島崎藤村/夜明け前第二部上の5、第五章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
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一 | |
五月中旬から六月上旬へかけて、半蔵は峠村の組頭平兵衛を供に連れ、名古屋より伊勢、京都への旅に出た。かねて旧師宮川寛斎が伊勢宇治の館太夫方の長屋で客死したとの通知を受けていたので、その墓参を兼ねての思い立ちであった。どうやら彼はこの旅を果たし、供の平兵衛と共に馬籠の宿をさして、西から木曾街道を帰って来る途中にある。留守中のことも案じられて、二人とも帰りを急いでいた。大津、草津を経て、京から下って来て見ると、思いがけない郷里の方のうわさがその途中で半蔵らの耳にはいった。京からの下りも加納の宿あたりまでは登り坂の多いところで、半蔵らがそんな話を耳にしたのは美濃路にはいってからであるが、その道を帰って来るころは、うわさのある中津川辺へはまだかなりの距離があり、真偽のほどすら判然とはしなかった。 鵜沼まで帰って来て見た。新政府の趣意もまだよく民間に徹しないかして、だれが言い触らすとも知れないような種々な流言は街道に伝わって来る時である。どうして、あの例幣使なぞが横行したり武家衆がいばったりして人民を苦しめぬいた旧時代にすら、ついぞ百姓一揆のあったといううわさを聞いたこともない尾州領内で、しかも世の中建て直しのまっ最中に、日ごろ半蔵の頼みにする百姓らが中津川辺を騒がしたとは、彼には信じられもしなかった。まして、彼の世話する馬籠あたりのものまでが、その一揆の中へ巻き込まれて行ったなぞとは、なおなお信じられもしなかった。 しかし、郷里の方へ近づいて行けば行くほど、いろいろと半蔵には心にかかって来た。道中して見てもわかるように、地方の動揺もはなはだしい時だ。たとえば、馬の背や人足の力をかりて旅の助けとするとしても、従来の習慣によれば本馬三十六貫目、乗掛下十貫目より十八貫目、軽尻あふ付三貫目より八貫目、人足荷五貫目である。これは当時道中するもののだれもが心得ねばならない荷物貫目の掟である。本駄賃とはこの本馬(駄荷)に支払うべき賃銭のことで、それを二つ合わせて三つに割ればすなわち軽尻駄賃となる。言って見れば、本駄賃百文の時、二つ合わせれば二百文で、それを三つに割ったものが軽尻駄賃の六十四文となる。人足はまた、この本駄賃の半分にあたる。これらの駄賃が支払われる場合に、今までどおりの貨幣でなくてそれにかわる金札で渡されたとしても、もし一両の札が実際は二分にしか通用しないとしたら。 |
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その年、慶応四年は、閏四月あたりから不順な時候が続き、五月にはいってからもしきりに雨が来た。この旅の間、半蔵は名古屋から伊勢路へかけてほとんど毎日のように降られ続け、わずかに旧師寛斎の墓前にぬかずいた日のみよい天気を迎えたぐらいのものであった。別号を春秋花園とも言い、国学というものに初めて半蔵の目をあけてくれたあの旧師も、今は宇治の今北山に眠る故人だ。伊勢での寛斎老人は林崎文庫の学頭として和漢の学を講義し、かたわら医業を勤め、さみしい晩年の日を送ったという。半蔵は旅先ながらに土地の人たちの依頼を断わりかね、旧師のために略歴をしるした碑文までもえらんで置いて、「慶応戊辰の初夏、来たりてその墓を拝す」と書き残して来た。そんな話を持って、先輩暮田正香から、友人の香蔵や景蔵まで集まっている京都の方へ訪ねて行って見ると、そこでもまた雨だ。定めない日和が続いた。かねて京都を見うる日もあらばと、夢にも忘れなかったあの古い都の地を踏み、中津川から出ている友人らの仮寓にたどり着いて、そこに草鞋の紐をといた時。うわさのあった復興最中の都会の空気の中に身を置いて見て、案内顔な香蔵や景蔵と共に連れだちながら、平田家のある錦小路まで歩いた時。平田鉄胤老先生、その子息さんの延胤、いずれも無事で彼をよろこび迎えてくれたばかりでなく、宿へ戻って気の置けないものばかりになると、先師篤胤没後以来の話に花の咲いた時。そこへ暮田正香でも顔を見せると、先輩は伊那の長い流浪時代よりもずっと若返って見えるほどの元気さで、この王政の復古は同時に一切の中世的なものを否定することであらねばならない、それには過去数百年にわたる武家と僧侶との二つの大きな勢力をくつがえすことであらねばならないと言って、宗教改革の必要にまで話を持って行かなければあの正香が承知しなかった時。そういう再会のよろこびの中でも、彼が旅の耳に聞きつけるものは、降り続く長雨の音であった。 京都を立って帰路につくころから、ようやく彼は六月らしい日のめを見たが、今度は諸方に出水のうわさだ。淀川筋では難場が多く、水損じの個処さえ少なくないと言い、東海道辺では天龍川の堤が切れて、浜松あたりの町家は七十軒も押し流されたとのうわさもある。彼が江州の草津辺を帰るころは、そこにも満水の湖を見て来た。郷里の方もどうあろう。その懸念が先に立って、過ぐる慶応三年は白粥までたいて村民に振る舞ったほどの凶年であったことなぞが、旅の行く先に思い出された。 時はあだかも徳川将軍の処分について諸侯貢士の意見を徴せられたという後のころにあたる。薩長人士の中には慶喜を殺せとの意見を抱くものも少なくないので、このことはいろいろな意味で当時の人の心に深い刺激をあたえた。遠く猪苗代の湖を渡り、何百里の道を往復し、多年慶喜の背後にあって京都の守護をもって自ら任じた会津武士が、その正反対を西の諸藩に見いだしたのも決して偶然ではなかった。伏見鳥羽の戦さに敗れた彼らは仙台藩等と共に上書して、逆賊の名を負い家屋敷を毀たれるのいわれなきことを弁疏し、退いてその郷土を死守するような道をたどり始めていた。強大な東北諸侯の同盟が形造られて行ったのもこの際である。 こんな東北の形勢は尾州藩の活動を促して、旧江戸城の保護、関東方面への出兵などばかりでなく、越後口への進発ともなった。半蔵は名古屋まで行ってそれらの事情を胸にまとめることができた。武装解除を肯じない江戸屋敷方の脱走者の群れが上野東叡山にたてこもって官軍と戦ったことを聞いたのも、百八十余人の彰義隊の戦士、輪王寺の宮が会津方面への脱走なぞを聞いたのも、やはり名古屋まで行った時であった。さらに京都まで行って見ると、そこではもはや奥羽征討のうわさで持ち切っていた。 |
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新政府が財政困難の声も高い。こんな東征軍を動かすほどの莫大な戦費を支弁するためからも、新政府の金札(新紙幣)が十円から一朱までの五種として発行されたのは、半蔵がこの旅に出てからのことであった。ところが今日の急に応じてひそかに武器を売り込んでいる外国政府の代理人、もしくは外国商人などの受け取ろうとするものは、日本の正金である。内地の人民、ことに商人は太政官の準備を危ぶんで新しい金札をよろこばない。これは幕府時代からの正銀の使用に慣らされて来たためでもある。それかあらぬか、新紙幣の適用が仰せ出されると間もなく、半蔵は行く先の商人から諸物価のにわかな騰貴を知らされた。昨日は一駄の代金二両二分の米が今日の値段は三両二分の高値にも引き上げたという。小売り一升の米の代が急に四百二十四文もする。会津の方の戦争に、こんな物価の暴騰に、おまけに天候の不順だ。いろいろと起こって来た事情は旅をも困難にした。 | |
二 | |
京都から大湫まで、半蔵らはすでに四十五里ほどの道を歩いた。大湫は伊勢参宮または名古屋への別れ道に当たる鄙びた宿場で、その小駅から東は美濃らしい盆地へと降りて行くばかりだ。三里半の十三峠を越せば大井の宿へ出られる。大井から中津川までは二里半しかない。百三十日あまり前に東山道軍の先鋒隊や総督御本陣なぞが錦の御旗を奉じて動いて行ったのも、その道だ。畠の麦は熟し、田植えもすでに終わりかけるころで、行く先の立場は青葉に包まれ、草も木も共に六月の生気を呼吸していた。長雨あげくの道中となれば、めっきり強い日があたって来て、半蔵も平兵衛も路傍の桃の葉や柿の葉のかげで汗をふくほど暑い。「でも、半蔵さま、歩きましたなあ。なんだかおれはもうよっぽど長いこと家を留守にしたような気がする」。「馬籠の方でも、みんなどうしているかさ」。「なんだぞなし。きっと、今ごろは田植えを済まして、こちらのうわさでもしていませず」。こんな話をしながら、二人は道を進んだ。 時には、また街道へ雨が来る。青葉という青葉にはもうたくさんだと思われるような音がある。せっかくかわいた道路はまた見る間にぬれて行った。笠を傾けるもの、道づれを呼ぶもの、付近の休み茶屋へとかけ込むもの、途中で行きあう旅人の群れもいろいろだ。それは半蔵らが伊勢路や京都の方で悩んだような雨ではなくて、もはや街道へ来る夏らしい雨である。予定の日数より長くなった今度の旅といい、心にかかる郷里の方のうわさといい、二人ともに帰路を急いでいて、途中に休む気はなかった。たとい風雨の中たりともその日の午後のうちに三里半の峠を越して、泊まりと定めた大井の宿まではと願っていた。日暮れ方に、半蔵らは大井の旅籠屋にたどり着いた。そこまで帰って来れば、尾張の大領主が管轄の区域には属しながら、年貢米だけを木曾福島の代官山村氏に納めているような、そういう特別な土地の関係は、中津川辺と同じ縄張りの内にある。挨拶に来る亭主までが半蔵にはなじみの顔である。「いや、はや、今度の旅は雨が多くて閉口しましたよ。こちらの方はどうでしたろう」と半蔵がそれをきいて見る。「さようでございます。先月の二十三日あたりは大荒れでございまして、中津川じゃ大橋も流れました。一時は往還橋止めの騒ぎで、坂下辺も船留めになりますし、木曾の方でもだいぶ痛んだように承ります。もうお天気も定まったようで、この暑さじゃ大丈夫でございますが、一時は心配いたしました」との亭主の答えだ。 この亭主の口から、半蔵は半信半疑で途中に耳にして来たうわさの打ち消せないことを聞き知った。それは先月の二十九日に起こった百姓一揆で、翌日の夜になってようやくしずまったということを知った。あいにくと、中津川の景蔵も、香蔵も、二人とも京都の方へ出ている留守中の出来事だ。そのために、中津川地方にはその人ありと知られた小野三郎兵衛が名古屋表へ昼夜兼行で早駕籠を急がせたということをも知った。「して見ると、やっぱり事実だったのかなあ」と言って、半蔵は平兵衛と顔を見合わせたが、騒ぐ胸は容易に沈まらなかった。こんな時の平兵衛は半蔵の相談相手にはならない。平兵衛はからだのよく動く男で、村方の無尽をまとめることなぞにかけてはなくてならないほど奔走周旋をいとわない人物だが、こんな話の出る時にはたったりすわったりして、ただただ聞き手に回ろうとしている。「すこし目を離すと、すぐこれです」。 平兵衛は峠村の組頭らしく、ただそれだけのことを言った。彼は旅籠屋の廊下に出て旅の荷物を始末したり、台所の方へ行って半蔵のためにぬれた合羽を乾したりして、そういう方にまめまめと立ち働くことを得意とした。「まあ、中津川まで帰って行って見るんだ」と半蔵は考えた。こんな出来事は何を意味するのか、時局の不安はこんなところへまで迷いやすい百姓を追い詰めるのか、窮迫した彼らの生活はそれほど訴える道もないのか、いずれとも半蔵には言うことができない。それにしても、あの東山道総督の一行が見えた時、とらえようとさえすればとらえる機会は百姓にもあった。彼らの訴える道は開かれてあった。年来苛政に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨を本陣に届けいでよと触れ出されたくらいだ。総督一行は万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨をもたらして来たからである。だれ一人、そのおりに百姓の中から進んで来るものもなくて、今になってこんな手段に訴えるとは。 にわかな物価の騰貴も彼の胸に浮かぶ。横浜開港当時の経験が教えるように、この際、利に走る商人なぞが旧正銀買〆のことも懸念されないではなかった。しかし、たとい新紙幣の信用が薄いにしても、それはまだ発行まぎわのことであって、幕府積年の弊政を一掃しようとする新政府の意向が百姓に知られないはずもない。これが半蔵の残念におもう点であった。その晩は、彼は山中の宿場らしい静かなところに来ていて、いろいろなことを思い出すために、よく眠らなかった。 中津川まで半蔵らは帰って来た。百姓の騒いだ様子は大井で聞いたよりも一層はっきりした。百姓仲間千百五十余人、その主なものは東濃界隈の村民であるが、木曾地方から加勢に来たものも多く、まさかと半蔵の思った郷里の百姓をはじめ、宿方としては馬籠のほかに、妻籠、三留野、野尻、在方としては蘭村、柿其、与川その他の木曾谷の村民がこの一揆の中に巻き込まれて行ったことがわかった。それらの百姓仲間は中津川の宿はずれや駒場村の入り口に屯集し、中津川大橋の辺から落合の宿へかけては大変な事になって、そのために宿々村々の惣役人中がとりあえず鎮撫につとめたという。一揆の起こった翌日には代官所の役人も出張して来たが、村民らはみなみな中津川に逗留していて、容易に退散する気色もなかったとか。 半蔵が平兵衛を連れて歩いた町は、中津川の商家が軒を並べているところだ。壁は厚く、二階は低く、窓は深く、格子はがっしりと造られていて、彼が京都の方で見て来た上方風な家屋の意匠が採り入れてある。木曾地方への物資の販路を求めて西は馬籠から東は奈良井辺の奥筋まで入り込むことはおろか、生糸売り込みなぞのためには百里の道をも遠しとしない商人がそこに住む。万屋安兵衛、大和屋李助、その他、一時は下海道辺の問屋から今渡の問屋仲間を相手にこの界隈の入り荷出荷とも一手に引き受けて牛方事件の紛争まで引き起こした旧問屋角屋十兵衛の店などは、皆そこに集まっている。今度の百姓一揆はその町の空を大橋の辺から望むところに起こった。うそか、真実か、竹槍の先につるした蓆の旗がいつ打ちこわしにかつぎ込まれるやも知れなかったようなうわさが残っていて、横浜貿易でもうけた商家などは今だに目に見えないものを警戒しているかのようである。 |
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中津川では、半蔵は友人景蔵の留守宅へも顔を出し、香蔵の留守宅へも立ち寄った。一方は中津川の本陣、一方は中津川の問屋、しっかりした留守居役があるにしても、いずれも主人らは王事のために家を顧みる暇のないような人たちである。こんな事件が突発するにつけても、日ごろのなおざりが思い出されて、地方の世話も届きかねるのは面目ないとは家の人たちのかき口説く言葉だ。ことに香蔵が国に残して置く妻なぞは、京都の様子も聞きたがって、半蔵をつかまえて放さない。「半蔵さん、あなたの前ですが、宅じゃ帰ることを忘れましたようですよ」。そんなことを言って、京には美しい人も多いと聞くなぞと遠回しににおわせ、夫恋う思いを隠しかねている友人の妻が顔をながめると、半蔵はわずかの見舞いの言葉をそこに残して置いて来るだけでは済まされなかった。供の平兵衛が催促でもしなかったら、彼は笠を手にし草鞋をはいたまま、その門口をそこそこに辞し去るにも忍びなかった。 | |
三 | |
さらに落合の宿まで帰って来ると、そこには半蔵が弟子の勝重の家がある。過ぐる年月の間、この落合から湯舟沢、山口なぞの村里へかけて、彼が学問の手引きをしたものも少なくなかったが、その中でも彼は勝重ほどの末頼もしいものを他に見いださなかった。その親しみに加えて、勝重の父親、儀十郎はまだ達者でいるし、あの昔気質な年寄役らしい人は地方の事情にも明るいので、先月二十九日の出来事を確かめたいと思う半蔵には、その家を訪ねたらいろいろなことがもっとよくわかろうと考えられた。「おゝお師匠さまだ」という声がして、勝重がまず稲葉屋の裏口から飛んで来る。奥深い入り口の土間のところで、半蔵も平兵衛も旅の草鞋の紐をとき、休息の時を送らせてもらうことにした。 しばらくぶりで半蔵の目に映る勝重は、その年の春から新婚の生活にはいり、青々とした月代もよく似合って見える青年のさかりである。半蔵は今度の旅で、落合にも縁故の深い宮川寛斎の墓を伊勢の今北山に訪ねたことを勝重に語り、全国三千余人の門人を率いる平田鉄胤をも京都の方で見て来たことを語った。それらの先輩のうわさは勝重をもよろこばせたからで。 稲葉屋では、囲炉裏ばたに続いて畳の敷いてあるところも広い。そこは応接間のかわりでもあり、奥座敷へ通るものが待ち合わすべき場処でもある。しばらく待つうちに、勝重の母親が半蔵らのところへ挨拶に来た。めっきり鬢髪も白くなり、起居振舞は名古屋人に似て、しかも容貌はどこか山国の人にも近い感じのする主人公が、続いて半蔵らを迎えてくれる。その人が勝重の父親だ。落合宿の年寄役として、半蔵よりもむしろ彼の父吉左衛門に交わりのある儀十郎だ。「あなたがたは今、京都からお帰り。それは、それは」と儀十郎が言った。「勝重のやつもあなたのおうわさばかり。あれが御祝言の前に、わざわざあなたにお越しを願って、元服の式をしていただいたことは、どれほどあれにはうれしかったかしれません。これはお師匠さまに揚げていただいた髪だなんて、今だによろこんでいまして」。儀十郎はその時、裏口の方から顔を出した下男を呼んで、勝重が若い妻に客のあることを知らせるようにと言い付けた。「よめも今、裏の方へ行って茄子を漬けています――よめにもあってやっていただきたい」。こんな話の出ているところへ、勝重の母親が言葉を添えて、「あなた、奥へ御案内したら」。「じゃ、そうしようか。半蔵さんもお急ぎだろうが、茶を一つ差し上げたい」とまた儀十郎が言った。 やがて半蔵が平兵衛と共に案内されて行ったところは、二間続きの奥まった座敷だ。次ぎの部屋の方の片すみによせて故人蘭渓の筆になった絵屏風なぞが立て回してある。半蔵らもこの落合の宿まで帰って来ると、峠一つ越せば木曾の西のはずれへ出られる。美濃派の俳諧は古くからこの落合からも中津川からも彼の郷里の方へ流れ込んでいるし、馬籠出身の画家蘭渓の筆はまたこうした儀十郎の家なぞの屏風を飾っている。おまけに、勝重の迎えた妻はまだようやく十七、八のういういしさで、母親のうしろに添いながら、挨拶かたがた茶道具なぞをそこへ運んで来る。隣の国の内とは言いながら、半蔵にとってはもはや半分、自分の家に帰った思いだ。しかし、このもてなしを受けている間にも、半蔵はあれやこれやと儀十郎に尋ねたいと思うことを忘れなかった。彼は中津川大橋の辺から落合へかけての間を騒がしたという群れの中に何人の馬籠の百姓があったろうと想像し、庄屋としての彼が留守中に自分の世話する村からもそういう不幸なものを出したことを恥じた。 「もう時刻ですから、ほんの茶漬けを一ぱい差し上げる。何もありませんが、勝重の家で昼じたくをしていらしってください」と儀十郎が言い出した。「半蔵さん、あなたが旅に行っていらっしゃる間に、いろいろな事が起こりました。会津の方じゃ戦争が大きくなるし、この辺じゃ百姓仲間が騒ぐし――いや、この辺もだいぶにぎやかでしたわい」。儀十郎は笑う声でもなんでも取りつくろったところがない。その無造作で何十年かの街道生活を送り、落合宿の年寄役を勤め、徳川の代に仕上がったものが消えて行くのをながめて来たような人だ。百姓一揆のうわさなぞをするにしても、そう物事を苦にしていない。容易ならぬ時代を思い顔な子息の勝重をかたわらにすわらせて、客と一緒に大きな一閑張りの卓をかこんだところは、それでも同じ血を分けた親子かと思われるほどだ。「でも、お父さん、千人以上からの百姓が鯨波の声を揚げて、あの多勢の声が遠く聞こえた時は物すごかったじゃありませんか。わたしはどうなるかと思いましたよ」。勝重はそれを半蔵にも聞かせるように言った。 その時、勝重の母親が昼食の膳をそこへ運んで来た。莢豌豆、蕗、里芋なぞの田舎風な手料理が旧家のものらしい器に盛られて、半蔵らの前に並んだ。勝重の妻はまた、まだ娘のような手つきで、茄子の芥子あえなぞをそのあとから運んで来る。胡瓜の新漬けも出る。「せっかく、お師匠さまに寄っていただいても、なんにもございませんよ」と勝重の母親は半蔵に言って、供の男の方をも見て、「平兵衛さ、お前もここで御相伴しよや」。「いえ、おれは台所の方へ行って頂く」 と言いながら、平兵衛は自分の前に置かれた膳を持って、台所の方へと引きさがった。勝重は若々しい目つきをして、半蔵と父親の顔を見比べ、箸を取りあげながらも、話した。「この尾州領に一揆が起こったなんて今までわたしは聞いたこともない」。「それがさ。半蔵さんも御承知のとおりに、尾州藩じゃよく尽くしましたからね」と儀十郎が言って見せる。「お父さん――問屋や名主を目の敵にして、一揆の起こるということがあるんでしょうか」と勝重が言った。「そりゃ、あるさ。他の土地へ行ってごらん、ずいぶんいろいろな問屋がある。百姓は草履を脱がなければそこの家の前を通れなかったような問屋もある。草履も脱がないようなやつは、お目ざわりだ、そういうことを言ったものだ。いばったものさね。ところが、お前、この御一新だろう。世の中が変わるとすぐ打ちこわしに出かけて行った百姓仲間があると言うぜ。なんでも平常出入りの百姓が一番先に立って、闇の晩に風呂敷で顔を包んで行って、問屋の家の戸障子と言わず、押入れと言わず、手当たり次第に破り散らして、庭の植木まで根こぎにしたとかいう話を聞いたこともあるよ。この地方にはそれほど百姓仲間から目の敵にされるようなものはない。現在宿役人を勤めてるものは、大概この地方に人望のある旧家ばかりだからね」。儀十郎は無造作に笑って、半蔵の方を見ながらさらに言葉をつづけた。 「しかし、今度の一揆じゃ、中津川辺の大店の中には多少用心した家もあるようです。そりゃ、こんな騒ぎをおっぱじめた百姓仲間ばかりとがめられません。大きい町人の中には、内々米の買い占めをやってるものがあるなんて、そんな評判も立ちましたからね。まあ、この一揆を掘って見たら、いろいろなものが出て来ましょう。何から何まで新規まき直しで、こんな財政上の御改革が過激なためかと言えば、そうばかりも言えない。世の中の変わり目には、人の心も動揺しましょうからね。なにしろ、あなた、千人以上からの百姓の集まりでしょう。みんな気が立っています。そこへ小野三郎兵衛さんでも出て行って口をきかなかったら、勝重の言い草じゃありませんが、どういうことになったかわかりません。あの人も黙ってみてる場合じゃないと考えたんでしょうね。平田先生の御門人ならうそはつくまいということで、百姓仲間もあの人に一切を任せるということになりました。三郎兵衛さんが尾州表へ急行したと聞いて、それから百姓仲間も追い追いと引き取って行きました。まあ、大事に立ち至らないで、何よりでございましたよ」。これを儀十郎は話し話し食った。そのいい年齢に似合わないほど早くも食った。 儀十郎はかなりトボけた人で、もしこれが厳罰主義をもって下に臨む旧政府の時代であったら、庄屋としての半蔵もおとがめはまぬかれまいなどと戯れて見せる。連帯の責任者として、縄付きのまま引き立てられるところであったとも笑わせる。こんな勝重の父親のこだわりのない調子が、やや半蔵を安心させた。やがて一同昼食をすましたころ、儀十郎はついと座を立って、別の部屋の方から一通の覚え書きを取り出して来た。小野三郎兵衛が百姓仲間に示したというものの写しである。尾州藩の方へ差し出す嘆願趣意書の下書きとも言うべきものである。それには新紙幣の下落、諸物価の暴騰などについて、半蔵が旅の道々懸念して来たようなことはすべてその中に尽くしてあり、この際、応急のお救い手当て、人馬雇い銭の割増し、米穀買い占めの取り締まり等の嘆願の趣が個条書にして認めてある。三郎兵衛はまた、百姓仲間が難渋する理由の一つとして、尾州藩が募集した農兵のことを書き添えることを忘れなかった。その覚え書きを見ると、付近の宿々村々から中津川に集合した宿役人、および村役人らが三郎兵衛の提議に同意して一同署名したことがわかり、儀十郎もやはり落合宿年寄役として署名人の中に加わったこともわかり、一方にはまた、あの三郎兵衛が同門の景蔵や香蔵の留守をひどく心配していることもわかった。「馬籠からは、伏見屋の伊之助さんがすぐさまかけつけて来てくれました。他に一人、年寄役も同道で」と儀十郎が言う。「そうでしたか。それを聞いて、わたしも安心しました。自分の留守中にこんな事件が突発して、面目ない。このあと始末はどうなりましょう」。半蔵がそれをたずねると、儀十郎は事もなげに、「それがです。尾州藩のことですから、いずれ京都政府へ届け出るでしょう。政務の不行き届きからこんな騒擾に及んだのは恐れ入り奉るぐらいのことは届け出るでしょう、届け出はするが、千百五十余人の百姓一揆はざっと四、五百人、実際はそれ以下の二、三百人ぐらいのことに書き出しましょう。徒党の頭取になったものも、どう扱いますかさ。ひょっとすると、この事件は尾州藩で秘密に葬ってしまうかもしれません。あるいは徒党の頭取になったものだけを木曾福島へ呼び出して、あの代官所で調べるぐらいのことはありましょうか。ナニ、それも以前のように、重いお仕置にはしますまいよ。これが以前ですと、重々不届き至極だなんて言って、引き回したり、梟首にしたりしたものですけれど」。「でも、お父さん」と勝重がそれを引き取って、「番太の娘に戯れたぐらいで打ち首になった因州の武士は東山道軍が通過の時にもありますよ。今度の新政府は徒党を組むことをやかましく言うじゃありませんか。宿々の御高札場にまでそれを掲げるくらいにして、浮浪者と徒党を厳禁していますよ」。「ついでに、六十一万九千五百石(幕府時代に封ぜられた尾州家の禄高をさす)を半分にでも削るか」と儀十郎は戯れた。 |
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半蔵がこの奥座敷を離れたのは、それから間もなくであった。彼が表の入り口の土間に降りるところで平兵衛と一緒になった時は、家の人の心づかいかして、草鞋まで新規に取り替えたのがそこに置いてある。そればかりでなく、勝重の母親はよめと共に稲葉屋の門口に出て、礼を述べて行く半蔵らを見送った。「お師匠さま」と言いながら、半蔵の後ろから手を振って追いかけて来るのは勝重だ。京都の方で半蔵が見たり聞いたりして来たこと、大坂行幸の新帝には天保山の沖合いの方で初めて海軍の演習を御覧になったとのうわさの残っていたこと、あの復興最中の都にあるものは宗教改革の手始めから地方を府藩県に分ける新制度の施設まで、何一つ試みでないもののないことなど、歩きながらの彼の旅の話が勝重の心をひいた。勝重は落合の宿はずれまで半蔵について来て、別れぎわに言った。「そうでしょうなあ。何から手をつけていいかわからないような時でしょうなあ。どうでしょう、お師匠さま、今度の百姓一揆のあと始末なぞも、吾家の阿爺の言うように行きましょうかしら」。「さあ、ねえ」。「小野三郎兵衛さんも骨は折りましょうし、尾州藩でもこんな時ですから、百姓仲間の言うことを聞いてはくれましょう。ただ心配なのは、徒党の罪に問われそうな手合いです。それとも、会津戦争も始まってるような際だからと言って、こんな事件は秘密にしてしまいましょうか」。「まあ、けが人は出したくないものだね」。 | |
四 | |
野外はすでに田植えを済まし、あらかた麦も刈り終わった時であった。半蔵が平兵衛を連れて帰って行く道のそばには、まだ麦をなぐる最中のところもある。日向に麦をかわかしたところもある。手回しよく大根なぞを蒔きつけるところもある。大空には、淡い水蒸気の群れが浮かび流れて、遠く丘でも望むような夏の雲も起こっている。光と熱はあたりに満ちていた。過ぐる長雨から起き直った畠のものは、半蔵らの行く先に待っていて、美濃の盆地の豊饒を語らないものはない。今をさかりの芋の葉だ。茄子の花だ。胡瓜の蔓だ。 ある板葺きの小屋のそばを通り過ぎるころ、平兵衛は路傍の桃の小枝を折り取って、その葉を笠の下に入れてかぶった。それからまた半蔵と一緒に歩いた。「半蔵さまのお供もいいが、ときどきおれは閉口する」。「どうしてさ」。「でも、馬のあくびをするところなぞを、そうお前さまのようにながめておいでなさるから。おもしろくもない」。「しかし、この平穏はどうだ。つい十日ばかり前に、百姓一揆のあったあととは思われないじゃないか」。そこいらには、草の上にあおのけさまに昼寝して大の字なりに投げ出している村の男の足がある。山と積んだ麦束のそばに懐をあけて、幼い嬰児に乳を飲ませている女もある。 半蔵らは途中で汗をふくによい中山薬師の辺まで進んだ。耳の病を祈るしるしとして幾本かの鋭い錐を編み合わせたもの、女の乳搾るさまを小額の絵馬に描いたもの、あるいは長い女の髪を切って麻の緒に結びささげてあるもの、その境内の小さな祠の前に見いださるる幾多の奉納物は、百姓らの信仰のいかに素朴であるかを語っている。その辺まで帰って来ると、恵那山麓の峠に続いた道が半蔵らの目の前にあった。草いきれのするその夏山を分け登らなければ、青い木曾川が遠く見えるところまで出られない。秋深く木の実の熟するころにでもなると、幾百幾千の鶫、 ![]() ようやく半蔵らは郷里の西の入り口まで帰り着いた。峠の上の国境に立つ一里塚の榎を左右に見て、新茶屋から荒町へ出た。旅するものはそこにこんもりと茂った鎮守の杜と、涼しい樹陰に荷をおろして往来のものを待つ枇杷葉湯売りなぞを見いだす。「どれ、氏神さまへもちょっと参詣して」。村社諏訪社の神前に無事帰村したことを告げて置いて、やがて半蔵は社頭の鳥居に近い杉切り株の上に息をついた。暑い峠道を踏んで来た平兵衛も、そこいらに腰をおろす。日ごとに行きかう人馬のため踏み堅められたような街道が目の前にあることも楽しくて、二人はしばらくその位置を選んで休んだ。 落合の勝重の家でも話の出た農兵の召集が、六十日ほど前に行なわれたのも、この氏神の境内であった。それは尾州藩の活動によって起こって来たことで、越後口に出兵する必要から、同藩では代官山村氏に命じ、木曾谷中へも二百名の農兵役を仰せ付けたのである。馬籠の百姓たちはほとんどしたくする暇も持たなかった。過ぐる閏四月の五日には木曾福島からの役人が出張して来て、この村社へ村中一統を呼び出しての申し渡しがあり、九日にはすでに鬮引きで七人の歩役の農兵と一人の付き添いの宰領とを村から木曾福島の方へ送った。半蔵はまだあの時のことを忘れ得ない。召集されて行く若者の中には、まだ鉄砲の打ち方も知らないというものもあり、嫁をもらって幾日にしかならないというものもある。長州や水戸の方の先例は知らないこと、小草山の口開けや養蚕時のいそがしさを前に控え、農家から取られる若者は「おやげない」(方言、かあいそうに当たる)と言って、目を泣きはらしながら見送る婆さんたちも多かった。もっとも、これは馬籠の場合ばかりでなく、越後表の歩役が長引くようであっては各村とも難渋するからと言って、木曾谷中一同が申し合わせ、農兵呼び戻しのことを木曾福島のお役所へ訴えたのは、同じ月の二十日のことであったが。 しばらく郷里を留守にした半蔵には、こんなことも心にかかった。中津川の小野三郎兵衛が尾州藩への嘆願書のうちには、百姓仲間が難渋する理由の一つとして、この農兵の歩役があげてあったことを思い出した。何よりもまず伏見屋の伊之助にあって、村全体の留守を預かっていてくれたような隣家の主人から、その後の様子を聞きたい。その考えから彼は腰を持ち上げた。平兵衛と共に社頭の鳥居のそばを離れた。荒町は馬籠の宿内の小名で、路傍にあらわれた岩石の多い橋詰の辺を間に置いて、馬籠の本宿にかかる。なだらかな谷間を走って来る水は街道を横切って、さらに深い谿へと落ちて行っている。半蔵らが帰って来た道は、石屋の坂のあたりで馬籠の町内の入り口にかかる。そのあたりの農家で旅籠屋を兼ねない家はなかったくらいのところだ。 「平兵衛さ、今お帰りか」。「そうよなし」。「お前は何をしていたい」。石屋の坂を登りきったところで、平兵衛は上町の方から降りて来る笹屋の庄助にあった。庄助は正直一徹な馬籠村の組頭だ。坂になった宿内を貫く街道は道幅とてもそう広くない。旅人はみなそこを行き過ぎる。一里も二里もある山林の方から杉の皮を背負って村へ帰って来る男もある。庄助は往来の人の邪魔にならない街道の片すみへ平兵衛を呼んだ。その時は、一緒にそこまで帰って来た半蔵の方が平兵衛よりすこしおくれた。「平兵衛さ、おれはもうお留守居は懲り懲りしたよ」。庄助が言い出す。「かんじんの半蔵さまがいないところへ持って来て、お前まで、のんきな旅だ」。その時、平兵衛は笠の紐をといて、相手の顔をながめた。同じ組頭仲間でも、相手は馬籠の百姓総代という格で、伏見屋その他の年寄役と共に会所に詰め、宿内一切の相談にあずかっている。平兵衛も日ごろから、この庄助には一目置いている。「いや、はや、」とまた庄助が言った。「先月の二十六日には農兵呼び戻しの件で、福島のお役所からはお役人が御出張になる。二十九日にはお前、井伊掃部頭の若殿様から彦根の御藩中まで、御同勢五百人が武士人足共に馬籠のお泊まりさ。伏見屋あたりじゃ十四人もお宿を引き受けるという騒ぎだ。お前も聞いて来たろうが、百姓一揆はその混雑の中だぜ」。「そう言われるとおれも面目ない」。「お前だって峠村の組頭だ。もっと気をきかせそうなもんじゃないか。半蔵さまに勧めるぐらいにして、早く帰って来てくれそうなもんじゃないか」。「そうがみがみ言いなさんな。なにしろ、お前、往復に日数は食うし、それにあの雨だ。伊勢路から京都まで、毎日毎日降って、降って、降りからかいて……」。「こっちも雨じゃ弱ったぞ」。「おまけに、庄助さ、帰り道はまた雨降りあげくの暑い日ばかりと来てる。いくらも歩けすか。それにしても、なんという暑さだずら」。こんな平兵衛の立ち話に、いくらか庄助も顔色をやわらげているところへ、半蔵が坂の下の方から追いついた。「やあ、やあ。今そこで上の伏見屋の隠居につかまって、さんざんしかられて来た。あの金兵衛さんは氏神さまへお詣りに出かけるところさ。どこへもかしこへもお辞儀ばかりだ。庄助さん、いずれあとでゆっくり聞こう」。その言葉を残して置いて、半蔵は家の方へ急いだ。 妻子はまず無事。半蔵は旅じたくを解くのもそこそこに本陣の裏二階を見に行った。臥たり起きたりしてはいるが、それほど病勢が進んだでもない父吉左衛門と、相変わらず看護に余念のない継母のおまんとが、そこに半蔵を待っていた。「お父さん、京都の方を見て来た目で自分の家を見ると、こんな山家だったかと思うようですよ」とは半蔵が旅から日に焼けて親たちのそばへ帰って来た時の言葉だ。彼もいそがしがっていた。つもる話をあと回しにしてその裏二階を降りた。とりあえず彼が見たいと思う人は伏見屋の伊之助であった。夕方から、彼は潜り戸をくぐって表門の外に出た。宿場でもここは夜鷹がなく。もはや往来の旅人も見えない。静かだ。その静かさは隣宿落合あたりにもない山の中の静かさだ。旅から帰って来た彼が隣家の入り口まで行くと、古風な杉の葉の束の丸く大きく造ったのが薄暗い軒先につるしてあるのも目につく。清酒ありのしるしである。 隠居金兵衛のかわりに伊之助。その年の正月に隠居が見送ったお玉のかわりに伊之助の妻のお富。伏見屋ではこの人たちが両養子で、夫婦とも隣の国の方から来て、養父金兵衛から譲られた家をやっている。夫婦の間に子供は二人生まれている。血縁はないまでも、本陣とは親類づきあいの間柄である。この隣家の主人が、新しい簾をかけた店座敷の格子先の近くに席を造って、半蔵をよろこび迎えてくれた。「半蔵さん、旅はいかがでした。こちらはろくなお留守居もできませんでしたよ」。そういう伊之助は男のさかりになればなるほど、ますますつつしみ深くなって行くような人である。物腰なぞは多分に美濃の人であるが、もうすっかり木曾じみていて、半蔵にとっては何かにつけての相談相手であった。「いや、こんなにわたしも長くなるつもりじゃなかった」と半蔵は言った。「伊勢路までにして引き返せばよかったんです。途中で、よっぽどそうは思ったけれど、京都の様子も気にかかるものですから、つい旅が長くなりました」。「たぶん、半蔵さんのことだから、京都の方へお回りになるだろうッて、お富のやつともおうわさしていましたよ」。「そう言ってくれるのは君ばかりだ」。 その時、半蔵がしるしばかりの旅の土産をそこへ取り出すと、伊之助はその京の扇子なぞを彼の前で開いて見て、これはよい物をくれたというふうに、男持ちとしてはわりかた骨細にできた京風の扇の形をながめ、胡麻竹の骨の上にあしらってある紙の色の薄紫と灰色の調和をも好ましそうにながめて、「半蔵さんの留守に一番困ったことは――例の農兵呼び戻しの一件で、百姓の騒ぎ出したことです。どうしてそんなにやかましく言い出したかと言うに、村から出て行った七人のものの行く先がはっきりしない、そういうことがしきりにこの街道筋へ伝わって来たからです」。「そんなはずはないが」。「ところがです、東方へ付くのか、西方へ付くのか、だれも知らない、そんなことを言って、二百人の農兵もどうなるかわからない、そういうことを言い触らされるものですから、さあ村の百姓の中には迷い出したものがある」。「でも、行く先は越後方面で、尾州藩付属の歩役でしょう。尾州の勤王は知らないものはありますまい」。「待ってくださいよ。そりゃ木曾福島の御家中衆が尾州藩と歩調を合わせるなら、論はありません。谷中の農兵は福島の武士に連れられて行きましたが、どうも行く先が案じられると言うんです。そんなところにも動揺が起こって来る、流言は飛ぶ――」。「や、わたしはまた、田圃や畠が荒れて、その方で百姓が難渋するだろうとばかり思っていました」。「無論、それもありましょう。しまいには毎日毎日、村中の百姓と宿役人仲間との寄り合いです。あの庄助さんなぞも中にはさまって弱ってました。先月の二十六日――あれは麦の片づく時分でしたが、とうとう福島のお役所からお役人に出張してもらいまして、その時も大評定。どうしても農兵は戻してもらいたい、そのことはお役人も承知して帰りました。それからわずか三日目があの百姓一揆の騒ぎです」。 |
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「どうも、えらいことをやってくれましたよ。わたしも落合の稲葉屋へ寄って、あそこで大体の様子を聞いて来ました。伊之助さんも中津川までかけつけてくれたそうですね」。「えゝ。それがまた、大まごつき。こちらは彦根様お泊まりの日でしょう。武士から人足まで御同勢五百人からのしたくで、宿内は上を下への混雑と来てましょう。新政府の官札は不渡りでないまでも半額にしか通用しないし、今までどおりの雇い銭の極めじゃ人足は出て来ないし……でも、捨て置くべき場合じゃないと思いましたから、宿内のことは九郎兵衛(問屋)さんなぞによく頼んで置いて、早速福島のお役所へ飛脚を走らせる、それから半分夢中で落合までかけて行きました。その翌日の晩は、中津川に集まった年寄役仲間で寄り合いをつけて、騒動のしずまったところを見届けて置いて、家へ帰って来た時分にはもう夜が明けました」。 思わず半蔵は旅の疲れも忘れて、その店座敷に時を送った。格子先の簾をつたうかすかな風も次第に冷え冷えとして来る。「どうも、なんとも申し訳がない。」と言って、半蔵は留守中の礼を述べながらたち上がった。「こんな一揆の起こるまで、あの庄助さんも気がつかずにいたものでしょうか」。「そりゃ、半蔵さん、笹屋だって知りますまい。あれで笹屋は自分で作る方の農ですから」。「わたしは兼吉や桑作でも呼んで聞いて見ます。わたしの家には先祖の代から出入りする百姓が十三人もある。吾家へ嫁に来た人について美濃から移住したような、そんな関係のものもある。正月と言えば餅をつきに来たり、松を立てたりするのも、あの仲間です。一つあの仲間を呼んで、様子を聞いて見ます」。「まあ、京都の方の話もいろいろ伺いたいけれど。夜も短かし」。 |
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五 | |
「お霜婆」。「あい」。「お前のとこの兼さに本陣の旦那が用があるげなで」。「あい」。「そう言ってお前も言伝けておくれや。ついでに、桑さにも一緒に来るようにッて。頼むぞい」。「あい。あい」。馬籠本陣の勝手口ではこんな言葉がかわされた。耳の遠いお霜婆さんは、下女から言われたことを引き受けて、もう何十年となく出入りする勝手口のところを出て行った。越後路の方へ行った七人の農兵も宰領付き添いで帰って来た朝だ。六十日の歩役を勤めた後、今度御用済みということで、残らず帰村を許された若者らは半蔵のところへも挨拶に来た。ちょうどそこへ、兼吉、桑作の二人も顔を見せたので、入り口の土間は一時ごたごたした。半蔵も西から帰ったばかりだ。しかし彼は旅の疲れを休めているいとまもなかった。日ごろ出入りの二人の百姓を呼んで村方の様子を聞くまでは安心しなかった。「兼吉も、桑作も、囲炉裏ばたの方へ上がってくれ」と半蔵がいつもと同じ調子で言った。 そこは火の気のない囲炉裏ばただ。平素なら兼吉、桑作共に土足で来て踏ン込むところであるが、その朝は手ぐいで足をはたいて、二人とも半蔵の前にかしこまった。もとより旧い主従のような関係の間柄である。半蔵も物をきいて見るのに遠慮はいらない。留守中の村に不幸なものを出したのは彼の不行き届きからであって、その点は深く恥じ深く悲しむということから始めて、せめておおよその人数だけでも知って置きたい、言えるものなら言って見てもらいたい、そのことを彼は二人の前に切り出した。「旦那、それはおれの口から言えん」と兼吉が百姓らしい大きな手を額に当てた。「桑さも、おれも、この事件には同類じゃないが、もう火の消えたあとのようなものだで、これについては一切口外しないようにッて、村中の百姓一同でその申し合わせをしましたわい」。「いや、そういうことなら、それでいい。おれも村からけが人は出したくない」と半蔵が言った。「おれが心配するのは、これから先のことだ。こういう新しい時世に向かって来たら、お前たちだってうれしかろうに。あのお武家さまがこの街道へ来てむやみといばった時分のことを考えてごらん、百姓は末の考えもないものだなんて言われてさ、まるで腮で使う器械のように思われたことも考えてごらんな。お前たちは、刀に手をかけたお武家さまから、毎日追い回されてばかりいたじゃないか。御一新ということになって来た。ようやくこんなところへこぎつけた。それを考えたら、お前たちだってもうれしかろう」。「そりゃ、うれしいどころじゃない」。「そうか。お前たちもよろこんでいてくれるのか」。 その時、半蔵には兼吉の答えることが自分の気持ちを迎えるように聞こえて、その「うれしいどころじゃない」もすこし物足りなかった。兼吉のそばに膝をかき合わせている桑作はまた、言葉もすくない。しかしこの二人は彼の家へ出入りする十三人の中でも指折りの百姓であった。そこで彼はこんな場合に話して置くつもりで、さらに言葉をつづけた。「そんなら言うが、今は地方のものが騒ぎ立てるような、そんな時世じゃないぞ、百姓も、町人も、ほんとに一致してかからなかったら、世の中はどうなろう。もっと皆が京都の政府を信じてくれたら、こんな一揆も起こるまいとおれは思うんだ。お前たちからも仲間のものによく話してくれ」。「そのことはおれたちもよく話すわいなし」と桑作が答える。「だれだって、お前、饑え死にはしたくない。」とまた半蔵が言い出した。「そんなら、そのように、いくらも訴える道はある。今度の政府はそれを聞こうと言ってるんじゃないか。尾州藩でも決して黙ってみちゃいない。ごらんな、馬籠の村のものが一同で嘆願して、去年なぞも上納の御年貢を半分にしてもらった。あんな凶年もめったにあるまいが、藩でも心配してくれて、御年貢をまけた上に、米で六十石を三回に分けてさげてよこした。あの時だって、お前、一度分の金が十七両に、米が十俵――それだけは村中の困ってるものに行き渡ったじゃないか」。「それがです」と兼吉は半蔵の言葉をさえぎった。「笹屋の庄助さのように自分で作ってる農なら、まだいい。どんな時でもゆとりがあるで。水呑百姓なんつものは、お前さま、そんなゆとりがあらすか。そりゃ、これからの世の中は商人はよからず。ほんとに百姓はツマらんぞなし。食っては、抜け。食っては抜け。それも食って抜けられるうちはまだいい。三月四月の食いじまいとなって見さっせれ。今日どんな稼ぎでもして、高い米でもなんでも買わなけりゃならん」。「そんなにみんな困るのか。困ると言えば、こんな際にはお互いじゃないか。そんなら聞くが、いったい、岩倉様の御通行は何月だったと思う。あの時に出たお救いのお手当てだって、みんなのところへ行き渡ったはずだ」。「お前さまの前ですが、あんなお手当てがいつまであらすか。みんな――とっくに飲んでしまったわなし」。 粗野で魯鈍ではあるが、しかし朴直な兼吉の目からは、百姓らしい涙がほろりとその膝の上に落ちた。桑作は声もなく、ただただ頭をたれて、朋輩の答えることに耳を傾けていた。やがてお辞儀をして、兼吉と共にその囲炉裏ばたを離れる時、桑作は桑作らしいわずかの言葉を半蔵のところへ残した。「だれもお前さまに本当のことを言うものがあらすか」。「そんなにおれは百姓を知らないかなあ」。この考えが半蔵を嘆息させた。過ぐる二月下旬に岩倉総督一行が通行のおりには、まるで祭礼を見物する人たちでしかなかったような村民の無関心――今また、千百五十余人からの百姓の騒擾――王政第一の年を迎えて見て、一度ならず二度までも、彼は日ごろの熱い期待を裏切られるようなことにつき当たった。「新政府の信用も、まだそんなに民間に薄いのか」と考えて、また彼は嘆息した。 彼に言わせると、これは長い年月、共に共に武家の奉公を忍耐して来た百姓にも似合わないことであった。今は時も艱い上に、軽いものは笞、入墨、追い払い、重いものは永牢、打ち首、獄門、あるいは家族非人入りの厳刑をさえ覚悟してかかった旧時代の百姓一揆のように、それほどの苦痛を受けなければ訴えるに道のない武家専横の世の中ではなくなって来たはずだからである。たとい最下層に働くものたりとも、復興した御代の光を待つべき最も大切な時と彼には思われるからである。 しかし、その時の彼はこんな沈思にのみふけっていられなかった。二人の出入りの百姓を送り出して見ると、留守中に彼を待っている手紙や用件の書類だけでも机の上に堆高いほどである。種々な村方の用事は、どれから手をつけていいかわからなかったくらいだ。彼は留守中のことを頼んで置いた清助を家に迎えて見た。犬山の城主成瀬正肥、尾州の重臣田宮如雲なぞの動きを語る清助の話は、会津戦争に包まれて来た地方の空気を語っていないものはなかった。彼は自分の家に付属する問屋場の世話を頼んで置いた従兄の栄吉にもあって見た。地方を府県藩にわかつという新制度の実施はすでに開始されて、馬籠の駅長としての半蔵あてに各地から送ってよこした駅路用の印鑑はすべて栄吉の手に預かってくれてあった。栄吉は彼の前にいろいろな改正の印鑑を取り出して見せた。あるものは京都府の駅逓印鑑、あるものは柏崎県の駅逓印鑑、あるものは民政裁判所の判鑑というふうに。彼はまた、宿役人一同の集まる会所へも行って顔を出して見た。そこには、尾州藩の募集に応じ越後口補充の義勇兵として、この馬籠からも出発するという荒町の禰宜、松下千里のうわさが出ていて、いずれその出発の日には一同峠の上まで見送ろうとの相談なぞが始まっていた。 |
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六 | |
木曾谷の奥へは福島の夏祭りもやって来るようになった。馬籠荒町の禰宜、松下千里は有志の者としてであるが、越後方面への出発の日には朝早く来て半蔵の家の門をたたいた。「禰宜さま、お早いなし」と言いながら下男の佐吉が本陣表門の繰り戸の扉をあけて、千里を迎え入れた。明けやすい街道の空には人ッ子一人通るものがない。宿場の活動もまだ始まっていない。そんな早いころに千里はすっかりしたくのできたいでたちで、家伝来の長い刀を袋のまま背中に負い、巻き畳んだ粗い毛布を肩に掛け、風呂敷包みまで腰に結び着けて、朝じめりのした坂道を荒町から登って来た。この禰宜は半蔵のところへ別れを告げに来たばかりでなく、関所の通り手形をもらい受けに来た。これから戦地の方へ赴く諏訪分社の禰宜が通行を自由にするためには、宿役人の署名と馬籠宿の焼印の押してある一枚の木札が必要であった。半蔵はすでにその署名までして置いてあったので、それを千里に渡し、妻のお民を呼んで自分でも見送りのしたくした。庄屋らしい短い袴に、草履ばきで、千里と共に本陣を出た。 どこの家でもまだ戸を閉めて寝ている。半蔵は向かい側の年寄役梅屋五助方をたたき起こし、石垣一つ置いて向こうの上隣りに住む問屋九郎兵衛の家へも声をかけた。そのうちに年寄役伏見屋の伊之助も戸をあけてそこへ顔を出す。組頭笹屋庄助も下町の方から登って来る。脇本陣で年寄役を兼ねた桝田屋小左衛門と、同役蓬莱屋新助とは、伏見屋より一軒置いて上隣りの位置に対い合って住む。それらの人たちをも誘い合わせ、峠の上をさして、一同朝靄の中を出かけた。「戦争もどうありましょう。江戸から白河口の方へ向かった東山道軍なぞは、どうしてなかなかの苦戦だそうですね」。「越後口だって油断はならない。東方は飯山あたりまで勧誘に入り込んでるそうですぞ」。「なにしろ大総督府で、東山道軍の総督を取り替えたところを見ると、この戦争は容易じゃない」。だれが言い出すともなく、だれが答えるともない声は、見送りの人たちの間に起こった。 奥筋からの風の便りが木曾福島の変事を伝えたのも、その祭りのころであった。尾州代官山村氏の家中衆数名、そのいずれもが剣客遠藤五平次の教えを受けた手利きの人たちであるが、福島の祭りの晩にまぎれて重職植松菖助を水無神社分社からの帰り路を要撃し、その首級を挙げた。菖助は関所を預かる主な給人である。砲術の指南役でもある。その後妻は尾州藩でも学問の指南役として聞こえた宮谷家から来ているので、名古屋に款みを通じるとの疑いが菖助の上にかかっていたということである。 |
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この祭りの晩の悲劇は、尾州藩に対しても絶対の秘密とされた。なぜかなら、この要撃の裏には山村家でも主要な人物が隠れていたとうわさせらるるからである。しかしそれが絶対の秘密とされただけに、名古屋の殿様と福島の旦那様との早晩まぬかれがたい衝突を予想させるかのような底気味の悪い沈黙が木曾谷の西のはずれまでを支配し始めた。強大な諸侯らの勢力は会津戦争を背景として今や東と西とに分かれ、この国の全き統一もまだおぼつかないような時代の薄暗さは、木曾の山の中をも静かにしては置かなかった。 こんな空気の中で、半蔵は伊之助らと共に馬籠本宿の東のはずれ近くまで禰宜を送って行った。恵那山を最高の峰とする幾つかの山嶽は屏風を立て回したように、その高い街道の位置から東の方に望まれる。古代の人の東征とは切り離して考えられないような古い歴史のある御坂越のあたりまでが、六月の朝の空にかたちをあらわして、戦地行きの村の子を送るかに見えていた。峠の上には、別に宿内の控えとなっている一小部落がある。西のはずれで狸の膏薬なぞを売るように、そこには、名物栗こわめしの看板を軒にかけて、木曾路を通る旅人を待つ御休処もある。峠村組頭の平兵衛が家はその部落の中央にあたる一里塚の榎の近くにある。その朝、半蔵らは禰宜と共に平兵衛方の囲炉裏ばたに集まって、馬の顔を出した馬小屋なぞの見えるところで、互いに別れの酒をくみかわした。「越後から逃げて帰って来る農兵もあるし、禰宜さまのように自分から志願して、勇んで出て行く人もある。全く世の中はよくできていますな」。問屋九郎兵衛の言い草だ。 |
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「伊之助さん――どうやらこの分じゃ、村からけが人も出さずに済みそうですね」。「例の百姓一揆のですか。そう言えば、与川じゃ七人だけ、福島のお役所へ呼び出されることになったそうです。ところが七人が七人とも、途中で欠落してしまったという話でさ」。半蔵と伊之助とは峠でこんな言葉をかわして笑った。とりあえず松本辺まで行ってそれから越後口へ向かうという松下千里が郷里を離れて行く後ろ姿を見送った後、半蔵は伊之助と連れだってもと来た道を帰るばかりになった。峠のふもとをめぐる坂になった道、浅い谷、その辺は半蔵が歩くことを楽しみにするところだ。そこいらではもう暑さを呼ぶような山の蝉も鳴き出した。 非常時の夏はこんな辺鄙な宿はずれにも争われない。会津戦争の空気はなんとなく各自の生活に浸って来た。それを半蔵らは街道で行きあう村の子供の姿にも、畠の方へ通う百姓の姿にも、牛をひいて本宿の方へ荷をつけに行く峠村の牛方仲間の姿にも読むことができた。時には「尾州藩御用」とした戦地行きの荷物が駄馬の背に積まれて、深い山間の谿に響き渡るような鈴音と共に、それが幾頭となく半蔵らの帰って行く道に続いた。岩田というところを通り過ぎて、半蔵らは本宿の東の入り口に近い街道の位置に出た。半蔵は思い出したように、「どうでしょう、伊之助さん、こんなところで言い出すのも変なものだが君にきいて見たいことがある」。「半蔵さんがまた何か言い出す。君はときどき、出し抜けに物を言うような人ですね」。「まあ、聞いてください。こんな一大変革の時にも頓着しないで、きょう食えるか食えないかを考えるのが本当か――それとも、御政治第一に考えて、どんな難儀をこらえても上のものと力をあわせて行くのが本当か――どっちが君は本当だと思いますかね」。「そりゃ、どっちも本当でしょう」。「でも、伊之助さん、これで百姓にもうすこし統制があってくれるとねえ」と半蔵は嘆息して、また歩き出した。そういう彼は一度ならず二度までも自分の期待を裏切られるような場合につき当たっても、日ごろから頼みに思う百姓の目ざめを信ずる心は失わなかった。およそ中庸の道を踏もうとする伊之助の考え方とも違って、筋道のないところに筋道のあるとするが彼の思う百姓の道であった。彼は自分の位置が本陣、問屋、庄屋の側にありながら、ずっと以前にもあの抗争の意気をもって起こった峠の牛方仲間を笑えなかったように、今また千百五十余人からのものが世の中建て直しもわきまえないようなむちゃをやり出しても、そのために彼ら名もない民の動きを笑えなかった。[#改頁] |
(私論.私見)