夜明け前第二部下の2、第九章

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【島崎藤村/夜明け前第二部下の2、第九章】
 一
 八月の来るころには、娘おくめが結婚の日取りも近づきつつあった。例の木曾谷きそだにの山林事件もそのころになれば一段落を告げるであろうし、半蔵のからだもいくらかひまになろうとは、春以来おまんやお民の言い合わせていたことである。かねてこの縁談の仲にはいってくれた人が伊那の谷から見えて、吉辰良日きっしんりょうじつのことにつき前もって相談のあったおりに、青山の家としては来たる九月のうちを選んだのもそのためであった。さて、その日取りも次第に近づいて見ると、三十三か村の人民総代として半蔵らが寝食も忘れるばかりに周旋奔走した山林事件は意外にもつれた形のものとなって行った。もとより、福島支庁から言い渡された半蔵の戸長免職はきびしい督責を意味する。彼が旧庄屋(戸長はその改称)としての生涯もその時を終わりとする。彼も御一新の成就じょうじゅということを心がけて、せめてこういう時の役に立ちたいと願ったばっかりに、その職を失わねばならなかった。親代々から一村の長として、百姓どもへ伝達の事件をはじめ、平生種々さまざまな村方の世話駈引かけひき等を励んで来たその役目もすでに過去のものとなった。今は学事掛りとしての仕事だけが彼の手に残った。彼の継母や妻にとっても、これは思いがけない山林事件の結果である。娘お粂が結婚の日取りの近づいて来たのは、この青山一家にふるい背景の消えて行く際だ。

 
仲人なこうど参上の節は供一人、右へ御料理がましいことは御無用に願いたし。もっとも、神酒みき二汁にじゅう、三菜、それに一泊を願いたし。これはその年の二月に伊那南殿村の稲葉家から届いた吉辰申し合わせの書付の中の文句である。お民はそれを先方から望まれるとおりにした上、すでに結納ゆいのうのしるしまでも受け取ってある。それは帯地一巻持参したいところであるが、間に合いかねるからと言って、白無垢しろむく一反、それに酒の差樽さしだるを祝って来てある。これまでにお粂の縁談をまとめてくれたのもほかならぬしゅうとめおまんであり、その人は半蔵にとっても義理ある母であるのに、かんじんのお粂はとかく結婚に心も進まなかった。のみならず、この娘を懇望する稲葉家の人たちに、半蔵の戸長免職がどう響くかということすら、お民には気づかわれた。そういうお民の目に映る娘は、ますます父半蔵に似て行くような子である。弟の宗太そうたなぞ、明治四年のころはまだ十四歳のうら若さに当時名古屋県の福島出張所から名主なぬし見習いを申し付けられたほどで、この子にこそ父のおもかげの伝わりそうなものであるが、そのことがなく、かえって姉娘の方にそれがあらわれた。お民は、成長したお粂の後ろ姿を見るたびに、ほんとに父親にそっくりなような娘ができたと思わずにいられない。半蔵は熱心な子女の教育者だから、いつのまにかお粂も父の深い感化を受け、日ごろ父の尊信する本居もとおり平田ひらた諸大人をありがたい人たちに思うような心を養われて来ている。お粂は性来の感じやすさから、父が戸長の職をがれ青ざめた顔をして木曾福島から家に帰って来た時なぞも、彼女の小さな胸をいためたことは一通りでなかった。彼女は、かずかずの数奇すきな運命に娘心を打たれたというふうで、「わたしはこうしちゃいられないような気がする」と言って、母のそばによく眠らなかったほどの娘だ。

 しかし、お民はお民なりに、この娘を励まし、一方には強い個性をもった姑との間にも立って、戸長免職後の半蔵を助けながら精いっぱい働こうと思い立っていた。以前にお民が妻籠旧本陣を
たずねたおり、おばあさんや兄夫婦のいるあの生家さとの方で見て来たことは、自給自足の生活がそこにも始まっていることであった。お民はそれを夫の家にも応用しようとした。彼女は周囲を見回した。もっと養蚕を励もうとさえ思えば、広い玄関の次の間から、仲の間、奥の間まで、そこには蚕のたなを置くこともできるような旧本陣の部屋部屋が彼女を待っていた。髪につける油を自分で絞ろうとさえ思えば、毎年表庭の片すみに実を結ぶ古い椿つばきを役に立てることもできた。四人の子を控えた母親として、ことにまだ幼い二人のものを無事に育てたいとの心願から、お民もその決心に至ったのである。彼女はまた持って生まれた快活さで、からだもよく動く。ほおの色なぞはつやつやと熟した林檎りんごのようにあかい。

 ある日、お民は娘が嫁入りじたくのために注文して置いた染め物の中にまだ間に合わないもののあるのをもどかしく思いながら、取り出す器物の用があって裏の土蔵の方へ行った。入り口の石段の上には夫の
履物はきものが脱いである。赤くびた金網張りの重い戸にも大きな錠がはずしてある。ごとごと二階の方で音がするので、何げなくお民は梯子段はしごだんを登って行って見た。青山の家に伝わる古刀、古い書画の軸、そのほか吉左衛門が生前に蒐集しゅうしゅうして置いたような古い茶器の類なぞを取り出して思案顔でいる半蔵をそこに見つけた。そこは板敷きになった階上で、おまんの古い長持ながもちや、お民が妻籠から持って来た長持なぞの中央に置き並べてあるところだ。何十年もかかって半蔵の集めた和漢の蔵書も壁によせて積み重ねてあるところだ。その時、お民は諸方の旧家に始まっている売り立てのうわさに結びつけて、そんな隠れたところに夫が弱味をのぞいて見た時は、胸が迫った。
 二
 土蔵の建物と裏二階の隠居所とは井戸の方へ通う細道一つへだてて、目と鼻の間にある。お民はその足で裏二階の方に姑を見に行った。娘を伊那へ送り出すまで、何かにつけてお民が相談相手と頼んでいるのは、おまんのほかになかったからで。「おっかさん」と声をかけると、ちょうどおまんは小用でもしに立って行った時と見えて、日ごろ姑がかわいがっている毛並みの白いねこだけが麻の座蒲団ざぶとんの上に背をまるくして、うずくまっていた。二間を仕切る二階の部屋ふすまも取りはずしてあるころで、すべて吉左衛門が隠居時代の形見らしく、そっくり形もくずさずに住みなしてある。そこいらには、針仕事の好きな姑が孫娘のために縫いかけた長襦袢ながじゅばんのきれなぞも取りちらしてあって、そこにもお粂が結婚の日取りの近づいたことを語っている。古い針箱のそばによせて、小さな味醂みりんかめの片づけずに置いてあるのもお民をほほえませた。姑のような年取った女の飲む甘いお酒が押入れの中に隠してあることをお民も知っているからであった。

 そのうちに、おまんはお民のいるところへって来て、「お民か。お前はちょうどよいところへ来てくれた。稲葉のおそのさん(おまんが里方の夫人)へはわたしから返事を出して置いたよ。あのおそのさんもお前、いろいろ心配していてくれると見えてね、馬籠から上伊那の南殿村まで女の足では三日路というくらいのところだから、わざわざ諸道具なぞ持ち運ぶには及ばん、お粂の
箪笥たんす、長持、針箱の類はこちらで取りそろえて置くと言ってよこしたさ。手洗いおけ、足洗い桶なぞもね。ごらんな、なんとかこちらからも言ってやらなけりゃ悪いから、御承知のとおりな遠路とおみちなことじゃあるし、お民も不調法者で、したくも行き届かないが、まあ万事よろしく頼む――そうわたしは返事を書いてやったよ」。「どうでしょう、おっかさん、今度の山林事件が稲葉へは響きますまいか。うちじゃ、もう庄屋でも、戸長でもありませんよ」とお民が言って見る。「そんな稲葉の家じゃあらすかい。いったん結納の品まで取りかわして、改めて親類のさかずきでもかわそうと約束したものが、家の事情でそれを反古ほごにするような水臭い人たちなら、最初からわたしはお粂の世話なんぞしないよ。あのおそのさんはじめ、それは義理堅い、正しい人だからね」。おまんはその調子だ。

 ここですこしこの半蔵が継母のことを語って置くのも、山国の婦人というものを知る上にむだなわざではないだろう。おまんも年は取って、切りさげた髪はもはや半ば白かったが、あの水戸浪士の同勢がおのおの手にして来た鋭い抜き身の
やりや抜刀をも恐れずにひとりで本陣の玄関のところへ応接に出たような、その気象はまだ失わずにある。そういうおまんの教養は、まったく彼女の母から来ている。母は、高遠たかとお内藤大和守ないとうやまとのかみの藩中で、坂本流砲術の創始者として知られた坂本孫四郎の娘にあたる。ゆえあって母は初婚の夫の家を去り、その母と共に南殿村の稲葉の家に養われたのがおまんだ。婦人ながらに漢籍にも通じ、読み書きの道をお粂に教え、時には『古今集』の序を諳誦あんしょうさせたり、『源氏物語』を読ませたりして、おさを持つことや庖丁ほうちょうを持つことを教えるお民とは別の意味で孫娘を導いて来たのもまたおまんだ。年をとればとるほど、彼女は祖父孫四郎の武士気質かたぎをなつかしむような人である。

 このおまんは継母として、もう長いこと義理ある半蔵をみまもって来た。半蔵があの中津川の景蔵や同じ町の香蔵などの学友と共に、若い時分から勤王家の運動に心を寄せていることを家中のだれよりも先に
看破みやぶったくらいのおまんだから、今さら半蔵がなすべきことをなして、そのために福島支庁からきびしい督責をこうむったと聞かされても、そんなことには驚かない。ただただおまんは、吉左衛門や金兵衛が生前によく語り合ったことを思い出して、半蔵にこの青山の家がやりおおせるか、どうかと危ぶんでいる。

 お民を前に置いて、おまんは縫いかけた
長襦袢ながじゅばんのきれを取り上げながら、また話しつづけた。目のさめるような京染めの紅絹もみの色は、これからとついで行こうとする子に着せるものにふさわしい。「そう言えば、お民、半蔵が吾家うちの地所や竹藪たけやぶを伏見屋へ譲ったげなが、お前もお聞きかい」。おまんの言う地所の譲り渡しとは、旧本陣屋敷裏の地続きにあたる竹藪の一部と、青山家所有のある屋敷地二とを隣家の伊之助に売却したのをさす。藪五両、地所二十五両である。その時の親戚請人しんせきうけにんには栄吉、保証人は峠の旧組頭くみがしら平兵衛である。相変わらず半蔵のもとへ手伝いにかよって来る清助からおまんはくわしいことを聞き知った。それがお粂の嫁入りじたくの料に当てられるであろうことは、おまんにもお民にも想像がつく。「たぶん、こんなことになるだろうとは、わたしも思っていたよ。」とまたおまんは言葉をついで、「そりゃ、本陣から娘を送り出すのに、七通りの晴衣はれぎもそろえてやれないようなことじゃ、お粂だって肩身が狭かろうからね。七通りと言えば、地白、地赤、地黒、総模様、腰模様、すそ模様、それに紋付ときまったものさ。古式の御祝言ごしゅうげんでは、そのたびにお吸物も変わるからね。しかし、今度のような場合は特別さ。今度だけはお前、しかたがないとしても、旦那(吉左衛門)が半蔵にのこして置いて行った先祖代々からの山や田地はまだ相応にあるはずだ。あれがかじの取りよう一つで、この家がやれないことはないとわたしは思うよ。無器用に生まれついて来たのは性分しょうぶんでしかたがないとしても、もうすこし半蔵には経済の才をくれたいッて、旦那が達者たっしゃでいる時分にはよくそのお話さ」。

 そういうおまんは何かにつけて自分の旦那の時代を恋しく思い出している。この宿場の全盛なころには街道を通る大名という大名、公役という公役、その他、世に時めく人たちで、青山の家の上段の間に寝泊まりしたり休息したりして行かないものはなかった。過ぐる年月の間の意味ある通行を数えて見ても、彦根よりする井伊
掃部頭かもんのかみ、名古屋よりする成瀬隼人之正なるせはやとのしょう、江戸よりする長崎奉行水野筑後守ちくごのかみ、老中間部下総守まなべしもうさのかみ、林大学頭だいがくのかみ、監察岩瀬肥後守ひごのかみから、水戸の武田耕雲斎たけだこううんさい、旧幕府の大目付おおめつけで外国奉行を兼ねた山口駿河守するがのかみなぞまで――御一新以前だけでも、それらの歴史の上の人物はいずれもこの旧本陣に時を送って行った。それを記念する意味からも、おまんは自分の忘れがたい旦那と生涯を共にしたこの青山の家をそう粗末には考えられないとしていた。たとい、城をにするような日がやって来ても、旧本陣の格式はくずしたくないというのがおまんであった。お民は母屋もやの方へりかける時に言った。「おっかさん、あなたのようにそう心配したらきりがない。見ていてくださいよ。わたしもこれから精いっぱい働きますからね。そう言えば、稲葉の家の方からは、来月の二十二日か、二十三日が、日が良いと言って来てありますよ。まあ、わたしもぐずぐずしちゃいられない」。
 三
 その月の末、平田同門の先輩の中でもことに半蔵には親しみの深い暮田正香くれたまさかの東京方面から木曾路を下って来るという通知が彼のもとへ届いた。半蔵は久しぶりであの先輩を見うるよろこびを妻に分け、お民と共にその日を待ち受けた。今は半蔵も村方一同の希望をいれ、自ら進んで教師の職につき、万福寺を仮教場にあてた学校の名も自ら「敬義学校」というのを選んで、毎日子供たちを教えに行く村夫子そんふうしの身に甘んじている。彼も教えてむことを知らないような人だ。正香の着くという日の午後、彼は寺の方から引き返して来て、早速さっそく家の店座敷に珍客を待つ用意をはじめた。お民が来て見るたびに、彼は部屋を片づけていた。

 旧宿場三役の廃止以来、青山の家ももはや以前のような本陣ではなかったが、それでも新たに
かれた徴兵令の初めての検査を受けに福島まで行くという村の若者なぞは改まった顔つきで、一人村方惣代むらかたそうだいに付き添われながらわざわざ門口まで挨拶に来る。街道には八月の日のあたったころである。その草いきれのする道を踏んで遠くやって来る旅人を親切にもてなそうとすることは、半蔵夫婦のような古い街道筋に住むものが長い間に養い得た気風だ。

 お民は待ち受ける客人のために
して置いた唐草からくさ模様の蒲団ふとんを取り込みに、西側の廊下の方へ行った。その廊下は母屋もやの西北にめぐらしてあって、客でも泊める時のほかは使わない奥の間、今は神殿にして産土神うぶすなさまを祭ってある上段の間の方まで続いて行っている。北の坪庭も静かな時だ。何げなくお民はその庭の見える廊下のところへ出てながめると人気ひとけのないのをよいことにして近所のがそこに入り込んで来ている。ひところはしゅうとめおまんの手飼いの白でも慕って来るかして、人の赤児あかごのようにく近所の三毛や黒のなき声がうるさいほどお民の耳についたが、今はそんな声もしないかわりに、庭のなしの葉の深い陰を落としているあたりは小さな獣の集まる場所に変わっている。思わずお民は時を送った。生まれて半歳はんとしばかりにしかならないような若い猫の愛らしさに気を取られて、しばらく彼女も客人のことなぞを忘れていた。彼女の目に映るは、一息に延びて行くものの若々しさであった。その動作にはなんのこだわりもなく、その毛並みにはすこしの汚れもない。生長あるのみ。しかも、小さな獣としてはまれに見る美しさだ。目にある幾匹かの若い猫はまた食うことも忘れているかのように、そこに軽やかな空気をつくる。走る。ころげ回る。その一つ一つが示すしなやかな姿態は、まるで、草と花のことだけしか思わない娘たちか何かを見るように。

 その辺は
りゅうひげなぞの深い草叢くさむらをなして、青い中に点々とした濃い緑が一層あたりを憂鬱ゆううつなくらいに見せているところである。あちこちに集まる猫はこの苔蒸こけむしてひっそりとした坪庭の内を彼らが戯れの場所と化した。一方の草の茂みに隠れて、寄り添う二匹の見慣れない猫もあった。ふと、お民が気がついた時は、下女のお徳まで台所の方から来た。その庭にばかり近所の猫が入り込むのを見ると、お徳は縁先にある手洗鉢ちょうずばちの水でもぶッかけてやりたいほど、「うるさい、うるさい」と言っていながら、やっぱり猫のような動物の世界にも好いた同志というものはあると知った時は、廊下の柱のそばに立って動かなかった。ちょうど、おくめも表玄関に近い板敷きの方で織りかけていたはたを早じまいにして、その廊下つづきの方へ通って来た。そこはお民やお粂が髪をとかす時に使う小さな座敷である。その時、お民は廊下の離れた位置から娘の様子をよく見ようとしたが、それはかなわなかった。というのは、お粂は見るまじきものをその納戸なんどの窓の下に見たというふうで、また急いで西側の廊下の方へ行って隠れたからで。「あなた、ようやくわたしにはお粂の見通しがつきましたよ」と言って、お民が店座敷へ顔を出した時は、半蔵は客の待ちどおしさに部屋のなかを静かに歩き回っていた。お民に言わせると、女の男にあうみちは教えられるまでもないのに、あれほど家のおばあさんから女はとつぐべきものと言い聞かせられながら、とかくお粂が心の進まないらしいのは、全くその方の知恵があの子に遅れているのであろうというのであった。もっとも、その他の事にかけては、お粂は年寄りのようによく気のつく娘で、母親の彼女よりも弟たちの世話を焼くくらいであるが、とも付け添えた。「何を言い出すやら」。半蔵は笑って取り合わなかった。

 どうして半蔵がこんなに先輩の正香を待ったかというに、過ぐる版籍奉還のころを一期とし、また廃藩置県のころを一期とする地方の空気のあわただしさに妨げられて、心ならずも同門の人たちとの往来から遠ざかっていたからで。そればかりではない。復古の道、平田一門の前途――彼にはかずかずの心にかかることがあるからであった。正香は一人の供を連れて、その日の夕方に馬で着いた。
明荷葛籠あきにつづら蒲団ふとんの上なぞよりも、馬のしりの軽い方を選び、小付こづけ荷物と共に馬からおりて、檜笠ひのきがさひもを解いたところは、いかにもこの人の旅姿にふさわしい。「やあ」。正香と半蔵とが久々の顔を合わせた時は、どっちが先とも言えないようなその「やあ」が二人の口をついて出た。客を迎えるお民のうしろについて、いそいそと茶道具なぞ店座敷の方へ持ち運ぶ娘までが、日ごろ沈みがちなお粂とは別人のようである。子供本位のお民はうれしさのあまり、勝手のいそがしさの中にもなおよく注意して見ると、娘はすぐ下の十六歳になる弟に、「宗太、きょうのお客さまは平田先生の御門人だよ」と言って見せるばかりでなく、五歳になる弟まで呼んで、「森夫もりおもおいで。さあ、おベベを着かえましょうね」と、よろこぶ様子である。まるで、父の先輩が彼女のところへでも訪れて来てくれたかのように。これにはお民も驚いて、さっぱりとした涼しそうなものに着かえている自分の娘を見直したくらいだ。そこへ下男の佐吉も、山家らしい風呂の用意がすでにできていることを店座敷の方へ告げに行く。半蔵は正香に言った。「暮田さん、お風呂が沸いてます。まず汗でもお流しになったら」。「じゃ、一ぱいごちそうになるかな。木曾まで来ると、なんとなく旅の気分がちがいますね。ここは山郭公やまほととぎすの声でも聞かれそうなところですね」。
 四
 やがて半蔵の前に来てくつろいだ先輩は、明治二年に皇学所監察に進み、同じく三年には学制取調御用掛り、同じく四年にはさらに大学出仕を仰せ付けられたほどの閲歴をもつ人であるが、あまりに昇進の早いのをねたむ同輩のためにざんせられて、山口藩和歌山藩等にお預けの身となったような境涯きょうがいをも踏んで来ている。今度、賀茂かも神社の少宮司しょうぐうじに任ぜられて、これから西の方へ下る旅の途中にあるという。

 半蔵は日ごろの
無沙汰ぶさたのわびから始めて、多事な街道と村方の世話に今日まであくせくとした月日を送って来たことを正香に語った。木曾福島の廃関に。本陣、わき本陣、問屋、庄屋、組頭の廃止に。一切の宿場の改変に。引きつづく木曾谷の山林事件に。彼は一日も忘れることのない師鉄胤かねたねのもとにすら久しいこと便りもしないくらいであったと語った。彼はまた、師のあとを追って東京に出た中津川の友人香蔵のことを正香の前に言い出し、師が参与と神祇官じんぎかん判事とを兼ねて後には内国局判事と侍講との重い位置にあったころは、(ちなみに、鉄胤は大学大博士ででもあった)、あの友人も神祇権少史ごんしょうしにまで進んだが、今は客舎に病むと聞くと語った。彼らは互いに執る道こそ異なれ、同じ御一新の成就を期待して来たとも語った。香蔵からは、いつぞやも便りがあって、「同門の人たちは皆祭葬の事にまで復古を実行しているのに、君の家ではまだ神葬祭にもしないのか」と言ってよこしたが、木曾山のために当時奔走最中の彼が暗い行燈あんどんのかげにその手紙を読んだ時は、思わず涙をそそった。そんな話も出た。「暮田さん、あなたにお目にかけるものがある」と言って、半蔵は一幅の軸を袋戸棚ふくろとだなから取り出した。それを部屋の壁に掛けて正香に見せた。

 
すず屋翁やのおきな画詠、柿本大人かきのもとのうし像、師岡正胤主もろおかまさたねぬし恵贈としたものがそこにあった。それはやはり同門の人たちの動静を語るもので、今は松尾大宮司だいぐうじとして京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を中津川の方に迎え、その人を中心に東濃地方同門の四、五人の旧知のものが小集を催した時の記念である。その時の正胤から半蔵に贈られたものである。本居宣長もとおりのりながの筆になった人麿ひとまろの画像もなつかしいものではあったが、それにもまして正香をよろこばせたのは、画像の上に書きつけてある柿本大人のさんだ。宣長と署名した書体にも特色があった。あだかも、三十五年にわたる古事記の研究をのこした大先輩がその部屋に語り合う正香と半蔵との前にいて、古代の万葉人をさし示し、和魂にぎみたま荒魂あらみたま兼ねそなわる健全な人の姿を今の正眼まさめよとも言い、あの歌に耳を傾けよとも言って、そこにいる弟子の弟子たちを励ますかのようにも見えた。
 半蔵の継母が孫たちを連れてそこへ挨拶に来たので、しばらく二人の話は途切れた。これは半蔵の長男、これは三男とおまんに言われて、宗太や森夫も改まった顔つきをしながら客の前へお辞儀に出る。「暮田さんは信州岩村田の御出身でいらっしゃるそうですね。そういえば、どっか山国のおかたらしい」とおまんは客に言って、勝手の方からぜんを運ぶお粂を顧みながら、「こんな山家で何もおかまいはできませんが、まあ、ごゆっくりなすってください」。お粂が持って来て客と父との前に置いた膳の上には、季節がらの胡瓜きゅうりもみ、青紫蘇あおじそ、枝豆、それにきざみずるめなぞを酒のさかなに、猪口ちょく割箸わりばしもそろった。おまんがそれを見て部屋から退くころには、正香はもうあぐらにやる。「どれ、あの記念の扇子を暮田さんにお目にかけるか」と半蔵は言って、師岡正胤らと共に中津川の方で書いたものを正香の前にひろげて見せた。平田篤胤あつたね没後の門人らの思い思いにしるしつけた述懐の歌がその扇子の両面にある。からい、甘い、限り知られない味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のものもある。こうして互いにつつがなくめぐりあって見ると、八年は夢のような気がするとした意味のものもある。おくれまいと思ったことは昔であって、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いを寄せてあるのは師岡正胤だ。

 「へえ、師岡がこんな歌を置いて行きましたかい」と言いながら、正香はその扇面に見入った。過ぐる文久三年、例の等持院にある足利将軍らの木像の首を抜き取って京都三条河原
さらし物にした血気さかんなころの正香の相手は、この正胤だ。その後、正香が伊那の谷へ来て隠れていた時代は、正胤は上田藩の方に六年お預けの身で、最初の一年間は紋付を着ることも許されず、ただ白無垢しろむくのみを許され、日のめも見ることのできない北向きの一室にすわらせられ、わずかに食事ごとの箸先を食い削ってそれを筆に代えながら、襦袢じゅばん袖口そでぐちから絞るあいのしずくで鼻紙にしるしつける歌日記を幽閉中唯一の慰めとしていたという。先帝崩御ほうぎょのおりの大赦がなかったら、正胤もどうなっていたかわからなかった。この人のことは正香もくわしい。

 その時、半蔵は先輩に酒をすすめながら、旧庄屋の職を失うまでの自分の
にがい経験を、山林事件のあらましを語り出した。彼に言わせると、もしこの木曾谷が今しばらく尾州藩の手を離れずにあって、年来の情実にも明るい人が名古屋県出張所の官吏として在職していてくれたら、もっと良い解決も望めたであろう。今のうちに官民一致して前途百年の方針を打ち建てて置きたいという村民総代一同の訴えもきかれたであろう。この谷が山間の一僻地へきちで、舟楫しゅうしゅう運輸の便があるでもなく、田野耕作の得があるでもなく、村々の大部分が高い米や塩を他の地方に仰ぎながらも、今日までに人口の繁殖するに至ったというのは山林あるがためであったのに、この山地を官有にして人民一切入るべからずとしたら、どうして多くのものが生きられる地方でないぐらいのことは、あの尾州藩の人たちには認められたであろう。

 いかんせん、
筑摩ちくま県の派出官は土地の事情に暗い。廃藩置県以来、諸国の多額な藩債も政府においてそれを肩がわりする以上、旧藩諸財産の没取は当然であるとの考えにでも支配されたものか、木曾谷山地従来の慣例いかんなぞは、てんで福島支庁官吏が問うところでない。言うところは、官有林規則のお請けをせよとの一点張りである。その過酷を嘆いて、ひたすら寛大な処分を嘆願しようとすれば、半蔵ごときは戸長を免職せられ、それにも屈しないで進み出る他の総代のものがあっても、さらに御採用がない。しいて懇願すれば官吏の怒りに触れ、むちで打たるるに至ったものがあり、それでも服従しないようなものは本県聴訟課へ引き渡しきっと吟味に及ぶであろうとの厳重な口達をうけて引き下がって来る。その権威に恐怖するあまり、人民一同前後を熟考するいとまもなく、いったんは心ならずも官有林のお請けをしたのであった。「一の山林事件は、百の山林事件さ」と正香は半蔵の語ることを聞いたあとで、嘆息するように言った。
  「暮田さん、せっかくおいでくだすっても、ほんとに、何もございませんよ」と言いながら、お民も客のいるところへ酒をすすめに来た。彼女は客や主人のぜんの上にあるはし休めのさらをさげて、娘お粂が順に勝手の方から運んで来るものをそのかわりに載せた。遠来の客にもめずらしく思ってもらえそうなものといえば、木曾川の方でとれた「たなびら」ぐらいのもの。それを彼女は魚田ぎょでんにして出した。でも、こんな山家料理がかえって正香をよろこばせる。「奥さんの前ですが、」と正香は一口飲みかけた盃を膳の上に置いて、「いつぞや、お宅の土蔵のなかに隠していただいた時、青山君が瓢箪ふくべに酒を入れて持って来て、わたしに飲ませてくれました。あの時の酒の味はよほど身にしみたと見えて、伊那の方でも思い出し、京都や東京の方に行ってる時も思い出しました。おそらく、わたしは一生あの酒の味を忘れますまい」。「あれから、十年にもなりますものね」と半蔵も言った。

 お粂がその時、吸い物の向こう
けになるようなものを盆にのせて持って来た。お民はそれを客にすすめながら、「わらびでございますよ」。「今時分、蕨とはめずらしい」。正香が言う。「これは春先の若い蕨を塩漬しおづけにして置いたものですが、塩をもどして、薄味で煮て見ました。御酒の好きな方には、お口に合うかもしれません。一つ召し上がって見てください」。「奥さん、この前もわたしは中津川の連中と一緒に一度おたずねしましたが、しかしお宅の皆さんにしみじみお目にかかるのは、今度初めてです。よいお嬢さんもおありなさる」。正香の口から聞けば、木曾のような水の清いところにい育つものは違うというようなことも、そうわざとらしくない。お民は自分の娘のことを客の方から言い出されたうれしさに、「おかげさまで、あれも近いうちに伊那の方へ縁づくことになりました」と言って見せた。

 正香も伊那の放浪時代と違い、もはや御一新の大きな波にもまれぬいて来たような人である。お民が店座敷から出て行くのを見送った後、半蔵は日ごろ心にかかる平田一門の前途のことなぞをこの先輩の前に持ち出した。「青山君、あれで老先生(平田鉄胤かねたねのこと)も、もう十年若くして置きたかったね」と正香は盃を重ねながら言った。「明治御一新の声を聞いた時に、先生は六十七歳の老年だからね。先生を中心にした時代は――まあ、実際の話が、明治の三年までだね」。「あの年の六月には、先生も大学の方をおめになったように聞いていますが」と半蔵も言って見る。「見たまえ。」という正香の目はかがやいて来た。「われわれはお互いに十年の後を期した。こんなに早く国学者の認められる時が来ようとも思わなかった。そりゃ、この大政の復古が建武中興の昔に帰るようなことであっちゃならない、神武じんむの創業にまで帰って行くことでなくちゃならない――ああいうことを唱え出したのも、あの玉松あたりさ。復古はお互いの信条だからね。しかし君、復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあるのさ。そう無造作にできるものが、復古じゃない。ところが世間の人はそうは思いませんね。あの明治三年あたりまでの勢いと来たら、本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言い出した。それこそ、も、杓子しゃくしもですよ。篤胤先生の著述なぞはずいぶん広く行なわれましたね。ところが君、その結果は、というと、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ。いくら、昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい」。

 
「暮田さん、」と半蔵はほんのりいい色になって来た正香の顔をながめながら、さらに話しつづけた。「わたしなぞは、これからだと思っていますよ」。「それさ」。「われわれはまだ、踏み出したばかりじゃありませんかね」。「君の言うとおりさ。今になってよく考えて見ると、何十年かかったらこの御一新がほんとうに成就されるものか、ちょいと見当がつかない。あれで鉄胤先生なぞの意志も、政治を高めるというところにあったろうし、同門には越前中根雪江なかねゆきえのような人もあって、ずいぶん先生を助けもしたろうがね、いかな先生も年には勝てない。この御一新の序幕の中で、先生も老いて行かれたようなものさね。まだそれでも、明治四年あたりまではよかった。版籍を奉還した諸侯が知事でいて、その下に立つ旧藩の人たちが民政をやった時分には、すくなくも御一新の成就するまではと言ったものだし、また実際それを心がけた藩もあった。いよいよ廃藩の実行となると、こいつがやかましい。江戸大城の明け渡しには異議なしでも、自分らの城まで明け渡せとなると、中には考えてしまった藩もあるからね。一方には郡県の政治が始まる。官吏の就職運動が激しくなる。成り上がり者の官吏の中にはむやみといばりたがるような乱暴なやつが出て来る。さっきも君の話のように、なかなか地方の官吏にはその人も得られないのさ。国家の事業は窮屈な官業に混同されてしまって、この調子で行ったらますます官僚万能の世の中さ。まあ、青山君、君だって、こんなはずじゃなかったと思うでしょう。見たまえ、この際、力をかつぎ出そうとする連中なぞが士族仲間から頭を持ち上げて来ましたぜ。征韓せいかん、征韓――あの声はどうです。もとより膺懲ようちょうのことは忘れてはならない。たとい外国と和親を結んでも、曲直は明らかにせねばならない。国内の不正もまたたださねばならない。それはもう当然なことです。しかし全国人民の後ろだてなしに、そんな力がかつぎ出せるものか、どうか。なるほど、不平のやりどころのない士族はそれで納まるかもしれないが、百姓や町人はどうなろう。御一新の成就もまだおぼつかないところへ持って来て、また中世を造るようなことがあっちゃならない。早く中世をのがれよというのが、あの本居先生なぞの教えたことじゃなかったですか……」

 酒の酔いが回るにつれて、正香は日ごろ愛誦あいしょうする杜詩としでも読んで見たいと言い出し、半蔵がそこへ取り出して来た幾冊かの和本の集注を手に取って見た。正香はそれを半蔵に聞かせようとして、何か自身に気に入ったものをというふうに、浣花渓かんかけいの草堂の詩を読もうか、秋興八首を読もうかと言いながら、しきりにあれかこれかと繰りひろげていた。「ある。ある」。
 その時、正香は
行燈あんどんの方へすこし身を寄せ、一語一句にもゆっくりと心をこめて、杜詩の一つを静かに声を出して読んだ。

※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)袴不餓死、儒冠多誤
丈人試静聴、賤子請具陳
甫昔少年日、早充観国賓
書破万巻、 下筆如
賦料楊雄敵、詩看子建親
※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)面、王翰願
自謂頗挺出、立登要路津
君堯舜上、再使風俗淳
此意竟蕭条、……………
 そこまで読みかけると、正香はその先を読めなかった。「このこころつい蕭条しょうじょう」というくだりを繰り返し半蔵に読み聞かせるうちに、熱い涙がその男らしいほおを伝って止め度もなく流れ落ちた。
 五
 正香は一晩しか半蔵の家に逗留とうりゅうしなかった。「青山君、わたしも賀茂の方へ行って、深いため息でもついて来ますよ」との言葉を残して、翌朝早く正香は馬籠を立とうとしていた。頼んで置いた軽尻馬からじりうまも来た。馬の口をとる村の男はそれを半蔵の家の門内まで引き入れ、表玄関の式台の前で小付け荷物なぞをくらに結びつけた。「おっかさん、暮田さんのお立ちですよ」と娘に呼ばれて、お民も和助(半蔵の四男)を抱きながらそこへ飛んで出て来る。「オヤ、もうお立ちでございますか。中津川へお寄りでしたら、浅見の奥さん(景蔵の妻)へもよろしくおっしゃってください」とお民は言った。半蔵はじめ、お民、お粂から下男の佐吉まで門の外に出て馬上の正香を見送った。動いて行く檜笠ひのきがさが坂になった馬籠の町の下の方に隠れるまで見送った。旧本陣の習慣として、青山の家のものがこんなに門の前に集まることもめったになかったのである。その時、半蔵は正香の仕えに行く賀茂両社の方のことを娘に語り聞かせた。その神社が伊勢神宮に次ぐ高い格式のものと聞くことなぞを語り聞かせた。平安朝と言った昔は、歴代の内親王ないしんのう一人は伊勢のいつきとなられ、一人は賀茂の斎の宮となられる風習となっていたと聞くことなぞをも語り聞かせた。

 正香も行ってしまった。例のように半蔵はその日も万福寺内の敬義学校の方へ村の子供たちを教えに出かけて、相手と頼む
松雲和尚しょううんおしょうにも前夜の客のことを話したが、午後にそこから引き返して見ると、正香の立って行ったあとには名状しがたい空虚が残った。半蔵はそこにいない先輩の前へ復古の道を持って行って考えて見た。彼のふるい学友、中津川の景蔵や香蔵などが寝食も忘れるばかりに競い合って、互いに突き入ったのもその道だ。そこには四つの像がある。彼は自分の心も柔らかく物にも感じやすい年ごろに受けた影響がこんなにも深く自分の半生を支配するかと思って見て、心ひそかに驚くことさえある。彼はまた平田一門の前途についても考えて見た。

 その時になって見ると、先師没後の門人が全国で四千人にも達した明治元年あたりを平田派全盛時代の頂上とする。伊那の谷あたりの最も篤胤研究のさかんであった地方では、あの年の平田入門者なるものは一年間百二十人の多くに上ったが、明治三年には十九人にガタ落ちがして、同四年にはわずかに四人の入門者を数える。北には倉沢義髄くらさわよしゆきを出し、南には片桐春一かたぎりしゅんいち、北原稲雄、原信好のぶよしを出し、先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布じょうぼくはんぷに、山吹社中発起の条山じょうざん神社の創設に、ほとんど平田研発者の苗床ともいうべき谷間たにあいであった伊那ですらそれだ。これを中央に見ても、正香のいわゆる「政治を高めようとする」祭政一致の理想は、やがて太政官だじょうかん中の神祇官を生み、鉄胤先生を中心にする神祇官はほとんど一代の文教を指導する位置にすらあった。大政復古の当時、みかどには国是の確定を列祖神霊に告ぐるため、わざわざ神祇官へ行幸したもうたほどであったが、やがて明治四年八月には神祇官も神祇省と改められ、同五年三月にはその神祇省も廃せられて教部省の設置を見、同じ年の十月にはついに教部文部両省の合併を見るほどに推し移って来る。今は師も老い、正香のような先輩ですら余生を賀茂の方に送ろうとしている。そういう半蔵が同門の友人仲間でも、香蔵は病み、景蔵は隠れた。これには彼も腕を組んでしまった。
 六
 王政第六の秋立つころを迎えながら、山里へは新時代の来ることもおそい。いよいよ享保きょうほう以前への復古もむなしく、木曾川上流の沿岸から奥地へかけての多数の住民は山にもたよれなかった。山林規則の何たるをわきまえないものが窮迫のあまり、官有林にはいって、盗伐の罪を犯し処刑をこうむるものは増すばかり。そのたびに徴せらるる贖罪しょくざいの金だけでも谷中ではすくなからぬ高に上ろうとのうわささえある。世は革新の声で満たされている中で、半蔵が踏み出して見た世界の実際すらこのとおり薄暗い。まして娘お粂なぞの住んでいるところは、長いこと彼女らのこもり暮らして来た深い窓の下だ。そこにある空気はまだ重かった。

 
こころみに、十五代将軍としての徳川慶喜とくがわよしのぶが置き土産みやげとも言うべき改革の結果がこの街道にもあらわれて来る前までは、女は手形なしに関所も通れなかった時代のあったことを想像して見るがいい。従来、「出女でおんな、入り鉄砲」などと言われ、女の旅は関所関所で食い留められ、髪長かみなが、尼、比丘尼びくに髪切かみきり少女おとめなどと一々その風俗を区別され、乳まで探られなければ通行することも許されなかったほどの封建時代が過去に長く続いたことを想像して見るがいい。高山霊場の女人禁制は言うまでもなく、普通民家の造り酒屋にある酒蔵のようなところにまで女は遠ざけられていたことを想像して見るがいい。幾時代かの伝習はその抗しがたい手枷てかせ足枷あしかせで女をとらえた。そして、この国の女を変えた。遠い日本古代の婦人に見るような、あの幸福で自己をたのむことが厚い、種々さまざまな美しい性質の多くは隠れてしまった。

 こころみにまた、それらの不自由さの中にも生きなければならない当時の娘たちが、全く家に閉じこめられ、すべての外界から絶縁されていたことを想像して見るがいい。しかもこの外界との無交渉ということは、彼女らが一生涯の定めとされ、歯を染めを落としてかしずく彼女らが配偶者となる人の以外にはほとんど何の交渉をも持てなかったことを想像して見るがいい。こんなに深くこもり暮らして来た窓の下にいて、長い鎖国にもたとえて見たいようなその境涯から当時の若い娘たちが養い得た気風とは、いったい、どんなものか。言って見れば、早熟だ。

 馬籠旧本陣の娘とてもこの例にはもれない。祖母おまんのような厳格な監督者からお粂のやかましく言われて来たことは、夜のにまで及んでいた。それは
きぬたともいい御守殿ごしゅでんともいう木造りの形のものに限られ、その上でも守らねばならない教訓があった。固い小枕の紙の上で髪をこわさないように眠ることはもとより、目をつぶったまま寝返りは打つまいぞとさえ戒められて来たほどである。この娘が早く知恵のついた証拠には、「おゝ、耳がかゆい」と母親のそばに寄って、何かよい事を母親にきかせてくれと言ったのは、まだ彼女が十四、五の年ごろのことであった。この早熟は、ひとりお粂のような娘のみにかぎらない。彼女の周囲にある娘たちは十六ぐらいでも皆おとなだった。

 しかし、こんな娘たちの深い窓のところへも、この国全体としての覚醒かくせいを促すような御一新がいつのまにかこっそり戸をたたきに来た。あだかも燃ゆるがごとき熱望にみち、あたたかい情感にあふれ、あの昂然こうぜんとした独立独歩の足どりで、早くこの戸を明け放てと告げに来る人のように。過ぐる明治四年の十一月、岩倉大使一行にしたがって洋学修業のためはるばる米国へ旅立った五名の女子があるなぞはその一つだ。それは北海道開拓使から送られた日本最初の女子留学生であると言われ、十五歳の吉益亮子よしますあきこ嬢、十二歳の山川捨松やまかわすてまつ嬢なぞのいたいけな年ごろの娘たちで、中にはようやく八歳になる津田梅子つだうめこ嬢のような娘もまじっていたとか。大変な評判で、いずれも前もって渡された洋行心得書を懐中ふところにし、成業帰朝の上は婦女の模範ともなれとの声に励まされ、稚児髷ちごまげに紋付振袖ふりそでの風俗で踏み出したとのことであるが、横浜港の方にある第一の美麗な飛脚船、太平洋汽船会社のアメリカ号、四千五百トンからの大船がこの娘たちを乗せて動いて行ったという夢のような光景は、街道筋にいて伝え聞くものにすら、新世界の舞台に向かってかけ出そうとするこの国のあがきを感じさせずには置かなかった。追い追いと女学もお取り建ての時勢に向かって、欧米教育事業の視察の旅から帰って来た尾州藩出身の田中不二麿ふじまろが中部地方最初の女学校を近く名古屋に打ち建てるとのうわさもある。一方には文明開化の波が押し寄せ、一方には朝鮮征伐の声が激し、ふるい物と新しい物とが入れまじって、何がこの先見えて来るやかもわからないような暗い動揺の空気の中で、どうして娘たちの心ばかりそう静かにしていられたろう。

 九月にはいると、お粂が結婚のしたくのことについて、南殿村の稲葉の方からはすでにいろいろと打ち合わせがある。
嫁女よめじょ道中も三日がかりとして、飯田いいだ泊まりの日は伝馬町屋てんまちょうや。二日目には飯島いいじま扇屋おうぎや泊まり。三日目に南殿村着。もっとも、馬籠から飯田まで宿継ぎの送り人足を出してくれるなら、そこへ迎えの人足を差し出そうというようなことまで、先方からは打ち合わせが来ている。「お粂、よい晴れ着ができましたよ。どれ、おとっさんにもお目にかけて」。 お民は娘のために新調した結婚の衣裳いしょうを家の女衆に見せて、よろこんでもらおうとしたばかりでなく、それを店座敷にまで抱きかかえて行って、夫のいる部屋ふすまに掛けて見せた。男の目にも好ましい純白な晴れ着がその襖にかかった。二尺あまりの振袖からは、紅梅のような裏地の色がこぼれて、白と紅とのうつりも悪くなかったが、それにもまして半蔵の心を引いたのは衣裳全体の長さから受ける娘らしい感じであった。まんじくずしの紗綾形さやがた模様のついた白綾子しろりんずなぞに比べると、彼の目にあるものはそれほど特色がきわだたないかわりに、いかにも旧庄屋風情ふぜいの娘にふさわしい。色は清楚せいそに、情は青春をしのばせる。不幸にも、これほどお民の母親らしい心づかいからできた新調の晴れ着も、さほど娘を楽しませなかった。余すところはもはや二十日ばかり、結婚の日取りが近づけば近づくほど、ほとほとお粂は「笑い」を失った。
 七
 青山の家の表玄関に近いところではおさの音もしない。弟宗太のためにお粂が織りかけていた帯は仕上げに近かったが、はたの道具だけが板敷きのところに休ませてある。お粂も織ることにんだかして、そこに姿を見せない時だ。お民は囲炉裏いろりばたからこの機のそばを通って、廊下つづきの店座敷の方に夫を見に来た。ちょうど半蔵は部屋にいないで、前庭の牡丹ぼたんの下あたりを余念もなく掃いているところであった。「お民、お粂の吾家うちにいるのも、もうわずかになったね」と半蔵が竹箒たけぼうきを手にしながら言った。なんと言っても、人一人の動きだ。娘を無事に送り出すまでの親たちの心づかいも、容易ではなかった。ことに半蔵としては眼前の事にばかり心を奪われている場合でもなく、同門の先輩正香ですらややもすれば押し流されそうに見えるほど、進むにかたい時勢に際会している。この半蔵は庭下駄げたのまま店座敷の縁先に来て腰掛けながら、「おれもまあ、考えてばかりいたところでしかたがない。あの暮田さんを見送ってからというもの、毎日毎日学校から帰ると腕ばかり組んでいたぞ」と妻に言って見せる。

 お民の方でもそれはみて取った。彼女は山林事件当時の夫に懲りている。娘の嫁入りじたくもここまで来た上は、男に相談してもしかたのないようなことまでそう話しかけようとはしていない。それよりも、どんな着物を造ってくれても楽しそうな顔も見せないお粂の様子を話しに来ている。「でも、あの稲葉の家も、行き届いたものじゃありませんか」とお民が言い出した。「ごらんなさい、お粂が
かたづいて行く当日に、鉄漿親かねおやへ出す土産みやげの事まで先方から気をつけてよこして、反物たんもので一円くらいのことにしたいと言って来ましたよ。お粂に付き添いの女中もなるべくは省いてもらいたいが、もし付けてよこすなら、その人だけ四日前によこしてもらいたい、そんなことまで言って来ましたよ」。「四日前とはどういうつもりだい」。「そりゃ、あなた、式の当日となってまごつかないように、部屋に慣れて置くことでしょうに。よほどの親切がなけりゃ、そんなことまで先方から気をつけてよこすもんじゃありません。ありがたいと思っていい。あなたからもそのことをお粂によく言ってください」。「待ってくれ。そりゃおれからも言って置こうがね、いったい、この縁談はお粂だっていやじゃないんだろう。ただ娘ごころに決心がつきかねているだけのことなんだろう。おれの家じゃお前、おっかさん(おまんのこと)は神聖な人さ。その人があれならばと言って、見立ててくだすったお婿さんだもの、悪かろうはずもなかろうじゃないか」。「何にしても、ああ、お粂のように黙ってしまったんじゃ、どうしようもありませんよ。何を造ってくれても、よろこびもしない。わたしも一つあの子に言って聞かせるつもりで、このお嫁入りのしたくが少しぐらいのお金でできると思ったら、それこそ大違いだよ。こんなに皆が心配してあげる。お前だってよっぽど本気になってもらわにゃならないッて、ね。その時のあれの返事に、そうおっかさんのように心配してくださるな、わたしもおとっさんの娘です、そう言うんです」。「……」。「そうかと思うと、神霊みたまさまと一緒にいれば寂しくない、どうぞ神霊さま、わたしをお守りくださいなんて、そんなことを言い出すんです」。「……」。「まあ、あれでお粂も、お父さん思いだ。あなたの言うことならよく聞きますね。あなたからもよく言って聞かせてください」。「そうお民のように、心配したものでもなかろうとおれは思うよ。いざとなってごらん、お粂だって決心がつこうじゃないか」。

 半蔵は
下駄げたを脱ぎ捨てて、その時、店座敷の畳の上を歩き回った。庭の牡丹ぼたんへ来る風の音までがなんとなく秋めいて、娘が家のものと一緒に暮らす日の残りすくなになったことを思わせる。とかく物言いのたどたどしいあのお粂とても、彼女をこの世に育ててくれた周囲の人々に対する感謝を忘れるような娘でないことは、半蔵にもそれが感じられていた。それらの人々に対する彼女の愛情は平素のことがよくそれを語っていた。十八歳のその日まで、ただただいつくしみをもってめぐってくれる周囲の人々の心を落胆させてこころよしとするような、そんな娘でないことは半蔵もよく知って、その点にかけては彼も娘に心を許していたのである。

 今さら、朝鮮あたりの娘のことをここに引き合いに出すのもすこし突然ではあるが、
両班ヤンパンという階級の娘の嫁に行く夜を見たという人の話にはこんなことがある。赤、青、黄の原色美しい綾衣あやぎぬに、人形のように飾り立てられた彼女は、そこに生けるものとは思われなかったとか。飽くまで厚く塗り込められた白粉おしろいは、夜の光にむしろ青く、その目は固く眠って、その睫毛まつげがいたずらに長いように思われたとか。彼女は全く歩行する能力をも失ったかのようにして人々の肩にかつがれ、輿こしに乗せられて生贄いけにえを送るというふうに、親たちに泣かれてとついだのであった。きけば、彼女はその夜から三日の間は昼夜をわかたず、その目を開くことができないのであるという。それは開こうとしても開き得ないのであった。彼女の目は、上下の睫毛まつげを全くのりに塗り固められ(またある地方ではきわめて濃い、固いびんつけ油を用う)、閉じられているのであったという。これは何を意味するかなら、要するに「見るな」だ。風俗も異なり習慣も異なる朝鮮の両班ヤンパンと、木曾のふるい本陣とは一緒にはならないが、しかし青山の家でもやはりその「見るな」で、娘お粂に白無垢しろむくをまとわせ、白の綿帽子をかぶらせることにして、その一生に一度の晴れの儀式に臨ませる日を待った。すでに隣家伏見屋の伊之助夫婦からは、お粂のために心をこめた贈り物がある。桝田屋ますだやからは何を祝ってくれ、蓬莱屋ほうらいやからも何を祝ってくれたというたびに、めずらしいもの好きの弟たちまで大はしゃぎだ。しかし、かんじんのお粂はどうかすると寝たりなぞする。彼女は、北の上段のに人を避け、産土神うぶすなさまの祭ってある神殿に隠れて、うす暗くなるまでひとりでそこにすわっていることもある。行くものはさっさと行け。それを半蔵はいろいろなことで娘に教えて見せていたし、お民はまたお民で、土蔵のなかにしまってある古いひなまで娘に持たせてやりたいと言って、早くお粂の身を堅めさせ、自分も安心したいというよりほかの念慮も持たないのであった。

 こういう時の半蔵夫婦の相談相手は、栄吉(半蔵の
従兄いとこ)と清助とであった。例の囲炉裏ばたに続いたくつろぎのにはそれらの人たちが集まって、嫁女の同伴人はだれとだれ、供の男はだれにするかなぞとの前もっての相談があった。妻籠の寿平次の言い草ではないが、娘が泣いてもなんでも皆で寄って祝ってしまえ、したく万端手落ちのないように取りはからえというのが、栄吉らの意見だった。「半蔵さま、お粂さまの荷物はどうなさるなし」。そんなことを言って、峠村の平兵衛も半蔵を見にやって来る。周旋奔走を得意にするこの平兵衛は、旧組頭の廃止になった今でも、峠のおかしらで通る。「荷物か。荷物は式のある四、五日前に送り届ければいい。当日は混雑しないようにッて、先方から言って来た。荷回し人はおぼしめし次第だ、そんなことも言って来たが、中牛馬ちゅうぎゅうば会社に頼んで、飯田まで継立つぎたてにするのが便利かもしれないな」。半蔵の挨拶あいさつだ。

 九月四日は西が吹いて、風当たりの強いこの峠の上を通り過ぎた。
払暁あけがたはことに強く当てた。青山の家の裏にある稲荷いなりのそばのくりもだいぶ落ちた。お粂は一日はたに取りついて、ただただ表情のない器械のようなおさの音を響かせていたが、弟宗太のためにと丹精たんせいした帯地をその夕方までに織り終わった。そこへお民が見に来た。お粂も織ることは好きで、こういうことはかなり巧者にやってのける娘だ。まだあいの香のするようなその帯地の出来をお民もほめて、やがて勝手の方へ行ったあとでも、お粂はそこを動かずにいた。仕上げた機のそばに立つ彼女の娘らしいひたいつきは父半蔵そのままである。黒目がちな大きな目は何をみるでもない。じっとそこに立ったまましばらく動かずにいるこの娘の容貌ようぼうには、一日織った疲れに抵抗しようとする表情のほかに浮かぶものもない。涙一滴流れるでもない。しかもその自分で自分のたもとをつかむ手は堅く握りしめて、震えるほど力を入れていた。無言の悲しみをおさえるかのように。

 その晩はもはや
よいから月のあるころではなかった。店座敷の障子にあの松の影の映って見えたころは、毎晩のようにお粂もよく裏庭の方へ歩きに出て、月の光のさし入った木の下なぞをあちこちあちこちとさまよった。それは四、五日前のことでお民も別に気にもとめずにいた。その晩のように月の上るのもおそいころになって、また娘が勝手口の木戸から屋外そとへ歩きに出るのを見ると、お民は嫁入り前のからだに風でも引かせてはとの心配から、土間にある庭下駄もそこそこに娘を呼びしに出た。底青く光る夜の空よりほかにお民の目に映るものもない。勝手の流しもとの外あたりでは、しきりに虫がなく。「お粂」。その母親の呼び声を聞きつけて、娘は暗い土蔵の前のの木の下あたりから引き返して来た。その翌日も青山の家のものは事のない一日を送った。夕飯後のことであった。下男の佐吉は裏の木小屋に忘れ物をしたと言って、それを取りに囲炉裏ばたを離れたぎり容易に帰って来ない。そのうちに引き返して来て、彼がめて置いたはずの土蔵の戸が閉まっていないことを半蔵にもお民にも告げた。その時は裏の隠居所から食事に通うおまんもまだ囲炉裏ばたに話し込んでいた。見ると、お粂がいない。それから家のものが騒ぎ出して、半蔵と佐吉とは提灯ちょうちんつけながら土蔵の方へ急いだ。おまんも、お民もそのあとに続いた。暗い土蔵の二階、二つ並べた古い長持のそばに倒れていたのは他のものでもなかった。自害を企てた娘お粂がそこに見いだされた。[#改頁]




(私論.私見)