夜明け前第二部上の6、第六章

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【夜明け前第二部上の6、第六章】
 一
 新帝東幸のおうわさがいよいよ事実となってあらわれて来たころは、その御通行筋に当たる東海道方面は言うまでもなく、木曾街道の宿々村々にいてそれを伝え聞く人民の間にまで和宮様御降嫁の当時にもまさる深い感動をよび起こすようになった。慶応四年もすでに明治元年と改められた。その年の九月が来て見ると、奥羽の戦局もようやく終わりを告げつつある。またそれでも徳川方軍艦脱走の変報を伝え、人の心はびくびくしていて、毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのような時であった。もはや江戸もない。これまで江戸と呼び来たったところも東京と改められている。今度の行幸ぎょうこうはその東京をさしての京都方の大きな動きである。これはよほどの決心なしに動かれる場合でもない。一方には京都市民の動揺があり、一方には静岡以東の御通行さえも懸念せられる。途中に鳳輦ほうれんを押しとどめるものもあるやの流言もしきりに伝えられる。東山道方面にいて宿駅のことに従事するものはそれを聞いて、いずれも手に汗を握った。というは、あの和宮様御降嫁当時の彼らが忘れがたい経験はこの御通行の容易でないことを語るからであった。

 東海道方面からあふれて来る旅人の混雑は、馬籠のような遠く離れた宿場をも静かにして置かない。年寄役で、問屋後見を兼ねている伏見屋の伊之助は例のように、宿役人一同を会所に集め、その混雑から街道を整理したり、木曾
しも四か宿の相談にあずかったりしていた。七里役(飛脚)の置いて行く行幸のうわさなぞを持ち寄って、和宮様御降嫁当時のこの街道での大混雑に思い比べるのは桝田屋ますだやの小左衛門だ。助郷すけごう徴集の困難が思いやられると言い出すのは梅屋の五助だ。時を気づかう尾州の御隠居(慶勝よしかつ)が護衛の兵を引き連れ熱田あつたまで新帝をお出迎えしたとの話を持って来るのは、一番年の若い蓬莱屋ほうらいやの新助だ。そこへ問屋の九郎兵衛でも来て、ふとった大きなからだで、皆の間に割り込もうものなら、伊之助の周囲まわりは男のにおいでぷんぷんする。彼はそれらの人たちを相手に、東海道の方に動いて行く鳳輦を想像し、菊の御紋のついた深紅色のにしき御旗みはたの続くさかんな行列を想像し、惣萌黄そうもえぎ股引ももひきを着けた諸士に取り巻かれながらそれらの御旗を静かに翻し行く力士らの光景を想像した。彼はまた、外国の旋条銃せんじょうじゅうと日本の刀剣とで固めた護衛の武士の風俗ばかりでなく、軍帽、烏帽子えぼし陣笠じんがさ、あるいは鉄兜てつかぶとなぞ、かぶり物だけでも新旧時代の入れまじったところは、さながらにじのごとき色さまざまな光景をも想像し、この未曾有みぞうの行幸を拝する沿道人民の熱狂にまで、その想像を持って行った。

 十月のはじめには、新帝はすでに東海道の
新井あらい駅に御着おんちゃく、途中潮見坂しおみざかというところでしばらく鳳輦をめさせられ、初めて大洋を御覧になったという報告が来るようになった。そこにひらけたものは、遠くはても知らない鎖国時代の海ではなくて、もはや彼岸ひがんに渡ることのできる大洋である。木曾あたりにいて、想像する伊之助にとっても、これは多感な光景であった。「や、これはよいお話だ。半蔵さんにも聞かせたい」と伊之助は言って見たが、あいにくと半蔵が会所に顔を見せない。この街道筋の混雑の中で、半蔵の父吉左衛門の病は重くなった。中津川から駕籠かごで医者を呼ぶの、組頭庄助しょうすけを山口村へも走らせるのと、本陣の家では取り込んでいた。
 二
 一日として街道に事のない日もない。ともかくも一日の勤めを終わった。それが会所を片づけて立ち上がろうとするごとに伊之助の胸に浮かんで来ることであった。その二、三日、半蔵が病める父のもとに付きッきりだと聞くことも、伊之助の心を重くした。彼はその様子を知るために、砂利じゃりで堅めた土間を通って、問屋場といやばの方をしまいかけている栄吉を見に行った。そこには日〆帳ひじめちょうを閉じ、小高い台のところへ来て、その上に手をつき、叔父おじ(吉左衛門のこと)の病気を案じ顔な栄吉を見いだす。栄吉は羽目板はめいたの上の位置から、台の前の蹴込けこみのところに立つ伊之助の顔をながめながら、長年中風をわずらっているあの叔父がここまで持ちこたえたことさえ不思議であると語っていた。

 その足で、伊之助は本陣の
母屋もやまでちょっと見舞いを言い入れに行った。半蔵夫婦をはじめ、おくめや宗太まで、いずれも裏二階の方と見えて、広い囲炉裏ばたもひっそりとしている。そこにはまた、あかあかと燃え上がる松薪まつまきの火を前にして、母屋を預かり顔に腕組みしている清助を見いだす。清助は言った。「伊之助さま、ここの旦那はもう三晩も四晩も眠りません。おれには神霊みたまさまがついてる、神霊さまがこのおれをまもっていてくださるから心配するな、ナニ、三晩や四晩ぐらい起きていたっておれはちっともねむくない――そういうことを言われるんですよ。大旦那の病気もですが、あれじゃ看護するものがたまりません。わたしは半蔵さまの方を心配してるところです」。それを聞くと、伊之助は病人を疲れさせることを恐れて、裏の隠居所までは見に行かなかった。極度に老衰した吉左衛門の容体、中風患者のこととて冷水で頭部を冷やしたり温石で足部をあたためたりするほかに思わしい薬もないという清助の話を聞くだけにとどめて、やがて彼は本陣の表門を出た。 

 伊之助ももはや三十五歳の男ざかりになる。半蔵より三つ年下である。そんなに
年齢としの近いことが半蔵に対して特別の親しみを覚えさせるばかりでなく、きげんの取りにくい養父金兵衛に仕えて来た彼は半蔵が継母のおまんに仕えて来たことにもひそかな思いやりを寄せていた。二人はかつて吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられた日に、同じく木曾福島の代官所からの剪紙きりがみ(召喚状)を受け、一方は本陣問屋庄屋三役青山吉左衛門せがれ、一方は年寄兼問屋後見役小竹金兵衛忰として、付き添い二人、宿方惣代そうだい二人同道の上で、跡役あとやくを命ぜられて来たあれ以来の間柄である。しかし、伊之助もいつまでもとの伊之助ではない。次第に彼は隣人と自分との相違を感ずるような人である。いかに父親思いの半蔵のこととは言え、あの吉左衛門発病の当時、たとい自己の寿命を一年縮めても父の健康に代えたいと言ってそれをいのるために御嶽参籠おんたけさんろうを思い立って行ったことから、今また不眠不休の看護、もう三晩も四晩も眠らないという話まで――彼伊之助には、心に驚かれることばかりであった。「どうして半蔵さんはああだろう」。
 本陣から上隣りの石垣の上に立つ造り酒屋の堅牢けんろう住居すまいが、この伊之助の帰って行くのを待っていた。西は厚い白壁である。東南は街道に面したがっしりした格子である。暗い時代のあらしから彼が逃げ込むようにするところも、その自分の家であった。

 伏見屋では表格子の内を仕切って、一方を店座敷に、一方の入り口に近いところを板敷きにしてある。裏の酒蔵の方から番頭の運んで来る酒はその板敷きのところにたくわえてある。買いに来るものがあれば、
ますではかって売る。新酒揚げの日はすでに過ぎて、今は伏見屋でも書き入れの時を迎えていた。売り出した新酒の香気かおりは、伊之助が宿役人のはかまをぬいで前掛けにしめかえるところまで通って来ていた。「おとっさんは」。伊之助はそれを妻のお富にたずねた。隠居金兵衛も九月の下旬から中津川の方へ遊びに行き、月がかわって馬籠に帰って来ると持病のたんが出て、そのまま隠宅へもらずに本家の二階に寝込んでいるからであった。伊之助にしても、お富にしても、二人は両養子である。隣家に病む吉左衛門よりも年長の七十二歳にもなる養父がいかに精力家だからとはいいながら、もうそう長いこともあるまいと言い合って、なんでもしたいことはさせるがいいとも言い合って、夫婦共に腫物はれものにさわるようにしている。

 ちょうどお富は夕飯のしたくにかかっていたが、台所の流しもとの方からまた用事ありげに夫のそばへ来た。見ると、夫は何か
独語ひとりごとを言いながら、黒光りのする大黒柱の前をったり来たりしていた。「もうすこし、あたりまえということが大切に思われてもいいがナ」。「まあ、あなたは何を言っていらっしゃるんですかね」。「いや、おれはおとっさんに対して言ってるんじゃない。今の世の中に対してそう言ってるんさ」。この伊之助の言うことがお富を笑わせもし、あきれさせもした。何が「あたりまえ」で、何がそんな独語ひとりごとを言わせるのやら、彼女にはちんぷん、かんぷんであったからで。

 その時、お富は峠の組頭が来て夫の留守中に置いて行った一幅の軸をそこへ取り出した。それは木曾福島の代官山村氏が
御勝手仕法立おかってしほうだての件で、お払い物として伊之助にも買い取ってもらいたいという旦那様愛蔵の掛け物の一つであった。あの平兵衛が福島の用人からの依頼を受けて、それを断わりきれずに、あちこちと周旋奔走しているという意味のものでもあった。「へえ、平兵衛さんがこんなものを置いて行ったかい」。「あの人もお払い物を頼まれて、中津川の方へ行って来るから、帰るまでこれを預かってくれ、旦那がお留守でも話のわかるようにしといてくれ、そう言って置いて行きましたよ」。「平兵衛さんも世話好きさね。それにしても、あの山村様からこういう物が出るようになったか。まあ、おとっさんともあとで相談して見る」。

 もともと養父金兵衛は木曾谷での
分限者ぶげんしゃに数えられた馬籠の桝田屋惣右衛門ますだやそうえもん父子の衣鉢いはつを継いで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、山林には木の苗を植え、時には米の売買にもたずさわって来た人である。その年の福島の夏祭りの夜に非命の最期をとげた植松菖助うえまつしょうすけなぞは御関所番おせきしょばんの重職ながらにひざをまげて、生前にはよく養父のところへ金子きんすの調達を頼みに来たものだ。その実力においては次第に福島の家中衆からもおそれられたが、しかし養父とても一町人である。結局、多くのひくい身分のものと同じように、長いものには巻かれることを子孫繁栄の道とあきらめて来た。天明てんめい六年度における山村家が六千六百余両の無尽の発起をはじめ、文久二年度に旦那様の七千両の無尽の発起、同じ四年度に岩村藩の殿様の三万両の無尽の発起など、それらの大口ものの調達を依頼されるごとに、伏見屋でも二百両、二百三十両と年賦で約束して来た御上金おあげきんのことを取り出すまでもなく、やれお勝手の不如意ふにょいだ、お家の大事だと言われるたびに、養父が尾州代官の山村氏に上納した金高だけでもよほどの額に上ろう。

 伊之助はこの養父の妥協と屈伏とを見て来た。変革、変革の声で満たされている日が来たことは、町人としての彼を一層用心深くした。この大きな混乱の中に巻き込まれるというは、彼には恐ろしいことであった。いつでもそこから逃げ込むようにするところは、養父より譲られた屋根の下よりほかになかった。頼むは、忠、孝、正直、倹約、忍耐、それから足ることを知り分に安んぜよとの町人の教えよりほかになかった。そういう彼は少年期から青年期のはじめへかけてを、学問、宗教、工芸、商業なぞの早く発達した隣国の美濃に送った人で、文字の
たしなみのない男でもない。日ごろ半蔵を感心させるほどの素直な歌をむ。彼が開いて見る本の中には京大坂の町人の手に成った古版物や新版物の類もある。そういうものから彼が見つけて来たのは、平常な心をもつものの住む世界であった。彼は見るもの聞くものから揺られ通しに揺られていて、ほとほと彼の求めるような安らかさも、やさしさも、柔らかさも得られないとしている。彼は都会の町人が狭い路地なぞを選んで、そこに隠れ住むあのわびを愛する。また、あのほそみを愛する。彼は養子らしいつつしみ深さから、自分の周囲にある人たちのことばかりでなく、みずから志士と許してこの街道を往来する同時代の人たちのあの度はずれた興奮を考えて見ることもある。驚かずにはいられなかった。

 伊那
の谷あたりを中心にして民間に起こって来ている実行教(富士講)の信徒が、この際、何か特殊な勤倹力行と困苦にえることをもって天地の恩に報いねばならないということを言い出し、一家全員こぞって種々さまざまな難行事を選び、ちいさな子供にまで、早起き、はいはい、掃除そうじ、母三拝、その他飴菓子あめがしを買わぬなどの難行事を与えているようなあの異常な信心ぶりを考えて見ることもある。これにも驚かずにはいられなかった。しかし、彼は養父の金兵衛とも違い、隣家の半蔵と共になんとかしてこのむつかしい時を歩もうとするだけの若さを持っていた。豊太閤ほうたいこうの遺徳を慕うあの京大坂の大町人らが徳川幕府打倒の運動に賛意を表し、莫大ばくだいな戦費を支出して、新政府を助けていると聞いては、それを理解するだけの若さをも持っていた。いかに言っても、彼は受け身に慣れて来た町人で、街道を吹き回す冷たい風から立ちすくんでしまう。その心から、絶えず言いあらわしがたい恐怖と不安とを誘われていた。
 夕飯と入浴とをすました後、伊之助は峠の組頭が置いて行った例の軸物を抱いて、広い囲炉裏ばたの片すみから二階への箱梯子はこばしごを登った。「おとっさん」と声をかけて置いて、彼は二階の西向きの窓に近く行った。提灯でもつけて水をくむらしい物音が隣家の深い井戸の方から、その窓のところに響けて来ていた。「お父さん、」とまた彼は窓に近い位置から、次ぎの部屋に寝ていた金兵衛に声をかけた。「今ごろ、本陣じゃ水をくみ上げています。釣瓶繩つるべなわを繰る音がします」。金兵衛は東南をにして、行燈あんどんを引きよせ、三十年来欠かしたことのないような日記をつけているところだった。伊之助の言うことはすぐ金兵衛にも読めた。「吉左衛門さんもおわるいと見えるわい」と金兵衛は身につまされるように言って、そばへ来た伊之助と同じようにしばらく耳を澄ましていた。この隠居はたんが出て歩行も自由でないの、心やすい人のほかはあまり物も言いたくないの、それもざっと挨拶ぐらいにとどめてめんどうな話は御免こうむるのと言っているが、持って生まれた性分しょうぶんからの上でもじっとしていない人だ。「さっき、わたしは本陣へお寄り申して来ました。半蔵さんは病人に付きッきりで、もう三晩も四晩も眠らないそうです。今夜もあの人は徹夜でしょう」。伊之助はそれを養父に言って見せ、やがて山村家のお払い物を金兵衛の枕もとに置いて、平兵衛の話をそこへ持ち出した。これはどうしたものか、とその相談をも持ちかけた。「伊之助、そんなことまでこのおれに相談しなくてもいいぞ」と言いながらも、金兵衛は蒲団ふとんから畳の上へすこし乗り出した。平常から土蔵の前のなしの木に紙袋をかぶせて置いて、大風に落ちた三つの梨のうちで、一番大きな梨の目方が百三匁、ほかの二つは六十五匁ずつあったというような人がそこへ頭を持ち上げた。
 「お父さん、ちょっとこの行燈あんどんを借りますよ。よく見えるところへ掛けて見ましょう」。伊之助は代官の生活を連想させるような幅をその部屋の床の間に掛けて見せた。竹にらんをあしらって、その間に遊んでいる五羽の鶏を描き出したものが壁の上にかかった。それは権威の高い人の末路を語るかのような一幅の花鳥の絵である。過去二百何十年にもわたってこの木曾谷を支配し、要害無双の関門と言われた木曾福島の関所を預かって来たあの旦那様にも、もはや大勢たいせいのいかんともしがたいことを知る時が来て、太政官だじょうかんからの御達おたっしや総督府からの催促にやむなく江戸屋敷を引き揚げた紀州方なぞと同じように、いよいよ徳川氏と運命を共にするであろうかと思わせるようなお払い物である。「どれ、一つ拝見するか」。金兵衛は寝ながらながめていられない。彼は寝床を離れて、寝衣ねまきの上に袷羽織あわせばおりを重ね、床の間の方へはって行った。老いてはいるが、しかしはっきりした目で、行燈のあかりに映るその掛け物を伊之助と一緒に拝見に行った。彼は福島の旦那様の前へでも出たように、まず平身低頭の態度をとった。それからながめた。濃い、淡い、さまざまな彩色の中には、夜のことで隠れる色もあり、時代がついて変色した部分もある。「長くお世話になった旦那様に、金でお別れを告げるようで、なんだか水臭いな。水臭いが、これも時世だ。伊之助――品はよく改めて見ろよ」。「お父さん、ここに落款らっかん宗紫山そうしざんとしてありますね」。「これはシナ人の筆だろうか、どうも宗紫山とは聞いたことがない」。「さあ、わたしにもよくわかりません」。「何にしろ、これは古い物だ。それに絹地だ。まあ、気に入っても入らなくても、いただいて置け。これも御恩返しの一つだ」。「時に、お父さん、これはいくらに頂戴ちょうだいしたものでしょう」。「そうさな。これくらいは、はずまなけりゃなるまいね」。その時、金兵衛はしわだらけな手をぐっと養子の前に突き出して、五本の指をひろげて見せた。「五両」とまた金兵衛は言って、町人風情ふぜいの床の間には過ぎた物のようなその掛け軸の前にうやうやしくお辞儀一つして、それから寝床の方へ引きさがった。
 三
  雨のふるよな
  てっぽの玉のくる中に、
   とことんやれ、とんやれな。
  命も惜しまず
先駆さきがけするのも
  みんなおぬしのためゆえじゃ。
   とことんやれ、とんやれな。

  国をとるのも、人を殺すも、
  だれも本意じゃないけれど、
   とことんやれ、とんやれな。
  わしらがところの
  お国へ手向かいするゆえに。
   とことんやれ、とんやれな。

 馬籠の宿場の中央にある高札場の前あたりでは、諸国流行の
うたのふしにつれて、調練のまねをする子供らの声が毎日のように起こった。その名を呼んで見るのもまだ多くのものにめずらしい東京の方からは新帝も無事に東京城の行宮かりみや西丸に着御ちゃくぎょしたもうたとの報知しらせの届くころである。途中を気づかわれた静岡あたりの御通行には、徳川家が進んで駿河するが警備の事に当たったとの報知も来る。多くの東京市民は御酒頂戴ごしゅちょうだいということに活気づき、山車だしまで引き出して新しい都の前途を祝福したと言い、おりもおりとて三、四千人からの諸藩の混成隊が会津戦争からそこへ引き揚げて来たとの報知もある。

 馬籠の宿場では、毎日のようにこれらの報知を受け取るばかりでなく、一度は生命の危篤を伝えられた本陣吉左衛門の病状が意外にもまた見直すようになったことまでが、なんとなく宿内の人気を引き立てた。ある日も、伊之助は伏見屋の店座敷にいて、周囲の事情にやや胸をなでおろしながら会所へ出るしたくをするところであった。彼は隣家の主人がまだ宿内を見回るまでには至るまいと考え、自分の力にできるだけのことをして、なるべくあの半蔵を休ませたいと考えた。その時、店座敷の格子の外へは、街道に戯れている子供らの声が近づいて来る。彼は聞くともなしにその無心な
流行唄はやりうたを聞きながら、宿役人らしいはかまをつけていた。

 そこへお富が来た。お富は自分の家の子供らまでが
いくさごっこに夢中になっていることを伊之助に話したあとで言った。「でも、妙なものですね。ちょうどおとなのやるようなことを子供がやりますよ。梅屋の子供が長州、桝田屋ますだやの子供が薩摩、それから出店でみせ(桝田屋分家)の子供が土佐とかで、みんな戦ごっこです。わたしが吾家うちの次郎に、お前は何になるんだいと聞いて見ましたら、あの子の言うことがいい。おれは尾州ですとさ」。「へえ、次郎のやつは尾州かい」。「えゝ、その尾州――ほんとに、子供はおかしなものですね。ところが、あなた、だれも会津になり手がない」。この「会津になり手がない」が伊之助を笑わせた。お富は言葉をついで、「そこは子供じゃありませんか。次郎が蓬莱屋ほうらいやの子に、桃さ、お前は会津におなりと言っても、あの蓬莱屋の子は黙っていて、どうしても会津になろうとは言い出さない。桃さ、お前がなるなら、よい物を貸す、吾家うちのおとっさんに買ってもらった大事な木の太刀たちを貸す、きょうも――あしたも――ずっと明後日あさってもあれを貸す、そう次郎が言いましたら、蓬莱屋の子はよっぽど借りたかったと見えて、うん、そんならおれは会津だ、としまいに言い出したそうです。会津になるものはたれるんだそうですからね」。「よせ、そんな話は。おれは大げさなことはきらいだ」。

 ごくわずかの時の間に、伊之助はお富からこんな子供の話を聞かされた。彼は会所へ出かける前、ちょっと裏の酒蔵の方を見回りに行ったが、無心な幼いものの世界にまで激しい波の浸って来ていることを考えて見ただけでもハラハラした。でも、お富の言って見せたことが妙に気になって、天井の高い造酒場の内を一回りして来たあとで、今度は彼の方からたずねて見た。「お富、子供の戦さごっこはどんなことをするんだえ」。「そりゃ、あなた、だれも教えもしないのに、
石垣いしがきの下なぞでわいわい騒いで、会津になるものを追い詰めて行くんですよ。いよいよ石垣のすみに動けなくなると、そこで戦さに負けたものの方が、参った――と言い出すんです。まあ、どこから会津戦争のことなぞを覚えて来るんでしょう。あんなちいさな子供がですよ」。
 十月も末に近くなって、毎年定例の恵比寿講えびすこうを祝うころになると、全く東北方面も平定し、従軍士卒の帰還を迎える日が来た。過ぐるうるう四月に、尾州の御隠居(徳川慶勝よしかつ)が朝命をうけて甲信警備の部署を名古屋に定め、自ら千五百の兵を指揮して太田に出陣し、家老千賀与八郎ちがよはちろう先鋒せんぽう総括として北越に進軍した日から数えると、七か月にもなる。近国の諸侯で尾州藩に属し応援を命ぜられたのは、三河の八藩、遠江とおとうみの四藩、駿河するがの三藩、美濃の八藩、信濃の十一藩を数える。当時北越方面の形勢がいかに重大で、かつ危急を告げていたかは、これらの中国諸藩の動きを見てもおおよそ想像せられよう。

 もはや、東山道軍と共に率先して戦地に
おもむいた山吹藩やまぶきはんの諸隊は伊那の谷に帰り、北越方面に出動した高遠たかとお飯田二藩の諸隊も続々と帰国を急ぎつつあった。越後口から奥州路おうしゅうじに進出し、六十里ごえ、八十里越のけわしい峠を越えて会津口にまで達したという従軍の諸隊は、九月二十二日の会津落城と共に解散命令が下ったとの話を残し、この戦争の激しかったことをも伝えて置いて、すでに幾組となく馬籠峠の上を西へと通り過ぎて行った。

 この
凱旋兵がいせんへいの通行は十一月の十日ごろまで続いた。時には五百人からの一組が三留野みどの方面から着いて、どっと一時に昼時分の馬籠の宿場にあふれた。ようやくそれらの混雑も沈まって行ったころには、かねて馬籠から戦地の方へ送り出した荒町の禰宜ねぎ松下千里も、遠く奥州路から無事に帰って来るとの知らせがある。その日には馬籠組頭としての笹屋ささや庄助も峠の上まで出迎えに行った。「お富、早いものじゃないか。荒町の禰宜さまがもう帰って来るそうだよ」。その言葉を残して置いて、伊之助は伏見屋の門口を出た。彼は従軍の禰宜を待ち受ける心からも、また会所勤めに通って行った。

 連日の奔走にくたぶれて、会所に集まるものはいずれも
をくずしながら、凱旋兵士のうわさや会津戦争の話で持ちきった。その日の昼過ぎになっても松下千里は見えそうもないので、家事にかこつけて疲れを休めに帰って行く宿役人もある。例の会所の店座敷にはひとりで気をもむ伊之助だけが残った。本陣付属の問屋場もにわかに閑散になって、到着荷物の順を争うがやがやとした声も沈まって行った時だ。隣宿妻籠からの二人の客がそこへ見えた。妻籠本陣の寿平次と、本陣の得右衛門とくえもんとだ。「やれ、やれ、これでわたしたちも安心した。吉左衛門さんの病気もあの調子で行けば、まず峠を越したようなものです」。
 そういう妻籠の連中の声を聞くと、伊之助はその店座敷の一隅いちぐうに客の席をつくるほど元気づいた。同じ宿駅の勤めに従いながら、寿平次らがすこしも疲れたらしい様子のないには、これにも彼は感心した。連日の疲労を休める暇もなく、本陣への病気見舞いに来て、今その帰りがけであるということも、彼をよろこばせた。「まあ、座蒲団でも敷いてください。ここは会所で何もおかまいはできませんが、お茶でも一つ飲んで行ってください」と言いながら、伊之助は手をたたいて、会所の小使いを呼んだ。熱い茶の用意を命じて置いて、吉左衛門のうわさに移った。「なんと言っても、馬籠のおとっさん(吉左衛門のこと)にはねばり強いところがありますね」と言い出すのは寿平次だ。「そりゃ、寿平次さん、何十年となくこの街道の世話をして来た人で、からだの鍛えからして違いますさ」と言うのは得右衛門だ。「どうもあの病人は、寝ていても宿場のことを心配する。ああ気をもんじゃえらい。自分の病気から、半蔵の勤めぶりにまで響くようじゃ申しわけがない、青山親子に怠りがあると言われてはまことに済まないなんて、吉左衛門さんはどこまでも吉左衛門さんらしい」。「へえ、そんなお話が出ましたか」と伊之助は二人の話を引き取った。「なにしろ、看護も届いたんです。あれで半蔵さんは七日か八日もろくに寝なかったでしょう。よくからだが続きましたよ。わたしはあの人を疲れさせないようにと思って、会所の事務なぞはなるべく自分で引き受けるようにしていましたが、そこへあの凱旋がいせん、凱旋でしょう。助郷すけごうの人馬は滞る。御剪紙おきりがみは来る。まったく一時は目を回してしまいました」。「いや、はや、今度の御通行には妻籠でも心配しましたよ」と得右衛門は声を潜めながら、「何にしろ、いくさに勝って来た勢いで、鼻息が荒いや。あれは先月の二十八日でした。妻籠へは鍬野くわの様からお知らせがあって、あすお着きになるおおぜいの御家中方へは、宿々でもごちそうする趣だから、妻籠でもその用意をするがいいなんて、そんなことを言って来ましたっけ。こちらはおおぜいの御通行だけでも難渋するところへもって来て、ごちそうの用意さ。大まごつきにも何にも。あのお知らせは馬籠へもありましたろう」。「ありました」と伊之助はそれをけて、「なんでも最初のお知らせのあった時は、お取り持ちのしかたが足りないとでも言われるのかぐらいに思っていました。奥筋の方でもあの御家中方には追い追い難儀をしたとありましたが、その意味がはっきりしませんでした。そこへ、また二度目の知らせがある。今度は飛脚で、しかも夜中にたたき起こされる。あの時ばかりは、わたしもびっくりしましたよ。かみ四か宿の内で、宿役人が一人に女中が一人手打ちにされて、首を二つ受け取ったと言うんでしょう」。「その話さ。三留野みどのあたりの旅籠屋はたごやじゃ、残らず震えながらお宿をしたとか聞きましたっけ。」と得右衛門が言う。「待ってくださいよ」と伊之助は思い出したように、「実は、あとでわたしも考えて見ました。これには何か子細があります。凱旋の酒の上ぐらいで、まさかそんな乱暴は働きますまい。福島辺は今、よほどごたごたしていて、官軍の迎え方がしも四か宿とは違うんじゃありますまいか。その話をわたしは吾家うちの隠居にしましたところ、隠居はしばらく黙っていました。そのうちに、あの隠居が何を言い出すかと思いましたら、しかし街道の世話をする宿役人を手打ちにするなんて、はなはだもってわがままなしかただ、いくら官軍の天下になったからって、そんなわがままは許せない、ですとさ」。「いや、その説にはわたしも賛成だ」と寿平次は言った。「君のところの老人は金をもうけることにも抜け目がないが、あれでなかなか奇骨がある」。
 奥州から越後の新発田しばた、村松、長岡ながおか小千谷おぢやを経、さらに飯山いいやま、善光寺、松本を経て、五か月近い従軍からそこへ帰って来た人がある。とがった三角がたの軍帽をかぶり、背嚢はいのう襷掛たすきがけに負い、筒袖つつそでを身につけ、脚絆草鞋きゃはんわらじばきで、左の肩の上のにしき小片こぎれに官軍のしるしを見せたところは、実地を踏んで来た人の身軽ないでたちである。この人が荒町あらまち禰宜ねぎだ。腰にした長い刀のさしかたまで、めっきり身について来た松下千里だ。千里は組頭庄助その他の出迎えのものに伴われて、まず本陣へ無事帰村の挨拶に寄り、はじめて吉左衛門の病気を知ったと言いながら会所へも挨拶に立ち寄ったのであった。「ヨウ、禰宜さま」。その声は、問屋場の方にいる栄吉らからも、会所を出たりはいったりする小使いらの間からも起こった。軍帽もぬぎ、草鞋のひももといて、しばらく会所に休息の時を送って行く千里の周囲には、会津戦争の話を聞こうとする人々が集まった。その時まで店座敷に話し込んでいた寿平次や得右衛門までがまたそこへすわり直したくらいだ。

 さすがに千里の話はくわしい。この禰宜が越後口より進んだ一隊に付属する
兵粮方ひょうろうかたの一人として、はじめて若松城外の地を踏んだのは九月十四日とのことである。十九日未明には、もはや会津方の三人の使者が先に官軍にくだった米沢藩を通して開城降伏の意を伝えに来たとの風聞があった。それらの使者がいずれも深いかさをかぶり、帯刀も捨て、自縛して官軍本営の簷下のきしたに立たせられた姿は実にかわいそうであったとか。その時になると、白河口しらかわぐちよりするもの、米沢口よりするもの、保成口ぼなりぐち、越後口よりするもの、官軍参謀の集まって来たものも多く、評議もまちまちで、会津方が降伏の真偽も測りかねるとのうわさであった。

 翌二十日にはさらに会津藩の鈴木
為輔ためすけ、川村三助の両人が重役の書面を携えて国情を申し出るために、通路も絶えたような城中から進んで来た。彼千里はその二人の使者が兵卒の姿に身を変え、背中には大根をになって、官軍の本営に近づいて来たのを目撃したという。味方も敵も最前線にあるものはまだその事を知らない。その日は諸手しょての持ち場持ち場からしきりに城中を砲撃し、城中からも平日よりははげしく応戦した。二十二日が来た。いよいよ諸口の官兵に砲撃中止の命令の伝えられる時が来た。朝の八時ごろには約束のように追手門の外へ「降参」としるした大旗の建つのを望んだともいう。「いや、戦地の方へ行って見て、自分の想像と違うことはいろいろありました。同じ官軍仲間でも競争のはげしいには、これにもたまげましたね。どこの兵隊は手ぬるいの、どこの兵隊はまるで戦争を見物してるのッて、なかなか大やかまし。一緒に戦争するのはいやだなんて、しまいまで仲の悪かった味方同志のものもありましたよ。あれは九月の十九日でした、米沢藩の兵が着いたことがありました。ところがこの米沢兵と来たら、七連銃の隊もあるし、火繩仕掛ひなわじかけの三十目銃の隊もあるし、ミンベール銃とかの隊もある。大牡丹おおぼたん、小牡丹、いれまざりだ。おまけに木綿もめん筒袖つつそでで、背中には犬の皮を背負しょってる。さあ、みんな笑っちまって、そんな軍装の異様なことまでが一つ話にされるという始末でしょう。ちょっとした例がそれですよ」。

 気の置けない郷里の人たちを前にしての千里の
土産話みやげばなしには、取りつくろったところがない。この禰宜はただありのままを語るのだと言って、さらにうちとけた調子で、「これはまあ、大きな声じゃ言われないが、戦地の方でわたしも聞き込んで来たことがあります。土佐あたりの人に言わせると、今度の戦争は諸国を統一する御主旨でも、勝ち誇って帰る各藩有力者の頭をだれがおさえるか。そういうことを言っていました。七百年来も武事に関しないお公家くげさまが朝廷に勢力を占めたところで、所詮しょせん永続ながつづきはおぼつかない。きっと薩摩と長州が戦功を争って、不和を生ずる時が来る。そうなると、元弘げんこう建武けんむの昔の蒸し返しで、遠からずまた戦乱の世の中となるかもしれない。まあ、われわれは高知の方へ帰ったら、一層兵力を養って置いて、他日真の勤王をするつもりですとさ。ごらんなさい――土佐あたりの人はそんな気で、会津戦争に働いていましたよ。そりゃ一方に戦功を立てる藩があれば、とかく一方にはそれをねたんで、こまるように窮るようにと仕向ける藩が出て来る。こいつばかりは訴えようがない。そういうことをよく聞かされました。土佐もあれで今度の戦争じゃ、だいぶ鼻を高くしていますからね。」。こんな話をも残した。

 千里が荒町の方へ帰って行った後、得右衛門と寿平次とは互いに顔を見合わせていて、容易に腰を持ち上げようとしない。禰宜の置いて行った話は妙に伊之助をも沈黙させた。「さすがに、会津は最後までやった」と得右衛門は半分ひとりごとのように言って、やがて言葉の調子を変えて、「そう言えば、今の禰宜さまの話さ。どうでしょう、伊之助さん、あの禰宜さまが土佐の人から聞いて来たという話は」。伊之助は即座に答えかねていた。「さあ、ねえ」とまた得右衛門は伊之助の返事を催促するように、「半蔵さんならなんと言いますかさ。この世の中が遠からずまた大いに乱れるかもしれないなんて、そんなことを言われたんじゃ、実際わたしたちはやりきれない。武家の奉公はもうまッぴら」。「得右衛門さん、」と伊之助は力を入れて言った。「半蔵さんの言うことなら、わたしにはちゃんとわかってます。あの人なら、そう薩摩や長州の自由になるもんじゃないと言いましょう。今度の復古は下からの発起ですから、人民の心に変わりさえなければ、また武家の世の中になるようなことは決してないと言いましょう」。「どうです、寿平次さん、君の意見は。よっぽど考うべき時世ですね」と得右衛門が言う。「わたしですか。わたしはまあ高見の見物だ」。寿平次はその調子だ。
 四
 東北戦争――多年の討幕運動の大詰おおづめともいうべき戊辰ぼしんの遠征――その源にさかのぼるなら、開国の是非をめぐって起こって来た安政大獄あたりから遠く流れて来ている全国的の大争いが、この戦争に運命を決したばかりでなく、おそらく新しい時代の舞台はまさにこの戦争から一転するだろうとさえ見えて来た。当時、この日の来るのを待ち受けていた人たちのことについては、実にいろいろな話がある。阿島の旗本の家来で国事に心を寄せ、王室の衰えをなげくあまりに脱籍して浪人となり、元治げんじ年代の長州志士らと共に京坂の間を活動した人がある。たまたま元治甲子きのえねの戦さが起こった。この人は漁夫に変装して日々桂川かつらがわりをれ、幕府方や会津桑名の動静を探っては天龍寺にある長州軍の屯営とんえいに通知する役を勤めた。その戦さが長州方の敗退に終わった時、巣内式部すのうちしきぶら数十人の勤王家と共に幕吏のために捕えられて、京都六角の獄に投ぜられた。後に、この人は許されたが、王政復古を聞くと同時によろこびのあまりにか、精神に異状を来たしてしまったという。おそらくこの不幸な勤王家はこんな全国統一の日の来たことすら知るまいとの話もある。

 時代の空気の薄暗さがおよそいかなる程度のものであったかは、五年の天井裏からはい出してようやくこんな日のめを見ることのできた
水戸みと天狗連てんぐれんの話にもあらわれている。その侍は水戸家に仕えた大津地方の門閥家で、藤田小四郎らの筑波組つくばぐみと一致の行動は執らなかったが、天狗残党の首領として反対党からしきりに捜索せられた人だ。辻々つじつじには彼の首が百両で買い上げられるという高札まで建てられた人だ。水戸における天狗党と諸生党との激しい党派争いを想像するものは、直ちにその侍の位置を思い知るであろう。筑波組も西に走ったあとでは彼の同志はほとんどたすけのない孤立のありさまであった。襲撃があるというので、一家こぞって逃げなければならない騒ぎだ。長男には家に召使いのじいをつけて逃がした。これはある農家に隠し、馬小屋のわらの中に馬と共に置いたが、人目については困るというのでまぐさ飼桶かいおけをかぶせて置いた。夫人には二人の幼児と下女を一人連れさせて、かねて彼が後援もし危急を救ったこともある平潟ひらがたの知人のもとをたよって行けと教えた。これはお尋ね者が来ても決してかくしてはならないとのきびしいお達しだからと言って断わられ、日暮れごろにとぼとぼと帰路についた。おりよくある村の農家のものが気の毒がって、そこに三、四日も置いてくれたので、襲撃も終わり危険もないと聞いてから夫人らは家に帰った。当時は市川三左衛門さんざえもんをはじめ諸生党の領袖りょうしゅうが水戸の国政を左右する際で、それらの反対党は幕府の後援により中山藩と連合して天狗残党をとうとしていたので、それを知った彼は場合によっては天王山てんのうざんに立てこもるつもりで、武器をしらべると銃が七ちょうあるに過ぎない。土民らはまた蜂起ほうきして反対党の先鋒となり、竹槍たけやり蓆旗むしろばたを立てて襲って来たので、彼の同志数十人はそのためにたおれ、あるものは松平周防守すおうのかみの兵に捕えられ、彼は身をもって免かれるというありさまであった。その時の彼は、日中は山に隠れ、夜になってから歩いた。各村とも藩命によって出入り口に関所の設けがある。天狗党の残徒にとっては到底のがれるみちもない。大胆にも彼はその途中から引き返し、潜行して自宅にって見ると、家はすでに侵掠しんりゃくを被って、ついに身の置きどころとてもなかったが、一策を案じてかくれたのがその天井裏だ。その時はまだ捜索隊がいて、毎日昼は家の内外をあらために来る。天井板をずばりずばり鎗で突き上げる。彼はうつばりの上にいながら、足下に白く光るとがった鎗先を見ては隠れていた。
 三峰山みつみねさんというは後方にそびえる山である。昼は人目につくのを恐れて天井裏にいても、夜は焼き打ちでもされてはとの懸念から、その山に登ってやぶの中に様子をうかがい、夜の明けない先に天井裏に帰っているというのが彼の身を隠す毎日の方法であった。何を食ってこんな人が生きていられたろう。それには家のものが握飯むすびを二日分ずつざるに入れ、湯は土瓶どびんに入れて、押入れに置いてくれる。彼は押入れの天井板を取り除き、そこから天降あまくだりで飲み食いするものにありつき、客でも来るごとにその押入れに潜んでいてそれとなく客の話に耳を澄ましたり世間の様子をうかがったりした。時には、次男が近所の子供を相手に隠れんぼをはじめ、押入れに隠れようとして、家にはいないはずの父をそこに見つける。まっ黒な顔。延びた髪とひげ。光った目。その父が押入れの中ににらんで立っているのを見ると、次男はすぐに戸をぴしゃんとしめて他のところへ行って隠れた。子供心にもそれを口外しては悪いと考えたのであろう。時にはまた、用をすための彼が天井裏から床下に降りて行って、下男に見つけられることもある。驚くまいことか、下男はまっ黒なむじなのようなやつが縁の下にいると言って、それを告げに夫人のところへ走って行く。まさかそれが旦那だとは夫人も言いかねて、貉か犬でもあろうから捧で突ッついて見よなぞと言い付けると、早速さっそく下男が竹竿たけざおを取り出して来て突こうとするから、たまらない。幸いその床下には大きな炉が切ってあって、彼はそのかげに隠れたこともある。五年の月日を彼はそんな暗いところに送った。いよいよ王政復古となったころは、彼は長い天井裏からはい出し、大手を振って自由に濶歩かっぽしうる身となった。のみならず、水戸藩では朝命を奉じて佐幕派たる諸生党を討伐するというほどの一変した形勢の中にいた。彼としてはまことに時節到来の感があったであろう。間もなく彼は藩命により、多年うらみの敵なる市川三左衛門らの徒を捕縛すべく従者数名を伴い奥州におもむいたという。官軍が大挙して奥羽同盟の軍を撃破するため東北方面に向かった時は、水戸藩でも会津に兵を出した。その中に、同藩銃隊長として奮戦する彼を見かけたものがあったとの話もある。
 すべてがこの調子だとも言えない。水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もなく、また維新直後にそれほど恐怖時代を顕出した地方もめずらしいと言われる。しかし、信州伊那の谷あたりだけでも、過ぐる年の密勅事件に関係して自ら毒薬を仰いだもの、元治年代の長州志士らと運命を共にしたもの、京都六角通りの牢屋ろうやとらわれの身となっていたものなぞは数え切れないほどある。いよいよ東北戦争の結果も明らかになったころは、それらの恨みをのんで倒れて行ったものの記憶や、あるいは闇黒あんこくからはい出したものの思い出のさまざまが、眼前の霜葉しもは枯れ葉と共にまた多くの人の胸に帰って来た。

 今さら、過ぐる長州征伐の結果をここに引き合いに出すまでもないが、あの征伐の一大失敗が徳川方を
覚醒させ、封建諸制度の革新を促したことは争われなかった。いわゆる慶応の改革がそれで、二百年間の繁文縟礼はんぶんじょくれいが非常な勢いで廃止され、上下共に競って西洋簡易のふうに移ったのも皆その結果であった。ふるい伝馬制度の改革が企てられたのもあの時からで、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、問屋場刎銭はねせんの割合も少なくなって、街道宿泊の方法まで簡易に改められるようになって行きかけていた。今度の東北戦争の結果は一層この勢いを助けもし広げもして、軍制武器兵服の改革は言うまでもなく、身分の打破、世襲の打破、主従関係の打破、その他根深くよどみ果てた一切の封建的なものの打破から、もはや廃藩ということを考えるものもあるほどの驚くべき新陳代謝を促すようになった。
 何事も土台から。旧時代からの藩の存在や寺院の権利が問題とされる前に、現実社会の動脈ともいうべき交通組織はまず変わりかけて行きつつあった。江戸の方にあった道中奉行所の代わりに京都駅逓司えきていしの設置、定助郷じょうすけごうその他種々さまざまな助郷名目の廃止なぞは皆この消息を語っていた。従来、諸公役の通行と普通旅人の通行には荷物の貫目にまで非常な差別のあったものであるが、それらの弊習も改められ、勅使以下の通行に特別の扱いすることも一切廃止され、公領私領の差別なくすべて助郷に編成されることになった。諸藩の旅行者たりとも皆相対あいたい賃銭を払って人馬を使用すべきこと、助郷村民の苦痛とする刎銭はねせんなるものも廃されて、賃銭はすべて一様に割り渡すべきこと、それには宿駅常備の御伝馬とそれを補助する助郷人馬との間になんらの差別を設けないこと――これらの駅逓司の方針は、いずれも沿道付近に住む百姓と宿場の町人ないし伝馬役との課役を平等にするためでないものはなかった。多年の問題なる助郷農民の解放は、すくなくもその時に第一歩を踏み出したのである。
 しかし、この宿場の改革には馬籠あたりでもぶつぶつ言い出すものがあった。その声は桝田屋ますだやおよび出店でみせをはじめ、蓬莱屋ほうらいや、梅屋、その他の分家に当たる馬籠町内の旦那衆の中から出、二十五軒あるふるい御伝馬役の中からも出た。もともと町内の旦那衆とても根は百姓の出であって、最初は梅屋の人足宿、桝田屋の旅籠屋はたごやというふうに、追い追いと転業するものができ、身分としてはひくい町人に甘んじたものであるが、いつのまにかこれらの人たちが百姓の上になった。かつて西の領地よりする参覲交代の諸大名がまださかんにこの街道を往来したころ、木曾寄せの人足だけでは手が足りないと言われるごとに、伊那の谷に住む百姓三十一か村、後には百十九か村のものが木曾への通路にあたる風越山かざこしやまの山道を越しては助郷の勤めにかよって来たが、彼ら百姓のこの労役に苦しみつつあった時は、むしろ宿内の町人が手につばをして各自の身代を築き上げた時であった。中には江戸に時めくお役人に取り入り、そのお声がかりから尾州侯の御用達ごようたしを勤めるほどのものも出て来た。どうして、これらの人たちが最下等の人民として農以下にいやしめられるほどの身分に満足するはずもない。頭を押えられれば押えられるほど、おごりも増長して、下着に郡内縞ぐんないじま、または時花はやり小紋、上には縮緬ちりめんの羽織をかさね、はかま、帯、腰の物までそれに順じ、知行取ちぎょうとりか乗り物にでも乗りそうな人柄に見えるのをよいとした時代もあったのである。
 さすがに二代目の桝田屋惣右衛門ますだやそうえもんはこれらの人たちの中ですこし毛色を異にしていた。幕府時代における町人圧迫の方針から、彼らの商業も、彼らの道徳も、所詮しょせんゆがめられずには発達しなかったが、そういう空気の中にい立ちながらも、この人ばかりは百姓の元を忘れなかった。すくなくも人々の得生ということを考え、この生はみな天から得たものとして、親先祖から譲られた家督諸道具その他一切のものは天よりの預かり物と心得、随分大切に預かれば間違いないとその子に教え、今の日本の宝の一つなる金銀もそれをわが物と心得て私用に費やそうものなら、いつか天道へもれ聞こえる時が来ると教えたのもこの人だ。八十年来の浮世の思い出として、大きな造り酒屋の見世先みせさきにすわりながら酒の一番火入れなどするわが子のために覚え書きをつづり、桝田屋一代目存生中のはなしのあらましから、分家以前の先祖代々より困窮な百姓であったこと、当時何不足なく暮らすことのできるようになったというのも全く先祖と両親のおかげであることを語り、人は得生の元に帰りたいものだと書き残したのもこの人だ。亭主ていしゅたる名称を継いだものでも、常は綿布、夏は布羽織、特別のおりには糸縞いとじまか上はつむぎまでに定めて置いて、右より上の衣類等は用意に及ばない、町人は内輪に勤めるのが何事につけても安気あんきであると思うと書き残したのもまたこの人だ。この桝田屋の二代目惣右衛門は、わが子が得生のすくないくせに、口利口くちりこうで、人に出過ぎ、ことに宿役人なぞの末につらなるところから、自然と人の敬うにつけてもとかく人目にあまると言って、百姓時代の出発点を忘れそうな子孫のことを案じながら死んだ。しかし、三代目、四代目となるうちには、それほど惣右衛門父子が馬籠のような村にあって激しい生活苦とたたかった歴史を知らない。初代の家内が内職に豆腐屋までして、夜通し石臼いしうすをひき、夜一夜安気に眠らなかったというようなことは、だんだん遠い夢物語のようになって行った。それに、宿内の年寄役、組頭、皆それは村民の入札で定めたのが役替やくがえの時の古い慣例で、役替え札開きの日というがあり、礼高で当選したものが宿役人を勤めたのである。そのおりの当選者が木曾福島にある代官地へのお目見えには、両旦那様をはじめ、家老、用人、勘定方から、下は徒士かち、足軽、勘定下組の衆にまでそれぞれ扇子なぞを配ったのを見ても、安永あんえい年代のころにはまだこの選挙が行なわれ、したがって競争も激しかったことがわかる。いつのまにか、これとてもすたれた。年寄役も、組頭も、皆世襲に変わった。いかに不向きでもその家に生まれ、またはその家から分かれたものは自然に人から敬われ、旦那衆と立てられるようになって来た。あだかも江戸あたりの町人仲間に、株というものが固定してしまったように。

 この旦那衆だ。中にはいろいろな人がある。
駅逓司えきていしの趣意はまだ皆の間に徹しないかして、一概にこれを過激な改革であるとなし、自分らの利害のみを考えるものも出て来た。古い宿場の御伝馬役として今までどおりのわがままも言えなくなるとみて取った人たちの助太刀すけだちは、一層その不平の声を深めた。「これは宿場の盛衰にもかかわることだ。伏見屋の旦那あたりが先に立って、もっと骨を折ってくだすってもいい」。旧御伝馬役の中には、こんなことを言い出したものもある。
 民意の開発に重きを置いた尾州藩中の具眼者がまず京都駅逓司の方針に賛成したことは不思議でもない。このことが尾州領内の木曾地方に向かって働きかけるようになって行ったというのも、これまた不思議でもない。京都駅逓司の新方針によると、たとい諸藩の印鑑で保証する送り荷たりとも、これまでのように問屋場を素通りすることは許されない。公用藩用の名にかこつけて貫目を盗むことも許されない。そでの下もきかない。荷物という荷物の貫目は公私共に各問屋場で公平に改められることになった。

 東京と京都との間をつなぐ木曾街道の中央にあって、多年宿場に衣食した馬籠の御伝馬役の人たちはこの改革に神経をとがらせずにはいられなかったのである。彼らの多くは、継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷村民へ押しつけるような従来の弊習に慣れている。諸大名諸公役の大げさな御通行のあったごとに、すくなくも五、六百人以上の助郷村民は木曾四か宿に徴集されて来て朝勤め夕勤めの役に服したが、その
都度つど割りのよい仕事にありつき、なおそのほかに宿方の補助を得ていたのも彼らである。街道で身代を築き上げた旦那衆と同じように、彼らもまた宿場全盛のころのはなやかな昔を忘れかねている。宿駅と助郷村々との課役を平等にせよというような駅逓司の方針は彼らにとってこの特権から離れることにも等しかった。
 旧御伝馬役の一人に小笹屋こざさやの勝七がある。この人なぞは伊之助の意見を聞こうとして、ある夜ひそかに伏見屋の門口をたたいたくらいだ。「まあ、本陣へ行って聞いてくれ」。それが伊之助の答えだった。「オッと、伏見屋の旦那、それはいけません。宿の御伝馬役と在の助郷とはわけが違いますぞ。桝田屋の旦那でも、蓬莱屋ほうらいやの旦那でも、皆おれたちの肩を持ってくださる。お前さまのような人は、もっと宿内のものをかわいがってくだすってもいい」。そう勝七が言い立てても、伊之助は隣の国から来た養子の身ということをたてにして、はっきりした返事をしなかった。同じ旦那衆の一人でも、伊之助だけは中庸の道を踏もうとしている。この「本陣へ行って聞いてくれ」が、いつでも彼の奥の手だ。

 十二月の下旬には、この宿場ではすでに幾度か雪を見た。時ならない尾州藩の一隊が七、八十人の同勢で、西から馬籠昼食の予定で街道を進んで来た。木曾福島行きの御連中である。ちょうど余日もすくない年の暮れにあたり、宿内にあり合わせた人馬もあちこちと出払った時で、特に荷物の
継立つぎたてを頼むと言われても手が足りなかった。にわかなことで、助郷も間に合わない。宿駅改革の主旨にもとづく課役の平等は旦那衆の家へも回って行く。ともかくも交通機関の整理が完成されるまで、街道に居住するものはもとより、沿道付近の村民は皆各人が助郷たるの意気込みをもって、一軒につき一人ずつは出てこの非常時に当たれとある。こうなると、町人と言わず、百姓と言わず、宿内で人足を割り当てられたものは継立て方を助けねばならなかった。ある旦那衆などは、もうたまらなくってどなった。「何。われわれの家からそんな人足なぞに出られるか。本陣へ行って聞いて来い」。
 父吉左衛門もめっきり健康を回復して来たので、それに力を得て、人足のさしずをするために本陣を出ようとしていたのは半蔵である。彼はすでに隣家の伊之助を通して、町内の旦那衆や旧御伝馬役の意向を聞いていた。「もちろん」。半蔵の態度がそれを語った。あとは自分でも人足の姿に身を変え、下男の佐吉に言い付けて裏の木小屋から「せいた」(木曾風な背負子しょいこ)を持って来させた。細引ほそびきまで用意した。彼は町内の旦那衆なぞから出る苦情を取り合わなかった。自分でもその日の人足の中にまじり、継立て方を助けるようにして、それを一切の答えに代えようとしていた。「旦那、お前さまもさせるつもりか」と佐吉はそこへ飛んで来て言った。「おれが行かず。お前さまの代わりにおれが行かず。一軒のうちでだれか一人出ればそれでよからずに」とまた佐吉が言った。しかし、半蔵はもう背中に半蓑はんみのをつけて、敷居の外へ一歩ひとあし踏み出していた。尾州藩の一隊は幾組かに分かれて、本陣に昼食の時を送っている家中衆もある。幾本かのやりは玄関の式台のところに持ち込んである。あの客の接待には清助というものがあって、半蔵もその方には事を欠かなかった。「お民、頼んだぜ」。その言葉を妻に残して置いて、彼は客よりも先に自分の家の表門を出た。

 半月交代の問屋場は向こう上隣りの九郎兵衛方で開かれるころであった。問屋の前あたりには、思い思いに馬を引いて来る宿内の馬方もある。順番に当たった人足たちが上町からも下町からも集まって来ている。「本陣の旦那、よい馬は今みんな出払ってしまった。いくら狩り集めようとしても、女馬か、あんこ馬しかない」。そんなことを言って、人馬の間を分けながらあちこちと走り回る
馬指うまざしもある。「きょうはおれもみんなの仲間入りだぞ。おれにも一つ荷物を分けてくれ」。この半蔵の言葉は人足指にんそくざしばかりでなく、そこに働いている問屋の主人九郎兵衛をも驚かした。人足一人につき荷物七貫目である。半蔵はそれを「せいた」に堅く結びつけ、半蓑の上から背中にになって、日ごろ自分の家に出入りする百姓の兼吉らと共に、チラチラ雪の来る中を出かけた。「ホウ、本陣の旦那だ」とわけもなしにおもしろがる人足仲間もある。半蔵の方を盗むように見て、かさをかぶった首を縮め、くすくす笑いながら荷物を背負しょって行く百姓もある。「これからお前さま、妻籠まで――二里の山道はえらいぞなし」。兼吉の言い草だ。
 峠の上から一石栃いちこくとち(俗に一石)を経て妻籠までの間は、大きな谷の入り口に当たり、木曾路でも深い森林の中の街道筋である。過ぐる年月の間、諸大名諸公役らの大きな通行があるごとに、伊那方面から徴集される村民が彼らのくわを捨て、彼らの田園を離れ、木曾下四か宿への当分助郷、あるいは大助郷と言って、山蛭やまびるぶよなぞの多い四里あまりのけわしいみねの向こうから通って来たのもその山道である。背中にしたは、なんと言っても慣れない荷だ。次第に半蔵は連れの人足たちからおくれるようになった。荷馬の歩みに調子を合わせるような鈴音からも遠くなった。時には兼吉その他の百姓が途中に彼を待ち合わせていてくれることもある。平素から重い物を背負い慣れた肩と、山の中で働き慣れた腰骨とを持つ百姓たちとも違い、彼は手もあしも震えて来た。待ち受けていた百姓たちはそれを見ると、さかんに快活に笑って、またさっさと先へ歩き出すというふうだ。

 その日ほど彼も額からにじみ出る
あぶらのような冷たい汗を流したことはない。どうかすると、降って来る小雪が彼の口の中へも舞い込んだ。年の暮れのことで、凍り道にも行き悩む。熊笹くまざさを鳴らすつよい風はつれなくとも、しかし彼は宿内の小前こまえのものと共に、同じ仕事を分けることをむしろ楽しみに思った。また彼は勇気をふるい起こし、道を縦横に踏んで、峠の上で見つけて来た金剛杖こんごうづえを力に谷深く進んで行った。ようやく妻籠手前の橋場というところまでたどり着いて、あの大橋を渡るころには、後方からやって来た尾州藩の一隊もやがて彼に追いついた。
 五
 明治二年の二月を迎えるころは、半蔵らはもはや革新潮流のうずの中にいた。その勢いは、一方に版籍奉還奏請の声となり、一方には神仏混淆こんこう禁止の叫びにまで広がった。しかし、それがまだ実現の運びにも至らないうちに、交通の要路に当たるこの街道筋には早くもいろいろなことがあらわれて来た。木曾福島の関所もすでにくずれて行った。暮れに、七、八十人の尾州藩の一隊が木曾福島をさしてこの馬籠峠の上を急いだは、実は同藩の槍士隊そうしたいで、尾州公が朝命を受け関所の引き渡しを山村氏に迫る意味のものであったことも、後になってわかった。山村家であの関所をまもるために備えて置いてあった大砲二門、車台二りょう、小銃二十ちょう、弓十張とはりやり十二筋、三つ道具二通り、その他の諸道具がすべて尾州藩に引き渡されたのは、暮れの二十六日であった。その時の福島方の立ち合いは、白洲しらす新五左衛門と原佐平太とで、騎馬組一列、小頭こがしら足軽一統、持ち運びの中間小者ちゅうげんこものなど数十人で関所を引き払った。もっとも、尾州方の依頼で騎馬組七人だけは残ったが、二月六日にはすでに廃関が仰せ出された。

 福島代官所の廃止もそのあとに続いた。山村氏が木曾谷中の支配も当分立ち合いの名儀にとどまって、実際の指揮はすでに福島興禅寺を仮の本営とする尾州御側用人おそばようにん吉田猿松よしださるまつの手に移った。多年山村氏の配下にあった家中衆も、すべておいとまを告げることになり、追って禄高ろくだか等の御沙汰のある日を待てと言われるような時がやって来た。 木曾谷の人民はこんなふうにして新しい主人公を迎えた。福島の代官所もやがて総管所と改められるころには、御一新の方針にもとづく各宿駅の問屋の廃止、および年寄役の廃止を告げる総管所からのお触れが半蔵のもとにも届いた。それには人馬継立つぎたての場所を今後は伝馬所と唱えるはずである。ついては二名の宿方総代を至急福島へ出頭させるようにともしたためてある。もはや、革新につぐ革新、破壊につぐ破壊だ。
 「おっかさん、いよいよ問屋も御廃止ということになりました」。「そうだそうな。わたしはお民からも聞いたよ」。「会所もいよいよ解散です。年寄役というものも御廃止です」。半蔵と継母のおまんとはこんな言葉をかわしながら、互いの顔を見合わせた。「さっき、わたしはお民とも相談したよ。こんな話を聞いたらあのおとっさんはきっとびっくりなさる。まあ、お前にも言って置くが、このことはお父さんの耳へは入れないことにせまいか」とおまんが言い出した。さすがに賢い継母も一切を父吉左衛門には隠そうと言うほど狼狽ろうばいしていた。その年の正月にはおくればせながら父も古稀こきの祝いを兼ねて、病中世話になった親戚知人のもとへしるしばかりの蕎麦そばを配ったほど健康を回復した人である。でも、吉左衛門の老衰は争われなかった。からだの弱って来たせいかして、すこしのことにもすぐに心をいためた。そして一晩じゅう眠られないという話はよくあった。どうして、半蔵の方からそこへ持ち出して見たように、ありのままを父にも告げたらとは、この継母には考えられもしなかった。「ごらんな」とまたおまんは言った。「おとっさんがこの前の大病だって、気をおつかいなさるからだよ、お父さんはお前、そういう人だよ」。「でも、こんなことは隠し切れるものでもありませんし、わたしは話した方がいいと思いますが」。「なあに、お前、あのとおりお父さんは裏の二階に引っ込みきりさ。わたしが出入りのものによく言って聞かせて、口留めをして置いたら、お父さんの耳に入りッこはないよ」。「さあ、どういうものでしょうか」。「いえ、それはわたしが請け合う。あのお父さんのからだにさわりでもしたら、それこそ取り返しはつかないからね」。父のからだにさわると言われては、半蔵も継母の意見に任せるのほかはなかった。

 本陣の
母屋もやから裏の隠居所の方へ通って行く継母を見送った後、半蔵は周囲を見回した。おまんがあれほど心配するように、何事も父の耳へは入れまいとすればするほど、よけいに隠し切れそうもないようなこの改革の評判が早くも人の口から口へと伝わって行った。これは馬籠一宿の事にとどまらない。同じような事は中津川にも起こり、落合にも起こり、妻籠にも起こっている。現に、この改革に不服を唱え出した木曾福島をはじめ、奈良井ならいみやこし上松あげまつ三留野みどの、都合五か宿の木曾谷の庄屋問屋はいずれも白洲しらすへ呼び出され、吟味のかどがあるということで退役を申し付けられ、親類身内のもの以外には面会も許さないほどの謹慎を命ぜられた。在方ざいかたとしては、黒川村の庄屋が同じように退役を申し付けられたほどのきびしさだ。

 こういう時の彼の相談相手は、なんと言っても隣家の主人であった。「半蔵さん、それはこうしたらいいでしょう」とか、「ああしたらいいでしょう」とか心からの温情をもって助言をしてくれるのも、宿内の旦那衆仲間からはいくらか
継子ままこ扱いにされるあの伊之助のほかになかった。彼は裏の隠居所の方に気を配りながらも、これまでの長い奉公が武家のためにあったことを宿内の旦那衆に説き、復古の大事業の始まったことをも説いて、多くの不平の声を取りしずめねばならなかった。同時に、この改革の趣意がもっと世の中を明るくするためにあることをも説いて、簡易軽便の風に移ることを、旧御伝馬役の人々に勧めねばならなかった。理想にしたがえば、この改革は当然である。この改革にしたがえば、父祖伝来の名誉職のように考えて来たふるい家業を捨てなければならない。彼の胸も騒ぎつづけた。
 福島総管所の方へ呼び出された二人の総代は旧暦二月の雪どけの道を踏んで帰って来た。この人たちが携え帰った総管所の「心得書付こころえかきつけ」はおおよそ左のようなものであった。

一、東山道何宿伝馬所と申す印鑑をつくり、これまでの問屋と申す印鑑は取り捨て申すべきこと。
一、問屋付けの諸帳面、今後新規に相改め、御印鑑継立て、御証文継立て、御定めの賃銭払い継立てのものなど帳分けにいたし、付け込みかた混雑いたさざるよう取り計らうべきこと。一、筆、墨、紙、蝋燭ろうそく、炭の入用など、別帳にいたし、怠らずくわしく記入のこと。
一、宿駕籠しゅくかご桐油とうゆ提灯ちょうちん等、これまでのもの相改め、これまたしかるべく記入のこと。
一、新規の伝馬所には、元締役もとじめやく、勘定役、書記役、帳付け、人足指にんそくざし馬指うまざしなど――一役につき二人ほどずつ。そのうち、勘定役の儀は三人にてもしかるべし。その方どものうち申し合わせ、または鬮引くじびき等にて元締、勘定、書記の三役を取りきめ、帳付け以下の儀は右三役にて相選み、人名一両日中に申しづべきこと。もっとも、それぞれ月給の儀は追って相談あるべきこと。
一、宿駅助郷一致の御趣意につき、助郷村々に対し干渉がましき儀これなきよう、温和丁寧に仕向けそうろうよういたすべきこと。
一、御一新成就じょうじゅいたし候までは、二十五人二十五匹の宿人馬もまずまずこれまでのとおり立て置かれ候につき、御印鑑ならびに御証文にて継立ての分は宿人馬にて相勤め、付近の助郷村々より出人足でにんそくの儀は御定め賃銭払いの継立てにつかわし、右の刎銭はねせんを取り立つることは相成らず候。助郷人馬への賃銭は残らず相渡し、帳面記入厳重に取り調べ置き申すべきこと。
一、相対あいたい賃銭継立ての分は、宿人馬と助郷人足とを打ち込みにいたし、順番にてよろしく取り計らうべきこと。
 なお、右のほか、追い追い相談に及ぶべきこと。とある。
 これは新たに生まれて来る伝馬所のために書かれたもので、言葉もやさしく、平易に、「御一新成就いたし候まで」の当分臨機の処置であることが文面のうちにあらわれている。こんな調子は、旧時代の地方じかた御役所にはなかったことだ。ことに尾州藩から来た木曾谷の新しい支配者が宿駅助郷の一致に力瘤ちからこぶを入れていることは、何よりもまず半蔵をうなずかせる。しかしその細目さいもく詮議せんぎになると、木曾谷十一宿の宿役人仲間にも種々さまざまな議論がわいた。総管所からの「心得書付」にもあるように、当時宿場の継立てにはおよそ四つの場合がある。御印鑑の継立て、御証文の継立て、御定め賃銭払いの継立て、そして相対賃銭払いの継立てがそれだ。この書付の文面で見ると、印鑑および証文で継立ての分は宿人馬で勤め、助郷村々の出人足は御定め賃銭払いの継立てに使用せよとあるが、これは宿方と助郷との差別なく、すべて打ち込みにしたいとの説が出る。十一宿も追い追いと疲弊に陥って、初めての人馬を雇い入れるなぞには困難であるから、当分のうち一宿につき正金二百両ずつの拝借を総管所に仰ぎたいとの説も出る。金札(新紙幣)通用の励行は新政府のきびしい命令であるが、こいつがなかなかの問題で、当時他領の米商人をはじめ諸商人どもは金札を受け取ろうともしない。風のたよりに聞けば、松本領なぞでは金札相場を二割引きに触れ出したとのこと。これはどうしたものか。当節は他領の商人どもが何割引きでも新紙幣を受け取らないから、したがって切り替えをするものもなく、実に世上まちまちのありさまで、当惑難渋をきわめる。ついては、金札相場の通用高を一定してほしい――そういう説も出る。これらはすべて十一宿打ち合わせの上、総代連名の伺い書として総管所あてに提出することになった。「半蔵さま」と言いながら、組頭の庄助がよくこっそりと彼を見に来る。この人は、百姓総代として町人気質かたぎの旦那衆に対抗して来た意地いじずくからも、伝馬所の元締役その他の人選については、ひどく頭を悩ましていた。「どうだろう、庄助さん、今までのような大げさな御通行はもうあるまいか」。「まずありますまいな」。「ないとすれば、わたしには考えがある」。そう半蔵は言って、これまでのように二軒の継立て所を置く必要もあるまいから、これを機会に本陣付属の問屋場を閉じ、新しい伝馬所は問屋九郎兵衛方へ譲りたいとの意向をもらした。半蔵はすでにその決意を伊之助だけには伝えて置いてあった。庄助は言った。「しかし、半蔵さま。そうお前さまのように投げ出してしまわないで、もっと強くさっせるがいいぞなし。この馬籠の村を開いたのも、みんなお前さまの家の御先祖さまの力だ。いくらでも、お前さまは強くさっせるがいい」。
 とうとう、半蔵は自分の注文どおりに、新設の伝馬所を九郎兵衛方に譲り、全く新規なもののしたくをそこに始めさせることにした。新しい宿役人は入札の方法で、新規入れかわりに七人の当選を見た。世襲の長い習慣も破れて、家柄よりも人物本位の時に移り、本陣付属の問屋場でその勤めぶりを認められた半蔵の従兄いとこ亀屋かめやの栄吉のような人が宿役人仲間の位置に進んだ。こうなると、会所も片づけなければならない。諸帳簿も引き渡さなければならない。半蔵は下男の佐吉に言い付け、会所の小使いに手伝わせて、旧問屋場にあった諸道具一切を伝馬所の方へ運ばせることにした。彼は自分の部屋にこもり、例の店座敷のわきで、本陣、問屋、庄屋の三役を勤めて来た公用の記録の中から、伝馬所へ引き渡すべきものを選みにかかった。父吉左衛門の問屋役時代から持ち伝えた古い箱のひもを解いて見ると、京都道中通し駕籠かご、または通し人足の請負として、六組飛脚屋仲間や年行事の署名のある証文なぞがその中から出て来る。彼はまた別の箱の紐を解いた。あるものは駅逓司えきていし、あるものは甲府県、あるものは度会府わたらいふとして、駅逓用を保証する大小種々さまざまの印鑑がその中から出て来る。それらは最近の府藩県の動きを知るに足るもので、伝馬所に必要な宿駅の合印あいじるしである。尾州藩関係の書類、木曾下四宿に連帯責任のある書付なぞになると、この仕分けがまた容易でなかった。いかに言っても、会所や問屋場は半分引っ越しの騒ぎだ。いろいろなことが胸に満ちて来て、諸帳簿の整理もとかく彼の手につかなかった。
 お民が吉左衛門のことを告げにそこへはいって来たころは、店座敷の障子も薄暗い。「まあ、あなたは燈火あかりもつけないで、そんなところにすわってるんですか」。お民はあきれた。しょんぼりとはしているが、ひざもくずさないような夫を彼女はその薄暗い部屋に見たのだ。「おとっさんがどうした」と半蔵の方からきいた。「それがですよ。何か家の内にあるんじゃないかッて、しきりにおっかさんにきくんだそうですよ。これにはお母さんも返事に困ったそうですよ」とお民は言い捨てて、奥の方へ燈火を取りに行った。彼女は自分でさげて来た行燈あんどんを入れて、その部屋の内を明るくした。「どうも心が騒いでしかたがない」と半蔵は周囲を見回しながら言った。「さっきから、おれはひとりですわって見てるところさ」。「妻籠でもどうしていましょう」とお民は兄の家の方のことを思い出したように。「そりゃ、お前、寿平次さんのとこだって、おれの家と同じことさ。今ごろはきっと同じような話で持ちきっているだろうよ」。「そうでしょうかねえ」。「おれがお前に話してるようなことを、寿平次さんはお里さんに話してるにちがいないよ。そうさな、ずっと古いことはおれにもまあよくわからないが、吾家うちのお祖父じいさんにしても、おとっさんにしても、ほとんどこの街道や宿場のために一生を費やしたようなものさね。その長い骨折りがここのところへ来て、みんな水のあわのように消えてしまうなんて、そんなものじゃないとおれは思うよ。すくなくも本陣問屋として、諸国の交通事業に参加して来たのも青山家代々のものだからね。福島の総管所から来る書付にもそのことは書いてある。これまで本陣問屋で庄屋を兼ねるくらいのところは、荒蕪こうぶを切り開いた先祖からの歴史のある旧家に相違ないが、しかしこの際はそういう古い事に拘泥こうでいするなと教えてあるんだよ。あの笹屋ささやの庄助さんなぞはおれのところへやって来て、いくらでもお前さまは強く出さっせるがいいなんて、そんなことを言って行ったが、このおれたちが自分らをあと回しにしなかったら、どうして宿場の改革も望めないのさ」。「まあ、わたしにはよくわかりません。なんですか、あんなにおっかさんが心配していらっしゃるものですから、自分まで目がくらむような気がしますよ」。お民は子供に食わせることを忘れていなかった。彼女はこんな話を打ち切って、また囲炉裏ばたの方へまめまめしく働きに行った。
 山家はようやく長い冬ごもりの状態から抜け切ろうとするころである。恵那山えなさん谿谷けいこくの方に起こるさかんな雪崩なだれは半蔵が家あたりの位置から望まれないまでも、雪どけの水の音は軒をつたって、毎日のようにわびしく単調に聞こえている。いろいろなことを半蔵に思い出させるのも、石を載せた板屋根から流れ落ちるそのしずくの音だ。眠りがたい一夜をお民のそばに送った後、彼はその翌朝に会所の方を見回りに行った。何事も耳には入れずにある父のことも心にかかりながら、会所の入り口の戸をあけかけていると、ちょうどそこへやって来る伊之助と一緒になった。「いよいよ会所もおなごりですね」。そう語り合う二人は、明け渡した城あとでも歩き回るように、がらんとした問屋場の方をのぞきに行った。会所の方の店座敷の戸をも繰って見た。そこの黄色な壁、ここのすすけたふすま、何一つその空虚な部屋で目につくものは、高い権威をもって絶対の屈従をしいられた宿場の過去と、一緒にこの街道に働いた人たちの言葉にも尽くされない辛労とを語らないものはない。
 思わず半蔵は伊之助と共に、しばらく会所での最終の時を送った。その時、彼は伊之助の顔をながめながら、静かな声で、感ずるままを語った。彼に言わせると、先年お救い願いを尾州藩に差し出した当時、すでに宿相続をいかにすべきかが一同の問題になったくらいだ。あの時の帳尻ちょうじりを見てもわかるように、七か年を平均して毎年百七十両余が宿方の不足になっていた。あの不足が積もって行く上に、それを補って来た宿方の借財が十六口にも上って、利息だけでも年々二百四十四両余を払わねばならなかった。たとい尾州藩のお救いお手当てがあるとしても、この状態を推し進めて行くとしたら、結局滅亡に及ぶかもしれない。宿場にわだかまる多年の弊習がこの行き詰まりを招いた。さてこそ新規まき直しの声も起こって来たのである。これまで自分は一緒にこの街道に働いてくれる人たちと共に武家の奉公をこらえようとのみ考え、なんでも一つ辛抱せという方にばかり心を向けて来たが、問屋も会所もまた封建時代の遺物であると思いついて、いささか悟るところがあった。上御一人かみごいちにんですら激しい動きに直面したもうほどの今の時に、下のものがそう静かにしていられるはずもないと。伊之助は、つめをかみながら、黙って半蔵の言うことを聞いていた。半蔵の耳はまた、ややあかかった。「しかし、伊之助さんも御苦労さまでした。お互いに長い御奉公でした」とまた半蔵は言い添えた。もはや諸道具一切は伝馬所の方へ運び去られている。半蔵は下男の佐吉を呼んで、戸をしめ、かぎをかけることを言いつけて置いて、やがて伊之助と共に会所の前を立ち去った。
 六
 平田延胤のぶたねの木曾街道を通過したのは、馬籠ではこの宿場改革の最中であった。延胤は東京からの帰りみち下諏訪しもすわへと取り、熱心な平田篤胤あつたね没後の門人の多い伊那の谷をおとない、清内路せいないじに住む門人原信好のぶよしの家から橋場を経て、小昼こびる(午後三時)のころに半蔵の家に着いた。しばらく木曾路の西のはずれに休息の時を送って行こうとしていたのである。もっとも、この旅は延胤一人ひとりでもない。門下の随行者もある。伊那からそのあとを追い慕って、せめて馬籠まではと言いながら見送って来た南条村の館松縫助たてまつぬいすけのような人もある。
 延胤は半蔵が師鉄胤かねたねの子息で、故翁篤胤の孫に当たる。平田同門のものは日ごろ鉄胤のことを老先生と呼び、延胤を若先生と呼んでいる。思いがけなくもその人を見るよろこびに加えて、一行を家に迎へ入れ、自分の田舎いなかを見て行ってもらうことのできるというは、半蔵にとって夢のようであった。木曾は深い谿たにとばかり聞いていたのにこんな眺望ちょうぼうのひらけた峠の上もあるかという延胤を案内しながら、半蔵は西側の廊下へ出て、美濃から近江の方の空のかすんだ山々を客にさして見せた。その廊下の位置からは恵那山につづく幾つかの連峰全部を一目に見ることはできなかったが、そこには万葉の古い歌にある御坂みさかも隠れているという半蔵の話が客をよろこばせた。彼は上段の間へ人々を案内して、その奥まった座敷で、延胤が今京都をさして帰る途中にあることから、かねて門人片桐春一かたぎりしゅんいちを中心に山吹社中の発起になった条山じょうざん神社を伊那の山吹村に訪い、そこに安置せられた国学四大人の御霊代みたましろを拝し、なお、故翁の遺著『古史伝』の上木頒布じょうぼくはんぷと稿本全部の保管とに尽力してくれた伊那の諸門人の骨折りをねぎらいながら、行く先で父鉄胤に代わって新しい入門者に接して来たことなぞを聞いた。
 おまんやお民も茶道具を運びながらそこへ挨拶に出た。半蔵はそのそばにいて、これは母、これは妻と延胤に引き合わせた。彼は先師の孫にも当たる人に自分の継母や妻を引き合わせることを深いよろこびとした。めずらしい客と聞いてよろこぶおくめと宗太も姉弟きょうだいらしく手を引き合いながら、着物を着かえたあとの改まった顔つきで、これも母親のうしろからお辞儀に出た。半蔵の娘もすでに十四歳、長男の方は十二歳にもなる。

 延胤も旅を急いでいた。これから、中津川泊まりで行こうという延胤のあとについて、一緒に中津川まで行くことを半蔵に勧めるのも縫助だ。そういう縫助も馬籠まで来たついでに、同門の景蔵の家まで見送りたいと言い出す。これには半蔵も心をそそられずにはいられなかった。
早速さっそく彼は隣家の伏見屋へ下男の佐吉を走らせ、伊之助にも同行のよろこびを分けようとした。伊之助は上の伏見屋の方にいて、そのために手間取れたと言いわけをしながら、羽織袴はおりはかまでやって来た。「若先生です」。その引き合わせの言葉を聞くと、日ごろ半蔵のうわさによく出る平田先生の相続者とはこの人かという顔つきで、伊之助も客に会釈えしゃくした。
 一同中津川行きのしたくができた。そこで、出かけた。師鉄胤のうわさがいろいろと出ることは、半蔵の歩いて行く道を楽しくした。こんな際に、中央の動きを知ることは、彼にとっての何よりの励ましというものだった。彼は延胤一行の口から出ることを聞きもらすまいとした。過ぐる年の十月十三日に旧江戸城にお着きになった新帝にもいったん京都の方へ還御かんぎょあらせられたと聞く。それは旧冬十二月八日のことであったが、さらに再度の東幸が来たる三月のはじめに迫っている。それを機会に、師鉄胤もお供を申し上げながら、一家をあげて東京の方へ移り住む計画であるという。延胤が旅を急いでいるのもそのためであった。飽くまで先師の祖述者をもって任ずる鉄胤の方は参与の一人として、その年の正月からは新帝の侍講に進み、神祗官じんぎかんの中心勢力をかたちづくる平田派の学者を率いて、直接に新政府の要路に当たっているとか。今は師も文教の上にあるいは神社行政の上に、この御一新の時代を導く年老いた水先案内である。全国の代表を集めて大いに国是こくぜを定め新制度新組織の建設に向かおうとするための公議所が近く東京の方に開かれるはずで、その会議も師のような人の体験と精力とを待っていた。
 延胤は関東への行幸のことについてもいろいろと京都方の深い消息を伝えた。かくも諸国の人民が新帝を愛し奉り、競ってその御一行を迎えるというは理由のないことでもない。従来、主上と申し奉るは深い玉簾ぎょくれんの内にこもらせられ、人間にかわらせたもうようにわずかに限りある公卿くげたちのほかには拝し奉ることもできないありさまであった。それでは民の御父たる天賦の御職掌にももとるであろう。これまでのように、主上のいますところは雲上と言い、公卿たちは雲上人ととなえて、龍顔は拝しがたいもの、玉体は寸地も踏みたまわないものと、あまりに高く言いなされて来たところから、ついに上下隔絶して数百年来の弊習を形造るようになった。今や更始一新、王政復古の日に当たり、眼前の急務は何よりまずこの弊習を打ち破るにある。よろしく本朝の聖時にのっとらせ、外国の美政をも圧するの大英断をもって、帝自ら玉簾の内より進みいでられ、国々をめぐらせたまい、簡易軽便を本として万民を撫育ぶいくせられるようにと申上げたものがある。さてこそ、この未曾有みぞうの行幸ともなったのである。

 そればかりではない。もっと大きな事が、この行幸のあとに待っていた。皇居を京都から東京にうつし、そこに新しい都を打ち建てよとの声が、それだ。もし朝廷において一時の利得を計り、永久治安の策をなさない時には、すなわち北条の後に足利を生じ、前姦ぜんかん去って後奸こうかん来たるの覆轍ふくてつを踏むことも避けがたいであろう。今や、内にはくずれ行く中世的の封建制度があり、外には東漸するヨーロッパの勢力がある。かくのごとき社会の大変態は、開闢かいびゃく以来、いまだかつてないことであろうとは、もはや、だれもがそれを疑うものもない。この際、深くこの国を注目し、世界の大勢をも洞察し、国内のものが同心合体して、太陽はこれからかがやこうとの新しい希望を万民にいだかせるほどの御実行をあげさせられるようにしたい。それには、非常な決心を要する。眼前にある些少さしょうの故障を懸念けねんして、この遷都の機会をうしなったら、この国の大事もついに去るであろう――実際、こんなふうに言わるるほどの高いうしおがやって来ていた。

 一緒に街道を踏んで峠を降りて行く延胤に言わせると、遷都の説はすでに一、二の国学者先輩の書きのこしたものにも見える。それがここまで来て、言わば東幸の形で遷都の実をあげる機運を迎えたのだ。これには伊之助も耳を傾けていた。一同の行く先は言うまでもなく中津川の本陣である。ちょうど半蔵の友人景蔵も、香蔵も、共に京都の方から帰って来ているころで、景蔵の家には、めずらしく親しい人たちの顔がそろった。そこには落合から行った半蔵の
弟子でし勝重かつしげのような若い顔さえ見いだされた。そしてその東美濃の町に延胤を迎えようとする打ちくつろいだ酒盛さかもりがあった。その晩は伊之助もめずらしく酔って、半蔵と共に馬籠をさして帰って来たころは夜も深かった。
 三か月ほど後に、中津川の香蔵が美濃を出発し、東京へとこころざして十曲峠じっきょくとうげを登って来たころは、旅するものの足が多く東へ東へと向かっていた。今は主上も東京の方で、そこに皇居を定めたまい、平田家の人々も京都にあった住居すまいたたんで、すでに新しい都へ移った。旅を急ぐ香蔵に門口から声をかけられて見ると、半蔵の方でもそう友人を引き留めるわけに行かない。香蔵は草鞋ばきのまま、本陣の玄関の前から表庭の植木の間を回って、葉ばかりになった牡丹ぼたんの見える店座敷の軒先に来て腰掛けた。そこにを置いて、半蔵が勧める別れの茶を飲んだ。文字どおり席の暖まるにいとまのないような香蔵は、師のあとを追うのに急で、地方の問屋廃止なぞを問題としていない。半蔵はひどく別れを惜しんだ。野尻のじり泊まりで友人が立って行った後、彼は大急ぎで自分でもしたくして、木曾福島の旅籠屋はたごやまでそのあとを追いかけた。

 とうとう、
藪原やぶはらの先まで追って行った。五日過ぎには彼は友人の後ろ姿を見送って置いて、藪原からひとり街道を帰って来る人であった。旧暦五月の日の光は彼の目にある。平田同門の人たちの動きがしきりに彼の胸に浮かんだ。その時になって見ると、師岡正胤もろおかまさたね三輪田元綱みわたもとつな権田直助ごんだなおすけなぞはいずれも今は東京の方で師の周囲に集まりつつある。彼が親しい先輩暮田正香くれたまさかは京都皇学所の監察に進んだ。「そうだ、同門の人たちはいずれも十年の後を期した。奥羽の戦争を一期として、こんなに早く皆の出て行かれる時が来ようとは思わなかった」と彼は考えた。多くの人が統一のために協力した戦前と戦後とでは、こうも違うものかとさえ彼は思った。彼はまた、遠からず香蔵と同じように東京へ向かおうとする中津川の景蔵のことを考え、どんな要職をもって迎えられても仕える意のないあの年上の友人のことを考えて、謙譲で名聞みょうもんを好まない景蔵のような人をくさむらの中に置いて考えることも楽しみに思った。
 木曾福島の関所も廃されてからは、上り下りの旅行者を監視する番人の影もない。上松あげまつを過ぎ、三留野みどのまで帰って来た。行く先に謹慎を命ぜられていた庄屋問屋のあることは、今度の改革の容易でないことを語っている。この日になってもまだふるい夢のさめないような庄屋問屋は、一切外出を許さない、謹慎中は月代さかやきることも相成らない、病気たりとも医師の宅へ療養にまかり越すことも相成らない、もっとも自宅へ医師を呼び寄せたい時はそのむねを伺い出よ、居宅は人見ひとみをおろし大戸をしめくぐから出入りせよ、職業ならびに商法とも相成らない、右のほかわかりかねることもあらば宿役人を通して伺い出よとの総管所からのきびしいお達しの出たころだ。

 さらに妻籠まで帰って来た。半蔵が妻籠本陣へ見舞いを言い入れると、ちょうど寿平次は留守の時であったが、そこでも会所は廃され、問屋は変わる最中で、いったん始まった改革は行くところまで行かなければやまないような勢いを示していた。妻籠の宿場を離れると、木曾川の青い川筋も見えない。深い谷の尽きたところから林の中の山道になって、登れば登るほど木曾の西のはずれへ出て行かれる。五月の節句もまためぐって来て山家の軒にかけた
菖蒲しょうぶの葉も残っているころに、半蔵は馬籠の新しい伝馬所の前あたりまでって来た。旧会所の建物は本陣表門のならびに続いて、石垣の多い坂道の位置から伏見屋のすぐ下隣りに見える。さびしく戸のしまったその建物の前を立ち去りがたいようにして、をつきながらったり来たりしている人がある。その人が彼の父だ。大病以来めったに隠居所を離れたこともない吉左衛門だ。半蔵は自分の家の方へ降りかけたところまで行って、思わずハッとした。
 「おとっさん、どちらへ」。声をかけて見て、半蔵は父がめずらしく旧友金兵衛をたずねに行って来たことを知った。その父が家の門前までひとりでぽつぽつ帰って来たところだということをも知った。「お父さん、大丈夫ですか。そんなにひとりで出歩いて」と彼は言って、裏の隠居所まで父を送らせるために自分の子供をさがしたが、そこいらには宗太も遊んでいなかった。彼は自身に父を助けるようにして、ゆっくりゆっくり足を運んで行く吉左衛門に付き添いながら、裏二階の前まで一緒に歩いた。今は半蔵も問屋役から離れてしまったことを父に隠せなかった。新しい伝馬所は父の目にも触れた。継母や妻の心配して来たことを、いつまで父に告げないのはうそだ。その考えから、彼は母屋もやの方へ引き返して行った。

 「お民、帰ったよ」。その半蔵の声をきくと、お民は前の晩に
菖蒲しょうぶの湯をつくらせておそくまで夫を待ったことなぞを語った。そういう彼女は、やがてまた夫との間に生まれて来るものを待ち受けているような時である。彼女はすでに五人の子の母であった。もっとも、五人のうち、男の子の方は長男の宗太に、妻籠の里方へ養子にやった次男の正己まさみ。残る三人は女の子で、姉娘のお粂のほかには、さきに次女のお夏をうしない、三女に生まれたおまりという子もあったが、これも早世した。どうかして今度生まれて来るものは無事に育てたい。そんな話が夫と二人ぎりの時には彼女の口からもれて来る。彼女の内部なかに起こって来た変化はすでに包み切れないほどで、いろいろと女らしく心をつかっていた。
 夕方から、半蔵は父を見に行った。例の裏二階に、吉左衛門はおまんを相手の時を送っていた。部屋の片すみには父がからだを休めるための床も延べてある。これまで父の耳にも入れずにあったことは、半蔵がそれを切り出すまでもなく、吉左衛門は上の伏見屋の金兵衛からいろいろと聞いて来て、青山一家にまで襲って来たこんな強いあらしが早く通り過ぎてくれればいいという顔つきでいる。「きょうはくたぶれたぞ」と吉左衛門が言い出した。「まあ、おれもめずらしく気分のいい日が続くし、古稀こきの祝いのお礼にもまだ行かなかったし、そう思って、ふるい友だちの顔を見に行って来たよ。おれもへぼくなった。上の伏見屋まで坂を登るぐらいに、息が切れる。それにあの金兵衛さんがおれをつかまえて放さないと来てる。いろいろの宿場のうわさも出たよ――いや、大長咄おおながばなしさ」。老年らしい沈着おちつきをもった父の様子に、半蔵もやや心を安んじて、この宿場の改革が避けがたいというのも一朝一夕に起こって来たものではないことや、もはや木曾谷中から寄せた人足が何百人とか伊那の助郷から出た人足が千人にも及ぶとかいうようなそんな大通行の許される時代でないことや、したがって従来二十五人二十五匹のお定めの宿伝馬もその必要なく、今に十三人十三匹の人馬を各宿場に用意すればそれでも交通輸送に事を欠くまいというのが、福島総管所の方針であるらしいことなぞを父に告げた。「まあ、おれのような昔者には、今の世の中のことがわからなくなって来た」と吉左衛門は言った。「金兵衛さんの言い草がいい。とても自分には見ちゃいられないと言うんさ。あの隠居としたら、そうだろうテ」。「そう言えば、お父さんは夢をごらんなすったというじゃありませんか」と半蔵は父の顔をみまもる。「その夢さ」。「言って見れば、どんな夢です」。「まあはりが落ちて来たんだね。あんまり不思議な夢だから、易者にでも占ってもらおうかと思ったさ。何か家の内がごたごたしてる。さもなければ、あんな夢を見るはずがない。おれはそう思って、気になってしかたがなかった」。「実は、お父さん、わたしはありのままをお話しした方がいいと思っていたんです。おっかさんやお民が心配するものですからね――お父さんのからだにでもさわるといけないなんて、しきりにわたしを止めるものですからね――つい今までお父さんには隠してありました」。
 おまんは部屋を出たりはいったりしていた。彼女は半蔵父子の話の方に気を取られていたというふうで、次ぎの部屋から茶道具なぞをそこへ運んで来た。きのうのちまきは半蔵にも食わせたかったが、それも残っていない――そんな話が継母の口から出る。時節がら、その年の節句祝いも簡単にして、栄吉、清助の内輪のものを招くだけにとどめて置いたとの話も出る。吉左衛門は思い出したように、「いや、こういうことになって来るわい。今までおれも黙って見てたが、あの参覲交代が御廃止になったと聞いた時に、おれはもうあることにつかったよ」。「……」。「半蔵、本陣や庄屋はどうなろう」。「それがです、本陣、庄屋、それに組頭くみがしらだけは、当分これまでどおりという御沙汰がありました。それも当分と言うんですから、改革はそこまで及んで行くかもしれません」。その返事を聞くと、吉左衛門は半蔵の顔をながめたまましばらく言葉もなかった。

 「しかし、きょうはお父さんもお疲れでしょう。すこし横にでもおなりなすったら。」と半蔵が言葉をつづけた。「それがいい。そう話に身が入っちゃ、えらい」とおまんも言う。「じゃ、そうするか。この節は
よいから寝てばかりさ。おまんもおれにかぶれたと見えて、おれが横になれば、あれも横になる」。吉左衛門はそんなことを半蔵に言って見せて、笑って、おまんの勧めるままに新しいあわせ寝衣ねまきそでに手を通した。半蔵の見ている前で、細いひもを結んで、そこに敷いてある床の上にすわった。七十一歳を迎えた吉左衛門は、かねてある易者に言われたよりも一年多く生き延びた彼自身をその裏二階に見つけるような人であった。「半蔵、見ておくれよ」とおまんが言った。「ことしはお父さんに、こういうものを造りましたよ。わたしの丹精たんせいした袷だよ。お父さんはお前、この年になるまでずっと木綿もめんの寝衣で通しておいでなすった。やわらかな寝衣なぞは庄屋に過ぎたものだ、おれは木綿でたくさんだ――そうおっしゃるのさ。そりゃ、お前、氏神さまへ参詣さんけいする時の紙入れだって、お父さんは更紗さらさの裏のついたのしかお使いなさらないような人だからね。でも、わたしは言うのさ。七十のとしにもおなりになるなら、寝衣にやわらか物ぐらいはお召しなさるがいいッて――ね。どうしてもお父さんはこういうものを着ようとおっしゃらない。それをわたしが勧めて、ことしから着ていただくことにしましたよ」。
 こんなおまんの心づかいも、吉左衛門の悲哀かなしみを柔らげた。吉左衛門は床の上にすわったまま、を引きよせて、それをひざの上に載せながら、「まあ、金兵衛さんのところへも顔を出したし、これでおれも気が済んだ。明日か明後日のうちにはおくめや宗太を連れて、墓掃除そうじだけには行って来たい」。そう言って、先代隠居半六の命日が近いばかりでなく、村の万福寺の墓地の方には、早世した二人の孫娘が、きお夏とおまりとが、そこに新しい墓を並べて眠っていることまでを、あわれ深く思いやるというふうであった。「あれもこれもと思うばかりで、なかなか届かないものさね」とも吉左衛門は言い添えた。その晩、母屋もやの方へって行く半蔵を送り出した後、吉左衛門はまだ床の上にすわりながら、自分の長い街道生活を思い出していた。半蔵の置いて行った話が心にかかって、枕についてからもいろいろなことを思いつづけた。明日もあらば、と父は思い疲れて寝た。
 七
 六月にはいって、半蔵は尾州家の早い版籍奉還を聞きつけた。彼は福島総管所から来たその通知を父のところへ持って行って読み聞かせた。
徳川三位中将
今般版籍奉還の儀につき、深く時勢を察せられ、広く公議を採らせられ、政令帰一のおぼし召しをもって、言上ごんじょうの通り聞こし召されそうろう事。
 とある。これは新政府行政官から出たもので、主上においても嘉納かのうあらせられたとの意味の通知である。総管所からはこの趣を村じゅうへもれなく申し聞けよとも書付を添えて、庄屋としての半蔵のもとへ送り届けて来たものである。

 すでに起こって来た木曾福島の関所の廃止、代官所廃止、
種々さまざまな助郷名目の廃止、刎銭はねせんの廃止、問屋の廃止、会所の廃止――この大きな改革は、とうとうここまで来た。さきに版籍奉還を奏請した西南の諸侯はあっても、まだそれが実顕の運びにも至らないうちに、尾州家が率先してこのことを行ない、名を譲って実をあげようとするは、いわれのないことでもない。徳川御三家の随一として、水戸に対し、紀州に対し、その他の多くの諸侯に対し、大義名分を正そうとする尾州家にこのことのあるのは不思議でもない。あの徳川慶喜が大政を奉還し将軍職を辞退した当時、広大な領土までをそこへ投げ出すことを勧め、江戸城の明け渡しに際しても進んで官軍の先頭に立った尾州家に、このことのあるのもまた不思議でもない。「おとっさん、ここに別の通知がありますよ。徳川三位中将、名古屋藩知事を仰せ付けられるともありますよ」。「して見ると、藩知事公かい。もう名古屋のお殿様でもないのかい」。「まずそうです。人民の問屋も、会所も廃させて置いて、御自分ばかりむかしに安んずるような、そんなつもりはないのでしょう」。吉左衛門は半蔵と言葉をかわして見て、せがれの言うことにうなずいたが、目にはいっぱい涙をためていた。
 七月の来るころには、吉左衛門はもはやたてなかった。中風の再発である。どっと彼は床についていて、その月の半ばにはお民の安産を聞き、今度生まれた孫は丈夫そうな男の子であると聞いたが、彼自身の食は次第に細るばかりであった。そういう日が八月のはじめまで続いた。ついに、おまんや半蔵の看護もかいなく、養生もかなわずであった。彼は先代半六のあとを追って、妻子や孫たちにとりまかれながら七十一歳の生涯をその病床に終わった。それは八月四日、暮れ六つどきのことであった。その夜のうちに、吉左衛門の遺骸いがいは裏二階から母屋もやの奥の間に移された。栄吉、庄助、つづいて伊之助なぞはこの変事を聞いて、早速さっそく本陣へかけつけて来た。中でも、伊之助は福島総管所からのお触状ふれじょうにより、新政府が産業奨励の趣意から設けられた御国産会所というものへ呼ばれ、その会合から今々帰ったばかりだと言って、息をはずませていた。あわただしくもかけつけて来てくれたこの隣家の主人を見ることは、半蔵にとって一層時を感じさせ、夕日のように沈んで行った父の死を思わせた。

 翌朝は早くから、生前吉左衛門の恩顧を受けた出入りの衆が本陣に集まって来て、広い囲炉裏ばたや勝手口で働いた。よろこびにつけ、かなしみにつけ、事あるごとに手伝いに来て、互いに話したり飲み食いしたりするのは、出入りの衆の古くからの
慣例ならわしである。今は半蔵も栄吉や清助を相手に、継母の意見も聞いて、本陣相応に父を葬らねばならない。彼は平田門人の一人として、この際、神葬を断行したい下心であったが、従来青山家と万福寺との縁故も深く、かつ継母のおまんが希望もあって、しばらく皆の意見に従うことにした。ともかくも、この葬式は父の長い街道生活を記念する意味のものでありたいと彼は願った。なるべく手厚く父を葬りたい。そのことを彼は伊之助の前でも言い、継母にも話した。やがて納棺の用意もできるころには、東西の隣宿から泊まりがけで弔いに来る親戚旧知の人々もある。寿平次、得右衛門は妻籠から。かつて半蔵の内弟子うちでしとして少年時代を馬籠本陣に送ったことのある勝重かつしげは落合から。奥の間の机の上では日中の蝋燭ろうそくが静かにとぼった。木材には事を欠かない木曾山中のことで、棺も厚い白木で造られ、その中には仏葬のならわしによるありふれたものが納められた。おまんらが集まって吉左衛門のために縫った経帷子きょうかたびら珠数じゅず頭陀袋ずだぶくろ編笠あみがさ藁草履わらぞうり、それにおくめが入れてやりたいと言ってそこへ持って来た吉左衛門常用のつえ。いずれも、あの世への旅人姿のしるしである。おまんはそのそばへ寄って、吉左衛門のてのひらを堅く胸の上に組み合わせてやった。その時、半蔵はお粂や宗太を呼び寄せ、一緒によく父を見て置こうとした。長い、静かな口、大きな本陣鼻、生前よりも安らかな顔をした父がそこに眠っていた。多勢のものが別れを告げに棺の周囲に集まる混雑の中で、半蔵は自分の子供に注意することを忘れなかった。ようやく物心づく年ごろに達して、部屋のすみに腕を組みながら、じっと祖父の死を考え込むような顔つきをしているのは宗太だ。お粂は、と見ると、これは祖父にかわいがられた娘だけに、姉らしく目のふちをあかく泣きはらして、奥の坪庭の見える廊下の方へ行って隠れた。
 寿平次の妻、お里も九歳になる養子の正己まさみ(半蔵の次男)を連れて、妻籠からその夕方に着いた。日が暮れてから、半蔵は村の万福寺住持が代理として来た徒弟僧を奥の間に迎え、人々と共に棺の前に集まって、一しきり読経どきょうの声をきいた。吉左衛門が生前の思い出話もいろいろ出る中に、半蔵は父が小前こまえのものに優しかったこと、くなる前の三日ほどはほとんど食事も取らなかったこと、にわかに気分のよいという朝が来て、なんでも食って見ると言い出し、木苺きいちごの実の黄色なのはもう口へははいるまいかなぞと尋ね、孫たちをそばへ呼び寄せて放さなかったが、それが最後の日であったことを語った。父はお家流をよく書き、書体の婉麗えんれいなことは無器用な彼なぞの及ぶところでなかったが、おそらくその父の手筋は読み書きの好きなお粂の方に伝わったであろうとも語った。父はまた、美濃派の俳諧はいかいたしなみもあったから、臨終に近いまくらもとで、父から求めらるるままに、『風俗文選ふうぞくもんぜん』の一節を読み聞かせたが、さもあわれ深く父はそれを聞いていて、やがて、「半蔵、おれはもう行くよ」との言葉を残したとも語った。伊之助は言った。「そう言えば、吾家うちの隠居(金兵衛)もこんなことを言っていましたっけ――いつぞや吉左衛門さんが上の伏見屋へおたずねくだすって、大変に長いお話があった。あの時自分は気もつかなかったが、今になって考えて見ると、あれはこの世のお暇乞いとまごいにおいでくだすったのだわいッて」。
 吉左衛門の遺骸が本陣の門口まで運び出されたのは、翌日の午後であった。寺まで行かないものはその門口で見送るように、と呼ぶ清助の声が起こる。そこには近所のかみさんやばあさんなぞの女達がおもに集まっている。「お霜ばあ」。「あい」。「お前も早くおいでや」。「あい」。出入りの百姓兼吉のおふくろは人に呼ばれて、あたふたとそこへ走り出た。耳の遠いこの婆さんまでが、ありし日のことを思い出して、今はと見送ろうとするのであろう。その中には、珠数を手にした伊之助の妻のお富もまじっていた。その時、百姓の桑作は人を分けて、半蔵をさがした。桑作はそこに門火かどびいていた一人の若者を半蔵の前へ連れて行った。「旦那、これはおふき婆(半蔵の乳母うば)の孫よなし。長いこと山口の方へ行っていたで、お前さまも見覚えはあらっせまいが、あのおふき婆の孫がこんなにでかくなった。きょうはこれにもお見送りをさしてやっていただきたい。そう思って、おれが連れて来たに」と桑作は言った。
 間もなく野辺送のべおくりの一行は順に列をつくって、寺道の方へ動き出した。高く掲げた一対の白張提灯しらはりぢょうちんを案内にして、旧庄屋の遺骸がそのあとに続いた。施主の半蔵をはじめ、亀屋かめや栄吉、伏見屋伊之助、梅屋五助、桝田屋ますだや小左衛門、蓬莱屋ほうらいや新助、旧問屋九郎兵衛、組頭庄助、同じく平兵衛、妻籠本陣の寿平次、わき本陣の得右衛門なぞは、いずれも青い編笠あみがさに草履ばきで供をした。産後のお民だけは嬰児あかご森夫もりお(半蔵の三男)を抱いて引きこもっていたが、おまん、お喜佐、お里、それにお粂も年上の人たちと同じように彼女のみずみずしい髪を飾りのない毛巻きにして、その列の中に加わった。やがてこの行列が街道を右に折れ、田圃たんぼの間の寺道を進んで、万福寺の立つ小山に近づいたころ、そこまでついて行った勝重は清助と共に、急いで列を離れた。これは寺の方に先回りして一行を待ち受けるためである。万福寺にはすでに近村から到着した会葬者もある。今か今かと待ち受け顔な松雲和尚しょううんおしょうが勝重らを迎え入れ、本堂と庫裏くりの間の入り口のところに二人の席をつくってくれた。「それじゃ、勝重さん、帳面方は君に頼みますよ」と清助に言われるまでもなく、勝重はそこに古い机を控え、その日の書役かきやくを引き受けた。そこは細長い板敷きの廊下であるが、一方は徒弟僧なぞの出たりはいったりする寺の囲炉裏ばたに続き、一方はび黒ずんだ板戸を境にして本堂の方へ続いている。薄暗い部屋をへだてて、奥まった方の客間も見える。勝重は、その位置にいて、会葬者の上がって来るごとにその名をしるしつけ、吉左衛門が交遊のひろがりを想像した。しばらく待つうちに遺骸も本堂の前に着いて、勝重の周囲には廊下を歩きながらの人たちの扇がそこにもここにも動いた。

 時には清助が机の上をのぞきに来る。山口、湯舟沢、落合、それから中津川辺からの会葬者はだれとだれとであろうかというふうに。勝重は帳面を繰って、なんと言っても美濃衆の多いことをさして見せ、わざわざ弔いに見えた美濃の俳友なぞもあることを話したあとで、さらに言葉をついで、「まあ、清助さん、そう働いてばかりいないで、すこしお休み。わたしは今度馬籠へ来て見て、お師匠さまの子供衆が大きくなったのに驚きましたよ。ほんとに、皆さんが大きくおなりなすった。わたしには一番それが目につきます。お師匠さまの家にお世話になった時分、あのお粂さんなぞはまだわたしの
ひざにのせて抱いたくらいでしたがねえ」。こんな話が出た。そこへうわさをしたばかりの姉弟きょうだいが三人づれで寺の廊下を回って来た。中でも、妻籠から来た正己はじっとしていない。これが馬籠のお寺かという顔つきで、久しぶりに一緒になったお粂や宗太を案内に、太鼓のぶらさがった本堂の方へ行き、位牌堂いはいどうの方へ行き、故人蘭渓らんけいの描いた本堂のそばの画襖えぶすまの方へも行った。松雲和尚の丹精たんせいからできた築山風つきやまふうの庭の見える回廊の方へも行った。この活発な弟を連れて何度も同じ板の間を踏んで来る姉娘の白足袋しろたびも清げに愛らしかった。
 儀式の始まる時も近づいた。年老いた金兵衛は寺の方で棺の到着を待ち受けていた一人であるが、その時、伊之助と一緒に方丈を出て、勝重の前を会釈して通った。この隠居は平素よりも一層若々しく見えるくらいの結い立ての髪、り立ての顔で、伊之助に助けられながら本堂への廊下を通り過ぎた。一歩一歩ずつ小刻みに刻んで行くその足もとには無量の思いを託して。「かつ」。式場での弔語の終わりにのぞんで、松雲和尚はからだのどこから出したかと思われるような、だれもがびっくりするような鋭い声を出した。この世を辞し去る旅人の遺骸を前にして、和尚がおくる餞別せんべつは、長い修業とくふうとから来たような禅僧らしいその一語に尽きていた。式も済み、一同の焼香も済んで、半蔵はその日の会葬者へ礼を述べ、墓地まで行こうという人たちと一緒に本堂を出た。寺の境内にある銀杏いちょうのそばの鐘つき堂のあたりで彼は近在帰りの会葬者に別れ、経王石書塔きょうおうせきしょとうの文字の刻してある石碑の前では金兵衛にも別れた。山門の外の石段の降り口は小高い石垣の斜面に添うて数体の観音かんのんの石像の並んでいるところである。その辺でも彼は荒町や峠をさして帰って行く村の人々に別れた。

 小山の傾斜に添うた墓地の方では、すでに埋葬のしたくもできていた。半蔵らはその入り口のところで、迎えに来る下男の佐吉にもあった。用意した場所の深さは何尺、横幅何尺、それだけの深さと横幅とがあれば大旦那の寝棺を納めるに充分であろうなぞと佐吉は語る。やがて
生々なまなましい土のにおいが半蔵らの鼻をついた。そこは青山の先祖をはじめ、十七代も連なり続いた古い家族の眠っているところだ、掘り起こした土は山のように盛りあげられて、周囲にある墓の台石もそのためにうずめられて見える。しばらく半蔵は人の集まるのを待った。おまんらは細道づたいに、閼伽桶あかおけをさげ、花を手にし、あるいは煙の立つ線香をささげなどして、次第に墓地へ集まりつつあった。そこここには木立こだちの間を通して、恵那山麓えなさんろくの位置にある村の眺望ちょうぼうを賞するものがある。苔蒸こけむした墓と墓の間を歩き回るものがある。「いつ来て見ても、この御先祖のお墓はいい」と寿平次は半蔵に言って見せる。それは万福寺を建立した青山道斎どうさいの形見だ。万福寺殿昌屋常久禅定門まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもんの文字が深く刻まれてある古い墓石だ。いつ来て見ても先祖は同じように、長いと言っても長い目で、自分の開拓した山村の運命をそこにながめ暮らしているかのようでもある。「いかにもこれは古人のお墓らしい」とまた寿平次は言っていた。いつのまにか松雲も来て半蔵のうしろに立ったが、静かな声で経文を口ずさむことがなかったら、半蔵はそこに和尚があるとも気づかなかったくらいだ。やがて、あちこちと気を配る清助のさしずで、新しい墓標も運ばれて来て、今は遺骸を葬るばかりになった。

 
くわをさげて埋葬の手伝いに来ている出入りの者の間には、一しきり寝棺をそばに置いて、どっちの方角を頭にしたものかとの百姓らしい言葉の争いもあった。北枕とも言い伝えられて来たところから、これは北でなければならないと言うものがある。仏葬から割り出して、西、西と言うものがある。墓地は浅い谷をへだてて村の裏側を望むような傾斜の地勢にあったから、結局、その自然な位置に従うのほかはなかった。「さあ、細引ほそびきの用意はいいか」。「皆しっかり手をかけろ」。こんな声が人々の間に起こる。寝棺は静かに土中に置かれた。鍬を手にした佐吉らのかける土はなだれ落ちるように棺のふたを打った。おまんから孫の正己までが投げ入れる一塊ひとくれずつの土と共に、親しいものは寄り集まって深く深く吉左衛門を埋めた。
 その葬式のあった晩は、吉左衛門に縁故の深かった人たちが半蔵の家の方に招かれた。青山の家例として、その晩の蕎麦振舞そばぶるまいには、近所の旦那衆が招かれるばかりでなく、生前吉左衛門の目をかけてやったような小前のものまでが招かれた。時間を正確に守るということは、当時の人の習慣にない。本陣から下男の佐吉を使いに走らせても、なかなか時間どおりには客が集まらなかった。泊まりがけで来ている寿平次夫婦、得右衛門、それに勝重なぞは今一夜を半蔵のもとに送って行こうとしている。夕方から客を待つ間、半蔵は寿平次と二人で奥の間の外の廊下にいて、そろそろ薄暗い坪庭を一緒にながめながら話した。その時になって見ると、葬られて行くものは、ひとり半蔵の父ばかりではなかった。あだかも過ぐる安政の大地震が一度や二度の揺り返しで済まなかったように、あの参覲交代制度の廃止を序幕として、一度大きく深い地滑じすべりが将軍家の上に起こって来ると、何度も何度も激しい社会の震動が繰り返され、その揺り返しが来るたびに、あれほどの用心深さで徳川の代に仕上げられたものが相継いで半蔵らの目の前に葬られて行きつつある。

 時には、半蔵は家のものに呼ばれて、寿平次のそばを離れることもある。街道を走って来る七里役(飛脚)はいろいろな通知を彼のもとに置いて行く。金札不渡りのため、福島総管所が百方周旋の結果、木曾谷へ輸入されるはずの大井米が隣宿落合まで到着したなぞの件だ。西からはまた百姓暴動のうわさも伝わり、宿場の改革に反対な人たちの不平はどんな形をとってどこに飛び出すやも知れないような際に、正金を
融通ゆうずうしたり米穀を輸入したりして時局を救おうとする当局者の奮闘は悲壮ですらある。「問屋役廃止以来、おれもしょんぼり日を暮らして来た」と半蔵は自分で自分に言った。「明るい世の中を前に見ながら、しおれているなんて――おれはこんなばかな男だ」。

 半蔵はまた寿平次のいるところへ
もどって行った。寿平次と彼とは互いに本陣同志、また庄屋同志で、彼の心にかかることはやがて寿平次の心にかかることでもある。「半蔵さん、飛脚ですか」。「えゝ、宿場の用です。いよいよ大井米もわれわれの地方へはいって来ます」。「近いうちに君、名古屋藩も名古屋県となるんだそうじゃありませんか。そうなれば、福島総管所も福島出張所と改まるという話ですね。今度来る土屋総蔵つちやそうぞうという人は、尾州の御勘定奉行だそうですが、そういう人が来て民政をやってくれたら、この地方も見直しましょう」。「そりゃ、君、尾州家で版籍を奉還する思いをしたら、われわれの家で問屋や会所を返上するぐらいは実に小さな事でさ」。「さあ、ねえ」。「どうでしょう。どうせこわれるものなら、思い切って壊して見たら」。「半蔵さんは平田門人だから、そういう意見も出る」。「でも、そこまで行かなかったら、御一新の成就じょうじゅも望めなかありませんか」。「君の言うように、思い切って壊して見る日にゃ、自分でも本陣や問屋と一緒に倒れて行くつもりでなくちゃ……こういう時になると、宗教のある人は違う。まあ、新政府のやり口をもっとよく見た上でないとね。一切はまだわたしには疑問です」。

 その時、松雲和尚をはじめ、旧年寄役の人たちなぞが来て席に着き始めるので、二人はもうそんな話をしなかった。そこには奥の間、仲の間、次の間の
唐紙からかみをはずし、三室を通して客の席をつくってある。二里も三里もあるところから峠越しでその日の葬式につらなりに来て、万福寺や伏見屋に泊まっている隣の国の客もあったが、そういう人たちも提灯ちょうちん持参で招かれて来た。日ごろ出入りの大工も来、畳屋も来た。髪結いの直次も年をとったが、最後まで吉左衛門のひげりに油じみた台箱をさげてかよったのも直次で、これも羽織着用の改まった顔つきでやって来た。松雲和尚の前に栄吉、得右衛門の前に清助、美濃から来た客の前には勝重までが取り持ちに出て、まず酒を勧めた。「そうだ、今夜は皆のさかずきを受けて回ろう。おれも飲もう」。半蔵はその気になって、伊之助と寿平次とが隣り合っているの前に行ってすわった。「よくこんなにおしたくができましたね」と言って、伊之助も盃を重ねている。こうした一座の客として来ていても、静かに膳の上をながめ、膳に映る小盃の影を見つけて、それをよく見ているような人は伊之助だ。その時、半蔵が酒を勧めながら言った。「まあ、時節がら、質素にとも思いましたがね、今夜だけは阿爺おやじの生きてる日と同じようにしたい。わたしもそのつもりで、蕎麦そばで一杯あげることにしましたよ」。半蔵は伊之助から受けた盃を寿平次の方へもさした。「寿平次さん、この酒は伏見屋の酒ですよ。今夜は君もゆっくり飲んでください」。

 そこここの
百目蝋燭ひゃくめろうそくかげには、記念の食事に招かれて来た村の人たちが並んで膳についている。寿平次はそれを見渡しながら、休めの茄子なす芥子からしあえも精進料理らしいのをセカセカと食った。猪口ちょくしらあえ、わんの豆腐のあんかけ、の玉子焼き、いずれも吉左衛門の時代から家に残ったうつわに盛られたのが、勝手の方から順にそこへ運ばれて来た。小芋こいも椎茸しいたけはすの根などのうま煮の付け合わせも客の膳に上った。あちこちと半蔵が盃を受けて回るうちに、ふと屋外にふりそそぐ雨の音が耳についた。秋の立つというころの通り雨が庭へ来る音だ。やがてその音の降りやむころには、彼は大工の前へも盃を受けに行き、髪結いの直次の前へも受けに行った。「おれにも盃をくれるかなし」と子息むすこの代理に来たおとら婆さんがそこへすわり直して言った。先祖の代から本陣に出入りする百姓の家のものだ。「半蔵さま、お前さまの前ですが、大旦那はこういうお客をするのが好きな人で、村のものを集めてはよくお酒盛りよなし。ほんとに、大旦那は気の大きな人だった」とお虎が言う。そこには兼吉も桑作もひざをかき合わせている。半蔵は婆さんから受けた盃を飲みほして、それを兼吉にさし、さらに桑作にもさした。「そりゃ、お前、一度でも吾家うちの敷居をまたいだものへは、何か一品ずつ形見が残して置いてあったよ。そういうものがちゃんと用意してあったよ」と半蔵が言って見せる。「大旦那はそういう人よなし」とお虎婆さんも上きげんで、わざわざその日のために黒々と染めて来たらしい鉄漿かねをつけた歯を見せて笑った。この酒好きな婆さんは膳の上に盃を置いた手で、自分の顔をなで回しながら、大旦那の時分の忘れられないことを繰り返した。次第に半蔵が重ねた盃の酒は顔にも手にも発して来た。その晩は彼もめずらしく酔った。客一同へ蕎麦が出て、ぽつぽつ席を立ちかけるものもあるころには、物を見る彼の目も朦朧もうろうとしていた。しまいには奥の間の廊下の外にすべり出し、そこに酔いつぶれていて、勝重の介抱に来てくれたのをわずかに覚えているほど酔った。[#改頁]




(私論.私見)