夜明け前第二部下の7、第十四章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
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【島崎藤村/夜明け前第二部下の7、第十四章】 |
一 |
馬籠にある青山のような旧家の屋台骨が揺るぎかけて来たことは、いつのまにか美濃の落合の方まで知れて行った。その古さから言えば永禄、天正年代からの長い伝統と正しい系図とが残っていて、馬籠旧本陣と言えば美濃路にまで聞こえた家に、もはやささえきれないほどの強い嵐の襲って来たことが、同じ街道筋につながる峠の下へ知られずにいるはずもなかった。馬籠を木曾路の西のはずれとするなら、落合は美濃路の東の入り口に当たる。落合から馬籠までは、朝荷物をつけて国境の十曲峠を越して行く馬が茶漬けまでには戻って来るほどの距離にしかない。 落合に住む稲葉屋の勝重はすでに明治十七年の三月あたりからその事のあるのを知り、あの半蔵が跡目相続の宗太夫婦とも別居して、一小隠宅の方に移り住むようになった事情をもうすうす知っていた。勝重はかつて半蔵の内弟子として馬籠旧本陣に三年の月日を送ったことを忘れない。明治十九年の春が来るころには、彼も四十歳に近い分別盛りの年ごろの人である。いよいよあの古い歴史のある青山の家も傾いて来て、没落の運命は避けがたいかもしれないということは、彼にとって他事とも思われなかった。実は彼は他の落合在住者とも語り合い、半蔵の世話になったものだけが集まって、なんらかの方法で師匠を慰めたいと、おりおりその相談もしていた時であった。これまで半蔵の教えを受けた人たちの中で一番末頼もしく思われていたものも勝重である。今は彼も父祖の家業を継いで醤油醸造に従事する美濃衆の一人であり、先代儀十郎まで落合の宿役人を勤めた関係からも何かにつけて村方の相談に引き出される多忙な身ではあるが、久しく見ない師匠のこともしきりに心にかかって、他に用事を兼ねながら、にわかに馬籠訪問を思い立った。家を出る時の彼は手にさげられるだけの酒を入れた細長い樽をもさげていた。かねて大酒のうわさのある師匠のために、陰ながら健康を案じ続けていた彼ではあるが、いざ訪ねて行こうとして、何か手土産をと探す時になると、やっぱり良い酒を持って行って勧めたかった。これは落合の酒だが、馬籠の伏見屋あたりで造る酒と飲みくらべて見てもらいたいとでも言って、それを嗜む半蔵のよろこぶ顔が見たいと思いながら彼は出かけた。 勝重から見ると、元来本陣といい問屋といい庄屋といった人たちは祖先以来の習慣によって諸街道交通の要路に当たり、村民の上に立って地方自治の主脳の位置にもあり、もっぱら公共の事業に従って来たために、一家の経済を処理する上には欠点の多かったことは争われない。旧藩士族の人たちのためにはとにもかくにも救済の方法が立てられ、禄券の恩典というものも定められたが、庄屋本陣問屋は何のうるところもない。明治維新の彼らを遇することは薄かった。今や庄屋の仕事は戸長役場に移り、問屋の仕事は中牛馬会社に変わって、ことに本陣をも兼ねた青山のような家があの往時の武家と公役とのためにあったような大きな屋敷の修繕にすら苦しむようになって来たことは当然の話であった。この際、半蔵の弟子としては、傾いて行く青山の家運をどうすることもできないが、せめて師匠だけは、そのあわれな境涯の中にも静かな晩年の日を送ってもらいたいと願うのであった。というのは、飛騨の寂しい旅以来の半蔵の内部には精神にも肉体にも何かが起こっているに相違ないとは、もっぱら狭い土地での取りざたで、それが勝重の耳にもはいるからであった。 四月上旬の美濃路ともちがい、馬籠峠の上へはまだ春の来ることもおそいような日の午後に、勝重は霜の溶けた道を踏んで行ったのであるが、半蔵の隠宅を訪ねることは彼にとってそれが初めての時でもない。そこは静の屋と名づけてある二階建ての小楼で、青山の本家からもすこし離れた馬籠の裏側の位置にある。落合方面から馬籠の町にはいるものは、旧本陣の門前まで出ないうちに街道を右に折れ曲がって行くと、共同の水槽の方から奔って来る細い流れの近くに、その静の屋を見いだすことができる。ちょうど半蔵も隠宅にある時で心ゆくばかり師匠の読書する声が二階から屋外まで聞こえて来ているところへ勝重は訪ねて行った。入り口の壁の外には張り物板も立てかけてあるが、お民のすがたは見えなかった。しばらく勝重は上り框のところに腰掛けて、読書の声のやむまで待った。その間に彼は師匠が余生を送ろうとする栖家の壁、柱なぞにも目をとめて見る時を持った。階下は一部屋と台所としかないような小楼であるが、木材には事を欠かない木曾の山の中のことで木口もがっしりしている上に、すでにほどのいい古びと落ちつきとができて、すべて簡素に住みなしてある。入り口の壁の内側には半蓑のかかっているのも山家らしいようなところだ。やがて半蔵は驚いたように二階から降りて来て勝重を下座敷へ迎え入れた。半蔵ももはや以前のような総髪を捨てて髪も短かめに、さっぱりと刈っている人である。いつでも勝重が訪ねて来るたびに、同じ顔色と同じ表情とでいたためしのないのも半蔵である。ひどく青ざめた顔をしていることもあれば、また、逆上せたように紅い顔をしていることもある。その骨格のたくましいところは先代吉左衛門に似て、膝の上に置いた手なぞの大きいことは、対坐するたびに勝重の心を打つ。 その日、半蔵はあいにく妻が本家の方へ手伝いに行っている留守の時であると言って見せ、手ずから茶などをいれて旧い弟子をもてなそうとした。そこへ勝重が落合からさげて来たものを取り出すと、半蔵は目を円くして、「ホウ、勝重さんは酒を下さるか」。まるで子供のようなよろこび方だ。そう言う半蔵の周囲には、継母はじめ、宗太夫妻から親戚一同まで、隠居は隠居らしく飲みたい酒もつつしめと言うものばかり。わざわざそれをさげて来て、日ごろの愁いを忘れよとでも言うような人は、昔を忘れない弟子のほかになかった。「勝重さん、君の前ですが、この節吾家のものは皆で寄ってたかって、わたしに年を取らせるくふうばかりしていますよ」。「そりゃ、お家の方がお師匠さまのためを思うからでしょうに」。「しかし、勝重さん、こうしてわたしのように、日がな一日山にむかって黙っていますとね、半生の間のことがだんだん姿を見せて来ましてね、そう静かにばかりしてはいられませんよ」。半蔵は勝重から何よりのものを贈られたというふうに座を離れて、台所の方へその土産を置きに行ったが、やがてまたニヤニヤ笑いながら勝重のいるところへ戻って来た。 その静の屋に半蔵が二度目の春を迎えるころは、東京の平田鉄胤老先生ももはやとっくに故人であった。そればかりではない、彼は中津川の友人香蔵の死をも見送った。追い追いと旧知の亡くなって行くさびしさにつけても、彼は久しぶりの勝重をつかまえて、容易に放そうともしない。他に用事を兼ねて日ごろ無沙汰のわびばかりに来たという勝重が師匠の顔を見るだけに満足し、落合の酒を置いて行くだけにも満足して、やがて気軽な調子で辞し去ろうとした時、半蔵はその人を屋外まで追いかけた。それほど彼は人なつかしくばかりあった。半蔵は勝重に言った。そう言えば、勝重さん、文久三年に君と二人で御嶽参籠に出かけた時さ。あれは、ちょうど今時分じゃありませんか。でも、いい陽気になって来ましたね。この谷へも、鶯が来るようになりましたよ」。こんな声を聞いて勝重は師匠のそばから離れて行った。そして、ひとりになってから言った。「どうして、お師匠さまはまだまだ年寄りの仲間じゃない」。 |
二 |
静の屋は別に観山楼とも名づけてある。晴れにもよく雨にもよい恵那山に連なり続く山々、古代の旅人が越えて行ったという御坂の峠などは東南にそびえて、山の静かさを愛するほどのものは楼にいながらでもそのながめに親しむことができる。緩慢ではあるが、しかし深い谷が楼のすぐ前にひらけていて、半蔵はそこいらを歩き回るには事を欠かなかった。清い水草の目を楽しませるものは行く先にある。日あたりのよい田圃わきの土手は谷間のいたるところに彼を待っている。その谷底まで下って行けば、土地の人にしか知られていない下坂川のような谿流が馬籠の男垂山方面から音を立てて流れて来ている。さらにすこし遠く行こうとさえ思えば、谷の向こうにある林の中の深さにはいって見ることもでき、あるいは山かげを耕して住む懇意な百姓の一軒家まで歩いてそこに時を送って来ることもできる。もういい加減に、枯れてもいい年ごろだと言われる半蔵が生涯の奥に見つけたのは、こんな位置にあるところだ。一方は馬籠裏側の細い流れに接して、そこへは鍋を洗いに来る村の女もある。鶏の声も遠く近く聞こえて来ている。 もし半蔵があの落合の勝重の言うように余生の送れる人であったら、いかに彼はこの閑居を楽しんだであろう。本家の方のことはもはや彼には言うにも忍びなかった。しかし隠居の身として口出しもならない。世にいう漁、樵、耕、牧の四隠のうち、彼のはそのいずれでもない。老い衰えて安楽に隠れ栖むつもりのない彼は、寂しく、悲しく、血のわく思いで、ただただ黙然とおのれら一族の運命に対していた。これがついの栖家か、と考えて、あたりを見回すたびに、彼は無量の感慨に打たれずにはいられなかった――たとい、お民のような多年連れ添う妻がそばにいて、共に余生を送るとしても。なんと言っても旧い馬籠の宿場の跡には彼の少年時代からの記憶が残っている。夕方にでもなると、彼は街道に出て往来の人にまじりたいと思うような時を迎えることが多かった。 ある日の午後、彼は突然な狂気にとらえられた。まっしぐらに馬籠の裏道を東の村はずれの岩田というところまで走って行って、そこに水車小屋を営む遠縁のものの家へ寄った。硯を出させ、墨を磨らせた。紙をひろげて自作の和歌一首を大きく書いて見た。そしてよろこんだ。その彼の姿は、自分ながらも笑止と言うべきであった。そこからまた同じ裏道づたいに、共同の水槽のところに集まる水くみの女どもには、目もくれずに、急いで隠宅へ引き返して来た。「まあ、きょうはどうなすったか」とお民はあきれた。半蔵に言わせると、彼も不具ではない。不具でない以上、時にはこうした狂気も許さるべきであると。「これがお前、生きているしるしなのさ」。半蔵の言い草だ。 梅から山ざくら、山ざくらから紫つつじと、春を急ぐ木曾路の季節もあわただしい。静の屋の周囲にある雑木なぞが遠い谷々の草木と呼吸を合わせるように芽を吹きはじめると、日の色からしてなんとなく違って来るさわやかな明るさが一層半蔵の目には悩ましく映った。彼は二部屋ある二階の六畳の方に古い桐の机を置いて、青年時代から書きためた自作の『松が枝』、それに飛騨時代以来の『常葉集』なぞの整理を思い立った時であるが、それらの歌稿を書き改めているうちに、自分の生涯に成し就げ得ないもののいかに多いかにつくづく想いいたった。傾きかけた青山の家の運命を見まもるにつけても、いつのまにか彼の心は五人の子の方へ行った。それぞれの道をたどりはじめている五人の姉弟のことは絶えず彼の心にかかっていたからで。 |
姉娘のお粂がその旦那と連れだって馬籠へ訪ねて来たのは、あれは半蔵らのまだ本家の方に暮らしていた明治十六年の夏に当たる。ちょうどお粂夫婦は東京の京橋区鎗屋町の方にあった世帯を畳み、半蔵から預かった二人の弟たちをも東京に残して置いて、一家をあげて郷里の方へ引き揚げて来たころのことであったが、夫婦の間に生まれた二番目の女の子を供の男に背負わせながら妻籠の方から着いた。お粂は旦那と同年で、年齢の相違したものが知らないような心づかいからか、二十八の年ごろの細君にしては彼女はいくらか若造りに見えた。でも、お粂はお粂らしく、瀟洒とした感じを失ってはいなかった。たまの里帰りらしい手土産をそこへ取り出すにも、祖母のおまんをはじめ宗太夫婦に話しかけるにも、彼女は都会生活の間に慣れて来た言葉づかいと郷里の訛りとをほどよくまぜてそれをした。背は高く、面長で、風采の立派なことは先代菖助に似、起居振舞も寛かな感じのする働き盛りの人が半蔵らの前に来て寛いだ。その人がお粂の旦那だ。その青年時代には同郷の学友から木曾谷第一の才子として許された植松弓夫だ。 弓夫は半蔵のことを呼ぶにも、「お父さん」と言い、義理ある弟へ話しかけるにも「宗太君、宗太君」と言って、地方のことが話頭に上れば長崎まで英語を修めに行ったずっと年少なころの話もするし、名古屋で創立当時の師範学校に学んだころの話もする。弓夫は早く志を立てて郷里の家を飛び出し、都会に運命を開拓しようとしたものの一人であった。これは先代菖助が横死の刺激によることも、その家出の原因の一つであったであろう。弓夫は何もかも早かった。郷党に先んじて文明開化の空気を呼吸することも早かった。年若な訓導として東京の小学校に教えたこともあり、大蔵省の収税吏として官員生活を送ったこともあり、政治に興味を持って改進党に加盟したこともあり、民間に下ってからは植松家伝の処方によって謹製する薬を郷里より取り寄せ、その取次販売の路をひろげることを思い立ち、一時は東京池の端の守田宝丹にも対抗するほどの意気込みで、みごとな薬の看板まで造らせたが、結局それも士族の商法に終わり、郷里をさして引き揚げて来ることもまた早かった。かつては木曾福島山村氏の家中の武士として関所を預かる主な給人であり砲術の指南役ででもあった先代菖助がのこして置いて行った大きな屋敷と、家伝製薬の業とは、郷里の方にその彼を待っていた。 しかし、そこに長い留守居を預かって来た士族出の大番頭たちは彼がいきなりの帰参を肯じない。毎年福島に立つ毛付け(馬市)のために用意する製薬の心づかいは言うまでもなく、西は美濃尾張から北は越後辺まで行商に出て、数十里の路を往復することもいとわずに、植松の薬というものを護って来たのもその大番頭たちであった。文明開化の今日、武家の内職として先祖の始めた時勢おくれの製薬なぞが明日の役に立とうかと言い、もっと気のきいたことをやって見せると言って家を飛び出して行った弓夫にも、とうとう辛抱強い薬方の前に兜を脱ぐ時がやって来た。その帰参のかなうまで、当時妻籠の方に家を借りて、そこから吾妻村小学校へ教えに通っているというのも弓夫だ。「やっぱり先祖の仕事は根深い」とは、弓夫が高い声を出して笑いながらの述懐だ。 旧本陣奥の間の風通しのよいところに横になって連れて来た女の子に乳房をふくませることも、先年東山道御巡幸のおりには馬籠行在所の御便殿にまで当てられた記念の上段の間の方まで母のお民と共に見て回ることも、お粂には久しぶりで味わう生家の気安さでないものはなかったようである。東京の方にお粂夫婦が残して置いて来たという二人の弟たちのことは半蔵もお民も聞きたくていた。弓夫らの話によると、半蔵の預けた子供は二人ともあの京橋鎗屋町の家から数寄屋橋わきの小学校へ通わせて見たが、兄の森夫の方は学問もそう好きでないらしいところから、いっそ商業で身を立てろと勧めて見たところ、当人もその気になり、日本橋本町の紙問屋に奉公する道が開けて来たのも、かえってあの子の将来のためであろうという。弟の和助の方は、と言うと、これは引き続き学校へ通わせるかたわら、弓夫みずから『詩経』の素読をも授けて来た。幸い美濃岩村の旧藩士で、鎗屋町の跡に碁会所を開きたいという多芸多才な日向照之進は弓夫が遠縁のものに当たるから、和助はその日向の家族の手に託して置いて来たともいう。「和助は学問の好きなやつだで。あれはおれの子だで」と半蔵が弓夫らに言ったのもその時だった。 弓夫は一晩しか馬籠に泊まらなかった。家内と乳呑児とを置いて一足先に妻籠の方へ帰って行った。そのあとには一層半蔵やお民のそばへ近く来るお粂が残った。お粂は義理ある妹のお槇にも古疵の痕を見られるのを気にしてか、すずしそうな単衣の下に重ねている半襟をかき合わせることを忘れないような女だ。でも娘時分とは大違いに、からだからしてしまって来た。さばけた快活な声を出して笑うようにもなった。彼女は物に興じる質で、たまの里帰りの間にもお槇のために髪を直してやったり、お民が家のものを呼び集めて季節がらの真桑瓜でも切ろうと言えば皆まで母親には切らせずに自分でも庖丁を執って見たりして、東京の方で一年ばかりも弟和助の世話をした時のことなぞをそこへ語り出す。あの山家育ちの小学生も生まれて初めて東京魚河岸の鮮魚を味わい、これがオサシミだとお粂に言われた[#「言われた」は底本では「言はれた」となっている]時は目を円くして、やっぱり馬籠の家の囲炉裏ばたで食い慣れた塩辛いさんまや鰯の方が口に合うような顔つきでいたが、その和助がいつのまにか都の空気に慣れ、「君、僕」などという言葉を使うようになったという。遠く修業に出した子供のうわさとなると、半蔵もお民も飽きなかった。もっともっと聞きたかった。よく見ればお粂はそういう調子で母親のそばに笑いころげてばかりいるでもない。自分の女の子を抱いて庭でも見せに奥の廊下を歩いている時の彼女はまるで別人のようであった。彼女は若い日のことを思い出したように、そんなところにいつまでも隠れて、娘時代の記憶のある草木の深い坪庭をながめていたから、思わずもらす低い声がなかったら、半蔵なぞはそこに人があるとも気づかなかったくらいだった。その晩、彼女は両親のそばに寝て話したいと言うから、店座敷の狭いところに三人枕を並べたが、おそくまで母親に話しかける彼女の声は尽きることを知らないかのよう。半蔵が一眠りして、目をさますと、ぼそ/\ぼそ/\語り合う女の声がまだ隣から聞こえていた。 お粂のいう「寝てからでなければ話せない話」を通して、半蔵が自分の娘の身の上を知るようになったのも、そんな明けやすい夏の一夜からであった。もしお粂が旦那の酒の相手でもして唄の一つも歌うような女であったらとは、彼女自身の小さな胸の中によく思い浮かべることであるとか。旦那は植松のような家に生まれながら、どうしてそんなひそかな戯れ事の秘密を知ったろうと思われるほどの人で、そのお粂の驚きは彼女がささげようとする身を無慙にも踏みにじるようなものであり、ただ旦那が情にもろいとかなんとかの言葉で片づけてしまえないものであったという。しかし彼女はそのために旦那一人を責められなかった。旦那の友だちは皆、当時流行の猟虎の帽子をかぶり、羽ぶりのよい官員や実業家と肩をならべて、権妻でも蓄えることを男の見栄のように競い合う人たちだからであった。東京の方に暮らした間、旦那はよく名高い作者の手に成った政治小説や柳橋新誌などを懐中にして、恋しい風の吹く柳橋の方へと足を向けた。 しまいにはお粂はそれを旦那の病気とさえ考えるようになった。あだかも夏の夜の灯をめがけて飛ぶ虫のように、たのしみを追うことに打ちこむ旦那のたましいの前には、なにものもそれをさえぎる力はなかった。旦那も金につまった時は、お粂の着物を質屋に預けさせてまでそれをやめなかった。彼女はやかましい姑には内証で、旦那があるなじみの芸者に生ませた子の始末をしたこともある。その時になってもまだ彼女は男というものを信じ、その誠実を信じ、やさしい言葉の一つも旦那からかけられれば昨日までのことは忘れて、また永い遠い夫を心あてに尽くす気になった。ひとりの閨に夜ふけて目をさますおりおりなぞは、彼女は枕の上で旦那の物に誘われやすい気質を考えて、それを旦那の情のもろさというよりも、むしろ少年時代に早く生みの母親に死に別れたというその気の毒な生い立ちにまで持って行って見ることもある。今の姑は武家育ちの教養に欠けたところのないような婦人で、琴もひけば、謡もうたい、歌の話もするが、なにしろ尾州藩の宮谷家から先代菖助の後妻に来た鼻の隆い人で、その厳格さがかえって旦那を放縦な世界へと追いやったかと想って見ることもある。あるいはまた、妻としての彼女にもないものは、その旦那が生みの母親のふところかとも想って見ることもある。この世に一人しかない生みの母親のうつくしい俤に立つものが、媚びを売る水商売の人たちの中なぞに見いだされようか。そんなことは、考えて見ただけでもばからしいことであった。けれども旦那の前で煙草をふかして見せる手つきのよかったというだけでも、旦那はもうそれらの女の方へ心を誘われて行くようである。 一家をあげて東京から郷里へ引き揚げて来てからも、茶屋酒の味の忘れられないその旦那に変わりはない。ふつつかな彼女のようなものでも旦那の妻に選ばれ、植松の家のやれるものは彼女のほかにないとまで言ってくれた薬方の大番頭が意気にも感じ、これまで祖母や両親にさんざん心配をかけたことをも考えて、せめて父半蔵の娘として生きがいある結婚生活をと心がけながら嫁いで行ったお粂ではあるが、その彼女が踏み出して見た知らない世界は娘時代に深い窓で思ったようなものではなかった。なぜかなら、彼女の新生涯というものは、旦那と彼女とだけの二人きりの世界に限られたものではなくて、実に幾千万の人の生きもし死にもする広い世の中につながっているからであった。彼女は来し方行く末を考えて、ひとりでさんざん哭いたこともある。そのたびに彼女の心は幼いものの方へ帰って行った。今の彼女には、旦那との間に生まれた二人の愛児をよく守り育てて、せめて自分の子供らには旦那の弱いところに似ない生涯を開かせたいと願うより他の念慮も持たないという。旦那もよい人には相違なく、彼女にもやさしく、どこへ出してもはずかしくない器量に生まれ、木曾ぶしの一つも歌わせたらそれはすずしい声の持ち主で、あの病気さえなかったらと、ただただそれを旦那のために気の毒に思うともいう。「お民、お粂はまだ二十八じゃないか。今からそんなことで、どうなろう」。妻籠をさして帰って行く娘のうしろ姿を見送った後、半蔵はそれをお民に言って見た。お民も同じ思いで、その時、彼に言った。「ほんとに、お父さん(半蔵)にそっくりなような娘ができてしまいました。あれのすることは、あなたに似てますよ」。 |
長男の宗太がいよいよ青山の家を整理しなければいけないと言い出したのも、その翌年(明治十七年)三月のことである。例の飛騨行き以来、半蔵は家政一切を宗太に任せ、平素くわしいことも知らない隠居の身であったが、それから十年の後になって見ると、青山の家にできた大借は元利およそ三千六百円ばかりの惣高に上った。ついては、所有の耕地、宅地、山林、家財の大部分を売り払ってそれぞれ弁償すると言い出したのも宗太であった。実に急激に青山のような旧家の傾きかけて行ったのもその時からである。いろいろなことが起こって来た。旧本陣の母屋、土蔵を添えて、小島拙斎という医者に月二円半の屋賃で貸し渡すという相談も起こって来た。家族のものは継母おまんをはじめ、宗太夫婦は裏二階に住み込み、野菜畑作りのために下男の佐吉一人を残して、下女お徳に暇を出すという相談も起こって来た。半蔵夫婦は隠宅の方に別居させるということもまたその時に起こって来た。青山所有の田畑屋敷地なぞを手放す相談も引き続きはじまった。井の平畠は桝田屋へ、寺の上畠は伏見屋へ、陣場掲示場跡は戸長役場へというふうに。従来吉左衛門時代からの慣習として本陣所有の土地は、他の金利を見るような地主とは比較にもならないほど寛かな年貢を米で受け取ることになっていたが、どこの裏畠とか、どこの割畠とか、あるいはどこの屋敷地とかも、借財仕法立てのためにそれぞれ安く百姓たちに買ってもらうという話も始まった。そればかりでなく、馬籠旧本陣をこんな状態に導いたものは年来国事その他公共の事業にのみ奔走して家を顧みない半蔵であるとの非難さえ、家の内にも外にも起こって来た。これには半蔵は驚いてしまった。 |
宗太は、妻籠の正己(寿平次養子、半蔵の次男)および親戚旧知のものを保証人に立てて、父子別居についての一通の誓約書の草稿なるものを半蔵の前に持ち出した時のことであった。宗太が相談役と頼む栄吉、清助とも合議の上の立案である。それには今後家政上の重大な事について父に異見のある時は親戚からそれを承ろう、父子各自の身上についてはすべてかれこれと互いに異議をいれずに適宜に処置するであろう、神葬墓地の修繕を怠るまじきことはもとより庭園にある記念の古松等はみだりに伐採しないであろう、衣食住の三は寒暑に応じ適当の調進を欠くまいしかつ雑費として毎月一円ずつ必ず差し上げるであろうともしてある。これは必ずしも宗太の意志から出たことではなく、むしろその周囲にいていろいろと助言をしたがる親戚のために動かされた結果であるとしても、しかし半蔵はこんな誓約書の草稿を持ち出されたことすら水臭く思って、母屋の寛ぎの間の方へ行って見た。宗太もお槇もいた。見ると、その部屋の古い床の間には青光りのする美しい孔雀の羽なぞが飾ってある。それは家政を改革して維持の方法でも立てようとする宗太にはふさわしからぬほどのむなしい飾りと半蔵には思われた。塩と砂糖と藍よりほかになるべく物を買わない方針を執って来た自給自足の生活の中で、三千六百円もの大借がどうしてできたろうと思い、先代吉左衛門から譲られた記念の屋敷もどうなって行こうと思って、もしこの家政維持の方法が一歩をあやまるならせっかく東京まで修業に出した子供にも苦学させねばなるまいと思うと、かずかずの残念なことが一緒になって半蔵の胸にさし迫った。もともと青山の家督を跡目相続の宗太に早く譲らせたのも継母おまんの英断に出たことであるが、こんな結果を招いて見ると、義理ある子の半蔵よりも孫の宗太のかわいいおまんまでが、これには一言もない。 「先祖に対しても何の面目がある」。言おうとして、それを言い得ない半蔵は、顔色も青ざめながら、前後を顧みるいとまもなく腰にした扇子を執って、父の前に手をついた宗太を打ち励まそうとした。あわてて囲炉裏ばたからそこへ飛んで来たのはお民だ。先祖の鞭を意味するその半蔵が扇子は宗太に当たらないで、身をもって子をかばおうとするお民の眉間を打った。「お前たちは、なんでもおれがむやみと金をつかいからかすようなことを言う。ない、ないと言ったって、おれが宗太にこの家を譲る時には、七十俵の米ははいったはずだ。みんな失くしてしまうのはだれだ。たわけめ」。かつて宗太を責めたことのない半蔵も、その時ばかりは癇癪を破裂させてしまった。ひらめき発する金色な物の象はとらえがたい火花のように、その彼の目の前に入り乱れた。どうしたはずみからか、と言って見ることもできなかったが、留め役にはいったお民のさしている細い銀のかんざしが飛んで、彼女が左の眉の下を傷つけたのもその際である。彼女の顔からは血が流れた。何かの消えないしるしのように、小さな痣のような黒い斑点が彼女の顔に残ったのも、またその際である。やがて宗太の部屋を出てからも、半蔵が興奮は容易にやまなかった。彼は自分ながら、自分とも思われないような声の出たのにもあきれた。そういう一時の憤りや悲しみの沈まって行く時を迎えて見ると、彼は子ばかりをそう責められない。十八歳の若者でしかなかった宗太に跡目相続させたほどの、古い青山の家には用のないような人間であったその彼自身のつたなさ、愚かさを責めねばならない。彼は妻の前に手をついて、あやまって彼女を傷つけたことのわびを言い、自分で自分の性質を羞じなければならないようなことも起こって来た。 父子別居の話が追い追いと具体化して来ると、一層隠居のわびしさが半蔵の身にしみた。親戚旧知一同の協議の上、彼の方から宗太あてに差し出すべき誓約書とは、次のような文面のものである。それもまた栄吉や清助の立案によるものである。 誓約書
一、今回大借につき家政改革、永遠維持の方法を設くるについては、左の件々を確守すべき事。
一、家法改革につき隠宅に居住いたすべき事。
一、衣食住のほか、毎月金一円ずつ小使金として相渡さるべき事。
一、隠宅居住の上は、本家家務上につき万事決して助言等申すまじき事。その許の存念より出づる儀につき、かれこれ異議なきはもちろんの事。
一、隠宅居住の上は、他より金銭借り入れ本家に迷惑相かけ候ようの儀、決していたすまじき事。
一、家のために親戚の諫めを用い我意を主張すべからざる事。
一、飲酒五勺に限る事。
右親族決議によって我ら隠宅へ居住の上は前記の件々を確守し、後日に至り異議あるまじく候也。本人
明治十七年三月三日
半蔵
保証人
正己
省三
栄吉
又三郎
清助
小左衛門
伊之助
新助
庄助
宗太殿「お民、これじゃ手も足も出ないじゃないか。酒は五勺以上飲むな、本家への助言もするな、入り用な金も決して他から借りるなということになって来た。おれも、どうして年を取ろう」。半蔵が妻に言って見せたのも、その時である。 |
次男正己は妻籠の養家先から訪ねて来て、木曾谷山林事件の大長咄を半蔵のもとに置いて行ったことがある。正己の政治熱はお粂の夫弓夫とおッつ、かッつで、弓夫が改進党びいきならこれは自由党びいきであり、二十四歳の身空で正己が日義村の河合定義と語らい合わせ山林事件なぞを買って出たのも、その志士もどきの熱情にもとづく。もとよりこの事件は半蔵が生涯の中のある一時期を画したほどであるから、その素志を継続してくれる子があるなら、彼とても心からよろこばないはずはなかった。ただ正己らが地方人民を代表する戸長の位置にあるでもないのに、木曾谷十六か村(旧三十三か村)の総代として起ったことには、まずすくなからぬ懸念を誘われた。 長男の宗太も次男の正己も共に若い男ざかりで、気を負うところは似ていた、公共の事業に尽力しようとするところも似ていた。宗太の方は、もしその性格の弱さを除いたら、すなわち温和勤勉であるが、それに比べると正己は何事にも手強く手強くと出る方で、争い戦う心にみち、てきぱきしたことをよろこび、長兄のやり方なぞはとかく手ぬるいとした。この正己が山林事件に関係し始めたのは、第二回目の人民の請願も「書面の趣、聞き届けがたく候事」として、山林局木曾出張所から却下されたと聞いた明治十四年七月のころからである。そこで正己は日義村の河合定義と共に、当時の農商務卿西郷従道あてに今一度この事件を提出することを思い立ち、「木曾谷山地官民有区別の儀につき嘆願書」なるものを懐にして、最初に上京したのは明治十五年の九月であった。 正己らが用意して行ったその第三回目の嘆願書も、趣意は以前と大同小異で、要するに木曾谷山地の大部分を官有地と改められては人民の生活も立ち行きかねるから従来明山の分は人民に下げ渡されたいとの意味にほかならない。もっとも第二回目に十六か村の戸長らが連署してこの事件を持ち出した時は、あだかも全国に沸騰する自由民権の議論の最高潮に達したころであるから、したがって木曾谷人民の総代らも「民有の権」ということを強調したものであったが、今度はそれを言い立てずに、わざわざ「権利のいかんにかかわらず」と書き添えた言葉も目立った。なお、いったん官有地として処分済みの山林も古来の証跡に鑑み、人民の声にもきいて、さらに民有地に引き直された場合は他地方にも聞き及ぶ旨を申し立て、その例として飛騨国、大野、吉城、益田の三郡共有地、および美濃国は恵那郡、付知、川上、加子母の三か村が山地の方のことをも引き合いに出したものであった。農商務省まで持ち出して見た今度の嘆願も、結局は聞き届けられなかった。正己らは当局者の説諭を受けてむなしく引き下がって来た。その理由とするところは、以前の筑摩県時代に権中属としての本山盛徳が行なった失政は政府当局者もそれを認めないではないが、なにぶんにも旧尾州領時代からの長い紛争の続いた木曾山であり、全山三十八万町歩にもわたる名高い大森林地帯をいかに処分すべきかについては、実は政府においてもその方針を定めかねているところであるという。 正己は言葉を改めて心機の一転を半蔵の前に語り出したのもその時であった。彼はこれまで人民が執り来たった請願の方法のむだであることを知って来たという。木曾山林支局を主管する官吏は衷心においてはあの本山盛徳が定めたような山林規則の過酷なのを知り、人民の盗伐にも苦しみ、前途百年の計を立てたいと欲しているが、ただ自分らを一平民に過ぎないとし、不平の徒として軽んじているのである。これは不信にもとづくことであろうから、よろしく適当な縁故を求めて彼らと友誼を結び、それと親通するのが第一である。彼はそう考えて来たが、当時朝鮮方面に大いに風雲の動きつつあることを聞いて、有志のものと共にかの地に渡ることを約束し、遠からず郷里を辞するはずであるという。この朝鮮行きには彼はどれほどの年月を費やすとも言いがたいが、いずれ帰国の上はまた山林事件を取りあげて、新規な方針で素志を貫きたいとの願いであるとか。半蔵には正己の言うことが一層気にかかって来た。 「まあ、こういう事はとかく横道へそれたがりがちだ。これから先、どういう方針になって行こうと、山林事件の出発を忘れないようにしてくれ。おれがお前に言って置くことは、ただそれだけだ」。それぎり半蔵は山林事件について口をつぐんでしまった。彼が王滝の戸長遠山五平らと共に出発した最初の単純な心から言えば、水と魚との深い関係にある木曾谷の山林と住民の生活は決して引き放しては考えられないものであった。郡県政治の始まった際に、新しい木曾谷の統治者として来た本山盛徳は深くこの山地に注目することもなく、地方発達のあとを尋ねることもなく、容易に一本の筆先で数百年にもわたる慣習を破り去り、ただただ旧尾州領の山地を官有にする功名の一方にのみ心を向けて、山林と住民の生活とを切り離してしまった。まことの林政と申すものは、この二つを結びつけて行くところにあろうとの半蔵の意見からも、よりよい世の中を約束する明治維新の改革の趣意が徹底したものとは言いがたく、谷の前途はまだまだ暗かった。 |
三男の森夫と四男の和助が東京で撮った写真は、時をおいて、二枚ばかり半蔵の手にはいったこともある。遠く都会へ修業に出してやった子供たちのこととて、それを見た時は家じゅう大騒ぎした。一枚は正己が例の山林事件で上京のおりに、弟たちと一緒に撮って携え帰ったもの。ちょうど正己の養父寿平次も入れ歯の治療に同行したという時で、その写真には長いまばらな髯をはやした寿平次が妻籠の郵便局長らしく中央に腰掛けて写っている。寿平次も年を取った。その後方に当時流行の襟巻きを首に巻きつけ目を光らせながら立つ正己、髪を五分刈りにして前垂掛けの森夫、すこし首をかしげ物に驚いたような目つきをして寿平次の隣に腰掛ける和助――皆、よくとれている。伏見屋未亡人のお富から、下隣の新宅(青山所有の分家)を借りて住むお雪婆さんまでがその写真を見に来て、森夫はもうすっかり東京日本橋本町辺のお店ものになりすましていることの、和助の方にはまだ幼顔が残っていることのと、兄弟の子供のうわさが出た。今一枚の写真は、妻籠の扇屋得右衛門の孫がその父実蔵について上京したおりの土産である。浅草公園での早取り写真で、それには実蔵の一人子息と和助とだけ、いたいけな二少年の姿が箱入りのガラス板の中に映っている。「アレ、これが和助さまかなし。まあこんなに大きくならっせいたか。」。またしても伏見屋未亡人なぞはそのうわさだ。 半蔵は飛騨の旅から帰って幼いものの頭をなでて見た時のこころもちを忘れない。こんな二枚の写真を見るにつけても、彼は都会の方にいる子供らの成長を何よりの楽しみに思った。お粂夫婦の話によると、あの和助のことは旧岩村藩士で碁会所でも開こうという日向照之進方によく頼んで置いて来たと言うが、正己が東京に日向家を訪ねて見た時の様子では長く弟を託して置くべき家庭とも思われなかったという。その力量は立派に二、三段級の棋客の相手になれるが、長く独身でいて、三度三度の食事のしたくするにも物の煮えるのを待てないほど気がせわしく、早く煮て、早く食って、早く片づけて、さらにまた食い直したいと考えるような、せかせかした婦人が弟の世話をしていた。この人が日向の「姉さん」だ。見ると和助は青くなっている。この日向家から弟に暇を告げさせ、銀座四丁目の裏通りに住む木曾福島出身の旧士族野口寛の家族のもとに少年の身を寄せさせることにしたのも、正己の計らいからであった。半蔵の耳に入る子供の話はしきりに東京の方の空恋しく思わせるようなことばかり。下隣のお雪婆さんも一度上京のついでに、和助を見た土産話をさげて帰って来た。山家育ちの和助も今は野口家の玄関番で、訪ねて行ったお雪婆さんが帰りがけに見た時は、彼女の下駄まで他の訪問客のと同じように庭の敷石の上に直してあったと言って、あのいたずらの好きな子がと思うと、婆さんも涙が出たとか。 明治十七年の四月には半蔵は子供を見にちょっと上京を思い立った。万事倹約の際ではあったが、父兄に代わって子供の世話をしてくれる野口家の人たちが厚意に対しても、それを頼み放しにして置くことは彼の心が許さないからであった。この東京行きには、彼は中仙道の方を回らないで美濃路から東海道筋へと取り、名古屋まで出て行った時にあの城下町の床屋で髪を切った。多年古代紫の色の紐でうしろに結びさげていた総髪の風俗を捨てたのもその時であった。彼は当時の旅人と同じように、黒い天鵞絨で造った頭陀袋なぞを頸にかけ、青毛布を身にまとい、それを合羽の代わりとしたようなおもしろい姿であったが、短い散髪になっただけでもなんとなく心は改まって、足も軽かった。当時は西の京都神戸方面よりする鉄道工事も関ヶ原辺までしか延びて来ていない。東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線も政府の方針は東山道に置いてあったから、東海道筋にはまだその支線の起工も見ない。時には徒歩、時には人力車や乗合馬車などで旅して行って、もう一度彼は以前の東京の新市街とは思われないほど繁華になった町中に彼自身を見いだした。天金の横町と聞いて行って銀座四丁目の裏通りもすぐにわかった。周囲には時計の修繕をする店、大小の箒の類を売る店、あるいは鼈甲屋の看板を掛けた店なぞの軒を並べた横町に、土蔵造りではあるが見付きの窓や格子戸も「しもたや」らしい家の前には、一人の少年がせっせと手桶の水をかわいた往来にまいていた。それが和助だった。 |
この上京には半蔵も多くの望みをかけて行った。野口の人たちにあって、そこに修業時代を始めたような和助の様子を聞き、今後の世話をもよく依頼したいと思うことはその一つであった。国を出てもはや足掛け四年にもなる子を見たいと思うことはその一つであった。明治八年以来見る機会のなかった東京を再び見たいと思うこともまたその一つであった。野口の家の奥の部屋で、書生を愛する心の深い主人の寛、その養母のお婆さん、お婆さんの実の娘にあたる細君なぞの気心の置けない人たちが半蔵を迎えてくれた。主人の寛は植松弓夫と同郷で、代言人(今の弁護士)として立とうとする旧士族の一人であり、細君やお婆さんはこの人を助けて都会に運命を開拓しようとする健気な婦人たちであった。その時この家族の人たちはかわるがわる心やすい調子で、和助を引き取ってからこのかたのことを半蔵に話した。なにしろ木曾の山の中の木登りや山歩きに慣れた子供を狭苦しい都会の町中に置いて見ると、いたずらもはげしくて、最初のうちは近所の家々から尻の来るのにも困ったという。和助の世話をし始めたばかりのころは、お婆さん霜焼けが痛いと言って泣き出すほどの子供で、そのたびにそばに寝ているお婆さんが夜中でも起きて、蒲団の上から寒さに腫れた足をたたいてやったこともあるとか。でも、日に日に延びて行く子供の生長は驚くばかり、主人はじめ末頼もしく思っているから、そんなに心配してくれるなという話も出た。 そこは普通の住宅としても間取りの具合なぞは割合に奥行き深く造られてある。中央に廊下がある。高い明り窓は土蔵造りの屋内へ光線を導くようになっている。飼われている一匹の狆もあって、田舎からの珍客をさもめずらしがるかのように、ちいさなからだと滑稽な面貌とで廊下のところをあちこちと走り回っている。それも和助の友だちかとみて取りながら、半蔵は導かれて奥の二階の部屋に上がり、数日の間、野口方に滞在する旅の身ともなった。半蔵のそばへ来る和助は父が顔の形の変わったことにも驚かされたというふうで、どこでそんなに髪を短くしたかと尋ね、お父さんも開けて来たと言わないばかりの生意気ざかりな年ごろになっていた。子供はおかしなもので、半蔵が外出でもしようとする前に旅行用の小さな鏡の桐の箱にはいったのを取り出すと、すぐそれに目をつけ、お父さん、男が鏡を見るんですかと尋ねるから、そりゃ男だって見る、ことに旅に来ては鏡を見て容儀を正しくしなければならないと彼が答えたこともある。彼は和助の通う学校も見たく、その学校友だちをも見たい。子弟の教育に熱心な彼は邪魔にならない程度にその学窓の周囲をも見て行きたい。そこで、ある日、彼は和助に案内させてうわさにのみ聞く数寄屋橋わきの小学校へと足を向けた。ちょうど休日で、当時どの校舎でも高く掲げた校旗も見られず、先生方にもあえず、余念もなく庭に遊び戯るる男女の生徒らが声をも聞かれなかったが、卒業に近い課程を和助が学び修めているという教場の窓を赤煉瓦の建物の二階の一角に望むことはできた。思い出の深い常磐橋の下の方まで続いて行っている堀の水は彼の目にある。彼はその河岸を往復する生徒らがつまずきそうな石のあるのに気づき、それを堀のなかに捨てなどしながら、しばらく校舎の付近を立ち去りかねた。和助に聞くと、親しい学校友だちの一人が通って来る三十間堀もそこからそう遠くない。その足で彼はそちらの方へも和助に案内させて行って見た。 春先の日のあたった三十間堀に面して、こぢんまりとした家がある。亡き夫の忘れ形見に当たる少年を相手に、寂しい日を送るという一人の未亡人がそこに住む。おりから和助の学校友だちは家に見えなかったが、半蔵親子のものが訪ね寄った時はその未亡人をよろこばせた。彼は和助の見ている前で、手土産がわりに町で買い求めた九年母を取り出し、未亡人から盆を借りうけて、いきなりツカツカと座をたちながら、そこに見える仏壇の前へ訪問のしるしを供えたというものだ。その時の彼の振る舞いほど和助の顔を紅らめさせたこともなかった。父のすることはこの子には、率直というよりも奇異に、飄逸というよりもとっぴに、いかにも変わった人だという感じを抱かせたらしい。彼にして見ればかつて飛騨の宮司をもつとめたことのある身で、このくらいの敬意を不幸な家族に表するのは当然で、それに顔を紅らめる和助の子供らしさがむしろ不思議なくらいだった。彼は都会に遊学する和助の身のたよりなさを思って、東京在住の彼が知人の家々をも子に教えて置きたいと考える。そこで、ある日また、両国方面へと和助を誘い出した。 本所横網には隅田川を前にして別荘風な西洋造りの建物がある。そこには吉左衛門時代から特別に縁故の深い尾州家の老公(徳川慶勝)が晩年の日を送っている。老公と半蔵との関係は、旧い木曾谷の大領主と馬籠の本陣問屋庄屋との関係である。半蔵は日ごろ無沙汰のわびをかねて老公を訪ね、その人の前へ和助を連れて出た。彼は戊辰前後の国事に尽力したことにかけては薩長諸侯に劣らない老公のような人をも自分の子に見て置けというつもりで、当時和助が東京の小学校に在学するよしを老公に告げた。老公が和助の年齢を尋ねるから、半蔵は十三歳と答えながら、和助の鉛筆で写生した築地辺の図なぞを老公の笑い草にそなえた。その時も和助は父のそばにいて、ただただありがた迷惑なような顔ばかり。本所横網の屋敷を辞してから、半蔵が和助を案内して行ったのは旧両国広小路を通りぬけて左衛門橋を渡ったところだ。旧いなじみの多吉夫婦が住む左衛門町の家だ。和助はどうして父がそんな下町風の家の人たちと親しくするのか何も知らないから、一別以来の話が出たり、飛騨の山の話が出たり、郷里の方の話まで出たりするのをさも不思議そうにしていた。久しぶりの半蔵が子まで連れて訪ねて行ったことは、亭主の多吉やかみさんのお隅をよろこばせたばかりでなく、ちょうどそこへ来合わせている多吉夫婦の娘お三輪をも驚かした。お三輪ももううつくしい丸髷姿のよく似合うような人だ。「へえ。青山さんには、こんなお子さんがおありなさるの」と言いながら、お三輪は膝を突き合わせないばかり和助の前にすわって、何かこの子をよろこばせるようなものはないかと母親に尋ね、そこへお隅が紙に載せた微塵棒を持って来ると、お三輪はそれを和助のそばに置いて、これは駄菓子のたぐいとは言いながら、いい味の品で、両親の好物であるからと言って見せたりした。 |
父と共にある時の和助が窮屈にのみ思うらしい様子は、これらの訪問で半蔵にも感じられて来るようになった。この上京には、どんなにか和助もよろこぶであろうと思いながら出て来た半蔵ではあるが、さて、足掛け四年ばかりもそばに置かない子と一緒になって見ると、和助はあまり話しもしない。父子の間にはほとほと言葉もない。ただただ父は尊敬すべきもの、畏るべきもの、そして頑固なものとしか子の目には映らないかのよう。この少年には、父のような人を都会に置いて考えることすら何か耐えがたい不調和ででもあるかのようで、やはり父は木曾の山の中の方に置いて考えたいもの――あのふるさとの家の囲炉裏ばたに、祖母や、母や、あるいは下男の佐吉なぞを相手にして静かな日を送っていてほしいとは、それがこの子の注文らしい。どうやら和助は、半蔵が求めるような子でもなく、彼の首ッ玉にかじりついて来るような子でもなく、追っても追っても遠くなるばかりのような子であった。これには彼は嘆息してしまった。どれほどの頼みをかけて、彼もこの子を見に都の空まではるばると尋ねて来たことか。 再び見る東京の雑然紛然とした過渡期の空気に包まれていたことも、半蔵の想像以上であった。彼も二、三日野口の家から離れてひとりであちこちの旧知を尋ねたり、森夫の奉公する日本橋本町の紙問屋へ礼に寄ったりしたから、その都度、大きな都会の深さにはいって見る時をも持った。漆絵の画いてある一人乗りないし二人乗りの人力車がどれほど町にふえて来たと言って見ることもできないくらいで、四、五人ずつ隊を組んだ千金丹売りの白い洋傘が動いて行くのも彼の目についた。新旧の移動が各自の生活にまで浸って来たこともはなはだしい。彼は故人となった師鉄胤の弔みを言い入れに平田家を訪ねようとして、柳原の長い土手を通ったこともある。そこには糊口の途を失った琴の師匠が恥も外聞も思っていられないように、大道に出て琴をひくものすらあった。同門の医師金丸恭順のもとに一夜を語り明かして、その翌日今一度旧いなじみの多吉夫婦を見に左衛門町の家の格子戸をくぐったこともある。そこには樋口十郎左衛門のような真庭流の剣客ですらしばらく居候として来て、世が世ならと嘆き顔に身を寄せていたという話も出た。 剣道はすたれ、刀剣も用うるところなく、良心ある刀鍛冶は偽作以外に身の立てられないのを恥じて百姓の鍬や鎌を打つという変わり方だ。一流の家元と言われた能役者が都落ちをして、旅の芸人の中にまじるということも不思議はなかった。これらが何を意味するかは、知る人は知る。幾世紀をかけて積み上げ積み上げした自国にある物はすべて価値なき物とされ、かえってこの国にもすぐれた物のあることを外国人より教えられるような世の中になって来た。 しかし、これには拍車をかける力の追い追いと加わって来たのを半蔵も見のがすことはできなかった。外来の強い刺激がそれだ。当時この国の辱とする治外法権を撤廃して東洋に独立する近代国家の形態をそなえたいにも、諸外国公使はわが法律と法廷組織の不備を疑い、容易に条約改正の希望に同意しないと聞くころである。まったく条約改正のことは、欧米諸国のことはおろか、東洋最近の事情にすら疎かった過去の失策のあとを承けて、この国の前途に横たわる最大の難関であるとは、上下をあげてそれを感じないものもない。岩倉、大久保、木戸らの柱石たる人々が廃藩置県直後の国を留守にし三年の月日を海の外に送っても成し遂げることのできなかったこの難関を突き破るために、時の政治家はあらゆる手段を取りはじめたとも言わるる。法律と法廷組織の改正、法律専攻の人士の養成、調査委員の設置、法律専門の外国人の雇聘、法律研究生の海外留学、外国法律書の翻訳なぞは、皆この気運を語らないものはない。もとより条約改正の成否は内閣の死活にもかかわるところから、勢力のある政治家はいかなる代償を払ってもこの国家の大事業に当たろうとし、従前司法省にあった法律編纂局を外務省に移し、外人を特に優遇し、外人に無礼不法の挙があってもなるべくそれを問わないような時が、多くのものの目の前にやって来ていた。その修正案の主要な項目なるものも、外人に対して実に譲りに譲ったものであった。第一、日本法廷の裁判官中に三十人ないし四十人の外国人判事を入れ、また十一人の外国人検事を入るる事。第二、法律を改正し、法廷用語は日英両国の国語となす事。第三、外国人に選挙権を与うる事。これほどの譲歩をしてまでも諸外国公使の同意を得ようとした当局者の焦躁から、欧風に模した舞踏会を開き、男女交際法の東西大差ないのを粧おうとすることも起こって来た。仮装も国家のため、舞踏も国家のため、夜会も国家のため、その他あらゆる文明開化の模倣もまた国家のためであると言われた。交易による世界一統が彼の勇猛な目的を決定するものであるとすれば、我もまた勢いそれを迎えざるを得ない。かつては金銭を卑しみ、今は金銭を崇拝する、それは同じことであった。この気運に促されて、多くの気の鋭いものは駆け足してもヨーロッパに追いつかねばならなかった。 あわれな世ではある、と半蔵は考えた。過ぐる十五、六年の間この国ははたして何を生むことができたろう。遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたころには、人はこれほど無力ではなかったとも考えた。まことの近つ代を開くために生まれて来たような本居宣長の生涯なぞがこんな時に顧みられようはずもなかった。橋本雅邦は海軍省の製図に通うといい、狩野芳崖も荒物屋の店に隠れた。 おそらくもう一度来て見る機会はあるまいと思いながら、やがて悄然とした半蔵が東京を去ったのもこの旅である。とにもかくにも彼は二人の子にあい、その世話になる人々に礼を述べ、知人の家々を訪ねて旧交を温めただけにも満足しようとした。帰路には彼はやはり歩き慣れた木曾街道をえらんで、板橋経由で郷里の方に向かった。旅するものには、いずこの宿場の変遷も時の歩みを思わせるころである。道すがらの彼の心はよく四人の男の子の方へ行った。庄屋風情ながらに物を学ぶ心の篤かった先代吉左衛門が彼に呼びかけた心は、やがて彼が宗太にも正己にも森夫にも和助にも呼びかける心で、後の代を待つ熱いさびしい思いをその四人に伝えたいと願うからであった。ことに彼が未熟な和助を頼みにするというのも、それは彼とお民との間に生まれた末の子というばかりでなく、「和助は学問の好きなやつだで、あれはおれの子だで」とお粂夫婦の前でも言って見せたくらいだからであった。せめて末の子だけには学ばせたい、とは彼が心からの願いであったのだ。どうだろう、その子もまた父の心を知らないとしたら。子は母親本位のもので、父としての彼はただ子の内部を通る赤の他人のような旅人に過ぎないとしたら。「もうもう東京へ子供を見に行くことは懲りた」とは彼が郷里に帰り着いてから家のものに言って見せた言葉だ。 その年の夏は、いよいよ宗太夫婦との別居の履行された時であった。半蔵が和助を見に行って深く落胆して帰って来たというのも、子を思う心が深ければこそだ。隠宅の方へお民と共に引き移る日を迎えてからも、彼は郷里の消息を遠く離れている子にあてて書き送ることを忘れなかった。彼はその小楼を和助にも見せたいと書き、二階から見える山々の容の雲に霧に変化して朝夕のながめの尽きないことを書き、伏見屋の三郎と梅屋の益穂とが本を読みに彼のもとへ通って来るたびによく和助のうわさが出ることを書き、以前に伊那南殿村の稲葉家(おまんの生家)からもらい受けて来た杏の樹がその年も本家の庭に花をつけたが、あの樹はまだ和助の記憶にあるだろうかと書いた。時にはまた、本家の宗太も西筑摩の郡書記を拝命して木曾福島の方へ行くようになったが交際交際で十円の月給ではなかなか足りそうもないと書き、しかし家の整理も追い追いと目鼻がついて来たことを書き、この家計の骨の折れる中でも和助には修業させたい一同の希望であるからそのつもりで身を立ててくれよと書き、どうかすると娵女のお槇が懐妊したから和助もよろこべというようなことまで書いてそばにいるお民に笑われた。「そんな、あなたのような、お槇の懐妊したことまで東京へ知らせてやるやつがあるもんですかね」。 これには彼も一本参った。しかし古い家族の血統を重く考える彼としては、青山の血を伝えにこれから生まれて来るもののあるその新しいよろこびを和助にまで分けずにはいられなかった。そんなおとなの世界をのぞいて見るようなことが、どう少年の心を誘うであろうなぞと想って見る暇もないのであった。和助もあれで手紙を書くことはきらいでないと見えて、追い追いと父のもとへ便りをしてよこす。それが学校の作文でも書くように半紙に書いてあるのを彼は何度も繰り返し読み、お民にもまた読み聞かせるのを何よりの心やりとする。彼は遠く離れていながらも、いろいろと和助を教えることを怠らなかった。手紙はどういうふうに書くものだとか、本はどういうものを読むがいいとかいうふうに。 |
やがて成長ざかりの子が東京の方で小学の課程を終わるころのことであった。半蔵は和助からの長い手紙を受け取った。それには少年らしい志望が認めてあり、築地に住む教師について英学をはじめたいにより父の許しを得たいということが認めてある。かねてそんな日の来ることを憂い、もし来たらどう自分の子を導いたものかと思いわずらってもいた矢先だ。とうとう、和助もそこへ出て来た。これまで国学に志して来た彼としては、これは容易ならぬ話で、彼自身にはいれなかった洋学を子にやらせて見たいは山々ではあったが、いかに言っても子は憐むべき未熟なもので、まだ学問の何たるを解しない。彼が東京の旅で驚いて来た過渡期の空気、維新以来ほとほと絶頂に達したかと思われるほど上下の人の心を酔わせるような西洋流行を考えると、心も柔らかく感じやすい年ごろの和助に洋学させることは、彼にとっては大きな冒険であった。この子もまた時代の激しい浪に押し流されて行くであろうか。それを思うと、彼は幾晩も腕組みして考えてしまった。もっとも、結局和助の願いをいれたが。 本家土蔵の二階の上、あの静かな光線が鉄格子を通して西の窓からさし入るところは、中央に置き並べた継母と妻との二つの古い長持を除いたら、名実共に青山文庫であった。先代吉左衛門と半蔵と父子二代かかって集めた和漢の書籍は皆そこに置いてある。吉左衛門の残した俳書、岐岨古道記をはじめこの駅路に関する記録も多い。半蔵の代になって苦心して書物を集めることは、何十年来の彼の仕事の一つと言ってもよかったが、ことに万葉は彼の愛する古い歌集で、それに関する文献は彼の手の届くかぎり集められるだけ集めてある。階上の壁面によせて積み重ねてあるそれらの本箱の前をあちこちと歩き回る時ばかり、彼のたましいの落ちつくこともない。また、古人のいう夏の炉か冬の扇のような、今は顧みるものもなく、用うるところもなく、子にすら読まれないそれらの書物に対する時ばかり、後の代を待つ心を深くすることもない。家法改革のため、土蔵の階下までも明け渡さねばならない時がやって来てからは、それに気がさして、彼はめったにあの梯子段を登って行って見ることもない。 |
三 |
「おいで」。呼ぶものは半蔵。呼ばれるものは馬籠の村の子供。もはや旧い街道へも六月下旬の午後の日のあたって来ているころである。「さあ、いいものあげるから、おいで」とまた半蔵が呼んでも、子供は輪回しの遊びに夢中な年ごろで、容易に彼の方へ飛んで来ようともしない。おもちゃというおもちゃは多く手造りにしたもので間に合わせる馬籠の子供のあいだには、桶の箍を回して遊び戯れることがまた流行って来た。この子供も手に竹の輪をさげている。「こんなに呼んでも、来ないところを見ると、あれは賢いものじゃないと見える」。この「賢いものじゃないと見える」が子供を釣った。子供は彼のそばへ走り寄った。その時、彼は自分の袂に入れていた巴旦杏を取り出して、青い光沢のある色も甘そうに熟したやつを子供の手に握らせた。そして彼の隠宅の方へとその子供を連れて行った。こんな調子で、半蔵は『童蒙入学門』や『論語』なぞを読ませに村の子供らを誘い誘いした。その時になっても彼は無知な百姓の子供を相手にして、教えて倦むことを知らなかった。普通教育の義務年限も定められずにあるころで、村には読み書きすることのきらいな少年も多く、彼の周囲はまだまだ多くの迷信にみたされていた。どうかするとにわかに顔色も青ざめ、口から泡を出す子供なぞがあると、それが幼いものの病気とは見られずに、狐のついた証拠だと村の人から騒がれるくらいの時だ。 静の屋へ通って来る半蔵が教え子はひとり馬籠生まれのものに限らなかった。一里も二里もある山道を草鞋ばきでやって来るような近村の少年もめずらしくない。湯舟沢からも、山口からも、あるいは妻籠からも、馬籠には彼を師と頼んで何かと教えを受けに来る二、三の女の子もある。そういう中に置いて見ると、さすがは伏見屋の三郎と梅屋の益穂との進み方は目立った。この二人はすでに漢籍も『通鑑』を読む。いつのまにか少年期から青年期に移る年ごろにも達している。三郎らに次いでは、村社諏訪分社の禰宜松下千里の子息にあたる千春が荒町から通って来る。和助と同年の千春もすでに十五歳だ。「お師匠さま、お師匠さま」と言って慕って来るこれらの教え子の書体までが自分のに似通うのを見るたびに、半蔵は東京の方にある和助のことをよく思い出すのであった。彼はお民に言った。「妙なものだなあ。おれなぞはおまえ、明日を待つような量見じゃだめだというところから出発した。明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日はいつまで待っても来やしない。今日はまた、またたく間に通り過ぎる。過去こそ真だ――それがおまえ、篤胤先生のおれに教えてくだすったことさ。だんだんこの世の旅をして、いろいろな目にあううちに、いつのまにかおれも遠く来てしまったような気がするね。こうして子供のことなぞをよく思い出すところを見ると、やっぱりおれというばかな人間は明日を待ってると見える」。 こんな寝言もちんぷん、かんぷんとしか聞こえないお民の耳には、めずらしくも禁酒を思い立ったという夫の言葉の方が彼女にはうれしかった。「なあ、お民。どうも酒はよくない。飲み過ぎるとおれは眠られない。こないだは、宗太や親類には内証で堅い誓約を破ってしまった。おれも我慢がしきれなかったからさ。さあ、それから眠られない。五晩も六晩もそんな眠られないことが続くうちに、しまいにはおれも書き置きを書こうかとまで思ったくらい苦しかった。ほんとに、冗談じゃない。いろはにほへとと同じことを枕の上で繰り返して見たり、一二三四と何べんとなく数えて見たりして、どうかしておれは眠りたいと思った。そのうちに眠られた。もうあんなことは懲り懲りした。ここまで来ないと、酒はやめられないものかもしれないナ」。「そりゃ、あなた、できればここでふッつりお断ちなさるがいい。そう思って、わたしはもうお酒の道具を片づけてしまいましたよ」。「まあ、晩酌に五勺ばかりやって見たところでまるで、雀が水を浴びるようなものさ。なかなか節酒ということが行なわれるもんじゃない。飲むなら飲む、飲まないなら全く飲まない――この二つだ」。 |
九月の来るころまで、とにもかくにも半蔵の禁酒が続いた。その一夏の間、静の屋の二階からは澄んだ笛の音が屋外までもれてよく聞こえた。ひとりいる時の半蔵が吹き鳴らした音だ。木曾特有な深い緑の憂鬱が谷や林の間を暗くしたころに、思い屈した彼の胸からは次ぎのような言葉もほとばしり流れて来た。 思レ国、思レ君、思レ家、思レ郷、思レ親、思二朋友妻子親族一。百思千慮胸中鬱結不レ勝二憂嘆一。起望二西南諸峯一。山蒼々。壑悠々。皆各有二自得之趣一。頼二斯観一以得レ慰。彼百憂者、真天公之錫也哉。
思ひ草しげき夏野に置く露の千々にこころをくだくころかな
半蔵ももはや五十六歳だ。人がその年ごろにもなれば、顔の形からして変わらないものもまれである。一人の人の中に二人ぐらいの人の住んでいない場合もまれである。半蔵とてもそのとおり、彼の中に住む二人の人は入れかわり立ちかわり動いて出て来るようになった。あの森夫がまだ上京しない前、お民はいたずらのはげしい森夫にあきれて本家の表玄関のところに子をねじ伏せ、懲らしめのために灸をすえると言い出し、その加勢にお槇を呼んで、お槇お前も手伝っておくれ、この子の足を押えていておくれと言った時、じたばたもがき苦しむ子のすがたを見ていられなくて、灸をすえることを許してやってくれとお民に頼んだ人も彼であるし、かつて宗太を責めたことのない彼が扇子を取り出して子の面を打ち励まそうとまでした人も彼である。ある時は静の屋に隠れていて、静かに見れば物皆自得すと言った古人の言葉を味わおうと思い、ある時は平田篤胤没後の門人がこんなことでいいのかと考え、まだ革新が足りないのだ、破壊も足りないのだと考えるのも、その同じ彼だ。やがて残った暑さの中にも秋気が通って来て、朝夕はそこいらの石垣や草土手で鳴く蟋蟀の声を聞くようになった。ある夜の明けがた、半蔵は隠宅の下座敷にお民と枕をならべていて不思議な心地をたどった。その時の彼は妻にも見られないように家を抜けて、こっそり町へ酒を買いに出た人である。大戸がある。潜り戸がある。杉の葉の円く束にしたのが街道に添うた軒先にかかっている。戸をたたくと内には人が起きていて、彼のために潜り戸をあけてくれる。そこは伏見屋の店先で、二代目伊之助がみずから樽の前に立ち、飲み口の栓を抜いて、流れ出る酒を桝に受け、彼の方から差し出した徳利にそれを移して売ってくれる。それまではよかったが、彼は隠し持つ酒を携え帰る途中でさまざまな恐ろしい思いをした。そして、家まで帰り着かないうちに、目がさめた。 しばらく盃を手にしない結果が、こんな夢だ。彼の内部にはいろいろなことも起こって来るようになった。妙に気の沈む時は、部屋にある襖の唐草模様なぞの情のないものまでが生き動く物の形に見えて来た。男女両性のあろうはずもない器物までが、どうかすると陰と陽との姿になって彼の目に映って来た。小半日暮らした。その彼が周囲を見回したころは夕方に近い。お民は本家の手伝いから帰って来て、隠宅の台所で夕飯のしたくを始める。とにもかくにも一夏の間、自ら思い立って守りつづけて来た飲酒の戒も、妙な夢を見たために捨てたくなったことを彼はお民に話し、これでは無理だと思って来たのもその夢からであったと彼女の前に白状した。その時、お民は襷がけのまま、実はしばらく見えなかった落合の勝重が最近にまた訪ねて来てくれた時に置いて行った酒のあることを夫に告げた。彼女はそれを夫に隠して置いたことをも告げた。「ホ、落合の酒をくれたか。勝重さんはこの四月にもおれのところへさげて来てくれたッけが」。「なんでも、あの人はあなたの禁酒したことを知らなかったんですとさ。どうも失礼した、お師匠さまには内証にしてくれなんて、そう言って、これは煮ものにでも使うようにッて置いて行きましたよ」。 こんな言葉をかわした後、間もなくお民はしたくのできた膳を台所から運んで来た。憔悴した夫のためにつけた一本の銚子をその膳の上に置いた。「こりゃ、めずらしい。お民はほんとうにおれに飲ましてくれるのかい」。半蔵はまるでうそのように好きな物にありついて、盃にあふれるその香気をかいだ。そして元気づいた。お民はその夫の顔をながめながら、「そう言えば、こないだというこないだは、わたしもびッくりしましたよ」。「うん、あの話か。あんなことは、めったにないやね。なにしろ、お前、変なやつが来てこの庭のすみに隠れているんだろう。あいつは恐ろしいやつさ。このおれをねらっているようなやつさ。おれもたまらんから、古い杉ッ葉に火をつけて、投りつけてくれた。もうあんなものはいないから安心するがいい」。「ほんとに、あなたも気をつけてくださらなけりゃ……」。実際、半蔵にはそんなことも起こって来ていた。つましくはあるが、しかし楽しい山家風な食事のうちに日は暮れて行った。街道筋に近く住むころともちがい、本家の方ではまだ宵の口の時刻に、隠宅の周囲はまことにひっそりとしたものだ。谷の深さを思わせるようなものが、ここには数知れずある。どうかすると里に近く来て啼く狐の声もする。食後に、半蔵は二階へも登らずに、燈火のかげで夜業を始めたお民を相手に書見なぞしていたが、ふと夜の空気を通して伝わって来る遠い人声を聞きつけて、両方の耳に手をあてがった。「あ――だれかおれを呼ぶような声がする」と彼はお民に言ったが、妻には聞こえないというものも彼には聞こえる。彼はまた耳を澄ましながら、じっとその夜の声に聞き入った。 |
十五夜には、半蔵も村の万福寺の松雲和尚から月見の客の一人に招かれた。今さらここにことわるまでもなく、青山の家と万福寺との関係は開山のそもそもからで、それほど縁故の深い寺ではあるが、例の神葬改典以来は父祖の位牌も多く持ち帰り、わずかに万福寺の開基と中興の開基との二本の位牌を残したのみで、あの先祖道斎が建立した菩提寺も青山の家からは遠くなった。こんな事情があるにもかかわらず住持の松雲はわざわざ半蔵の隠宅まで案内の徒弟僧をよこすほどの旧を忘れない人である。 招かれて行く時刻が来た。半蔵は隠宅を出た。まだ日も暮れきらないうちであったが、空には一点の雲もなく、その夜の月はさぞと、小集の楽しさも思われないではない。しかし、彼の足は進まなかった。妙に心も寒かった。ためらいがちに、彼はその寺道を踏んで行った。そして、しばらくぶりで山門の外の石段を登った。数体の観音の石像の並ぶ小高い石垣の斜面に沿うて、万福寺の境内へ出た。そこにひらける本堂の前の表庭は、かつて彼の発起で、この寺に仮の教場を開いたころの記憶の残る場所である。経王石書塔の文字の刻してある石碑が立つあたり、古い銀杏の樹のそばにある鐘つき堂の辺、いずれも最初の敬義学校の児童が遊び戯れた当時を語らないものはない。「おゝ、お師匠さまが見えた」という寺男の声を聞いて、勝手を知った半蔵は庫裡の囲炉裏ばたの方から上がった。彼は松雲が禅僧らしい服装でわざわざその囲炉裏ばたまで出て迎えてくれるのにもあった。やがて導かれて行ったところは住持の居間である。古い壁に達磨の画像なぞのかかった方丈である。そこにはすでに招かれて来ている二、三の先着の客もある。旧組頭笹屋庄助、それから小笹屋勝七の跡を相続した勝之助の手合いだ。馬籠町内でもことに半蔵には気に入りの人たちだ。こんな顔ぶれを集めての催しである上に、主人の松雲は相変わらずの温顔で、客に親疎を問わず、好悪を選ばずと言ったふうの人だ。 まず寺にも異状はない。そのことに、半蔵はやや心を安んじた。柿、栗、葡萄、枝豆、里芋なぞと共に、大いさ三寸ぐらいの大団子を三方に盛り、尾花や女郎花の類を生けて、そして一夕を共に送ろうとするこんな風雅な席に招かれながら、どうして彼は滑稽な、しかもまじめな心配に息をはずませ、危害でも加えに来るものを用心するかのようなばからしくくだらないことを考えて、この寺道を踏んで来たろうと、自分ながらも笑止に思った。松雲は茶菓なぞを徒弟僧に運ばせ、慇懃に彼をももてなした。ふと彼が気づいて見ると、この寺で出す菓子の類にも陰と陽とがある。彼もほほえまずにいられなかった。まだ客の顔はすっかりそろわなかったから、そこに集まったものの中には、庭の見える縁側にすべり出、和尚の意匠になる築山泉水の趣をながめるものがある。夕やみにほのかな庭のすみの秋萩に目をとめるものもある。その間、半蔵は座を離れて、寺男から手燭を借りうけ、それに火をとぼし、廊下づたいに暗い本堂の方へ行って見た。位牌堂に残してある遠い先祖が二本の位牌を拝するためであった。 間もなく方丈では主客うちくつろいでの四方山の話がはじまった。点火もわざと暗くした風情の中に、おのおの膳についた。いずれも草庵相応な黒漆を塗った折敷である。夕顔、豆腐の寺料理も山家は山家らしく、それに香味を添えるものがあれば、それでもよい酒のさかなになった。同じ大根おろしでも甘酢にして、すり柚の入れ加減まで、和尚の注意も行き届いたものであった。塩ゆでの枝豆、串刺しにした里芋の味噌焼きなぞは半蔵が膳の上にもついた。庄助は半蔵の隣の席にいて、「へえ、お師匠さまは酒はおやめになったように聞いていましたが、またおはじめになりましたかい」。これには半蔵もちょっと挨拶に困った。正直者で聞こえた庄助は、飲めばすこししつこくなる方で、半蔵が様子を黙って見てはいなかった。 一同の待ち受ける秋の夜の光が寺の庭に満ちて来たころ、半蔵はまだ盃を重ねていた。いったん、やめて見た酒も、口あたりのよいやつを鼻の先へ持って来ると、まんざらでもない。それに和尚の款待ぶりもうれしくて、思わず彼はいい心持ちになるほど酔った。でも、彼のはそう顔へは発しなかった。やがて彼は人々と共に席を離れて縁側へ出て見たが、もはやすこし肌寒いくらいの冷えびえとした空気がかえって彼に快感を覚えさせた。そこここの柱のそばには、あるいはうずくまり、あるいは立ちして、水のように澄み渡った空をながめるものもある。そこは方丈から客殿へ続く回り縁になっていて、さらに本堂の裏手、位牌堂までも続いて行っている。客殿と位牌堂との間には渡れる橋もある。彼はそんな方までも歩いて行って、昼間のように明るい夜の光の照らしている橋の上にも立って見た。ふと、庭の暗いすみにうずくまる黒いものの動きが彼の目に映った。そんなところに隠れながら彼を待ち伏せしているようなやつだ。彼はその怪しい人の影をありありと見た。にわかに酒の酔いのさめたのもその時であった。顔色も青ざめながら方丈へ引き返した。「わたしは失礼する」と松雲に断わりを言って置いて、他の客より一足先に寺を辞し去ろうとしたのも、その半蔵だ。 庄助は半蔵が飲み過ぎからとでも思ったかして、囲炉裏ばたまでついて来て、土間に下駄をさがす時の彼に言った。「お師匠さま、お前さまはもうお帰りか。お一人で大丈夫かなし。門前の石段は暗いで、お寺で提灯でも借りてあげずか」。「なあに、こんな月夜に提灯なぞはいらん」。 |
「もうお師匠さまも帰りそうなものだ」。隠宅では、半蔵の留守に伏見屋の三郎と梅屋の益穂とが遊びに来て、お民と共に主人の帰りを待っている。お民は古い将棋盤なぞを出して来て三郎らにあてがったので、二人の弟子は駒の勝負に余念もない。その古い将棋盤は故吉左衛門の形見として静の屋に残ッているものだ。「さあ、早くさしたり」。「待った」。「いつまでそんなに考え込むんだ」。「手には」。「角桂に、歩が六枚」。下座敷の縁側に近く盤を置いて、二人の弟子はそんなことを言い合っている。しばらく縁側に出て月を見ていたお民が二人のいる方へ来て見ると、三郎は相手の長い「待った」に気を腐らして、半分ひとり言のようにお民に言った。「お師匠さまも、あれで将棋でもなさると、いいがなあ」。「いいがなあのようなことだ」とお民は笑って、思わず三郎の言葉に釣り込まれながら、「ほんとに、うちは道楽というもののすくない人ですね。弓をやるじゃなし、鳥屋に凝るじゃなし、暇さえあれば机に向かって本を読んでばかり。この節は気がふさいでしかたがないと言いますから、どんなふうに気分が悪いんですかッて、わたしは聞いて見ました。なんでも、こうすわっていますと、そこいらが暗くなって来るらしい――暗い、暗いッて、よくそんなことを言いましてね」。お民は夫の健康が気にかかるというふうに、それを三郎に言って見せた。じっと盤をにらんだ益穂の長考はまだ続いていた。そこへ月を踏んで来る人の足音がした。お民はその足音で、すぐそれが夫であることを聞き知った。師匠の帰りと聞いて、益穂も今はこれまでと、手に持つ駒を盤の上に投げてしまった。 何げなく半蔵は隠宅に帰って来て二人の弟子にも挨拶したが、心の興奮は隠せなかった。お民は夫に近く寄ってまず酒くさい息を感じた。「お民、二階へ燈火をつけてくれ。それから、毛氈を敷いてくれ。まだそんなにおそくもないんだろう。こんな晩には何か書いて遊びたい」。半蔵はその足で二階の梯子段を登った。三郎や益穂をも呼んで、硯筆の類を取り出し、紙をひろげることなぞ手伝わせた。墨も二人の弟子に磨らせた。「どれ、一つ三郎さんたちにお目にかけるか」と言いながら、半蔵がそこへ取り出したのは、平素めったに人にも見せたことのない壮年時代の自筆の所感だ。それは、水戸浪士がこの木曾街道を通り過ぎて行ったあとあたり、彼が東美濃や伊那の谷の平田同門の人たちとよく相往来したころにできたものだ。さすがに筆の跡も若々しく、書いてあることもまた若々しい。それを彼は二人の弟子に読み聞かせた。 天地生二万物一、人為二最霊一也。人之能為レ霊、以二其有一レ霊レ於レ心也。凡物多レ類。野有二千艸一、山有二万木一。一視則均是艸木也。然艸有二蘭菊之芳一、而木有二松柏之操一焉。人亦猶如レ此也。人之能超レ群者、其霊之能勝レ於二衆霊一也。尋常之物、雖レ有二千百一、同此一様、而猶三艸木之無二芳操一者也。卓出之物、有レ一則一、十則十、皆有レ裨三益於二国家一也、猶三艸木之於二松菊一也。惟菊也、松也、一視則直知三其為二秀英一也。人之賢愚以レ心、不レ以レ形、故不レ可二遽見一也。蓋心之霊在レ思。其霊最覚者、思弥遠矣。而愚也非レ所レ敢也。然人心不レ能レ無レ思。而吾性所レ思最多常鬱三陶于二心胸一也。陳レ之、列レ之、以熟二思其所思一、其有レ所レ得乎。吾素微躯、惟守二其業一、仰以事レ親、俯以養二妻子一、則能事畢焉。何其媚レ世求レ容レ之為也。雖レ然、如レ此而生、如レ此而死、焉在三其為二万物之霊一也。竊観二昔人之所一レ為。有二以レ文鳴者一。有二以レ武知者一。有二直諫而死者一。有二忠亮而終始一如者一。有二信義以自守者一。有二私淑而自修者一。有二見レ危致レ命者一。有二良図建レ功者一。有二英断果決見レ過則能改者一。有下苟喪二其人一則失二千載之伝一者上。有下常思二四方之遠一不レ忘二民之細故一者上。有下善察二百世之後一憂二国家之憂一者上。有下禁レ暴戡レ乱能畏二服四方一者上。有下歴二記百世之事一以伝レ于二将来一者上。凡事如レ此。則非三一身之所二能為一也。然則従二吾所レ好者一乎。
読みかけて、「しからばすなわち、わが好むところのものに従わんか」の最後のくだりになると、五十余年の数奇な生涯が半蔵の胸に浮かんで来た。見るもの聞くもの涙の種でないものはなかったようなところすら通り越して、今は涙も流れなかった。 |
その晩、半蔵は弟子を相手にして、しきりに物を書いた。静の屋ではまだ行燈しか用いなかったが、その燈火では暗かったから、彼は三郎らに手燭を持たせ、蝋燭の灯に映る紙の上に和歌なぞを大きく、しかもいろいろに書いて遊んだ。あるものは仮名文字、あるものは真名文字というふうに。それを三郎にも益穂にも分けると、二人は大よろこびで持ち帰ったころは夜もおそかった。そのあとにはむさぼるようにまだ何か書きたい半蔵が残った。その興奮には止め度がなかったので、しまいには彼は二階の燈火を吹き消して階下へ休みに降りたくらいだ。「あなた、また眠られないといけませんよ。すこし召し上がり過ぎたんじゃありませんか。あなたのお酒は顔色に出ないんだから、はたのものにはわからない」と言って、そばへ寄ったのはお民だ。半蔵は下座敷の内を静かに歩き回ったり、また妻のいるところへ近く行ったりして、「お民、もう何時だろう。お前にはまだ話さなかったが、さっきお寺から帰って来る時のおれの心持ちはなかった。後方から何かに襲われるような気がして、実に気持ちが悪かった。さっさとおれは逃げて帰った」。「そりゃ、あなたの気のせいです。あなたはよくそこいらが暗い、暗いなんておっしゃるが、みんな気のせいですよ……平田先生は、こういう時の力にはなりませんかねえ。」。このお民の「平田先生」が半蔵をほほえませた。彼は思いがけないことを妻の口から聞いたように思っていると、お民は言葉をついで、「でも、あの先生はありがたい人だって、そのお話がよく出るじゃありませんか」。「それさ。おれもこれで、どうかすると篤胤先生を見失うことがある。篤胤先生ばかりじゃないや、あの本居宣長翁でも、おれの目には見えなくなってしまうこともある。そのたびに、おれは精神の力を奮い起こして、ようやくここまでたどりついたようなものさ。そうだ、お粂の言い草じゃないが、神霊さまと一緒にいれば寂しくない。こりゃ、おれも路に迷ったかしらん。もう一度おれは勇気を出して神を守りに行かにゃならん。しかし、今夜は――お前もよいことを言ってくれた」。 その時、お民は思いついたように、下座敷の小襖から薬箱を取り出して来た。その中には医師の小島拙斎が調合して置いて行ってくれた薬がある。本家の母屋を借りて住む拙斎もちょうど名古屋へ出張中のころであったが、あの拙斎が馬籠を留守にする前に、もしお師匠さまに眠られないようなことがあったらあげてくれと言って、お民のもとに残して置いて行ったのがそれだ。彼女は台所の流しもとへくみ置きの清水や湯のみなぞをも取りに行って来て、その薬を夫に勧めた。 翌日からの半蔵は一層不思議な心持ちをたどるようになった。彼は床の上に目をさまして見て、およそ何時間ぐらい眠ったということも知らなかった。夢に夢見る心地で彼があたりを見回した時は、本家の裏二階の方に日を暮らしている継母やお槇はもとより、朝夕連れ添う妻のお民までがなんとなく遠くの方にいる人のような気がして来た。秋の日のあたった部屋の障子には、木曾らしい蝿の残ったのが彼の目についた。彼はその光をめがけながら飛びかう虫の群れをつくづくとながめているうちに、久しく音信もしない同門の先輩暮田正香のことを胸に浮かべた。彼はあの正香がそう無造作にできるものが復古ではないと言った言葉なぞを思い出した。ところが世間の人はそうは思わないから、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ、いくら昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい、とあの正香の言ったことをも思い出した。本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言われた昨日の勢いは間違いであったのか、一切の国学者の考えたこともあやまった熱心からだとされる今日の時が本当であるのか、このはなはだしい変わり方に面とむかっては、ただただ彼なぞは目もくらむばかり。かつての神仏分離の運動が過ぎて行ったあとになって見ると、昨日まで宗教廓清の急先鋒と目された平田門人らも今日は頑執盲排のともがら扱いである。ことに、愚かな彼のようなものは、する事、なす事、周囲のものに誤解されるばかりでなく、ややもすると「あんな狂人はやッつけろ」ぐらいのことは言いかねないような、そんなあざけりの声さえ耳の底に聞きつけることがある。この周囲のものの誤解から来る敵意ほど、彼の心を悲しませるものもなかった。 「おれには敵がある」。彼はその考えに落ちて行った。さてこそ、妻の耳に聞こえないものも彼の耳に聞こえ、妻の目に見えないものも彼の目に見えるのはそのためであった。過ぐる年の献扇事件の日、大衆は実に圧倒するような勢いで彼の方へ押し寄せて来た。彼はあの東京神田橋見附跡の外での多勢の混雑を今だに忘れることができない。「訴人だ、訴人だ」と言って互いに呼びかわした人たちの声はまだ彼の耳にある。何か不敬漢でもあらわれたかのように、争って彼の方へ押し寄せて来た人たちの目つきはまだ彼の記憶に新しい。けれどもそういう大衆も彼の敵ではなかった。暗い中世の墓場から飛び出して大衆の中に隠れている幽霊こそ彼の敵だ。明治維新の大きな破壊の中からあらわれて来た仮装者の多くは、彼にとっては百鬼夜行の行列を見るごときものであった。皆、化け物だ、と彼は考えた。この世の戦いに疲れた半蔵にも、まだひるまないだけの老いた骨はある。彼はわき上がる深い悲しみをしのごうとして、たち上がった。ひらめき発する金色な眼花の光彩は、あだかも空際を縫って通る火花のように、また彼の前に入り乱れた。彼は何ものかを待ち受けるような態度をとって震えた。「さあ、攻めるなら攻めて来い」。 |
もはや、二百十日もすでに過ぎ去り、彼岸を前にして、急にはげしい夕立があるかと思うと、それの谷々を通り過ぎたあとには一層恵那山も近くあざやかに見えるような日が来た。農家では草刈りや田圃の稗取りなぞにいそがしいころである。午後に一人の百姓が改まった顔つきで半蔵を見に来た。旧本陣時代には青山の家に出入りした十三人の百姓の中の一人だ。「お師匠さまや先の大旦那には、格別ひいきにしていただいたで」とその百姓は前置きをして、ある別れの心を告げに来た。聞いて見ると、その男は年貢米三斗七升に当たる宅地を二年前に宗太から買い取る約束をしたもので、代金二十五円九十銭も一時には支払えないところから、内金としてまず五円九十銭だけを納め、残り二十円も追い追いと支払って、その年の九月で宅地も完全にその男の所有に帰し、売券をも請け取ったとのこと。隠居の半蔵にそれをことわるのも異なものだが、一言の挨拶なしに旧主人と手をわかつには忍びかねるという。「何か用があったら、いつでもそう言ってよこしておくれなんしょや。兼吉や桑作同様に、おれも手伝いに来てあげる。はい、長々お世話さまになりました」との言葉をも残した。その男のいう兼吉や桑作も、薬師道の上の畑とか、あるいは裏畑とかを宗太から買い取った百姓仲間だ。その時になって見ると、青山家親類会議の結果として永遠維持の方法を設けた家法改革とは名ばかり、挨拶に来る出入りの百姓が置いて行く言葉まで、半蔵の身に迫らないものはない。 夕方に、半蔵は静の屋の周囲を一回りして帰って来た。夕飯後、二階に上がって行って見ると、空には星がある。月の出もややおそくなったころであったが、青く底光りのするような涼しい光が宵の空を流れている。その時の彼は秋らしく澄み渡って来た物象の威厳に打たれて、長い時の流れの方に心を誘われた。先師篤胤ののこした忘れがたい言葉も、また彼の胸に浮かんで来た。「一切は神の心であろうでござる」。彼はおのれら一族の運命をもそこへ持って行って見た。空の奥の空、天の奥の天、そこにはあらわれたり隠れたりする星の姿があだかも人間歴史の運行を語るかのように高くかかっている。あそこに梅田雲浜があり、橋本左内があり、頼鴨崖があり、藤田東湖があり、真木和泉があり、ここに岩瀬肥後があり、吉田松陰があり、高橋作左衛門があり、土生玄磧があり、渡辺崋山があり、高野長英があると指して数えることができた。攘夷と言い開港と言って時代の悩みを悩んで行ったそれらの諸天にかかる星も、いずれもこの国に高い運命の潜むことを信じないものはなく、一方には西洋を受けいれながら一方には西洋と戦わなかったものもない。この国維新の途上に倒れて行った幾多の惜しい犠牲者のことに想いくらべたら、彼半蔵なぞの前に横たわる困難は物の数でもなかった。彼はよく若い時分に、お民の兄の寿平次から、夢の多い人だと言ってからかわれたものだが、どうして[#「どうして」は底本では「どうし」]こんなことで夢が多いどころか、まだまだそれが足りないのだ、と彼には思われて来た。月も上った。虫の声は暗い谷に満ちていた。かく万ずの物がしみとおるような力で彼の内部までもはいって来るのに、彼は五十余年の生涯をかけても、何一つ本当につかむこともできないそのおのれの愚かさ拙なさを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽くした。 |
四 |
「お師匠さま、どちらへ」。そこは馬籠の町内から万福寺の方へ通う田圃の間の寺道だ。笹屋の庄助と小笹屋の勝之助の二人が半蔵を見かけて、声をかけた。「おれか。おれはこれからお寺へ行くところさ」。「お寺へなし」。「お前さまもまた、おもしろい格好をして行かっせるなし」。こんな言葉も半蔵と庄助らの間にかわされた。半蔵は以前の敬義学校へ児童を教えに通った時と同じような袴を着け、村夫子らしい草履ばきで、それに青い蕗の葉を頭にかぶっている。「今、ここへ来る途中で、おれは村の子供たちにあった。その子供たちが蕗の葉をかぶって遊んでいたんで、おれも一つもらって、頭へ載せて来たさ」と半蔵は至極大まじめだ。さびしさに浮かれる風狂の士か。蓮の葉をかぶって吟じ歩いたという渡辺方壺(木曾福島の故代官山村良由が師事した人)のたぐいか。半蔵のは、そうでもなかった。そんなトボけた格好でもしなければ、寺なぞへ行かれるものではないという調子だった。庄助と勝之助とはふき出さないばかりにおかしさをこらえて、何のための万福寺訪問かと尋ねる。「ええ、うるさく物をききたがる人たちだ。そんなら言って聞かせるが、おれはこれから行って寺を焼き捨てる。あんな寺なぞは無用の物だ」との半蔵の答えだ。これには庄助も勝之助も、半蔵が戯れているとしか思えなかった。 九月も下旬になったころのことで、ちょうど馬籠は秋の祭りの前日にあたる。荒町にある村社諏訪分社の禰宜松下千里はもとより、この祭りを盛んにすることにかけては神坂村小学校の訓導小倉啓助が大いに力瘤を入れている。というのは、この訓導はもともと禰宜の出身だからであった。子供にはそろいの半被を着せよ、囃子仲間は町を練り歩け、村芝居結構、随分おもしろくやれやれと言い出したのも啓助だ。こんな熱心家がある上に、一年に一度の祭りの日を迎えようとする氏子連中の意気込みと来たら、その楽しさは祭礼当日よりも、むしろそれを待ち受ける日にあるかのよう。笛だ三味線だと町内の若者は囃子のけいこに夢中になっている時で、騒がしくにぎやかな太鼓の音が寺道までも聞こえて来ている。 庄助や勝之助はこんな祭りのしたくを世話するからだではあったが、しかし半蔵の言葉が気にかかって、まさか彼が先祖青山道斎のこの村のために建立した由緒の深い万福寺を焼き捨てに行くとは真に受けもしなかったが、なお二人してそのあとをつけた。馬籠言葉でいう小山の「そんで」(背後)まで行くと、寺道はそこで折れ曲がって、傾斜の地勢を登るようになる。蕗の葉をかぶった半蔵の後ろ姿は、いつのまにか古い杉の木立ちのかげに隠れた。山門の前の石段を踏んで寺の境内へ出て見た時の庄助らの驚きはなかった。本堂の正面にある障子の前に立って袂からマッチを取り出す半蔵をそこに見つけた。「気狂い」。思わず見合わせた庄助らの目がそれを言った。その時、半蔵の放った火が障子に燃え上がったので、驚きあわてた勝之助はそれを消し止めようとして急いで羽織を脱いだ。人を呼ぶ声、手桶の水を運ぶ音、走り回る寺男や徒弟僧などのにわかな騒ぎの中で、半蔵はいちはやくかけ寄る庄助の手に後方から抱き止められていた。放火も大事には至らなかったが、半焼けになった障子は見るかげもなく破られ、本堂の前あたりは水だらけになった。この混雑が静まった時になっても、まだ庄助は半蔵の腕を堅くつかんだまま、その手をゆるめようとはしなかった。[#改頁] |
(私論.私見)