夜明け前第二部下の8、終の章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「島崎藤村/夜明け前第二部下の8、終の章」を確認する。「島崎藤村/夜明け前」を参照する。 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝 |
関連サイト | 【原書研究】 | 【衝撃の誤訳指摘】 |
【サイトアップ協力者求む】 | 【文意の歪曲改竄考】 |
【島崎藤村/夜明け前第二部下の8、終の章】 | |||
一 | |||
とりあえず、笹屋庄助と小笹屋勝之助の二人は青山の本家まで半蔵を連れ戻った。ちょうど旧本陣の母屋を借りて住む医師小島拙斎は名古屋へ出張中の時であり、青山の当主宗太も木曾福島の勤め先の方で馬籠には留守居の家族ばかり残る時であったが、これは捨て置くべき場合ではないとして、親戚旧知のものがにわかな評定のために旧本陣に集まった。とにもかくにも宗太に来てもらおうと言って、木曾福島へ向け夜通しの飛脚に立つものがある。一同は相談の上、半蔵その人をば旧本陣の店座敷に押しとどめ、小用に立つ時でも見張りのものをつけることにした。 西筑摩の郡書記として勤め先にあった宗太はこの通知に接し、取るものも取りあえず木曾路を急いで来て、祭りの日の午後に馬籠に着いた。彼は栄吉や清助らの意見に聞き、一方には興奮する半蔵をなだめ、一方にはこれ以上の迷惑を村のものにかけまいとした。一村の父というべき半蔵にも万福寺の本堂へ火を放とうとするような行ないがあって見ると、周囲にあるものは皆驚いてしまって、早速山口村の医師杏庵老人を呼び迎えその意見を求めることに一致した。一同のおそれは、献扇事件以来とかくの評判のある半蔵が平常の様子から推して、いよいよお師匠さまもホンモノかということであった。 こんな取り込みの中で、秋の祭礼は進行した。青山の家に縁故の深い清助などは半蔵のことを心配して、祭りの前夜は旧本陣に詰めきり、自宅に帰って寝るころに一番鶏の声をきいたと言っていたが、その清助も祭りの世話人の一人であるところから、町の子供たちが村社の鳥居前から動き出すころには自分で拍子木をさげて行って行列の音頭をとった。羽織袴の役人衆の後ろには大太鼓が続き、禰宜の松下千里も烏帽子[#「烏帽子」は底本では「鳥帽子」]直垂の礼装で馬にまたがりながらその行列の中にあった。 馬籠での祭礼復興と聞いて、泊まりがけで近村から入り込んで来る農家の男女もすくなくない。一里二里の山路を通って来る娘たちなぞは、いずれも一年に一度の祭礼狂言を見ることを楽しみにしないものはない。あのいたいけな馬籠の子供たちがそろいの黒い半被に、白くあらわした大きな定紋を背中に着け、黄色な火の用心の巾着を腰にぶらさげながら町を練り歩くなぞは、近年にはないことだと言われた。旧い街道の空には笛や三味線の音も起こり、伏見屋の前あたりでは木曾ぶしにつれて踊りの輪を描く若者の群れの「なかのりさん」もはじまるというにぎやかさだ。これで旧本陣のお師匠さまが引き起こしたような思いがけない出来事もなくて、一緒にこの祭りの日を楽しむことができたならと、それを言わないものもなかった。 どうして半蔵のような人が青山の家に縁故の深い万福寺を焼き捨てようと思い立ったろう。多くの村民にはどこにもその理由が見いだせなかった。なぜかなら、遠い昔に禅宗に帰依した青山の先祖道斎が村民のために建立したのも万福寺であり、今日の住持松雲和尚はまたこんな山村に過ぎたほどの人で、その性質の善良なことや、人を待つのに厚いことなぞは半蔵自身ですら日ごろ感謝していいと言っていたくらいだからである。たとえば、彼岸の来るころには中日までに村じゅうを托鉢して回り、仏前には団子菓子を供えて厚く各戸の霊をまつり、払暁十八声の大鐘、朝課の読経、同じく法鼓なぞを欠かしたことのないのもあの和尚である。またたとえば、観音堂へ念仏に見える町内の婆たちのためには茶や菓子を出し、稲荷大明神を祭りたいという若い衆のためには寺の地所を貸し与え、檀家の重立ったところへは礼ごころまでの般若札、納豆、あるいは竹の子なぞを配ることを忘れないで、およそ村民との親しみを深くすることは何事にかぎらずそれを寺の年中行事のようにして来たのもあの和尚である。こんなに勤行をおこたらない松雲のよく護っている寺を無用な物として、それを焼き捨てねばならないというは、ほとほとだれにも考えられないことであった。 |
|||
山口村の杏庵老人は祭りの最中にも旧本陣へ駕籠を急がせて来た。半蔵のことを心配して前日以来かわるがわる店座敷に付ききりでいる親類仲間のまちまちな意見も、老人の診断一つで決するはずであった。万事のみ込み顔な杏庵は早速半蔵の居間へ通り、脈を取ってしらべて見たが、一度や二度の診察ぐらいでそうはっきりしたことも医師には言えないものだとの挨拶である。ただ杏庵は日ごろ好酒家の半蔵が飲み過ぎの癖をよく承知していたし、それにその人の不眠の症状や顔のようすなぞから推して、すくなくも精神に異状のあるものと認め、病人の手当てを怠らないようにとの注意を与えた。眠り薬を調合して届けるから、それを茶の中へ入れて本人には気づかれないように勧めて見てくれよとの言葉をも残した。ところが、かんじんの本人は一向病気だとも思っていない様子で、まるで狐にでもつままれるような顔をしながら医師の診察を受けたということが知れわたると、村のものが騒ぎ出した。もしお師匠さまが看護のものの目を盗んで部屋から逃げ出しでもしようものなら、この先どんなむちゃをやり出すかしれたものではないと言うものがある。あの万福寺での放火の時、もしだれもお師匠さまを抱きとめるものがいなかったとしたら、火はたちまち本堂の障子に燃え上がったであろう、万一その火が五百二十把からの萱をのせた屋根へでも燃え抜けたが最後、仏壇や位牌堂はもとより、故伏見屋金兵衛が記念として本堂の廊下に残った大太鼓も、故蘭渓の苦心をとどめた絵襖も、ことごとく火となったであろう、そうなれば客殿、方丈、庫裏の台所も危ない、ひょっとすると寺の土蔵まで焼け落ちたかもしれない、こんな事が公然と真昼間に行なわれて、しかもキ印のする事でないとしたら、自分なぞは首をくくって死んでしまいたいと言うものがある。幸いこの放火は大事に至らなかったようなものの、警察の分署へ聞こえたら必ずやかましかろう、もし青山の親戚一同にこの事を内済にする意向があるなら、なぜ早くお師匠さまを安全な場所に移し、厳重な見張りをつけ、村のもの一同もまた安心して眠られるような適当な方法を取らないのかと息まくものもある。 半蔵の従兄、栄吉は親類仲間でも決断のある人である。事ここに至っては栄吉も余儀ない場合であるとして、翌朝は早くから下男の佐吉に命じ裏の木小屋の一部を片づけさせ、そこを半蔵が座敷牢の位置と定めた。早速村の大工をも呼びよせて、急ごしらえの高い窓、湿気を防ぐための床張りから、その部屋に続いて看護するものが寝泊まりする別室の設備まで、万端手落ちのないように工事を急がせた。栄吉はまた、町の重立った人々にも検分に来てもらって、木小屋のなかの西のはずれを座敷牢とし、用心よくすべきところには鍵をかけるようにしたことなぞを説き明かした。なにしろ背は高く、足袋は図なしと言われるほど大きなものをはき、腕の力とても相応にある半蔵のような人をいれる場処とあって、障子を立てる部分には特にその外側に堅牢な荒い格子を造りつけることにした。 |
|||
二 | |||
座敷牢はできた。そこで栄吉は親戚旧知のものを旧本陣の一室に呼び集めてそのことを告げ、造り改めた裏の木小屋の一部にはすでに畳を入れるまでの準備もととのったことを語り、さてそちらの方へ半蔵を導くには、どう彼を説得したものかの難題を一同の前に持ち出した。この説得役には笹屋庄助が選ばれた。庄助なら半蔵の気に入りで、万福寺境内からも彼を連れ戻って来たように、この場合とても彼を言いなだめることができようということで。いかな旧組頭の庄助もこの役回りには当惑した。庄助が店座敷の方へ行って見ると、ちょうど半蔵はひとりいる時で、円形の鏡なぞを取り出し、それに息を吹きかけ、しきりに鏡の面をふいているところであった。それはずっと以前に彼の手に入れた古鏡で、裏面には雲形の彫刻などがしてあり、携帯用の紐の付いたものである。この旧い屋敷の母屋を医師小島拙斎に貸し渡すようになってからも、上段の間だけは神殿として手をつけずにあって、その床柱の上に掛けてあったものである。長いこと磨師の手にもかけないで、うっちゃらかしてあったのもその鏡である。「庄助さ、お互いに年を取ると顔の形も変わるものさね。なんだかこの節は自分の顔が自分じゃないような気がする」。 半蔵はあまり周囲のものが自分を病人扱いにするので、古い鏡なぞを取り出して見る気になったというふうに、それを庄助に言って見せた。彼はよくも映らない自分の姿を見ようとして、しきりにその曇った鏡に見入っていた。そして、言葉をついで、「そう言えば、この二、三日はおれも弱ったぞ。恐ろしいやつに襲われるような気がして、夜もろくろく休めなかった」。「お師匠さま、お前さまはよく敵が来るなんて言わっせるが、そんなものがどこにおらすか」と庄助は言う。「そりゃ、お前たちに見えなくても、おれの目には見える。あいつはいろいろな仮面をかぶって来るやつだ。化けて来るやつだ。どうして、油断もすきもあったもんじゃないぞ。恐ろしい、恐ろしい――庄助さ、大きな声じゃ言えないが、この古い家の縁の下にだってあの化け物は隠れているよ」。そう言って、半蔵はなおも鏡の面を根気にふきながら、相手の庄助に身をすくめて見せた。 その時まで庄助は栄吉らから頼まれて来たことをそこへ切り出そうとして、しかもそれを言い得ないでいた。庄助は正直一徹で聞こえた男で、こんな場合に一策を案じるというふうの人ではなかったから、うまいことを言って半蔵を連れ出すつもりはもとよりなかったが、しかし裏の木小屋の方に彼を待ち受けるものが座敷牢とは言いじょう、一面にはそれは病室に相違ないから、その病室での養生を言いたてて、それによって半蔵を動かそうとした。この庄助としては、ただただ半蔵の健康状態について村のもの一同心配していることを告げ、すでに病室の用意のできていることを語り、皆の行けというところへ半蔵にもおとなしく行ってもらったら、薬には事を欠かさせまいし、日ごろお師匠さまの世話になったものがかわるがわる看護に当たろうからと、頼むようにするほかの手はなかった。庄助は幾度か躊躇したあとで、そのことを半蔵の前に言い出した。「ふうん。庄助さ、お前までこのおれを病人扱いにするのかい。そんな話をきくとおれは可笑しくなる」とは半蔵の返事だ。「でも、お師匠さまは御自分だって、気分が悪いぐらいのことは思わっせるずら」。「いや、おれはそんな病気じゃないぞ」と答えて、半蔵は聞き入れなかった。 |
|||
実に急激に、半蔵の運命は窮まって行った。栄吉らは別室で庄助の返事を待っていたが、その庄助が店座敷からむなしく引き返して行って、容易には親類仲間の意見に服しそうもない半蔵の様子を伝えると、いずれも顔を見合わせて、ほとほと彼一人の処置にこまってしまった。旧問屋の九郎兵衛をはじめ、町内の重立った旦那衆にも集まってもらって、広い囲炉裏ばたに続いた寛ぎの間ではまたまた一同の評定があった。何しろ旧い漢法の医術はすたれ、新しい治療の方法もまだ進まなかった当時で、ことに馬籠のような土地柄では良医の助言も求められないままに、この際半蔵のからだに縄をかけるほどの非常手段に訴えてまでも座敷牢に引き立て、一方には彼の脱出を防ぎ、一方には狼狽する村の人たちを取りしずめねばならないということになった。これは勢いであって、その座に集まる人々にはもはや避けがたく思われたことである。ところが、だれもお師匠さまを縛るものがない。その時、旧宿役人仲間でも一番年下に当たる蓬莱屋の新助が進み出て、これは宗太を出すにかぎる、宗太なら現に青山の当主であるからその人にさせるがいい、お師匠さまも自分の相続者までが病気と認めると聞いたら我を折るようになるだろうと言い出した。以前から旧本陣に出入りの百姓らにも手伝わせること、日ごろ二十何貫の大兵肥満を誇り腕力のたくましいことにかけては町内に並ぶもののない問屋九郎兵衛のごとき人にはことに見張りに働いてもらうこと、それらはすべて馬籠での知恵者と聞こえた新助が考案に出た。 いよいよ一同の評議は一決した。そのうちに秋の日も暮れかかった。栄吉らの勧めとあって、青山の家族の人々も仲の間に立ち会えという。このことを聞いたお民などは腰を抜かさないばかりに驚いて、よめのお槇に助けられながらかろうじて足を運んだ。そこへ半蔵が店座敷から清助に連れられて来た。「お父さん、子が親を縛るというはないはずですが、御病気ですから堪忍してください」と半蔵の前にひざまずいて言ったのは宗太だ。今や半蔵を縛りに来たものは現在のわが子、血につながる親戚、かつて彼が学問の手引きした同郷の人々、さもなければ半生を通じて彼の望みをかけた百姓たちである。彼はハッとした。「お前たちは、おれを狂人と思ってくれるか」。彼は皆の前にそれを言って、思わずハラハラと涙を落とした。その時、栄吉の手から縄を受け取った宗太が自分の前に来てうやうやしく一礼するのを見ると、彼はなんらの抵抗なしに、自分の手を後方に回した。そして子の縄を受けた。九月末の夕やみが迫って来ている中を母屋から木小屋へと引き立てられて行ったのも、この半蔵である。裏の土蔵の前あたりには彼を待ち受ける下男の佐吉もいた。佐吉は暗い柿の木の下にしゃがみ、土の上に片膝をついて、変わり果てた旧主人が通り過ぎるまではそこに頭をあげ得なかった。 |
|||
三 | |||
植松の家に嫁いて行っているお粂がこの報知に接して、父の見舞いに急いで来たのは、やがて十月の十日過ぎであった。彼女が夫の弓夫もすでに木曾福島への帰参のかなったころで、長い留守居を預かって来た大番頭をはじめ小僧たちにまで迎え入れられ、先代菖助がのこした屋敷の大黒柱の下にすわり、大いに心を入れ替えて家伝製薬の業に従事するという時であった。この馬籠訪問には、彼女はめったに離れたことのない木曾福島の家を離れ、子供も連れずであった。ただ商用で美濃路まで行くという薬方の手代に途中を見送ってもらうことにした。「あゝ、お父さんもとうとう狂っておしまいなすったか」。 その考えは、駒ヶ嶽も後方に見て木曾路を西へ急いで来る時の彼女の胸を往ったり来たりした。彼女はお槇が代筆した母お民からの手紙でも読み、弟宗太も西筑摩郡書記の身でそう馬籠での長逗留は許されないとあって、木曾福島の勤め先へ引き返した時のじきじきの話にも聞いて、ほぼ父のようすを知っていた。五人ある姉弟の中でも、彼女は父のそばに一番長く暮らして見たし、父の感化を受けることも一番多かったから、父のさびしさも彼女にはよくわかった。彼女は父のことを考えるたびに、歩きながらでもときどき涙ぐましくなることがあった。 三留野泊まりで、お粂は妻籠に近づいた。ちょうどその村の入り口に当たる木曾川のほとりに一軒の休み茶屋が見えるところまで行くと、賤母の森林地帯に沿うて河づたいに新しい県道を開鑿しようとする工事も始まっているころであった。遠くの方で岩壁を爆破させる火薬の音は山々谷々に響き渡った。旧い街道筋をも変えずには置かないようなその岩石の裂ける音は恐ろしげにお粂の耳を打つ。その時、木曾風俗の軽袗ばきでお粂らの方へ河岸を走って来る二人づれの旦那衆がある。見ると二人とも跣足で土を踏んでいる。両手を振りながら歓呼をもあげている。その一人が伯父の寿平次だった。長い痔疾の全治した喜びのあまりに、同病相憐んで来た伯父たちは夢中になって河岸をかけ回り、互いに祝意を表し合っているというところだった。 お粂と供の手代が着いたのを見ると、寿平次は長い病苦も忘れたように両手をひろげて見せ、大事な入れ歯も吹き出さないばかりに笑って、付近の休み茶屋の方へお粂らを誘った。「お粂はこれから馬籠へ行く人か。お前も御苦労さまだ。まあ、おれの家へ寄って休んで行くさ」。「伯父さん、宗太も福島の方へ戻ってまいりましてね、馬籠のお父さんのことはいろいろ彼から聞きましたよ」。「そうかい。宗太は吾家へも寄って行った。正己もね、あれからずっと朝鮮の方だが、おれの出した手紙を見たら彼も驚くだろう。二、三日前に、おれも半蔵さんの見舞いに行って来た」。「なんですか、伯父さんの御覧なすったところじゃ、お父さんのようすはどんなでしょうか」。「それがね、もうすこし模様を見ないと、おれにはなんとも言えん。ホイ、おれはこんなおもしろい格好で話ばかりしていて、まだ足も洗わなかった。お粂、お前はそこに腰掛けていておくれ」。寿平次は勝手を知った休み茶屋の奥の方へ足を洗いに行った。やがて下駄ばきになって、お粂らのいるところへ戻って来て、「やれやれ、おれもこれで活き返ったというものだ。きょうは久しぶりで木曾の山猿に帰った。お前のお母さん(お民)もあれで痔持ちだが、このおれの清々したこころもちを分けてやりたいようだ。どうも痔持ちというやつは、自分ながらむつかしい顔ばかりしていて、養子(正己のこと)にはきらわれどおしさ」。 こんなことを言って戯れる寿平次も、お粂らと連れだって休み茶屋を離れるころはしんみりとした調子になる。その位置から寿平次の家族が住む妻籠の町まではまだ数町ほどの距離にある。大河の勢いで奥筋の方角から流れて来ている木曾川にも別れて、山や丘の多い地勢を次第に登るようになるのも、妻籠からである。寿平次は言った。「まったく、半蔵さんがあんなことになろうとはだれも思わなかった。一寸先のことはわからんね。あれで医者から見ると、気の違った人というものはいくらこちらから呼びかけても反応のないようなものだそうだね。世離れたもの――医者にはそういう感じがするそうだね。そうだろうなあ、全く世の中とは交渉がなくなってしまうからなあ。医者がああいう患者を置いて来るのは、墓場に置いて来るような気がするという話だが、それが本当のところだろうね」。 父のことが心にかかって、お粂はそう長いこと妻籠の伯父の家にも時を送らなかった。三、四年ぶりで彼女は妻籠から馬籠への峠道を踏んだ。そこは同じ旧い街道筋ではあるが、白木の番所の跡があるような深い森林の間で、場処によっては追剥の出たといううわさの残った寂しいところをも通り過ぎなければ、馬籠峠の上に出られない。けれども木曾山らしいのもまたその峠道で、行く先に栗の多い林なぞがお粂にいろいろなことを思い出させた。旦那が木曾福島への帰参のかなったころ、彼女は旦那と共に植松の旧い家の方で一度父半蔵を迎えたこともある。彼女はその時の父がいっぱいにねじ込んだ書物でその懐をふくらませながら訪ねて来たことを覚えている。あれからの彼女は旦那を助けて家を整理するかたわら、日夜兄妹二人の子供の養育に心を砕いたが、その兄の方の子がもはや数え歳の十二にもなった。朝に晩に彼女の言い暮らしたのは、これまで丹精して来た植松の家にゆっくり父を迎えたいことであった。今となっては残念ながらそれもかなわない。五十余年の涙の多い生涯を送った父が最後に行きついたところは、そんな座敷牢であるかと思うと、彼女は何かこう自分の内にもある親譲りのさわりたくないものに否でも応でもさわるような気がして、その心から言いあらわしがたい恐怖を誘われた。 |
|||
馬籠にある彼女の生家も変わった。彼女は旧い屋敷の内の裏二階まで行って、久しぶりで祖母のおまんや嫂のお槇と一緒になることができた。父の看護に余念のないという母お民も、彼女の着いたことを聞いて、木小屋の方から飛んでやって来た。ちょうど父はよく眠っているところだと言って、木小屋に働いている下男佐吉に気をつけてもらうよう言い置いて来たと語り聞かせるのもお民だ。父の病室が造られる前後の騒ぎの夢のようであったことから、村の人がそれぞれ手分けをして看護に来てくれるというのは、これもお師匠さまと言われた徳であろうかと語り聞かせるのもまたお民だ。お粂の見舞いに来たことは、だれよりもこの母を力づけた。というのは、おまんもすでに七十八歳の老婦人ではあるが、日ごろから思ったことを口にするような人ではないから、半蔵の乱心についてはどうあさましく考えているやも測りがたく、お槇はまた前掛けをかけたぐらいでは隠し切れないほどの身重になっていて、肩で息をしているような人にそう働かせることもならないからであった。そういう中で、半蔵を看護するお民の苦心も一通りではなかった。お民は娘に言った。「でも、お粂、あれでお父さんもそうあばれるようなことはなさらない。最初のうちは村の衆も心配して、二人ぐらいずつ交代で夜も昼も詰め切りに詰めていましたよ。この節だって、お前、毎日のようにだれかしら来てはくれますがね、最初のうちのようなことはなくなりました。お父さんは本を入れてくれろというから、入れてあげると、半日すわって読んでいて、口もおききなさらないことがある」。「まあ、半蔵さんがあんなことになろうとはだれも思わなかったッて、妻籠の伯父さんもそう言っておいででした。お酒がすこしいき過ぎましたねえ」とお粂も答えて、母と共に嘆息した。 隣家伏見屋の酒店に番頭格として働いている清助がそこへ顔を見せた。新酒売り出しのころにもかかわらず、昔を忘れない清助はそのいそがしいなかにわずかの間を見つけ、裏づたいに酒蔵を回っては青山方の木小屋へ見回りに来る。お粂の着いたことも清助は佐吉から聞いて来たという。「いやはや、今度という今度はわたしも弱りました。粂さまは何も御存じないでしょうが、亀屋(栄吉のこと)と二人で憎まれ役でさ。お師匠さまにはあの隠宅もありますし、これがただの気鬱症か何かなら、だれもあんな暗いところへお師匠さまを入れたかありません。お寺へ火をつけるようなことがあったものですから、それから大やかまし。おまけに、ちょうど馬籠の祭礼の最中で、皆あわててしまいましたわい」。清助は清助らしいことをかき口説いた。薬の力で父がぐっすり眠っているという間、お粂は裏二階に足を休めたが、やがて母や清助に伴われながら木小屋の方への降り口にある深い井戸について、土蔵のそばの石段を降りた。 |
|||
北と西は木戸だ。三棟ある建物のうしろには竹の大藪がめぐらしてあって、東南の方角にあたる石垣の上には母屋の屋根が見上げるほど高い位置にある。これが馬籠旧本陣の裏側にあたるところで、石垣のすぐ下に掘ってある池も深い。武家と公役との宿泊や休息の場処に当てられた昔は、いざと言えば裏口へ抜けられる後方の設備の用心深さを語るかのような、古い陣屋風の意匠がそこに残っている。三棟ある建物のうち、その二棟は米倉として使用し来たったところであり、それに連なる一棟が木小屋である。小屋とは言いながら、そこは二階建ての古い建物で、間口も広く造ってある。中央の土間もかなり広く取ってある。下男の佐吉が長いこと自分の世界として働いて来たのもそこで、山から背負って来る薪、松葉の類は皆その小屋に積まれ、藁もそこにたくわえられた。父半蔵の座敷牢はそんな竹の大藪を背後にしたところに隠れていた。 お粂は母と共に、清助が隣家の方へ裏づたいに帰って行くのにも別れ、小屋の入り口に鎌を研いでいた佐吉にも声をかけて置いて、まず付き添いのもののいる別室の方に父が目をさますまで待った。持って生まれた濃情が半蔵のからだからこんな気の鬱する病を引き出したのか、あるいは病ゆえにこんなに人恋しく思うのであるか、いずれともお民には言えないとのことであったが、彼女は夫が遠く離れている子にもしきりにあいたがって、東京の和助のうわさの出ない日もないことなぞを娘に語り聞かせる。お民はまた、この木小屋に移ってからの半蔵に部屋のなかを人知れず歩き回る癖のついたことを言って、あちこち、あちこちと往ったり来たりする夫の姿を見かけるのは実に気の毒だと語るから、それは父の運動不足からであろうとお粂が母に答えて見せた。そのうちに裏の竹藪へ来る風の音にでも目をさましたかして、半蔵の呼ぶ声がする。お粂は母について父の臥たり起きたりする部屋にはいった。親子のものが久しぶりでの対面はその座敷牢の内であった。 |
|||
その時、お粂は考えて、言葉にも挙動にもなるべく父を病人扱いにしないようにした。それが半蔵の心をよろこばせた。彼は物憂い幽閉の身を忘れたかのように、お民やお粂に向かって何か物を書いて見たいと言い、筆紙の類を入れてくれと頼んだ。「それがいい」とお粂も言った。「何か書いてごらんなさるがいい。紙や筆ぐらいは入れてあげますよ。お父さんの気が晴れるようになさるのが何よりですからね」。お粂は人手を借りるまでもなく、自分自身に父の頼むものを整えようとして木小屋を出た。彼女は祖母たちのいる裏二階へ行ってそのことを話して見ると、そういうたぐいのものは皆隠宅(静の屋)の方にしまい込んであった。その足で彼女は隣家の伏見屋まで頼みに行って、父の気に入りそうな紙の類を分けてもらうことにした。伏見屋には未亡人のお富がある。この人は先代伊之助が生前に愛用したという形見の筆なぞをも探し出して貸してくれたので、お粂はそれらの筆紙を小脇にかかえながら木小屋へ引き返して来た。硯や墨は裏二階にあるもので間に合わせた。彼女は父のためにその墨を磨って、次第に濃くなって行く墨のにおいをかぎながら、多くの楽しい日を父と共に送った娘の昔をお民のそばに思い出していた。 半蔵がそのさびしい境涯の中で、古歌なぞを紙の上に書きつけ、忍ぶにあまる昔の人の述懐を忍んでわずかに幽閉中の慰めとするようになったのも、その時からであった。お粂が伏見屋から分けてもらって来た紙の中には、めずらしいものもある。越前産の大高檀紙と呼ぶものである。先代伊之助あたりののこして置いて行ったものと見えて、ちょっとこの山家で手に入りそうもない品であるが、ほどのよい古びと共に、しぼの手ざわりとてもなかなかにゆかしい料紙である。半蔵は思うところをその紙の上に書きつけたのであった。 以下不レ勝二憂国之情一濺二慷慨之涙一之士上、
為二発狂之人一。豈其不レ悲乎。無識人之 眼亦已甚矣。 観斎
観斎とは、静の屋あるいは観山楼にちなんだ彼が晩年の号である。お粂の目には、父が筆のはこびにすこしの狂いも見いだされなかった。墨痕淋漓としたその真剣さはかえって彼女の胸に迫った。お粂も実はそう長く馬籠にとどまれないで、二、三日の予定で父を見舞いに来た人であった。めったにひとりで家を離れたためしのない彼女はその方のことも心にかかり、それに馬籠と木曾福島との間は途中一晩は泊まらねばならなかったから、この往復だけでも女の足には四日かかった。そこで生家に着いた三日目の午後には彼女は父にも暇乞いして、せめて妻籠泊まりで帰りの路につこうとしたが、この暇乞いする機会をとらえることがまた容易でなかった。というのは、父の見舞いに来る人も、来る人も、しまいには皆隠れるように消えて行くというふうで、その父のさびしがりようがお粂にも暇を告げさせないからであった。 結局、お粂もまた隠れるようにして父から隠れて行くのほかはなかったのである。彼女はそれとなく暇乞いのつもりで、しばらく座敷牢の外に時を送った。秋はもはや木小屋の周囲にも深い。父の回復を祷ろうとして裏の稲荷へ願掛けした母お民は露にぬれたお百度の道を踏むに余念もなく、畠へ通う下男の佐吉も病める旧主人を思い顔である。その辺はお粂が弟たちにとっても幼い時分のよい隠れ場処であったところで、木小屋の前の空地、池をおおう葡萄棚、玉すだれや雪の下なぞの葉をたれる苔蒸した石垣から、熟した栗の落ちる西の木戸の外の稲荷の祠のあたりへかけて、かつて森夫や和助の遊び戯れた少年の日の姿をお粂の胸によび起こさないものはないくらいのところである。まったく外界との交渉を絶たれた父が閉じこもった座敷牢からつくづくときき入るのは、この古い池へ来る村雨の音であろうかなぞと彼女は思いやった。彼女は木小屋の内にある中央の土間を通り抜けて裏口の方へも出て見た。そこに薄日のもれた竹藪は父の心をしずめるところを通り越して、北側の窓へおおいかぶさったような陰気なところだ。どうかするとはげしい風雨にねて木小屋の屋根板ぐらいははね飛ばすほどの力を持った青々とした竹の幹が近くにすくすくと群がり茂っているところだ。彼女はそこいらに落ち重なる竹の枯れ葉にも目をやって、父のいる座敷牢の南側の前まで引き返した。その時だ。半蔵は大きく紙に書いた一文字を出して、荒い格子越しにそれをお粂に示した。「熊」。 |
|||
現在の境涯をたとえて見せたその滑稽に、半蔵は自分ながらもおかしく言い当てたというふうで、やがておのれを笑おうとするのか、それとも世をあざけろうとするのか、ほとんどその区別もつけられないような声で笑い出した。笑った。笑った。彼は娘の見ている前で、さんざん腹をかかえて笑った。驚くべきことには、その笑いがいつのまにか深い悲しみに変わって行った。 きりぎりす啼くや霜夜のさむしろにころも片敷き独りかも寝む
この古歌を口ずさむ時の彼が青ざめた頬からは留め度のない涙が流れて来た。彼は暗い座敷牢の格子に取りすがりながら、さめざめと泣いた。お粂はただただその周囲をめぐりにめぐって、そこを立ち去るに忍びなかったのである。 |
|||
四 | |||
十一月にはいって、美濃落合の勝重は旧い師匠を見舞うため西から十曲峠を登って来た。駅路時代のなごりともいうべき石を敷きつめた坂道を踏んで、美濃と信濃の国境にあたる木曾路の西の入り口に出た。路傍の両側に立つ一里塚の榎も、それを見返らずには通り過ぎられないほど彼には親しみの深いものになっていた。 半蔵乱心のうわさが美濃路の方へも知れて行った時、だれよりも先に馬籠へかけつけたのは勝重であったが、その後の半蔵が容体も心にかかって、また彼はこの道を踏んで来たのであった。その彼が峠の上の新茶屋で足を休めて行こうとするころはかれこれもう昼時分に近い。彼は茶屋の軒をくぐって、何か有り合わせのもので茶漬けを出してもらおうとすると、亭主が季節がらの老茸でも焼こうと言っているところへ、ちょうど馬籠の方からやって来る中津川の浅見老人(半蔵の旧友、景蔵のこと)にあった。この人も半蔵の病んでいると聞くのに心を痛めて、久しぶりで馬籠旧本陣を訪ね来たその帰りがけであるとのこと。 勝重は景蔵を茶屋に誘い入れて、さしむかいに腰掛けた。景蔵ももはや杖をそこに置いて馬籠の方のことを語り出すほどの年配である。さすがに景蔵はあの木小屋のわびしいところに旧友を見る気にはなれなかったと言って、裏二階に住む青山の家の人たちに見舞いを言い入れ、病人の容体を尋ねるだけにとどめて来たという。そういう景蔵は中津川をさして帰って行く人、勝重は落合からやって来た人であるが、この二人は美濃の方で顔を合わせる機会もすくなくはなく、そのたびに半蔵のうわさの出ないこともなかったくらいの間がらだ。発狂の人として片づけてしまえばそれまでだが、どうしてあの半蔵が馬籠にも由緒のある万福寺のようなところを焼き捨てる心になったろうとは、これまでとても二人の間に語られ来た謎であった。 勝重は今さらのように心の驚きを繰り返すというふうで、やがて茶屋の亭主がそこへ持ち運んで来た焼きたての老茸を景蔵にすすめ、自分でも昼じたくをしながら話した。勝重にして見ると、あの「馬籠のお師匠さまが」と思うと、そんなところへ落ちて行った半蔵が運命の激しさを考えるたびに、まるでうそのような気もすると思うのであった。まったく思いがけないことが彼の目の前に起こって来たのだ。彼は少年期から青年期へかけての三年をあの馬籠旧本陣に送った日のことを思い出し、そこの旧主人を暗い座敷牢にすわらせるまでの家人の驚きを思いやって、おそらくその中でも一番驚いたのはお師匠さまの奥さんであったろうと想像するのであった。彼も、日ごろの多忙にかまけて、たまにしかあの静の屋を訪ねることもしなかった。でも、半蔵の顔を見るたびに、旧師も年を取れば取るほどよいところへ出て行ったように想い見ていた。こんな乱心が青山半蔵の最期とは彼には考えられもしなかった。 勝重は言った。「浅見さん、あなたの前ですが、あなたがたがあの平田先生のあとを追いかけたようには、あたしどもはお師匠さまのあとを追いかけることもしませんでしたね。その熱心がわたしどもには欠けていたんです。もっとわたしどもがお師匠さまと一緒に歩いたら、こんな過ちはさせずに済んだかもしれません」。そういう彼はさも残念なというこころもちを顔に表わしていたが、しかも衷心の狼狽は隠そうとして隠せなかった。岩崎長世、あるいは宮川寛斎なぞの先輩について、はじめて国学というものに目をあけた半蔵が旧い学友のうち、中津川の香蔵もすでに故人となって、今は半蔵より十年ほども早く生まれた景蔵だけが残った。この平田門人は代々中津川の本陣で、もっぱら人馬郵伝の事を管掌し、東山道中十七駅の元締に任じて来た人で、維新間ぎわまでは同郷の香蔵と相携えて国事に奔走し、あるいは京都まで出て幾多の政変の渦の中にも立ち、あるいは長州人士を引いていわゆる中津川会議を自宅に開かせ、あるいはまた幕府の注意人物であった多くの志士を自宅にかばい置くなど、百方周旋していたらないところのないくらいであったが、いよいよ王政復古の日を迎えると共に全く草叢の中に身を隠してしまったのもこの景蔵である。当年の手記、奏議、書翰等の類に至るまで深くしまい込んでしまって、かつてそれを人に示したこともない。明治元年に権令林左門が笠松県出仕を命じたが、景蔵は病ととなえて固く辞退した。それでも許されなかったので、三日事をみたぎり、ぶらりと京都の方へ出かけて行って、また仕えなかった。同じく二年に太政官は彼を弾正台内監察に任じた。それもおのれの志ではないとして、拝命後数か月で辞し去ってしまった。明治九年から十二年まで、彼は特に選ばれて岐阜県権区長の職にあったが、その時ばかりは郷党子弟のためであるとして大いに努めることをいとわなかった。すべてこのたぐいだ。この人から見ると、故寛斎老人が生前によく半蔵のことを言って、半蔵の一本気と正直さと来たら、一度これが自分らの行く道だと見さだめをつけたら、それを改めることも変えることもできないのがあの半蔵だと評した言葉も想い当たる。景蔵、半蔵、この二人は維新後互いに取る途も異なっていた、あれほど祖先を大切にする半蔵がその祖先の形見とも言うべき万福寺本堂に火を放とうとしたというは、その実、何を焼こうとしたのか、平田同門の旧い友人にすらこの謎ばかりは解けなかった。 |
|||
しかし、座敷牢へ落ちて行くまでの半蔵が心持ちをたどって見ようとするものも、この旧い友人のほかにない。景蔵は勝重のような後進の者を前に置いて、何もおおい隠そうとする人ではなかった。彼に言わせると、古代復帰の夢想を抱いて明治維新の成就を期した国学者仲間の動き――平田鉄胤翁をはじめ、篤胤没後の門人と言わるる多くの同門の人たちがなしたこと考えたことも、結局大きな失敗に終わったのであった。半蔵のような純情の人が狂いもするはずではなかろうかと。 平素まことに言葉もすくなく、口に往時を語ろうともせず、ただただあわれ深くこの世を見まもって来たような景蔵からこんなに胸をひろげて見せられたことは、ちょっと勝重には意外なくらいだった。年老いたとは言いながらもまだ記憶の確かなのも景蔵だ。勝重はこの老人をつかまえて種々なことを問い試みようとした。たとえば、民間にいて維新に直面した景蔵のような人は実際この大きな変革をどう思っているかの類だ。その時の景蔵の答えに、維新の見方も人々の立場立場によっていろいろに分かれるが、多くの同時代の人たちが手本となったものはなんと言っても大化の古であった。王政復古の日を迎えると共に太政官を置き、その上に神祇官を置いたのも、大化の古制に帰ろうとしたものである。人も知るごとく、この国のものが維新早々まッ先に聞きつけたのは武家の領土返上という声であったが、そればかりでなく、僧侶の勢力もまた覆さなければならないと言われた。この二つの声はほとんど同時に起こった。というのは、彼ら僧侶が遠く藤原氏時代以来の朝野の保護に慣れて、不相応な寺領を所有するに至ったためである。廃藩といい、廃仏ということも、その真相は土地と人民との問題であった。この景蔵の見地よりすれば、維新の成就をめがけ新国家建設の大業に向かおうとした人たちが互いに呼吸を合わせながら出発した当時の人の心はすくなくも純粋であった。彼景蔵のような草叢の中にあるものでも平田一門の有志と合力し、いささかこの盛時に遭遇したものであるが、しかし維新の純粋性はそう長く続かなかった。きびしい意味から言えば、それが三年とは続かなかった。武家と僧侶との二つの大きな勢力が覆されて行くころは、やがて出発当時の新鮮な気象もまた失われて行く時であった。そこには勝利があるだけだった。 それぎり景蔵は口をつぐんで、同門の人たちのことについてもあまり多くを語ろうとはしなかった。勝重は思い出したように、「そう言えば、浅見さん、わたしどもが明治維新の成り立ったことを知ったのは、馬籠のお師匠さまより一日ほど早かったんです。今になってわたしもいろいろなことを考えますが、あの時分はまだ子供でした。一晩寝て、目がさめて見たら、もう王政復古が来ていた――そんなことを言って、あの蜂谷さん(故香蔵のこと)には笑われるくらいの子供でした。蜂谷さんはあんたからの手紙を受け取って、まだ馬籠じゃこんな復古の来たことも知らずにいるんじゃないか、この手紙は早く半蔵さんにも読ませたいと言って、その途中にわたしをも誘ってくだすったんです。忘れもしません、あれは慶応二年の十二月でした。街道は雪でまッ白でした。わたしは蜂谷さんと二人でさくさく音のする雪を踏んで、この峠を登って来たものでした」。「そうでしたよ。ちょうど、わたしは京都の方でしたよ。あの手紙は伊勢久の店のものに頼んで、飛脚で出したように覚えています。」と景蔵が言う。「まあ、聞いてください。馬籠のお師匠さまも虫が知らせたと見えて、荒町の方からやっておいでなさる。行きあって尋ねて見ますと、これから中津川へ京都の方の様子をききに行くつもりで家を出て来たところだとおっしゃる。そんならちょうどいい、お師匠さまも中津川まで行かずに済むし、わたしどもも馬籠まで行かずに済む、峠の上で話そうじゃないかということになりまして、それから三人で大いに話したのも、この茶屋でした」。「あれから足掛け二十年の月日がたちますものね」。御休処とした古い看板、あるものは青くあるものは茶色に諸講中のしるしを染め出した下げ札、それらのものの軒にかかった新茶屋で、美濃から来たもの同志こんなことを語り合った。気まぐれな秋風は来て旧い街道を吹きぬけて行った。 中津川をさして帰って行く景蔵にもその十曲峠の上で別れて、やがて勝重は新茶屋を出た。路傍の右側に立つ芭蕉の句碑の前あたりには、石に腰掛け、猿を背中からおろして休んで行く旅の渡り者なぞもある。もはや木曾路経由で東京と京都の間を往復する普通の旅客も至ってすくなかったが、中央の交通路としてはこの深い森林地帯を貫く一筋道のほかにない。勝重は中のかやから、荒町の出はずれまで歩いて行って、飯田通いの塩の俵をつけた荷馬の群れに追いついた。 その辺まで行くと、かなたの山腹に倚るこんもりとした杉の木立ちの光景が勝重の目の前にひらけて来る。万福寺はそこに隠れているのだ。本堂の屋根も杜のかげになって見ることはかなわなかったが、しかし彼は馬籠の村社諏訪分社のみすぼらしさに思い比べて、山腹に墳墓の地を抱くあの古い寺が長い間の村の中心の一つであったことを容易に想像することはできた。あだかも、遠い中世の昔はまだそんなところにも残って、朝晩の鐘に響きを伝えているかのように。 馬籠峠の上は幾層かの丘より成る順登りの地勢で、美濃よりする勝重には一つの坂を越したかと思うと、また一つの坂を登らねばならないようなところだ。浅い谷がある。土橋がある。谷川も走り流れて来ている。その水を渡って、岩石の多い耕地が道の左右に見られるところへ出ると、彼は新茶屋での景蔵の話を思い出して深いため息をついた。さらに石を敷きつめた坂を登って馬籠の町はずれへ出ると、彼はこれから見舞おうとする旧い師匠が前途のことを想い見て、これにもまた深いため息をついた。 |
|||
その日、勝重はかねて懇意にする伏見屋に一晩泊めてもらうつもりであったから、旧本陣をあと回しにして、まず二代目伊之助の家族を訪ねた。そこには先代の遺志をついでなにくれとなくお民らの力になる二代目夫婦があり、これまで半蔵の教えを受けて来た三郎やお末のような師匠思いの兄妹があり、今となって見れば先代伊之助を先立ててよかったと言って、もしあの先代がいまだに達者でいたら、どんなに今ごろは心を傷めたろうと言って見る未亡人のお富があり、日に一度は必ず隣家の木小屋を見回ることを怠らない番頭格の清助もある。季節がら、木曾の焼き米でも造ったおりは、まずお師匠さまへと言って、日ごろその青い香のするやつを好物にする半蔵がもとへ重詰めにして届けることを忘れないのもこの家族だ。その足で勝重は旧本陣の方に見舞いを言い入れに行った。裏の木小屋まで行かないうちに、彼はお民にあって、師匠のことをたずねると、お民の答えには、この二、三日ひどく疳の起こっているようすであるとのこと。彼女は病人の看護も容易でないと言って、村の人たちへは気の毒でならないとの意味を通わせる。 「奥さん、」と勝重は言った。「酒はお師匠さまには禁物でしょうが、ああして置いたら自然とおからだが弱りはしまいますまいか。いくら御謹慎中でも、すこしはお勧めした方がいい。そう思いましてね、今日はほんのすこしばかり落合の酒を持参して見ました。これは人には話さずに置いてください。あとで奥さんにお預けしてまいりますから、すこしずつ内証であげて見ていただきたい」。 そういう勝重が羽織のかげに隠し腰に着けている一つの瓢箪をお民に出して見せ、それから勝手を知った木小屋の方へ行こうとしたので、お民はちょっと勝重の袖を引きとめて言った。「勝重さん、うっかりうちのそばへは行かれません。ほんとに病人というものは油断がならないとわたしも思いましたよ。こないだも、うちがしきりに呼ぶものですから、何の気なしにわたしは格子の前へ行って立ったことがありました。お民、ちょっとおいで、ちょっとおいで、そんなことを言って、あの格子の内から手招きするじゃありませんか。どうでしょう、そのわたしの手をつかまえて力任せになかへ引きずり込もうとしました。あの時は、もうすこしでこの腕がちぎれるかと思いました。勝重さん、あなたも気をつけてくださいよ」。 座敷牢での朝夕はこんなに半蔵をさびしがらせるのだ。勝重は、さもあろうというふうにお民の話をきいた後、やがて木小屋の周囲に人のないのを見すまして、例の荒い格子の前まで近づいた。「敵が来る」。師匠の声だ。それは全く外界との交渉も絶え果てたような人の声だ。その声がまず勝重の胸を騒がせる。「お師匠さま、わたしでございます。勝重でございます」。思いがけない弟子の訪れに、格子の内の半蔵もややわれに帰ったというふうではあった。苦髪楽爪とやら、先の日に勝重が見に来た時よりも師匠が髭の延び、髪は鶉のようになって、めっきり顔色も青ざめていることは驚かれるばかり。でも、師匠は全く本性を失ってはいない。ややしばらく沈黙のつづいた後、「勝重さん、わたしもこんなところへ来てしまった。わたしは、おてんとうさまも見ずに死ぬ」。半蔵は荒い格子につかまりながらそれを言って、愛する弟子の顔をつくづくとながめた。「そんなお師匠さまのようなことを言わないで……御気分が治まりさえすれば、いつでもあの静の屋の方へお帰りになれますぞ。その時は勝重がまたお迎えにあがります。みんな首を長くしてその日の来るのをお待ち申しています。時に、お師匠さま、ちょうど昔で言えば菊の酒を祝う季節もまいっておりますから、実は瓢箪にお好きな落合の酒を入れまして、腰にさげてまいりました。しばらくお師匠さまも盃を手にはなさいますまい」。 勝重が半蔵の見ている前で、腰につけて来た瓢箪の栓を抜いて、小さな木盃に酒をつごうとした時、半蔵はじっと耳を澄ましながら細い口から流れ出る酒の音をきいていた。そして、コッ、コッ、コッ、コッというその音を聞いただけでも口中に唾を感ずるかのような喜び方だ。弟子の勧めるまま、半蔵は格子越しにそれをうけて、ほんの一、二献しか盃を重ねなかったが、しかし彼はさもうまそうにそのわずかな冷酒を飲みほした。甘露、甘露というふうに。かつてこんなうまい酒を味わったことはないというふうにも。看護するものが詰める別室の方には人の来るけはいもしたので、それぎり勝重は半蔵のそばを離れた。師匠と二人ぎりの時でもなければ、こんな話も勝重にはかわされなかったのである。しばらく別室に時を送った後、また勝重は半蔵を見に行こうとして、思わず師匠がひとり言を聞いた。「勝重さんはどうした。勝重さんはいないか。いや、もういない……こんなところにおれを置き去りにして、落合の方へ帰って行った……師匠の気も知らないで、体裁のよいことばかり言って、あの男も化け物かもしれんぞ」。その声を聞きつけると、勝重は木小屋の土間にもいたたまれなかった。彼は裏の竹藪の方に出て、ひとりで激しく泣いた。 |
|||
五 | |||
恵那山へは雪の来ることも早い。十月下旬のはじめには山にはすでに初雪を見る。十一月にはいってからは山家の子供の中には早くも猿羽織を着るものがある。百姓が手につかむ霜にも、水仕事するものが皮膚に切れる皸あかぎれにも、やがて来る長い冬を思わせないものはない。落合の勝重が帰って行ったあとの木小屋には、一層の寂しさが残った。朝晩もまさに寒かった。木小屋の位置は裏山を背にする方が北に当たったから、水の底にでも見るような薄日しか深い竹藪をもれて来ない。夜なぞ、ことにそちらの方面は暗く、物すごかった。こんな日の続いて行く中で、座敷牢にいる人が火いじりの危さを考えると、炬燵一つ入れてやって凍えたからだを温めさせる術もないとしたら。そう思って震えるものは、ひとり夫の看護に余念のないお民ばかりではなかった。 しかし、もうそろそろ半蔵にその部屋から出て来てもらってもよかろうと言い出すものは一人もない。お師匠さまには、できるだけ長くその部屋にいてもらいたいと言うものばかり。木小屋の戸締まりは一層厳重になり、見張りのものは交代で別室に詰め、夜番は火の用心の拍子木を鳴らして、伏見屋寄りの木戸の方から裏の稲荷の辺までも回って歩いた。ある日の午後、馬籠峠の上へはまれにしか来ないような猛烈な雹が来た。にわかにかき曇った晩秋の空からは重い灰色の雲がたれさがって、雷雨の時などに降る霰よりも大粒なやつを木小屋の板屋根の上へも落とした。やがて氷雨の通り過ぎて空も明るくなったころ、笹屋庄助と小笹屋勝之助の両名が連れだってそこいらの見回りに出たが、二人の足は何かにつけて気にかかる半蔵の座敷牢の方へ向いた。途中で二人の行きあう百姓仲間のものに驚き顔でないものはない。あるものは牛蒡を掘りに行ってこの雹にあったといい、あるものは桑畠を掘る最中であったといい、あるものは引きかけた大根の始末をするいとまもなく馬だけ連れて逃げ帰ったという。すこしの天変地異でもすぐそれを何かの暗示に結びつけて言いたがるのは昔からの村の人たちの癖だ。 こんな空気の中で、庄助らが半蔵を見に行くと、どうもお師匠さまのようすがよくないという清助と落ち合った。半蔵の方でもだえればもだえるほど、今ここでそんな人に木小屋から飛び出されては困るという腹は庄助らにだってある。近年まれなものが降って陽気もまた非常に寒くなったが、お師匠さまもどうしているか、その見舞いを言い入れに来た庄助らは何よりもまず半蔵が格子の内から呼ぶ荒々しい声に驚かされた。「さあ、攻めるなら攻めて来い。矢でも鉄砲でも持って来い」。血相を変えている半蔵がようすの尋常でないことは、雹どころの騒ぎではなかった。もはや半蔵は敵と敵でないものとの区別をすら見定めかぬるかのよう。そして、この世の戦いに力は尽き矢は折れてもなおも屈せずに最後の抵抗を試みようとするかのように、自分で自分の屎をつかんでいて、それを格子の内から投げてよこした。庄助の方へも、勝之助の方へも、清助の方へも。「お師匠さま、何をなさる」。庄助はあさましく思うというよりも、仰天してしまった。その時、声を励まして、半蔵を制するように言ったのも庄助だ。「や、また敵が襲って来るそうな。おれは楠正成の故知を学んでいるんだ。屎合戦だ」。旧組頭なぞの制することも半蔵の耳に入らばこそだ。これまで幽閉の苦しみを忍びに忍んで来た彼は手をすり足をすりして泣いても足りなかったというふうで、なおも残りの屎を投げてよこそうとする。木小屋の土間にいてあちこちと避け惑うものの中には、どうかするとそこへすべってころびそうになった。ぷんとした臭気は激しく庄助らの鼻をついた。「これはたまらん」 と言い出した清助をはじめ、庄助も、勝之助も、その土間の片すみに壁によせて置いてある蓆の類を見つけ、あり合うものを引きかぶって逃げた。 |
|||
六 | |||
万事終わった。半蔵がわびしい木小屋に病み倒れて行ったのはそれから数日の後であったが、月の末にはついに再びたてなかった。旧本陣の母屋を借りうけている医師小島拙斎も名古屋の出張先から帰って来ていて、最後まで半蔵の病床に付き添い、脚気衝心の診断を下した。夜のひき明けに半蔵が息を引き取る前、一度大きく目を見開いたが、その時はもはや物を見る力もなかった。もとよりお民らに呼ばれても答える人ではなかった。享年五十六。五人もある子の中で彼の枕もとにいたものは長男の宗太ばかり。お粂ですら父の臨終には間に合わなかった。 その暁から降り出した雨はやみそうもない。裏藪の竹の葉にそそぐ音だけでも、一雨ごとにこの山里へ冬のやって来ることを思わせる。お民らが半蔵の枕もとに付いていてほのかな鶏の声をきいたころに、彼はすでにこの世の人ではなかったのであるが、時を置いて彼の顔をのぞきに行くたびに、雨に暗い空も明けて行き、青白い光線は東南の間にあたる高い窓からその部屋へさし入って来た。やがて皆のものがうち寄って半蔵のからだをぬぐい浄めるころは、そこいらはもう朝だ。遺骸は青い蓙の上に横たわり、枕の位置も変わって見ると、病床もすでに死の床ではあったが、しかしお民らの目にはまだ半蔵がそこに眠っているかのようであった。 栄吉、清助、庄助、勝之助らは前後して木小屋に集まりつつあった。隣家からは二代目伊之助の顔も見えた。半蔵が二人の若い弟子、伏見屋の三郎と梅屋の益穂とがこんな時の役に立とうとして皆の間に立ちまじっているさまも可憐であった。一刻も早く遺骸は他へ移したい、こんな忌まわしい座敷牢の中には置きたくない、とは一同のものの願いであったが、さて母屋の方へ移すべきか、隠宅の静の屋の方へ移すべきかの話になると、各自意見もまちまちで相談は容易にまとまらなかった。母屋をえらびたいのは山々だが、現在医師の開業しているところを明け渡させるのはたとい二、三日でも故人の本意ではなかろうと言うものがある。そうかと言って、あの静の屋のような狭い小楼からお師匠さまの葬式が出せるかと言うものがある。この事は、拙斎自身の申し出で母屋と一決した。馬籠の庄屋と本陣問屋とを兼ねた最後の人を見送る意味からも、古い歴史のある記念の家をこころよく使用してもらいたいとは、拙斎が申し出であった。 雨は降ったりやんだりしているような日であったが、すこし小降りになった時を見て、半蔵の遺骸には蓑をかけ、やがて木小屋から運び出されることになった。多感な光景がそこにひらけた。生前古い青山の家にはもはや用のないような人間だとよく言い言いしたその半蔵も変わり果てた姿となって、もう一度旧本陣の屋根の下へと帰って行ったのである。その旧主人の死体を蒲団ぐるみ抱きかかえながら木小屋から母屋へと持ち運んだのは、おもに下男佐吉の力であった。それには以前に出入りした百姓仲間の兼吉や桑作の手伝いもあった。宗太はじめ、三郎、益穂らはいずれも雨傘をさしかけて、その前後を護って行った。 |
|||
半蔵の死が馬籠以外の土地へも通知されて行くころには、近在から弔みを言い入れに集まる旧い弟子たちもすくなくなかったが、その中でだれよりも先に急いで来たものは落合の勝重であった。勝重が思い出の深い本陣屋敷に来て見た時は、師匠の遺骸はすでに奥の上段の間の隣り座敷に安置してあった。彼はまず青山の家族にあって、長い看護に疲れ顔なお民にも、七十八歳の高齢で義理ある子を先立てたおまんにも、それから宗太夫婦にも厚く弔みを述べた。奥座敷の方へも進んで行って、神葬の古式による清げな白木の壇の前にひざまずき、畳の上に額をすりつけて、もはやこの世の一切の悲しいや苦しいも越えているように厳粛な師匠の死顔を拝した。まだ棺もできては来ず、荒町の禰宜の顔も見えなかったが、そこいらには馬籠町内の重立った人たちも集まっていた。埋葬の場処は、と勝重が宗太に尋ねると、家政改革後は倹約第一の場合ででもあるから、万福寺山腹に古くからある墓地の片すみをえらむことにして、そのことはすでに寺へも通じてあるという。これには勝重はひどく残念がって、なんとかしてもっと適当な場処を求めなるべく手厚く師匠を葬りたいと言い、墓地続きの寺の畠でも譲り受けられるなら、及ばずながらその費用等は自分ら弟子仲間で心配するとの意見をそこへ持ち出した。というのは、青山家の墓地も先祖代々のたくさんな墓石で埋められ、ほとほと割り込むすきもないことを勝重もよく知っていたからであった。「どうも、お弟子が来て厄介なことを言い出したぞ」。 宗太の目がそれを言った。でも、こんなに父の死を惜しんでくれる人たちもあるというその熱い情に動かされて、宗太も倹約一方の説を覆し、結局勝重の意見をいれた。栄吉や清助は宗太の意を受けて、改めて埋葬の地を相するため雨の中を出かけた。 悲しい夜が来た。霊前には親戚旧知のものが集まったが、一同待ち受ける妻籠からの寿平次、実蔵、それに木曾福島からのお粂夫婦はまだ見えなかった。なんと言っても旧本陣のことで、以前から縁故の深かった十三人の百姓の家のもの、大工、畳屋から髪結いまでがそこへ来て、半蔵生前の話が尽きない。あるものは子供の時分、本陣の裏庭へ巴旦杏を盗みに忍び入って、うしろからうんと一つどやしつけられたが、その人がお師匠さまであったことは今だに忘れられないとの話をはじめる。その話をはじめたものはまた、半蔵が袂の中にいっぱい蜜柑を入れていてよく村の児童に分け与えるような幼いものの友だちであったと言い、自分もまたその蜜柑に誘われてお師匠さまの家に通いはじめ、その時から読み書きの道を覚えたことも忘れられないなぞと語り出す。明治十九年十一月二十九日の夜のことで、戸の外へはまた深い山の雨が来た。勝重はその初冬らしい雨の音をききながら、互いに膝をまじえている村の人たちの思い出に耳を傾けて、そんな些細な巴旦杏や蜜柑の話に残る師匠が人柄のゆかしさを思った。 |
|||
翌日の午後、勝重は伏見屋の主人(二代目伊之助)と連れだって万福寺の門前に出た。寺より譲り受ける墓地の交渉もまとまったので、勝重らはその挨拶を兼ね、ついでに師匠を葬るべき場所を見回りたいためであった。なお、師匠の葬儀は十二月朔日と定まったので、寺の境内を式場に借りうけるため、宗太から頼まれて来た打ち合わせの用事もあった。この事は青山小竹両家が神葬改典の当時に、半蔵や初代伊之助と松雲和尚との間にかわされた口約束による。勝重もほとんど不眠の一夜を師匠の霊前に送ったあとなので、懇意な伏見屋方で二時間ばかり寝かしてもらったが、またその日には妻籠の連中やお粂夫婦を迎えて今一夜師匠の棺の前に語り明かすはずである。おまけに、次ぎの日の葬儀を控えている。でも、男ざかりの彼は、どんな無理してもこの激しい疲労に打ち勝ち、生前格別の世話になった師匠の温情にむくいようとした。 ちょうど松雲和尚は、万福寺建立以来の青山家代々が恩誼を思い、ことに半蔵とは敬義学校時代のよしみもあるので、和尚は和尚だけのこころざしを受けてもらいに、旧本陣まで今々行って来たというところであった。松雲は勝重らを方丈に迎え入れ、寺の境内を今度の式場にあてるための準備もすでにほぼ整えてあること、墓地の譲り渡し等にも寺としてはできるだけの便宜を払ったことを勝重らに告げ、茶菓なぞ取り出していんぎんに二人の客をもてなした。そして、例の禅僧らしい沈着な調子で、勝重らに聞いてもらいたいことがあると言い出した。半蔵があんな放火を企てたのは全くの狂気ざたと考えるかと二人に尋ね、和尚にはそうばかりとも思われないと言うのであった。どうして松雲がそんな疑いを抱くかというに、平田門人としての半蔵が寺院ももはや無用な物であるとの口吻をもらしたのは晩年にはじまったことでもなく、上は諸大名から下は本陣、問屋、庄屋、組頭、それから五人組の廃された当時、すでにすでに半蔵はその考えを起こしていて、僧侶もまた同じように廃さるべきものとしたろうと松雲には想い当たるからであった。松雲は半蔵の創立した敬義学校に事を共にして見て、この寺の本堂を児童教育の仮教場にあてた際に、早くも半蔵の意のあるところを感知したのであったという。これは全く廃仏を意味する。また、全くの白紙に帰って行くことを意味する。信教自由の認められて来た今日、こんな山の上の寺を焼き払うような挙動は、子供らしいと言えばそれまでだが、しかしその道徳上の効果はちいさいとは言いがたい。半蔵のはそれをねらったものではなかろうか。もともと心ある仏徒が今日目をさますようになったというのも、平田諸門人が復古運動の刺激によることであって、もしあの強い衝動を受けることがなかったなら、おそらく多くの仏徒は徳川時代の末と同じような頽廃と堕落とのどん底に沈んでいたであろう。半蔵は例の持ち前の凝り性と感情とに駆られて、教部省のやり口に安んじられず、信教自由をも不徹底なりとして、ついにこんな結果を招いたものとしか思われない。これが松雲一流のにらみ方であった。そういう和尚は半蔵のために、もうすこしでこの寺の本堂を焼かれようとした当面の人であるだけに、半蔵の不思議な行為を謎としてのみ看過ごすことはできなかったと訴えるのであった。もっとも、松雲は今までだれにもこんなことを口外する人ではなかった。半蔵の死にあって見て、勝重らにこれを告げるのであるという。その時、勝重は眉の白い和尚の顔をしげしげと見つめて、「和尚さま、そういうあなたのお考えでしたら、なぜもっと早くそれを言い出して、お師匠さまを救ってはくださらなかったんです」と言った。松雲にして見ると、一切は勢いであって、和尚の力にもどうすることもできなかった。もし半蔵が勢いに逆らおうとしなかったなら、あんなに衆のために圧倒されるようなことはなかったであろう。松雲はそれを勝重らに言って、見殺しにするつもりもなく半蔵を見殺しにしたと嘆息した。 「しかし、お二人の前ですが、今度という今度はつくづくわたしも世の無常を思い知りました」とまた松雲は静かに言い添えて、小さな葛籠の風呂敷包みにしてあるのを取り出して来た。あだかも、和尚の本心はその中にこめてあるというふうに。驚くべきことには、遠からず和尚にやって来る七十の齢を期して、長途の旅に上る心じたくがそこにしてあった。 松雲には日ごろからたたかうまいとしていたことが四つある。命とたたかわず、法とたたかわず、理とたたかわず、勢とたたかわずというのがそれだ。その時、和尚は半蔵が焼こうとした寺にも決してなんらの執着を持たないおのれの立場を明らかにして、それをもって故人への回向に替えようとしていた。ただ法務と寺用とをこのままに放棄するのは師恩に報ゆべき道でないとなし、それには安心して住持の職を譲って行けるまでにもっと跡目相続の弟子を養い、雨漏りのする本堂の屋根の修繕をも成し遂げ、一切心残りのないようにして置いて、七十の声を聞いたならばその時こそは全国行脚をこころざし、一本の錫杖を力に、風雲に身を任せ、古聖も何人ぞと発憤して、戦場に向かうがごとくに住み慣れた馬籠の地を離れて行きたいことなぞを勝重らの前に打ち明けた。和尚はあとの住持のために万福寺年中行事なるものの草稿を作り、弟子の心得となるべき禅門の教訓をもいろいろと認めて、仏世の値いがたく、正法の聞きがたく、善心の起こしがたく、人身の得がたく、諸根のそなえがたいことを教えて置いて行こうとしてあった。 手回しのいいこの和尚はすでに旅の守り袋を用意したと言って、青地の錦の切地で造ったものをそこへ取り出して見せた。梵文の経の一節を刻んであるインド渡来の貝陀羅樹葉、それを二つ折りにして水天宮の守り札と合わせたものがその袋の中から出て来た。古人も多く旅に死せるありとやら。いずこに露命は果てるとも測りがたいおもんぱかりから、この寺に残し置くべき辞世までも和尚は用意してある。それには紙の上に一つの円が力をこめて書きあらわしてあり、その奥には禅家らしい偈も書き添えてある。前途幾百里、もしその老年の出発の日が来て、西は長崎の果てまでも道をたどりうるようであったら、遠く故郷の空を振り返って見る一人の雲水僧のあることを記憶して置いてくれよとの話も出た。やがて勝重は伏見屋主人と共に和尚のもとを辞した。万福寺の山門を出てから、彼は連れを顧みて言った。「まあ、お師匠さまもあんな最後をなすったんじゃ、だれだって寝ざめがよかありません。厚く葬ってあげるんですね」。二代目もうなずいた。 |
|||
幸い雨もあがって、どうかと天候の気づかわれた次ぎの日の葬儀もまずこの調子では無事に済まされそうであった。勝重らは半蔵埋葬の場所を見回るため万福寺の山腹について古い墓石の並び立つ墓地の間の細道を進んで行った。そこは杉の木立ちの間である。半蔵の祖父半六、父吉左衛門、それから今の伏見屋主人には祖父に当たる金兵衛、先代伊之助、それらの故人となった人たちが永く眠っているところである。ゆうべの雨にぬれて、ある墓石はまだ湿り、ある墓石はかわきかけていたが、そのそばを通り過ぎて杉の木立ちも尽きたところまで行くと、新開の墓地から立ちのぼる焚火の烟が目につく。旧本陣の下男佐吉は百姓の兼吉や桑作を墓掘りの相手にして、そこに働いていた。 ちょうど勝重らがその位置に行って立って見た時は、一歩先に見回りに来ている清助とも一緒になった。寺から譲られたその畠の地所もすでにあらかた地ならしを済まし、周囲の藪も切り開いてあって、なだらかな傾斜の地勢から谷の向こうに恵那山麓の馬籠の村を望むこともできる。この眺望のある位置はいかにも師匠にふさわしいと言って、よい場所が手に入ったとよろこぶものは、ひとり勝重ばかりではなかった。兼吉や桑作までときどき鍬を休めに焚火のそばへ来て、お師匠さまの墓掃除にはまた皆で来てあげるなぞと語り合うのであった。饅頭のかたちに土を盛り上げた新しい塚、「青山半蔵之奥津城」とでもした平田門人らしい白木の墓標なぞが、もはやそこに集まるものの胸に浮かんだ。時が来れば、その塚の上をおおう青い芝草の想像までも。「清助さ、遠方の通知はもうすっかり出したろうか」。「さあ、もれたところはないつもりですがね」。「東京の平田家へは」。「それを落とすようなことはしません。熱田の暮田正香先生のところへも」。「そう言えば、森夫さまや和助さまはどうなさるだろう。お父さんのお葬式に、お二人ともお帰りにはなるまいか」。「それがです。中津川から父上死去の電報は打ちましたがね、お帰りになるがいいともなんとも言ってあげたわけじゃない。宗太さまからもその話はありません。たぶん、和助さまたちは、お見えにはなりますまい」。 清助と伏見屋主人や勝重との間には、しばらくこんな立ち話がはずんだ。そこへ三郎と益穂の二人も勝重らを探しに杉の枯れ葉の落ちた細道を踏んで、お粂夫婦が妻籠の連中と共に旧本陣の方へ着いたことを告げ知らせに来た。こうして一同が集まって見ると、いずれもようやく重荷をおろしたような顔ばかり。その人の晩年にはとかくの評判のあった青山半蔵ではあるが、しかし亡くなった後になって見ると、やっぱりお師匠さまはお師匠さまであったという話が出る。星移り、街道は変わって、今後お師匠さまのような人はこの山の中には生まれて来まいとの話も出る。お粂らの到着と聞いても、一同はすぐ墓地を離れようとしなかった。その中でも清助は深いため息をついて、「あのお師匠さまも、しまいにはずいぶん人をてこずらせた。楠正成の屎合戦だなんて言い出して――からだを洗ってあげたいにも、手のつけようもない。あんな困ったこともなかった。よくあれでなんともなかったものだと思う……今になっておれも考えて見ると、あのお師匠さまの疳の起こってる時には、何をなすってもからだに障らなかった。すこし気分も静まって来たかと思うと、今度はからだの方が弱っていらしった……」と清助は清助らしいことを言い出す。年若な三郎はその話を引き取って、「でも、お師匠さまも惜しいことをした。もうすこしからだが続いたら、あんな木小屋から出してあげられたんだ。そりゃだれがなんと言ったって、お師匠さまのような清い人はめったにない――あんな人をおれは見たことがない」。「そうだ、三郎さんの言うとおりだ。せめてもう十年お師匠さまを生かして置きたかったよ」。勝重の嘆息だ。 その日には奥筋の方から着いたお粂らを迎えて半蔵の霊前に今一夜語り明かそうという手はずも定めてある。やがて墓地には一人去り、二人去りして、伏見屋主人や清助から若い弟子たちまでもと来た細道を引き返して行ったが、勝重のみはまだそこに残って、佐吉らが墓穴を掘るさまをながめたたずんだ。その時になって見ると、旧庄屋として、また旧本陣問屋としての半蔵が生涯もすべて後方になった。すべて、すべて後方になった。ひとり彼の生涯が終わりを告げたばかりでなく、維新以来の明治の舞台もその十九年あたりまでを一つの過渡期として大きく回りかけていた。人々は進歩をはらんだ昨日の保守に疲れ、保守をはらんだ昨日の進歩にも疲れた。新しい日本を求める心はようやく多くの若者の胸にきざして来たが、しかし封建時代を葬ることばかりを知って、まだまことの維新の成就する日を望むこともできないような不幸な薄暗さがあたりを支配していた。その間にあって、東山道工事中の鉄道幹線建設に対する政府の方針はにわかに東海道に改められ、私設鉄道の計画も各地に興り、時間と距離とを短縮する交通の変革は、あだかも押し寄せて来る世紀の洪水のように、各自の生活に浸ろうとしていた。勝重は師匠の口からわずかにもれて来た忘れがたい言葉、「わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ」というあの言葉を思い出して悲しく思った。「さあ、もう一息だ」。 その声が墓掘りの男たちの間に起こる。続いて「フム、ヨウ」の掛け声も起こる。半蔵を葬るためには、寝棺を横たえるだけのかなりの広さ深さもいるとあって、掘り起こされる土はそのあたりに山と積まれる。強いにおいを放つ土中をめがけて佐吉らが鍬を打ち込むたびに、その鍬の響きが重く勝重のはらわたに徹えた。一つの音のあとには、また他の音が続いた。 「夜明け前」第二部――終 |
|||
底本:「夜明け前 第二部(下)」岩波文庫、岩波書店 1969(昭和44)年2月17日第1刷発行 1995(平成7)年12月15日第26刷発行 底本の親本:「改版本『夜明け前』」新潮社 1936(昭和11)年7月発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:大野晋、小林繁雄 校正:砂場清隆 2001年7月4日公開 2009年11月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 |
|||
●表記について
|
(私論.私見)