったのも、その彼の目だ。
 
 「御免ください」。馬籠の本陣の入り口には、伴を一人連れた訪問の客があった。「妻籠からお客さまが見えたぞなし」という下女の声を聞きつけて、お民は奥から囲炉裏ばたへ飛んで出て来て見た。兄の寿平次だ。「まあ、兄さん、よくお出かけでしたねえ」とお民は言って、奥にいる姑(しゅうとめ)のおまんにも、店座敷にいる半蔵にもそれと知らせた。広い囲炉裏ばたは、台所でもあり、食堂でもあり、懇意なものの応接間でもある。山家らしい焚火(たきぎ)で煤(すす)けた高い屋根の下、黒光りのするほど古い太い柱のそばで、やがて主客の挨拶があった。「これさ。そんなところに腰掛けていないで、草鞋でもおぬぎよ」。

 おまんは本陣の「姉(あね)さま」らしい調子で、寿平次の供をして来た男にまで声をかけた。二里ばかりある隣村からの訪問者でも、供を連れて山路(やまみち)を踏んで来るのが当時の風習であった。ちょうど、木曾路は山の中に多い栗(くり)の落ちるころで、妻籠から馬籠までの道は楽しかったと、供の男はそんなことをおまんにもお民にも語って見せた。間もなくお民は明るい仲の間を片づけて、秋らしい西の方の空の見えるところに席をつくった。

 馬籠と妻籠の両本陣の間には、宿場の連絡をとる上から言っても絶えず往来がある。半蔵が父の代理として木曾福島の役所へ出張するおりなぞは必ず寿平次の家を訪れる。その日は半蔵もめずらしくゆっくりやって来てくれた寿平次を自分の家に迎えたわけだ。「まず、わたしの失敗話(しくじりばなし)から」と寿平次が言い出した。お民は仲の間と囲炉裏ばたの間を往(い)ったり来たりして、茶道具なぞをそこへ持ち運んで来た。その時、寿平次は言葉をついで、「ほら、この前、おねした日ですねえ。あの帰りに、藤蔵さんの家の上道を塩野へ出ましたよ。いろいろな細い道があって、自分ながらすこし迷ったかと思いますね。それから林の中の道を回って、下り坂の平蔵さんの家の前へ出ました。狸(たぬき)にでも化かされたように、ぼんやり妻籠へ帰ったのが八つ時(どき)ごろでしたさ」。半蔵もお民も笑い出した。

 寿平次はお民と二人ぎりの兄妹(きょうだい)で、その年の正月にようやく二十五歳厄除(やくよ)けのお日待(ひまち)を祝ったほどの年ごろである。先代が木曾福島へ出張中に病死してからは、早く妻籠の本陣の若主人となっただけに、年齢(とし)の割合にはふけて見え、口のききようもおとなびていた。彼は背(せい)の低い男で、肩の幅で着ていた。一つ上の半蔵とそこへ対(むか)い合ったところは、どっちが年長(としうえ)かわからないくらいに見えた。年ごろから言っても、二人はよい話し相手であった。「時に、半蔵さん、きょうはめずらしい話を持って来ました」と寿平次は目をかがやかして言った。「どうもこの話は、ただじゃ話せない」。「兄さんも、勿体(もったい)をつけること」とお民はそばに聞いていて笑った。「お民、まあなんでもいいから、お父(とっ)さんやお母(っか)さんを呼んで来ておくれ」。「兄さん、お喜佐さんも呼んで来ましょうか。あの人も仙十郎さんと別れて、今じゃ家にいますから」。「それがいい、この話はみんなに聞かせたい」。

 「大笑い。大笑い」。吉左衛門はちょうど屋外(そと)から帰って来て、まず半蔵の口から寿平次の失敗話というのを聞いた。「お父さん、寿平次さんは塩野から下り坂の方へ出たと言うんですがね、どこの林をそんなに歩いたものでしょう」。「きっと梅屋林の中だぞ。寿平次さんも狸に化かされたか。そいつは大笑いだ」。「山の中らしいお話ですねえ」とおまんもそこへ来て言い添えた。その時、お喜佐も挨拶に来て、母のそばにいて、寿平次の話に耳を傾けた。「兄さん、すこし待って」。お民は別の部屋に寝かして置いた乳呑児(ちのみご)を抱きに行って来た。目をさまして母親を探(さが)す子の泣き声を聞きつけたからで。「へえ、粂(くめ)を見てやってください。こんなに大きくなりました」。「おゝ、これはよい女の子だ」。「寿平次さん、御覧なさい。もうよく笑いますよ。女の子は知恵のつくのも早いものですねえ」とおまんは言って、お民に抱かれている孫娘の頭をなでて見せた。

 その日、寿平次が持って来た話というは、供の男を連れて木曾路を通り過ぎようとしたある旅人が妻籠の本陣に泊まり合わせたことから始まる。偶然にも、その客は妻籠本陣の定紋(じょうもん)を見つけて、それが自分の定紋と同じであることを発見する。※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)(か)に木瓜(もっこう)がそれである。客は主人を呼びよせて物を尋ねようとする。そこへ寿平次が挨拶に出る。客は定紋の暗合に奇異な思いがすると言って、まだこのほかに替え紋はないかと尋ねる。丸(まる)に三(みっ)つ引(びき)がそれだと答える。客はいよいよ不思議がって、ここの本陣の先祖に相州(そうしゅう)の三浦から来たものはないかと尋ねる。答えは、そのとおり。その先祖は青山監物とは言わなかったか、とまた客が尋ねる。まさにそのとおり。

 その時、客は思わず膝(ひざ)を打って、さてさて世には不思議なこともあればあるものだという。そういう自分は相州三浦に住む山上七郎左衛門というものである。かねて自分の先祖のうちには、分家して青山監物と名のった人があると聞いている。その人が三浦から分かれて、木曾の方へ移り住んだと聞いている。して見ると、われわれは親類である。その客の言葉は、寿平次にとっても深い驚きであった。とうとう、一夜の旅人と親類の盃(さかずき)までかわして、系図の交換と再会の日とを約束して別れた。この奇遇のもとは、妻籠と馬籠の両青山家に共通な※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)(か)に木瓜(もっこう)と、丸に三つ引(びき)の二つの定紋からであった。それから系図を交換して見ると、二つに割った竹を合わせたようで、妻籠の本陣なぞに伝わらなかった祖先が青山監物以前にまだまだ遠く続いていることがわかったという。「これにはわたしも驚かされましたねえ。自分らの先祖が相州の三浦から来たことは聞いていましたがね、そんな古い家がまだ立派に続いているとは思いませんでしたねえ」と寿平次が言い添えて見せた。

 「ハーン」。吉左衛門は大きな声を出してうなった。「寿平次さん、吾家(うち)のこともそのお客に話してくれましたか」と半蔵が言った。「話したとも。青山監物に二人の子があって、兄が妻籠の代官をつとめたし、弟は馬籠の代官をつとめたと話して置いたさ」。何百年となく続いて来た青山の家には、もっと遠い先祖があり、もっと古い歴史があった。しかも、それがまだまだ立派に生きていた。おまん、お民、お喜佐、そこに集まっている女たちも皆何がなしに不思議な思いに打たれて、寿平次の顔を見まもっていた。「その山上さんとやらは、どんな人柄のお客さんでしたかい」とおまんが寿平次にきいた。「なかなか立派な人でしたよ。なんでも話の様子では、よほど古い家らしい。相州の方へ帰るとすぐ系図と一緒に手紙をくれましてね、ぜひ一度訪(たず)ねて来てくれと言ってよこしましたよ」。「お民、店座敷へ行って、わたしの机の上にある筆と紙を持っといで」。半蔵は妻に言いつけて置いて、さらに寿平次の方を見て言った。「もう一度、その山上という人の住所を言って見てくれませんか。忘れないように、書いて置きたいと思うから」。半蔵は紙をひろげて、まだ若々しくはあるがみごとな筆で、寿平次の言うとおりを写し取った。

 相州三浦、横須賀在、公郷(きごう)村
         山上七郎左衛門

 「寿平次さん」と半蔵はさらに言葉をつづけた。「それで君は――」。「だからさ。半蔵さんと二人で、一つその相州三浦をねて見たらと思うのさ」。「訪ねて行って見るか。えらい話になって来た」。しばらく沈黙が続いた。「山上の方の系図も、持って来て見せてくださるとよかった」。「あとから届けますよ。あれで見ると、青山の家は山上から分かれる。山上は三浦家から出ていますね。つまりわたしたちの遠い祖先は鎌倉時代に活動した三浦一族の直系らしい」。「相州三浦の意味もそれで読める」と吉左衛門は言葉をはさんだ。「寿平次さん、もし相州の方へ出かけるとすれば、君はいつごろのつもりなんですか」。「十月の末あたりはどうでしょう」。「そいつはおれも至極(しごく)賛成だねえ」と吉左衛門も言い出した。「半蔵も思い立って出かけて行って来るがいいぞ。江戸も見て来るがいい――ついでに、日光あたりへも参詣(さんけい)して来るがいい」。

 その晩、おまんは妻籠から来た供の男だけを帰らせて、寿平次を引きとめた。半蔵は店座敷の方へ寿平次を誘って、昔風な行燈(あんどん)のかげでおそくまで話した。青山氏系図として馬籠の本陣に伝わったものをもそこへ取り出して来て、二人でひろげて見た。その中にはこの馬籠の村の開拓者であるという祖先青山道斎のことも書いてあり、家中女子ばかりになった時代に妻籠の本陣から後見(こうけん)に来た百助(ももすけ)というような隠居のことも書いてある。道斎から見れば、半蔵は十七代目の子孫にあたった。その晩は半蔵は寿平次とを並べて寝たが、父から許された旅のことなぞが胸に満ちて、よく眠られなかった。

 
偶然にも、半蔵が江戸から横須賀の海の方まで出て行って見る思いがけない機会はこんなふうにして恵まれた。翌日、まだ朝のうちに、お民は万福寺の墓地の方へ寿平次と半蔵を誘った。寿平次は久しぶりで墓参りをして行きたいと言い出したからで。お民が夫と共に看病に心を砕いたあの祖母(おばあ)さんももはやそこに長く眠っているからで。

 
半蔵と寿平次とは一歩(ひとあし)先に出た。二人は本陣の裏木戸から、隣家の伏見屋の酒蔵(さかぐら)について、暗いほど茂った苦竹(まだけ)と淡竹(はちく)の藪の横へ出た。寺の方へ通う静かな裏道がそこにある。途中で二人はお民を待ち合わせたが、煙の立つ線香や菊の花なぞを家から用意して来たお民と、お粂を背中にのせた下女とが細い流れを渡って、田圃(たんぼ)の間の寺道を踏んで来るのが見えた。

 小山の上に立つ万福寺は村の裏側から浅い谷一つ隔てたところにある。墓地はその小川に添うて山門を見上げるような傾斜の位置にある。そこまで行くと、墓地の境内もよく整理されていて、以前の住職の時代とは大違いになった。村の子供を集めてちいさく寺小屋をはじめている松雲和尚のもとへは、本陣へ通学することを遠慮するような髪結いの娘や、大工の忰(せがれ)なぞが手習い草紙を抱いて、毎日通(かよ)って来ているはずだ。隠れたところに働く和尚の心は墓地の掃除にまでよく行き届いていた。半蔵はその辺に立てかけてある竹箒(たけぼうき)を執って、古い墓石の並んだ前を掃こうとしたが、わずかに落ち散っている赤ちゃけた杉の古葉を取り捨てるぐらいで用は足りた。和尚の心づかいと見えて、その辺の草までよくむしらせてあった。すべて清い。

 やがて寿平次もお民も亡(な)くなった隠居の墓の前に集まった。「兄さん、おばあさんの名は生きてる時分からおじいさんと並べて刻んであったんですよ。ただそれが赤くしてあったんですよ」とお民は言って、下女の背中にいるお粂の方をも顧みて、「御覧、ののさんだよ」と言って見せた。古く苔蒸(こけむ)した先祖の墓石は中央の位置に高く立っていた。何百年の雨にうたれ風にもまれて来たその石の面(おもて)には、万福寺殿昌屋常久禅定門の文字が読まれる。青山道斎がそこに眠っていた。あだかも、自分で開拓した山村の発展と古い街道の運命とを長い目でそこにながめ暮らして来たかのように。寿平次は半蔵に言った。「いかにも昔の人のお墓らしいねえ」。「この戒名(かいみょう)は万福寺を建立(こんりゅう)した記念でしょう。まだこのほかにも、村の年寄りの集まるところがなくちゃ寂しかろうと言って、薬師堂を建てたのもこの先祖だそうですよ」。二人の話は尽きなかった。

 裏側から見える村の眺望(ちょうぼう)は、その墓場の前の位置から、杉の木立(こだ)ちの間にひらけていた。半蔵は寿平次と一緒に青い杉の葉のにおいをかぎながら、しばらくそこに立ってながめた。そういう彼自身の内部(なか)には、父から許された旅のことを考えて見たばかりでも、もはや別の心持ちが湧(わ)き上がって来た。その心持ちから、彼は住み慣れた山の中をいくらかでも離れて見るようにして、あそこに柿(かき)の梢(こずえ)がある、ここに白い壁があると、寿平次にさして言って見せた。恵那山(えなさん)のふもとに隠れている村の眺望(ちょうぼう)は、妻籠(つまご)から来て見る寿平次をも飽きさせなかった。「寿平次さん、旅に出る前にもう一度ぐらいあえましょうか」。「いろいろな打ち合わせは手紙でもできましょう」。「なんだかわたしは夢のような気がする」。こんな言葉をかわして置いて、その日の午後に寿平次は妻籠をさして帰って行った。

 長いこと見聞の寡(すくな)いことを嘆き、自分の固陋(ころう)を嘆いていた半蔵の若い生命(いのち)も、ようやく一歩(ひとあし)踏み出して見る機会をとらえた。その時になって見ると、江戸は大地震後一年目の復興最中である。そこには国学者としての平田鉄胤(かねたね)もいる。鉄胤は篤胤大人(あつたねうし)の相続者である。かねて平田篤胤没後の門人に加わることを志していた半蔵には、これは得がたい機会でもある。のみならず、横須賀海岸の公郷村(くごうむら)とは、黒船上陸の地点から遠くないところとも聞く。半蔵の胸はおどった。




(私論.私見)