夜明け前第二部下の3、第十章

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【島崎藤村/夜明け前第二部下の3、第十章】
 一
 青山の家に起こった悲劇は狭い馬籠の町内へ知れ渡らずにはいなかった。馬籠は飲用水に乏しい土地柄であるが、そのかわり、奥山の方にはこうした山地でなければ得られないような、たまやかな水がわく。といを通して呼んである水は共同の水槽すいそうのところでくめる。そこにあふれる山の泉のすずしさ。深い掘り井戸でも家に持たないかぎりのものは、女でも天秤棒てんびんぼうを肩にかけ、手桶ておけをかついで、そこから水を運ばねばならぬ。南側の町裏に当たる崖下がけしたの位置に、静かな細道に添い、えのきの木の影を落としているあたりは、水くみの女どもが集まる場所で、町内の出来事はその隠れた位置で手に取るようにわかった。

 うわさは実にとりどりであった。あるものは旧本陣の娘のことをその夜のうちに知ったと言い、あるものは翌朝になって知ったと言う。寄るとさわると、そこへ水くみに集まるもののうわさはお粂のことで持ち切った。あの娘が絶命するまでに至らなかったのは、全く家のものが早く見つけて手当てのよかったためであるが、何しろ重態で、助かる
生命いのちであるかどうかはだれも知らない。変事を聞いて夜中に駕籠かごでかけつけて来た山口村の医者杏庵きょうあん老人ですら、それは知らないとのこと。この山里に住むものの中には、青山の家の昔を知っていて、先代吉左衛門の祖父に当たる七郎兵衛のことを引き合いに出し、その人は二、三の同僚と共に木曾川へ魚をりに行って、隣村山口の八重島やえじま字龍あざたつというところで、ついにかわの水におぼれたことを言って、今度の悲劇もそれを何かのたたりに結びつけるものもあった。

 門外のもののうわさがこんなに娘お粂の身に集まったのも不思議はない。青山の家のものにすら、お粂が企てた自害の
なぞは解けなかった。ともあれ、この出来事があってからの四、五日というものは、家のものにはそれが四十日にも五十日にも当たった。その間、お粂が生死の境をさまよっていて、飲食するものものどに下りかねるからであった。

 にわかに半蔵も年取った。一晩の心配は彼を十年も
けさした。父としての彼がいろいろな人の見舞いを受けるたびに答えうることは、このとおり自分はまだ取り乱していると言うのほかはなかったのである。その彼が言うことには、この際、自分はまだ何もよく考えられない。しかし、治療のかいあって、追い追いと娘も快い方に向かって来ているから、どうやら一命を取りとめそうに見える。娘のことから皆にこんな心配をかけて済まなかった。これを機会に、自分としても過去を清算し、もっと新しい生涯しょうがいにはいりたいと思い立つようになった。そんなふうに彼は見舞いの人々に言って見せた。時には彼は村の子供たちを教えることから帰って来て、はかまも着けたままお粂の様子を見に行くことがある。母屋もやの奥座敷には屏風びょうぶをかこい、土蔵の方から移された娘のからだがそこに安静にさせてある。娘はまだ顔もれ、短刀で刺した喉の傷口に巻いてある白い布も目について、見るからに胸もふさがるばかり。変わり果てたこの娘の相貌そうぼうには、お民が驚きも一通りではない。彼女は悲しがって、娘を助けたさの母の一心から、裏の稲荷いなりへお百度なぞを踏みはじめている。

 木曾谷でも最も古い家族の一つと言わるる青山のような家に生まれながら、しかもはなやかな結婚の日を前に控えて、どうしてお粂がそんな
了簡りょうけん違いをしたろうということは、彼女の周囲にある親しい人たちの間にもいろいろと問題になった。寿平次の妻お里は妻籠から、半蔵がふる弟子勝重かつしげ落合おちあいから、いずれも驚き顔に半蔵のところへ見舞いに来て、隣家の主人伊之助と落ち合った時にも、その話が出る。娘心に、この世をはかなんだものだろうか、と言って見るのは勝重だ。もっと学問の道にでも進みたかったものか、と言って見るのはお里だ。十八やそこいらのうら若さで、そうはっきりした考えから動いたことでもないのであろう、おそらく当人もそこまで行くつもりはなかったのであろう、それにしてもだれかあの利発な娘を導く良い案内者をほしかった、と言って見るのは伊之助だ。いや、たまたまこれはお粂の生娘きむすめであった証拠で、おとこおんなの契りを一大事のように思い込み、その一生に一度の晴れの儀式の前に目がくらんだものであろう、と言って見るものもある。お粂の平常を考えても、あの生先おいさきこもる望み多いからだで、そんな悪い鬼にさいなまれていようとは思いがけなかったと言って、感じやすいもののみが知るようなさみしいこころのありさまにまでお粂の行為おこないを持って行って見るものもある。

 その時になると、半蔵は伊那南殿村の稲葉家へあててありのままにこの出来事を書き送り、結婚の約束を解いてもらうよりほかに娘を救う方法も見当たらなかった。しかし、すでに
結納ゆいのうの品を取りかわし、箪笥たんす、長持から、針箱のたぐいまで取りそろえてお粂を待っていてくれるという先方の厚意に対しても、いったん親として約諾したことを破るという手紙は容易に書けなかった。せめて仲人なこうどのもとまでと思いながら、かねて吉辰きっしん良日として申し合わせのあった日に当たる九月二十二日が来ても、彼にはその手紙が書けない。月の末にも書けない。とうとう十月の半ばまで延引して、彼は書くべき断わり手紙の下書きまで用意しながら、いざとなると筆が進まなかった。

「拝啓。冷気相増しそうろうところ、皆々様おそろいますます御清適に渡らせられ、敬寿たてまつり候。のぶれば、昨冬以来だんだん御懇情なし下されし娘粂儀、南殿村稲葉氏へ縁談御約諾申し上げ置き候ところ、図らずも心得違いにて去月五日土蔵二階にて自刃に及び、母妻ら早速さっそく見つけて押しとどめ、親類うち寄り種々申しさとし、医療を加え候ところ、四、五日は飲食ものどに下りかねよほどの難治に相見え申し候。幸い療養のかいありて、追い追いと快方におもむき、この節は食事もさわりなく、きずは日に増しえ候方に向かいたれども、気分いまだ平静に相成らざる容体にて、心配の至りに御座候。

 実もって、家内一同へすこしもその様子は見せ申さず、皆々心付け申さず、かかる挙動に及び候儀、言語に絶し、女心とは申しながら遺憾すくなからず、定めし稲葉氏には御用意等も追い追い遊ばされ候儀と推察たてまつり、南殿村へ対しなんとも申し上げようも御座なく候。右につき、御契約の儀は縁なきこととおあきらめ下され、お解き下され候よう、尊公様より厚く
御詫おんわびを願いたく候。気随の娘、首切って御渡し申すべきか、いかようとも謝罪の儀は貴命に従い申すべく候。かねて御引き取りの御約束にこれあり候ことゆえ、定めて諸事御支度したくあらせられ候ことと推察たてまつり、早速にもこの儀、人をもって申し上ぐべきはずに候えども、種々取り込みまかりあり、不本意ながらも今日まで延引相成り申し候。縁談の儀は旧好をぎ、しんを厚うし候ことにて、双方よかれと存じ候事に候えども、当人種々娘ごころを案じめぐらせし上にもこれあり候か、了簡りょうけん違いつかまつり、いかんとも両親の心底にも任せがたく候間、この段厚く御海恕ごかいじょなし下され候よう願い上げたてまつり候。遠からず人をもって御詫び申し上ぐべく候えども、まずまず尊公様までこの段申し上げ候。何卒なにとぞ、南殿村へはくれぐれも厚く御詫び下さるよう、小生よりは申し上ぐべき言葉も御座なく候。まずは右、御願いまで、かくのごとくに御座候。
よかれとて契りしことも今ははたうらみらるべきはしとなりにき
尚々なおなお、老母はじめ、家内のものどもよりも、本文の次第厚く御詫び申し上げ候よう、申しいで候」。
 ようやく十月の二十三日に、半蔵は仲人あてのこの書きにくい手紙を書いた。書いて見ると、最初からこの縁談を取りまとめるためにすくなからず骨折ってくれた継母おまんのことがそこへ浮かんで来る。目上のものの言うことは実に絶対で、親子たりとも主従の関係に近く、ほとほと個人の自由の認めらるべくもない封建道徳の世の中に鍛えられて来たおまんのような婦人が、はたしてほんとうに不幸な孫娘を許すか、どうかも彼には気づかわれる。「お民」。半蔵は妻を呼んで、当時にはまだ目新しい一銭の郵便切手を二枚って出す前に、この手紙を彼女にも読み聞かせた。「あなたが、もっと自分の娘のことを考えてくれたら、こんなことにはならなかった」。お民はそれを言い出しながら、夫のそばにいてすすり泣いた。これには半蔵も返す言葉がない。山林事件の当時、彼は木曾山を失おうとする地方人民のために日夜の奔走を続けていて、その方に心を奪われ、ほとんど家をも妻子をも顧みるいとまがなかった。彼は義理堅い継母からも、すすり泣く妻からも、傷ついた娘からも、自分で自分のしたことのつらい復讐ふくしゅうを受けねばならなかった。

 ある日、彼は奥座敷に娘を見に行った。お粂が顔の
れも次第に引いて来たころだ。彼はうれしさのあまり、そこに眠っている娘の額やほおに自分のてのひらを当てたりなぞして、めっきり回復したそのようすを見直した。その時、お粂は例の大きな黒目がちな目を見開きながら、「おとっさん、申しわけがありません。わたしが悪うございました。もう一度――もう一度わたしも生まれかわったつもりになってやりますから、今度のことは堪忍かんにんしてください」。「おゝ、お粂もそこへ気がついたか」と彼は言って見せた。

 十一月にはいって、峠のお
かしら平兵衛は伊那南殿村への訪問先から引き返して来た。その用向きは、半蔵の意をうけて稲葉家の人々にあい、ありのままにお粂の様子を伝え、縁談解約のことを申し入れるためであった。平兵衛が先方の返事を持ち帰って見ると、稲葉の主人をはじめ先方では非常に残念がり、そういう娘こそ見どころがあると言って、改めてこの縁談をまとめたいと言って来た。この稲葉家の厚意は一層事をめんどうにした。そこには、どこまでも生家さとと青山の家との旧好を続けたいという継母おまんが強い意志も働き、それほどの先方の厚意を押し切るということは、半蔵としても容易でなかったからである。

 武士としてもすぐれた坂本孫四郎(号天山)のような人を祖父に持つおまんの心底をたたくなら、半蔵なぞはほとんど彼女の眼中にない。彼女に言わせると、これというのも実は半蔵が行き届かないからだ。彼半蔵が平常も人並みではなくて、おかしい事ばかり。そのために彼女まで人でなしにされて、全く
生家さとの人たちには合わせる顔がない。彼女はその調子だ。このおまんは傷口の直ったばかりのような孫娘を自分の前に置いて、まだ顔色も青ざめているお粂に、いろいろとありがたい稲葉家の厚意を言い聞かせた。なお、あまりに義理が重なるからとおまんは言って、栄吉その他のものまで頼み、それらの親戚しんせきの口からも、さまざまに理解するよう娘に言いさとした。お粂はそこへ手をついて、ただただ恥ずかしいまま、お許しくだされたいとばかり。別に委細を語らない。これにはおまんも嘆息してしまった。

 半蔵は、血と血の苦しい抗争が沈黙の形であらわれているのをそこに見た。いろいろと
生家さとに掛けた費用のことを思い、世間の評議をも懸念けねんして、これがもし実の孫子まごこであったら、いかようにも分別があると言いたげな飽くまで義理堅い継母の様子は、ありありとその顔色にあらわれていた。お粂は、と見ると、これはわずかにき返ったばかりの娘だ。せっかく立て直ろうとしている小さな胸に同じ事を苦しませるとしたら、またまた何をしでかすやも測りがたかった。この際、彼の取るべき方法は、妻のお民と共に継母をなだめて、目に見えない手枷てかせ足枷あしかせから娘を救い出すのほかはなかった。「ますます単純に」。その声を彼は耳の底にききつけた。そして、あとからあとから彼の身辺にまといついて来る幾多の情実を払いのけて、新たなみちを開きたいとの心を深くした。今は躊躇ちゅうちょすべき時でもなかった。彼としては、事を単純にするの一手だ。
 そこで彼は稲葉氏あてに、さらに手紙を書いた。それを南殿村への最後の断わりの言葉にかえようとした。
尊翰そんかん拝見つかまつり候。小春の節に御座候ところ、御渾家ごこんかそろい遊ばされ、ますます御機嫌よく渡らせられ、恭賀たてまつり候。くだって弊宅異儀なくまかりあり候間、はばかりながら御放念下されたく候。のぶれば、愚娘儀につき、先ごろ峠村の平兵衛参上いたさせ候ところ、重々ありがたき御厚情のほど、同人よりうけたまわり、まことにもって申すべき謝辞も御座なき次第、小生ら夫妻は申すに及ばず、老母ならびに近親のものまでも御懇情のほど数度説諭に及び候ところ、当人においても段々御慈悲をもって万端御配慮なし下され候儀、浅からず存じ入り、参上を否み候儀は毛頭これなく候えども、不了簡ふりょうけんの挙動、自業自悔じごうじかい、親類のほかは町内にても他人への面会は憚り多く、今もって隣家へ浴湯にも至り申さざるほどに御座候。右の次第、そのもとへ参り候儀、おおかた恥ずかしく、御家族様方を初め御親類衆様方へ対し奉り、女心の慚愧ざんき耐えがたき儀につき、なにぶんにも参上つかまつりかね候よし申しいで候。小生らにおいても御厚意を奉体つかまつらざる場合に落ち行き、苦慮一方ひとかたならず、この段御宥恕ごゆうじょなし下されたく、尊君様より皆々様へ厚く御詫び申し上げ候よう幾重いくえにも願いたてまつり候。右貴答早速申し上ぐべきところ、愚娘説諭方数度に及び、存外の遅延、かさねがさねの多罪、ひたすら御海恕下されたく候。尚々なおなお、老母はじめ、家内のものどもよりも、本文の次第厚く御詫び申し上げ候よう、申しいで候」。
 二
 とうとう、半蔵もこんな風雨をしのいで一生の旅の峠にさしかかった。人が四十三歳にもなれば、この世に経験することの多くがあこがれることと失望することとで満たされているのを知らないものもまれである。平田門人としての彼は、復古の夢の成りがたさにも、同門の人たちの蹉跌つまずきにも、つくづくそれを知って来た。ただほんとうに心配する人たちのみがこの世に残して行くような誠実の感じられるものがあって、それを何ものにも換えがたく思う心から、彼のような人間でも行き倒れずにどうやらその年まで諸先輩の足跡をたどりつづけて来た。過去を振り返ると、彼が父吉左衛門の許しを得て、最初の江戸の旅に平田鉄胤かねたねの門をたたき、誓詞、酒魚料、それに扇子せんす壱箱を持参し、平田門人の台帳に彼の名をも書き入れてもらったのは安政三年の昔であって、浅い師弟の契りとも彼には思われなかった。その師にすら、「ここまではお前たちを案内して来たが、ここから先の旅はお前たち各自に思い思いの道をたどれ」と言わるるような時節が到来した。これは全く自然の暇乞いとまごいで、その年、明治六年には師ももはや七十二歳の老齢を迎えられたからである。この心ぼそさに加えて、前年の正月には彼は平田延胤のぶたね若先生の死をも見送った。平田派中心の人物として一門の人たちから前途に多くの望みをかけられたあの延胤が四十五歳で没したことは、なんと言っても国学者仲間にとっての大きな損失である。追い追いの冷たい風は半蔵の身にもしみて来た。そこへ彼の娘まで深傷ふかでを負った。感じられはしても、説き明かせないこの世の深さ。あの稲妻いなずまのひらめきさえもが、時としては人に徹する。生きることのはかなさ、苦しさ、あるいは恐ろしさが人に徹するのは、こういう時かと疑われるほど、彼も取り乱した日を送って来た。この彼が過去を清算し、もっと彼自身を新しくしたいとの願いから、ようやく起こし得た心というは、ほかでもない。それは平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとする心であった。

 半蔵も動いて来た。時にはこのまま
村夫子そんふうしの身に甘んじて無学な百姓の子供たちを教えたいと思い、時にはこんな山の中に引き込んでいてふるい宿場の運命をのみ見まもるべき世の中ではないと思い、是非胸中にたたかって、精神の動揺はやまない。多くの悲哀かなしみが神に仕える人を起こすように、この世にはまだいにしえをあらわす道が残っていると感づくのも、その彼であった。復古につまずいた平田篤胤没後の門人らがいずれも言い合わせたように古い神社へとこころざし、そこに進路を開拓しようとしていることも、いわれのあることのように彼には考えられて来た。松尾の大宮司となった師岡正胤もろおかまさたね、賀茂の少宮司となった暮田正香くれたまさかなぞを引き合いに出すまでもなく、伊那の谷にある同門の人たちの中にもその方向を取ろうとする有志のものはすくなくない。

山窓やままどにねざめの夜はの明けやらで風に吹かるる雨の音かな
おやおやのそのいにしへは神なれば人は神にぞいつくべらなる
 この述懐の歌は、半蔵がいつきの道を踏みたいと思い立つ心から生まれた。すくなくも、その心を起こすことは、先師のおぼし召しにもかなうことであろうと考えられたからで。

 新しい
みちをひらく手始めに、まず半蔵は自家の祭葬のことから改めてかかろうと思い立った。元来神葬祭のことは中世否定の気運と共に生まれた復古運動のあらわれの一つで、最も早くその根本問題に目を着け、またその許しをおおやけに得たものは、士籍にあっては豊後岡藩ぶんごおかはんの小川弥右衛門やえもん地下人じげにん(平民)にあっては伊那小野村の庄屋倉沢義髄よしゆきをはじめとする。ことに、義髄は一日も人身の大礼を仏門にゆだねるの不可なるを唱え、中世以来宗門仏葬等のことを菩提寺ぼだいじ任せにしているのはこの国の風俗として恐れ入るとなし、信州全国曹洞宗そうとうしゅう四百三か寺に対抗して宗門人別帳にんべつちょう離脱の運動を開始したのは慶応元年のころに当たる。義髄はそのために庄屋の職を辞し、京都寺社奉行所と飯田千村役所との間を往復し、初志を貫徹するために前後四年を費やして、その資産を蕩尽とうじんしてもなお屈しないほどの熱心さであった。徳川幕府より僧侶そうりょに与えた宗門権の破棄と、神葬復礼との奥には、こんな人の動きがある。

 しかし世の中は変わった。その年、明治六年の十一月には、
筑摩ちくま権令ごんれい永山盛輝ながやまもりてるの名で、神葬仏葬共に人民の信仰に任せて聞き届けるむねはかねて触れ置いたとおりであるが、今後はその願い出にも及ばない、各自の望み次第、葬儀改典勝手たるべしの布告が出るほどの時節が到来した。木曾福島取締所の意をうけて三大区の区長らからそれを人民に通達するほどの世の中になって来た。これは半蔵にとっても見のがせない機会である。彼は改典の事を共にするため、何かにつけての日ごろの相談相手なる隣家の主人、伊之助を誘った。菩提寺任せにしてあった父祖の位牌いはいを持ち帰る。その塵埃ほこりを払って家に迎え入れる。墓地の掃除も寺任せにしないで家のものの手でそれをする。今の寺院の境内はもと青山家の寄付にかかる土地であるから、神葬の儀式でも行なう必要のあるおりは当分寺の広庭を借り用いる。まったく神仏を混淆こんこうしてしまったような、いかがわしい仏像なぞの家にあるものはこの際焼き捨てる――この半蔵の考えが伊之助を驚かした。しかし、伊之助は平素の慎み深さにも似ず、これは自分らの子供たちを教育する上からもゆるがせにすべき問題でないと言い、これまで親しいものの死後をあまり人任せにし過ぎたと言い、旧宿役人時代から彼は彼なりに在家ざいけと寺方との関係を考えて来たとも言って、もし旧本陣でこの事を断行するなら、伏見屋でもこれを機会に祭葬の礼を改めて、古式に復したいと同意した。半蔵は言って見た。「やっぱり伊之助さんは、わたしのよい友だちだ」。今は彼も意を決した。この上は、伊之助と連れだって、今度の布告の趣意を万福寺住職に告げ断わるため、馬籠の北側の位置にある田圃たんぼの間の寺道を踏むばかりになった。
 万福寺の松雲和尚おしょうはもとの名を智現ちげんという。行脚あんぎゃ六年の修業の旅を終わり、京都本山の許しを得て名も松雲と改め、新住職として馬籠の寺に落ちついたのは、もはや足掛け二十年の前に当たる。あれは安政元年のことで、半蔵が父吉左衛門も、伊之助が養父金兵衛も、共にまだ現役の宿役人としてこの駅路一切の世話に任じていたころだ。旧暦二月末の雨の来る日、美濃路よりする松雲の一行が中津川宗泉寺老和尚の付き添いで、国境くにざかい十曲峠じっきょくとうげを上って来た時、父の名代として百姓総代らと共に峠の上の新茶屋まで新住職の一行を出迎えたのもまだ若いころの半蔵だった。旅姿の松雲はそのまま山門をくぐらずに、まず本陣の玄関に着き、半蔵が家の一室で法衣装束しょうぞくに着かえ、それから乗り物、先箱さきばこ台傘だいがさで万福寺にはいったのであった。

 二十年の月日は半蔵を変えたばかりでなく、松雲をも変え、その周囲をも変えた。和尚もすでに五十の坂を越した。過ぐる月日の間、どんなさかんな行列が木曾街道に続こうと、どんな
血眼ちまなこになった人たちが馬籠峠の上を往復しようと、日々の雲が変わるか、あるいは陰陽の移りかわるかぐらいにながめ暮らして、ただただ古い方丈の壁にかかる達磨だるまの画像を友として来たような人が松雲だ。毎朝早くの洗面さえもが、この人には道を修めることで、法鼓ほうこ諷経ふうぎん等の朝課の勤めも、払暁ふつぎょうに自ら鐘楼に上って大鐘をつき鳴らすことも、その日その日をみたして行こうとする修道の心からであった。一日成さなければ一日食うまい、とは百丈禅師のような古大徳がこの人に教えた言葉だ。仏餉ぶっしょう献鉢けんばち、献燈、献花、位牌堂いはいどう回向えこう大般若だいはんにゃの修行、徒弟僧の養成、墓掃除そうじ、皆そのとおり、長い経験から、ずいぶんこまかいところまでこの人も気を配って来た。たとえば、毎年正月の八日には馬籠仲町にある檀家だんか姉様あねさまたちが仏参を兼ねての年玉に来る、その時寺では十人あまりへ胡桃餅くるみもちを出す、早朝から風呂く、あとで出す茶漬ちゃづけのさいには煮豆に冬菜のひたしぐらいでよろしのたぐいだ。寺は精舎しょうじゃとも、清浄地とも言わるるところから思いついて、明治二年のころよりぽつぽつ万福寺の裏山を庭に取り入れ、そこに石を運んだり、躑躅つつじを植えたりして、本堂や客殿からのながめをよくしたのもまた和尚だ。奥山の方から導いた清水しみずがこの庭に落ちる音は、一層寺の境内を街道筋の混雑から遠くした。

 こんな静かな禅僧の生活も、よく見れば動いていないではない。大は将軍家、諸侯から、小は本陣、
問屋といや、庄屋、組頭くみがしらの末に至るまでことごとく廃された中で、僧侶そうりょのみ従前どおりであるのは、むしろ不思議なくらいの時である。御一新以前からやかましい廃仏の声と共に、神道葬祭が復興することとなると、寺院は徳川幕府の初期以来保証されて来た戸籍公証の権利を侵さるるのみならず、宗門人別離脱者の増加は寺院の死活問題にも関する。これには各宗の僧籍に身を置くものはもとより、全国何百万からの寺院に寄宿するものまで、いずれも皆強い衝動を受けた。この趨勢すうせいかんがみ、中年から皇国古典の道を聞いて、大いに松雲も省みるところがあった。

 和尚がことに心をひかれたのは、人皇三十一代用明天皇第二の皇子、すなわち厩戸皇子うまやどのおうじののこした言葉と言い伝えられるものであった。この国未曾有みぞうの仏法を興隆した聖徳太子とは、厩戸皇子の諡号しごうにほかならない。その言葉に、神道はわが国の根本である、儒仏はその枝葉である、根本さかんなる時は枝葉も従って繁茂する、故に根本をゆるかせにしてはならないぞよとある。これだ。この根本に帰入するのが、いくらかでも仏法の守られる秘訣ひけつだと松雲は考えた。ところがこれには反対があって、仏徒が神道を基とするのは狭い偏した説だとの意見が出た。その声は隣村同宗の僧侶仲間からも聞こえ、隣国美濃にある寺々からも聞こえて来た。そしてしきりにその片手落ちを攻撃する手紙が松雲のもとへ舞い込んで来たのは十通や十三、四通にとどまらない。そのたびに松雲は自己の立ち場を弁解する意見書を作って置いて、それを同宗の人々に示した。かく根本に帰入するのは、すなわち枝葉を繁茂せしめる一つではなかろうか。その根本が堅固であっても、霜雪時に従って葉の枯れ落ちることはある。枝の朽ちることもある。また、新芽を生ずるがある。新しい枝を延ばすもある。皆、天然自然のしからしめるところであって、その根本たりとも衰えることはないと言えない。大根おおねの枯れさえなければ、また蔓延まんえんの時もあろう。この大根を切断する時は、枝葉もまた従って朽ちることは言葉を待たない。根本を根本とし、枝葉を枝葉とするに、どうしてこれが片手落ちであろう。そもそも仏法がこの国土に弘まったのは欽明帝きんめいてい十三年仏僧入朝の時であって、以来、大寺の諸国に充満し、王公貴人の信仰したことは言葉に尽くせない。過去数百年間、仏徒の横肆おうしもまた言葉には尽くせない。その徒も一様ではない。よいものもあれば、害のあったものもある。一得あれば一失を生ずる。ほまれそしりはそこから起こって来るが、仏徒たりとも神国の神民である以上、神孫の義務を尽くして根本を保全しなければならぬ。その義務を尽くすために神道教導職の一端に加わるのは、だれがこれを片手落ちと言えよう。今や御一新と言い、社会の大変革と言って、自分らごときはあだかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのもやむを得ない。ただ仏祖の旧恩を守って、道を道とするに、どうして片手落ちの異見を受くべきであろうぞ。朝旨にらず、三条の教憲をしかと踏まえて、正を行ない、邪をしりぞけ、権衡けんこうの狂わないところに心底を落着せしめるなら、しいて天理に戻るということもあるまい。

 自分らごときは他人の異見を待たずに、
不羈ふき独立して大和魂やまとだましいを堅め、善悪邪正と是非得失とをおのが狭い胸中に弁別し、根本の衰えないのを護念して、なお枝葉の隆盛に懸念けねんする。もとより神仏を敬する法は、みな報恩と謝徳とをもってする。これを信心と言う。自分の身に利得を求めようとするのは、皆欲情である。報恩謝徳の厚志があらば、神明の加護もあろう。仏といえども、道理にたごうことのあるべきはずがない。自分らには現世げんせを安穏にする欲情もなければ、後生ごせに善処する欲情もない。天賦の身は天に任せ、正を行ない邪に組せず、現世後生は敵なく、神理を常として真心を尽くすを楽しみとするのみだから、すこしも片手落ちなどの欲念邪意があることはない。これが松雲和尚の包み隠しのないところであった。

 禅僧としての松雲は動かないように見えて、その実、こんなに静かに動いていた。この人にして見ると、時が移り世態が
あらたまるのは春夏秋冬のごとくであって、雲起こる時は日月もかくれ、その収まる時は輝くように、聖賢たりとも世の乱れる時には隠れ、世の治まる時には道を行なうというふうに考えた。というのは、遠い昔にあのあしを折る江上の客となって遠く西より東方に渡って来た祖師の遺訓というものがあるからであった。大意(理想)は人おのおのにある、しかもむなしくこれ徒労の心でないものはないと教えてあるのだ。さてこそ、明治の御一新も、この人には必ずしも驚くべきことではなかった。たといその態度をあまりに高踏であるとし、他から歯がゆいように言われても、松雲としては日常刻々の修道に思いを潜め、遠く長い目で世界の変革に対するの一手があるのみであった。
 半蔵と伊之助の二人が連れだって万福寺をたずねた時は、ちょうど村の髪結い直次が和尚の頭をりに来ていて、間もなく剃り終わるであろうというところへ行き合わせた。髪長くして僧貌そうぼう醜しと日ごろ言っている松雲のことだから、剃髪ていはつも怠らない。そこで半蔵らは勝手を知った寺の囲炉裏ばたに回って、直次が剃刀かみそりをしまうまで待った。

 十二、三年も寺に暮らして和尚の身のまわりの世話をしていた人が
くなってからは、なんとなく広い囲炉裏ばたもさびしかった。生まれは三留野みどので、お島というのがその女の名だった。宿役人一同承知の上で寺にいれたくらいだから、その人とて肩身の狭かろうはずもなかったが、それでも周囲との不調和を思うかして、生前は本堂へも出なかった。世をいといながら三時の勤行ごんぎょうを怠らない和尚を助けて、お島は檀家だんかのものの受けもよく、台所からたすきをはずして来てはその囲炉裏で茶をもてなしてくれたことを半蔵らも覚えている。い人の数に入ったその女のために、和尚が形見の品を旧本陣や伏見屋にまで配ったことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。

 髪結い直次のような老練な職人の腕にも、和尚の頭は剃りにくいかして、半蔵らはかなり待たされた。それを待つ間、彼は伊之助と共にその囲炉裏ばたを離れて、和尚の造った庭を歩き回りに出た。やがて十三、四ばかりになる歯の黄色い徒弟僧の案内で、半蔵は和尚の方丈に導かれた。「これは。これは」。相変わらずの調子で半蔵らを迎えるのは松雲だ。客に親疎を問わず、
好悪こうおを選ばずとはこの人のことだ。ことに頭は剃りたてで、僧貌も一層柔和に見える。本堂の一部を仮の教場にあててから、半蔵を助けて村の子供たちを教えているのもこの和尚だが、そういう仕事の上でかつていやな顔を彼に見せたこともない。しばらく半蔵はその日の来意を告げることを躊躇ちゅうちょした。というのは、対坐たいざする和尚の沈着な様子が容易にそれを切り出させないからであった。それに、彼はこの人が仏弟子ぶつでしながら氏神をも粗末にしないで毎月朔日ついたち十五日には荒町あらまちにある村社への参詣さんけいを怠らないことを知っていたし、とても憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主であることをも知っていたからで。

 しかし、半蔵の思い立って来たことは
種々さまざまな情実やこれまでの行きがかりにのみ拘泥こうでいすべきことではなかった。彼は伊之助と共に、筑摩ちくま県からの布告の趣意を和尚に告げ、青山小竹両家の改典のことを断わった。なお、これまで青山の家では忌日供物の料として年々斎米ときまい二斗ずつを寺に納め来たったもので、それもこの際、廃止すべきところであるが、旧義を存して明年からは米一斗ずつを贈るとも付け添えた。この改典は廃仏を意味する。これはさすがの松雲をも驚かした。なぜかなら、この万福寺を建立こんりゅうしたそもそもの人は、そういう半蔵が祖先の青山道斎どうさいだからである。また、かつて松雲がまだ僧智現ちげんと言ったころから一方ならぬ世話になり、六年行脚あんぎゃの旅の途中で京都にわずらった時にも着物や路銀を送ってもらったことがあり、本堂の屋根のき替えから大太鼓の寄付まで何くれとめんどうを見てくれたことのあるのも、伊之助の養父金兵衛だからである。

 「いや、御趣意のほどはわかりました。よくわかりました。わたしは他の僧家とも違いまして、神道を基とするのが自分の本意ですから、すこしもこれに異存はありません。これと申すも皆、前世の悪報です。やむを得ないことです。まあ、お話はお話として、お茶を一つ差し上げたい」。そう言いながら、松雲は座を立った。ぐらぐら煮立った
鉄瓶てつびんのふたを取って水をさすことも、煎茶茶碗せんちゃぢゃわんなぞをそこへ取り出すことも、寺で製した古茶を入れて慇懃いんぎんに客をもてなすことも、和尚はそれを細心な注意でやった。娑婆しゃば生涯しょうがいを寄せる和尚はその方丈を幻の住居すまいともしているので、必ずしもひとりをのみ楽しもうとばかりしている人ではない。でも、冷たく無関心になったこの世の人の心をどうかして揺り起こしたいと考えるような平田門人なぞの気分とはあまりにも掛け離れていた。「どれ、位牌堂いはいどうの方へ御案内しましょう。おそかれ早かれ、こういう日の来ることはわたしも思っておりました。神葬祭のことは、あれは和宮さまが御通行のころからの問題ですからな」という和尚は珠数じゅずを手にしながら、先に立って、廊下づたいに本堂の裏手へと半蔵らを導いた。霊膳れいぜん、茶、香花こうげ、それに燭台しょくだいのそなえにも和尚の注意の行き届いた薄暗い部屋がそこにあった。

 青山家代々の位牌は皆そこに集まっている。
恵那山えなさんのふもとに馬籠の村を開拓したり、万福寺を建立したりしたという青山の先祖は、その生涯にふさわしい万福寺殿昌屋常久禅定門まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもんの戒名で、位牌堂の中央に高く光っているのも目につく。黒くうるしを塗った大小の古い位牌には、丸に三つ引きの定紋を配したのがあり、あるいはそれの省いたのもある。そのおもてに刻した戒名にも、皆それぞれの性格がある。これは僧侶の賦与したものであるが、一面には故人らが人となりをも語っている。鉄巌宗寿庵主てつがんそうじゅあんしゅのいかめしいのもあれば、黙翁宗樹居士もくおうそうじゅこじのやさしげなのもある。その中にまじって、明真慈徳居士みょうしんじとくこじ、行年七十二歳とあるは半蔵の父だ。清心妙浄大姉せいしんみょうじょうだいし、行年三十二歳とは、それが彼の実母だ。彼は伊之助と共に、それらの位牌の並んでいる前をったり来たりした。松雲は言った。「時に、青山さん、わたしは折り入ってあなたにお願いがあります。御先祖の万福寺殿、それに徳翁了寿居士とくおうりょうじゅこじ御夫婦――お一人は万福寺の開基、お一人は中興の開基でもありますから、この二本の位牌だけはぜひとも寺にお残しを願いたい」。これには半蔵もうなずいた。
 三
 明治七年は半蔵が松本から東京へかけての旅を思い立った年である。いよいよ継母おまんも例の生家さとへ世話しようとしたおくめの縁談を断念し、残念ながら結納品ゆいのうひんをお返し申すとの手紙を添え、染め物も人に持たせてやって、稲葉家との交渉を打ち切った。お粂はもとより、文字どおりの復活を期待さるる身だ。彼が暮田正香の言葉なぞを娘の前に持ち出して見せ、多くの国学諸先輩が求めようとしたのも「再び生きる」ということだと語り聞かせた時、お粂は目にいっぱい涙をためながら父の励ましに耳を傾けるほどで、一日は一日よりその気力を回復して来ている。妻のお民は、と見ると、泣いたあとでもすぐ心の空の晴れるようなのがこの人の持ち前だ。あれほど不幸な娘の出来事からも、母としてのお民は父としての彼が受けたほどの深い打撃を受けていない。それに長男の宗太も十七歳の春を迎えていて、もはやこれも子供ではない。今は留守中のことを家のものに頼んで置いて、自己の進路を開拓するために、しばらく郷里を離れてもいい時が来たように彼には思われた。

 半蔵が旅に出る前のこと。ある易者が来て馬籠
旅籠屋はたごや逗留とうりゅうしていた。めずらしく半蔵は隣家の伊之助にそそのかされて、その旅やつれのした易者を見に行った。古い袋から筮竹ぜいちくを取り出して押しいただくこと、法のごとくにそれを数えること、残った数から陰陽を割り出して算木さんぎをならべること、すべて型どおりに行なったあとで、易者はまず伊之助のためにその年の運勢を占ったが、にあらわれたところは至極しごく良い。砕いて言えば、願う事の成就するかたちである。商売をすれば当たるし、尋ね物は出るし、待ち人は来るし、縁談はまとまるという。ところが、半蔵の順番になって、易者はまた彼のためにも占ったが、好運な隣人のような卦は出なかった。

 その時の半蔵を前に置いて、首をひねりながらの易者の挨拶に、「どうも、あなたが顔色の
つやから言っても、こんなはずはないと思われるのですが。易のおもてで言いますると、この卦に当たった人は運勢いまだ開けずとあきらめて、年回りをおそれ、随分身をつつしみ、時節の到来を待てとありますな。これはよいと申し上げたいが、どうもそう行きません。まあ、本年いっぱいはお動きにならない方がよろしい」とある。半蔵はこの易者を笑えなかった。家にって旅のしたくを心がける間にも、彼は易者に言われたことから名状しがたい不安を引き出された。そういう彼が踏んで行くところは、歩けば歩くほどみちも狭く細かったが、なお、先師没後の門人に残されたものは古い神社の方角にあると考えて、一歩たりともその方に近づく手がかりの与えらるることを念じた。神社に至るの道はまず階段を踏まねばならないと同じ道理で、彼とてもその手段を尽くさねばならなかった。これは万福寺の住職なぞが言うところの出家の道に似て、非なるものである。彼の願いは神から守られることばかりでなく、神を守りに行くことであった。しかし、この事はまだ家のものにも話さずにある。彼は見ず知らずの易者なぞに自分の運勢を占ってもらったことを悔いた。

 五月中旬のはじめに彼は郷里を出発したが、親しい人たちの見送りも断わり、供も連れずであった。過ぐる年、彼が木曾十一宿総代の一人として江戸の道中奉行所から呼び出されたのは、あれは
元治げんじ元年六月のことであったが、今度はあの時のような庄屋仲間の連れもない。新しい郡県の政治もまだようやく端緒についたばかりのような時で、木曾谷は三大区にわかたれ、大小の区長のほかに学区取り締まりなるものもでき、谷中村々の併合もそこここに行なわれていた。その後の山林事件の成り行きも心にかかって、鳥居峠まで行った時、彼はあの御嶽遙拝所おんたけようはいじょの立つ峠の上の高い位置から木曾谷の方を振り返って見た。松本まで彼が動いた時は、ちょうどこの時勢に応ずる教育者のための講習会が筑摩ちくま県主催のもとに開かれているおりからであった。松本宮村町瑞昌寺ずいしょうじ、それが師範学科の講習所にあてられたところで、いずれも相応な年配の人たちが県庁の募集に応じて集まって来ていた。半蔵が自分の村の敬義学校のために一人の訓導を見つけたのも、その松本であった。早速さっそく彼はその人を推薦することにした。今こそ馬籠でも万福寺を仮教場にあてているが、寺の付近に普請中の仮校舎も近く落成の運びであることなぞをもその人に告げた。小倉啓助がその人の名で、もと禰宜ねぎの出身であるという。至極ちょくな人物である。このよさそうな教師を村に得ただけでも、彼は安心して東京の方に向かうことができるわけだ。もともと彼は年若な時分から独学の苦心を積み、山里に生まれて良師のないのを悲しみ、未熟な自分を育てようとしたばかりでなく、同時に無知な村の子供を教えることから出発したような男で、子弟教育のことにかけては人一倍の関心をいだいているのである。

 新時代の教育はこの半蔵の前にひらけつつあった。松本までやって来て見て、彼は一層その事を確かめた。それは全く在来の寺小屋式を改め、欧米の学風を取りいれようとしたもので、師範の講習もその趣意のもとに行なわれていた。その教育法によると、小学は上下二等にわかたれる。高等を上とし、尋常を下とする。上下共に在学四か年である。下等小学生徒の学齢は六歳に始まり九歳に終わる。その課程を八級にわかち、毎級六か月の修業と定め、初めて学に入るものは第八級生とするの順序である。教師の心
べきことは何よりもまず世界の知識を児童に与えることで、啓蒙けいもうということに重きを置き、その教則まで従来の寺小屋にはないものであった。単語図を教えよ。石盤を用いてまず片仮名の字形を教え、それより習字本を授けよ。地図を示せ。地球儀を示せ。日本史略および万国地誌略を問答せよのたぐいだ。試みに半蔵は新刊の小学読本を開いて見ると、世界人種のことから始めてある。そこに書かれてあることの多くはまだ不消化な新知識であった。なお、和算と洋算とを学校にあわせ用いたいとの彼の意見にひきかえ、筑摩県の当局者は洋算一点張りの鼻息の荒さだ。いろいろ彼はおもしろくなく思い、長居は無用と知って、そこそこに松本を去ることにした。ただ小倉啓助のような人を自分の村に得ただけにも満足しようとした。彼も心身の過労には苦しんでいた。しばらく休暇を与えられたいとの言葉をそこに残し、東京の新しい都を見うる日のことを想像して、やがて彼は塩尻下諏訪から追分おいわけ軽井沢かるいざわへと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで碓氷峠うすいとうげを下った。
 半蔵が多くの望みをかけてこの旅に出たころは、あだかも前年十月に全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰ぼしん以来の政府内部に分裂の行なわれた後に当たる。場合によっては武力に訴えても朝鮮問題を解決しようとする西郷隆盛さいごうたかもりら、欧米の大に屈して朝鮮の小をとうとするのは何事ぞとする岩倉大使および大久保利通おおくぼとしみちらの帰朝者仲間、かつては共に手を携えて徳川幕府打倒の運動に進み、共同の敵たる慶喜よしのぶを倒し、新国家建設の大業に向かった人たちも、六年の後にはやかましい征韓論せいかんろんをめぐって、互いにその正反対をかつての朋友ほうゆうに見いだしたのであった。

 明治御一新の理想と現実――この二つのものの複雑微妙なひらきは決してそう順調に成しげられて行ったものではなかった。その理想のみを見て現実を見ないものの多くはつまずいた。その現実のみを見て理想を見ないものの多くもまたつまずいた。ともあれ、千八百六十六年以来諸外国政府の代表者と日本国委員との間に取り結ばれた条約の改正も、朝鮮問題も、共にこの国発展の途上に横たわる難関であったことは争われない。岩倉大使が欧米歴訪の目的は、朝廷御新政以来の最初の使節として諸外国との修好にあったらしく、条約改正のことはその期するところでなかったとも言わるる。むしろ大使はその問題に触れないことを約して国を出発せられたともいう。その方針が遠い旅の途中で変更せられなかったら、この国のものはもっと早く大使一行の帰朝を迎え得たであろう。明治五年の五月には、大使らは条約改正の日本全権ででもあって、ついに前後三年にまたがる月日を海の外に費やされた。外国交渉の不結果、随員の不和、言語の困難――これを一行総員百七名からの従者留学生を
げて国を離れたことに思い比べ、品川の沖には花火まで揚げて見送るもののあった出発当時の花やかさに思い比べると、おそらく旅の末はさびしく、しかもにがい経験であったろう。たとい大使らの欧米訪問が、近代国家の形態を視察することに役立ち、諸外国に対する新政府の位置を強固にすることに役立ち、率先奮励して開明の域に突進する海外留学の気象を誘導することにも役立ったとしても、その長い月日の間、岩倉、大久保、木戸らのごとき柱石たる人々が廃藩置県直後のこの国を留守にしたことは、容易ならぬ結果を招いた。

 郡県の政治は多くの人民の期待にそむき、高松、敦賀つるが大分名東みょうとう北条ほうじょう、その他福岡鳥取、島根諸県には新政をよろこばない土民が蜂起ほうきして、斬罪ざんざい、絞首、懲役等の刑に処せられた不幸なものが万をもって数うるほどの驚くべき多数に上ったのも、それらは皆大使一行が留守中にあらわれて来た現象であった。のみならず、時局の不安に刺激され、大使らの留守中を好機として、武力による改革を企つるものが生まれた。

 いったい、薩長土さっちょうと三藩が朝廷に献じた兵は皆、東北戦争当時の輝かしい戦功の兵である。彼らが位置よりすれば、それらの兵をもって朝廷の基礎を固め、廃藩を断行し、長く徳川氏の旗本八万騎のごときものとなって、すこぶる優待さるるもののように考えた者が多かったとのことである。高知藩の谷干城たにたてきのような正直な人はそのことを言って、飛鳥尽きて良弓収まるのたとえを引き、彼ら戦功の兵も少々厄介視やっかいしせらるる姿になって行ったと評した。当時軍隊統御の困難は後世から想像も及ばないほどで、時事を慨し、種々さまざまな議論を起こし、陸軍省に迫り、山県近衛都督やまがたこのえととくですらそのためにしばしば辞職を申しいで、後には山県もその職を辞して西郷隆盛が都督になったほどであったとか。近衛兵の年限も定まって一般徴兵の制による事と決してからは、長州以外の二藩の兵は非常に不快の念をいだいた。ことに徴兵主義に最も不満なものは桐野利秋きりのとしあきであったという。西の勝利者、ないし征服者の不平不満は、朝鮮問題を待つまでもなく、早くも東北戦争以後の社会に胚胎はいたいしていた。

 そこへ外国交渉のたどたどしさと、当時の朝鮮方面よりする東洋の不安だ。いわゆる壮兵主義を抱く豪傑連の中には、あわただしい世態風俗の移り変わりを見て、追い追いの文明開化の風の吹き回しから人心うたた浮薄に流れて来たとの
なげきを抱き、はなはだしきは楠公なんこう権助ごんすけに比するほどの偶像破壊者があらわれるに至ったと考え、かかる天下柔弱軽佻けいちょうの気風を一変して、国勢の衰えを回復し諸外国の覬覦きゆを絶たねばならないとの意見を持つものがあるようになった。古今内外の歴史を見渡して、外は外国に侮られ、内は敵愾てきがいの気を失い、人心は惰弱に風俗は日々頽廃たいはいしつつあるような危殆きたいきわまる国家は、これを救うに武の道をもってするのほか、決して他の術がないとは、それらの人たちが抱いて来た社会改革の意見であった。それには文武共に今日改造の途上にあることを一応考慮しないではないが、ひとまず文教をあと回しにする、この際は断然武政をいて国家の独立をまっとうするためには外国と一戦するの覚悟を取る、それが国を興すの早道だというのである。そして事は早いがいい、今のうちにこの大計を定め国家の進路を改めるがいい、これを決行する時機は大使帰朝前にあるというのである。なぜかなら、大使帰朝の後はおのずから大使一行の意見があって、必ずこの反対にづるであろうと予測せられたからであった。その武政を立つる方案によると、全国の租税を三分して、その二分を陸海軍に費やす事、すでに士族の常職を解いた者は従前に引きす事、全国の士族を配してことごとく六管鎮台の直轄とする事、丁年以上四十五歳までの男子は残らず常備予備の両軍に編成する事、平民たりとも武事を好む者はその才芸器量に応じすべて士族となす事、全国男子の風教はいわゆる武士道をもって陶冶とうやする事、左右大臣中の一人は必ず大将をもってこれに任じ親しく陛下の命を受けて海陸の大権を収める事、これをつづめて言えば武政をもって全国を統一する事である。

 この意見を
ふところにして西郷に迫るものがあったが、隆盛は容易に動かなかった。彼は大使出発の際に大臣参議のおのおのが誓った言葉をそこへ持ち出して見せ、大使帰朝に至るまではやむを得ない事件のほかは決して改革しないとの誓言のあることを言い、今この誓言にそむいて、かかる大事を決行するの不可なるを説き、大使帰朝の後を待てと言いさとした。隆盛は寡言かげんの人である。彼は利秋のように言い争わなかった。しかしもともと彼の武人気質かたぎ戊辰ぼしん当時の京都において慶喜の処分問題につき勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た時にも、剣あるのみの英断に出、徳川氏に対する最後の解決をそこに求めて行った人である。その彼は容易ならぬ周囲の形勢を見、部下の要求のおさえがたいことを知り、後には自ら進んで遣韓大使ともなり朝鮮問題の解決者たることを志すようになった。

 岩倉大使一行の帰朝、征韓論の破裂、政府の分裂、西郷以下多くの薩人の帰国、参議副島そえじま後藤板垣江藤らの辞表奉呈はその結果であった。上書してすこぶる政府を威嚇いかくするの意を含めたものもある。旗勢をさかんにし風靡ふうびするの徒が辞表を奉呈するものは続きに続いた。近衛兵このえへいはほとんど瓦解がかいし、三藩の兵のうちで動かないものは長州兵のみであった。明治七年一月には、ついに征韓派たる高知県士族武市熊吉たけちくまきち以下八人のものの手によって東京赤坂あかさかの途上に右大臣岩倉具視ともみを要撃し、その身を傷つくるまでに及んで行った。そればかりではない。この勢いの激するところは翌二月における佐賀県愛国党の暴動と化し、公然と反旗をひるがえす第一の烽火のろしが同地方に揚がった。やがてそれは元参議江藤新平らの位階褫奪ちだつとなり、百三十六人の処刑ともなって、やみの空を貫く光のように消えて行ったが、この内争の影響がどこまで及んで行くとも測り知られなかった。時には馬、時には徒歩の旅人姿で、半蔵が東京への道をたどった木曾街道の五月は、この騒ぎのうわさがややしずまって、さながら中央の舞台は大荒れに荒れた風雨のあとのようだと言わるるころである。
 四
 「塩、まいて、おくれ。塩、まいて、おくれ」。木曾街道の終点とも言うべき板橋から、半蔵が巣鴨すがも本郷ほんごう通りへと取って、やがて神田明神かんだみょうじんの横手にさしかかった時、まず彼の聞きつけたのもその子供らの声であった。町々へは祭りの季節が来ているころに、彼も東京にはいったのだ。時節がら、人気を引き立てようとする市民が意気込みのあらわれか、町の空に響く太鼓、軒並みに連なり続く祭礼の提灯ちょうちんなぞは思いのほかのにぎわいであった。時には肩に掛けたたすきの鈴を鳴らし、黄色い団扇うちわを額のところに差して、後ろ鉢巻はちまき姿で俵天王たわらてんのうを押して行く子供の群れが彼の行く手をさえぎった。時には鼻の先の金色に光る獅子ししの後ろへ同じそろいの衣裳いしょうを着けた人たちが幾十人となくしたがって、手に手に扇を動かしながら町を通り過ぎる列が彼の行く手をうずめた。彼は右を見、左を見して、新規にかかった石造りの目鏡橋めがねばしを渡った。筋違見附すじかいみつけももうない。その辺は広小路ひろこうじに変わって、柳原やなぎわらの土手につづく青々とした柳の色が往時を語り顔に彼の目に映った。

 この彼が落ち着く先は例の両国の十一屋でもなかった。両国広小路は変わらずにあっても、十一屋はなかった。そこでは彼の懇意にした隠居も
くなったあとで、年のちがったかみさんは旅人宿をたたみ、浅草あさくさの方に甲子飯きのえねめしの小料理屋を出しているとのことである。足のついでに、かねて世話になった多吉夫婦の住む本所相生町ほんじょあいおいちょうの家までたずねて行って見た。そこの家族はまた、浅草左衛門町さえもんちょうの方へ引き移っている。そうこうするうちに日暮れに近かったので、浪花講なにわこうの看板を出した旅人宿を両国に見つけ、ひとまず彼はそこに草鞋わらじひもを解いた。

 東京はまず無事。その考えに半蔵はやや心を安んじて、翌日はとりあえず、京都以来の平田
鉄胤かねたね老先生をその隠棲いんせいたずねた。彼が延胤のぶたね若先生のくやみを言い入れると、師もひどく力を落としていた。その日は尾州藩出身の田中不二麿ふじまろを文部省に訪ねることなぞの用事を済まし、上京三日目の午後にようやく彼は多吉夫婦が新しい住居すまいを左衛門橋の近くに見つけることができた。多吉、かみさんのおすみ、共に半蔵には久しぶりにあう人たちである。よくそれでも昔を忘れずに訪ねて来てくれたと夫婦は言って、早速荷物と共に両国の宿屋を引き揚げて来るよう勧めてくれたことは、何よりも彼をよろこばせた。「お隅、青山さんは十年ぶりで出ていらしったとよ」。そういう多吉も変われば、お隅も変わった。以前半蔵が木曾下四宿きそしもししゅく総代の庄屋として江戸の道中奉行から呼び出されたおり、五か月も共に暮らして見たのもこの夫婦だ。その江戸を去る時、紺木綿こんもめんの切れの編みまぜてある二足の草鞋わらじをわざわざ餞別せんべつとして彼に贈ってくれたのもこの夫婦だ。

 もとより今度の半蔵が上京はただの東京見物ではない。彼が田中不二麿を訪ねた用事というもほかではない。不二麿は尾州藩士の田中
寅三郎とらさぶろうと言ったころからの知り合いの間がらで、この人に彼は自己の志望を打ちあけ、その力添えを依頼した。旧領主慶勝よしかつ公時代から半蔵父子とは縁故の深い尾州家と、名古屋藩の人々とは、なんと言っても彼にとって一番親しみが深いからであった。名古屋の藩黌はんこう明倫堂めいりんどうに学んだ人たちの中から、不二麿のような教育の方面に心を砕く人物を出したことも、彼には偶然とは思われない。今は文部教部両省合併で、不二麿も文部大丞だいじょうの位置にあるから、この省務一切を管理する人に引き受けてもらったことは、半蔵としても心強い。もっとも、不二麿は民知の開発ということに重きを置き、欧米の教育事業を視察して帰ってからはアメリカ風の自由な教育法をこの国に採り入れようとしていて、すべてがまだ端緒についたばかりの試みの時代だとする考え方の人であったが。

 多吉はまた半蔵を見に来て言った。「どうです、青山さん。江戸のころから見ると、町の様子も変わりましたろう。去年の春から、
敵打かたきうちの厳禁――そうです、敵打ちの厳禁でさ。政府も大きな仕事をやったもんさね。親兄弟きょうだいあだを勝手にかえすようなことは、講釈師の昔話になってしまいました。それだけでも世の中は変わって来ましたね。でも、江戸に長く住み慣れたものから見ると、徳川さまは実にかあいそうです。徳川さまの御恩を忘れちゃならない、皆それを言ってます。お隅のやつなぞもね、あおいの御紋を見ると涙がこぼれるなんて、そう言ってますよ」。
 東京まで半蔵が動いて見ると、昔気質かたぎの多吉の家ではまだ行燈あんどんだが、近所ではすでにランプを使っているところがある。夕方になると、その明るい光が町へもれる。あそこでも、ここでもというふうに。燈火ともしびすらこんなに変わりつつあった。今さら、極東への道をあけるために進んで来た黒船の力が神戸こうべ大坂の開港開市を促した慶応三、四年度のことを引き合いに出すまでもなく、また、日本紀元二千五百余年来、未曾有みぞうの珍事であるとされたあの外国公使らが京都参内当時のことを引き合いに出すまでもなく、世界に向かってこの国を開いた影響はいよいよ日本人各自の生活にまであらわれて来るようになった。ことに、東京のようなところがそうだ。半蔵はそれを都会の人たちの風俗の好みにも、衣裳いしょうの色の移り変わりにもみて取ることができた。うす暗い行燈や蝋燭ろうそくをつけて夜を送る世界には、それによく映る衣裳の色もあるのに、その行燈や蝋燭にかわる明るいランプの時が来て見ると、今までうす暗いところで美しく見えたものも、もはや見られない。多吉の女房お隅はそういうことによく気のつく女で、近ごろの婦人が夜の席に着る衣裳の色の変わって来たことなぞを半蔵に言って見せ、世の中の流行が変わる前に、すでに燈火が変わって来ていると言って見せる。

 多吉夫婦は久しぶりで上京した半蔵をつかまえて、いろいろと東京の話をして聞かせるが、
寄席よせの芸人が口に上る都々逸どどいつたぐいまで、英語まじりのものが流行して来たと言って半蔵を笑わせた。お隅は、一鵬斎芳藤いちほうさいよしふじえがくとした浮世絵なぞをそこへ取り出して来る。舶来と和物との道具くらべがそれぞれの人物になぞらえて、時代のすがたを描き出してある。その時になって見ると、遠い昔に漢土の文物を採り入れようとした初めのころのこの国の社会もこんなであったろうかと疑わるるばかり。海を渡って来るものは皆文明開化と言われて、散切ざんぎり頭をたたいて見ただけでも開化した音がするとうたわれるほどの世の中に変わって来た。夏は素裸、ふんどし一つ、冬はどてら一枚で、客があると、どんな寒中でも丸裸になって、ホイかごホイ籠とかけ出す駕籠屋かごやなぞはもはや顔色がない。年じゅう素股すまたの魚屋から、裸商売のつくだから来るあさり売りまで、異国の人に対しては、おのれらの風俗を赤面するかに見える。

 旅の身の半蔵は、
用達ようたしのついで、あるいは同門の旧知なぞをたずねるためあちこちと出歩くおりごとに、町々の深さにはいって見る機会を持った。東京は、どれほどの広さに伸びている大きな都会とも、ちょっと見当のつけられないことは、以前の彼が江戸出府のおりに得た最初の印象とそう変わりがないくらいであった。ここに住む老若男女の数も、彼にはおよそどれほどと言って見ることもできない。あるいは江戸時代よりはずっと減少していると言うものもあるし、あるいはこの新しい都の人口の増加は将来測り知りがたいものがあろうと言うものもある。元治年度の江戸を見た目で、東京を見ると、今は町々のかどに自身番もなく、番太郎小屋もない。わずかに封建時代の形見のような木戸のみの残ったところもある。旧城郭の関門とも言うべき十五、六の見附みつけ、その外郭にめぐらしてあった十か所の関門も多く破壊された。彼は多吉夫婦と共に以前の本所相生町の方にいて、日比谷にある長州屋敷の打ちこわしに出あったことを覚えているが、今度上京して見ると、その辺は一面の原だ。大小の武家屋敷の跡は桑園茶園に変わったところもある。彼が行く先に見つけるものは、かつて武家六分町人四分と言われたこの都会に大きな破壊の動いた跡を語って見せていないものはなかった。

 でも、東京は発展の最中だ。旧本陣問屋時代に宿場と街道の世話をした経験のある半蔵は、評判な銀座の方まで歩いて行って見て、そこに広げられた道路をおよそ
何間なんげんと数え、めずらしい煉瓦れんが建築の並んだ二階建ての家々の窓と丸柱とがいずれも同じ意匠から成るのをながめた。そこは明治五年の大火以来、木造の建物を建てることを禁じられてからできた新市街で、最初はだれ一人その煉瓦の家屋にはいる市民もなく、もし住めば必ず青ぶくれにふくれて、死ぬと言いはやされたという話も残っている。言って見れば、そのころの銀座は香具師やしの巣である。二丁目のくま相撲すもう、竹川町の犬の踊り、四丁目の角の貝細工、その他、砂書き、阿呆陀羅あほだら活惚かっぽれ軽業かるわざなぞのいろいろな興行で東京見物の客を引きつけているところは、浅草六区のにぎわいに近い。目ざましい繁昌はんじょうを約束するようなその界隈かいわいは新しいものとふるいものとの入れまじりで雑然紛然としていた。

 今は旅そのものが半蔵の身にしみて、見るもの聞くものの感じが深い。もはや
駕籠かごもすたれかけて、一人乗り、二人乗りの人力車じんりきしゃ、ないし乗合馬車がそれにかわりつつある。行き過ぎる人の中には洋服姿のものを見かけるが、多くはまだ身についていない。中には洋服の上に羽織はおりを着るものがあり、切り下げ髪に洋服で下駄げたをはくものもある。長髪に月代さかやきをのばして仕合い道具を携えるもの、和服に白い兵児帯へこおびを巻きつけてくつをはくもの、散髪で書生羽織を着るもの、思い思いだ。うわさに聞く婦人の断髪こそやや下火になったが、深い窓から出て来たような少女のはかまを着け、洋書と洋傘ようがさとを携えるのも目につく。まったく、十人十色の風俗をした人たちが彼の右をも左をもったり来たりしていた。
 不思議な縁故から、上京後の半蔵は、教部省御雇いとして一時奉職する身となった。ちょうど教部省は、文部省と一緒に、馬場先ばばさきの地から常磐橋ときわばし内へ引き移ったばかりで、いろいろな役所の仕事に、国学の畑の人を求めている時であった。この思いがけない奉職は、田中不二麿の勧めによる。彼半蔵の本意はそういうところにあるではなく、どこか古い神社へ行って仕えたい、そこに新生涯を開きたいとの願いから、その手がかりを得たいばかりに、わざわざ今度の上京となったのであるが、しばらく教部省に奉職して時機を待てとの不二麿の言葉もあり、それにむなしい旅食りょしょくも心苦しいからであった。

 教部省は神祇局じんぎきょくの後身である。平田一派の仕事は、そこに残っている。そんな関係からも、半蔵の心は動いて、師鉄胤をはじめ、同門諸先輩が残した仕事のあとをも見たいと考え、彼も不二麿の勧めに従った。とりあえず、彼はこのことを国もとの妻子に知らせ、多吉方を仮の
寓居ぐうきょとするよしを書き送り、旅の心もやや定まったことを告げてやった。そういう彼はまだいつきの道の途上にはあったが、しかしあの碓氷峠うすいとうげを越して来て、両国りょうごくの旅人宿に草鞋わらじを脱いだ晩から、さらに神田川に近い町中の空気の濃いところに身を置き得て、町人多吉夫婦のような気の置けない人たちのそばに自分を見つけた日から、ほとんど別の人のような心を起こした。彼はうす暗い中に起きて、台所の裏手にある井戸のそばで、すがすがしい朝の空気を胸いっぱいに吸い、まず自分の身をきよめることを始めた。そして毎朝水垢離みずごりを取る習慣をつけはじめた。

 今は親しいもののだれからも遠い。一、六と定められた役所の休日に、半蔵は多吉方の二階の部屋にいて、そろそろ梅雨の季節に近づいて行く六月の町の空をながめながら、家を思い、妻を思い、子を思った。その時になると、外には
台湾生蕃たいわんせいばん征討の事が起こり、内には西南地方の結社組織のうわさなぞがしきりに伝わって来て、息苦しい時代の雲行きはどうしてそうたやすく言えるわけのものでもなかったが、しかしなんとなく彼の胸にまとまって浮かんで来るものはある。うっかりすると御一新の改革も逆に流れそうで、心あるものの多くが期待したこの世の建て直しも、四民平等の新機運も、実際どうなろうかとさえ危ぶまれた。

 いったん時代から沈んで行った水戸のことが、またしきりに彼の胸に浮かぶ。彼はあの水戸の苦しい党派争いがほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあったことを思い出した。あの水戸人の持つたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられ、井伊大老もしくは
安藤老中あんどうろうじゅうのような要路の大官にまで向けられたことを思い出した。彼はそれを眼前に生起する幾多の現象に結びつけて見て、かつて水戸から起こったものが筑波つくばの旗上げとなり、尊攘そんじょうの意志の表示ともなって、きた歴史を流れたように、今またそれの形を変えたものが佐賀にも、土佐にも、薩摩にも活き返りつつあるのかと疑った。彼は自分で自分に尋ねて見た。「これでも復古と言えるのか」。その彼の眼前にひらけつつあったものは、帰り来る古代でもなくて、実に思いがけないちかであった。[#改頁]




(私論.私見)