夜明け前第二部下の4、第十一章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
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【島崎藤村/夜明け前第二部下の4、第十一章】 |
一 |
東京の町々はやがてその年の十月末を迎えた。常磐橋内にある教部省では役所のひける時刻である。短い羽織に袴をつけ、それに白足袋、雪駄ばきで、懐中にはいっぱいに書物をねじ込みながら橋を渡って行く人は、一日の勤めを終わった役所帰りの半蔵である。その日かぎり、半蔵は再び役所の門を潜るまい、そこに集まる同僚の人たちをも見まいと思うほどのいらいらした心持ちで、鎌倉河岸のところに黄ばみ落ちている柳の葉を踏みながら、大股に歩いて行った。もともと今度の上京を思い立って国を出た時から、都会での流浪生活を覚悟して来た彼である。半年の奉職はまことに短かったとは言え、とにもかくにも彼は神祇局の後身ともいうべき教部省に身を置いて見て、平田一派の諸先輩がそこに残した仕事のあとを見ただけにも満足しようとした。例の浅草左衛門町にある多吉の家をさして帰って行くと、上京以来のことが彼の胸に浮かんで来た。ふと、ある町の角で、彼は足をとめて、ホッと深いため息をついた。その路は半年ばかり彼が役所へ往復した路である。柄にもない教部省御雇いとしての位置なぞについたのは、そもそも自分のあやまりであったか、そんな考えがしきりに彼の胸を往ったり来たりした。「これはおれの来べき路ではなかったのかしらん」。そう考えて、また彼は歩き出した。仮の寓居と定めている多吉の家に近づけば近づくほど、名のつけようのない寂しさが彼の胸にわいた。彼は泣いていいか笑っていいかわからないような心持ちで、教部省の門を出て来たのである。 左衛門橋に近い多吉夫婦が家に戻って二階の部屋に袴をぬいでからも、まだ半蔵はあの常磐橋内の方に身を置くような気がしている。役所がひける前の室内の光景はまだ彼の目にある。そこには担当する課事を終わって、机の上を片づけるものがある。風呂敷包みを小脇にかかえながら雑談にふけるものもある。そのそばには手で頤をささえて同僚の話に耳を傾けるのもある。さかんな笑い声も起こっている。日ごろ半蔵が尊信する本居宣長翁のことについて、又聴きにした話を語り出した一人の同僚がそこにある。それは本居翁の弟子斎藤彦麿の日記の中に見いだされたことだというのである。ある日、彦麿はじめ二、三の内弟子が翁の家に集まって、「先生は実に活神様だ」と話しながら食事していると、給仕の下女がにわかに泣き出したというのである。子細をたずねると、その女の答えるには、実はその活神様が毎晩のように自分の寝部屋へ見える、うるささのあまり、昨夜は足で蹴ってやったが、そんな立派な活神様では罰が当たって、この足が曲がりはしないかと、それで泣いたのだと言われて、彦麿もあいた口がふさがらなかったというのである。それを聞くと、そこにいたものは皆笑った。その話をはじめた同僚はますます得意になって、「いったい、下女の寝部屋へはいり込むようなものにかぎって、人格者だ」とやり出す。この「人格者」がまた一同を笑わせた。半蔵は顔色も青ざめて、その同僚の口から出たような話がどこまで本当であるやもわからなかったし、また、斎藤彦麿の日記なるものがどこまで信用のできるものかもわからなかったから、それをくどく言い争う気にはならなかったが、しかしそこに集まる人たちが鬼の首でも取ったようにそんな話をして楽しむということに愛想をつかした。前に本居宣長がなかったら、平田篤胤でも古人の糟粕をなめて終わったかもしれない。平田篤胤がなければ、平田鉄胤もない。平田鉄胤がなければ、結局今の教部省というものもなかったかもしれない。そのことがとっさの間に彼の胸へ来た。思わず彼はその同僚の背中を目のさめるほど一つどやしつけて置いて、それぎり役所を出て来てしまった。それほど彼もいらいらとしていた。 十月末のことで、一日は一日より深くなって行く秋が旅にある半蔵の身にひしひしと感じられた。神田川はその二階の位置から隠れて見えないまでも、ごちゃごちゃとした建物の屋根の向こうに沈んだ町の空が障子の開いたところから彼の目に映る。長いこと彼はひとりですわっていて、あたりの町のすべてが湿った空気に包まれて行くのをながめながら、自分で自分のしたことを考えた。「いくら人の欠点を知ったところで、そんなことが何になろう」と考えて、彼はそれを役所の同僚の話に結びつけて見た。彼はある人の所蔵にかかる本居翁の肖像というものを見たことがある。それは翁が名古屋の吉川義信という画工にえがかせ、その上に和歌など自書して門人に与えたものの一つである。その清い眉にも涼しい目もとにも老いの迫ったという痕跡がなく、まだみずみずしい髪の髻を古代紫の緒で茶筅風に結び、その先を前額の方になでつけたところは、これが六十一歳の翁かと思われるほどの人がその画像の中にいた。翁は自意匠よりなる服を造り、紗綾形の地紋のある黒縮緬でそれを製し、鈴屋衣ととなえて歌会あるいは講書の席上などの式服に着用した人であるが、その袖口には紫縮緬の裏を付けて、それがまたおかしくなかったと言わるるほどの若々しさだ。早く老けやすいこの国の人たちの中にあって、どうしてそれほどの若さを持ち続け得たろうかと疑われるばかり。こんな人が誤解されやすいとしたら、それこそ翁の短所からでなくて、むしろ晩年に至るまでも衰えず若葉してやまなかったような、その長い春にこもる翁の長所からであったろうと彼には思われる。 彼の心に描く本居宣長とは、あの先師平田篤胤に想像するような凜々しい容貌の人ともちがって、多分に女性的なところを持っていた心深い感じのする大先輩であった。そして、いかにもゆったりとその生涯を発展させ、天明の昔を歩いて行った近つ代の人の中でも、最も高く見、最も遠く見たものの一人であった。そのかわり、先師篤胤は万事明け放しで、丸裸になって物を言った。そこが多くの平田門人らにとって親しみやすくもあったところだ。本居翁にはそれはない。寛いふところに、ありあまるほどの情意を包みながら、言説以外にはそれも打ち出さずに、終生つつましく暮らして行かれたようなその人柄は、内弟子にすら近づきがたく思われたふしもあったであろう。ともあれ、日ごろ彼なぞが力と頼む本居翁も口さがない人たちにかかっては、滑稽な戯画の中の人物と化した。先輩を活神様にして祭り上げる人たちは、また道化役者にして笑いたがる人たちである。そんな態度が頼みがいなく思われる上に、又聞きにしたくらいの人の秘密をおもしろ半分に振り回し、下世話にいう肘鉄を食わせたはしたない女の話なぞに興がって、さも活神様の裏面に隠れた陰性な放蕩をそこへさらけ出したという顔つきでいるそういう同僚を彼は片腹痛く思った。きく人もまたすこぶる満足したもののごとく、それを笑い楽しむような空気の中で、国学の権威もあったものではない。そのことがすでに彼には堪え忍べなかった。 |
二 |
「なんだか、ぼんやりした。あのお粂のことがあってから、おれもどうかしてしまった。はて、おれも路に迷ったかしらん……」。新生涯を開拓するために郷里の家を離れ、どうかして斎の道を踏みたいと思い立って来た半蔵は、またその途上にあって、早くもこんな考えを起こすようになった。すこしく感ずるところがあって、常磐橋の役所も退くつもりだ。そのことを彼は多吉夫婦に話し、わびしい旅の日を左衛門町に送っていた。彼は神田明神の境内へ出かけて行って、そこの社殿の片すみにすわり、静粛な時を送って来ることを何よりの心やりとする。時に亭主多吉に誘われれば、名高い講釈師のかかるという両国の席亭の方へ一緒に足を向けることもある。そこへ新乗物町に住む医師の金丸恭順が訪ねて来た。恭順はやはり平田門人の一人である。同門の好みから、この人はなにくれとなく彼の相談相手になってくれる。その時、彼は過ぐる日のいきさつを恭順の前に持ち出し、実はこれこれでおもしろくなくて、役所へも出ずに引きこもっているが、本居翁の門人で斎藤彦麿のことを聞いたことがあるかと尋ねた。恭順はその話を聞くと腹をかかえて笑い出した。江戸の人、斎藤彦麿は本居大平翁の教え子である、藤垣内社中の一人である、宣長翁とは時代が違うというのである。「して見ると、人違いですかい」。「まずそんなところだろうね」。「これは、どうも」。「そりゃ君、本居と言ったって、宣長翁ばかりじゃない、大平翁も本居だし、春庭先生だっても本居だ」。二人はこんな言葉をかわしながら、互いに顔を見合わせた。 恭順に言わせると、宣長の高弟で後に本居姓を継いだ大平翁は早く細君を失われた人であったと聞く。そこからあの篤学な大平翁も他の知らないさびしい思いを経験されたかもしれない。それにしても、内弟子として朝夕その人に親しんで見た彦麿がそんな調子で日記をつけるかどうかも疑わしい上に、もしあの弟子の驚きが今さらのように好色の心を自分の師翁に見つけたということであったら、それこそ彦麿もにぶい人のそしりをまぬかれまい。まこと国学に心を寄せるほどのものは恋をとがめないはずである。よい人は恋を許すが、そうでない人は恋をとがめるとは、あの宣長翁の書きのこしたものにも見える。こんな話をしたあとで、「いやはや、宣長翁も飛んだ濡衣を着たものさね」。恭順は大笑いして帰って行った。そのあとにはいくらか心の軽くなった半蔵が残った。「よい人は恋を許すが、そうでない人は恋をとがめる」とは恭順もよい言葉を彼のところに残して置いて行った。彼はそう思った。もし先輩が道化役者なら、それをおもしろがって見物する後輩の同僚は一層の道化役者ではなかろうかと。まったく、男の女にあう路は思いのほかの路で、へたな理屈にあてはまらない。この路ばかりは、どんな先輩にも過ちのないとは言えないことであった。あながちに深く思いかえしても、なおしずめがたく、みずからの心にもしたがわない力に誘われて、よくない事とは知りながらなお忍ぶに忍ばれない場合は世に多い。あの彦麿が日記の中にあるというように、大平翁ほどの人がそんな情熱に身を任せたろうとは、彼には信じられもしなかったが、仮にそんな時代があって、蒸し暑く光の多い夏の夜なぞは眠られずに、幾度か寝所を替えられたようなことがあったとしても、あれほど他におもねることをしなかった宣長翁の後継者としては、おのれにおもねることをもされなかったであろう。おそらく、自分はこのとおり愚かしいと言われたであろうと彼には思われた。それにしても、本居父子の本領は別にある。宣長翁にあっては、深い精神にみちたものから単なる動物的なものに至るまで――さては、源氏物語の中にあるあの薄雲女院に見るような不義に至るまでも、あらゆる相において好色はあわれ深いものであった。 いわゆる善悪の観念でそれを律することはできないと力説したのが宣長翁だ。彼なぞの最も知りたく思うことは、いかにしてあの大先輩がそれほどの彼岸に達することができたろうかというところにある。その心から彼はあの『玉の小櫛』を書いた翁を想像し、歴代の歌集に多い恋歌、または好色のことを書いた伊勢、源氏などの物語に対する翁が読みの深さを想像し、その古代探求の深さをも想像して、あれほど儒者の教えのやかましく男女は七歳で席を同じくするなと厳重に戒めたような封建社会の空気の中に立ちながら、実に大胆に恋というものを肯定した本居宣長その人の生涯に隠れている婦人にまでその想像を持って行って見た。 |
しかし、半蔵が教部省を去ろうとしたのは、こんな同僚とのいきさつによるばかりではない。なんと言っても、以前の神祇局は師平田鉄胤をはじめ、樹下茂国、六人部雅楽、福羽美静らの平田派の諸先輩が御一新の文教あるいは神社行政の上に重要な役割をつとめた中心の舞台である。師の周囲には平田延胤、師岡正胤、権田直助、丸山作楽、矢野玄道、それから半蔵にはことに親しみの深い暮田正香らの人たちが集まって、直接に間接に復古のために働いた。半蔵の学友、蜂谷香蔵、今こそあの同門の道づれも郷里中津川の旧廬に帰臥しているが、これも神祇局時代には権少史として師の仕事を助けたものである。田中不二麿の世話で、半蔵がこんな縁故の深いところに来て見たころは、追い追いと役所も改まり、人もかわりしていたが、それでも鉄胤老先生が神祇官判事として在職した当時の記録は、いろいろと役所に残っていた。ちょうど草の香でいっぱいな故園を訪う心は、半蔵が教部省内の一隅に身を置いた時の心であった。彼はそれらの諸記録をくりひろげるたびに、あそこにだれの名があった、ここにだれの名があったと言って見て、平田一門の諸先輩によって代表された中世否定の運動をそこに見渡すことができるように思った。 別当社僧の復飾に、仏像を神体とするものの取り除きに、大菩薩の称号の廃止に、神職にして仏葬を執り行なうものの禁止に――それらはすべて神仏分離の運動にまであふれて行った国学者の情熱を語らないものはない。ある人も言ったように、従来僧侶でさえあれば善男善女に随喜渇仰されて、一生食うに困らず、葬礼、法事、会式に専念して、作善の道を講ずるでもなく、転迷開悟を勧めるでもなく、真宗以外におおぴらで肉食妻帯する者はなかったが、だいこく、般若湯、天がい等の何をさす名か、知らない者はなかったのが一般のありさまであった。「されば由緒もなき無格の小寺も、本山への献金によつて寺格を進めらるることのあれば、昨日にび色の法衣着たる身の今日は緋色を飾るも、また黄金の力たり。堂塔の新築改造には、勧進、奉化、奉加とて、浄財の寄進を俗界に求むれども、実は強請に異ならず。その堂内に通夜する輩も風俗壊乱の媒たり」とはすでに元禄の昔からである。全国寺院の過多なること、寺院の富用無益のこと、僧侶の驕奢淫逸乱行懶惰なること、罪人の多く出ること、田地境界訴訟の多きこと等は、第三者の声を待つまでもなく、仏徒自身ですら心あるものはそれを認めるほどの過去の世相であったのだ。 |
大きな破壊の動いた跡はそこにも驚かれるほどのものがある。利にさとい寺方が宮公卿の名目で民間に金を貸し付け、百姓どもから利息を取り立てる行為なぞはまッ先に鎗玉にあげられた。仁和寺、大覚寺をはじめ、諸門跡、比丘尼御所、院家、院室等の名称は廃され、諸家の執奏、御撫物、祈祷巻数ならびに諸献上物もことごとく廃されて、自今僧尼となるものは地方官庁の免許を受けなければならないこととなった。虚無僧の廃止、天社神道の廃止、修験宗の廃止に続いて、神社仏閣の地における女人結界の場処も廃止された。この勢いのおもむくところは社寺領上地の命令となり、表面ばかりの禁欲生活から僧侶は解放され、比丘尼の蓄髪と縁付きと肉食と還俗もまた勝手たるべしということになった。従来、祇園の社も牛頭天王と呼ばれ、八幡宮も大菩薩と称され、大社小祠は事実上仏教の一付属たるに過ぎなかったが、天海僧正以来の僧侶の勢力も神仏混淆禁止令によって根から覆されたのである。 |
半蔵が教部省に出て仕えたのは、こんな一大変革のあとをうけて神社寺院の整理もやや端緒についたばかりのころであった。かねて神祇官時代には最も重要な地位に置かれてあった祭祀の式典すら、彼の来て見たころにはすでに式部寮の所管に移されて、その一事だけでも役所の仕事が平田派諸先輩によって創められた出発当時の意気込みを失ったことを語っていた。すべてが試みの時であったとは言え、各自に信仰を異にし意見を異にし気質を異にする神官僧侶を合同し、これを教導職に補任して、広く国民の教化を行なおうと企てたことは、言わば教部省第一の使命ではあったが、この企ての失敗に終わるべきことは教部省内の役人たちですら次第にそれを感づいていた。初めから一致しがたいものに一致を求め、協和しがたいものに協和を求めたことも、おそらく新政府当局者の弱点の一つであったろう。ともかくもその国民的教化組織の輪郭だけは大きい。中央に神仏合同の大教院があり、地方にはその分院とも見るべき中教院、小教院、あるいは教導職を中心にする無数の教会と講社とがあった。いわゆる三条の教則なるものを定めて国民教導の規準を示したのも教部省である。けれども全国の神官と共に各宗の僧侶をして布教に従事せしめるようなことは長く続かなかった。専断偏頗の訴えはそこから起こって来て、教義の紛乱も絶えることがない。外には布教の功もあがらないし、内には協和の実も立たない。真宗五派のごときは早くも合同大教院から分離して、独立して布教に従事したいと申し出るような状態にある。半蔵はこんな内部の動揺しているところへ飛び込んで行ったのであった。役所での彼の仕事は主として考証の方面で、大教院から回して来るたくさんな書類を整理したり、そこで編集された教書に目を通したり、地方の教会や講社から来るさまざまな質疑に答えたりなぞすることであった。彼も幾度か躊躇したあとで、全く無経験な事に当たった。いかんせん、役所の空気はもはや事を企つるという時代でなく、ただただ不平の多い各派の教導職を相手にして妥協に妥協を重ねるというふうであった。同僚との交際にしても底に触れるものがない。今の教部省が神祇省と言った一つの時代を中間に置いて、以前の神祇局に集まった諸先輩の意気込みを想像するたびに、彼は自分の机を並べる同僚が互いの生い立ちや趣味を超えて、何一つ与えようともせず、また与えられようともしないと気がついた時に失望した。のみならず、地方の教会や講社から集まって来る書類は机の上に堆高いほどあって、そこにも彼は無数のばからしくくだらない質疑の矢面に立たせられた。たとえば、僧侶たりとも従前の服を脱いで文明開化の新服をまといたいが、仏事のほかは洋服を着用しても苦しくないか。神社仏寺とも古来所伝の什物、衆庶寄付の諸器物、並びに祠堂金等はこれまで自儘に処分し来たったが、これも一々教部省へ具状すべき筋のものであるか。従来あった梓巫、市子、祈祷、狐下げなぞの玉占、口よせ等は一切禁止せらるるか。寺住職の家族はその寺院に居住のまま商業を営んでも苦しくないか。もし鬘を着けるなら、寺住職者の伊勢参宮も許されるかの類だ。国学の権威、一代の先駆者、あの本居翁が滑稽な戯画中の人物と化したのも、この調子の低い空気から出たことだ。「教部省のことはもはや言うに足りない」とは半蔵の嘆息だ。今は彼も再び役所の同僚の方へ帰って行く気はないし、また帰れもしない。いよいよ役所の仕事からも離れて、辞職の手続きをする心に至って見ると、彼なぞのそう長く身を置くべき場所でないこともはっきりした。 |
三 |
半蔵が教部省御雇いとしての日はこんなふうに終わりを告げた。半年の奉職は短かったが、しかし彼はいろいろなことを学んで来た。平田派諸先輩の学者たちが祭政一致の企てに手を焼いたことをも、それに代わって組織された神仏合同大教院のような政府の教化事業が結局失敗に終わるべき運命のものであることを知って来たのも、その短い月日の間であった。ここまで御一新に路を開けたあの本居翁のような人さえもが多くの俗吏によってどんなふうに取り扱われているかを知って来たのも、またその間であった。この彼も、行き疲れ、思い疲れた日なぞには、さすがに昨日のことを心細く思い出す。十一月にはいってからは旅寝の朝夕もめっきりと肌寒い。どうかすると彼は多吉夫婦が家の二階の仮住居らしいところに長い夜を思い明かし、行燈も暗い枕もとで、不思議な心地をたどることもある……いつのまにか彼はこの世の旅の半ばに正路を失った人である。そして行っても行っても思うところへ出られないようないらいらした心地で町を歩いている……ふと、途中で、文部大輔に昇進したという田中不二麿に行きあう。そうかと思うと、同門の医者、金丸恭順も歩いている。彼は自分で自分の歩いているところすらわからないような気がして来る。途方に暮れているうちに、ある町の角なぞで、彼は平素それほど気にも留めないような見知らぬ人の目を見つける。その目は鋭く彼の方を見つつあるもののようで、「あそこへ行くのは、あれはなんだ――うん、総髪か」とでも言うように彼には感じられる。彼はまだ散切りにもしないで、総髪を後方にたれ、紫の紐でそれを堅く結び束ねているからであった。そういう彼はまた、しいてそんな風俗を固守しているでもないが、日ごろの願いとする古い神社の方へ行かれる日でも来たら、総髪こそその神に仕える身にはふさわしいと思われるからでもあった。不思議にも、鋭く光った目は彼の行く先にある。どう見てもそれは恐ろしい目だ。こちらの肩をすくめたくなるような目だ。彼はそんな物言う目を洋服姿の諸官員なぞが通行の多い新市街の中に見つけるばかりでなく、半分まだ江戸の町を見るような唐物店、荒物店、下駄店、針店、その他紺の暖簾を掛けた大きな問屋が黒光りのする土蔵の軒を並べた商家の空気の濃いところにすら見つける。どうかすると、そんな恐ろしい目はある橋の上を通う人力車の中にまで隠れている。こういうのが夢かしらん。そう思いながら、なおその心地をたどりつづけるうちに、大きな河の流れているところへ出た。そこは郷里の木曾川のようでもあれば、東京の隅田川のようでもある。水に棹さして流れを下って来る人がある。だんだんこちらの岸に近づいたのを見ると、その小舟をあやつるのは他の人でもない。それが彼の父吉左衛門だ。父はしきりに彼をさし招く。舟の中には手ぬぐいで髪をつつんだ一人のうしろ向きの婦人もある。彼は岸から父に声をかけて見ると、その婦人こそ彼を生んだ実の母お袖と聞かされて驚く。その時は彼も一生懸命に母を呼ぼうとしたが、あいにく声が咽喉のところへ干からびついたようになって、どうしてもその「お母さん」が出て来ない。はるかに川上から橋の下の方へ渦巻き流れて来る薄濁りのした水の勢いは矢のような早さで、見るまに舟も遠ざかって行く。思わず彼は自分で自分の揚げたうなり声にびっくりして、目をさました。 |
こんなに父母が夢にはいったのは、半蔵としてはめずらしいことだった。半年の旅の末にはこんな夢を見ることもあるものか。そう彼は考えて、まだ寝床からはい出すべき時でもない早暁の枕の上で残った夢のこころもちに浸っていた。いつでも寝返りの一つも打つと、からだを動かすたびにそんなこころもちの消えて行くのは彼の癖であったが、その明けがたにかぎって、何がなしに恐ろしかった夢の筋から、父母の面影までが、はっきりと彼の胸に残った。これまで彼が亡き父を夢に見た覚えは、ただの一度しかない。青山の家に伝わる馬籠本陣、問屋、庄屋の三役がしきりに廃止になった後、父吉左衛門の百か日を迎えたころに見たのがその夢の記憶だ。その時にできた歌もまだ彼には忘れられずにある。 亡き人に言問ひもしつ幽界に通ふ夢路はうれしくもあるか
こんな自作の歌までも思い出しているうちに、耳に入る冷たい秋雨の音、それにまじってどこからともなく聞こえて来る蟋蟀の次第に弱って行くような鳴き声が、いつのまにか木曾の郷里の方へ彼の心を誘った。彼は枕の上で、恋しい親たちの葬ってある馬籠万福寺の墓地を思い出した。妻のお民や四人の子の留守居する家の囲炉裏ばたを思い出した。平田同門の先輩も多くある中で、彼にはことに親しみの深い暮田正香をめずらしく迎え入れたことのある家の店座敷を思い出した。木曾路通過の正香は賀茂の方へ赴任して行く旅の途中で、古い神社へとこころざす手本を彼に示したのもあの先輩だが、彼と共にくみかわした酒の上で平田一門の前途を語り、御一新の成就のおぼつかないことを語り、復古が復古であるというのはそれの達成せられないところにあると語り、しまいには熱い暗い涙があの先輩の男らしい顔を流れたことを思い出した。彼はまた、松尾大宮司として京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を美濃の中津川の方に迎えた時のことを思い出し、その小集の席上で同門の人たちが思い思いに歌を記しつけた扇を思い出し、あるものはこうして互いにつつがなくめぐりあって見ると八年は夢のような気がするとした意味の歌を書いたことを思い出し、あるものは辛いとも甘いとも言って見ようのない無限の味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のものであったことを思い出した。その時の師岡正胤が扇面に書いて彼に与えたものは、この人にしてこの歌があるかと思われるほどの述懐で、おくれまいと思ったことは昔であるが、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いの寄せてあったことをも思い出した。やがて彼は床を離れて、自分で二階の雨戸をくった。二つある西と北との小さな窓の戸をもあけて見たが、まだそこいらは薄暗いくらいだった。階下の台所に近い井戸のそばで水垢離を取り身を浄めることは、上京以来ずっと欠かさずに続けている彼が日課の一つである。その時が来ても、おそろしく路に迷った夢の中のこころもちが容易に彼から離れなかった。そのくせ気分ははっきりとして来て、何を見ても次第に目がさめるような早い朝であった。雨も通り過ぎて行った。 「ゆうべは多吉さんもおそかったようですね」。「青山さん、さぞおやかましゅうございましたろう。吾夫じゃあんなにおそく帰って来て、戸をたたきましたよ」。問う人は半蔵、答える人は彼に二階の部屋を貸している多吉の妻だ。その時のお隅の挨拶に、「まあ聞いてください。吾夫でも好きな道と見えましてね、運座でもありますとよくその方の選者に頼まれてまいりますよ。昨晩の催しは吉原の方でございました。御連中が御連中で、御弁当に酒さかななぞは重詰めにして出しましたそうですが、なんでも百韻とかの付合があって、たいへんくたぶれたなんて、そんなことを言っておそく帰ってまいりました。でも、あなた、男の人のようでもない。吉原まで行って、泊まりもしないで帰って来る――意気地がないねえ、なんて、そう言って、わたしは笑っちまいましたよ」。「どうも、おかみさんのような人にあっちゃかないません」。「ところが、青山さん、吾夫の言い草がいいじゃありませんか。おそく夜道を帰って来るところが、おれの俳諧ですとさ」。多吉夫婦はそういう人たちだ。 十年一日のように、多吉は深川米問屋の帳付けとか、あるいは茶を海外に輸出する貿易商の書役とかに甘んじていて、町人の家に生まれながら全く物欲に執着を持たない。どこへ行くにも矢立てを腰にさして胸に浮かぶ発句を書き留めることを忘れないようなところは、風狂を生命とする奇人伝中の人である。その寡欲と、正直と、おまけに客を愛するかみさんの侠気とから、半蔵のような旅の者でもこの家を離れる気にならない。 この亭主に教えられて半蔵がおりおりあさりに行く古本屋が両国薬研堀の花屋敷という界隈の方にある。そこにも変わり者の隠居がいて、江戸の時代から残った俳書、浮世草紙から古いあずま錦絵の類を店にそろえて置いている。半蔵は亭主多吉が蔵書の大部分もその隠居の店で求めたことを聞いて知っていた。そういう彼も旅で集めた書物はいろいろあって、その中の不用なものを売り払いたいと思い立ち、午後から薬研堀を訪うつもりで多吉の家を出た。偶然にも半蔵の足は古本屋まで行かないうちに懇意な医者の金丸恭順がもとに向いた。例の新乗物町という方へ訪ねて行って見ると、ちょうど恭順も病家の見回りから帰っている時で、よろこんで彼を迎えたばかりでなく、思いがけないことまでも彼の前に持ち出した。その時の恭順の話で、彼はあの田中不二麿が陰ながら自分のために心配していてくれたことを知った。飛騨水無神社の宮司に半蔵を推薦する話の出ているということをも知った。これはすべて不二麿が斡旋によるという。恭順は言った。「どうです、青山君、君も役不足かもしれないが、一つ飛騨の山の中へ出かけて行くことにしては」。どうして役不足どころではない。それこそ半蔵にとっては、願ったりかなったりの話のように聞こえた。この飛騨行きについては、恭順はただ不二麿の話を取り次ぐだけの人だと言っているが、それでも半蔵のために心配して、飛騨の水無神社は思ったより寂しく不便なところにあるが、これは決して左遷の意味ではないから、その辺も誤解のないように半蔵によく伝えくれとの不二麿の話であったと語ったりした。「いや、いろいろありがとうございました」と半蔵は恭順の前に手をついて言った。「わたしもよく考えて見ます。その上で田中さんの方へ御返事します」。「そう君に言ってもらうと、わたしもうれしい。時に、青山君、君におめにかけるものがある」と恭順は言いながら、黒く塗った艶消しの色も好ましい大きな文箱を奥座敷の小襖から取り出して来た。その中にある半紙四つ折りの二冊の手帳を半蔵の前に置いて見せた。「さあ、これだ」。 恭順がそこへ取り出したのは、半蔵の旧友蜂谷香蔵がこの同門の医者のもとに残して置いて行ったものである。恭順は久しいことそれをしまい込んで置いて、どうしても見当たらなかったが、最近に本箱の抽斗の中から出て来たと半蔵に語り、あの香蔵が老師鉄胤のあとを追って上京したのは明治二年の五月であったが、惜しいことに東京の客舎で煩いついたと語った末に言った。「でも、青山君、世の中は広いようで狭い。君の友だちのからだをわたしが診てあげたなんて、まったく回り回っているもんですわい」。こんな話も出た。 飛騨行きのことを勧めてくれたこの医者にも、恭順を通じてその話を伝えさせた不二麿にも、また、半蔵が平田篤胤没後の門人であり多年勤王のこころざしも深かった人と聞いてぜひ水無神社の宮司にと懇望するという飛騨地方の有志者にも、これらの人たちの厚意に対しては、よほど半蔵は感謝していいと思った。やがて彼は旧友の日記を借り受けて、恭順が家の門を出たが、古い神社の方へ行って仕えられる日の来たことは、それを考えたばかりでも彼には夢のような気さえした。飛騨の山とは、遠い。しかし日ごろの願いとする斎の道が踏める。それに心を動かされて半蔵は多吉の家に引き返した。動揺して定まりのなかった彼も大いに心を安んずる時がありそうにも思われて来た。とりあえず、その話を簡単に多吉の耳に入れて置いて、やがてその足で彼は二階の梯子段を上って行って見た。夕日は部屋に満ちていた。何はともあれ、というふうに、彼は恭順から借りて来た友人の日記を机の上にひろげて、一通りざっと目を通した。「東行日記、巳五月、蜂谷香蔵」とある。鉄胤先生もまだ元気いっぱいであった明治二年のことがその中に出て来た。同門の故人野城広助のために霊祭をすると言って、若菜基助の主催で、二十余人のものが集まった記事なぞも出て来た。その席に参列した先輩師岡正胤は当時弾正大巡察であり、権田直助は大学中博士であり、三輪田元綱は大学少丞であった。婦人ながらに国学者の運動に加わって文久年代から王事に奔走した伊那伴野村出身の松尾多勢子の名もその参列者の中に見いだされた。香蔵の筆はそうこまかくはないが、きのうはだれにあった、きょうはだれを訪ねたという記事なぞが、平田派全盛の往時を語らないものはない。 医者の文箱に入れてあったせいかして、なんとなく香蔵の日記に移った薬のにおいまでが半蔵にはなつかしまれた。彼は友人と対坐でもするように、香蔵の日記を繰り返してそこにいない友人の前へ自分を持って行って見た。今は伊勢宇治の今北山に眠る旧師から、生前よく戯れに三蔵と呼ばれた三人の学友のうち、その日記を書いた香蔵のように郷里中津川に病むものもある。同じ中津川に隠れたぎり、御一新後はずっと民間に沈黙をまもる景蔵のようなものもある。これからさらに踏み出そうとして、人生覊旅の別れ路に立つ彼半蔵のようなものもある。 |
四 |
飛騨国大野郡、国幣小社、水無神社、俗に一の宮はこの半蔵を待ち受けているところだ。東京から中仙道を通り、木曾路を経て、美濃の中津川まで八十六里余。さらに中津川から二十三里も奥へはいらなければ、その水無神社に達することができない。旅行はまだまだ不便な当時にあって、それだけも容易でない上に、美濃の加子母村あたりからはいる高山路と来ては、これがまた一通りの険しさではない。あの木曾谷から伊那の方へぬける山道ですら、昼でも暗い森に、木から落ちる山蛭に、往来の人に取りつく蚋に、勁い風に鳴る熊笹に、旅するものの行き悩むのもあの山間であるが、音に聞こえた高山路はそれ以上の険しさと知られている。 この飛騨行きは、これを伝えてくれた恭順を通して田中不二麿からも注意のあったように、左遷なぞとは半蔵の思いもよらないことであった。たとい教部省あたりの同僚から邪魔にされて、よろしくあんな男は敬して遠ざけろぐらいのことは言われるにしても、それを意にかける彼ではもとよりない。ただ、そんな山間に行って身を埋めるか、埋めないかが彼には先決の問題で、容易に決心がつきかねていた。 その時になると、多くの国学者はみな進むに難い時勢に際会した。半蔵が同門の諸先輩ですら、ややもすれば激しい潮流のために押し流されそうに見えて来た。いったい、幕末から御一新のころにかけて、あれほどの新機運をよび起こしたというのも、その一つは大義名分の声の高まったことであり、その声は水戸藩にも尾州藩にも京都儒者の間にも起こって来た修史の事業に根ざしたことであった。そういう中で、最も古いところに着眼して、しかも最も新しい路をあとから来るものに教えたのは国学者仲間の先達であった。あの賀茂真淵あたりまでは、まだそれでもおもに万葉を探ることであった。その遺志をついだ本居宣長が終生の事業として古事記を探るようになって、はじめて古代の全き貌を明るみへ持ち出すことができた。そこから、一つの精神が生まれた。この精神は多くの夢想の人の胸に宿った。後の平田篤胤、および平田派諸門人が次第に実行を思う心はまずそこに胚胎した。なんと言っても「言葉」から歴史にはいったことは彼らの強味で、そこから彼らは懐古でなしに、復古ということをつかんで来た。彼らは健全な国民性を遠い古代に発見することによって、その可能を信じた。それにはまずこの世の虚偽を排することから始めようとしたのも本居宣長であった。情をも撓めず欲をもいとわない生の肯定はこの先達があとから歩いて来るものにのこして置いて行った宿題である。その意味から言っても、国学は近つ代の学問の一つで、何もそうにわかに時世おくれとされるいわれはないのであった。 もともと平田篤胤が後継者としての鉄胤は決して思いあがった人ではない。故篤胤翁の祖述者をもって任ずる鉄胤は、一切の門人をみな平田篤胤没後の門人として取り扱い、決しておのれの門人とは見なさなかったのが、何よりの証拠だ。多くの門人らもまたこの師の気風を受け継がないではない。ただ復古の夢を実顕するためには、まっしぐらに駆けり出そうとするような物を企つる心から、時には師の引いた線を超えて埓の外へ飛び出したものもあった。けれども、その単純さから、門人同志の親しみも生まれ、団結も生まれることを知ったのであった。あの王政復古の日が来ると同時に、同門の人たちの中には武器を執って東征軍に従うものがあり、軍の嚮導者たることを志すものがあり、あるいは徳川幕府より僧侶に与えた宗門権の破棄と神葬復礼との方向に突き進むものがあって、過去数百年にわたる武家と僧侶との二つの大きな勢力を覆すことに力を尽くしたというのも、みなその単純な、しかし偽りも飾りもない心から出たことであった。ことに神仏分離の運動を起こして、この国の根本と枝葉との関係を明らかにしたのは、国学者の力によることが多いのであり、宗教廓清の一新時代はそこから開けて来た。暗い寺院に肉食妻帯の厳禁を廃し、多くの僧尼の生活から人間を解き放ったというのも、虚偽を捨てて自然に帰れとの教えから出たことである。すくなくもこの国学者の運動はまことの仏教徒を刺激し、その覚醒と奮起とを促すようになった。いかんせん、多勢寄ってたかってすることは勢いを生む。しまいには、地方官の中にすら廃仏の急先鋒となったものがあり、従来の社人、復飾の僧侶から、一般の人民まで、それこそ猫も杓子もというふうにこの勢いを押し進めてしまった。廃寺は毀たれ、垣は破られ、墳墓は移され、残った礎や欠けた塊が人をしてさながら古戦場を過ぐるの思いを抱かしめた時は、やがて国学者諸先輩の真意も見失われて行った時であった。言って見れば、国学全盛の時代を招いたのは廃仏運動のためであった。しかも、廃仏が国学の全部と考えられるようになって、かえって国学は衰えた。いかに平田門人としての半蔵なぞがやきもきしても、この頽勢をどうすることもできない。大きな自然の懐の中にあるもので、盛りがあって衰えのないものはないように、一代の学問もまたこの例にはもれないのか。その考えが彼を悲しませた。彼には心にかかるかずかずのことがあって、このまま都を立ち去るには忍びなかった。 まだ半蔵の飛騨行きは確定したわけではない。彼は東京にある知人の誰彼が意見をもそれとなく聞いて見るために町を出歩いた。何も飛騨の山まで行かなくとも他に働く道はあろうと言って彼を引き止めようとしてくれる人もない。今はそんな時ではないぞと言ってくれるような人はなおさらない。久しく訪ねない鉄胤老先生の隠栖へも、御無沙汰のおわびをかねてその相談に訪ねて行って見ると、師には引き止められるかと思いのほか、一生に一度はそういう旅をして来るのもよかろうとの老先生らしい挨拶であった。その時になっても、まだ半蔵は右すべきか左すべきかの別れ路に迷っていた。彼は自分で自分に尋ねて見た。一筋の新しい進路は開けかかって来た、神の住居も見えて来た、今は迷うところなくまッすぐにたどりさえすればいい、この期に臨んで何を自分は躊躇するのか、と。それに答えることはたやすそうで、たやすくない。彼が本陣問屋と庄屋を兼ねた時代には、とにもかくにも京都と江戸の間をつなぐ木曾街道中央の位置に住んで、山の中ながらに東西交通の要路に立っていた。この世の動きは、否でも応でも馬籠駅長としての彼の目の前を通り過ぎた。どうして、新旧の激しい争いがさまざまの形をとってあふれて来ている今の時に、そんなことは一切おかまいなしで、ただ神を守りにさえ行けばそれでいいというものではなかった上に、いったん飛騨の山のような奥地に引ッ込んでしまえば容易に出て来られる境涯とも思われなかったからで。 こういう時に馬籠隣家の伊之助でもそばにいたら、とそう半蔵は思わないではなかった。いかんせん、親しくあの隣人の意見をたたいて見ることもかなわない。この飛騨行きについては、多吉夫婦も実際どう思っていてくれるかと彼は考えた。男まさりな宿のかみさんは婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかったような名もない町人の妻ではあるが、だんだん彼も付き合って見て、盤根錯節を物ともしないそのまれな気質を彼も知っていた。人は物を見定めることが大切で、捨つべきことは思い切りよく捨てねばならない、それのできないようなものは一生ウダツが揚がらないと、日ごろ口癖のように言っているのもお隅だ。遠い親類より近い他人の言うこともよく聞いて見ようとして、やがて彼は町から引き返した。 多吉の家では、ちょうど亭主も今の勤め先にあたる茅場町の店から戻って来ている時であった。そこへ半蔵が帰って行くと、多吉は彼を下座敷に迎え入れて言った。「青山さん、いよいよ高山行きと定りましたかい」。「いえ」と半蔵は答えた。「わたしはまだお請けしたわけじゃありませんがね、まあ、行って働いて来るなら、今のうちでしょう。ずっと年を取ってから、行かれるような山の中じゃありませんからね。なかなか」。その時、多吉はお隅の方を見て言った。「お隅、青山さんが今度いらっしゃるところは、東京からだと、お前、百何里というから驚くね。お国からまだ二十里あまりもある。そうさ、二十里あまりさ。それがまた大変な山道で、馬も通わないところだそうだ。青山さんも、えらい奮発さね」。そういう多吉はもう半蔵が行くことに定めてしまっている。お隅は、と見ると、このかみさんもまたしいて彼を止めようとはしなかった。ちょうど師の鉄胤が彼に言ったと同じようなことを言って、これから神職を奉じに行く彼のために、遠く不自由な旅のしたくのことなぞを心配してくれる。「多吉さん夫婦だけはおれを止めるかと思った」。間もなく二階に上がって行ってからの半蔵のひとり言だ。 実のところ、彼はだれかに引き止めてもらいたかった。そして一人でも引き止めるものがあったら、自分でも思い直して見ようと考えていたくらいだ。いかに言っても、これから彼が踏もうとする路は遠く寂しく険しい上に、そこいらはもはや見るもの聞くもの文明開化の風の吹き回しだ。何よりもまず中世の殻を脱ぎ捨てよと教えたあの本居翁あたりが開こうとしたものこそ、まことの近つ代であると信ずる彼なぞにとっては、このいわゆる文明開化がまことの文明開化であるかどうかも疑問であった。物学びする業に心を寄せ、神にも仕え、人をも導こうとするほどのものが、おのれを知らないではかなわないことであった。それにはヨーロッパからはいって来るものをも見定めねばならない。辺鄙な飛騨の山の方へ行って、それのできるかどうか、これまたすこぶる疑問であった。 |
五 |
長い鎖国の歴史をたどると、寛永年代以来世界交通の道も絶え果てていたことは二百二十年もの間にわたったのである。奉書船以外の渡航禁止の高札が長崎に建てられ、五百石以上の大船を造ることをも許されなかったのは徳川幕府の方針であって、諸外国に対する一切の門戸は全く鎖されたようであるが、それでも一つの窓だけは開かれていた。はじめて唐船があの長崎の港に来たのは永禄年代のことであり、南蛮船の来たのは元亀元年の昔にあたる。それから年々来るようになって、ある年は唐船三、四十艘を数え、ある年は蘭船四、五艘を数えたが、ついに貞享元禄年代の盛時に達した。元禄元年には、実に唐船百十七艘、高麗船三十三艘、蘭船三艘である。過去の徳川時代において、唐船が長崎に来たのは、貞享元禄のころを最も多い時とする。正保元年、明朝が亡びて清朝となったころから、明末の志士、儒者なぞのこの国に来て隠れるものもすくなくはなく、その後のシナより長崎に渡来する僧侶で本国の方に名を知られたほどのものも年々絶えないくらいであった。寛延年代には幕府は長崎入港の唐船を十五艘に制限し、さらに寛政三年よりは一か年十艘以上の入港を許さなかった。これらは何を意味するかなら、海の外にあるものがさまざまな形でこの国に流れ込んで来たことを語るものであり、荷田春満あたりを先駆とする国学たりとも、言わば外来の刺激を受けて発展したにほかならない。あの本居宣長が儒仏や老荘の道までもその荒い砥石として、あれほど日本的なものを磨きあげたのを見ても、思い半ばに過ぐるものがあろう。日本の国運循環して、昨日まで読むことを禁じられてあった蕃書も訳され、昨日まで遠ざけられた洋学者も世に出られることとなると、かつて儒仏の道の栄えたように、にわかに洋学のひろまって行くようになったことも不思議はない。この国にはすでに蘭学というものを通し、あるいは漢訳の外国書を通して、長いしたくがあったのだ。天文、地理の学にも、数学、医学、農学、化学にも、また兵学にもというふうに。外国の歴史や語学のことは言うまでもない。まったく、新奇を好むこの国の人たちは、ヨーロッパ人が物の理を考え究めることのはなはだ賢いのに驚き、発明の新説を出すのに驚き、器械の巧みなのに驚き、医薬製煉の道のことにくわしいのにも驚いてしまった。 当時、外国の事情もまだ充分には究められなかったような社会に、西洋は実にすばらしいものだという人をそう遠いところに求めるまでもなく、率先して新しい風俗に移るくらいのものは半蔵が宿の亭主多吉のすぐそばにもいた。その人は多吉の主人筋に当たり、東京にも横浜にも店を持ち、海外へ東海道辺の茶、椎茸、それから生糸等を輸出する賢易商であった。そのくせ、多吉は西洋のことなぞに一向無頓着で、主人が西洋人から手に入れて珍重するという寒暖計の性質も知らず、その気候温度の昇り降りを毎日の日記につけ込むほどの主人が燃えるような好奇心をもよそに、暇さえあれば好きな俳諧の道に思いを潜めるような人ではあったが。実際、気の早い手合いの中には、今に日本の言葉もなくなって、皆英語の世の中になると考えるものもある。皮膚の色も白く鼻筋もよくとおった西洋人と結婚してこそ、より優秀な人種を生み出すことができると考えるものもある。こうなると、芝居の役者まで舞台の上から見物に呼びかけて、「文明開化を知らないものは、愚かでござる」と言う。五代目音羽屋のごときは英語の勉強を始めたと言って、俳優ながら気の鋭いものだと当時の新聞紙上に書き立てられるほどの世の中になって来ていた。 かくも大きな洪水が来たように、慶応四年開国以来のこの国のものは学問のしかたから風俗の末に至るまでも新規まき直しの必要に迫られた。日本の中世的な封建制度が内からも外からも崩れて行って、新社会の構成を急ぐ混沌とした空気の中に立つものは、眼前に生まれ起こる数多くの現象を目撃しつつも、そうはっきりした説を立てうるものはなかった。というのは、いずれもその空気の中に動いていて、一切があまりに身に近いからであった。半蔵にしてからが、そうだ。ただ馬籠駅長として実際その道に当たって見た経験から、彼の争えないと想っていることは、一つある。交通の持ち来たす変革は水のように、あらゆる変革の中の最も弱く柔らかなもので、しかも最も根深く強いものと感ぜらるることだ。その力は貴賤貧富を貫く。人間社会の盛衰を左右する。歴史を織り、地図をも変える。そこには勢い一切のものの交換ということが起こる。あの横浜開港の当時、彼は馬籠本陣の方にいて、幾多の小判買いが木曾街道にまで入り込んだことを記憶する。国内に流通する小判、一分判なぞがどんどん海の外へ流れ出して行き、そのかわりとして輸入せらるるものの多くは悪質な洋銀であった。古二朱金、保字小判なぞの当時に残存した良質の古い金貨はあの時に地を払ってしまったことを覚えている。もしそれと同じようなことが東西文物の上に起こって来て、自分らの持つ古い金貨が流れ出して行き、そのかわりにはいって来る新しい文明開化が案外な洋銀のようなものであるとしたら、それこそ大変な話だと思われて来た。月の中旬が来るころには、いよいよ半蔵が水無神社宮司の拝命もおもてむきの沙汰となった。もはや彼の東京にとどまるのも数日を余すのみとなった。 |
朝が来た。例のように半蔵が薄暗い空気の中で水垢離を執り、からだを浄め終わるころは、まだ多吉方の下女も起き出さないで、井戸ばたに近い勝手口の戸障子も閉まっていた。そこいらには、町中ながらに鶏の鳴き声が朝霧の中に聞こえていた。その日、半蔵は帝の行幸のあることを聞き、神田橋まで行けばその御道筋に出られることを知り、せめて都を去る前に御通輦を拝して行こうとしていた。彼はそのことを多吉夫婦に告げ、朝の食事をすますとすぐ羽織袴に改めて、茅場町の店へ勤めに通う亭主より一歩早く宿を出た。神田川について、朝じめりのした道路の土を踏んで行くと、次第に町々の空も晴れて、なんとなく改まった心持ちが彼の胸にわいた。今は彼も水無神社の宮司であるばかりでなく、中講義を兼ねていた。 神田橋見附跡の外には、ぽつぽつ奉拝の人々が集まりつつあった。待つこと二時間ばかり。そのうちに半蔵の周囲は、欄干の支柱にからかねの擬宝珠のついた古ぼけた橋の畔から、当時「青い戸袋」と呼びなされた屋敷長屋のペンキ塗りの窓の下の方へかけて、いっぱいの人で、どうかすると先着の彼なぞはうしろにいるものから前の方へ押し出されるほどになった。そのたびに、棒を携えた巡査が前列にあるものを制しに来た。明治七年十一月十七日のことで、過ぐる年の征韓論破裂の大争いの記憶が眼前に落ち尽くした霜葉と共にまた多くの人の胸に帰って来るころだ。半蔵はそう思った。かくも多勢のものが行幸を拝しようとして、御道筋に群がり集まるというのも、内には政府の分裂し外には諸外国に侮らるる国歩艱難の時に当たって、万民を統べさせらるる帝に同情を寄せ奉るものの多い証拠であろうと。彼は自分の今お待ち受けする帝が日本紀元二千五百余年来の慣習を破ってかつて異国人のために前例のない京都建春門を開かせたもうたことを思い、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよとの誓いを立てて多くのものと共に出発したもうたことを思い、御東行以来侍講としての平田鉄胤にも師事したもうた日のあることを思い、その帝がようやく御歳二十二、三のうら若さであることを思って、なんとなく涙が迫った。彼の腰には、宿を出る時にさして来た一本の新しい扇子がある。その扇面には自作の歌一首書きつけてある。それは人に示すためにしるしたものでもなかったが、深い草叢の中にある名もない民の一人でも、この国の前途を憂うる小さなこころざしにかけては、あえて人に劣らないとの思いが寄せてある。東漸するヨーロッパ人の氾濫を自分らの子孫のためにもこのままに放任すべき時ではなかろうとの意味のものである。その歌、 蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや
半蔵 この扇子を手にして、彼は御通輦を待ち受けた。さらに三十分ほど待った。もはや町々を警めに来る近衛騎兵の一隊が勇ましい馬蹄の音も聞こえようかというころになった。その鎗先にかざす紅白の小旗を今か今かと待ち受け顔な人々は彼の右にも左にもあった。その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどのやむにやまれない熱い情が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗と心得、前後を顧みるいとまもなく群集の中から進み出て、そのお馬車の中に扇子を投進した。そして急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままそこにひざまずいた。「訴人だ、訴人だ」。その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互いに呼びかわすものがある。その時の半蔵はいち早くかけ寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争ってほとんど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。[#改頁] |
(私論.私見)