夜明け前第二部下の6、第十三章

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【島崎藤村/夜明け前第二部下の6、第十三章】
 一
 四年あまり過ぎた。東京から東山道経由で木曾を西へ下って来て、馬籠旅籠屋はたごや三浦屋の前で馬をめた英国人がある。夫人同伴で、食料から簡単な寝具食器のたぐいまで携えて来ている。一人の通弁と、そこへ来て大きなトランクの荷をおろす供の料理人をも連れている。この英国人は明治六年に渡来したグレゴリイ・ホルサムというもので、鉄道建築師として日本政府に雇われ、前の建築師長エングランドのあとをけて当時新橋横浜間の鉄道を主管する人である。明治の七年から十年あたりへかけてはこの国も多事で、佐賀の変に、征台の役に、西南戦争に、政府の支出もおびただしく、鉄道建築のごときはなかなか最初の意気込みどおりに進行しなかった。東京と京都の間をつなぐ幹線の計画すら、東海道を採るべきか、または東山道をえらぶべきかについても、政府の方針はまだ定まらなかった時である。種々さまざまな事情に余儀なくされて、各地の測量も休止したままになっているところすらある。

 当時の鉄道と言えば、支線として早く完成せられた東京横浜間を除いては、
神戸こうべ京都間、それに前年ようやく起工の緒についた京都大津おおつ間を数えるに過ぎなかった。ホルサムはこの閑散な時を利用し、しばらくの休暇を請い、横浜方面の鉄道管理を分担する副役に自分の代理を頼んで置いて、西の神戸京都間を主管する同国人の建築師長をたずねるために、内地を旅する機会をとらえたのであった。

 
木曾路きそじは明治十二年の初夏を迎えたころで、ホルサムのような内地の旅に慣れないものにとっても快い季節であった。ただこのふるい街道筋を通過した西洋人もこれまでごくまれであったために、異国の風俗はとかく山家の人たちの目をひきやすくて、その点にかけては旅のわずらいとなることも多かった。これほど万国交際の時勢になっても、木曾あたりにはまだ婦人同伴の西洋人というものを初めて見るという人もある。それ異人の夫婦が来たと言って、ぞろぞろついて来る村の子供らはホルサムが行く先にあった。この彼が馬籠の旅籠屋の前で馬からおりて、ここは木曾路の西のはずれに当たると聞き、信濃と美濃の国境にも近いと聞き、ながめをほしいままにするために双眼鏡なぞを取り出して、恵那山えなさん裾野すそのの方にひらけた高原を望もうとした時は、顔をのぞきに来るもの、うわさし合うもの、異国の風俗をめずらしがるもの、周囲は目をまるくしたおとなや子供でとりまかれてしまった。あまりのうるささに、彼は街道風な出格子でごうしの二階の見える旅籠屋の入り口をさして逃げ込んだくらいだ。

 ホルサムが思い立って来た内地の旅は、ただの観光のためばかりではなかった。彼が日本に渡来した時は、すでに先着の同国人ヴィカアス・ボイルがあって、建築師首長として日本政府の依頼をうけ、この国鉄道の基礎計画を立てたことを知った。そのボイルが二回にもわたって東山道を踏査したのは、明治も七年五月と八年九月との早いころであった。ホルサムが今度の思い立ちはその先着の英国人が測量した跡を視察して、他日の参考にそなえたいためであった。さてこそ、
三留野みどの泊まり、妻籠昼食、それからこの馬籠泊まりのゆっくりした旅となったのである。

 もともとこの国の鉄道敷設を勧誘したのは極東をめがけて来たヨーロッパ人仲間で、彼らがそこに目をつけたのも早く開国以前に当たる。江戸横浜間の鉄道建築を請願し来たるもの、鉄道敷設の免許権を得ようとするもの、測量方や建築方の採用を求めたり材料器具の売り込みに応じようとしたりするもの、いったん幕府時代に免許した敷設の権利を新政府において取り消すとは何事ぞと抗議し来たるもの、これらの外国人の続出はいかに彼ら自身が互いに激しい競争者であったかを語っている。そのうちに英国公使パアクスのような人があって、明治二年の東北および九州地方の
飢饉ききんの例を引き、これを救うためにも鉄道敷設の急務であることをのべたところから、政府もその勧告に力を得て鉄道起業の議を決したのであった。たまたまわが政府のため鉄道に要する資金を提供しようという英国の有力者なぞがそこへあらわれて来て、いよいよこの機運を押し進めた。英国の鉄道建築師らが相前後してこの国に渡来するようになったのも不思議ではない。

 当時、この国では初めて二隻の新艦を製し、
清輝せいき筑波つくばと名づけ、明治十二年の春にその処女航海を試みて大変な評判を取ったころである。なにしろ、大洋の航海術を伝習してからまだ二十年も出ないのに、自国人の手をもって船を造り、自国の航海者をもってこれを運用し、日本人のいまだかつて知らなかった地方を訪れ、これまで日本人を見たこともない者の目にこれを示し得たと言って、この国のものはいずれも大いに意を強くしたほどの時である。海の方面すらこのとおりだ。まだ創業の際にある鉄道の計画なぞは一切の技術をヨーロッパから習得しなければならなかった。幸いこの国に傭聘ようへいせられて来た最初の鉄道技術者にはエドモンド・モレルのような英国人があって、この人は組織の才をもつばかりでなく、言うことも時務に適し、日本は将来ヨーロッパ人の手を仮りないで事を執る準備がなければならない、それには教導局を置き俊秀な少年を養い百般の建築製造に要する技術者を造るに努めねばならないと言うような、遠い先のことまでも考える意見の持ち主であったという。
 その後に来たのがボイルだ。この建築師首長はまたモレルの仕事を幾倍にかひろげた。そして日本国内部を通過すべき鉄道線路を計画するのは経国の主眼であって、おもしろい一大事業には相違ないが、また容易でないと言って、その見地から国内に有利な鉄道を敷こうとするについては必ずまずその基本線の道筋を定むべきである、その後の支線は皆これを基として連合せしめることの肝要なのは万国一般の実況で、日本においてもそのとおりであるとの上申書を政府に差し出した。それには鉄道幹線は東山道を適当とするの意見を立てたのも、またこのボイルである。その理由とするところは、東海道は全国最良の地であって、海浜に接近し、水運の便がある、これに反して東山道は道路も嶮悪けんあくに、運輸も不便であるから、ここに鉄道を敷設するなら産物運送と山国開拓の一端となるばかりでなく、東西両京および南北両海の交通を容易ならしめるであろうということであった。ボイルが測量隊を率いて二回にもわたり東山道を踏査し、早くも東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線の基礎計画を立て、その測量に関する結果を政府に報告し、東山道線および尾張線おわりせんの径路、建築方法、建築用材および人夫、運輸、地質検査、運賃計算等を明細にあげ示したのも、この趣意にもとづく。

 今度のホルサムが内地の旅は、大体においてこの先着の英国人が測量標
ぐいを残したところであった。ボイルの計画した線は東京より高崎に至り、高崎より松本に至り、さらに松本より加納に至るので、松本加納間を百二十五マイルと算してある。それには松本から、洗馬せば奈良井ならいを経て、鳥居峠の南方に隧道トンネル穿うがつの方針で、藪原やぶはらの裏側にあたる山麓さんろくのところで鉄道線は隧道より現われることになる。それから追い追いと木曾川のほとりに近づき、藪原とこし駅の間でその岸に移り、徳音寺村に出、さらに岸に沿うて木曾福島、上松あげまつ須原すはら野尻のじり、および三留野みどの駅を通り、また田立村ただちむらを過ぎてさかいの川で美濃の国の方にはいる方針である。

 木曾路にはいって見たホルサムはいたるところの谷の美しさに驚き、また、あのボイルがいかに冷静な意志と組織的な頭脳とをもってこの大きな森林地帯をよく観察したかをも知った。ボイルの書き残したものによると、奈良井と藪原の間に存在する鳥居峠一帯の山脈は日本の西北ならびに東南の両海浜に流出する流水を分界するものだと言ってある。またこの近傍において地質の急に変革したところもある、すなわちその北方
犀川さいがわ筋の地方はおもに破砕した翠増すいぞう岩石から成り立っていて、そしてその南方木曾川の谷は数マイルの間おもに大口火性石の谷側に連なるのを見るし、また、河底は一面に大きなかたまりの丸石でおおわれていると言ってある。木曾川は藪原辺ではただの小さな流れであるが、木曾福島の近くに至って御嶽山おんたけさんから流れ出るいちじるしい水流とその他の支流とを合併して、急に水量を増し、東山道太田駅からおよそ九マイルを隔てた上流にある錦織村にしこうりむらに至って、はじめて海浜往復の舟絡を開くと言ってある。御嶽山より流れ出る川(王滝川おうたきがわ)においては、冬の季節に当たって数多あまたの材木をり出す作業というものがある、それはおもにひのきつが、および松の種類であるが、それらの材木を河中に投げ入れ、それから木曾川の岩石のとがり立った河底を洪水こうずいの勢力によって押し下し、これを錦織村において集合する、そこでいかだに組んで、それから尾州湾に送り出すとも言ってある。ボイルの観察はそれだけにとどまらない。この川の上流においては槻材つきざいもまたたくさんに産出するが、それが重量であって水運の便もきかず、また陸送するにはその費用の莫大ばくだいなために、かつてこれを輸出することがないと言って、もし東山道幹線の計画が実現されるなら、この山国開発の将来に驚くべきものがあろうことをも暗示してある。

 馬籠まで来て、ホルサムはこれらのことを胸にまとめて見た。隣村の妻籠からこの馬籠峠あたりはボイルが設計の内にははいっていない。それは山丘の多い地勢であるために、三留野駅から木曾川の対岸に鉄道線を移すがいいとのボイルの意見によるものであった。それにしてもこの計画は大きい。内部地方の開発をめがけ、都会と海浜との往復を便宜ならしめるの主意で、ことさら国内一般の利益を図ろうとするところから来ている。いずれは鉄道線通過のはじめにありがちな、
頑固がんこな反対説と、自然その築造を妨げようとする手合いの輩出することをも覚悟せねばならなかった。山家の旅籠屋らしい三浦屋の一室で、ホルサムはそんなことを考えて、来たるべき交通の一大変革がどんな盛衰をこの美しい谷々に持ち来たすであろうかと想像した。
 二
 翌朝ホルサムの一行は三浦屋を立って、西の美濃路をさして視察に向かって行った。このふるい街道筋と運命を共にする土地の人たちはまだ何も知らない。将来の交通計画について政府がどんな意向であるやも知らない。まして、開国の結果がここまで来たとは知りようもない。あの宿駕籠しゅくかご二十五ちょう、山駕籠五挺、駕籠桐油とうゆ二十五枚、馬桐油二十五枚、駕籠蒲団ぶとん小五十枚、中二十枚、提灯ちょうちんはりと言ったはもはや宿場全盛の昔のことで、伝馬所にかわる中牛馬会社の事業も過渡期の現象たるにとどまり、将来この東山道を変えるものが各自の生活にまで浸って来ようとはなおなお知りようもない。

 伏見屋の伊之助は自宅の方に病んでいた。彼は、馬籠泊まりで通り過ぎて行った英国人のうわさを聞きながら、二十余年の街道生活を床の上に思い出すような人であった。馬籠の年寄役、兼問屋後見として、彼が街道の世話をしたのも一昔以前のことになった。彼の知っている狭い範囲から言っても、
嘉永かえい年代以来、黒船の到着は海岸防備の必要となり、海岸防備の必要は徳川幕府および諸藩の経費節約となり、その経費節約は参覲交代制度の廃止となり、参覲交代制度の廃止はまたこれまですでに東山道を変えてしまった。もはや明治のはじめをも御一新とは呼ばないで、多くのものがそれを明治維新と呼ぶようになった。ひとり馬籠峠の上にかぎらず、この街道筋に働いた人たちのことにおもいいたると、彼伊之助には心に驚かれることばかりであった。事実、町人と百姓とを兼ねたような街道人の心理は他から想像さるるほど単純なものではない。長い武家の奉公を忍び、あごで使われる器械のような生活に屈伏して来たほどのものは、一人として新時代の楽しかれと願わぬはなかろう。宿場の廃止、本陣の廃止、問屋の廃止、御伝馬の廃止、宿人足の廃止、それから七里飛脚の廃止のあとにおいて、実際彼らが経験するものははたして何であったろうか。激しい神経衰弱にかかるものがある。強度に精神の沮喪そそうするものがある。種々さまざまな病をわずらうものがある。突然の死に襲われるものがある、驚かれることばかりであった。

 これはそもそも、長い街道生活の結果か。内には
くずれ行く封建制度があり、外には東漸するヨーロッパ人の勢力があり、かくのごとき社会の大変態は、開闢かいびゃく以来いまだかつてないことだと言わるるほどの急激なうずの中にあった証拠なのか。張り詰めた神経と、肉身との過労によるのか。いずれとも、彼には言って見ることができない。過去を振り返ると、まるで夢のような気がするとは、同じ馬籠の宿役人仲間の一人が彼に話したことだ。彼は、その茫然ぼうぜん自失したような人の言葉の意味を聞き流せなかったことを覚えている。

 これらのことを伊之助がしみじみ語り合いたいと思う人は、なんと言っても青年時代から同じ駅路の記憶につながれている半蔵のほかになかった。あの半蔵のような動揺した精神とも違い、伊之助はなんとかして平常の心でこのむずかしい時を歩みたいと考えつづけて来たもので、それほど二人は正反対な気質でいながら、しかも一番仲がよい。病苦はもとより説くも
せんなきことで、そんなことのために彼も半蔵を見たいとは願わなかったが、もしあの隣人が飛騨から帰っていたなら、気分のよいおりにでもたずねて来てもらって、先々代から伏見屋に残った美濃派の俳人らが寄せ書きの軸なりと壁にかけ、八人のものが集まって馬籠風景の八つのながめを思い思いの句と画の中に取り入れてある意匠を一緒にながめながら、この街道のうつりかわりを語り合いたいと思った。そうしたら彼はき養父金兵衛のことをもそこへ持ち出すであろう、七十四歳まで生きて三十一番の日記を残した金兵衛の筆は「明治三年九月四日、雨降り、本陣にて吉左衛門どの一周忌、御仏事御興行」のところで止めてあることをも持ち出すであろう、そして「このおれの目の黒いうちは」という顔つきで死ぬまで伊之助の世話を焼いて行ったほどのやかまし屋ではあるが、亡くなったあとになって、何かにつけてあの隠居のことを思い出すところを見ると、やはり人と異なったところがあったと見えると、言って見るであろうと思った。その半蔵は飛騨の水無みなし神社宮司として赴任して行ってから、二度ほど馬籠へ顔を見せたぎりだ。一度は娘お粂が木曾福島の植松家へとついで行った時。一度は跡目相続の宗太のために飯田いいだから娵女よめじょのおまきを迎えた時。任期四年あまりにもなるが、半蔵が帰国のほどもまだ判然しない。
 伊之助が長煩いの床の敷いてあるところは、先代金兵衛の晩年に持病のたんで寝たり起きたりしたその同じ二階の部屋である。山家は柴刈しばかりだ田植えだと聞く新緑のころで、たださえ季節に敏感な伊之助にはしきりに友恋しかった。彼は半蔵からもらったおりおりの便りまで大切にしていて、病床で読んで見てくれと言って飛騨から送ってよこした旧作新作とりまぜの半蔵が歌稿なぞをももとに取り出した。そのしたためてある生紙きがみ二つ折り横じの帳面からしていかにもその人らしく、紙の色のすこし黄ばんだ中に、どこかかぞの青みを見つけるさえ彼にはうれしかった。

ふるさとの世にある人もなき人も夜な夜な夢に見ゆるころかな
秋きぬと虫ぞなくなるふるさとの庭の
真萩まはぎも今や咲くらむ
おもひやれ旅のやどりの
ひとり寝の朝けのそでの露のふかさを
あはれとや月もとふらむ
草枕くさまくらさびしき秋の袖の上の露
独りある旅寝の床になくむしのねさへあはれをそへてけるかな
長き夜をひとりあらむと草枕かけてぞわぶる秋はきにけり
ありし世をかけて思へば夢なれや
四十よそじの秋も長くしもあらず
 秋の歌。これは飛騨高山中教地にてめるとして、半蔵から寄せた歌稿の中にある。伊之助はこれを読みさして、水無川みなしがわともいい水無瀬川みなせがわともいう河原の方に思いをはせ、宮峠のふもとから位山くらいやまを望む位置にあるという山里の深さにも思いをはせた。半蔵は水無神社から一町ほど隔てたところにある民家の別宅を借りうけ、食事や洗濯せんたくの世話などしてくれる家族の隣りに住み、池を前に、違いだな、床の間のついた部屋から、毎日宮司のつとめにかよっているらしい。「それにしても、この歌のさびしさはどうだ」と伊之助はひとり言って見た。

 春、夏、秋、冬、恋、雑というふうに分けてある半蔵の歌稿を読んで行くうちに、ことに伊之助が心をひかれたのはその恋歌であった。もっとも、それは飛騨でできたものではないらしいが。

もろともに夢もむすばぬうき世にはふるもくるしき世にこそありけれ
おろかにもおもふ君かなもろともにむすべる夢の世とはしらずて
月をだにもらさぬ雲のおほほしく独りかもあらむ長きこの夜を
今ぞ知る世はうきものとおもひつつあひみぬなかの長き月日を
相おもふこころのかよふ道もがなかたみにふかきほどもしるべく
年月をあひ見ぬはしに中たえておもひながらに遠ざかりぬる
かすみたつ春の日数をしのぶれば花さへ色にいでにけるかな
もろともにかざしてましを梅の花うつろふまでにあはぬ君かも
年月の
ちりもつもりぬもろともに夢むすばむとまけしまくら
うたたねの夢のあふせをあらたまの年月ながくこひわたるかな
年月のたえて久しき
恋路こいじにはわすれ草のみしげりあふめり
この
ごろは夏野の草のうらぶれて風の音だにきかずもあるかな
たまさかの言の葉草もつまなくにたまるは
そでの露にぞありける
しげりあふ夏山のまにゆく水のかくれてのみやこひわたりなむ
 「あなた、そんなにつめていいんですか」。階下したから箱梯子はこばしごを登って、二間つづきの二階に寝ている伊之助を見に来たのは、妻のおとみだ。「おれか、」と伊之助は答えた。「さっきからおれは半蔵さんの歌に凝ってしまった。こういうもので見ると、実にやさしい人がよく出ているね」。「あの中津川のお友だちと、半蔵さんとでは、どっちが歌はうまいんでしょう」。「お前たちはすぐそういうことを言いたがるから困る。すぐに、どっちがうまいかなんて」。「こりゃ、うっかり口もきけない」。「だって、まるで行き方の違ったものだよ。別の物だよ」。「そういうものですかねえ」。「おれも好きな道だから言うが、半蔵さんの歌は出来不出来がある。そのかわり、どれを見ても真情は打ち出してあるナ。言葉なぞは飾ろうとしない。あのつたないところが作者のよいところだね。こう一口にかじりついたなしのような味が、半蔵さんのものだわい」。伊之助に言わせると、それが半蔵だ。これらの歌にあらわれたものは、実は深い片思いの一語に尽きる。そしてこれまで長く付き合って見た半蔵のしたこと、言ったこと、考えたことは、すべてその深い片思いでないものはない。あの献扇事件の場合にしても、半蔵の方で思うことはただただ多くの人に誤解された。土地のものなぞはそれを伝え聞いた時は気狂きちがいの沙汰としてしまった。

 「まあ、こちらでいくら思っても、人からそれほど思われないのが半蔵さんだね。ごらんな、あれほどの百姓思いでも、百姓からはそう思われない」。「半蔵さんは、そういう人ですかねえ」。「ここに便りを待つ恋という歌があるよ。隠れてのみやこひわたりなむ、としてあるよ」。「まあ」。「あの人はすべてこの調子なんだね」。伊之助夫婦はこんなふうに語り合った後、半蔵が馬籠に残して置いて行った家族のうわさに移った。石垣一つ
さかいにして隣家に留守居する人たちのことは絶えず伊之助の心にかかっていたからで。半蔵の妻お民が峠のおかしらを供に連れて一度飛騨までたずねて行ったのは、あれは前年の秋九月の下旬あたりに当たる。しばらく飛騨からの便りも絶え、きっと半蔵は病気でもしているに相違ないと言われたころのことだ。馬も通わないという嶮岨けんそ加子母峠かしもとうげを越して、か弱い足で二十余里の深い山道を踏んで行ったことは、夫を思う女の一心なればこそそれができた。よくよくあの旅は骨が折れたと見えて、あとになってお民が風呂でももらいに伏見屋へかよって来るおりにはよくその話が出る。久津八幡くづはちまんは飛騨の宮村から八里ほど手前にあるところだという。その辺までお民がたどり着いた時、向こうから益田ましだ街道をやって来る一人の若者にあった。その若者が近づいて、ちょっとお尋ねしますが、もしやあなたさまは水無神社の宮司さまのところへ行かれる奥さまではありませんか、と声をかけたという。いかにも、そうです、と答えた時のお民は、自分を待ち受けていてくれる夫の仮寓かぐうの遠くないことを知り、わざわざ彼女を迎えに来てくれた土地の若者であることをも知った。それはそれは御苦労さま、というお民の言葉をうけて、わしは宮司さまから頼まれて迎えにまいった近所のものでございます、空身からみですから荷物を持って行きましょう、とその若者が言ってくれる、お民の方ではそれを断わって、主人も待って心配していようから、これからすぐ引き返して、「無事に来よるが」と伝えてください、と答えたとのことである。それからお民は八里ほど進んで、いかにも山深い宮峠のふもとの位置に、東北には木曾の御嶽山のいただきも遠く望まれるようなところに、うわさにのみ聞く水無川の河原を見つけたという。お民はそう長くも夫のそばにいなかったが、ちょうど飛騨の宮祭りのころであったことが一層彼女の旅を忘れがたいものにしているとか。「なあ、お富」とまた伊之助が枕の上で言い出した。「四年は長過ぎたなあ」。「半蔵さんの飛騨がですか」。「そうさ」。「わたしに言わせると、はじめからあのお民さんを連れて行かなかったのは、うそでしたよ」。「うん、それもあるナ。まあいい加減に切り揚げて、早く馬籠へお帰りなさるがいい。あの半蔵さんが四十代で隠居して、青山の家を子に譲って、それから水無神社の宮司をこころざして行ったと思ってごらん。忘れもしない――あの人がおれのところへ暇乞いとまごいに来て、自分はもう古い青山の家に用のないような人間だから、お袋(おまん)の言葉に従ったッて、そう言ったよ。あの時は、お粂さんもまだ植松のお嫁さんに行かない前で、あれほど物を思い詰めるくらいの娘だから、こう顔を伏せて、目のふちあかれるほど泣きながら、飛騨行きのおとっさんを見送ったッけが、お粂さんにはその同情があったのだね。あれから半蔵さんが途中の中津川からおれのところへ手紙をよこした。自分はこの飛騨行きを天の命とも考えるなんて。ああいうところが半蔵さんらしい。二年、三年の後、自分はむなしく帰るかもしれない、あるいは骨となって帰るかもしれないが、ただただ天の命を果たしうればそれでいいなんて書いてよこしたことを覚えている。えらい意気込みさね。

 なんでも飛騨の方から出て来た人の話には、今度の水無神社の宮司さまのなさるものは、それは弘大な御説教で、この国の歴史のことや神さまのことを村の者に説いて聞かせるうちに、いつでもしまいには自分で泣いておしまいなさる。社殿の方で
祝詞のりとなぞをあげる時にも、泣いておいでなさることがある。村の若い衆なぞはまた、そんな宮司さまの顔を見ると、子供のようにふき出したくなるそうだ。でも、あの半蔵さんのことを敬神の念につよい人だとは皆思うらしいね。そういう熱心で四年も神主かんぬしを勤めたと考えてごらんな、とてもからだが続くもんじゃない。もうお帰りなさるがいい、お帰りなさるがいい――そりゃ平田門人というものはこれまですでになすべきことはなしたのさ、この維新が来るまでにあの人たちが心配したり奔走したりしたことだけでもたくさんだ、だれがなんと言ってもあの骨折りがうずめられるはずもないからナ」。こんなうわさが尽きなかった。

 山里も
ほおとち、すいかずらの花のころはすでに過ぎ去り、山百合やまゆりにはやや早く、今は藪陰やぶかげなどに顔を見せる※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)どくだみや谷いっぱいに香気をただよわす空木うつぎなどの季節になって来ている。木の実で熟するものには青梅、あんずなどある中に、ことに伊之助に時を感じさせるのは、もはや畦塗あぜぬりのできたと聞く田圃たんぼ道から幼い子供らの見つけて来る木いちごであった。

 お富や子供らのこと考えるたびに、伊之助の
わきの下には冷たいねばりけのある汗がわく。その汗は病と戦おうとする彼の精神こころから出る。隣村山口から薬箱をさげてかよって来る医者杏庵きょうあん老も多くを語らないから、病勢の進みについては彼は何も知らない。ただ、はっきりとした意識にすこしの変わりもなく、足ることを知り分に安んぜよとの教えを町人の信条とすることにも変わりなく、親しい半蔵と相見うるの日を心頼みにした。もはや日に日に日も長く、それだけまた夜は短い。どうして彼はその夏を越そうと考えて、もとに置く扇なぞを見るにつけても、明けやすい六月の夜を惜しんだ。
 三
 十月下旬になって、半蔵は飛騨から帰国の旅を急いで来た。彼は四年あまりの一の宮(水無神社)を辞し、神社でつかっていた小使いのせがれに当たる六三郎を供に連れ、位山くらいやまをもあとに見て飛騨と美濃国境くにざかいを越して来た。供の男は二十三、四歳の屈強な若者で、飛騨風な背板せいた背子せいごともいう)を背中に負い、その上に行李こうり大風呂敷おおぶろしきとを載せていたが、何しろ半蔵の荷物はほとんど書物ばかりで重かったから、けわしい山坂にかかるたびに力を足に入れ、腰をかがめ気味に道を踏んでは彼について来た。木曾あたりと同じように、加子母峠かしもとうげは小鳥で名高い。おりから、つぐみのとれる季節で、半蔵は途中の加子母というところでたくさんに鶫を買い、六三郎と共にそれを旅の中食に焼いてもらって食ったが、余りの小鳥まで荷物になって、六三郎の足はよけいに重かった。

 美濃と信濃の国境に当たる十曲峠へかかるまでに、半蔵らは三晩泊まりもかかった。そこまで帰って来れば、松の並み木の続いた木曾街道を踏んで行くことができる。東美濃の盆地を流れる青い木曾川の川筋を遠く見渡すこともできる。光る木の葉、その葉の色づいて重なり合った影は、半蔵らが行く先にあった。路傍に古い黒ずんだ山石の押し出して来ているのを見つけると、供の六三郎は荷物を背負ったままそこへ腰掛け、
ひたいの汗をふいて、しばらく足を休めてはまた半蔵と一緒に歩いた。「おゝ、半蔵さまが帰って来た」。その久しぶりの平兵衛の声を半蔵は峠の新茶屋まで行った時に聞きつけた。このおかしらは、諸講中の下げ札や御休処おやすみどころとした古い看板のかかった茶屋の軒下を出たりはいったりして、そこに彼を出迎えていてくれたのだ。伏見屋金兵衛の記念として残った芭蕉ばしょう句塚くづかまでが、その木曾路の西の入り口に、旅人の目につく路傍の位置に彼を迎えるように見えている。

 伏見屋と言えば、伊之助はその時もはやこの世にいない人であった。半蔵が飛騨の山の方で伊之助の
くなったのを聞いて来たのはその年の暑いさかりのころに当たる。彼は伏見屋からの通知を受け取って見て、かねて病床にあった伊之助が養生もかなわず、にわかに病勢の募ったための惜しい最期であったことを知った。享年四十五歳。遺骸いがいは故人の遺志により神葬にして万福寺境内の墓地に葬る。なお、長男一郎は二代目伊之助を襲名するともその通知にあった。とうとう、半蔵は伊之助の死に目にもあわずじまいだ。馬籠荒町の村社諏訪すわ分社の前まで帰って来た時、彼は無事な帰村を告げに参詣さんけいしたり、禰宜ねぎ松下千里の家へも言葉をかけに立ち寄ったりすることを忘れなかったが、かつて駅路一切の奔走を共にしたあの伊之助が草葉の陰にあるとは、どうしても彼にはまことのように思われもしなかった。馬籠の仲町近くまで帰ると、彼はもう幾人かの成人したふるい教え子にあった。「お師匠さま」と呼んでいち早く彼の姿を見つけながら走り寄る梅屋の三男益穂ますほがあり、伏見屋の三男三郎がある。その辺は仮の戸長役場にも近く、筑摩ちくま県と長野県とに分かれた信濃の国の管轄区域を合併して郡県の名までが彼の留守中に改まった。これは馬籠というところかの顔つきで、背中に荷物をつけながら坂になった町を登って来る供の六三郎は、どうかすると彼におくれた。彼は途中で六三郎の追いつくのを待ちうけて、戸長役場の前を往還側に建てられてある標柱のところへ行って一緒に立った。その高さ九尺ばかり。表面には改正になった郡県の名が筆太に記されてあり、側面にやや小さな文字で東西への里程を旅人に教えているのも、その柱だ。長野県西筑摩郡神坂みさか村。
 馬籠のふるい宿場も建て直ろうとする最中の時である。二十五人、二十五匹の宿人足と御伝馬とは必ず用意して置くはずの宿場にも、その必要がなくなってからは、一匹の御伝馬につき買い入れ金十八両ほどずつ、一人の宿人足につき手当て七両二分ほどずつ受けて来た人たちも、勢い生活の方法を替えないわけには行かない。伊勢へ、津島へ、金毘羅こんぴらへ、御嶽おんたけへ、あるいは善光寺への参詣者さんけいしゃの群れは一新講とか真誠講とかの講中を組んで相変わらずこの街道にやって来る。ここを通商路とする中津川方面の商人、飯田いいだ行きの塩荷その他を積んだ馬、それらの通行にも変わりはない。しかし旧宿場に衣食して来た御伝馬役や宿人足、ないし馬差うまざし人足差にんそくざしの人たちはもはやそれのみにたよれない。目証めあかしもとくに土地を去り、雲助もいつのまにか離散して見ると、中牛馬会社の輸送に従事する以外のものは開墾、殖林、耕作、養蚕、その他の道についた。切り畑焼き畑を開いてひえ蕎麦そば等の雑穀を植えるもの、新田を開いて柴草しばくさを運ぶもの、皆元気いっぱいだ。馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、傾斜の多い地勢で水利の便もすくなく、荒い笹刈ささがりにはぶよ藪蚊やぶかを防ぐための火繩ひなわを要し、それも恵那山のすその谷間の方へ一里も二里もの山道を踏まねばならないほど骨の折れる土地柄であるが、多くのものはそれすらいとわなかった。宿場の行き詰まりは、かえってこの回生の活気を生んだ。そこへ行くと、新規まき直しの困難はむしろ従来宿役人として上に立った人たち、その分家、その出店でみせなぞの家柄を誇るものの方に多い。というのは、今までの生活ぶりも一様ではなく、心がけもまちまちで、それになんと言っても長い間の旦那衆気質かたぎから抜け切ることも容易でないからであった。そういう中で、梅屋のように思い切って染め物屋を開業したところもある。旧のごとく街道に沿うた軒先にの葉のまるく束にしたものを掛け、それを清酒の看板に代えているのは、二代目伊之助の相続する伏見屋のみである。
 半蔵が帰り着いたのはこうしたふるさとだ。彼が飛騨からの若者と共に、変わらずにある青山の家の屋根の下に草鞋わらじひもを解いたのは午後の三時ごろであった。もとより新しい進路を開きたいとの思い立ちからとは言いながら、国を出てからの長い流浪るろう、東京での教部省奉職の日から数えると、足掛け六年ぶりで彼も妻子のところへ帰って来ることができた。当主としての長男宗太はようやく二十二歳の若さで、よめのおまきとてもまだ半分娘のような初々ういういしい年ごろであり、これまでにひなの夫婦を助けて長い留守を預かったお民がいくらか老いはしても相変わらずの元気を持ちつづけ、うどんなど打って彼を待ち受けていてくれたと聞いた時は、まず彼も胸が迫った。そのうちに、おまんもつえをついて裏二階の方からかよって来た。いよいよ輝きを加えたこの継母の髪の白さにも彼の頭はさがる。そばへ集まって来た三男の森夫はすでに十一歳、末の和助は八歳にもなる。これにも彼は驚かされた。

 帰国後の半蔵はいろいろ応接にいとまがないくらいであった。以前彼の飛騨行きを機会に長の
暇乞いとまごいを告げて行った下男の佐吉は、かみさんとも別れたと言って、また山口村から帰って来て身を寄せている。旧本陣問屋庄屋時代から長いこと彼の家に通った清助は、と聞くと、今は隣家伏見屋の手伝いにかわって、造り酒屋の番頭格として働くかたわら、事あるごとにお民や宗太の相談相手となりに来てくれるという。村の髪結い直次の娘で、幼い和助が子守時代からずっと奉公に来ているお徳は、これも水仕事にぬれた手をきふき、台所の流しもとから彼のところへお辞儀に来る。その時は飛騨から供の六三郎も重い荷物を背中からおろし、足を洗って上がった。この飛騨の若者はまた、ひどくくたぶれたらしい足を引きずりながらも家のものに案内されて、青山の昔を語る広い玄関先から、古いやりのかかった長押なげし、次の間、仲の間、奥の間、諸大名諸公役らが宿場時代に休息したり寝泊まりしたりして行った上段の間までも、めずらしそうに見て回るほど元気づいた。六三郎はお民に言った。「奥さま、もうお忘れになったかもしれませんが、あなたさまが飛騨の方へお越しの節に宮司さまに頼まれまして、久津八幡までお迎えに出ました六三郎でございます」。

 日の暮れるころから、旧知
親戚しんせきのものは半蔵を見に集まって来た。赤々とした炉の火はさかんに燃えた。串差くしざしにしてあぶる小鳥のにおいは広い囲炉裏ばたにみちあふれたが、その中には半蔵が土産みやげの一つの加子母峠かしもとうげつぐみもまじっていると知られた。その晩、うどん振舞ぶるまいに招かれて来た人たちは半蔵のことを語り合うにも、これまでのように「本陣の旦那」と呼ぶものはない。いずれも「お師匠さま」と呼ぶようになった。「あい、お師匠さまがお帰りだげなで、お好きな山のいもを掘ってさげて来た」。尋ねて来る近所のばあさんまでが、その調子だ。やがて客人らはくつろぎのに集まって、いろいろなことを半蔵に問い試みた。飛騨の国幣小社水無神社はどのくらいの古さか。神門と拝殿とは諏訪すわの大社ぐらいあるか。御神馬の彫刻はだれの作か。そこには舞殿まいどのがあり絵馬殿えまでんがあり回廊があるか。御神木のねじの木とは何百年ぐらいたっているか。一の宮に特殊な神事という鶏毛打とりげうちの古楽にはどのくらいの氏子が出て、どんな衣裳いしょうをつけて、どんなかねと太鼓を打ち鳴らすかのたぐいだ。六三郎はおのが郷里の方のうわさをもれききながら、御相伴ごしょうばんのうどんを味わった後、玄関の次の間の炬燵こたつに寝た。

 翌朝、飛騨の若者も別れを告げて行った。家に帰って来た半蔵はもはや青山の主人ではない。でも、彼は
母屋もやの周囲を見て回ることを久しぶりの楽しみにして、思い出の多い旧会所跡の桑畠くわばたけから土蔵の前につづく裏庭のかきの下へ出た。そこに手ぬぐいをかぶった妻がいた。「お民、吾家うち周囲まわりも変わったなあ。新宅(下隣にある青山の分家、半蔵が異母妹お喜佐の旧居)も貸すことにしたね。変わった人が下隣にできたぞ。あの洒落しゃれものの婆さんは村の旦那衆を相手に、小料理屋なぞをはじめてるそうじゃないか」。「お雪婆さんですか。あの人は中津川から越して来ましたよ」。「だれがああいう人を引ッぱって来たものかなあ。それに、この土地に不似合いな小女こおんななぞも置いてるような話だ。そりゃ目立たないように遊びに行く旦那衆は勝手だが、宗太だっても誘われれば、いやとは言えない。まあ、おれももう隠居の身だ。一切口を出すまいがね、ああいう隣の女が出入りしても、お前は気にならないかい」。「そんなことを言うだけ、あなたも年を取りましたね」。お民は快活に笑って、夫の留守中に苦心して築き上げたことの方にその時の立ち話をかえた。過ぐる年月の間、彼女の絶え間なき心づかいは、いかにして夫から預かったこの旧家を安らかに持ちこたえて行こうかということであった。それには一切を手造りにして、茶も自分の家で造り、蚕も自分で飼い、糸も自分で染め、髪につける油まで庭の椿つばきの実から自分で絞って、塩と砂糖とあいよりほかになるべく物を買わない方針を取って来たという。森夫や和助のはく草履ぞうりすら、今は下男の夜なべ仕事に家で手造りにしているともいう。これはすでに妻籠の旧本陣でも始めている自給自足のやり方で、彼女はその生家さとで見て来たことを馬籠の家に応用したのであった。

 間もなくお民は古い
味噌納屋みそなやの方へ夫を連れて行って見せた。その納屋はおまんが住む隠居所のすぐ下に当たる。半蔵から言えば、先々代半六をはじめ、先代吉左衛門が余生を送った裏二階の下でもある。冬季のために野菜をたくわえようとする山家らしい営みの光景がそこに開けた。若いよめのおまき母屋もやから、下女のお徳は井戸ばたから、下男佐吉は木小屋の方から集まって来て、洗いたての芋殻いもがら(ずいき)が半蔵の眼前に山と積まれた。梅酢うめず唐辛子とうがらしとを入れて漬ける四斗樽しとだるもそこへ持ち運ばれた。色もあかく新鮮な芋殻を樽のなかに並べて塩を振る手つきなぞは、お民も慣れたものだ。母屋の周囲を一回りして来て、おのれの書斎とも寝部屋ともする店座敷の方へ引き返して行こうとした時、半蔵は妻に言った。「お民、お前ばかりそう働かしちゃ置かない」。そう言う彼は、子弟の教育に余生を送ろうとして、この古里に帰って来たことを妻に告げた。彼もいささか感ずるところがあってその決心に至ったのであった。
 四
 飛騨の四年あまりは、半蔵にとって生涯の旅の中の最も高い峠というべき時であった。在職二年にして彼は飛騨の人たちと共に西南戦争に際会した。遠く戦地から離れた山の上にありながらも、迫り来る戦時の空気と地方の動揺とをも経験した。王政復古以来、「この維新の成就するまでは」とは、心あるものが皆言い合って来たことで、彼のような旧庄屋風情ふぜいでもそのために一切を忍びつづけたようなものである。多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てた時。報いらるるのすくない戸長の職にも甘んじた時。あの郡県政治が始まって木曾谷山林事件のために彼なぞは戸長の職をがれる時になっても、まだまだ多くの深い草叢くさむらの中にあるものと共に時節の到来を信じ、新しい太陽の輝く時を待ち受けた。やかましい朝鮮問題をめぐって全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰ぼしん以来の政府内部に分裂の行なわれたと聞く時になっても、まだそれでも彼なぞは心を許していた。内争の影響するところは、岩倉右大臣の要撃となり、佐賀、熊本くまもとの暴動となり、かつては維新の大業をめがけて進んだ桐野利秋きりのとしあきらのごとき人物が自ら参加した維新に反して、さらに新政の旗をあげ、強い武力をもってするよりほかに今日を救う道がないとすると聞くようになって、つくづく彼はこの維新の成就さるる日の遠いことを感じた。

 西南戦争を引き起こした実際の中心人物の一人とも目すべき桐野利秋とはどんな人であったろう。伝うるところによれば、利秋は陸軍少将として明治六年五月ごろまで熊本鎮台の司令長官であった。熊本鎮台は九州各藩の兵より成り、当時やや一定の法規の下にはあったが、多くは各藩混交のわがまま兵であるところから、その統御もすこぶる困難とされていた。古英雄のふうある利秋はまた、区々たる規則をもって兵隊を拘束することを好まない人で、多くは放任し、陸軍省の法規なぞには従わなかった。もとより本省の命令が鎮台兵の間に行なわるべくもない。この桐野流をよろこばない本省では、谷干城たにたてきに司令長官を命じ、利秋は干城と位置を換え陸軍裁判長となったことがある。その時の利秋の不平は絶頂に達して、干城に対し山県大輔やまがたたいふをののしった。その言葉に、彼山県は土百姓らを集めて人形を造る、はたして何の益があろうかと。大輔をののしるのはすなわち干城をののしるのであった。元来利秋は農兵を忌みきらって、兵は士族に限るものと考えた人であった。これが干城と利秋とのながの別れであったともいう。全国徴兵の新制度を是認し大阪鎮台兵の一部を熊本に移してまでも訓練と規律とに重きを置こうとする干城と、その正反対に立った利秋とは、ついに明治十年には互いに兵火の間に相見あいまみゆる人たちであった。

 
この戦争は東北戦争よりもっと不幸であった。なぜかなら、これはそのそもそもの起こりにおいて味方同志の戦争であるのだから。体内の血が逆に流れ、総身の毛筋が逆立さかだつような内部の苦しい抗争であるのだから。そして、かつての官武一途も上下一和も徳川幕府を向こうに回しての一途一和であって、いったん共同の敵たる慶喜よしのぶの倒れた上は味方同志の排斥と暗闘もまたやむを得ないとする国内の不一致を世界万国に向かって示したようなものであるから。よもやつまいと言われた西郷隆盛さいごうたかもりのような人までがたって、一万五千人からの血気にはやる子弟と運命を共にするようになった。長州の木戸孝允きどたかよしのごとき人はそれを言って、西郷ありてこそ自分らも薩摩さつま合力ごうりきし、いささか維新の盛時にも遭遇したものであるのに、と地団駄じだんだを踏んだ。この隆盛の進退はよくよく孝允にも惜しまれたと見えて、人は短所よりむしろ長所で身を誤る、西郷老人もまた長ずるところをもって一朝の憤りに迷い末路を誤るのは実に残念千万であると言ったという。

 開戦は十年二月
みそかであった。薩摩方も予想外に強く、官軍は始終大苦戦で、開戦後四十日の間にわずかに三、四里の進軍と聞いて、孝允なぞはこれを明治のみかどが中興に大関係ある白骨勝負と見た。そして、今度の隆盛らの動きは無名の暴発であるから、天下の方向も幸いに迷うことはあるまいが、もともと明治維新と言われるものがまるで手品か何かのようにうまくととのったところから、行政の官吏らがすこしも人世の艱苦かんくをなめないのにただただその手品のようなところのみをまねて、容易に一本の筆頭で数百年にもわたる人民の生活や慣習を破り去り、功名の一方にのみ注目する時弊は言葉にも尽くせない、天下の人心はまだまだ決して楽しんではいない、このありさまを目撃しては血涙のほかはないと言って、時代を憂い憂い戦時の空気の中に病み倒れて行ったのも孝允であった。これくらいの艱難がこの国維新の途上に沸いて来るのは当然であったかもしれない。飛騨の辺鄙へんぴな山の中でこの戦争を聞いていた半蔵ごときものでも、西からの戦報を手にするたびに安い心はなかった。戦争が長引けば長引くほど山の中にはいろいろなことを言う者が出て来て、土州因州あたりは旧士族ばかりでなく一般の人々の気受けも薩摩の捷報しょうほうをよろこぶ色がある、あだかも長州征伐の時のようだなど言い触らすものさえある。きのうはよいの空に西郷星が出たとか、きょうは熊本との連絡も絶えて官軍の籠城ろうじょうもおぼつかないとか聞くたびに、ただただ彼は地方の人たちと共に心配をわかつのほかはなかった。

 試みに、この戦争に参加した陸軍軍人およそ五万二百余人、
屯田兵とんでんへい六百余、巡査隊一万千余人、軍艦十四隻、海軍兵員およそ二千百余人と想像して見るがいい。もしこれが徳川氏の末のような時代の出来事で、一切が国内かぎりの世の中であるなら、おそらくこの戦争の影響は長州征伐のたぐいではなかったであろう。これほどの出来事も過ぎ去った後になって見れば、維新途上の一小波瀾はらんであったと考えるものもあるほど、押し寄せる世界の波は大きかった。戦争も終わりを告げるころには、西郷隆盛らは皆戦死し、その余波は当時政府の大立者おおだてものたる大久保利通おおくぼとしみちの身にまで及んで行った。

 この西南戦争が全国統一の機運を導いたことは、せめて不幸中の幸いであった。人民の疾苦、下のものの難渋迷惑はもとより言うまでもない。明治の歴史にもこれほどばかばかしく外聞の悪い事はあるまいと言い、惜しげもなく将軍職を辞し江戸城を投げ出した慶喜に対しても恥ずかしいと言って、昨日の国家の元勲が今日の賊臣とは何の事かと嘆息しながら死んで行った人もある。多くの薩摩
隼人はやとらが政府の要路に立つものに詰問の筋があると唱えて、ついに挙兵東上の非常手段に訴えたために、谷干城のごときは決死の敵を熊本城にくいとめ、身をもって先輩西郷氏の軍に当たった。この人にして見たら、敵将らの素志がこの社会の皮相なヨーロッパ化をきとめ、武士道を再興して人心を一新したいと願うところにあったとしても、四民平等の徴兵制度を無視して今さら封建的な旧士族制を回復するとは何事ぞとなし、たとい武力をもって国家の進路を改めようとする百の豪傑が生まれて来るとも、自分らは迷うところなく進もうと言ったであろう。ともあれ、この戦争はいろいろなことを教えた。政府が士族の救済も多く失敗に帰し、戊辰ぼしん当時の戦功兵もまた報いらるるところの少なかったために、ついに悲惨な結果を生むに至ったことを教えたのもこの戦争であった。西郷隆盛らは古武士の最後のもののように時代から沈んで行ったが、しかし武の道のゆるがせにすべきでないことを教えたのもこの戦争であった。もし政府が人民の政府であることを反省しないで威と名の一方にのみ注目するなら、その結果は測りがたいものがあろうことを教えたのもまたこの戦争であった。まったく、一時はどんな形勢に陥らないとも知りがたかった。どうやら時勢はあともどりし、物情は恟々きょうきょうとして、半蔵なぞはその間、宮司の職も手につかなかった。
 しかし、半蔵が飛騨での経験はこんな西南戦争の空気の中に行き悩んだというばかりではない。飛騨の位山くらいやまは、平安朝の婦人が書き残したものにも「山は位山」とあるように、昔から歌枕うたまくらとしても知られたところである。大野郡、久具野くぐのさとが位山のあるところで、この郷は南は美濃の国境へおよそ十六里、北は越中えっちゅうの国境へ十八里、東は信濃の国境へ十一里、西は美濃の国境へ十里あまり。まずこの山が飛騨の国の中央の位置にある。古来帝都に奉り、御笏おんしゃくの料とした一位いちいの木(あららぎ)を産するのでも名高い。この山のふもとに置いて考えるのにふさわしいような人を半蔵は四年あまりの飛騨生活の間に見つけた。もっとも、それは現存の人ではなく、深い足跡をのこして行った故人で、しかもかなりの老年まで生きた一人のおきなではあったが。

 まだ半蔵は
狩野永岳かのうえいがくの筆になったというこの翁の画像の前に身を置くような気がしている。この人の建立こんりゅうした神社の内部に安置してあった木像のそばにも身を置くような気がしている。彼の胸に描く飛騨の翁とは、いかにも山人やまびとらしい風貌ふうぼうをそなえ、の葉の長くたれ下がったような白いあらひげをたくわえ、その広い額や円味まるみのある肉厚にくあつな鼻から光った目まで、言って見れば顔の道具の大きい異相の人物であるが、それでいて口もとはやさしい。うすのようにどっしりしたところもある。この人が田中大秀おおひでだ。田中大秀は千種園ちぐさえんのあるじといい、晩年の号を荏野じんや翁、または荏野老人ともいう。本居宣長の高弟で、宣長の嗣子本居大平おおひらの親しい学友であり、橘曙覧たちばなあけみの師に当たる。その青年時代には尾張熱田の社司粟田知周あわたともちかについて歌道を修め、京都に上って冷泉れいぜい殿の歌会に列したこともあり、その後しばらく伴蒿蹊ばんこうけいに師事したこともあるという閲歴を持つ人である。半蔵がこの人に心をひかれるようになったのは、自分の先師平田篤胤と同時代にこんなに早く古道の真髄に目のさめた人が飛騨あたりの奥山に隠れていたのかと思ったばかりでなく、幾多の古書の校訂をはじめ物語類解釈の模範とも言うべき『竹取翁物語解』のごときよい著述をのこしたと知ったばかりでもなく、あの篤胤大人に見るような熱烈必死な態度で実行に迫って行った生き方とも違って、実にこの人がめずらしい「笑い」の国学者であったからで。

 荏野の翁が
事蹟じせきも多い。飛騨の国内にある古社の頽廃たいはいしたのを再興したり、自らも荏野神社というものを建ててその神主となり郷民に敬神の念をよび起こすことに努めたりした。あるいは美濃の養老のたき由緒を明らかにした碑を建て、あるいは美濃垂井清水たるいしみず倭建命やまとたけるのみことの旧蹟を考証して、そこに居寤清水いさめのしみずの碑を建て、あるいはまた、継体天皇の御旧居の地を明らかにして、その碑文をえらみ、越前足羽あすは神社の境内に碑を建てたのも、この翁だ。そうした敬神家の大秀はもとより仏法の崇拝とは相いれないのを知りながらも、金胎こんたい両部、あるいは神仏同体がこの国人の長い信仰で、人心を導くにはそれもよい方法とされたものか、翁が菩提寺ぼだいじはもちろん、郷里にある寺々の由緒をことごとく調査して仏を大切に取り扱い、頽廃したものは興し、衰微したものは助け、各檀家だんかのものをして祖先の霊を祭る誠意をいたすべきことをさとらしめた。思いがけないような滑稽こっけいがこの老翁の優しい口もとから飛び出す。郷里に盆踊りでもある晩は、にわか芸づくし拝見と出かける。四番盆、結構、随分おもしろく派手にやれやれと言った調子であったらしい。翁のトボケた口ぶりは、ある村の人にあてた手紙の中の文句にもよく残っている。
オドレヤオドレヤ。オドルガ盆ジャ。マケナヨマケナヨ、アスノ夜ハナイゾ。オドレヤオドレヤ。
 半蔵が聞きつけたのも、この声だ。かなしみの奥のほほえみ、涙の奥の笑いだ。おそらく新時代に先立つほど早くこの世を歩いて行った人で、その周囲と戦わなかったものはあるまい。そうおもって見ると、翁がかずかずの著書は、いずれも明日のしたくを怠らなかったもので、まだ肩揚げのとれないような郷里の子弟のために縫い残した裄丈ゆきたけの長い着物でないものはない。
 田中大秀のごとき先輩の国学者の笑った生涯にすら、よく探れば涙の隠れたものがある。まして後輩の半蔵風情ふぜいだ。水無神社宮司としての彼は、神仏分離の行なわれた直後の時に行き合わせた。人も知るごとく飛騨の高山地方は京都風に寺院の多いところで、神仏混淆こんこうの長い旧習は容易に脱けがたく、神社はまだまだ事実において仏教の一付属たるがごとき観を有し、五、六十年前までは神官と婚姻を結ぶなら地獄じごくちるなど言われて、相応身分の者は神官と婚姻を結ぶことさえ忌み避けるほどの土地柄であった。国幣小社なる水無神社ですら、往時は一の宮八幡とも一の宮大明神とも言い、法師別当らの水無大菩薩だいぼさつなど申していつき奉った両部の跡であった。彼が赴任して行って見たころの神社の内部は、そこのすだれのかげにも、ここのはらにも、仏教経巻などの置かれた跡でないものはなかった。なんという不思議な教えが長いことこの国人の信仰の的となっていたろう。そこにあったものは、肉体を苦しめる難行苦行と、肉体的なよろこびの崇拝と、その両極端の不思議に結びついたもので、これは明らかに仏教の変遷の歴史を語り、奈良朝以後に唐土とうどから伝えられた密教そのものがインド教に影響された証拠だと言った人もある。多くの偶像と、神秘と、そして末の世になればなるほど多い迷信と。一方にやすく行ける浄土の道を説く僧侶もまた多かったが、それはまた深く入って浅く出る宗祖の熱情を失い、いたずらに弥陀みだの名をとなえ、念仏に夢中になることを教えるようなものばかりで、古代仏教徒の純粋で厳粛な男性的の鍛錬からはすこぶる遠かった。

 そういうものの支配する世界へ飛び込んで行って、一の宮宮司としての半蔵がどれほどの耳を傾ける里人を集め、どれほどの神性を明らかにし得たろう。愚かに生まれついた彼のようなものでも、神に召され、高地に住む人々に満足するような道を伝えたいと考え、この世にはまだ
いにしえをあらわす道が残っていると考え、それを天の命とも考えて行った彼ではあるが、どうして彼は自ら思うことの十が一をも果たせなかった。維新以来、一切のものの建て直しとはまだまだ名ばかり、朝に晩に彼のたたずみながめた神社の回廊の前には石燈籠いしどうろうの立つ斎庭ゆにわがひらけ、よく行った神門のそばには冬青そよぎの赤い実をたれたのが目についたが、薄暗い過去はまだそんなところにも残って、彼の目の前に息づいているように見えた。

 四年あまりの旅の末には教部省の方針も移り変わって行った。おそらく祭政一致の行なわれがたいことを知った政府は、諸外国の例なぞに
かんがみて、政教分離の方針を執るに至ったのであろう。この現状に平らかでない神官は任意辞職を申しいでよとあって、全国大半の諸神官が一大交代も行なわれた。元来高山中教地は筑摩ちくま県の管轄区域であったが、たまたまそれが岐阜ぎふ県の管轄に改められる時を迎えて見ると、多くの神官は世襲で土着する僧侶とも違い、その境涯きょうがいに安穏な日も送れなかった。高山町にある神道事務支局から支給せらるる水無神社神官らが月給の割り当ても心細いものになって行った。半蔵としては、本教を振るい興したいにも資力が足らず、宮司の重任をこうむりながらも事があがらない。しまいには、名のつけようのない寂寞せきばくが彼の腰や肩に上るばかりでなく、彼の全身に上って来た。

きのふけふしぐれの雨ともみぢ葉とあらそひふれる山もとの里
 こんな歌が宮村の仮寓かぐうでできたのも前年の冬のことであり、同じ年の夏には次ぎのようなものもできた。

おのがうたにさやなぐさむさみだれの雨の日ぐらし早苗さなえとるなり
 梅雨期の農夫をあわれむ心は、やがて彼自ら憐む心であった。平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとの願いから、彼も細い一筋道をたどって、日ごろの願いとする神の住居すまいにまでいたり着いたが、あの木曾の名所図絵にもある園原の里の「帚木ははきぎ」のように、彼の求めるものは追っても追っても遠くなるばかり。半生の間、たまりにたまっていたような涙が飛騨の山奥の旅に行って彼のかたくなな胸の底からほとばしり出るように流れて来た。この涙は人を打ち砕く涙である。どうかすると、彼は六三郎親子のものの住居すまいの隣にあった仮寓に隠れ、そこの部屋の畳の上に額を押しつけ、平田門人としての誇りをも打ち砕かれたようになって、いくら泣いても足りないほどの涙をそそいだこともあった。
 まだ半蔵は半分旅にあるような気もしていたが、ふと、恵那山の方で鳴る風の音を聞きつけてわれに帰った。十月下旬のことで、恵那山へはすでに雪が来、里にも霜が来ていた。母屋もやの西側の廊下の方へ行って望むと、ふるさとの山はまた彼の目にある。過ぐる四年あまり、彼が飛騨の方でながめ暮らして来た位山くらいやまは、あの田中大秀おおひでがほめてもほめてもほめ足りないような調子で書いた物の中にも形容してあるように、大きやかではあってもはなはだしく高くなく、みねのさまは穏やかでけわしくなく、木立ちもしげり栄えてはあるが、しかも物すごくなかった。実に威あってたけからずと言うべき山の容儀かたちであるとした飛騨の翁の形容も決してほめ過ぎではなかった。あの位山を見た目で恵那山を見ると、ここにはまた別の山嶽さんがくの趣がある。遠く美濃の平野の方へ落ちている大きな傾斜、北側に山のふところをひろげて見せているような高く深い谷、山腹にあたって俗に「なべづる」の名称のある半円状を描いた地形、蕨平わらびだいら、霧ヶ原の高原などから、裾野すそのつづきに重なり合った幾つかの丘の層まで、遠過ぎもせず近過ぎもしない位置からこんなにおもしろくながめられる山麓さんろくは、ちょっと他の里にないものであった。木立ちのしげり栄えて、しかも物すごくないという形容は、そのままこの山にもあてはまる。山が曇れば里は晴れ、山が晴れれば里は降るような変化の多い夏のころともちがって、物象の明らかな季節もやって来ている。

 「お
とっさん」と声をかけて森夫と和助がそこへ飛んで来た。まだ二人とも父のそばへ寄るのは飛騨臭いという顔つきだ。半蔵は子供らの頭をなでながら、「御覧、恵那山はよい山だねえ」と言って見せた。どうしてこの子供らは久しぶりに旅から帰って来た父の心なぞを知りようもない。学校通いの余暇には、兄は山歩きに、木登りに。弟はまた弟で、えのきの実の落ちた裏の竹藪たけやぶのそばの細道を遊び回るやら、橿鳥かしどりの落としてよこす青いの入った小さな羽なぞをさがし回るやら。ちょうど村の子供の間にはおけたがを回して遊び戯れることが流行はやって来たが、森夫も和助もその箍回しに余念のないような頑是がんぜない年ごろである。

 
いつきの道を踏もうとするものとして行き、牙城ねじろと頼むものも破壊されたような人として帰って来た。それが半蔵の幼い子供らのそばに見いだした悄然しょうぜんとした自分だ。「復古の道は絶えて、平田一門すでに破滅した」。それを考えると、深い悲しみが彼の胸にわき上がる。古代の人に見るようなあの素直な心はもう一度この世に求められないものか、どうかして自分らはあの出発点に帰りたい、もう一度この世を見直したいとは、篤胤没後の門人一同が願いであって、そこから国学者らの一切の運動ともなったのであるが、過ぐる年月の間の種々さまざまにがい経験は彼一個の失敗にとどまらないように見えて来た。いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の付き物であるのか、そのためにかえって維新は成就しがたいのであるか、いずれとも彼には言って見ることはできなかったが、これまで国家のために功労も少なくなかった主要な人物の多くでさえ西南戦争を一期とする長い大争いの舞台の上で、あるいは傷つき、あるいは病み、あるいは自刃し、あるいは無慙むざんな非命の最期を遂げた。思わず出るため息と共に、彼は身にこたえるような冷たい山の空気を胸いっぱいに呼吸した。


 
き伊之助の百か日に当たる日も来た。今さら、人の亡くなった跡ばかり悲しいものはなく、月日の早く過ぐるのも似る物がないと言った昔の人の言葉を取り出すまでもなく、三十日過ぎた四十日過ぎたと半蔵が飛騨の山の方で数えた日もすでに過ぎ去って、いつのまにかその百か日を迎えた。「お民、人に惜しまれるくらいのものは、早く亡くなるね。おれのようなばかな人間はかえってあとにのこる」。「あのお富さんもお気の毒ですよ。早くおよめに来て、早く世の中を済ましてしまったなんて、そう言っていましたよ。あの人も、もう後家ごけさんですからねえ――あの女ざかりで」。こんな言葉を妻とかわした後、半蔵は神祭の古式で行なわれるという上隣への坂になった往還を夢のように踏んだ。

 伏見屋へはその日の通知を受けた人たちが、美濃の落合からも中津川からも集まりつつあった。板敷きになった酒店の方から酒の
香気かおりの通って来る広い囲炉裏ばたのところで、しばらく半蔵は遺族の人たちと共に時を送った。にいるお富は半蔵の顔を見るにつけても亡き夫のことを思い出すというふうで、襦袢じゅばん袖口そでぐちなぞでしきりに涙をふいていたが、どうして酒も強いと聞くこの人が包み切れないほどの残りの色香を喪服に包んでいる風情ふぜいもなかなかにあわれであった。その時、半蔵は二代目伊之助のところへとついで来ているお須賀すがという若いおよめさんにもあった。伊之助は四人の子をのこしたが、それらの忘れ形見がいずれも父親似である中にも、ことに二代目が色白で面長おもながおもかげをよく伝えていて、起居動作にまであの寛厚な長者の風のあった人をしのばせる。故人が生前に、自分の子供をまくらもとに呼び集め、次郎は目をわずらっているからいたし方もないが、三郎とお末とは半蔵を師と頼み、何かと教えを受けて勉強せよ、これからの時世は学問なしにはかなわないと、くれぐれも言いのこしたという話も出た。臨終の日も近かったおりに、あの世へ旅立って帰って来たもののあったためしのないことを思えば、自分とてもこの命が惜しまれると言ったという話も出た。「あれで、先の旦那も、『半蔵さんが帰ればいい、半蔵さんが帰ればいい』と言わっせいて、どのくらいお前さまにあいたがっていたか知れすかなし」。手伝いに来ている近所の婆さんまでが、それを半蔵に言って見せた。

 そのうちに村の旦那衆の顔もそろい、その日の祭りを
つかさどる村社諏訪すわ分社の禰宜ねぎ松下千里も荒町からやって来た。妻籠の寿平次、実蔵(得右衛門の養子)、落合の勝重かつしげ、山口の杏庵きょうあん老、いずれも半蔵には久しぶりに合わせる顔である。伏見屋の二階はこれらの人々の集まるために用意してあった二間つづきの広い部屋で、中央の唐紙からかみなぞも取りはずしてあり、一方の壁の上には故人が遺愛の軸なぞも掛けてあった。集まって来た客の中に万福寺の松雲和尚しょううんおしょうの顔も見える。当日は和尚には宗旨違いでも、伏見屋の先祖たちから受けた恩顧は忘れられないと言って、和尚は和尚だけの回向えこうをささげに禅家風な茶色の袈裟けさがけなどで来ているところは、いかにもその人らしい。当日の主人側には、長いこと隣家旧本陣に働いた清助が今は造り酒屋の番頭として、羽織袴はおりはかまの改まった顔つきで、二代目を助けながらあちこちの客を取り持っているのも人々の目をひいた。やがて質素な式がはじまり、神酒みき、白米、野菜などが型のように故人の霊前に供えられると、禰宜の鳴らす柏手かしわでの音は何がなしに半蔵の心をそそった。そこに読まれる千里の祭詞に耳を傾けるうちに、半生を通じてのよい道づれを失った思いが先に立って、その衆人の集まっている中で彼は周囲あたりかまわず男泣きに泣いた。
 五
 休息。休息。帰国後の半蔵が願いは何よりもまずその休息よりほかになかった。飛騨生活の形見として残った烏帽子えぼし[#「烏帽子」は底本では「鳥帽子」]を片づけたり無紋で袖のくくってある直衣のうしなぞを手に取って打ちかえしながめたりするお民と一緒になって見ると、長く別れていたあとの尽きない寝物語はよけいに彼のからだから疲れを引き出すようなものであった。彼は久しぶりにたずねたいと思う人も多く、無沙汰ぶさたになった家々をもおとずれたく、日ごろ彼の家に出入りする百姓らの住居すまいをも見て回りたく、自らはじめて立てた敬義学校の後身なる神坂みさか村小学校のことも心にかかって、現訓導の職にある小倉啓助の仕事をも助けたいとは思っていたが、一切をあと回しにしてまず休むことにした。万福寺境内に眠っている先祖道斎をはじめ先代吉左衛門の墓、それから伏見屋の金兵衛と伊之助とが新旧の墓なぞの並ぶ墓地の方で感慨の多い時でも送って帰って来ると、彼は自分の部屋の畳の上に倒れて死んだようになっていることもあった。

 店座敷の障子のそばに置いてある彼の
きりの机もふるくなった。その部屋は表庭つづきの前栽せんざいを前に、押入れ、床の間のついた六畳ほどの広さで、障子の外に見える古い松の枝が塀越へいごしに高く街道の方へ延びているのは、それも旧本陣としての特色の一つである。くつろぎのを宗太若夫婦に譲ってからは、彼はその部屋に退くともなく退いた形で、客でもあればそこへ通し、夜は末の和助だけをお民と自分とのそばに寝かした。この半蔵はすでに妻に話したように、子弟の教育に余生を送ろうと決心した人で、それにはまず自分の子供から始めようとしていた。彼が普通の父親以上に森夫や和助の教育に熱心であるのは、いささか飛騨の山の方で感じて来たこともあるからであった。ひどく肩でも凝る晩に、彼は森夫や和助を部屋へ呼びよせてたたかせることを楽しみにするが、それもただはたたかせない。歴代の年号なぞを諳誦あんしょうさせながらたたかせた。「その調子、その調子」と彼が言うと、二人の子供はかわるがわる父親のうしろに回って、その肩に取りつきながら、「貞享じょうきょう元禄げんろく宝永ほうえい正徳しょうとく……」。お経でもあげるように、子供らはそれをやった。

 こうした休息の日を送りながらも、半蔵はその後の木曾地方の人民が山に離れた生活に注意することを忘れなかった。もはや山林にもたよれなくなった人民の中には木曾谷に見切りをつけ、
ふるい宿場をあきらめ、追い追いと離村するものがある。長く住み慣れた墳墓の地も捨て、都会をめがけて運命の開拓をこころざす木曾人もなかなかに多い。そうでないまでも、竹も成長しない奥地の方に住むもので、耕地も少なく、農業も難渋に、山の林にでもすがるよりほかに立つ瀬のないものは勢い盗伐に流れる。中には全村こぞって厳重な山林規則に触れ、毎戸かわるがわる一人ずつの犠牲者を長野裁判所の方へ送り出すことにしているような不幸な村もある。こんなに土地の事情に暗く、生民の期待に添おうとしないで、地租改正のおりにも大いに暴威を振るった筑摩県時代の権中属ごんちゅうぞく本山盛徳とはどんな人かなら、その後に下伊那しもいな郡の方で涜職とくしょくの行為があって終身懲役に処せられ、佐賀の事変後にわずかに特赦の恩典に浴したとのうわさがあるくらいだ。政府は人民の政府ではないかと言いながらも、こんな行政の官吏が下にある間は、いかんともしがたかった。地方の人民がいかによい政治を慕い、良吏を得た時代の幸福な日を忘れないでいるかは、この木曾谷の支配が尾州藩の手から筑摩県の管轄に移るまでの間に民政権判事ごんはんじとして在任した土屋総蔵の名がいまだに人民の口に上るのでもわかる。

 この郷里のありさまを見かねて、今一度山林事件のために奔走しようとする木曾谷十六か村(三十三か村の併合による)の総代のものが半蔵の前にあらわれて来た。これは新任の長野県令あてに、木曾谷山地官民有の区別の再調査を請願する趣意で、その請願書を作るための参考に、明治四年十二月と同五年二月との二度にわたって半蔵らの作成した嘆願書、および彼の集めた材料の古書類を借り受けたいとの話が今度の発起者側からあった。もとより彼は王滝の旧戸長遠山五平と前に力をあわせ、互いに寝食を忘れるほどの奔走をつづけ、あちこちの村を
たずね回って旧戸長らの意見をまとめることに心を砕き、そのために主唱者とにらまれて戸長を免職させられたくらいだから、今度の発起者側からの頼みに異存のあろうはずもなかった。

 請願書の草稿はできた。翌明治十三年の二月にはいるころには、各村戸長の意見もまとまって、その草稿の写しが半蔵のもとにも回って来るほどに運んだ。それは十六、七枚からの長い請願書で、木曾谷山地古来の歴史から、維新以来の沿革、今回請願に及ぶまでのことが述べてあるが、筋もよく通り、古来人民の自由になし来たった場所はさらに民有に引き直して明治維新の徳沢に浴するよう寛大の御沙汰をたまわりたいとしたものであった。旧筑摩県の本山盛徳が権中属時代に調査済みの実際を見ると、全山三十八万町歩あまりのうち、その大部分は官有地となり、余すところの民有地はわずかにその十分の一に過ぎなくなった。そのため、困窮のあまり、官林にはいって罪を犯し処刑をこうむるものは明治六、七年以来数えがたく、そのたびに徴せらるる
贖罪金しょくざいきんもまた驚くべき額に上った。これではどうしても山地の人民が立ち行きかねるから、各村に存在する旧記古書類をもっと精密に再調査ありたいとの意味もしたためてある。この請願書の趣意はいかにも時宜に適したものだとして、半蔵なぞもひどくよろこんだ。

 ところが、これには異論が出て、いよいよ県庁へ差し出すまでにはところどころに草稿の訂正が加えられた。半蔵はそれを聞いてその訂正されたものを見たいと思い、宗太を通してさらに発起者側から写しの書類を送ってもらった。「お
とっさん、この請願書にはだいぶがみがしてありますよ」。そういう宗太ももはや一人前の若者で、木曾山の前途には関心を持つらしい。半蔵は宗太と一緒にその書類に見入った。享保きょうほう検地以来のことをしるしたあたりはことに省いてあって、そのかわり原案の草稿にない文句が半蔵の目についた。彼は宗太に言った。「ホ、ここにも民有の権を継続してとあるナ。この書類はしばらくおれが借りて置く。よく読んで見る」。

 ひとりになってからの半蔵は繰り返しその請願書に目を通した。木曾のような
辺鄙へんぴな山の中に住んで、万事がおくれがちな人たちの中にも、いつのまにか世の新しい風潮を受け入れて、こんな山林事件にまで不十分ながらも民有の権利を持ち出すようになったことをおもって見た。これが官尊民卑の旧習に気づいた上のことであるなら、とにもかくにも進歩と言わねばならなかった。最初彼が王滝の遠山五平らを語らい合わせて出発した当時の山林事件は、今のうちに官民協力して前途百年の方針を打ち建てて置きたいという趣意にもとづいた。というのは、従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度であるから、郡県政治の時代となっては本県の管下も他郷一般の処置を下し置かれたい、それには享保以前のいにしえに復したいと願ったからであった。言って見れば、木曾谷の沿革には、およそ三期ある。第一期は享保以前で、山地には御役榑おやくくれすなわち木租を納めさえすればその余は自由に伐木売買を許された時代、人民が山木と共にあった時代である。第二期は享保以後から明治維新に至るまで。この時代に巣山すやま留山とめやま明山あきやまの区別ができ、入山いりやま伐木を人民の自由に許した明山たりとも五種の禁止木の制を立て、そのかわりに木租の上納は廃された。旧領主と人民との間に紛争の絶えなかった時代、人民がおもな山木に離れた時代である。それでもなお、五木以外の雑木と下草とは人民の自由で、切り畑焼き畑等の開墾もまた自由になし得た証拠は、諸村山論済口さんろんすみくちの古証文、旧尾州領主よりの公認を証すべき山地の古文書、一村また数村の公約と見るべき書類等に残っている。のみならず幕府恩賜の白木六千は追い追い切り換えの方法をもって代金二百三十一両三分銀十匁五分ずつ毎年谷中へ下げ渡されたことは、維新の際まで続いた。第三期は明治以来、木曾山の大部分は官有地と定められた時代、人民は明山の雑木と下草にも離れた時代である。半蔵らが享保以前の古に復したいとの最初の嘆願は、一部の禁止林を立て置かるるには異存がないから、その他の明山の開放をい、山地住民の義務を堅く約束して今一度山木と共にありたいとの趣意にほかならなかった。もっとも、多年人民の苦痛とする五木の禁止が何のためにあったのか。それほどまでにして尾州藩が木曾山を監視したのはどういう趣意にもとづいたのか。それが当時は十露盤そろばんずくで引き合う山でもなく、結局尾州家の財源にもならなかったとすれば、万一の用材に応ずる森林の保護のためにあったのか。それとも東山道中の特別な要害地域を守る封建組織のためにあったのか。あるいはまた、木曾川下流の大きな氾濫はんらんに備えるためにあったのか。そこまでは半蔵らも知るよしがなかった。

 明治の
御世みよも、西南戦争あたりまでの十年間というものは半蔵には実に混沌こんとんとして暗かった。あれから社会の空気も一転し、これまで諸方に蜂起ほうきしつつあった種々さまざまな性質の暴動もしずまり、だれが言うともない標語は彼の耳にも聞こえて来るようになった。この国のものはもっと強くならねばならない、もっと富まねばならないというのがそれだ。言いかえれば、富国と強兵とだ。しかしよく見れば、地方の人心はまだまだ決して楽しんではいない。日ごろ半蔵らの慕い奉るみかどが新時代の前途を祝福して万民と共に出発したもうたころのことが、また彼の胸に浮かぶ。あの時に帝の誓われた五つのお言葉と、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよと宣せられたその庶民との間には、いつのまにかあめ磐戸いわとにたとえたいものができた。その磐戸は目にも見えず、説き明かすこともできないが、しかし深い草叢くさむらの中にあるものはそれを感ずることはできた。それあるがために日の光もあらわれず、大地もほほえまず、君と民とも交わることができなかった。

 どうして彼がそんな想像を胸に描いて見るかというに、あの東山道軍が江戸をさして街道を進んで来た維新のはじめの際、どんな社会の変革でも人民の支持なしに
げられたためしのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、東山道総督の執事がそのために幾度も布告を発し、堅く民意の尊重を約束したころは、そんな磐戸はまだ存在しなかったからであった。たまたまここに磐戸を開こうとしてあらわれて来た手力男たぢからおみことにたとえたいような人もあった。その人の徳望と威力とは天下衆人に卓絶するものとも言われた。けれども、磐屋の前の暗さに変わりはない。力だけでは磐戸も開かれなかったのだ。

 こんな想像は、飛騨の旅の思い出と共に帰って来る半蔵の夢でしかないが、それほど彼の心はまだ暗かった。幾多の欠陥の社会に伏在すればこそ、天賦人権の新説も頭を持ち上げ、ヨーロッパ人の中に生まれた自由の理も喧伝けんでんせられ、民約論のたぐいまで紹介せられて、福沢諭吉ふくざわゆきち板垣退助いたがきたいすけ、植木枝盛えもり、馬場辰猪たつい、中江篤介とくすけらの人たちが思い思いに、あるいは文明の急務を説き、あるいは民権の思想を鼓吹こすいし、あるいは国会開設の必要を唱うるに至った。真知なしには権利の説の是非も定めがたく、海の東西にある諸理想の区別をも見きわめがたい。ただただわけもなしに付和雷同する人たちの声は啓蒙けいもうの時にはまぬがれがたいことかもしれないが、それが郷里の山林事件にまで響いて来るので、半蔵なぞはハラハラした。物を教える人がめっきり多くなって、しかも学ぶに難い世の中になって来た。良心あるものはその声にきいて道をたどるのほかはなかったのである。この空気の中だ。今度木曾山を争おうとする人たちに言わせると、「平田門人は復古を約束しながら、そんないにしえはどこにも帰って来ないではないか」というにあるらしい。これには半蔵は返す言葉もない。復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあると言ったあの暮田正香くれたまさかの言葉なぞを思い出して彼は暗然とした。ともあれ、県庁あての請願書はすでに差し出されたが、その結果もおぼつかなかった。たとい木曾谷の山林事件そのものがどう推し移ろうとも、旧領主時代からの長い紛争の種がこのままにして置けるはずもないから、自分らの代にできなければ子の代に伝えても、なんらかの良い解決を見いだしたいと彼は切に願った。
 その年は木曾地方の人民にとって記念すべき年であった。帝には東山道の御巡幸を仰せ出され、木曾路の御通過は来たる六月下旬の若葉のころと定められたからであった。この御巡幸は、帝としては地方をめぐらせたもう最初の時でもなかったが、これまで信濃の国の山々も親しくは叡覧えいらんのなかったのに、初めて木曾川の流るるのを御覧になったら、西南戦争当時なぞの御心労は言うまでもなく、時の難さにさまざまのことをおぼし召されるであろうと、まずそれが半蔵の胸に来る。あの山城やましろの皇居を海に近い武蔵むさしの東京にうつし、新しい都を建てられた当初の御志おんこころざしに変わりなく、従来深い玉簾ぎょくれんの内にのみこもらせられた旧習をも打ち破られ、帝自らかく国々に御幸みゆきしたまい、簡易軽便を本として万民を撫育ぶいくせられることは、彼にはありがたかった。封建君主のごときものと聞くヨーロッパの帝王が行なうところとは違って、この国の君道のゆかしさも彼にはおもい当たった。今度の御巡幸について地方官にさとされた趣意も、親しく地方の民情をしろし召されたいのであって、百般の事務が形容虚飾にわたっては聖旨にもとるから、厚く人民の迷惑にならないよう取り計らうことが肝要であると仰せられ、道路橋梁きょうりょう等のやむを得ない部分はあるいは補修を加うることがあろうとも、もとより官費に属すべきことで決して人民に難儀をかけまいぞと仰せられ、大臣以下供奉ぐぶの官員が旅宿はことさらに補修を加うるに及ばず、需要の物品もなるべく有り合わせを用いよと仰せ出されたほどであった。

 五月の来るころには、長野県の御用掛りが道路見分に奥筋から出張して来るようになった。馬籠の戸長役場のものはその人を村境まで案内し、絵図の仕立て方なぞを用意することになった。いよいよ御巡幸の御道筋も定まって見ると、馬籠駅御昼食とのことである。西
筑摩ちくまの郡長、郡書記も出張して来て、行在所あんざいしょとなるべき家は馬籠では旧本陣青山方と指定された。これには半蔵はひどく恐縮し、御駐蹕ごちゅうひつを願いたいのは山々であるが、こんな山家にお迎えするのは恐れ多いとして、当主宗太を通して一応は御辞退するむね申し上げた。それにはわき本陣桝田屋ますだや方こそ、二代目惣右衛門そうえもんのような名古屋地方にまで知られた町人の残した家のあとであるから、今の住居すまいは先年の馬籠の大火に焼けかわったものであるにしても、まだしも屋造りに見どころがあるとも申し上げたが、やはり青山の家の方が古い歴史もあり、西にひらけた眺望ちょうぼうのある位置としても木曾にはめずらしく、座敷の外に見える遠近の山々も、ごちそうの一つということになった。半蔵としては、日ごろ慕い奉る帝が木曾路の御巡幸と聞くさえあるに、彼ら親子のものの住居すまいにお迎えすることができようなぞとは、まったく夢のようであった。「お民、妻籠の方でも皆目を回しているだろうね。寿平次さんの家じゃどうするか」。「それがですよ。妻籠のお小休みは実蔵さん(得右衛門養子)の家ときまったそうですよ」。「やっぱり、そうか。寿平次さんも御遠慮申し上げたと見える」。半蔵夫婦の言葉だ。

 そのうちに、御先発としての
山岡鉄舟やまおかてっしゅうの一行も到着する。道路の修繕もはじまって、この地方では最初の電信線路建設の工事も施された。御膳水ごぜんすいは伏見屋二代目伊之助方の井戸を用うることに決定したなどと聞くにつけても、半蔵はあのき旧友を思い出し、もし自分が駅長なり里長なりとして在職していて先代伊之助もまだ達者たっしゃでいてくれたら、共に手を携えて率先奔走するであろうにと残念がった。亡き吉左衛門や金兵衛らと共にあの和宮様御降嫁のおりの御通行を経験した彼は、あれほど街道の混雑を見ようとはもとより思わなかったが、それでも多数にお入り込みの場合を予想し、こんなことで人足や馬が足りようかと案じつづけた。

 六月二十四日はすでに
上諏訪かみすわ御発輿ごはつよの電報の来るころである。その時になると、木曾谷山地の請願事件も、何もかも、この街道の空気の中にうずめ去られたようになった。帝行幸のおうわさがあるのみだった。この御巡幸の諸準備には、本県より出張した書記官や御用掛りの見分がある上に、御厩おうまや課、内匠たくみ課の人々も追い追い到着して、御道筋警衛の任に当たる警部や巡査の往来も日に日に多くなった。馬籠でも戸長をはじめとして、それぞれの御用取扱人というものを定めた。だれとだれは調度掛り、だれは御宿掛り、だれは人馬継立つぎたて掛り、だれは御厩掛り、だれは土木掛りというふうに。半蔵は宗太を通して、その役割をしるした帳面を見せてもらうと、旧宿役人の名はほとんどその中に出ている。戊辰ぼしんの際に宿役人に進んだ亀屋かめや栄吉をはじめ、旧問屋九郎兵衛、旧年寄役桝田屋小左衛門ますだやこざえもん、同役蓬莱屋ほうらいや新助、同じく梅屋五助、旧組頭くみがしら笹屋ささや庄助、旧五人組の重立った人々、それに年若ではあるがふるい家柄として伏見屋の二代目伊之助からその補助役清助の名まである。しかし、半蔵には何の沙汰もない。彼も今は隠居の身で、何かにつけてそう口出しもならなかった。ただ宗太が旧本陣の相続者として今度御奉公申し上げるのは、彼にはせめてものなぐさめであった。

 御巡幸に先立って、臣民はだれでも詩歌の類を献上することは差し許された。その詠進者は県下だけでもかなりの多数で、中には八十余歳の老人もあり、十一歳ぐらいの少年少女もあると聞こえた。半蔵もまたその中に加わって、心からなる奉祝のまことをわずかに左の一編の長歌に寄せた。

 八隅やすみししわが大君、かむながらおもほし召して、大八洲国おおやしまくに八十国やそくに、よりによりにめぐらし、いちじろき神のやしろに、ぬさまつりをろがみまし、御世御世のみおやの御陵みはか、きよまはりをろがみまして、西の海東の山路、かなたこなた巡りましつつ、あきらけくおさまる御世の、今年はも十あまり三とせ、瑞枝みずえさす若葉の夏に、ももしきの大宮人の、人さはに御供みともつかへて、ひんがしみやこをたたし、なまよみの甲斐かいの国、山梨やまなしあがたを過ぎて、信濃路しなのじに巡りいでまし、諏訪すわのうみを見渡したまひ、松本の深志ふかしの里に、大御輿おおみこしめぐらしたまひ、真木まき立つ木曾のみ山路、岩が根のこごしき道を、かしこくも越えいでますは、いにしえにたぐひもあらじ。
 谷川の川辺のいわお、かむさぶる木々の叢立むらだち、めづらしと見したまはむ、くすしともめでたまはむ。我里は木曾の谷の、名に負ふ神坂みさかの村の、さかしき里にはあれど、見霽みはらしのよろしき里、美濃の山近江おうみの山、はろばろに見えくる里、恵那の山近くそびえて、胆吹山いぶきやま髣髴ほのかにも見ゆ。ももしきの美濃にかさば、山をおり国きかれば、かくばかり遠くは見えじ。しかあらばここの御憩みいこひ、つねよりも長くいまさな。春ならば花さかましを、秋ならば紅葉もみじしてむを、花紅葉今は見がてに、常葉木とこわぎも冬木もなべて、緑なる時にしあれば、遠近おちこちたたなづく山、茂り合ふ八十樹やそき嫩葉わかば、あはれともしたまはな。

かしこくもわが大君、山深き岐岨きそにはあれど、ふたたびもいでましあらな。
あなたふと、わが大君、しまらくも
長閑のどにいまして、見霽みはるかしませ。
    反歌
大君の御世とこしへによろづよも南の山と立ち重ねませ
夏山の若葉立ちくぐ
霍公鳥ほととぎすなれもなのらな君が御幸みゆき
山のまの家居る民の
やからまで御幸をろがむことのかしこさ
 御順路の日割によると、六月二十六日鳥居峠お野立のだて、藪原やぶはらおよびこしお小休み、木曾福島御一泊。二十七日かけはしお野立て、寝覚ねざめお小休み、三留野みどの御一泊。二十八日妻籠お小休み、峠お野立て、それから馬籠御昼食とある。帝が群臣を従えてこの辺鄙へんぴな山里をも歴訪せらるるすずしい光景は、街道を通して手に取るように伝わって来た。輦路れんろ嶮難けんなんなるところから木曾路は多く御板輿おんいたごしで、近衛このえ騎兵に前後をまもられ、供奉ぐぶの同勢の中には伏見二品宮にほんのみや徳大寺宮内卿とくだいじくないきょう、三条太政だじょう大臣、寺島山田らの参議、三浦陸軍中将、その他伊東岩佐らの侍医、池原文学御用掛りなぞの人々があると言わるる。福島の行在所あんざいしょにおいて木曾の産馬を御覧になったことなぞ聞き伝えて、その話を半蔵のところへ持って来るのは伏見屋の三郎と梅屋の益穂ますほとであった。

 この二人の少年は帰国後の半蔵について漢籍を学びはじめ「お師匠さま、お師匠さま」と言っては慕って来て、物心づく年ごろにも達しているので、何か奥筋の方から聞きつけたうわさでもあると、
早速さっそく半蔵を見にやって来る。き伏見屋の金兵衛にでも言わせたら、それこそ前代未聞の今度の御巡幸には、以前に領主や奉行が通行の際にも人民の土下座したふるい慣例は廃せられ、すべて直礼のかたちに改めさせたというようなことまでが二少年の心を動かすに充分であった。

 いよいよ馬籠御通行という日が来ると、四、五百人からの人足が朝から詰めて
御通輦ごつうれんを待ち受けた。半蔵は裏の井戸ばたで水垢離みずごりを執り、からだをきよめ終わって、神前にその日のことを告げた後、家の周囲を見て回ると、高さ一丈ばかりの木札に行在所としるしたのが門前に建ててあり、青竹のかきも清げにめぐらしてある。

 家内一同朝の食事を済ますころには、もう御用掛りの人たちが家へ入り込んで来た。お民は森夫や和助を呼んで
羽織袴はおりはかまに着かえさせ、内膳ないぜん課の料理方へ渡す前にわざわざ西から取り寄せたという鮮魚のさらに載せたのを子供らにも取り出して見せた。季節がら食膳に上るものと言えば、石斑魚うぐいか、たなびらか、それに木ささげ、竹の子、菊豆腐のたぐいであるが、山家にいてはめずらしくもない河魚や新鮮な野菜よりもやはり遠くから来る海のものを差し上げたら、あるいは都の料理方にもよろこばれようかと彼女は考えたのである。「御覧、これはサヨリというおさかなだよ。禁庭さまに差し上げるんだよ」。幼い和助なぞは半分夢のように母の言葉を聞いて、その心は国旗や提灯ちょうちんを掲げつらねた旧い宿場のにぎやかさや、神坂みさか村小学校生徒一同でお出迎えする村はずれの方へ行っていた。

 やがて青山の家のものは
母屋もやの全部を御用掛りに明け渡すべき時が来た。往時、諸大名が通行のおりには、本陣ではそれらの人たちのために屋敷を用意し、部屋部屋を貸し与え、供の衆何十人前の膳部の用意をも忘れてはならないばかりでなく、家のものが直接に客人をもてなすことに多くの心づかいをしたもので、それでも供の衆には苦情は多く、弊害百出のありさまであったが、今度は人民に迷惑をかけまいとの御趣意から、ただ部屋部屋をお貸し申すだけで事は足りた。御膳水、御膳米の用意にも、それぞれ御用取扱人があった。半蔵は羽織袴で、準備のできた古い屋根の下をあちこちと見て回った。上段の間は、と見ると、そこは御便殿ごびんでんに当てるところで、純白な紙で四方を張り改め、床の間には相州三浦の山上家から贈られた光琳こうりん筆の記念の軸がかかった。御次ぎの奥の間は侍従室、仲の間は大臣参議の室というふうで、すべてくつでも歩まれるように畳の上には敷き物を敷きつめ、玉座、および見晴らしのある西向きの廊下、玄関などは宮内省よりお持ち越しの調度で鋪設ほせつすることにしてあった。どこを内廷課の人たちの部屋に、どこを供進所に、またどこを内膳課の調理場にと思う[#「思う」は底本では「思ふ」]と、ただただ半蔵は恐縮するばかり。そのうちにお民も改まった顔つきで来て、彼のそでを引きながら一緒に裏二階の方にこもるべき時の迫ったことを告げた。

 継母おまんをはじめ、よめのお
まき、下男佐吉、下女お徳らはいずれも着物を改めて、すでに裏の土蔵の前あたりに集まっていた。そこは井戸の方へ通う細道をへだてて、斜めに裏二階と向かい合った位置にある。土蔵の前に茂るかきの若葉は今をさかりの生気を呼吸している。その時は、馬籠の村でも各戸供奉の客人を引き受ける茶のしたくにいそがしいころであったが、そういう中でもうるわしい龍顔を拝しに東の村はずれをさして出かけるものは多く、山口村からも飯田いいだ方面からも入り込んで来るものは街道の両側に群れ集まるころであった。しかし、青山の家のものとしては、とどこおりなく御昼食も済んだと聞くまでは、いつ何時なんどきどういう御用がないともかぎらなかったから、いずれも皆その裏二階に近い位置を離れられなかった。その辺から旧本陣の二つの裏木戸の方へかけては巡査も来て立って、静粛に屋後の警備についていた。

 過ぐる年、東京
神田橋かんだばし外での献扇けんせん事件は思いがけないところで半蔵の身に響いて来た。千載一遇とも言うべきこの機会に、村のものはまたまた彼が強い衝動にでも駆られることを恐れるからであった。かつては憂国の過慮から献扇事件までひき起こし、一時は村でもとかくの評判が立った彼のことであるから、どんな粗忽そこつな挙動を繰り返さないものでもあるまいと、ただただわけもなしに気づかうものばかり。先代伊之助がくなったあとの馬籠では、その点にかけて彼の真意をくむものもない。村で読み書きのできるものはほとんど彼の弟子でしでないものはなく、これまで無知な子供を教え導こうとした彼の熱心を認めないものもなかったから、その人を軽く扱うではないが、しかしこの際の彼は静かに家族と共にいて、陰ながら奉迎の意を表してほしいというのが村のものの希望らしい。古い歴史のあるこの地方のことを供奉の人々にも説き明かすような役割は何一つ彼には振り当てられなかった。その相談もなければ、沙汰もない。彼は土蔵の前の石垣のそばに柿の花の落ちている方へ行って、ひとりですすり泣きの声をのむこともあった。

 恵那山のふもとのことで、もはやお着きを知らせるようなめずらしいラッパの音が遠くから谷の空気に響けて来た。当日一千人分の名物
栗強飯くりこわめしをお買い上げになり、随輦ずいれんの臣下のものに賜わるしたくのできていたという峠でのお野立ての時もすでに済まされたらしい。半蔵はあの路傍のの木立ちの多い街道を進んで来る御先導を想像し、山坂に響く近衛このえ騎兵の馬蹄ばていの音を想像し、美しい天皇旗を想像して、長途の旅の御無事を念じながらしばらくそこに立ち尽くした。
 六
 明治十四年の来るころには半蔵も五十一歳の声を聞いた。その年の四月には、青山の家では森夫と和助を東京の方へ送り出したので、にわかに家の内もさみしくなった。二人の子供は東京に遊学させる、木曾谷でも最も古い家族の一つに数えらるるところから「本陣の子供」と言って自然と村の人の敬うにつけてもとかく人目にあまることが多い、二人とも親の膝下ひざもとに置いては将来ろくなことがない、今のうちに先代吉左衛門が残した田畑や本陣林のうちをいて二人の教育費にあてる、幸い東京の方には今子供たちの姉の家がある、おくめはその夫植松弓夫ゆみおと共に木曾福島を出て東京京橋区鎗屋町やりやちょうというところに家を持っているからその方に二人の幼いものを託する、あのお粂ならきっと弟たちのめんどうを見てくれる、この半蔵の考えが宗太をよろこばせた。子供本位のお民もこれには異存がなく、彼女から離れて行く森夫や和助のために東京の方へ持たせてやる羽織を織り、帯を織った。継母のおまんはおまんで、孫たちが東京へ立つ前日の朝は裏二階から母屋もやの囲炉裏ばたへ通って来て、自分のぜんの前に二人を並べて置きながら、子供心にわかってもわからなくても青山の家の昔を懇々と語り聞かせた。ひょっとするとこれが孫たちの見納めにでもなるかのように、七十三歳の春を迎えたおまんはしきりに襦袢じゅばんそでで老いのまぶたをおしぬぐっていたが、いよいよ兄弟きょうだいの子供が東京への初旅に踏み出すという朝は涙も見せなかった。

 当時は旅もまだ容易でなかった。木曾の山の中から東京へ出るには、どうしても峠四つは越さねばならない。宗太も大奮発で、二人の弟の遊学には自ら進んで東京まで連れて行くと言い出したばかりでなく、隣家伏見屋二代目のすぐ下の弟に当たる二郎が目の治療のために同行したいというのをも一緒に引き受けて行った。子供ながらも二人の兄弟の動きは、そのあとにいろいろなものを残した。兄の森夫は、十三歳にもなってそんな頭をして行ったら東京へ出て笑われると言われ、宗太に
手鋏てばさみでジョキジョキ髪を短くしてもらい、そのあとがすこしぐらい虎斑とらふになっても頓着とんちゃくなしに出かけるという子供だし、弟の和助も兄たちについて東京の方へ勉強に行かれることを何よりのよろこびにして、お河童頭かっぱあたまを振りながら勇んで踏み出すという子供だ。この弟の方はことに幼くて、街道を通る旅の商人からお民が買ってあてがったおもちゃのかばん金米糖こんぺいとうを入れ、それをさげるのを楽しみにして行ったほどの年ごろであった。小さなひものついた足袋たび。小さな草鞋わらじ。その幼いものの旅姿がまだ半蔵夫婦の目にある。下隣のお雪婆さんの家には、兄弟の子供が預けて置いて行ったショクノ(地方によりネッキともいう)が残っているというような話も聞こえて来る。

 初代伊之助を見送ったあとのお富ももはや若夫婦を相手の後家であるが、この人は東京行きの二郎を宗太に託してやった関係からも、風呂なぞもらいながら隣家から
かよって来て、よく青山の家に顔を見せる。お富が言うことには、「そりゃ、まあ、かわいい子には旅をさせろということもありますがね、よくそれでもお民さんがあんなちいさなものを手離す気におなりなすった。なんですか、わたしはオヤゲナイ(いたいたしい)ような気がする」。囲炉裏ばたにはこんな話が尽きない。やれ竹馬だなんだかだと言って森夫や和助が家の周囲まわりを遊び戯れたのも、きのうのことになった。「でも、妙なものですね。まだわたしは子供がそこいらに遊んでるような気がしますよ。塩の握飯むすびをくれとでも言って、今にも屋外そとから帰って来るような気がしますよ――わたしはあの塩の握飯の熱いやつを朴葉ほおばに包んで、よく子供にくれましたからね」。寄ると触るとお民はそのうわさだ。「まだお前はそんなことを言ってるのかい」。口にこそ半蔵はそう答えたが、その実、この妻を笑えなかった。手離してやった子供はどこにでもいた。夕方にでもなると街道から遠く望まれる恵那山の裾野すそのの方によく火が燃えて、それが狐火きつねびだと村のものは言ったものだが、そんな街道に蝙蝠こうもりなぞの飛び回る空の下にも子供がいた。家の裏の木小屋の前から稲荷いなりほこらのある方へ通うところには古い池があって、石垣の間には雪の下が毎年のように可憐かれんな花をつけるところだが、そんなおとなでもちょっと背の立たないほど深いよどんだ水をたたえた池のほとりにも子供がいた。そればかりではない、子供は彼の部屋座蒲団ざぶとんの上にもいたし、彼のふところの中にもいた。彼のたもとの中にもいた。

 「この野郎、この野郎」と彼が言いかけて、いくら教えても本のきらいな森夫の耳のあたりへ、握りこぶしの一つもくらわせようとすると、いつのまにか本をかかえて逃げ出すような子供は彼の目の前にいた。「オイ、
蝋燭ろうそく、蝋燭」と彼が注意でもしてやらなければ、たまに夜おそくまで紙をひろげ、燭台しょくだいを和助に持たせ、そのかげに和歌の一つも大きく書いて見ようとすると、蝋燭もろともそこへころげかかるほど眠がっているような子供は彼のすぐそばにもいた。山のものとも海のものともまだわからないような兄弟の子供の前途にも半蔵は多くの望みをかけた。彼は読み書きの好きな和助のために座右の銘ともなるべき格言を選び、心をこめた数よう短冊たんざくを書き、それを紙に包んで初旅のはなむけともした。

やよ和助読み書き数へいそしみて心静かに物学びせよ
 飛騨にいるころから半蔵はすでにこんな歌を作って子を思うこころを寄せていた。
 宗太は弟たちの旅の話を持って無事に東京から帰って来た。一行四人のものが、みさやま峠にかかった時は、さすが山歩きに慣れた子供の足も進みかねたと見え、峠で日が暮れかかったこともあったという。余儀なく彼は和助の帯に手ぬぐいを結びつけ、それで歩けない弟を引きあげたとか。追分おいわけまで行くと、そこにはもう東京行きの乗合馬車があった。彼も初めてその馬車に乗って見た。同乗の客の中にはやはり東京行きの四十格好の婦人もあったが、弟たちを引率した彼に同情して、和助を引き取り、菓子なぞを与えたりしたが、昼夜の旅に疲れた子供はその見知らぬ婦人のひざの上に眠ることもあった。馬車に揺られながら鶏の鳴き声を聞いて行って松井田まで出たころに消防夫梯子はしご乗りの試演にあった時は子供の夢を驚かした。上州じょうしゅうを過ぎ、烏川からすがわをも渡った。四月の日の光はいたるところの平野にみちあふれていた。馬車は東京万世橋まんせいばし広小路ひろこうじまで行って、馬丁が柳並み木のかげのところに馬をめたが、それがあの大都会の幼いものの目に映る最初の時であった。この道中に、彼は郷里から追分まで子供の足に歩かせ、それからはずっと木曾街道を通しの馬車であったが、それでも東京へはいるまでに七日かかった。植松夫婦は、名古屋生まれの鼻のたかいお婆さんや都育ちの男の子と共に、京橋鎗屋町やりやちょう住居すまいの方で宗太らを待ち受けていてくれたという。

 おまんをはじめ、半蔵夫婦、よめのお
まきらは宗太のまわりを取りまいて、帰りみちにもまた追分までは乗合馬車で来たとめずらしそうに言う顔をながめながら、この子供らの旅の話を聞いた。下隣に住むお雪婆さんまでそれを聞きにやって来た。下男の佐吉と下女のお徳とが二人ともそれを聞きのがすはずもない。お徳は和助のちいさい時分からあの子供を抱いたり背中にのせて子守唄こもりうたをきかせたりした長いなじみで、勝手の水仕事をするあかぎれの切れた手を出しては家のものの飯を盛ると、そればかりはあの子供にいやがられた仲だ。毎晩の囲炉裏ばたを夜業よなべの仕事場とする佐吉はまた、百姓らしい大きな手につばをつけてゴシゴシとわらいながら、たぬきの人を化かした話、はたけに出るむじなの話、おそろしい山犬の話、その他無邪気でおもしろい山の中のお伽噺とぎばなしから、畠の中に赤い舌をぶらさげているものは何なぞの謎々なぞなぞを語り聞かせることを楽しみにした子供の友だちだ。

 「そう言えば、今度わたしは東京へ行って見て、姉さん(お
くめ)のふとったには驚きましたよ。あの姉さんも、いい細君になりましたぜ」。宗太が思い出したように、そんな話を家のものにして聞かせると、「ねえ、おっかさん、色の白い人が肥ったのも、わるかありませんね」。飯田いいだ育ちのおまきもお民のそばにいて言葉を添える。その晩、半蔵は子供らが上京の模様にやや心を安んじて、お民と共に例の店座敷でおそくまで話した。過ぐる一年ばかりは和助もその部屋には寝ないで、年老いた祖母と共に提灯ちょうちんつけて裏二階の方へ泊まりに行ったことを彼は思い出し、とにもかくにもその末の子までが都会へ遊学する時を迎えたことを思い出し、先代吉左衛門も彼の年になってはよくもとへ古風な手さげのついた煙草盆たばこぼんを引きよせたことなぞを思い出して、お民と二人の寝物語にまで東京の方のうわさで持ち切った。

 「お民、お粂が結婚してから、もう何年になろう。植松のお婆さんでおれは思い出した。あの人の連れ合い(植松
菖助しょうすけ、木曾福島旧関所番)は、お前、維新間ぎわのごたごたの中でさ、よその家中衆から名古屋臭いとにらまれて、あの福島の祭りの晩にられた武士さ。世の中も暗かったね。さすがにあのお婆さんは尾州藩でも学問の指南役をする宮谷家から後妻に来たくらいの人だから、自分の旦那の首を夜中に拾いに行って、木曾川の水でそれを洗って、風呂敷包ふろしきづつみにして持って帰ったという話がある。植松のお婆さんはそういう人だ。琴もひけば、歌の話もする。あの人をしゅうとめに持つんだから、お粂もなかなか気骨きぼねが折れようぜ」。半蔵夫婦のうわさが総領娘のことに落ちて行くころは、やがて夜も深かった。「ホ、隣の人は返事しなくなった。きょうはお民もくたぶれたと見える」と半蔵はひとり言って見て、枕もとの角行燈かくあんどんのかげにちょっと妻の寝顔をのぞいた。四十四歳まで彼と生涯をともにして来たこの気さくで働くことの好きな人は、夜の眠りまでなるがままに任せている。いつのまにか安らかな高いびきも聞こえて来る。その声が耳について、よけいに彼は目がさえた。「酒」。そんなことを夜中に彼が言い出したところで、答える人もない。眠りがたいあまりに、彼は寝床からはい出して、手燭てしょくをとぼしながら囲炉裏ばたの勝手の方へ忍んだ。
 二合ばかりの酒、冷たくなった焼き味噌みそ、そんなものが勝手口の戸棚とだなに残ったのを半蔵はさがし出して、それを店座敷に持ち帰った。彼が火鉢ひばちだ炭取りだ鉄瓶てつびんだと妻の枕もとを歩き回るたびに、深夜の壁に映るひとりぼっちの影法師は一緒になって動いた。 物を学ばせに子供を上京させたことから、半蔵はいろいろな心持ちを引き出されていた。お民が何も知らずにいる間に、彼は火鉢の火をおこしたり、鉄瓶をかけたりなぞしながら、そのことを考えた。つまり、それは彼自身に物を学びたいと思う心が熱いからであった。あの『勧学篇かんがくへん』などを子供に書いてくれて、和助が七つ八つのころから諳誦あんしょうさせたのも、その半蔵だ。学芸の思慕は彼の天性に近かった。それはまた親譲りと言ってもよかった。彼が平田入門を志した青年の日、父吉左衛門にその望みを打ち明けたところ、父は馬籠の本陣を継ぐべき彼が寝食も忘れるばかりに平田派の学問に心を傾けて行くのを案じながらも、「お前の学問好きは、そこまで来たか。」と言って、結局彼の願いをいれてくれたというのも、やはり吉左衛門自身にその心があつかったからであった。かくも学ぶに難い時になって来て、何から何まで西洋の影響を受け、今日の形勢では西洋でなければ夜が明けないとまで言う人間が飛び出す世の中に立っては、彼とても何を自分の子供に学ばせ、自らもまた何を学ぼうと考えずにはいられなかった。どうして国学に心を寄せるほどのものが枕を高くして眠られる時ではないのだ。

 先師平田篤胤の遺著『
しず岩屋いわや』をあの王滝の宿で読んだ日のことは、また彼の心に帰って来た。あれは文久三年四月のことで、彼が父の病をいのるための御嶽おんたけ参籠さんろうを思い立ち、弟子勝重かつしげをも伴い、あの山里の中の山里ともいうべきところに身を置いて、さびしくきこえて来る王滝川の夜の河音かわおとを耳にした時だった。先師と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎だかつのように憎みきらった人のように普通に思われながら、「そもそもかく外国々とつくにぐによりよろづの事物ものごとの我が大御国おおみくにに参り来ることは、皇神すめらみかみたちの大御心おおみこころにて、その御神徳の広大なるゆえに、しきの選みなく、森羅万象しんらばんしょうのことごとく皇国すめらみくにに御引寄せあそばさるる趣をく考へわきまへて、外国とつくにより来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すもかしこきことなれども、これすなはち大神等おおみかみたち御心掟みこころおきてと思い奉られるでござる、」とあるような、あんな広い見方のしてあるのに、彼が心から驚いたのも『静の岩屋』を開いた時だった。先師はあの遺著の中で、天保てんぽう年代の昔に、すでに今日あることを予言している。こんなに欧米諸国の事物がはいって来て、この国のものの長い眠りを許さないというのも、これも測りがたい神の心であるやも知れなかった。

 言葉もまた重要な交通の機関である。かく万国交際の世の中になって、一切の学術、工芸、政治、教育から軍隊の組織まで西洋に学ばねばならないものの多いこの過渡時代に、まず外国の言葉を習得して、自由に彼と我との事情を通じうるものは、その知識があるだけでも今日の役者として立てられる。今や維新と言い、日進月歩の時と言って、国学にとどまる平田門人ごときはあだかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのもやむを得なかった。ただ半蔵としては、たといこの過渡時代がどれほど長く続くとも、これまで
大和言葉やまとことばのために戦って来た国学諸先輩の骨折りがこのまま水泡すいほうに帰するとは彼には考えられもしなかった。いつか先の方には再び国学の役に立つ時が来ると信じないかぎり、彼なぞの立つ瀬はなかったのであった。

 先師の書いたものによく引き合いに出る本居宣長の言葉にもいわく、「
われにしたがひて物学ばむともがらも、わが後に、またよき考へのきたらむには、かならずわが説にななづみそ。わがあしきゆえを言ひて、よき考へをひろめよ。すべておのが人を教ふるは、道を明らかにせむとなれば、とにもかくにも道を明らかにせむぞ、吾を用ふるにはありける。道を思はで、いたづらに吾をとうとまんは、わが心にあらざるぞかし」。

 ここにいくらでも国学を新しくすることのできる後進の者の
みちがある。物学びするほどのともがらは、そう師の説にのみ拘泥こうでいするなと教えてある。道を明らかにすることがすなわち師を用うることだとも教えてある。日に日に新しい道をさらに明らかにせねばならない。そして国学諸先輩の発見した新しいいにしえをさらに発見して行かねばならない。古を新しくすることは、半蔵らにとっては歴史を新しくすることであった。

 そこまで考えて行くうちに、
鉄瓶てつびんの湯もちんちん音がして来た。その中に徳利とくりを差し入れて酒を暖めることもできるほどに沸き立って来た。冷たくなった焼き味噌もあぶり直せば、それでも夜の酒のさかなになった。やがて半蔵は好きなものにありついて、だれに遠慮もなく手酌てじゃくはいを重ねながら、また平田門人の生くべき道を思いつづけた。仮に、もしあの本居宣長のような人がこの明治の御代みよを歩まれるとしたら、かつてシナインドの思想をその砥石といしとせられたように、今また新しい「知識」としてこの国にはいって来た西洋思想をもその砥石として、さらに日本的なものをみがきあげられるであろう。深くも、柔らかくも、新しくもはいって行かれるあの宣長翁が学者としての素質としたら、洋学にはいって行くこともさほどの困難を感ぜられないであろう。おおよそ今の洋学者が説くところは、理に合うということである。あの宣長翁であったら、おそらく理を知り、理を忘れるところまで行って、言挙ことあげということもさらにない自然おのずからながらの古の道を一層明らかにされるであろう。

 思いつづけて行くと、半蔵は大きないわおのような堅いとびらに突き当たる。先師篤胤たりとも、西洋の方から起こって来た学風が物の理を考えきわめるのに賢いことは充分に認めていた。その先師があれほどの博学でも、ついに西洋の学風を受けいれることはできなかった。彼はそう深く学問にもはいれない。これは宣長翁のようなまことの学者らしい学者にして初めて成しうることで、先師ですらそこへ行くとはたして学問に適した素質の人であったかどうかは疑問になって来た。まして後輩の彼のようなものだ。彼は五十年の生涯と、努力と、不断の思慕とをもってしても、力にも及ばないこの堅い扉をどうすることもできない。彼が子弟の教育に余生を送ろうとしているのも、一つはこの生涯の無才無能を感づくからであった。彼は自分の生涯に成しげ得ないものをあげて、あとから歩いて来るものにその熱いさびしい思いを寄せたいと願った。それにしても、全国四千人を数えた平田篤胤没後の門人の中に、この時代の大波を乗り越えるものはあらわれないのか、と彼は嘆息した。所詮しょせん、復古は含蓄で、事物に働きかける実際の力にはならないと聞くのもつらく、ひとりで酒を飲めば飲むほど、かえって彼は寝られなかった。[#改頁]




(私論.私見)