夜明け前第二部下の5、第十二章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
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一 |
五日も半蔵は多吉の家へ帰らない。飛騨の水無神社宮司を拝命すると間もなく、十一月十七日の行幸の朝に神田橋外まで御通輦を拝しに行くと言って、浅草左衛門町を出たぎりだ。左衛門町の家のものは音沙汰のない半蔵の身の上を案じ暮らした。彼が献扇事件は早くも町々の人の口に上って、多吉夫婦の耳にもはいらないではない。それにつけてもうわさとりどりである。主人持ちの多吉は茅場町の店からもいろいろなことを聞いて来て、ただただ妻のお隅と共に心配する。第一、あの半蔵がそんな行為に出たということすら、夫婦のものはまだ半信半疑でいた。そこへ巡査だ。ちょうど多吉は不在の時であったので、お隅が出て挨拶すると、その巡査は区内の屯所のものであるが、東京裁判所からの通知を伝えに来たことを告げ、青山半蔵がここの家の寄留人であるかどうかをまず確かめるような口ぶりである。さてはとばかり、お隅はそれを聞いただけでも人のうわさに思い当たった。巡査は格子戸口に立ったまま、言葉をついで、入檻中の半蔵が帰宅を許されるからと言って、身柄を引き取りに来るようとの通知のあったことを告げた。 お隅はすこし息をはずませながら、「まあ、どういうおとがめの筋かぞんじませんが、青山さんにかぎって悪い事をするような人じゃ決してございません。宅で本所の相生町の方におりました時分に、あの人は江戸の道中奉行のお呼び出しで国から出てまいりまして、しばらく宅に置いてくれと申されたこともございました。そんな縁故で、今度もたよってまいりまして、つい先ごろまでは教部省の考証課という方に宅から通っておりました。まあ、手前どもじゃ、あの人の平素の行ないもよくぞんじておりますが、それは正しい人でございます」。突然巡査の訪ねて来たことすら気になるというふうで、お隅は二階の客のためにこんな言いわけをした。それを聞くと、巡査はかみさんの言葉をさえぎって、ただ職掌がらこの通知を伝えるために来ただけのことを断わり、多吉なりその代理人なりが認印持参の上で早く本人を引き取れと告げて置いて、立ち去った。 ともかくも半蔵が帰宅のかなうことを知って、さらに心配一つふえたように思うのはお隅である。というは、亭主多吉が町人の家に生まれた人のようでなく、世間に無頓着で、巡査の言い置いて行ったような実際の事を運ぶには全く不向きにできているからであった。多吉の俳諧三昧と、その放心さと来たら、かつて注文して置いた道具の催促に日ごろ自分の家へ出入りする道具屋源兵衛を訪ねるため向島まで出向いた時、ふと途中の今戸の渡しでその源兵衛と同じ舟に乗り合わせながら、「旦那、どちらへ」と聞かれてもまだ目の前にその人がいるとは気づかなかったというほどだ。「旦那、その源兵衛はおれのことじゃありませんか」と言われて、はじめて気がついたというほどの人だ。お隅はこの亭主の気質をのみ込んでいる。場合によっては、彼女自身に夫の代理として、半蔵が身柄を引き取りに行こうと決心し、帯なぞ締め直して亭主の帰りを待っていた。はたして、多吉が屋外から戻って来た時は、お隅以上のあわてかたであった。「お前さん、いずれこれにはわけのあることですよ。あの青山さんのことですもの、何か考えがあってしたことですよ」。お隅はそれを多吉に言って見せて、慣れない夫をそういう場所へ出してやるのを案じられると言う。背も高く体格も立派な多吉は首を振って、自身出頭すると言う。幸い半蔵の懇意にする医者、金丸恭順がちょうどそこへ訪ねて来た。この同門の医者も半蔵が身の上を案じながらやって来たところであったので、早速多吉と同行することになった。「待ってくださいよ」と言いながら、お隅は半蔵が着がえのためと、自分の亭主の着物をそこへ取り出した。町人多吉の好んで着る唐桟の羽織は箪笥の中にしまってあっても、そんなものは半蔵には向きそうもなかった。そこでお隅は無地の羽織を選び、藍微塵の綿入れ、襦袢、それに晒の肌着までもそろえて手ばしこく風呂敷に包んだ。彼女は新しい紺足袋をも添えてやることを忘れていなかった。「いずれ先方には待合所がありましょうからね、そっくりこれを着かえさせてくださいよ。青山さんの身につけたものは残らずこの風呂敷包みにして帰って来てくださいよ」。そういうお隅に送られて、多吉は恭順と一緒に左衛門町の門を出た。お隅はまた、パッチ尻端折りの亭主の後ろ姿を見送りながら、飛騨行きの話の矢先にこんな事件の突発した半蔵が無事の帰宅を見るまでは安心しなかった。 |
多吉と恭順とは半蔵に付き添いながら、午後の四時ごろには左衛門町へ引き取って来た。お隅はこの三人を格子戸口に待たせて置き、下女に言いつけてひうち石とひうち鉄とを台所から取り寄せ、切り火を打ちかけるまでは半蔵らを家に入れなかった。時ならぬ浄めの火花を浴びた後、ようやくの思いでこの屋根の下に帰り着いたのは半蔵である。青ざめもしよごれもしているその容貌、すこし延びた髭、五日も櫛を入れない髪までが、いかにも暗いところから出て来た人で、多吉の着物を拝借という顔つきでいる彼がしょんぼりとした様子はお隅らの目にいたいたしく映る。彼は礼を言っても言い足りないというふうに、こんなに赤の他人のことを心配してくれるお隅の前にも手をついたまま、しばらく頭をあげ得なかったが、やがて入檻中肌身に着けていたよごれ物を風呂敷包みのままそこへ差し出した。この中は虱だらけだからよろしく頼むとの意味を通わせた。「まずまあ、これで安心した」と言って下座敷の内を歩き回るのは多吉だ。「お隅、おれは青山さんを連れて風呂に行って来る。金丸先生には、ここにいて待っていただく」。「それがいい。青山君も行って、さっぱりとしていらっしゃい。わたしは一服やっていますからね」と恭順も言葉を添える。 半蔵はまだ借り着のままだ。彼は着物を改めに自分の柳行李の置いてある二階の方へ行こうとしたが、お隅がそれをおしとどめて、そのままからだを洗いきよめて来てもらいたいと言うので、彼も言われるままにした。「どれ、御一緒に行って、一ぱいはいって来ようか――お話はあとで伺うとして」。そういう多吉は先に立って、お隅から受け取った手ぬぐいを肩にかけ、格子戸口を出ようとした。「お隅、番傘を出してくんな。ぽつぽつ降って来たぞ」。多吉夫婦はその調子だ。半蔵も亭主と同じように傘をひろげ、二人そろって、見るもの聞くもの彼には身にしみるような町の銭湯への道を踏んだ。 多吉が住む町のあたりは古くからある数軒の石屋で知られている。家の前は石切河岸と呼び来たったところで、左衛門橋の通り一つへだてて鞍地河岸につづき、柳原の土手と向かい合った位置にある。砂利、土砂、海土などを扱う店の側について細い路地をぬければ、神田川のすぐそばへも出られる。こんな倉庫と物揚げ場との多いごちゃごちゃした界隈ではあるが、旧両国広小路辺へもそう遠くなく、割合に閑静で、しかも町の響きも聞こえて来るような土地柄は、多吉の性に適すると言っているところだ。江戸の名ごりのような石榴口の残った湯屋はこの町からほど遠くないところにある。朱塗りの漆戸、箔絵を描いた欄間なぞの目につくその石榴口をくぐり、狭い足がかりの板を踏んで、暗くはあるが、しかし暖かい湯気のこもった浴槽の中に身を浸した時は、ようやく半蔵も活き返ったようになった。やがて、一風呂あびたあとのさっぱりした心持ちで、彼が多吉と共にまた同じ道を帰りかけるころは、そこいらはもう薄暗い。町ではチラチラ燈火がつく。宿に戻って見ると、下座敷の行燈のかげに恭順が二人を待ちうけていた。「金丸先生、今夜はお隅のやつが手打ち蕎麦をあげたいなんて、そんなことを申しています。青山さんの御相伴に、先生もごゆっくりなすってください」。「手打ち蕎麦、結構」。 亭主と客とがこんな言葉をかわしているところへ、お隅も勝手の方から襷をはずして来て、下女に膳をはこばせ、半蔵が身祝いにと銚子をつけて出した。「まったく、こういう時はお酒にかぎりますな。どうもほかの物じゃ納まりがつかない」と恭順が言う。半蔵も着物を改めて来て簡素なのしめ膳の前にかしこまった。焼き海苔、柚味噌、それに牡蠣の三杯酢ぐらいの箸休めで、盃のやりとりもはじまった。さびしい時雨の音を聞きながら、酒にありついて、今度の事件のあらましを多吉の前に語り出したのもその半蔵だ。彼の献扇は、まったく第一のお車を御先乗と心得たことであって、御輦に触れ奉ろうとは思いもかけなかったという。あとになってそれを知った時は実に彼も恐縮した。彼の述懐はそこから始まる。 何しろ民間有志のものの建白は当時そうめずらしいことでもなかったが、行幸の途中にお車をめがけて扇子を投進するようなことは例のない話で、そのために彼は供奉警衛の人々の手から巡査をもって四大区十二小区の屯所へ送られ、さらに屯所から警視庁送りとなって、警視庁で一応の訊問を受けた。入檻を命ぜられたのはその夜のことであった。翌十八日は、彼はある医者の前に引き出された。その医者はまず彼の姓名、年齢、職業なぞを尋ねたが、その間には彼の精神状態を鑑定するというふうで、幾度か小首をかしげ、彼の挙動に注意することを怠らなかった。それから一応彼を診察したあとで、さて種々なことを問い試みた。神田橋前まで行幸を拝しに家を出たのは朝の何時で、その日の朝飯には何を食ったかの類だ。医者の診断がつくと彼は東京裁判所へ送られることとなって、同夜も入檻、十九日には裁判所において警視庁より差し送った書面を読み聞かせられ、逐一事実のお尋ねがあったから、彼はそれに相違ない旨を答えた。入檻は二十二日の朝まで続いた。ようやくその時になって、寄留先の戸主をお呼び出しになり宿預けの身となったことを知ったという。 「でも、わたしもばかな男じゃありませんか。裁判所の方で事実を問い詰められた時、いくらも方法があろうのに、どうしてその方はそんな行為に出たかと言われても、わたしには自分の思うことの十が一も答えられませんでした」。半蔵の嘆息だ。それを聞くと多吉は半蔵が無事な帰宅を何よりのよろこびにして、自分らはそんな野暮は言わないという顔つきでいる。多吉は言った。「青山さん、あなただって今度の事件は、御国のためと思ってしたことなんでしょう。まあ、その盃をお乾しなさるさ」。 今一度裁判所へ呼び出される日を待てということで、ともかくも半蔵は帰宅を許されて来た人である。彼にはすでに旧庄屋としても、また、旧本陣問屋としても、あの郷里の街道に働いた人たちと共に長い武家の奉公を忍耐して来た過去の背景があった。実際、あるものをめがけて、まっしぐらに駆けり出そうとするような熱い思いはありながら、家を捨て妻子を顧みるいとまもなしにかつて東奔西走した同門の友人らがすることをもじっとながめたまま、交通要路の激しい務めに一切を我慢して来た彼である。その彼の耐えに耐えた激情が一時に堰を切って、日ごろ慕い奉る帝が行幸の御道筋にあふれてしまった。こうすればこうなるぞと考えてしたことではなく、また、考えてできるような行ないではもとよりない。ほとばしり出る自分がそこにあるのみだった。 |
二 |
身祝いにと多吉夫婦が勧めてくれた酒に入檻中の疲労を引き出されて、翌朝半蔵はおそくまで二階に休んでいた。上京以来早朝の水垢離を執ることを怠らなかった彼も、その朝ばかりはぐっすり寝てしまって、宿の亭主が茅場町の店へ勤めに通う時の来たことも知らなかった。ゆうべの雨は揚がって、町のほこりも洗われ、向かい側にある家々の戸袋もかわきかけるころに、下女が二階の雨戸を繰ろうとして階下から登って来て見る時になっても、まだ彼は大いびきだ。この彼がようやく寝床からはい出して、五日ばかりも留守にした部屋のなかを見回した時は、もはや日が畳の上までさして来ていた。「お前の内部には、いったい、何事が起こったのか」。ある人はそう言って半蔵に尋ねるかもしれない。入檻に、裁判所送りに、宿預けに、その日からの謹慎に――これらはみな彼の献扇から生じて来た思いがけない光景である。あの行幸の当日、彼のささげた扇子があやまって御輦に触れたとは、なんとしても恐縮するほかはない。慕い奉る帝の御道筋をさまたげたことに対しても、彼は甘んじてその罰を受けねばならない。「まったく、粗忽な挙動ではあった」。彼の言いうることは、それだけだ。その時になって見ると、彼は郷里の家の方に留守居する自分の娘お粂を笑えなかった。過ぐる年の九月五日の夜、馬籠本陣の土蔵二階であの娘の自害を企てたことは、いまだに村のものの謎として残っている。父としての彼が今度のような事件を引き起こして見ると、おのれの内部にあふれて来た感動すら彼はそれを説き明かすことができない。 午後から、半蔵は宿のかみさんに自分の出先を断わって置いて、柳原の方にある床屋をさして髭剃りに出かけた。そこは多吉がひいきにする床屋で、老練な職人のいることを半蔵にも教えてくれたところである。多吉が親しくする俳諧友だちのいずれもは皆その床屋の定連である。柳床と言って、わざわざ芝の増上寺あたりから頭を剃らせに来る和尚もあるというほど、剃刀を持たせてはまず名人だと日ごろ多吉が半蔵にほめて聞かせるのも、そこに働いている亭主のことである。「これは、いらっしゃい」。その柳床の亭主が声を聞いて、半蔵は二、三の先着の客のそばに腰掛けた。髷のあるもの、散髪のもの、彼のように総髪にしているもの、そこに集まる客の頭も思い思いだ。一方にはそこに置いてある新版物を見つけて当時評判な作者仮名垣魯文の著わしたものなぞに読みふける客もあれば、一方には将棋をさしかけて置いて床屋の弟子に顔をやらせる客もある。なんと言っても、まだまだ世の中には悠長なところがあった。やがて半蔵の順番に回って来ると、床屋の亭主が砥石の方へ行ってぴったり剃刀をあてる音にも、力を入れてそれを磨ぐ音にも、彼は言いあらわしがたい快感を覚えた。むさくるしく延びた髭が水にしめされながら剃られるたびに、それが亭主の手の甲の上にもあり、彼の方で受けている小さな板の上にも落ちた。 いつのまにか彼の心は、あとからはいって来た客の話し声の方へ行った。過ぐる日、帝の行幸のあったおり、神田橋外で御通輦を待ち受けた話をはじめた客がそこにある。客は当日の御道筋に人の出たことから、一人の直訴をしたもののあったことを言い出し、自身でその現場を目撃したわけではないが、往来の人のうわさにそれを聞いて気狂いと思って逃げ帰ったという。思わず半蔵はハッとした。でも、彼は自分ながら不思議なくらいおちついたこころもちに帰って、まるで他人のことのように自分のうわさ話を聞きながら、床屋の亭主がするままに身を任せていた。親譲りの大きく肉厚な本陣鼻から、耳の掃除までしてもらった。 |
何げなく半蔵は床屋を出た。上手な亭主が丁寧に逆剃りまでしてくれてほとんどその剃刀を感じなかったほどの仕事を味わったあとで、いささか頬は冷たいというふうに。その足で半蔵は左衛門町の二階へ引き返して行った。静かな西向きの下窓がそこに彼を待っている。そこは彼が一夏の間、慣れない東京の暑さに苦しんで、よく涼しい風を入れに行ったところだ。部屋は南に開けて、その外が町の見える縁側になっているが、きれい好きな宿のかみさんは彼の入檻中に障子を張り替えて置いてある。上京以来すでに半年あまりも寝起きをして見れば、亭主多吉の好みで壁の上に掛けて置く小額までが彼には親しみのあるものとなっている。 過ぐる五日の暗さ。彼は部屋に戻っていろいろと片づけ物なぞしながら、檻房の方に孤坐した時の自分のこころもちを思いかえした。彼の行為が罪に問われようとして東京裁判所の役人の前に立たせられた時、彼のわずかに申し立てたのは、かねて耶蘇教の蔓延を憂い、そのための献言も仕りたい所存であったところ、たまたま御通輦を拝して憂国の情が一時に胸に差し迫ったということであった。ちょうど所持の扇子に自作の和歌一首しるしつけて罷り在ったから、御先乗とのみ心得た第一のお車をめがけて直ちにその扇子をささげたなら、自然と帝のお目にもとまり、国民教化の規準を打ち建てる上に一層の御英断も相立つべきかと心得たということであった。 すくなくもこの国の前途をおのが狭い胸中に心配するところから、彼もこんな行為に出た。ただただそれが頑な心のあらわれのように見られることはいかにも残念であるとするのが、彼の包み隠しのないところである。開国以前のものは皆、一面に西洋を受けいれながら、一面には西洋と戦った。不幸にも、この国のものがヨーロッパそのものを静かによく見うるような機会を失ったことは、二度や三度にとどまらない。かく内に動揺して、外を顧みるいとまもないような時に、歴史も異なり風土も異なり言葉も異なる西洋文明の皮相を模倣するのみで、それと戦うことをしなかったら、末ははたしてどうなろう。そのことがすでに彼には耐えられなかった。 そういう彼とても、ただ漫然と異宗教の蔓延を憂いているというではない。もともと切支丹宗取り扱いの困難は織田信長時代からのこの国のものの悩みであって、元和年代における宗門人別帳の作製も実はその結果にほかならない。長い鎖国が何のためかは、宗門のことをヌキにしては考えられないことであった。いよいよこの国を開くに当たって、新時代が到来した時、あの厩戸皇子が遠い昔にのこした言葉と言い伝えらるるものは、また新時代に役立つことともなった。すなわち、神道をわが国の根本とし、儒仏をその枝葉とすることは、神祇局以来の一大方針で、耶蘇教徒たりともこの根本を保全するが道であるというふうに半蔵らは考えた。 ところが外国宣教師は種々な異議を申し立て、容易にこの方針に従わない。それに力を得た真宗の僧侶までが勝手を主張しはじめ、独立で布教に従事するものを生じて来た。半蔵は教部省に出仕して見てこのことを痛感した。外国宣教師の抗議に対して今日のような妥協に妥協をのみ重ねるとしたら、各派教導職の不平も制えがたくなって、この国の教化事業はただただ荒れるに任せ、一切を建て直そうとする御一新の大きな気象もついには失われて行くであろう。神祇局は神祇省となり、神祇省は教部省となった。結局、教部省というものも今に廃されるであろう。このことが彼を悲しませる。 二百余年前、この国において、ホルトガル人、イスパニア人を追放したころの昔と、明治七年の今とでは、もとより外国の風習も大いに異なっているかもしれない。今の西洋は昔ほど宗門のことを皆願っているというふうではないかもしれない。それはすでに最初の米国領事ハリスがこの国のものに教えたことである。あのハリスが言うように、今のアメリカあたりでは宗門なぞは皆、人々の望みに任せ、それこれを禁じまたは勧めるようなことはさらにないかもしれない。何を信仰しようとも人々の心次第であるかもしれない。今のヨーロッパで見いだした信仰の基本とは、人々銘々の心に任せるよりほかにいたし方もないと決着したとある。半蔵とても一応そのことを考慮しないではなかったが、しかし自分らの子孫のためにもこれはゆるがせにすべきでないと思って来た。宗教の事ほどその源の清く、その末の濁りやすいものもすくない。わが国神仏混淆の歴史は何よりも雄弁にそれを語っている。この先、神耶混淆のような事が起こって来ないとは決して言えなかった。どんな耶蘇の宣教師が渡来して、根気もあり智りも深くて、人をなつけ、新奇を好むこの国のものに根本と枝葉との区別をすら忘れさせるようなことが起こって来ないとは、これまた決して言えなかった。御一新もまだ成就しない今のうちに、国民教化の基準をしっかりと打ち建てて置きたい。それが半蔵らの願いであった。 静かなところで想い起こして見ると、あだかも目に見えない細い糸筋のように、いろいろな思いがそれからそれと引き出される。郷里の方に留守居する継母や妻子のこともしきりに彼の胸に浮かんで来た。彼は今度の事件がどんなふうに村の人たちのうわさに上るだろうかと思い、これがまた彼の飛騨行きにどう響くかということも心にかかった。 |
三 |
十一月二十九日に、半蔵は東京裁判所の大白洲へ呼び出された。その時、彼は掛りの役人から口書を読み聞かせられたので、それに相違ない旨を答えると、さらに判事庁において先刻の陳述は筆記書面のとおりに相違ないかと再応の訊問があった。彼が相違ない旨を答えると、それなら調印いたせとの言葉に、即刻調印を差し上げた。追って裁断に及ぶべき旨を言い聞かせられて、彼はその場を退いて来た。 とりあえず半蔵はこのことを多吉夫婦の耳に入れ、郷里の留守宅あてにもありのままを書いて、自分の粗忽から継母にまで心配をかけることはまことに申し訳がないと言い送った。のみならず、このために帰国の日もおくれ、飛騨行きまで延び、いろいろ心にかかることばかりであるがこれもやむを得ない、このまま帰国は許されないから裁断申し渡しの日が来るまでよろしく留守居を頼むとも言い送った。なお、彼は裁判所での模様を新乗物町の方へ手紙で知らせてやると、月を越してからわざわざ彼を見に来てくれたのも金丸恭順であった。「青山君、いくら御謹慎中だって、そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。せめて両国辺まで出てごらんなさい。台湾の征蕃兵がぽつぽつ帰って来るようになりましたぜ」。恭順はこんな話を持って左衛門町の二階へ上がって来た。征蕃兵が凱旋を迎えようとする市内のにぎわいも、半蔵はそれを想像するにとどめて、わびしくこもり暮らしている時である。恭順の顔を見ると、半蔵は裁断申し渡しの日の待ちどおしいことを言い、その結果いかんではせっかく彼を懇望する飛騨地方の人たちが思惑もどうあろうかと言い出す。その時、恭順は首を振って、これが他の動機から出た行為なら格別、一点の私心もない憂国の過慮からであって見れば、飛騨の方は心配するほどのことはあるまい、なお、田中不二麿からも飛騨有志あてに一筆書き送ってもらうことにしようと語った末に、言った。「どうです、青山君、君も新乗物町の方へ越して来ては」。それを勧めるための恭順が来訪であったのだ。この医者はなおも言葉をついで、「そうすれば、わたしも話し相手ができていい。まあ、君一人ぐらい居候に置いたって、食わせるに困るようなことはしませんぜ。部屋も貸しますぜ」。恭順は真実を顔にあらわして言った。その言葉のはしにまじる冗談もなかなかに温かい。同門のよしみとは言え、よっぽど半蔵もこの人に感謝してよかった。しかし、謹慎中の身として寄留先を変えることもどうかと思うと言って、彼は恭順のこころざしだけを受け、やはりこのままの仮寓を続けることにしたいと断わった。むなしい旅食は彼とても心苦しかったが、この滞在が長引くようならばと郷里の伏見屋伊之助のもとへ頼んでやったこともあり、それに今になって左衛門町の宿を去るには忍びなかった。 |
十二月中旬まで半蔵は裁判所からの沙汰を待った。そのころにでもなったら裁断も言い渡されるだろうと心待ちに待っていたが、裁判所も繁務のためか、十二月下旬が来るころになってもまだ何の沙汰もない。東京の町々はすでに初雪を見る。もっとも、浅々と白く降り積もった上へ、夜の雨でも来ると、それが一晩のうちに溶けて行く。木曾路あたりとは比較にもならないこの都会の雪空は、遠く山の方へと半蔵の心を誘う。彼も飛騨行きのおくれるのを案じている矢先で、それが延びれば延びるほど、あの険阻で聞こえた山間の高山路が深い降雪のために埋められるのを恐れた。 独居のねぶり覚ますと松が枝にあまりて落つる雪の音かな
これらの冬の歌は、半蔵が郷里の方に残して来た旧作である。彼は左衛門町の二階にいてこれらの旧作を思い出し、もはや雪道かと思われる木曾の方の旧い街道を想像し、そこを往来する旅人を想像し、革のむなび、麻の蝿はらい、紋のついた腹掛けから、鬣、尻尾まで雪にぬれて行く荷馬の姿を想像した。彼はまた、わずかに栂の実なぞの紅い珠のように枝に残った郷里の家の庭を想像し、木小屋の裏につづく竹藪を想像し、その想像を毎年の雪に隠れひそむ恵那山連峰の谿谷にまで持って行って見た。さよしぐれ今は外山やこえつらむ軒端に残る音もまばらに 山里は日にけに雪のつもるかな踏みわけて訪ふ人もこなくに しら雪のうづみ残せる煙こそ遠山里のしるしなりけれ とうとう、半蔵は東京で年を越した。一年に一度の餅つき、やれ福茶だ、小梅だ、ちょろげだと、除夜からして町家は町家らしく、明けては屠蘇を祝え、雑煮を祝え、かち栗、ごまめ、数の子を祝えと言う多吉夫婦と共に、明治八年の新しい正月を迎えた。暮れのうちに出したらしい郷里の家のものからの便りがこの半蔵のもとに届いた。それは継母おまんと、娘お粂とからで。娘の方の手紙は父の身を案じ暮らしていることから、留守宅一同の変わりのないこと、母お民から末の弟和助まで毎日のように父の帰国を待ちわびていることなぞが、まだ若々しい女文字で認めてある。継母から来た便りはそう生やさしいものでもない。それには半蔵の引き起こした今度の事件がいつのまにか国もとへも聞こえて来て、種々なうわさを生んでいるとある。その中にはお粂のようすも伝えてあって、その後はめっきり元気を回復し、例の疵口も日に増し目立たないほどに癒え、最近に木曾福島の植松家から懇望のある新しい縁談に耳を傾けるほどになったとある。継母の手紙は半蔵の酒癖のことにまで言い及んであって、近ごろは彼もことのほか大酒をするようになったと聞き伝えるが、朝夕継母の身として案じてやるとある。その手紙のつづきには、男の大厄と言わるる前後の年ごろに達した時は、とりわけその勘弁がなくては危ないとは、あの吉左衛門が生前の話にもよく出た。大事の吉左衛門を立てるなら、酒を飲むたびに亡き父親のことを思い出して、かたくかたくつつしめとも言ってよこしてある。 |
「青山さん、まだ裁判所からはなんとも申してまいりませんか」。新しい正月もよそに、謹慎中の日を送っている半蔵のところへ、お隅は下座敷から茶を入れて来て勧めた。到来物の茶ではあるがと言って、多吉の好きな物を客にも分けに階下から持って来るところなぞ、このかみさんも届いたものだ。旅の空で、半蔵もこんな情けのある人を知った。彼の境涯としては、とりわけ人の心の奥も知らるるというものであった。お隅は凜とした犯しがたいようなところのある人で、うっかりすると一切女房任せな多吉の方がかえって女房であり、むしろお隅はこの家の亭主である。「お国から、お便りがございましたか」。「ええ、皆無事で暮らしてるようです。こちらへも御厄介になったろうッて、吾家のものからよろしくと言って来ました」。「さぞ、奥さんも御心配なすって――」。「お隅さん、あなたの前ですが、国からの便りと言うといつでも娘が代筆です。あれも手はよく書きますからね。わたしの家内はまた、自分で手紙を書いたことがありませんよ」。 こんな話も旅らしい。お隅の調子がいかにもさっぱりとしているので、半蔵は男とでも対い合ったように、継母から来た手紙のことをそこへ言い出して、彼の酒をとがめてよこしたと言って見せる。彼が賢い継母を憚って来たことは幼年時代からで、「お母さんほどこわいものはない」と思う心を人にも話したことがあるほどだが、成人して家督を継ぎ、旧宿場や街道の世話をするようになってからは、その継母にすら隠れて飲むことはやめられなかったと白状する。「でも、青山さん。お酒ぐらい飲まなくて、やりきれるものですかね」。お隅はお隅らしいことを言った。松の内のことで、このかみさんも改まった顔つきではいるが、さすがに気のゆるみを見せながら、平素めったに半蔵にはしない自分の女友だちのうわさなぞをも語り聞かせる。お寅と言って清元お葉の高弟にあたり、たぐいまれな美音の持ち主で、柳橋辺の芸者衆に歌沢を教えているという。放縦ではあるが、おもしろい女で、かみさんとは正反対な性格でいながら、しかも一番仲よしだともいう。その人の芸人肌と来たら、米櫃に米がなくなっても、やわらか物は着通し、かりん胴の大切な三味線を質に入れて置いて、貸本屋の持って来る草双紙を読みながら畳の上に寝ころんでいるという底の抜け方とか。お隅は女の書く手紙というものをその女友だちのうわさに結びつけて、お寅もやはり手紙はむつかしいものと思い込んでいた女の一人であると半蔵に話した。何も、型のように、「一筆しめしあげ参らせ候」から書きはじめなくとも、談話をするように書けば、それで手紙になると知った時のお寅の驚きと喜びとはなかったとか。早速お寅は左衛門町へあてて書いてよこした。今だにそれはお隅の家のものの一つ話になっているという。その手紙、「はい、お隅さん、今晩は。暑いねえ。その後、亭主あるやら、ないじゃやら――ですとさ」。お隅はこんな話をも半蔵のところに置いて行った。 騒がしく、楽しい町の空の物音は注連を引きわたした竹のそよぎにまじって、二階の障子に伝わって来ていた。その中には、多吉夫婦の娘お三輪が下女を相手にしての追羽子の音も起こる。お三輪は半蔵が郷里に残して置いて来たお粂を思い出させる年ごろで、以前の本所相生町の小娘時代に比べると、今は裏千家として名高い茶の師匠松雨庵の内弟子に住み込んでいるという変わり方だ。平素は左衛門町に姿を見せない娘が両親のもとへ帰って来ているだけでも、家の内の空気は違う。多吉夫婦は三人の子の親たちで、お三輪の兄量一郎は横浜貿易商の店へ、弟利助は日本橋辺の穀問屋へ、共に年期奉公の身であるが、いずれこの二人の若者も喜び勇んで藪入の日を送りに帰って来るだろうとのうわさで持ち切る騒ぎだ。 町へ来るにぎやかな三河万歳までが、めでたい正月の気分を置いて行く中で、半蔵は謹慎の意を表しながらひとり部屋にすわりつづけた。お三輪は結いたてのうつくしい島田で彼のところへも挨拶に来て、紅白の紙に載せた野村の村雨を置いて行った。 七草過ぎになっても裁判所からは何の沙汰もない。毎日のように半蔵はそれを待ち暮らした。亭主多吉は風雅の嗜みのある人だけに、所蔵の書画なぞを取り出して来ては、彼にも見よと言って置いて行ってくれる。腰張りのしてある黄ばんだ部屋の壁も半蔵には慰みの一つであった。 ふと、半蔵は町を呼んで来る物売りの声を聞きつけた。新版物の唄を売りに、深山の小鳥のような鋭くさびた声を出して、左衛門町の通りを読み読み歩いて来る。びっくりするほどよくとおるその読売りの声は町の空気に響き渡る。半蔵は聞くともなしにそれを聞いて、新しいものと旧いものとが入れまじるまッ最中を行ったようなその新作の唄の文句に心を誘われた。 洋服すがたにズボンとほれて、
激しい移り変わりの時を告げ顔なものは、ひとりこんな俗謡にのみかぎらない。過ぐる七年の月日はすべてのものを変えつつあった。燃えるような冒険心を抱いて江戸の征服を夢み、遠く西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑連ですら、追い追いの粋な風に吹かれては、都の女の俘虜となるものも多かった。一方には当時諷刺と諧謔とで聞こえた仮名垣魯文のような作者があって、すこぶるトボケた調子で、この世相をたくみな戯文に描き出して見せていた。多吉が半蔵にも読んで見よと言って、下座敷から持って来て貸してくれた『阿愚楽鍋』、一名牛店雑談にはこんな一節もある。袖ないおかたで苦労する。 「方今の形勢では、洋学でなけりゃア、夜は明けねえヨ。」
これは開化の魁たる牛店を背景に、作者が作中人物の一人をして言わせた会話の中の文句である。どんな人物の口からこんな文句が出るかというに、にわか散切りの西洋ごしらえ、フランスじこみのマンテルにイギリスのチョッキを着け、しかもそれは柳原あたりの朝市で買い集めた洋服であり、時計はくさりばかりぶらさげて、外見をつくろおうとする男とある。おのれ一人が文明人という顔つきで、『世界国尽』などをちょっと口元ばかりのぞいて見た知識を振り回し、西洋のことならなんでも来いと言い触らすこまりものだともある。おもて華やかに、うらの貧しいこんな文明人はついそこいらの牛店にもすわり込んで、肉鍋と冷酒とを前に、気焔をあげているという時だ。寄席の高座で、芸人の口をついて出る流行唄までが変わって、それがまた英語まじりでなければ納まらない世の中になって来た。「待つ夜の長き」では、もはや因循で旧弊な都々逸の文句と言われる。どうしてもそれは「待つ夜のロング」と言わねばならない。「猫撫で声」というような文句ももはや眠たいとされるようになった。どうしてもそれは「キャット撫で声」と言わねば人を驚かさない。すべてこのたぐいだ。半蔵は腕を組んでしまって、渦巻く世相を夢のようにながめながら、照りのつよい日のあたった南向きの障子のわきにすわりつづけた。まだ春も浅く心も柔らかな少女たちが、今にこの日本の国も英語でなければ通じなくなる時が来ると信じて、洋書と洋傘とを携え、いそいそと語学の教師のもとへ通うものもあるというような、そんな人のうわさを左衛門町の家のものから聞くだけでも、彼は胸がいっぱいになった。 |
終日読書。青年時代から半蔵が見まもって来たまぼろしは、また彼の胸に浮かぶ。そのまぼろしの正体を彼は容易に突きとめることができなかった。彼の心に描く「黒船」とは、およそ三つのものを載せて来る。耶蘇教はその一つ、格物究理の洋学はその一つ、交易による世界一統もまたその一つである。彼なぞの考えるところによると、西洋の学問するものも一様ではない、すくなくも開国以前と以後とでは、洋学者の態度にもかなりな相違がある。今さら、「東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)」と言ったあの佐久間象山を引き合いに出すまでもなく、開港以前の洋学者はいずれもこの国に高い運命の潜むことを信じて行ったようである。前の高橋作左衛門、土生玄磧、後の渡辺崋山、高野長英、皆そういう人たちである。農園と経済学との知識をもつ洋学者で、同時に本居平田の学説を深く体得した秋田の佐藤信淵のごとき人すらある。六十歳の声を聞いて家督を弟に譲り、隠居して、それから洋学にこころざしたような人は決してめずらしくない。その学問は藩の公に許すところであらねばならぬ。洋学者としての重い責めをも果たさねばならぬ。彼らが境涯の困難であればあるだけ、そのこころざしも堅く、学問も確かに、著述も残し、天文、地理、歴史、語学、数学、医学、農学、化学、または兵学のいずれにも後の時代のためにしたくをなし得たわけである。 そこへ行くと開国以後の洋学者というものはその境涯からして変わって来た。今は洋学することも割合に困難でなくなった。わざわざ長崎まで遠く学びに行くものは、かえって名古屋あたりの方にもっとよい英語教師のあることを知るという世の中になって来た。彼の目の前にひらけているのは、実に浅く普及して来た洋学の洪水だ。もとよりその中には、開国以前からの洋学者ののこしたこころざしを承け継ぐ少数の人たちもないではない。しかし、ここに本も読めば筆も立つ旧幕の人の一群というものがある。それらの人たちが西洋を求める態度はすこし違う。彼らは早く西洋の事情に通じる境涯にも置かれてあって、幕府の洋書取調所(蕃書取調所の後身)に関係のあったものもあり、横浜開港場の空気に触れる機会の多かったものもある。それらの人たちはまた、閲歴も同じくはないし、旧幕時代の役の位もちがい、禄も多かったものと寡なかったものとあるが、大きな瓦解の悲惨に直面したことは似ていた。江戸をなつかしむ心も似ていた。 幕末の遺臣として知られた山口泉処、向山黄村、あの人たちもどうなったろうと思われる中で、瓦解以前に徳川政府の使命を帯びフランスに赴いた喜多村瑞見なぞはその広い見聞の知識を携え帰って来て、本所北二葉町の旧廬から身を起こし、民間に有力なある新聞の創立者として言論と報道との舞台に上って来た。もっとも、瑞見はその出発が幕府奥詰の医師であり、本草学者であって、かならずしも西洋をのみ鼓吹する人ではなかったが、後進で筆も立つ人たちが皆瑞見のような立場にあるのではない。中には、自国に失望するあまりに、その心を見ぬヨーロッパの思慕へとかえるものがある。戯文に隠れて、一般の異国趣味をあおぎ立てるものもある。「なるほど、世の中は変わりもしよう。しかし、よりよい世の中は――決して。」――とは、不平不満のやりどころのないようなそれらの人たちより陰に陽に聞こえて来る強い非難の声だ。 半蔵なぞにして見ると、今の時はちょうど遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたその同じ大切な時にあたる。中世の殻もまだ脱ぎ切らないうちに、かつてこの国のものが漢土に傾けたその同じ心で、今また西洋にのみあこがれるとしたら。かつては漢意をもってし、今は洋意をもってする。模倣の点にかけては同じことだ。どうしてもこれは一方に西洋を受けいれながら、一方には西洋と戦わねばならぬ。その意味から言っても、平田篤胤没後の門人としてはこうした世の風潮からも自分らの内にあるものを護らねばならなかった。すくなくも、荷田大人以来国学諸先輩の過去に開いた道が外来の学問に圧倒せられて、無用なものとなって行こうとは、彼には考えられもしなかった。 |
四 |
裁断申し渡し番付の写し
当時水無神社宮司兼中講義 青山半蔵信濃国筑摩郡神坂村平民 その方儀、憂国の過慮より、自作の和歌一首録し置きたる扇面を行幸の途上において叡覧に備わらんことを欲し、みだりに供奉の乗車と誤認し、投進せしに、御の車駕に触る。右は衝突儀仗の条をもって論じ、情を酌量して五等を減じ、懲役五十日のところ、過誤につき贖罪金三円七十五銭申し付くる。 明治八年一月十三日 東京裁判所 ここに半蔵の本籍地を神坂村とあるは、彼の郷里馬籠と隣村湯舟沢とを合わせて一か村とした新しい名称をさす。言いかえれば、筑摩県管下、筑摩郡、神坂村、字馬籠である。最も古い交通路として知られた木曾の御坂は今では恵那山につづく深い山間の方に埋もれているが、それに因んでこの神坂村の名がある。郡県政治のあらわれの一つとして、宿村の併合が彼の郷里にも行なわれていたのである。 待ちに待った日はようやく半蔵のところへ来た。この申し渡しの書付にあるように、いよいよ裁判も決定した。夕方から、彼は多吉夫婦と共に左衛門町の下座敷に集まった。思わず出るため息と共に、自由な身となったことを語り合おうとするためであった。そこへ多吉を訪ねて門口からはいって来た客がある。多吉には川越時代からの旧いなじみにあたる青物問屋の大将だ。多吉が俳諧友だちだ。こちらは一段落ついた半蔵の事件で、宿のものまで一同重荷をおろしたような心持ちでいるところであったから、偶然にもその客がはいって来た時、玄関まで出迎える亭主を見るといきなり向こうから声をかけたが、まるでその声がわざわざ見舞いにでも来てくれたように多吉の耳には響いた。「まずまあ、多吉さん」。これは半蔵にも、時にとってのよい見舞いの言葉であった。ところが、この「まずまあ」は、実は客の口癖で、お隅は日ごろの心やすだてからそれをその人のあだ名にして、下女までそう呼び慣れていたほどだから、ちょうど客がその声をかけてはいって来たのは、自身であだ名を呼びながら来たようなものであった。お隅はそれを聞くと座にもいたたまれない。下女なぞは裏口まで逃げ出して隠れた。 ともあれ、半蔵の引き起こした献扇事件は、暗い入檻中の五日と、五十日近い謹慎の日とを送ったあとで、こんなふうにその結末を告げた。五十日の懲役には行かずに済んだものの、贖罪の金は科せられた。どうして、半蔵としては笑い事どころではない。押し寄せて来る時代の大波を突き切ろうとして、かえって彼は身に深い打撃を受けた。前途には、幾度か躊躇した飛騨の山への一筋の道と、神の住居とが見えているのみであった。 夜が来た。左衛門町の二階の暗い行燈のかげで、めずらしくも先輩暮田正香がこの半蔵の夢に入った。多くの篤胤没後の門人中で彼にはことに親しみの深く忘れがたいあの正香も、賀茂の少宮司から熱田の少宮司に転じ、今は熱田の大宮司として働いている人である。その夜の旅寝の夢の中に、彼は正式の装束を着けた正香が来て、手にする白木の笏で自分を打つと見て、涙をそそぎ、すすり泣いて目をさました。 |
正月の末まで半蔵は東京に滞在して、飛騨行きのしたくをととのえた。斎の道は遠く寂しく険しくとも、それの踏めるということに彼は心を励まされて一日も早く東京を立ち、木曾街道経由の順路としてもいったんは国に帰り、それから美濃の中津川を経て飛騨へ向かいたいと願っていたが、種々な事情のためにこの出発はおくれた。みずから引き起こした献扇事件には彼もひどく恐縮して、その責めを負おうとする心から、教部省内の当局者あてに奏進始末を届け出て、進退を伺うということも起こって来た。彼の任地なる飛騨高山地方は当時筑摩県の管下にあったが、水無神社は県社ともちがい、国幣小社の社格のある関係からも、一切は本省の指令を待たねばならなかった。一方にはまた、かく東京滞在の日も長引き、費用もかさむばかりで、金子調達のことを郷里の伏見屋伊之助あてに依頼してあったから、その返事を待たねばならないということも起こって来た。幸い本省からはその儀に及ばないとの沙汰があり、郷里の方からは伊之助のさしずで、峠村の平兵衛に金子を持たせ、東京まで半蔵を迎えによこすとの通知もあった。今は彼も心ぜわしい。再び東京を見うるの日は、どんなにこの都も変わっているだろう。そんなことを思いうかべながら、あちこちの暇乞いにも出歩いた。旧組頭廃止後も峠のお頭で通る平兵衛は二月にはいって、寒い乾き切った日の夕方に左衛門町の宿へ着いた。 半蔵と平兵衛とは旧宿場時代以来、ほとんど主従にもひとしい関係にあった。どんなに時と場所とを変えても、この男が半蔵を「本陣の旦那」と考えることには変わりはなかった。慶応四年の五月から六月へかけて、伊勢路より京都への長道中を半蔵と共にしたその同じ思い出につながれているのも、この男である。平兵衛は伊之助から預かって来た金子ばかりでなく、半蔵が留守宅からの言伝、その後の山林事件の成り行き、半蔵の推薦にかかる訓導小倉啓助の評判など、いろいろな村の話を彼のところへ持って来た。東京から伝わる半蔵のうわさ――ことに例の神田橋外での出来事から入檻を申し付けられたとのうわさの村に伝わった時は、意外な思いに打たれないものはなかった。中にも半蔵のために最も心を痛めたものは伏見屋の主人であったという話をも持って来た。平兵衛は言った。「そりゃ、お前さま、何もわけを知らないものが聞いたら、たまげるわなし」。「……」。「ほんとに、人のうわさにろくなことはあらすか。半蔵さまが気が違ったという評判よなし。お民さまなぞはそれを聞いた時は泣き出さっせる。皆のものが言うには、本陣の旦那はあんまり学問に凝らっせるで、まんざら世間の評判もうそではなからず、なんて――村じゃ、そのうわささ。そんなばかなことがあるもんかッて、お前さまの肩を持つものは、伏見屋の旦那ぐらいのものだった。まあ、おれも、今度出て来て見て、これで安心した」。「……」。 |
飛騨を知らない半蔵が音に聞く嶮岨な加子母峠の雪を想像し、美濃と飛騨との国境の方にある深い山間の寂寞を想像して、冬期には行く人もないかと思ったほど途中の激寒を恐れたことは、平兵衛の上京でやや薄らぎもした。というのは、飛騨高山地方から美濃の中津川まで用達しに出て来た人があったとかで、伊之助は中津川でその人から聞き得たことをくわしい書付にして、それを平兵衛に託してよこしくれたからであった。その書付によると、水無神社は高山にあるのではなくて、高山から一里半ほどへだてた位置にある。水無川は神社の前を流れる川である。神通川の上流である。神社を中心に発達したところを宮村と言って、四方から集まって来る飛騨の参詣者は常に絶えないという。大祭、九月二十五日。ことにめずらしいのは十二月三十一日の年越え詣でで、盛装した男女の群れが神前に新しい春を迎えようとする古い風俗はちょっと他の地方に見られないものであるとか。美濃方面から冬期にこの神社の位置に達するためには、藁沓を用意し、その上に「かんじき」をあてて、難場中の難場と聞こえた国境の加子母峠を越えねばならない。それでも旅人の姿が全く絶えるほどの日はなく、雪もさほど深くはない。中津川より下呂まで十二里である。その間の道が困難で、峠にかかれば馬も通わないし、牛の背によるのほかはないが、下呂まで行けばよい温泉がわく。旅するものはそこにからだを温めることができる。下呂から先は歩行も困難でなく、萩原、小坂を経て、宮峠にかかると、その山麓に水無神社を望むこともできる。なお、高山地方は本居宣長の高弟として聞こえた田中大秀のごとき早く目のさめた国学者を出したところだから、半蔵が任地に赴いたら、その道の話相手や歌の友だちなぞを見つけることもあろうと書き添えてある。 出発の前日には、平兵衛が荷ごしらえなどするそばで、半蔵は多吉と共に互いに記念の短冊を書きかわした。多吉はそれを好める道の発句で書き、半蔵は和歌で書いた。左衛門町の夫婦は別れを惜しんで、餞別のしるしにと半蔵の前にさし出したのは、いずれも旅の荷物にならないような、しかも心をこめたものばかりであった。多吉からは黄色な紙に包んである唐墨。お隅からは半蔵の妻へと言って、木曾の山家では手に入りそうもない名物さくら香の油。それに、元結。「まったく、不思議な御縁です」。 翌朝早く半蔵はその多吉夫婦の声を聞いて、別れを告げた。頼んで置いた馬も来た。以前彼が江戸を去る時と同じように、引きまとめた旅の荷物は琉球の菰包にして、平兵衛と共に馬荷に付き添いながら左衛門町の門を離れた。「どれ、そこまでわたしも御一緒に」という多吉はあわただしく履物を突ッかけながら、左衛門橋の上まで半蔵らを追って来た。上京以来、半蔵が教部省への勤め通いに、町への用達しに、よく往復したその橋のほとりも、左衛門町の二階と引き離しては彼には考えられないようなものであった。その朝の河岸に近く舫ってある船、黒ずんで流れない神田川の水、さては石垣の上の倉庫の裏手に乾してある小さな鳥かごまでが妙に彼の目に映った。 |
王政復古以来、すでに足掛け八年にもなる。下から見上げる諸般の制度は追い追いとそなわりつつあったようであるが、一度大きく深い地滑りが社会の底に起こって見ると、何度も何度も余りの震動が繰り返され、その影響は各自の生活に浸って来ていた。こんな際に、西洋文物の輸入を機会として、種々雑多の外国人はその本国からも東洋植民地からも入り込みつつあった。それらのヨーロッパ人の中には先着の客の意見を受け継ぎ、日本人をして西洋文明を採用せしめるの途は、強力によって圧倒するか、さなくば説諭し勧奨するか、そのいずれかを出でないとの尊大な考えを抱いて来るものがある。衰余の国民が文明国の干渉によって勃興した例は少ないが、今は商業も著しく発達し、利益と人道とが手を取って行く世の中となって来たから、よろしく日本を良導して東洋諸衰残国の師たる位置に達せしめるがいいというような、比較的同情と親愛とをもって進んで来るものもある。ヨーロッパの文明はひとり日本の政治制度に限らず、国民性それ自身をも滅亡せしめる危険なくして、はたして日本の国内にひろめうるか、どうか。この問いに答えなければならなかったものが日本人のすべてであった。当時はすでに民選議院建白の声を聞き、一方には旧士族回復の主張も流れていた。目に見えない瓦解はまだ続いて、失業した士族から、店の戸をおろした町人までが互いに必死の叫びを揚げていた。だれもが何かに取りすがらずにはいられなかったような時だ。半蔵は多くの思いをこの東京に残して、やがて板橋経由で木曾街道の空に向かった。 |
五 |
「お師匠さま」。その呼び声は、雪道を凍らせてすべる子供らの間に起こっている。坂になった町の片側をたくみにすべって行くものがある。ころんで起き上がるものがある。子供らしい笑い声も起こっている。山家育ちの子供らは手に手に鳶口を携え、その手のかじかむのも忘れ、降り積もった雪道の遊戯に余念がない。いずれも元の敬義学校の生徒だ。名も神坂村小学校と改められた新校舎の方へ通っている馬籠の子供らだ。二月上旬の末に半蔵は平兵衛と連れだちながら郷里に着いて、伏見屋の前あたりまで帰って行くと、自分を呼ぶその教え子らの声を聞いた。「お父さん」と呼びながら、氷すべりの仲間から離れて半蔵の方へ走って来るのは、腕白ざかりな年ごろになった三男の森夫であった。そこには四男の和助までが、近所の年長の子供らの仲間にはいりながら、ほっペたを紅くし、軽袗裾のぬれるのも忘れて、雪の中を歩き回るほど大きくなっていた。 新しい春とは言っても山里はまだ冬ごもりのまっ最中である。半蔵の留守宅には、継母のおまんをはじめ、妻のお民、娘お粂、長男宗太から下男佐吉らまで、いずれも雪の間に石のあらわれた板屋根の下で主人の帰りを待ち受けていた。東京を立ってからの半蔵はすでに八十余里の道を踏んで来て、凍えもし、くたぶれもしていたが、そう長く自分の家にとどまることもできない人であった。三日ばかりの後にはまた馬籠を立って、任地の方へ向かわねばならなかった。あまりに飛騨行きの遅れることは彼の事情が許さなかったからで。馬につけて来た荷もおろされ、集まって来る子供の前に旅の土産も取り出され、長い留守中の話や東京の方のうわさがそこへ始まると、早くも予定の日取りを聞きつけた村の衆が無事で帰って来た半蔵を見にあとからあとからと詰めかけて来る。松本以来の訓導小倉啓助は神坂村小学校の報告を持って、馬籠町内の旧組頭笹屋庄助はその後の山林事件の成り行きと村方養蚕奨励の話なぞを持って、荒町の禰宜松下千里は村社諏訪社の祭礼復興の話を持ってというふうに。 わずか三日ばかりの半蔵が帰宅は家のものにとっても実にあわただしかった。炉の火を大きな十能に取って寛ぎの間へ運び、山家らしい炬燵に夫のからだをあたためさせながら、木曾福島の植松家からあった娘お粂の縁談を語り出すのはお民だ。そこへ手のついた古風な煙草盆をさげて来て、ふるさとにあるものがこのままの留守居を続けることはいかにも心もとないと言い出すのはおまんだ。宗太もまだ十八歳の若者ではあるが、村では評判の親孝行者であり、半蔵の従兄に当たる栄吉にその後見をさせ、旧本陣時代からの番頭格清助にも手伝わせたら、青山の家がやれないことはあるまい、半蔵の水無神社宮司として赴任するのを機会にこの際よろしく家督を跡目相続の宗太に譲り、それから自分の思うところをなせ――そう言うおまんは髪こそ白さを加えたが、そこへ手をついて頭を上げ得ないでいる半蔵を前に置いて、この英断に出た。たとい城を枕に討死にするような日が来ても旧本陣の格はくずしたくないと言いたげな継母の口から、日ごろの経済のうとさを一々指摘された時は、まったく半蔵も返す言葉がなかった。 今度の帰国の日は、半蔵が自分の生涯の中でもおそらく忘れることのできなかろうと思った日である。彼が四十四歳で隠居の身となることを決心したのもその間であった。これは先代の吉左衛門が六十四歳まで馬籠の宿役人を勤め、それから家督を譲って、隠居したのに比べると二十年早い。また、先々代半六が六十六歳のおりの引退に比べると二十二年も早い。このさみしさ、あわただしさの中で、半蔵はすこしの暇でも見つけるごとに隣家の伏見屋へ走って行った。無事な伊之助の顔を見て、いろいろ世話になった礼を述べ、東京浅草左衛門町までの旅先で届けてもらった金子のことも言い、継母にはまたしかられるかもしれないが亡き吉左衛門が彼にのこして行った本陣林のうちを割いてその返済方にあてたいと頼んだ。彼の長男があの年齢のうら若さで、はたしてやり切れるかどうかもおぼつかなくはあるが、お民も付いているし、それに自分はもはや古い青山の家に用のないような人間であるから、継母の言葉に従ったとも告げた。そして彼が伊之助にその話をして家に引き返して来て見ると、長いこと独身で働いていた下男の佐吉があかぎれだらけの大きな手をもみもみ彼の前へ来た。この男も、今度いよいよ長い暇を告げ、隣村山口に帰り、嬶をもらって竈を持ちたいと言う。「旦那、お前さまに折り入ってお願いがある」。「なんだい、佐吉。言って見ろ」。「お前さまも知ってるとおり、おれには苗字がない」。「おゝ、佐吉にはまだ苗字がなかったか」。「見さっせれ。皆と同じように、おれもその苗字がほしいわなし。お前さまのような人にそれをつけてもらえたら、おれもこうして長く御奉公したかいがあるで」。 この男の言うようにすると、自分の姓はどんなものでもいい。半蔵の方で思ったようにつけてくれれば、それでいい。多くの無筆なものと同じように、この男の親も手の荒れる畠仕事に追われ通して、何一つ書いたものがあとに残っていない。小使い帳一冊残っていない。家に伝わるはっきりした系図というようなものもない。黙って働いて、黙って死んで行った仲間だ。ついては、格別やかましい姓を名乗りたいではないが、自分の代から始めることであるから、何か自分に縁故のあるものをほしい。日ごろ本陣の北に当たる松林で働いて来た縁故から、北林の苗字はどうあろうかと言い出したので、半蔵は求めらるるままに北林佐吉としてやった。山口へ帰ったら早速その旨を村役場へ届けいでよとも勧めた。この男には半蔵は家に伝わる田地を分け、下男奉公のかたわら耕させ、それを給金の代わりに当ててあった。女ぎらいかと言われたほどの変わり者で、夜遊びなぞには目もくれず、昼は木小屋、夜は母屋の囲炉裏ばたをおのれの働く場所として、主人らの食膳に上る野菜という野菜は皆この男の手造りにして来たものであった。 青山氏系図、木曾谷中御免荷物材木通用帳、御年貢皆済目録、馬籠宿駅印鑑、田畑家屋敷反別帳、その他、青山の家に伝わる古い書類から、遠い先祖の記念として残った二本の鎗、相州三浦にある山上家から贈られた家宝の軸――一切それらのものの引き渡しの時も迫った。ほとほと半蔵には席の暖まるいとまもない。彼は店座敷の障子のわきにある自分の旧い桐の机の前にすわって見る間もなく、またその座を立って、宗太へ譲るべき帳面の類なぞ取りまとめにかかった。何げなくお粂はその部屋をのぞきに来て、本陣、問屋、庄屋の三役がしきりに廃された当時のことを思い出し顔であった。家の女衆の中で最も深く瓦解の淵をのぞいて見たものも、この早熟な娘だ。「おゝ、お粂か」と半蔵は声をかけながら、いっぱいに古い書類のちらかった部屋の内を歩き回っていた。お粂ももはや二十歳の春を迎えている。死をもって自分の運命を争おうとしたほどの娘のところへも、新規な結婚話が、しかも思いがけない木曾福島の植松家の方から進められて来て、不思議な縁の、偶然の力に結ばれて行こうとしている。「お父さん。やっとわたしも決心がつきました」。お粂はそれを言って見せたぎり、堅く緋ぢりめんの半襟をかき合わせ、あだかも一昨年の古疵の痕をおおうかのようにして、店座敷から西の廊下へ通う薄暗い板敷きの方へ行って隠れた。 |
三日過ぎには半蔵は中津川まで動いた。この飛騨行きに彼は妻を同伴したいと思わないではなく、今すぐにと言わないまでも、先へ行って落ち着いたら妻を呼び迎えたいと思わないではなかったが、どうしてお民というものが宗太の背後にいなかったら、馬籠の家は立ち行きそうもなかった。下男佐吉も今度は別れを惜しんで、せめて飛騨の宮村までは彼の供をしたいと言い出したが、それも連れずであった。旅の荷物は馬につけ、出入りの百姓兼吉に引かせ、新茶屋の村はずれから馬籠の地にも別れて、信濃と美濃の国境にあたる十曲峠の雪道を下って来た。 中津川では、半蔵は東京の平田鉄胤老先生や同門の医者金丸恭順などの話を持って、その町に住む二人の旧友を訪ねた。長く病床にある香蔵は惜しいことにもはや再び起てそうもない。景蔵はずっと沈黙をまもる人であるが、しかしあって見ると、相変わらずの景蔵であった。険しい前途の思いは半蔵の胸に満ちて来た。彼は宮村まで供をするという兼吉を見て、ともかくも馬で行かれるところまで行き、それから先は牛の背に荷物をつけ替えようと語り合った。というのは、岩石のそそり立つ山坂を平地と同じように踏めるのは、牛のような短く勁い脚をもったものに限ると聞くからであった。雪をついて飛騨の山の方へ落ちて行く前に、半蔵は中津川旧本陣にあたる景蔵の家の部屋を借り、馬籠の伏見屋あてに次ぎのような意味の手紙を残した。「小竹伊之助君――しばらくのお別れにこれを書く。自分はこの飛騨行きを天の命とも考えて、高地の方に住む人々に、満足するような道を伝えたいため、馬籠をあとにして中津川まで来た。飛騨の人々が首を長くして自分の往くのを待ちわびているような気がしてならない。二年、三年の後、自分はむなしく帰るかもしれない。あるいは骨となって帰るかもしれないが、ただただ天の命を果たしうればそれでいいと思う。東京の旅以来、格別お世話になったことは、心から感謝する。ただお粂のことは、今後も何卒お力添えあるようお願いする。いよいよ娘の縁づいて行くまでに話が進んだら、そのおりは自分も一度帰村する心組みであるが、これが自分の残して行く唯一のお願いである。自分は今、すこぶる元気でいる。心も平素よりおちついているような気がする。君も御無事に。」[#改頁] |
(私論.私見)