夜明け前第二部上の7、第七章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
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一 | |
例の万国公法の意気で、新時代を迎えるに急な新政府がこれまでの旧い暦をも廃し、万国共通の太陽暦に改めたころは、やがて明治六年の四月を迎えた。その時になると、馬籠本陣の吉左衛門なぞがもはやこの世にいないばかりでなく、同時代の旧友であれほどの頑健を誇っていた金兵衛まで七十四歳で亡き人の数に入ったが、あの人たちに見せたらおそらく驚くであろうほどの木曾路の変わり方である。今は四民が平等と見なされ、権威の高いものに対して土下座する旧習も破られ、平民たりとも乗馬、苗字までを差し許される世の中になって来た。みんな鼻息は荒い。中馬稼ぎのものなぞはことにそれが荒く、牛馬の口にばかりついていない。どうかすると荷をつけて街道に続く牛馬の群れは通行をさまたげ、諸人の迷惑にすらなる。なんと言っても当時の街道筋はまだやかましい昔の気風を存していたから、馬士や牛追いの中には啣え煙管なぞで宿村内を歩行する手合いもあると言って、心得違いのものは取りただすよしの触れ書が回って来たほどだ。下から持ち上げる力の制えがたさは、こんな些細なことにもよくあらわれていた。これまで、実に非人として扱われていたものまで、大手を振って歩かれる時節が到来した。新たに平民と呼ばれて雀躍するものもある。その仲間入りがまことに許されるなら、貸した金ぐらいは棒引きにすると言って、涙を流してよろこぶものがある。洪水のようにあふれて来たこの勢いを今は何者もはばみ止めることができない。武家の時が過ぎて、一切の封建的なものが総崩れに崩れて行くような時がそれにかわって来た。 本陣、脇本陣、今は共にない。大前、小前なぞの家筋による区別も、もうない。役筋ととなえて村役人を勤める習慣も廃された。庄屋、名主、年寄、組頭、すべて廃止となった。享保以来、宿村の庄屋一人につき玄米五石をあてがわれたが、それも前年度(明治五年)までで打ち切りとした。庄屋名主らは戸長、副戸長と改称され、土地人民に関することはすべてその取り扱いに変わり、輸送に関することは陸運会社の取り扱いに変わった。人馬の継立て、継立てで、多年助郷村民を苦しめた労役の問題も、その解決にたどり着いたのである。 大きな破壊が動いたあとだ。いよいよ廃藩が断行され、旧諸藩はいずれも士族の救済に心を砕き、これまで蝦夷地ととなえられて来た北海道への開拓方諸有志の大移住が開始されたのも、これまた過ぐる三年の間のことである。武家の地盤は全く覆され、前年の十二月には全国募兵の法さえ設けられて、いわゆる壮兵のみが兵馬の事にたずさわるのを誇れなくなった。瓦解の勢いもはなはだしい。従来一芸をもって門戸を張り、あるいはお抱え、あるいはお出入りなどととなえて、多くの保護を諸大名旗本に仰いでいた人たちまでが、それらの主人公と運命を共にするようになって行った。その影響は次第に木曾路にもあらわれて来る。一流の家元と言われた能役者で、旅の芸人なぞの群れにまじり、いそいそとこの街道に上って来るのも、今はめずらしくない。 この混沌とした社会の空気の中で、とにもかくにも新しい政治の方向を地方の人民に知らしめ、廃関以来不平も多かるべき木曾福島をも動揺せしめなかったのは、尾州の勘定奉行から木曾谷の民政権判事に転任して来た土屋総蔵の力による。ずっと後の時代まで善政を謳われた総蔵のような人の存在もめずらしい。この人の時代は、木曾谷の支配が名古屋県総管所(吉田猿松の時代)のあとをうけ、同県出張所から筑摩県の管轄に移るまでの間で、明治三年の秋から明治五年二月まで正味二年足らずの短い月日に過ぎなかったが、しかしその短い月日の間が木曾地方の人民にとっては最も幸福な時代であった。目安箱の設置、出板条例の頒布、戸籍法の改正、郵便制の開始なぞは皆その時代に行なわれた。総蔵はまた、凶年つづきの木曾地方のために、いかなる山野、悪田、空地にてもよくできるというジャガタラ芋(馬鈴薯)の試植を勧め、養蚕を奨励し、繰糸器械を輸入した。牛馬売買渡世のものには無鑑札を許さず、下々が難渋する押込みと盗賊の横行をいましめ、復飾もしない怪しげな修験者には帰農を申し付けるなど、これらのことはあげて数えがたい。この民政権判事が村々の庄屋一人ずつに出頭を命じ、筑摩県への郷村の引き渡しを済ましたのは、前年二月十七日のことであった。総蔵は各村の庄屋が新しい戸長と呼ばれるのを見、そろそろ児童の就学ということが地方有志者の間に考えられるころに、それらの新しい教育事業までは手を着けないで木曾の人民に別れを告げて行った。 すべてが試みでないものはないような時だ。太陽暦の採用以来、時の分ちも今は明けの何時、暮れの何時とは言わない。その年から昼夜二十四時に改められた。月日の繰り方もこれまでの暦にくらべると一か月ほど早い。これは前年十二月上旬をもって太陰暦の終わりとし、新暦による正月元日が前年の冬のうちに来たからであった。人心の一新はこんな暦からも。しかし、これまで小草山の口開けから種まきの用意まで一切はこの国固有の暦を心あてにして来た農家なぞにとっては、朔日だ十五日だということも月の満ち欠けに関係のないものはない。どうしても旧暦で年を取り直さなけれは新しい年を迎えた気もしないという村民のところへは、正月が一年に二度来る始末だ。多くの人々は新旧二通りの暦を煤けた壁に貼りつけて置いて、新暦の四月一日が旧の三月幾日に当たると知らなければ、春分の感じが浮かぶはおろか、まだ季節の見当さえもつかなかった。 |
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その年から新たに祝日と定められた四月三日は、木曾路で初めて迎える神武天皇祭である。その日は一般に休業し、神酒を供え、戸々奉祝せよ。旧い習慣を脱しないで五節句休業のものもあるが、はなはだ不心得の事である。今後祝日のほかは家業を怠るまいぞ。こんなお触れが、筑摩県権令の名で駅々村々へ回って来る。あざやかな国旗が石を載せた板屋根の軒に高く掲げられるのも、これまでの山の中には見られなかった図だ。 半蔵の妻お民も、今は庄屋の家内でなくて、学事掛りを兼ねた戸長の家内であるが、その祝日の休業を機会に、兄寿平次の家族を訪ねようとして馬籠の家を出た。もっとも、この訪問は彼女一人でもない。彼女と半蔵との間には前年の二月に四男の和助が生まれて、その幼いものと下女のお徳とを連れていた。馬籠から奥筋へと続く木曾街道はお民らの目にある。ところどころの垣根には梅も咲く。彼女らは行く先に日の丸の旗の出ている祝日らしい山家のさまをながめながめ、女の足で二里ばかりの道を歩いて、午後に妻籠の生家に着いた。 |
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二 | |
お民はある相談をもって妻籠のおばあさんや兄寿平次を見に来た。その相談は、娘お粂の縁談に関する件で、かねて伊那の南殿村、稲葉という家は半蔵が継母おまんの生家に当たるところから、おまんの世話で、その方にお粂の縁談がととのい、前年の冬には南殿村から結納の品々を送って来て、その年の二月の声を聞くころはすでに結婚の日取りを申し合わせるまでに運んだのであった。今度のお民の妻籠訪問はその報告というばかりでなく、兄夫婦の耳にも入れて相談したいと思って来たことがあるからで。お民ももう五人の子の母である。兄の家にもらわれて来ている次男の正己と、三男の森夫との間には、二人まで女の子を失ったが、それらの早世した幼いものまで合わせると七人もの子をなした年ごろに達している。今さら、里ごころでもあるまいに。しかし、その年になっても妻籠に帰って来て見ると、やはりおばあさんのそばは彼女にとって自分の家らしかった。ちょうど寿平次は正己を連れ、近くに住む得右衛門を誘い合わせ、祝日の休暇を見つけて山遊びに出かけた留守のおりであったが、年老いてまだ元気なおばあさんは孫のよめに当たるお里を相手に、妻籠旧本陣の表庭にいて手造りの染め糸を乾すところであった。男の下着の黄八丈にでも織るものと見えて、おばあさんたちが風通しのいいところへ乾している糸の好ましい金茶であるのもお民の目についた。古くから山地の農民の間に実用されて来たように、おばあさんはその黄色な染料を山の小梨に取ることから、木槌で皮を砕き、日に乾し、煎じて糸を染めるまで、そういうことをよく知っていた。縫うこと、織ること、染めること、すべてこのおばあさんに仕込まれて、それをまた娘のお粂に伝えているお民としては、たまの里帰りが彼女自身の娘の昔を思い出させないものはない。 やがて天井の高い、広い囲炉裏ばたでは、おばあさんはじめお里やお民が黒光りのする大黒柱の近くに集まって、一しきり子供の話で持ちきった。お里と寿平次の間には長いこと子供がなく、そのために正己を馬籠から迎えて養っていたほどであるが、結婚後何年ぶりかでめずらしい女の子が生まれた。琴柱がその子の名だ。足掛け三つになる琴柱はもうなんでも言える。それに比べると、お民の連れて来た和助は誕生後二か月にもなるが、まだ口がきけない。立って歩くこともできない。殻から出たばかりの青い蝉のように、そこいらの畳の上をはい回っている。「はい、今日は」。琴柱が女の子らしいませた口のききかたをすると、和助はその方へお辞儀にはって行った。何をどう覚えたものか、この子供はむやみやたらとお辞儀だ。おばあさんの方へお辞儀に行けば、お里の方へもお辞儀に行く。まだ無心な目つきをした幼いもののすることに、そこに集まっているものは皆笑った。「もうたくさん」とお民が言って見せると、和助はまたお辞儀をした。「お民、この子はまだお乳かい。お誕生が済んだら、お前、もう御飯でもいいぜ。なんにしても今があぶないさかりだねえ。ほんとに、すこしも目は放せませんよ」とおばあさんも言ってみた。母であることはお民を変えたばかりでなく、お里をも変えた。あれほど病気がちで子供のないのをさみしそうにしていたお里が、母親らしい肉づきをさえ見せて来た。めっきり世帯じみても来た。お里はもはや以前のように、いつお民があって見ても変わらないような、娘々しい人でもない。そういうお民も子供のことに心を奪われて、ほとんど他をかえりみる暇がない。木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわるような山林事件のために奔走している夫半蔵のことよりも、自分の子供に風でも引かせまいとすることの方がお民には先であった。 寿平次も正己を連れて屋外から戻って来た。二人とも山遊びらしい軽袗ばきだ。兄はお民を見ると、自分の腰につけている軽袗の紐をときながら、「来たね」と相変わらずの調子だ。寿平次も半蔵と同じように、今は新しい戸長の一人である。遠からず筑摩県地方は村々の併合が行なわれ、大区、小区の区制が設けられるはずで、そのあかつきには彼は八大区の区長としての候補者に定められているが、そんなことでも気をよくしている矢先であった。おまけに、お里には琴柱というかわいいものができて、行く行くは正己にめあわせられるという楽しみがあった。正己もめっきり成長した。すでに十三歳にもなる。来たる年には木曾福島の方へ送って、大脇自笑の塾にでも入門させ、自分のよい跡目相続としたい。そんな話が寿平次の口から出て来た。 |
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妻籠にはまだ散切頭も流行って来ない。多くのものの目にはその新しい風俗も異様に映る。その中で、今度お民が来て見た時は兄はすでにさっぱりとした散髪になっていた。「どうだ、お民。おれに似合うか」と寿平次の言い草だ。「半蔵さんもどうしているかい。」とまた寿平次がきく。「兄さん、うちのいそがしさと来たら、見せたいよう。髭もろくに剃らずに飛び歩いていますよ。わたしが何をきいても、山林事件のためだとばかりで、くわしいことも話しません」。「今度という今度は半蔵さんも全力をあげているらしい。おれも相談にはあずかってるし、大賛成じゃあるが、せめてこれが土屋総蔵の時代だとねえ」。「そのことは、兄さん、うちでも言ってるようですよ」。「そりゃ、名古屋県がこの木曾に出張所を置いて直接民政をやったころは、なんでも親切に、人民をよく教え導くという調子さ。あの土屋総蔵なぞは赴任して来ると、すぐ六人の官吏を連れて開墾その他の見分にやって来たからね。あの時の見分は、贄川から妻籠、馬籠まで。おれはあの権判事を地境へ案内した時のことを忘れない。木曾はこんな産馬地だから、各村とも当歳の駒を取り調べて、親馬から、毛色、持ち主の名前まで書き出せというやり方だ。それからあの見分を済ましたあとで、村々へ回状を送ってよこしたが、その回状がまた振るってる。あれほど休泊の手当てに及ばないししたくも有り合わせでいいと言ってあるのに、うんとごちそうしてくれた村々がある。とかく官吏が旅行の際には不正な事も行なわれがちだから、今後ごちそうは無用だと書いてよこした。あれは明治三年の九月だ。そうだ、政府からは駅逓司の菊池大令史がこの地方へ出張して来たころだ。なんと言っても、土屋総蔵の時代はよかったよ。そのあとへ筑摩県の権判事として来た人が、今度は大いに暴威を振るおうとするんだから、まるで善悪の対照を見せつけられるようなものさね。こんな乱暴なやり口じゃ、今に地租の改正が始まっても、思いやられるナ。そりゃ、お民、あれほど半蔵さんが山林事件に身を入れて、いくらこの地方のために奔走しても、今の筑摩県の権判事がかわりでもしないうちはまずだめだとおれは見てる……」。 | |
三 | |
馬籠本陣を見た目で妻籠本陣を見るものは、同じような破壊の動いた跡をここにも見いだす。夕飯にはまだすこし間のあるころに、お民は兄について、部屋部屋を見て回った。御一新の大改革が来るまで、本陣にのみあるもので他の民家になかったものは、玄関と上段の間とであった。本陣廃止以来、新政府では普通の旅籠屋に玄関を造ることを許し、上段の間を造ることをも許した。これまで公用兼軍用の客舎のごときもので、主として武家のためにあったような本陣は、あだかもその武装を解かれて休息している建物か何かのようである。お民は寿平次と一緒に玄関の方へ行って見た。彼女が娘時代の記憶のある式台のあたりはもはや陣屋風の面影をとどめない。その前へ来て黒羅紗の日覆いなぞのかかった駕籠を停めさせる諸大名もなければ、そのたびに定紋付きの幕を張り回す必要もない。広い板敷きのところは、今は子供の遊び場所だ。そして青山家の先祖から伝わったような古い鎗のかかったところは、今はお里が織る機の置き場所だ。上段の間へも行って見た。あの黒船が東海道の浦賀に押し寄せてからこのかたの街道の混雑から言っても、あるいは任地に赴こうとし、あるいは帰国を急ごうとして、どれほどの時代の人がその客間に寝泊まりしたり、休息したりして行ったかしれない。今はそこもからッぽだ。白地に黒く雲形を織り出した高麗縁の畳の上までが湿けて見える。「お民、お前のところじゃ、上段の間を何に使ってるかい」。「うちですか。うちじゃ神殿にして、産土神さまを祭っていますよ。毎朝わたしは子供をつれて拝ませに行きますよ」。「そういうところは、半蔵さんの家らしい」。兄妹はこんな言葉をかわした。「まあ、来てごらん」という寿平次のあとについて、お民はさらに勝手口の木戸から庭の方へ出て見た。思い切った破壊がそこには行なわれている。妻籠本陣に付属する問屋場、会所から、多数な通行の客のために用意してあったような建物までがことごとく取り崩してある。母屋と土蔵と小屋とを除いた以外の建物はほとんど礎ばかり残っていると言っていい。土蔵に続くあたりは桑畠になって、ところどころに植えてある桐の若木も目につく。 お民は思い出したように、「あれはいつでしたか、うちで炬燵の上に手を置いて、『お民、今に本陣も、脇本陣もなくなるよ』ッて、そんな話を家のものにして聞かせたことがありましたっけ。あの時はわたしはうそのような気がしていましたよ。お父さん(吉左衛門)の百か日が来た時にも、まさかうちで本気にそんなことを言ってるとは思いませんでした。ところが、兄さん、ちょうどあのお父さんが亡くなって一年目に、うちでも母屋だけ残して、新屋の方は取り払いでしょう。主な柱なぞは綱をつけて、鯱巻きにして引き倒しましたよ。恐ろしい音がして倒れて行きましたっけ。あの大きな鋸や斧で柱を伐る音は、今だにわたしの耳についています」。 その晩、お民は和助を早く寝かしつけて置いて、寿平次のいる寛ぎの間におばあさんやお里とも集まった。娘お粂の縁談について、折り入ってその相談に来たことを兄夫婦らの前に持ち出した。妻籠でもうすうす聞いてくれたことであろうがと前置きをして、その時お民が語り出したことは、こうだ。もともとお粂には幼い時分から親の取りきめて置いた許嫁があった。本陣はじめ、問屋、庄屋、年寄の諸役がしきりに廃止される時勢は年若な娘の身の上をも変えてしまった。というのは、これまでどおりの家と家との交際もおぼつかない時勢になって来ては、早い許嫁の約束もひとまずあきらめたいと言って、先方の親から破談を申し込んで来たからであった。あのお粂が自分はもうどこへも嫁きたくないと言い出したのは、その時からである。けれども、女は嫁ぐべきもの、とは半蔵が継母おまんの強い意見で、年ごろの娘がいつまで父に仕えられるものでもないし、好きな読み書きの道なぞにいそしみ通せるものではなおさらないと言って、いろいろに娘を言いすかし、伊那の南殿村への縁談を取りまとめたのであった。 この縁談には、おまんも間にはいってすくなからず骨を折った。お民に言わせると、稲葉の家はおまんが生家方のことでもあり、最初からおまんは乗り気で、この話がまとまった時にも生家へあてて長い手紙を送り、まずまず縁談もととのって、自分としてもこんなうれしいことはないと言ってやったほどだ。半蔵はまた半蔵で、「うちの祖母さんの言うことも聞かないようなものは、自分の娘じゃない」と言っているくらいの人だから、かつておまんに逆らおうとしたためしもない。その祖母に対しても、お粂はこの縁談を拒み得なかった。伊那からはすでに二度も仲人が見えて、この二月には結婚の日取りまでも申し合わせた。先方としては、五、六、七、八の四か月を除けば、それ以外の何月に定めてもいいとある。そこで、こちらは娘のために来たる九月を選んだ。そのころにでもなれば、半蔵のからだもいくらかひまになろうと見越したからで。意外にも、お粂は悲しみに沈んでいるようで、母としてのお民にはそれが感じられるというのであった。「なにしろ、うちじゃあのとおり夢中でしょう。木曾山のことを考え出すと、夜もろくろく眠られないようですよ。わたしはそばで見ていて、気の毒にもなってさ。まずまず縁談もまとまったものだから、こまかいことはお前たちによろしく頼むとばかり。お粂のことでそうそう心配もさせられないじゃありませんか」とお民は言って見せる。「いったい、この話がまとまったのは去年の春ごろじゃなかったか。あれから一年にもなる。もっと早く諸事進行しなかったものか」と言い出したのは寿平次だ。「そんな、兄さんのような」とお民は承けて、「そりゃ、話がまとまるとすぐ伊那の方へ手紙を出して、結納の小袖も、織り次第、京都の方へ染めにやると言ってやったくらいですよ。ごらんなさいな、織って、染めて、それから先方へ送り届けるんじゃありませんか」。「いや、なかなか男の言うような、そんな無造作なわけにいかすか。まず織ることからして始めにゃならんで」とおばあさんも言葉をはさんだ。 「おれに言わせると、」とまた寿平次が言い出した。「この話は、すこし時がかかり過ぎたわい。もっとずんずん運んでしまうとよかった。娘が泣いてもなんでも、皆で寄ってたかって、祝っちまう――まずそれが普通さ。そのうちにはかわいい子供もできるというものだね」。「お粂はことし幾つになるえ。」とおばあさんはお民にきく。「あの子も十八になりますよ」。「あれ、もうそんなになるかい」と言って、おばあさんはお民の顔をつくづくと見て、「そうだろうね、吉左衛門さんの三年がとっくに来たからね。」。「して見ると、わたしたちが年を取るのも不思議はありませんかねえ」とお里もそばにいて言葉を添える。「何かなあ。あれでお粂も娘の一心に何か思いつめたことでもあるのかなあ」と寿平次が言った。「それがですよ」とお民は答える。「許嫁の人のことでも忘れられないのかというに、どうもそうじゃないらしい」。「それで、何かえ。お粂はどんなようすだえ」とまたおばあさんがきく。「わたしが何をたずねても、うつむいて、沈んでばかりいますよ」。「そりゃ言えないんだ」と寿平次は考えて、「ああいう早熟な子にかぎって、そういうことはあることだよ」。「ほんとに、妙な娘ができてしまいました。あの年で、神霊さまなぞに凝って――まあ、お父さん(半蔵)にそっくりなような娘ができてしまいました」。「でも、お民、おれはいい娘だと思う」と寿平次は言って、その晩の話はお粂のようすを聞いて見るだけにとどめようとした。お民の方でも、それを生家の人たちの耳に入れるだけにとどめて、おばあさんや兄の知恵を借りに来たとはまだ言い出せなかった。 馬籠峠の上ともちがい、木曾も西のはずれから妻籠まではいると、大きな谷底を流れる木曾川の音が日によって近く聞こえる。お民は久しぶりでその音を耳にしながら、その晩は子供と一緒におばあさんのそばに寝た。 |
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四 | |
翌朝になると、寿平次の家では街道に接した表門のところへ新しい掛け札を出す。 信濃国、妻籠駅、郵便御用取扱所 青山寿平次 こんな掛け札もお民としては初めて見るものだ。近く配達夫になったばかりのような村の男も改まった顔つきをしてやって来る。店座敷はさしあたり郵便事務を取り扱うところにあてられていて、そこの壁の上には新たに八角型の柱時計がかかり、かちかちという音がし出した。まだわずかしか集まらない郵便物を袋に入れて、隣駅へ送ること、配達夫に渡すべきものへ正確な時間を記入すること、妻籠駅の判を押すこと、すべてこれらのことを寿平次は問屋時代と同じ調子でやった。それから戸長らしい袴をつけて、戸長役場の方へ出勤するしたくだ。「なあに、郵便の仕事の方はまだ閑散なものさ。切手を貼って出せば、手紙の届くということが、みんなにわからないんだね。それよりは飛脚屋に頼んで手紙を持って行ってもらった方が確かだなんて、そういう人たちだ。郵便はただ行くと思ってる。困りものだぞ」と言って、寿平次は出がけにお民に笑って見せた。同じ戸長でも、お民の夫が学事掛りを兼ねているのにひきかえ、兄の方はこんな郵便事務の取り扱いを引き受け、各自の気質に適した道を選んで、思い思いに出て行こうとしつつある。なんと言っても郵便制は木曾路に開始せられたばかりのころで、まだお民には兄が新しい仕事の感じも浮かばない。 この里帰りには、お民は娘お粂のことばかりでなく、いくらか夫半蔵をも離れて見る時を持った。妻籠に着いた翌日は午後から雨になって、草木の蕾を誘うような四月らしい雨のしとしと降る音が、よけいにその心持ちを引き出した。彼女の目に映る夫は、父吉左衛門の亡くなったころを一区画として、なんとなく別の人である。どういう変化が夫自身の内部に起こって来たとも彼女には言えないし、どういうものの考え直しが行なわれたとも言って見ることはできないが、すくなくも父の死にあったころは夫が半生のうちでも特別の時代であった。連れ添って見てそのことはわかった。幼少な時分から継母に仕えて身を慎んで来た夫に、おそかれ早かれ起こるべきこの変化が来たことは不思議でないかもしれない。その考えから、それとない人のうわさにも彼女はよく耳を傾ける。妻籠の人たちの言うことを聞いて見たいと思うのもそのためであった。 「お民さんか。これはおめずらしい」。門口から、声をかけながら雨の中を訪ねて来る人がある。昔なじみの得右衛門だ。お民にと言って、自分の家から鯉を届けさせるような人だ。得右衛門も脇本陣の廃止を機会に、長い街道生活から身を退いている。妻籠の副戸長として寿平次を助けながらもっと村のために働いてもらいたいとは、村民一同の希望であったが、それも辞し、辛抱人の養子実蔵に副戸長をも譲って、今は全くの扇屋の隠居である。「どうです、お民さん、妻籠も変わりましたろう」と言って、得右衛門は応接間と茶の間とを兼ねたような寿平次が家の囲炉裏ばたにすわり込んだ。温暖い雨は来ても、まだ火のそばがいいと言っている得右衛門は、お民から見ればおじさんのような人だ。どこか故吉左衛門らと共通なところがあって、だんだんこういう人が木曾にも少なくなると思わせるのもこの隠居だ。「いや、変わるはずですね」とまた得右衛門が言った。「御本陣の主人が先に立って惜しげもなく髪を短くする世の中ですからね。戸長さんがあのとおりの散髪なのに、副戸長が髷ではうつりが悪い。実蔵のやつもそんなことを言い出しましてね、あれもこないだ切りました。その前の晩に、髪結いを呼ぶやら、髪を結わせるやら――大騒ぎ。これが髷のお別れだ、そんなことを言って、それから切りましたよ。そう言えば、半蔵さんはまだ総髪ですかい」。「ええ、うちじゃ総髪にして、紫の紐でうしろの方を結んでいますよ」とお民が答える。 「半蔵さんで思い出した。そう、そう、あの暦の方の建白は朝廷の御採用にならなかったそうですね。さぞ、半蔵さんも残念がっておいででしょう。わたしは寿平次さんからその話を聞きましたが」。この半蔵の改暦に関する建白とは、かなり彼の心をこめたもので、新政府が太陽暦を採用する際に、暦のような国民の生活に関係の深いものまで必ずしもそう西洋流儀に移る必要はなく、この国にはこの国の風土に適した暦もあっていいとの趣意から、当局者の参考にと提出したのであった。それは立春の日をもって正月元日とする暦の建て方である。彼は仮に「皇国暦」とその名を呼んで見た。不幸にも、この建白は万国共通なものを持とうとする改暦の趣意に添いがたいとのかどで、当局者の耳を傾けるところとはならなかった。お民は言った。「なんですか、わたしにゃよくわかりませんがね、うちでもかなり残念がってはいるようですよ」。当時、民間有志の建白はそうめずらしいことでもない。しかし新政府で採用した太陽暦もまだ試みのような時のことで、それにつながる半蔵の建白はとかく郷里の人の口に上っていた。狭い山の中ではそうした意見の内容よりも建白そのものを話の種にして、さも普通でない行為か何かのようにうわさもとりどりである。中には、彼が落胆のあまり精神に異状を来たしたそうだなどと取りざたするものさえある。 寿平次が戸長役場の方から戻って来るころには、得右衛門もまだ話し込んでいた。ふとお民は幼いものの泣き声を聞きつけ、付けて置いた下女のお徳の手から和助を受け取り、子供を仮寝させるによい仲の間の方へ抱いて行った。そこは兄が寛ぎの間に続いていて、部屋の唐紙のあいたところから隣室での話し声が手に取るように聞こえる。「あれからですよ、どうも馬籠の青山は変わり者だという風評が立ったのは」というのは兄の声だ。「とかく、建白の一件は崇りますナ」と得右衛門の声で。「そんな変わり者だなんて言われたら、だれだって気持ちはよかない。あれで半蔵さんも『自分は奇人とは言われたくない、』と言っていますさ」とまた兄の声で。夫のうわさだ。お民は片肘を枕に、和助に乳房をくわえさせ、子供がさし入れる懐の中の小さな手をいじりながら、隣室からもれて来る話し声に耳を澄ました。頑固なように見えて、その実、新しいものを受けいれ、時と共に推し移ろうとする兄と、めまぐるしく変わり行く世に迎合するでもなく、さりとて軽蔑するでもなく、ただただながめ暮らしているような昔気質の得右衛門との間には、いろいろな話が出る。以前に比べると、なんとなくあの半蔵が磊落になったというものもあるが、半蔵は決して磊落な人ではないという話が出る。初めて一緒に江戸への旅をして横須賀在の公郷村に遠い先祖の遺族を訪ねた青年の日から、今はすでに四十二歳の厄年を迎えるまでの半蔵を見て来た寿平次には、すこしもあの人が変わっていないという話も出る。なるほど、水戸の学問が興ったころから、その運動もまたはなやかであったころから、それと並んで復古の事業にたずさわり、ここまで道を開けるために百方尽力したは全国四千人にも達する平田篤胤没後の諸門人であり、その隠れた骨折りは見のがすべきではないけれども、中津川の景蔵、香蔵、馬籠の半蔵なぞの同門の友だち仲間が諸先輩から承け継いだ国学で、どうこの世界の波の押し寄せて来た時代を乗ッ切るかは見ものだという話なぞも出る。 「痛」。思わずお民は添い寝をしている子供の鼻をつまんだ。子供が乳房をかんだのだ。お民は半ば身を起こすようにした。彼女はそっと子供のそばを離れ、おばあさんやお里のいる方へ一緒になりに行こうとしたが、そのたびに和助が無心な口唇を動かして、容易に母親から離れようとしなかった。 |
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五 | |
「まあ、お前のように、そう心配したものでもないよ」。こういうおばあさんの声を聞いたのは、やがてお民が妻籠を辞し去ろうとする四日目の朝である。たとい今度の里帰りには、娘お粂のことについてわざわざ来たほどのよい知恵も得られず、相談らしい相談もまとまらずじまいではあっても、無事でいるおばあさんたちの顔を見て慰められたり励まされたりしたというだけにも彼女は満足しようとした。そこへお里も来て、「お民さん、まだお粂の御祝言までには間もあることですから、気に入った着物でも造ってくれて、様子をごらんなさるさ」。「そうだとも」とおばあさんも言う。「そのうちにはお粂の気も変わりますよ」とまたお里がなんとなく夫寿平次に似て来たような冷静なところを見せて言った。「いくら読み書きの好きな娘だって、十八やそこいらで、そうはっきりした考えのあるもんじゃありませんよ」。「お里の言うとおりさ。好きな小袖でも造ってくれてごらん。それが何よりだよ。わたしたちの娘の時分には、お前、自分の箪笥ができるのを何よりの楽しみにして、みんな他へ嫁いたくらいだからねえ」とおばあさんも言葉を添えた。子から孫の代を見て、曾孫まであるこのおばあさんは、深窓に人となった自分の娘時分のことをそこへ持ち出して見せた。ことに、その「箪笥」には力を入れて。 こんなことで、お民はそこそこに戻りのしたくした。馬籠の方に彼女を待つ夫ばかりでなく、娘のことも心にかかって、そう長くは生家に逗留しなかった。うこぎの芽にはやや早く、竹の子にもまだ早くて、今は山家も餅草の季節であるが、おばあさんはたまの里帰りの孫娘のために、あれも食わせてやりたい、これも食わせてやりたいと言う。その言葉だけでお民にはたくさんだった。来た時と同じように、彼女は鈴の鳴る巾着を和助の腰にさげさせ、それから下女のお徳の背におぶわせた。「あれ、お民、もうお帰りかい。それでも、あっけない。和助もまたおいでや。この次ぎに来る時は大きくなっておいでや。まだまだおばあさんも達者で待っていますよ」。このおばあさんにも、お民は別れを告げて出た。 街道には、伊勢参宮の講中なぞが群がり集まるころである。木曾路ももはや全く以前のような木曾路ではない。お民の亡き舅、吉左衛門なぞが他の宿役人を誘い合わせ、いずれも定紋付きの麻の ![]() ![]() 諸方の城郭も、今は無用の長物として崩されるまっ最中だ。上松宿の原畑役所なぞが取り払われたのは、早くも明治元年のことである。それは尾州藩で建てた上松の陣屋とも、または木曾御材木役所とも呼び来たったところである。お民が人のうわさによく聞いた木曾福島の関所の建物、彼女の夫がよく足を運んだ山村氏の代官屋敷――すべてないものだ。二百何十年来この木曾地方を支配するようにそびえ立っていたあの三棟の高い鱗茸きの代官屋敷から、広間、書院、錠口より奥向き、三階の楼、同心園という表居間、その他、木曾川に臨む大小三、四十の武家屋敷はことごとく跡形もなく取り払われた。どれほどの深さに達するとも知れないような、この大きな破壊のあとには何が来るか。世にはいろいろと言う人がある。徳川十五代将軍が大政奉還を聞いた時に、よりよい古代の復帰を信じて疑わなかったような平田門人としても、彼女の夫たちはなんらかの形でこれに答えねばならなかった。 |
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底本:「夜明け前 第二部(上)」岩波文庫、岩波書店 1969(昭和44)年3月17日第1刷発行 2000(平成12)年5月15日第27刷改版 底本の親本:「改版本『夜明け前』」新潮社 1936(昭和11)年7月発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:大野晋、砂場清隆 校正:原田頌子 2001年6月27日公開 2009年11月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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(私論.私見)