夜明け前第二部下の1、第八章

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


関連サイト 原書研究 衝撃の誤訳指摘
【サイトアップ協力者求む】 文意の歪曲改竄考

【島崎藤村/夜明け前第二部下の1、第八章】
 一
 はは刀自とじ枕屏風まくらびょうぶ
 いやしきもたかきもなべて夢の世をうら安くこそ過ぐべかりけれ
 
花紅葉はなもみじあはれと見つつはるあきを心のどけくたちかさねませ
 おやのよもわがよも
おいをさそへども待たるるものは春にぞありける

 新しく造った小屏風がある。娘お
くめがいる。長男の宗太そうたがいる。継母おまんは屏風の出来をほめながら、半蔵の書いたものにながめ入っている。そこいらには、いたずらざかりな三男の森夫もりおまでが物めずらしそうにのぞきに来ている。そこは馬籠の半蔵の家だ。ただの住宅としてはもはや彼の家も広過ぎて、いたずらに修繕にのみ手がかかるところから、ふるい屋敷の一部は妻籠本陣同様取りくずして桑畠くわばたけにしたが、その際にもき父吉左衛門きちざえもんの隠居所だけはそっくり残して置いてある。おまんはその裏二階から桑畠のわきの細道を歩いて、食事のたびごとに母屋もやの方へとかよって来ている。その年、明治六年の春はおまんもすでに六十五歳の老婦人であるが、吉左衛門を見送ってからは髪も切って、さびしい日を隠居所に送っているので、この継母を慰めるために半蔵は自作の歌を紙に書きつけ、それを自意匠じいしょうの屏風に造らせたのであった。高さ二尺あまりほどのものである。杉柾すぎまさの緑と白い紙の色との調和も、簡素を愛する彼の好みをあらわしていた。これを裏二階のすみにでも置いて戸障子のすきまから来る風のふせぎとしてもよし、風邪にでも冒された日の枕もとに置いておとなう人もない時の友としてもよし、こんな彼の言葉も継母をよろこばせるのであった。

 ちょうど、お民も妻籠
生家さとの方へ出かけてまだ帰って来ない時である。半蔵のそばへ来て祖母たちと一緒に屏風の出来をいろいろに言って見るお粂も、もはや物に感じやすい娘ざかりの年ごろに達している。彼女は、母よりも父を多くうけついだ方で、その風俗なりなぞも嫁入り前の若さとしてはひどく地味づくりであるが、えりのところには娘らしい紅梅の色をのぞかせ、それがまた彼女によく似合って見えた。彼女はまた、こうした父の意匠したものなぞにことのほかのおもしろみを見つける娘で、これを父が書く時にも、そのそばに来て墨をすろうと言い、紙にむかって筆を持った父の手から彼女の目を放さなかったくらいだ。もともとこの娘の幼い時分から親の取りきめて置いた許嫁いいなずけを破約に導いたのも、一切のものを根からくつがえすような時節の到来したためであり、これまでどおりの家と家との交際もおぼつかないからというのであって、ふるい約束事なぞは大小となく皆押し流された。小さな彼女の生命いのちが言いあらわしがたい打撃をこうむったのも、その時であった。でも、彼女はそうしおれてばかりいるわけでもない。祖母のためにと父の造った屏風なぞができて見ると、彼女はその深傷ふかでの底からたち直ろうとして努めるもののごとく平素の調子に帰って、娘らしい笑い声で父の心までも軽くさせる。

 実に久しぶりで、半蔵は家のものと一緒にこんな時を送った。かねて長いこと心がけたあげくにできた隠居所向きの小屏風のそばなぞにわずかの休息の時を見つけるすら、彼にはめずらしいことであった。二月のはじめ以来、彼がその
ふところ筑摩ちくま県庁あての嘆願書の草稿を入れた時から、あちこちの奔走をつづけていて、ほとんど家をかえりみるいとまもなかったような人である。この奔走が半蔵にとって容易でなかったというは、戸長(旧庄屋しょうやの改称)としての彼が遠からずやって来る地租改正を眼前に見て、助役相手にとかくはかの行かない地券調べのようなめんどうな仕事を控えているからであった。一方にはまた、学事掛りとしても、村の万福寺の横手に仮校舎の普請の落成するまで、さしあたり寺内を仮教場にあて、従来寺小屋を開いていた松雲和尚しょううんおしょうを相手にして、できるだけ村の子供の世話もしなければならないからであった。子弟の教育は年来の彼のこころざしであったが、まだ設備万端整わなかった。そういう彼は事を好んでこんな奔走をはじめたわけではない。これまで庄屋で本陣問屋を兼ねるくらいのところは荒蕪こうぶを切り開いた先祖からの歴史のある旧家に相違なく、三百年の宿村しゅくそんの世話と街道の維持とに任じて来たのも、そういう彼らである。いよいよ従来の旧習を葬り去るような大きな革新の波が上にも下にも押し寄せて来た時、彼らもまた父祖伝来の家業から離れねばならなかったが、その際、報いらるることの少ない彼らの中には、もっと強く出てもいいと言い出したものがあり、この改革に不平をいだいて、謹慎閉門の厳罰に処せられた庄屋問屋も少なくなかったくらいであるが、しかし半蔵なぞはそういう古い事に拘泥こうでいすべき場合でないとして、いさぎよく自分らをあと回しにしたというのも、決してほかではない。あの東征軍が江戸城に達する前日を期して、陛下が全国人民に五つのお言葉を誓われたことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。あのお言葉こそすべてであった。ところが、地方の官吏にその人を得ないため、せっかくの御誓文ごせいもんの趣旨にも添いがたいようなことが、こんな山の中に住むものの目の前にまで起こって来た。それは木曾川きそがわ上流の沿岸から奥筋へかけての多数の住民の死活にもかかわり、ただ一地方の問題としてのみ片づけてしまえないことであった。それが山林事件だ。
 二
 「海辺の住民は今日漁業と採塩とによって衣食すると同じように、山間居住の小民にもまた樹木鳥獣の利をもって渡世を営ませたい。いずこの海辺にも漁業と採塩とに御停止と申すことはない。もっとも、海辺に殺生禁断の場処があるように、山中にも留山とめやまというものは立て置かれてある。しかし、それ以外の明山あきやまにも、この山中には御停止木おとめぎととなえて、伐採を禁じられて来た無数の樹木のあるのは、恐れながら庶民を子とする御政道にもあるまじき儀と察したてまつる」。これは木曾谷三十三か村の総代十五名のものが連署して、過ぐる明治四年の十二月に名古屋県の福島出張所に差し出した最初の嘆願書の中の一節の意味である。山林事件とは、この海辺との比較にも言って見せてあるように、最初は割合に単純な性質のものであった。従来尾州びしゅう領であったこの地方では、すべてにわたり同藩保護の下に発達して来たようなもので、各村とも榑木御切替くれきおきりかえととなえて、年々の補助金を同藩より受け、なお、補助の目的で隣国美濃の大井村その他の尾州藩管下の村々から輸入されて来る米の代価も、金壱両につき年貢金納ねんぐきんのう値段よりも五升安の割合で、それも翌年の十二月中に代金を返済すればいいほどの格別な取り扱いを受けて来た。

 
いよいよ廃藩置県が実現され、一藩かぎりで立てて置いた制度もすべて改革される日が来て見ると、明治四年を最後としてこれらの補助を廃止する旨の名古屋県からの通知があり、おまけに簡易省略の西洋流儀に移った交通事情の深い影響をうけて、木曾路を往来する旅人からも以前のようには土地を潤してもらえなくなった。この事情を当局者にくんでもらって、今度の改革を機会に享保きょうほう以前のいにしえに復し、木曾谷中の御停止木おとめぎを解き、山林なしには生きられないこの地方の人民を救い出してほしい。これが最初の嘆願書の趣意であった。その起草にも半蔵が当たった。彼らがこれを持ち出したのは、木曾地方もまさに名古屋県の手を離れようとしたころで、当時は民政権判事ごんはんじとしての土屋総蔵もまだ在職したが、ちょうど名古屋へ出かけた留守の時であった。そこでこの願書は磯部弥五六いそべやごろくが取り次ぎ、岩田市右衛門いわたいちえもんお預かりということになった。いずれ土屋権大属ごんだいぞく帰庁の上で評議にも及ぶであろう、それまではまずまず預かり置く、そんな話で、王滝おうたき贄川にえがわ藪原やぶはらの三か村から出た総代と共に、半蔵は福島出張所から引き取って来た。もし土屋総蔵のような理解のある人に今すこしその職にとどまる時を与えたらと、谷中の戸長仲間でそれを言わないものはなかった。不幸にも、総蔵は筑摩県の官吏らに一切を引き渡し、前途百年の計をあとから来るものに託して置いて、多くの村民に惜しまれながらこの谷を去った。

 木曾地方が筑摩県の管轄に移されたのは、それから間もなくであった。明治五年の二月には松本を所在地とする新しい県庁からの申し渡し、ならびに
布令書ふれがきなるものが、早くもこの谷中へ伝達されるようになった。とりあえず半蔵らはその請書うけしょしたため、ついでにこの地方の人民が松本辺の豊饒ほうじょうな地とも異なり深山幽谷の間に居住するもののみであることを断わり、宿場しゅくば全盛の時代を過ぎた今日となっては、茶屋、旅籠屋はたごやをはじめ、小商人こあきんど、近在のすみまき等をまかなうものまでが必至の困窮に陥るから、この上は山林の利をもって渡世を営む助けとしたいものであると、その請書を出す時には御停止木のことに触れ置いてあった。当時の信濃の国は長野県と筑摩県との二つに分かれ、筑摩県の管轄区域は伊那の谷から飛騨地方にまで及んでいた。本庁所在地松本以外の支庁も飯田いいだ高山たかやまとにしか取り設けてなかったほどの草創の時で、てんで木曾福島あたりにはまだ支庁も置かれなかった。遠い村々から松本までは二十里、三十里である。何事を本庁に届けるにもその道を踏まねばならぬ。それだけでも人民疾苦の種である。半蔵らの請書はその事にも言い及んであった。東北戦争以来、すでにそのころは四年の月日を過ぎ、一藩かぎりの制度も改革されて、徳川旧幕府の人たちですら心あるものは皆待ち受けていた新たな郡県の時代が来た。これは山間居住の民にとっても見のがせない機会であったのだ。

 もともとこの山林事件は明治初年にはじまった問題でもなく、実は旧領主と人民との間に続いた長い紛争の種で、御停止木のことは木曾谷第一の苦痛であるとされていた。こんなに明治になってまた
き返って来たというのも決して偶然ではない。それは宿村の行き詰まりによることはもちろんであるが、一つには明治もまだその早いころで、あらゆるものに復古の機運が動いていたからであった。当時、深い草叢くさむらの中にあるものまでが時節の到来を感じ、よりよい世の中を約束するような新しい政治を待ち受けた。従来の陋習ろうしゅうを破って天地の公道に基づくべしと仰せ出された御誓文の深さは、どれほどの希望を多くの民にいだかせたことか。半蔵らが山林に目をつけ、今さらのように豊富な檜木ひのきさわら明檜あすひ高野槇こうやまき、それからねずこ[#「木+鑞のつくり」、13-1]などの繁茂する森林地帯の深さに驚き、それらのみずみずしい五木がみな享保年代からの御停止木であるにも驚き、そこに疲弊した宿村の救いを見いだそうとしたことは無理だったろうか。彼らが復古のできると思った証拠には、最初の嘆願書にも御誓文の中の言葉を引いて、厚い慈悲を請う意味のことを書き出したのでもわかる。

 やがて、筑摩県の支庁も木曾福島の方に設けられ、
権中属ごんちゅうぞくの本山盛徳が主任の官吏として木曾の村々へ派出される日を迎えて見ると、この人はまた以前の土屋総蔵なぞとは打って変わった態度をとった。もしも人民の請いをいれ、木曾山を解き放ち、制度を享保以前の古に復し、これまで明山あきやまととなえて来た分は諸木何品に限らず百姓どもの必要に応じてり採ることを許したなら、せっかく尾州藩で保護して来た鬱蒼うっそうとした森林はたちまち禿山はげやまに変わるであろうとの先入主となった疑念にでもとらわれたものか、本山盛徳は御停止木の解禁なぞはもってのほかであるとなし、木曾谷諸村の山地はもとより、五種の禁止木のあるところは官木のあるところだとの理由の下に、それらの土地をもあわせすべて官有地と心得よとのむねを口達した。この福島支庁の主任が言うようにすれば、五木という五木の生長するところはことごとく官有地なりとされ、従来の慣例いかんにかかわらず、官有林に編入せられることになる。これには人民一同狼狽ろうばいしてしまった。
 過ぐる月日の間、半蔵はあちこちの村々から腰縄付こしなわつきで引き立てられて行く不幸な百姓どもを見て暮らした。人民入るべからずの官有林にはいって、盗伐の厳禁を犯すものが続出した。これをその筋の人に言わせたら、規則の何たるをわきまえない無知と魯鈍ろどんとから、村民自ら犯したことであって、さらに寛恕かんじょすべきでないとされたであろう。それにつけても、まだ半蔵には忘れることのできないずっと年若な時分の一つの記憶がある。馬籠村じゅうのものが吟味のかどで、かつて福島から来た役人に調べられたことがある。それは彼の本陣の家の門内で行なわれた。広い玄関の上段には、役人の年寄としより用人ようにん書役かきやくなどが居並び、式台のそばには足軽あしがるが四人も控えた。村じゅうのものがそこへ呼び出された。六十一人もの村民が腰縄手錠で宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。七十歳以上の老年は手錠を免ぜられ、すでに死亡したものは遺族の「おしかり」ということにとどめられたが、それも特別の憐憫れんびんをもってと言われたのも、またその時だ。

 そのころの半蔵はまだ十八歳の若さで、庭のすみのなしの木のかげに隠れながらのぞき見をしていたために、父吉左衛門からしかられたことがある。そんなにたくさんなけが人を出したことも、村の歴史としてはかつて聞かなかったことだと父も言っていた。彼はあの役人たちが吟味のために村に入り込むといううわさでも伝わると、あわてて不用の材木を焼き捨てた村の人のあったことをおもい起こすことができる。「昔はこの木曾山の木一本ると、首一つなかったものだぞ」なぞと言って、陣屋の役人からおどされたのもあの時代だ。それほど暗いと言わるる過去ですら、明山あきやまは五木の伐採を禁じられていたにとどまる。その厳禁を犯さないかぎり、村民は意のままに山中を跋渉ばっしょうして、雑木を伐採したり薪炭しんたんの材料を集めたりすることができた。今になって見ると、御停止木の解禁はおろか、尾州藩時代に許されたほどの自由もない。家を出ればすぐ官有林のあるような村もある。寒い地方に必要な薪炭ややせた土をつちかうための芝草を得たいにも、近傍付近は皆官有地であるような場所もある。木曾谷の人民は最初からの嘆願を中止したわけでは、もとよりない。いかに本山盛徳の鼻息が荒くとも、こんな過酷な山林規則のお請けはできかねるというのが人民一同の言い分であった。耕地も少なく、農業も難渋で、生活の資本もとでを森林に仰ぎ、檜木笠ひのきがさ、めんぱ(割籠わりご)、お六櫛ろくぐしたぐいを造って渡世とするよりほかに今日暮らしようのない山村なぞでは、ほとんど毎戸かわるがわる腰縄付きで引き立てられて行くけが人を出すようなありさまになって来た。半蔵らが今一度嘆願書の提出を思い立ち、三十三か村の総代として直接に本県へとこころざすようになったのも、この郷里のありさまを見かねたからである。

 この再度の奔走をはじめる前、半蔵のしたくはいろいろなことに費やされた。明治五年の二月に、彼は早くも筑摩県庁あて嘆願書の下書きを用意したが、いかに言っても郡県の政治は始まったばかりの時で、
種々さまざまな事情から差し出すことを果たさなかった。それからちょうど一年待った。明治六年の二月まで、彼は古来の沿革をたずねることや、古書類をさがすことに自分のしたくを向けた。ある村の惣百姓そうひゃくしょう中から他村の衆にあてた証文とか、ある村の庄屋組頭くみがしらから御奉行所に出した一札とか、あるいは四か村の五人組総代から隣村の百姓衆に与えた取り替え証文とかいうふうに。さがせばさがすほど、彼の手に入る材料は、この古い木曾山が自由林であったことを裏書きしないものはなかった。言って見れば、この地方の遠いいにしえは山にたよって樵務きこりを業とする杣人そまびと、切り畑焼き畑を開いてひえ蕎麦そば等の雑穀を植える山賤やまがつ、あるいは馬を山林に放牧する人たちなぞが、あちこちの谷間たにあいに煙を立てて住む世界であったろう。追い追いと人口も繁殖する中古のころになって、犬山の石川備前守いしかわびぜんのかみがこの地方の管領であった時に、谷中村方むらかたの宅地と開墾地とには定見取米じょうみとりまい、山地には木租ぼくそというものを課せられた。もとより米麦に乏しい土地だから、その定見取米も大豆や蕎麦やひえなどで納めさせられたが、年々おびただしい木租を運搬したり、川出ししたりする費用として、貢納の雑穀も春秋二度に人民へ給与せられたものである。

 さて、徳川治世のはじめになって、この谷では幕府直轄の代官を新しい主人公に迎えて見ると、それが山村氏の祖先であったが、諸事石川備前守の旧例によることには変わりはなかった。
慶長けいちょう年代のころには定見取米を御物成おものなりといい、木租を御役榑おやくくれという。名はどうあろうとも、その実は同じだ。この貢納の旧例こそは、何よりも雄弁に木曾谷山地の歴史を語り、一般人民が伐木と開墾とに制限のなかったことを証拠立てるものであった。もっとも、幕府では木租の中をいて、白木しらき六千を木曾の人民に与え、白木五千駄を山村氏に与え、別に山村氏には東美濃地方に領地をも与えて、幕府に代わって東山道中要害の地たる木曾谷と福島の関所とをまもらせた。それより後、この谷はさらに尾州の大領主の手に移り、山村氏が幕府直轄を離れて名古屋の代官を承るようになって、尾州藩では山中の区域を定める方針を立てた。巣山すやま留山とめやま明山あきやまの区別は初めてその時にできた。巣山と留山とは絶対に人民のはいることを許さない。しかし明山は慶長年間より享保八年まで連綿として人民が木租を納め来たった場所であるからと言って、自由に入山いりやま伐木を許し、なお、木租の上納を免ずる代償として、許可なしに五木を伐採することを禁じたのである。

 こんな動かせない歴史がある。半蔵はそれらの事実から、さらにこの地方の真相を探り求めて、いわゆる木曾谷中の
御免檜物荷物ごめんひのきものにもつなるものに突き当たった。父吉左衛門が彼に残して行った青山家の古帳にも、そのことは出ている。それは尾州藩でも幕府直轄時代からの意志を重んじ、年々山から伐り出す檜類のうち白木六千駄を谷中の百姓どもに与えるのをさす。それを御免荷物という。そのうちの三千駄は檜物御手形ひのきものおてがたととなえて人民の用材に与え、残る三千駄は御切替おきりかえととなえて、この分は追い追いと金に替えて与えた。彼が先祖の一人の筆で、材木通用の跡をしるしつけた御免荷物の明細書によると、毎年二百駄ずつの檜、さわらの類は馬籠村民にも許されて来たことが、その古帳の中に明記してある。尾州藩ですらこのとおり、山間居住の容易でないことを察し、人民にわかち与えることを忘れなかった。郡県とも言わるる時代の上に立つものが改革の実をあげようとするなら、深くこの谷を注目し、もっと地方の事情にも通じて、生民の期待に添わねばなるまいと彼には思われた。

 嘆願書はできた。二月はじめから四月まで、半蔵はあちこちの村を
たずね回って、戸長らの意見をまとめることに砕心した。草稿の修正を求める。清書する。手を分けて十五人の総代の署名と調印とを求めに回る。いよいよ来たる五月十二日を期して、贄川にえがわ藪原やぶはら王滝おうたき馬籠まごめの四か村から出るものが一同に代わって本庁の方へ出頭するまでの大体の手はずをきめる。彼も心から汗が出た。この上は、御嶽山麓おんたけさんろくの奥にある王滝村を訪ねさえすれば、それで一切の打ち合わせを終わるまでにこぎつけた。彼はそれを早く済まして来るつもりで、自分の村方の用事を取りかたづけ、学校の子供の世話は松雲和尚に頼み、今は妻の帰りを待って王滝の方へ出かけられるばかりになった。こういう中で、彼は自分のそばへ来る娘の口から、ちょっと思いがけないことを聞きつけないでもなかった。「おとっさん、おねがいですから、わたしもお供させて」。そのこころは、父の行く寂しい奥山の方へ娘の足でもついて行かれないことはあるまいというにあるらしい。これには半蔵も返事にこまった。いろいろにおくめを言いなだめた。娘も妙なことを言うと彼は思ったが、あれもこれもと昼夜心を砕いた山林の問題が胸に繰り返されていて、お粂の方で言い出したことはあまり気にも留めなかった。
 三
 お民は妻籠生家さとの話を持って、和助やお徳を連れながらそこへ帰って来た。「お民、寿平次さんはなんと言っていたい」。「木曾山のことですか。兄さんはなんですとさ、支庁のお役人がかわりでもしないうちはまずだめですとさ」。「へえ、寿平次さんはそんなことを言っていたかい」。半蔵夫婦はこんな言葉をかわしたぎり、ゆっくり話し合う時も持たない。妻籠土産みやげ風呂敷包ふろしきづつみが解かれ、これは宗太に、これは森夫にと、留守居していた子供たちをよろこばせるような物が取り出されると、一時家じゅうのものは妻籠の方のうわさで持ち切る。妻籠のおばあさんからお粂にと言って、お民は紙に包んだ美しい染め糸なぞを娘の前にも取り出す。お徳の背中からおろされた四男の和助はその皆の間をはい回った。

 半蔵はすでに村の髪結い直次を呼び寄せ、伸びた
ひげまでらせて妻を待ち受けているところであった。すずおきな以来、ゆかりの色の古代紫は平田派の国学者の間にもてはやされ、先師の著書もすべてその色の糸でじられてあるくらいだが、彼半蔵もまたその色を愛して、直次のいてくれたのを総髪そうがみにゆわせ、好きな色のひもを後ろの方に結びさげていた。吉左衛門の時代から出入りする直次は下女のお徳の父親に当たる。「お民、おれは王滝の方へ出かけるんだぜ」。それをみんなまで言わせないうちに、お民は夫の様子をみて取った。妻籠の兄を見て来た目で、まったく気質のちがった夫の顔をながめるのも彼女だ。その時、半蔵は店座敷の方へ行きかけて、「おれは、いつでも出かけられるばかりにして、お前の帰りを待っていたところさ。お前の留守に、おっかさんの枕屏風まくらびょうぶもできた」。そういう彼とても、娘の縁談のことでわざわざ妻籠まで相談に行って来たお民と同じ心配を分けないではない。年ごろの娘を持つ母親の苦労はだれだって同じだと言いたげなお民の顔色を読まないでもない。まだお粂にあわない人は、うわさにだけ聞いて、どんなやせぎすな、きゃしゃな子かと想像するが、あって見て色白なふとったからだつきの娘であるには、思いのほかだとよく人に言われる。そのからだにも似合わないようないたみやすい小さなたましいが彼女の内部なかには宿っていた。お粂はそういう子だ。父祖伝来の問屋役廃止以来、本陣役廃止、庄屋役廃止と、あの三役の廃止がしきりに青山の家へ襲って来る時を迎えて見ると、女一生の大事ともいうべき親のさだめた許嫁いいなずけまでが消えてゆくのを見た彼女は、年取った祖母たちのように平気でこの破壊の中にすわってはいられなかった子だ。伊那の南殿村、稲葉の家との今度の縁談がおまんの世話であるだけに、その祖母に対しても、お粂は一言ひとこと口出ししたこともない。半蔵らの目に映るお粂はただただひとり物思いに沈んでいる娘である。

 ふと、半蔵は歩きながら思い出したように、店座敷の方へ通う廊下の板を
った。机の上にも、床の間にも、古書類が積み重ねてある自分の部屋へ行ってから、また彼は山林の問題を考えた。「あれはああと、これはこうと」。半蔵のひとり言だ。
 隣家からは陰ながら今度の嘆願書提出のことを心配してたずねて来る伏見屋の伊之助があり、妻籠までお民が相談に行った話の様子も聞きたくて、その日の午後のうちには半蔵も馬籠を立てそうもなかった。伊之助は福島支庁の主任のやり口がどうもに落ちないと言って、いろいろな質問を半蔵に出して見せた。たとえば、この村々にひのき類のあるところは人民の私有地たりともことごとく官有地に編み入れるとは。また、たとえば、しいてそれを人民が言い立てるなら山林から税を取るが、官有地にして置けばその税も出さずに済むとはのたぐいだ。

 廃藩置県以来、一村一人ずつの
山守やまもり、および留山とめやま見回りも廃されてから、伊之助もその役から離れて帯刀と雑用金とを返上し、今では自家の商業に隠れている。この人は支庁主任の処置を苦々にがにがしく思うと言い、木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわることを黙って見ていられるはずもないが、自分一個としてはまずまず忍耐していたいと言って帰って行く。やがて、夕飯にはまだすこし間のあるころに、半蔵は妻と二人ぎりで店座敷に話すことのできる時を見つけた。「いや、お粂のやつが妙なことを言い出した」とその時、半蔵は娘のことをお民の前に持ち出した。彼はその言葉をついで、「何さ。おれが王滝へ行くなら、あれも一緒に供をさせてくれと言うんさ」。「まあ」。「御嶽里宮おんたけさとみやのことはあれも聞いて知ってるからね、何かお参りでもしたいようなあれの口ぶりさ」。「そんな話はわたしにはしませんよ」。「あれも思い直したんだろう。なんと言ってもお粂もまだ若いなあ。おれがあのおとっさんの病気をいのりに行った時にも、勝重かつしげさんが一緒について行くと言って困った。あの時もおれは清助さんに止められて、あんな若い人を一緒に参籠さんろうに連れて行かれますかッて言われた。それでも勝重さんは行きたいと言うもんだから、しかたなしに連れて行った。懲りた。今度はおれ一人だ。それに娘なぞを連れて行く場合じゃない。ごらんな、十八やそこいらで、しかも女の足で、あんなお宮の方へ行かれるものかね。ばかなッて、おれはしかって置いたが」。「まあ、嫁入り前のからだで、どうしてそんな気になるんでしょう」。

 夫婦の間にはこんな話が出る。お民はわざわざ妻籠まで行って来た娘の縁談のことをそこへ言い出そうとして、幾度となく口ごもった。相談らしい相談もまとまらずじまいに帰って来たからであった。半蔵の方で聞きたいと思っていたことも、それについての妻籠の人たちの意見であるが、お民はまず
生家さとに着いた時のことから、あの妻籠旧本陣の表庭に手造りの染め糸をしていたおばあさんやお里を久しぶりに見た時のことからその話を始める。着いた日の晩に、和助を早く寝かしつけて置いて、それからおばあさんや兄やあによめと集まったが、お粂のようすを生家さとの人たちの耳に入れただけで、その晩はまだ何も言い出せなかったという話になる。「フム、フム」と言って聞いていた半蔵は話の途中でお民の言葉をさえぎった。「つまり、おばあさんたちはどう言うのかい」。「まあ、兄さんの意見じゃ、この縁談はすこし時がかかり過ぎたと言うんですよ。もっとずんずん運んでしまうとよかったと言うんですよ」。「いや、おれは今、そんなことを聞いてるんじゃない。つまり、どうすればいいかッて聞いてるんさ」。「ですから、お里さんの言うには、まだ御祝言ごしゅうげんには間もあることだし、そのうちにはお粂の気も変わるだろうから、もうすこし様子を見るがいいと言うんですよ。そうはっきりした考えがお粂の年ごろにあるもんじゃない。お里さんはその意見です。気に入った小袖こそででも造ってくれてごらん、それが娘には何よりだッて、おばあさんも言っていました」。

 そんな話から、お民は娘のためにどんな着物を選ぼうかの相談に移って行った。幸い京都
麩屋町ふやまち伊勢久いせきゅうは年来懇意にする染め物屋であり、あそこの養子も注文取りに美濃路を上って来るころであるから、それまでにあつらえる品をそろえて置きたいと言った。どんな染め模様を選んだら、娘にも似合って、すでに結納ゆいのうの品々まで送って来ている南殿村の人たちによろこんでもらえるだろうかなぞの相談も出た。「そういうこまかいことは、おっかさんやお前によろしく頼む」。「あなたはそれだもの。なんにもあなたは相談してくださらない」。「そんなお前のようなことを言ったって、おれだって、今――」。「そりゃ、あなたのいそがしいぐらい、知ってますよ。あなたのように一つ事に夢中になる人を責めたってしかたない。まあ、する事をしてください。お粂のしたくはお母さんと二人でよく相談します。あなたはいったい、わたしの話すことを聞いているんですか……」。

 それぎりお民は口をつぐんでしまって、半蔵のそばに畳を見つめたぎり、身動きもしなかった。長いこと夫婦は沈黙のままで相対していた。奥の部屋の方に森夫らのけんかする声を聞きつけて、やっとお民はその座を立ち、自分の子供を見に行った。いつものように夕飯の時が来ると、家のもの一同広い囲炉裏ばたに集まったが、旧本陣時代からの習慣としてその囲炉裏ばたには家長から下男までの定められた席がある。子供らの食事する席にも
年齢としの順がある。やがて隠居所からかよって来るおまんをはじめ、一日の小屋仕事を終わった下男の佐吉までがめいめいの箱膳はこぜんを前に控えると、あちらからもこちらからも味噌汁なぞを給仕するお徳の方へ差し出す。お民は和助をそばに置いて、黙って食った。半蔵は継母の顔をながめ、姉娘のお粂が弟たちと並んでいる顔をながめ、それからお民の顔をながめて、これも黙って食った。その晩、彼は店座敷の方にいて、翌朝王滝へ出かけるしたくなぞしたが、ろくろく口もきかないでいるお民をどうすることもできなかった。

 実に
些細ささいなことが人をいたませる。彼に言わせると、享保以前までの彼の先祖はみな無給で庄屋を勤めて来たくらいで、村の肝煎きもいりとも百姓の親方とも呼ばれたものである。その家に生まれた甲斐かいには、せめてこういう時の役に立ちたいものだとは、日ごろの彼の願いであって、あえておろそかにするつもりで妻子を顧みないではないのにと、彼はこれまで用意した嘆願書を筑摩県本庁の方へ持ち出しうる日のことを考えて、わずかに心を慰めようとした。木曾谷中に留山と明山との区別もなかった時分の木租のことを万一本庁の官吏から尋ねられた場合にはと、自分で自分に問うて見る。それに答えることは、そう困難でもなかった。ずっと以前の山地に檜榑ひのきくれ二十六万八千余ちょう土居どい四千三百余の木租を課せられた昔もあるが、しかもその木租のおびただしい運搬川出し等の費用として、人民の宅地その他の課税は差し引かれたも同様に給与せられたと答えることができた。その晩は、彼は香蔵からもらった手紙をももとに取り出し、あの同門の友人が書いてよこした東京の便りを繰り返し読んで見たりなぞして、きげんの悪い妻のそばに寝た。

 王滝行きの日は半蔵は早く起きて、
きかえるような四月の朝の空気を吸った。お民もまたきげんを直しながら夫が出発のしたくを手伝うので、半蔵はそれに力を得た。彼は好きで読む歌書なぞを自分の懐中ふところへねじ込んだ。というは、戸長の勤めの身にもわずかのひまを盗み、風雅に事寄せ、歌の友だちをたずねながら、この総代仲間の打ち合わせを果たそうとしたからであった。「どうだ、お民。だれかに途中であって、どちらへなんて聞かれたら、おれはこの懐中ふところをたたいて見せる」と彼は妻に言って見せた。そういう彼ははかまを着け、筆を携え、腰に笛もさしていた。「まあ、おもしろい格好だこと」とお民は言って、そこへ飛んで来た娘にも軽々とした夫のみなりをさして見せて、「お粂、御覧な、おとっさんは笛を腰にさしてお出かけだよ」。「はッ、はッ、はッ、はッ」。半蔵は妻の手からかさを受け取りながら笑った。「お粂、王滝のお宮の方へ行ったら、お前の分もお参りして来てやるよ」との言葉を彼は娘にも残した。

 したくはできた。そこで半蔵は
飄然ひょうぜんと出かけた。戸長の旅費、一日十三銭の定めとは、ちょっと後世から見当もつかない諸物価のかけ離れていた時代だ。それも戸敷割でなしに、今度は彼が自分まかないの小さな旅だった。馬籠から妻籠まで行って、彼はお民の生家さとへ顔を出し、王滝行きの用件を寿平次にも含んで置いてもらって、さらに踏み慣れた街道を奥筋へと取った。妻籠あたりで見る木曾谷は山から伐り出す材木をいかだに組んで流す冬期の作業のための大切な場所の一つにも当たる。その辺まで行くと、薄濁りのした日も緑色にうつくしい木曾川の水が白い花崗みかげの岩に激したり、石を越えたりして、大森林の多い川上の方から瀬の音を立てながら渦巻うずまき流れて来ている。
 四
  「老先生へも久しくお便りしない」。野尻泊まりでまた街道を進んで行くうちに、半蔵はそんなことを胸に浮かべた。馬籠を立ってから二日目の午後のこと、街道を通る旅人もすくなくない。を背中にのせた旅の芸人なぞは彼のそばを行き過ぎつつある。あくせくとしたその奔走の途中にふと彼は同門の人たちの方へ思いをせ、師平田鉄胤かねたねの周囲にある先輩らをも振り返って見た。木と木と重なり合う対岸の森の深さが、こちらの街道から見られるようなところだ。「及ばずながら、自分も復古のために働いている」。その考えが彼を励ました。彼も、師を忘れてはいなかった。

 家に置いて来た娘お粂のことも心にかかりながら、半蔵はその足で木曾の
かけはし近くまで行った。そこは妻籠あたりのような河原かわらの広い地勢から見ると、ずっと谷のせばまったところである。木曾路での水に近いところである。西よりする旅人は道路に迫ったがけに添い、湿っぽい坂を降りて行って、めずらしい草やこけなどのはえている岩壁の下の位置に一軒の休み茶屋を見いだす。半蔵もそこまで行って汗をふいた。偶然にも、通弁の男を連れ、荷物をつけた馬を茶屋の前にめて、半蔵のそばへ来て足を休める一人の旅の西洋人があった。それ異人が来たと言って、そこいらに腰掛けながら休んでいた旅人までが目をまるくする。前からも後ろからものぞきに行くものがある。もはや、以前のような外人殺傷ざたもあまり聞こえなくなったが、まだそれでも西洋人を扱いつけないものはどんな間違いを引き起こさまいものでもないと言われ、外人が旅行する際の内地人の心得書なるものが土屋総蔵時代に馬籠の村へも回って来ている。それを半蔵も読んで見たことはある。しかし彼の覚えているところでは、この木曾路にまだ外人の通行者のあったためしを聞かない。試みに彼は通弁の方へ行って、自分がこの地方の戸長の一人であることを告げ、初めて見る西洋人の国籍、出発地、それから行く先などを尋ねた。

 生まれはイギリスの人で、
香港ホンコンから横浜の方に渡来したが、十月には名古屋の方に開かれるはずの愛知県英語学校の準備をするため、教師として雇われて行く途中にあるという。東海道回りで赴任しないのは、日本内地の旅が試みたいためであるともいう。そのイギリス人は何を思ったか、いきなり上衣のかくしにいれている日本政府の旅行免状を出して示そうとするから、彼はその必要のないことを告げた。そのイギリス人はまた、彼の職業を通弁から聞いて、この先の村は馬をめるステーションのあるところかと尋ねる。彼は言葉も通じないから、先方で言おうとすることをどう解していいかわからなかったが、人馬継立つぎたての駅ならこの山間に十一か所あると答え、かつては彼もその駅長の一人であったことを告げた。通弁を勤める男も慣れたものだ。異人の言葉を取り次ぐことも、旅の案内をすることも、すべて通弁がした。その男は外国人を連れて内地を旅することのまだまだ困難な時であることを半蔵に話し、人家の並んだ宿場風の町を通るごとに多勢ぞろぞろついて来るそのわずらわしさを訴えた。「へえ、名物あんころもちでございます」と言って休み茶屋のばあさんが手造りにしたやつを客の間へ配りに来た。おしの旅行者のような異人は通弁からその説明を聞いたぎり、試食しようともしなかった。

 間もなく半蔵はこの
御休処おやすみどころとした看板のかかったところを出た。その日の泊まりと定めた福島にはいって懇意な旅籠屋はたごや草鞋わらじをぬいでからも、かけはしの方で初めて近く行って見た思いがけない旅の西洋人の印象は容易に彼から離れなかった。過ぐる嘉永かえい六年の夏に、東海道浦賀の宿、久里くりの沖合いにあらわれたもの――その黒船の形を変えたものは、下田へも着き、横浜へも着き、三百年の鎖国の事情も顧みないで進み来るような侮りがたい力でもって、今は早瀬を上るあゆのようにこんな深い山間までも入り込んで来た。昨日の黒船は、今日の愛知県の教師だ。これには彼も驚かされた。

 福島から王滝まで、翌日もまた半蔵は道をつづけ、
行人橋ぎょうにんばしから御嶽山道について常磐ときわの渡しへと取り、三沢というところで登山者のために備えてあるいかだを待ち、その渡しをも渡って、以前にも泊めてもらった王滝の禰宜ねぎの家の人たちの声を久しぶりで聞いた。「お客さまだぞい。馬籠の本陣からおいでたげな」。「おゝ、青山さんか。これはおめずらしい」。
 王滝の戸長遠山五平は禰宜の家からそう遠くない住居すまいの方で、この半蔵が自分の村に到着するのを今日か明日かと心待ちに待ちうけているところであった。山林事件の嘆願書提出については、五平は最初から半蔵の協力者で、谷中総代十五名の中でも贄川にえがわ藪原やぶはら二か村の戸長を語らい合わせ、半蔵と共に名古屋県時代の福島出張所へも訴え出た仲間である。今度二度目の嘆願がこれまでにしたくの整ったというのも、上松あげまつから奥筋の方を受け持った五平の奔走の力によることが多かった。それもいわれのないことではない。この人は先祖代々御嶽の山麓さんろくに住み、王滝川のほとりに散在するあちこちの山村から御嶽裏山へかけての地方じかたの世話を一手に引き受けて、木曾山の大部分を失いかけた人民の苦痛を最も直接に感ずるものの一人もこのふるい庄屋だからであった。王滝は馬籠あたりのように木曾街道に添う位置にないから、五平の家も本陣問屋は兼ねず、したがって諸街道の交通輸送の事業には参加しなかったが、人民と土地とのことを扱う庄屋としては尾州代官の山村氏から絶えず気兼ねをされて来たほどの旧い家柄でもある。

 半蔵が
禰宜ねぎの家に草鞋わらじをぬいで置いて、それからたずねて行った時、五平の言葉には、「青山さん、わたしのように毎日山にむかい合ってるものは、見ちゃいられませんな。これじゃ、木曾の人民も全くひどい。まるで水に離れた魚のようなものです」というと、いかにもこの人は適切なたとえを言い当てたように聞こえるが、その実、魚にはあまり縁がない。水に住むと言えば、この人に親しみのあるのは、池に飼うこいか、王滝川まで上って来る河魚かわうおぐらいに限られている。たまにこの山里へかつがれて来る塩辛い青串魚さんまなぞは骨まで捨てることを惜しみ、炉の火にこんがりとあぶったやつを味わって見るほど魚に縁が遠い。そのかわり、谷へ来る野鳥の類なら、そのなき声をきいただけでもすぐに言い当てるほど多くの鳥の名を諳記そらんじていて、山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどのことには精通していた。

 いったい、こんな山林事件を引き起こした木曾谷に、これまで尾州藩で置いた上松の陣屋があり、白木番所があり、山奉行があり、
山守やまもりがあり、留山見回りなぞがあって、これほど森林の保護されて来たというはなんのためか。そこまで話を持って行くと、五平にも半蔵にもそう一口には物が言えなかった。尾州藩にして見ると、年々木曾山から切り出す良い材木はおびただしい数に上り、同藩の財源としてもこの森林地帯を重くみていたように世間から思われがちであるが、その実、河水を利用する檜材の輸送には莫大ばくだいな人手と費用とを要し、小谷狩こたにがり、大谷狩から美濃の綱場を経て遠い市場に送り出されるまで、これが十露盤そろばんずくでできる仕事ではないという。それでもなおかつ尾州藩が多くの努力を惜しまなかったというは、山林保護の精神から出たことは明らかであるが、一つには木曾川下流の氾濫はんらんに備えるためで、同藩が治水事業に苦しんで来た長い歴史は何よりもその辺の消息を語っているとも言わるる。もっとも、これは川下の事情にくわしい人の側から言えることで、遠く川上の方の山の中に住み慣れた地方じかたの人民の多くはそこまでは気づかなかった。ただ、この深い木曾谷が昼でも暗いような森林におおわれた天然の嶮岨けんそ難場なんばであり、木曾福島に関所を置いた昔は鉄砲を改め女を改めるまでに一切の通行者の監視を必要としたほどの封建組織のためにも、徳川直属の代官によってまもられ、尾州大藩によっても護られて来た東山道中の特別な要害地域であったろうとは、半蔵らにも考えられることであった。

 五平は半蔵の方を見て、「さあ、これが尾州の方へ聞こえたら、旧藩の人たちもどう言いますかさ。支庁のやり口が本当で、木曾の人民の方が無理だと言いますかさ。なんでもわたしの聞いたところじゃ、版籍奉還ということはだいぶ話が違う。版地民籍の奉還と言いましたら、土地も人民も朝廷へ返上することだと、わたしは承知してます。万民を王化に浴させたい。あの尾州あたりが他藩に率先して朝廷へ返上したのも、その趣意から出たことじゃありませんか。こんなにけが人を出してもかまわないつもりで、旧領の山地を返上したわけじゃありますまいに」。

 こんな話の出た後、五平は半蔵の方から預かって置いた山林事件用の書類をそこへ取り出した。半蔵の起草した筑摩県庁あての嘆願書は十五人の総代の手を回って、五平の手もとまで返って来ている。藪原村の戸長を筆頭にして、一同の署名と調印とを済ましたものがそこにある。嘆願書とした文字の上には、うやうやしく「上」と記し「恐れながら書付をもって願い上げ奉り
そうろう御事」の書き出しが読まれる。従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度であるから、今般の御改革で郡県の政治を行なわれるについては本県の管下も他郷一般の処置を下し置かれたいと述べてある。別に年来の情実を本庁の官吏によく知ってもらうため、谷中の人民から旧領主に訴えたことのある古い三通の願書の写しをも添えることにしてある。「この古い願書の写しを添えて出すことが大切です」。「さようだ。今日にはじまった問題でもないことがわかりますで。」。

 二人はこんな言葉をかわした。いよいよ来たる五月の十二日を期して再度の嘆願書を差し出すことから、その前日までに
贄川にえがわに集まって、四人の総代だけが一同に代わり松本へ出頭するまでの手はずもまった。もし本庁の官吏から今日人民の難渋する事情を問いただされたら、四人のもの各自に口頭をもって答えよう、支庁主任のさしずによる山林規則には谷中の苦情が百出して、総代においても今もってお請けのできかねる事情を述べようと申し合わせた。五平は言った。「この嘆願書の趣意は、官有林を立て置かれることに異存はない。御用材り出し等の備え場も置かねばなるまいから、それらの官有林にはきびしくお取り締まりの制度を立てて、申し渡されるなら、きっと相守る。そのかわり明山あきやまは人民に任せてくれ。新規則以来、人民私有の山地まで官有にあわせられた場処も多くあるが、これも元々どおりに解かれたい。大体にこういうことになりましょう。つまり――一般公平の御処置を仰ぎたい。今のうちに官民協力して、前途百年の方針を打ち建てて置きたい。享保以前のいにしえに復したいということですな」。
 ここへ来るまで、半蔵は野尻旅籠屋はたごやでよく眠らず、福島でもよく眠らずで、遠山五平方から引き返して禰宜ねぎの家に一晩泊まった翌朝になって、ひどく疲れが出た。禰宜宮下の主人が里宮の社殿のあるところまで朝勤めにって行って、大太鼓を打ち鳴らしてからまた数町ほどの山道を帰るころでも、彼はゆっくり休んでいた。家の人の雨戸を繰りに来る音を聞くようになって、ようやく彼は寝床からはい出した。「だいぶごゆっくりでございますな」と言って、宮下の細君が熱い茶に塩漬しおづけの小梅を添えて置いて行ってくれるころが、彼には朝だった。

 里宮の神職と
講中こうじゅうの宿とを兼ねたこの禰宜の古い家は、木曾福島から四里半も奥へはいった山麓の位置にある。木曾山のことを相談する必要が生じてから、過ぐる年も半蔵は王滝へ足を運び、遠山の家をうおりには必ずこの禰宜のところへ来て泊まったが、来て見るたびに変わって行く行者ぎょうじゃ宿の光景が目につく。ここはもはや両部神道の支配するところでもない。部屋の壁の上に昔ながらの注連縄しめなわなぞは飾ってあるが、御嶽山おんたけさん座王大権現ざおうだいごんげんとした床の間の軸は取り除かれて、御嶽三社をまつったものがそれに掛けかわっている。「青山さん、まあきょうは一日ゆっくりなすってください。お宮の方へ御案内すると言って、せがれのやつもしたくしています」と禰宜も彼を見に来て言った。過ぐる文久ぶんきゅう三年、旧暦四月に、彼が父の病をいのるためここへ参籠さんろうにやって来た日のことは、山里の梅が香と共にまた彼の胸に帰って来た。あの時同伴した落合の勝重なぞはまだ前髪をとって、浅黄色あさぎいろ襦袢じゅばんえりのよく似合うほどの少年だった。「あれからもう十一年にもなりますか。そうでしょうな、あの時青山さんにお清書なぞを見ていただいた忰がことし十八になりますもの」。こんな話も出た。

 やがて半蔵は身を
きよめ、笠、草鞋わらじなどを宿に預けて置いて、禰宜の子息むすこと連れだちながら里宮参詣さんけいの山道を踏んだ。「これで春先の雉子きじの飛び出す時分、あの時分はこのお山もわるくありませんよ」。十年の月日を置いて来て見ると、ほんの子供のように思われていた禰宜の子息が、もはやこんなことを半蔵に言って見せる若者だ。

 宗教改革の機運が動いた跡はここにも深いものがある。半蔵らが登って行く細道は石の大鳥居の前へ続いているが、路傍に両部時代の遺物で、全く神仏を
混淆こんこうしてしまったような、いかがわしい仏体銅像なぞのすでに打ち倒されてあるのを見る。その辺の石碑やほこらの多くは、あるものは嘉永、あるものは弘化こうか、あるものは文久年代の諸国講社の名の彫り刻まれてあるものだ。さすがに多くの門弟を引き連れて来て峻嶮しゅんけんを平らげ、山道を開き、各国に信徒を募ったり、講中を組織したりして、この山のために心血をささげた普寛、神山、一徳の行者らの石碑銅像には手も触れてない。そこに立つ両部時代の遺物の中にはまた、十二権現とか、不動尊とか、三面六を有しいのししの上に踊る三宝荒神とかのわずかに破壊を免れたもののあるのも目につく。

 さらに二人は石の大鳥居から、十六階、二十階より成る二町ほどの石段を登った。左右にとちの林のもれを見て、その長い石段を登って行くだけでも、なんとなくおとなうものの心を澄ませる。何十丈からの大岩石をめぐって、高山の植物の間から清水しみずのしたたり落ちるあたりは、古い社殿のあるところだ。大己貴おおなむち少彦名すくなびこな二柱ふたはしらの神の住居すまいがそこにあった。

 里宮の内部に行なわれた革新は一層半蔵を驚かす。この社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の名君としても知られた山村
蘇門そもんの寄進にかかる記念の額でも、例の二つの天狗てんぐの面でも、ことに口は耳まで裂け延びた鼻は獣のそれのようで、金胎こんたい両部の信仰のいかに神秘であるかを語って見せているようなその天狗の女性の方の白粉しろいものをほどこした面でも、そこに残存するものはもはや過去の形見だ。一切のからが今はかなぐり捨てられた。護摩ごまの儀式も廃されて、白膠木ぬるでの皮の燃える香気もしない。本殿の奥の厨子ずしの中に長いこと光った大日如来だいにちにょらいの仏像もない。神前の御簾みすのかげに置いてあった経机もない。高山をその中心にし、難行苦行をその修業地にして、あらゆる寒さひもじさに耐えるための中世的な道場であったようなところも、全く面目を一新した。過去何百年の山王を誇った御嶽大権現の山座はくつがえされて、二柱の神のいにしえに帰って行った。杉と檜の枝葉を通して望まれる周囲の森と山の空気、岩づたいに落ちる細い清水の音なぞは、社殿の奥を物静かにする。しばらく半蔵はそこに時を送って、自分の娘のためにもいのった。

 禰宜のもとにってから、半蔵は山でもながめながらその日一日王滝の宿に寝ころんで行くことにきめた。宮下の主人は
馳走ちそうぶりに、風呂でも沸かそうから、寒詣かんもうでや山開きの季節の客のために昔から用意してある行者宿の湯槽ゆぶねにも身を浸して、疲れを忘れて行けと言ってくれた。午後には五平の方から半蔵をたずねて来て、短冊たんざくを取り寄せたり、互いに歌をよみかわしたりするような、ささやかな席が開けた。そこへあか毛氈もうせんを持ち込み、半折はんせつ画箋紙がせんしなぞをひろげ、たまにしか見えない半蔵に何か山へ来た形見を残して置いて行けと言い出すのは禰宜だ。子息も来て、そのそばで墨をった。そこいらには半蔵が馬籠から持って来た歌書なども取り散らしてある。簀巻すまきにして携えて来た筆も置いてある。求めらるるままに、彼は自作のふるい歌の一つをその紙の上に書きつけた。

おもふどちあそぶ春日はるひ青柳あおやぎ千条ちすじの糸の長くとぞおもふ    半蔵

 五平はそのそばにいて、「これはおもしろく書けた」。「でも、この下の句がわたしはすこし気に入らん」と半蔵は自分で自分の書いたものをながめながら、「思うという言葉が二つ重なって、どうも落ちつかない」。「そんなことはない」と五平は言っていた。

 時には、半蔵は席を離れて、ながめを自由にするためにその座敷の廊下のところへ出た。山里の中の山里ともいうべき御嶽のすその谷がその位置から望まれる。そこへも五平が立って来て、谷の下の方に遠く光る王滝川を半蔵と一緒にながめた。木と木の
こずえの重なり合った原生林の感じも深く目につくところで、今はほとんど自由に入山いりやま伐木の許さるる場処もない。しかし、半蔵は、他に客のあるけはいもするこの禰宜の家で五平と一緒になってからは、総代仲間の話なぞを一切口にしなかった。五平はまた五平で、そこの山、ここの谷を半蔵にさして見せ、ただ風景としてのみ、生まれ故郷を語るだけであった。

 もはや、
温暖あたたかい雨は幾たびとなく木曾の奥地をも通り過ぎて行ったころである。山鶯やまうぐいすもしきりになく。五平が贄川にえがわでの再会を約して別れて行った後、半蔵はひとり歌書などを読みちらした。夕方からはことに春先のような陽気で、川の流れを中心にわき立つもやが谷をこめた。そろそろ燈火あかりのつく遠い農家をながめながら、馬籠を出しなに腰にさして来た笛なぞを取り出した時は、しばらく彼もさみしく楽しい徒然つれづれに身をまかせていた。

 翌朝は早く山をたつ人もある。遠い国からの
参詣者さんけいしゃの中には、薄暗いうちから起きて帰りじたくをはじめる講中仲間もある。着物も白、帯も白、鉢巻はちまきも白、すべて白ずくめな山の巡礼者と前後して、やがて半蔵も禰宜の家の人たちに別れを告げて出た。彼が帰って行く山道の行く先には、手にする金剛杖こんごうづえもめずらしそうな人々の腰に着けた鈴の音が起こった。王政第六の春もその四月ころには、御嶽のふもとから王滝川について木曾福島の町まで出ると、おそらく地方の発行としては先駆と言ってよい名古屋本町通りの文明社から出る木版彫刻半紙六枚の名古屋新聞が週報ながらに到着するころである。時事の報道を主とする伝聞雑誌のごとき体裁しかそなえていないものではあるが、それらの週報は欧米教育事業の視察の途に上った旧名古屋藩士、田中不二麿ふじまろが消息を伝えるころである。

 過ぐる四年の十一月十日、特命全権の重大な任務を帯びて日本を出発した岩倉大使の一行がどんな
土産みやげをもたらして欧米から帰朝するかは、これまた多く人の注意のまととなっていた時だ。その一行、随員従者留学生等総員百七名の中に、佐賀県人の久米邦武くめくにたけがある。この人は、ただ文書のことを受け持つために大使の随行を命ぜられたばかりでなく、特に政府の神祇省じんぎしょうから選抜されて一行に加わった一人の国学者としても、よろしくその立場から欧米の文明を観察せよとの内意を受け、新興日本の基礎を作る上に国学をもってする意気込みであるとのうわさは、ことに平田一門の人たちに強い衝動を与えずにはおかなかった。地方一戸長としての半蔵なぞが隠れた草叢くさむらの間に奔走をつづけていて、西をさして木曾路を帰って行くころは、あの本居もとおり平田諸大人の流れをくむもののおそかれ早かれ直面しなければならないようなある時が彼のような後輩をも待っていたのである。
 五
 五月十二日も近づいたころ、福島支庁からの召喚状が馬籠にある戸長役場の方に届いた。戸長青山半蔵あてで。半蔵は役場で一通り読んで見た。それには、五月十二日の午前十時までに当支庁に出頭せよとある。ただし代人を許さない。言い渡すべき件があるから、この召喚状持参の上、自身出頭のこととある。彼は自宅の方に持ち帰って、さらによく読んで見た。この呼び出しに応ずると、遠山五平らに約束して置いたことが果たせない。その日を期し、総代四人のものが勢ぞろいして本庁の方へ同行することもおぼつかない。のみならず、彼はこの召喚状を手にして、ある予感に打たれずにはいられなかった。とりあえず、彼は福島へ呼び出されて行くことを隣家の伊之助に告げ、王滝の方へも使いを出して置いて、戸長らしいはかまを着けるのもそこそこに、また西のはずれから木曾路をたどった。この福島行きには、彼は心も進まなかった。

 筑摩県支庁。そこは名古屋県時代の出張所にあててあった本営のまま、まだ福島興禅寺に置いてある。街道について福島の町にはいると、大手橋から向かって右に当たる。指定の刻限までに半蔵はその仮の役所に着いた。待つこと三十分ばかりで、彼は支庁の官吏や下役などの前に呼び出された。やがて、掛りの役人が一通の書付を取り出し、左の意味のものを半蔵に読み聞かせた。「今日限り、戸長免職と心得よ」とある。はたして、半蔵の呼び出されたのは他の用事でもなかった。もっとも、免職は戸長にとどまり、学事掛りは従前のとおりとあったが、彼は支庁の人たちを相手にするのは到底むだだと知っていた。実に瞬間に、彼も物を見定めねばならなかった。一礼して、そのまま引き下がった。
 興禅寺の門を出て、支庁から引き取って行こうとした時、半蔵はその辺の屋敷町に住む旧士族に行きあい、わずかの挨拶の言葉をかわした。その人は、福島にある彼の歌の友だちで、香川景樹かがわかげきの流れをくむものの一人で、何か用達ようたしに町を出歩いているところであったが、彼の顔色の青ざめていることが先方を驚かした。歩けば歩くほど彼は支庁の役人から戸長免職を言い渡された時のぐっとこたえたこころもちを引き出された。言うまでもなく、村方むらかた総代仲間が山林規則を過酷であるとして、まさに筑摩県庁あての嘆願書を提出するばかりにしたくをととのえたことが、支庁の人たちの探るところとなったのだ。彼はその主唱者とにらまれたのだ。たとえようのないこころもちで、彼は山村氏が代官屋敷の跡に出た。瓦解がかいの跡にはもう新しい草が見られる。ここが三むねの高い鱗葺こけらぶきの建物の跡か、そこが広間や書院の跡かと歩き回った。その足で彼は大手橋を渡った。橋の上から見うる木曾川の早い流れ、光る瀬、その河底かわぞこの石までが妙に彼の目に映った。

 
かさ草鞋わらじのしたくもそこそこに帰路につこうとしたころの彼は、福島での知人の家などをたずねる心も持たなかった人である。街道へは、ぽつぽつ五月の雨が来る。行く先に残った花やさわやかな若葉に来る雨は彼のほおにも耳にも来たが、彼はそれを意にも留めずに、季節がら吹き降りの中をすたすた上松あげまつまで歩いた。さらに野尻まで歩いた。その晩の野尻泊まりの旅籠屋はたごやでも、彼はよく眠らなかった。

 翌日の帰り道には、朝から晴れた。青々とした空の下へ出て行って、ようやく彼も心の憤りを沈めることができた。いろいろ思い出すことがまとまって彼の胸に帰って来た。「御一新がこんなことでいいのか」とひとり言って見た。時には彼は路傍の石の上に笠を敷き、枝も細く緑も柔らかな
なつめの木の陰から木曾川の光って見えるところに腰掛けながら考えた。消えうせべくもない感銘の忘れがたさから、彼はあの新時代の先駆のような東山道軍が岩倉公子を総督にして西からこの木曾街道を進んで来た時の方に思いをせた。当時は新政府の信用もまだ一般に薄かった。沿道諸藩の向背こうはいのほども測りがたかった。何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、あの東山道総督執事が地方人民に応援を求める意味の布告を発したことは一度や二度にとどまらなかった。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨えいしであるぞと触れ出されたのもあの時であった。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来苛政かせいに苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくそのむねを本陣に届けいでよと言われ、彼も本陣役の一人として直接その衝に当たったことはまだ彼には昨日のことのようでもある。彼半蔵のような愚直なものが忘れようとして忘れられないのは、民意の尊重を約束して出発したあの新政府の意気込みであった。彼が多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てたというのは、新政府の代理人ともいうべき官吏にこの約束を行なってもらいたいからであった。

 小松の影を落とした川の
中淵なかぶちを右手に望みながら、また彼は歩き出した。彼の心は、日ごろから嘆願書提出のことに同意してくれているが、しかし福島支庁の権判事ごんはんじがかわりでもしないうちはだめだというらしいあの寿平次の方へ行った。彼は言って見た。「相変わらず、寿平次さんは高見の見物だろうか」。彼の心は隣家伏見屋の伊之助の方へも行った。「伊之助さんか。あの人は目をつぶっておれと言う。このおれにも――見るなと言う」。彼の心はまた、村の万福寺の松雲和尚の方へも行った。「和尚さまと来たら、用はないと言うそうな」。しかし、彼はあの松雲たりとも禅僧らしく戦おうとはしていることを知っていた。

 五月の森の光景は行く先にひらけた。
ひのきけやきにまじる雑木のさわやかな緑がまたよみがえって、その間には木曾路らしいむらさきいろの山つつじが咲き乱れていた。全山の面積およそ三十八万町歩あまりのうち、その十分の九にわたるほどの大部分が官有地に編入され、民有地としての耕地、宅地、山林、それに原野をあわせてわずかにその十分の一に過ぎなくなった。新しい木曾谷の統治者が旧尾州領の山地を没取するのに不思議はないというような理屈からこれは来ているのか、郡県政治の当局者が人民を信じないことにかけては封建時代からまだ一歩も踏み出していない証拠であるのか、いずれとも言えないことであった。ともあれ、いかに支庁の役人が督促しようとも、このまま山林規則のお請けをして、泣き寝入りにすべきこととは彼には思われなかった。父にできなければ子に伝えても、旧領主時代から紛争の絶えないようなこの長い山林事件をなんらかの良い解決に導かないのはうそだとも思われた。須原すはらから三留野みどの、三留野から妻籠へと近づくにつれて、山にもたよることのできないこの地方の前途のことがいろいろに考えられて来た。家をさして帰って行くころの彼はもはや戸長ででもなかった。[#改頁]




(私論.私見)