夜明け前第二部上の4、第四章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
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一 | |
四日にわたって東山道軍は馬籠峠の上を通り過ぎて行った。過ぐる文久元年の和宮様御降嫁以来、道幅はすべて二間見通しということに改められ、街道に添う家の位置によっては二尺通りも石垣を引き込めたところもあるが、今度のような御通行があって見ると、まだそれでも充分だとは言えなかった。馬籠の宿場ではあと片づけに混雑していた時だ。そこここには人馬のために踏み崩された石垣を繕うものがある。焼け残りの松明を始末するものがある。道路にのこしすてられた草鞋、馬の藁沓、それから馬糞の類なぞをかき集めるものがある。「大きい御通行のあとには、きっと大雨がやって来るぞ」。そんなことを言って、そろそろ怪しくなった峠の上の空模様をながめながら、家の表の掃除を急ぐものもある。多人数のために用意した膳、椀から、夜具蒲団、枕の類までのあと片づけが、どの家でもはじまっていた。 | |
総督一行の通り過ぎ | 過去の大通行の場合と同じように、総督一行の通り過ぎたあとにはいろいろなものが残った。全軍の諸勘定を引き受けた高遠藩では藩主に代わる用人らが一切のあと始末をするため一晩馬籠に泊まったが、人足買い上げの賃銭が不足して、容易にこの宿場を立てなかった。どうやらそれらの用人らも引き揚げて行った。駅長としての半蔵はその最後の一行を送り出した後、宿内見回りのためにあちこちと出歩いた。彼は蔦屋という人足宿の門口にも立って見た。そこには美濃の大井宿から総督一行のお供をして来た請負人足、その他の諸人足が詰めていて、賃銭分配のいきさつからけんか口論をはじめていた。旅籠屋渡世をしている大野屋勘兵衛方の門口にも立って見た。そこでは軍の第二班にあたる因州藩の御連中の宿をしたところ、酒を出せの、肴を出せのと言われ、中にはひどく乱暴を働いた侍衆もあったというような話が残っていた。ある伝馬役の門口にも立って見た。街道に添う石垣の片すみによせて、大きな盥が持ち出してある。馬の行水もはじまっている。馬の片足ずつを持ち上げさせるたびに、「どうよ、どうよ」と言う馬方の声も起こる。湯水に浸された荒藁の束で洗われるたびに、馬の背中からにじみ出る汗は半蔵の見ている前で白い泡のように流れ落ちた。そこにはまた、妻籠、三留野の両宿の間の街道に、途中で行き倒れになった人足の死体も発見されたというような、そんなうわさも伝わっていた。 半蔵が中津川まで迎えに行って謁見を許された東山道総督岩倉少将は、ようやく十六、七歳ばかりのうらわかさである。御通行の際は、白地の錦の装束に烏帽子の姿で、軍旅のいでたちをした面々に前後を護られながら、父岩倉公の名代を辱かしめまいとするかのように、勇ましく馬上で通り過ぎて行った。副総督の八千丸も兄の公子に負けてはいないというふうで、赤地の錦の装束に太刀を帯び、馬にまたがって行ったが、これは初陣というところを通り越して、いじらしいくらいであった。この総督御本陣直属の人数は二百六人、それに用物人足五十四人、家来向き諸荷物人足五十二人、赤陣羽織を着た十六人のものが赤地に菊の御紋のついた錦の御旗と、同じ白旗とをささげて来た。空色に笹龍胆の紋じるしをあらわした総督家の旗もそのあとに続いた。 そればかりではない、井桁の紋じるしを黒くあらわしたは彦根勢、白と黒とを半分ずつ染め分けにしたは青山勢、その他、あの同勢が押し立てて来た馬印から、「八幡大菩薩」と大書した吹き流しまで――数えて来ると、それらの旗や吹き流しのはたはたと風に鳴る音が馬のいななきにまじって、どれほど軍容をさかんにしたかしれない。東山道軍の一行が活気に満ちていたことは、あの重い大砲を車に載せ、兵士の乗った馬に前を引かせ、二人ずつの押し手にそのあとを押させ、美濃と信濃の国境にあたる十曲峠の険しい坂道を引き上げて来たのでもわかる。その勢いで木曾の奥筋へと通り過ぎて行ったのだ。轍の跡を馬籠峠の上にも印して。 一行には、半蔵が親しい友人の景蔵、香蔵、それから十四、五人の平田門人が軍の嚮導として随行して来た。あの同門の人たちの輝かしい顔つきこそ、半蔵が村の百姓らにもよく見てもらいたかったものだ。今度総督を迎える前に、彼はそう思った。もし岩倉公子の一行をこの辺鄙な山の中にも迎えることができたなら、おそらく村の百姓らは山家の酒を瓢箪にでも入れ、手造りにした物を皿にでも盛って、一行の労苦をねぎらいたいと思うほどのよろこびにあふれることだろうかと。彼はまた、そう思った。長いこと百姓らが待ちに待ったのも、今日という今日ではなかったか。昨日、一昨日のことを思いめぐらすと、実に言葉にも尽くされないほどの辛労と艱難とを忍び、共に共に武家の奉公を耐え続けたということも、この日の来るのを待ち受けるためではなかったかと。さて、総督一行が来た。諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨をもたらして来た。地方にあるものは安堵して各自に世渡りせよ、年来苛政に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨を本陣に届けいでよと言われても、だれ一人百姓の中から進んで来て下層に働く仲間のために強い訴えをするものがあるでもない。鰥寡、孤独、貧困の者は広く賑恤するぞ、八十歳以上の高齢者へはそれぞれ褒美をつかわすぞと言われても、あの先年の「ええじゃないか」の騒動のおりに笛太鼓の鳴り物入りで老幼男女の差別なくこの街道を踊り回ったほどの熱狂が見られるでもない。宿内のものはもちろん、近在から集まって来てこの街道に群れをなした村民は、結局、祭礼を見物する人たちでしかない。庄屋風情ながらに新政府を護り立てようと思う心にかけては同門の人たちにも劣るまいとする半蔵は、こうした村民の無関心につき当たった。 |
二 | |
御通行後の混雑も、一つ片づき、二つ片づきして、馬籠宿としての会所の残務もどうにか片づいたころには、やがて一切のがやがやした声を取り沈めるような、夕方から来る雨になって行った。慶応四年二月の二十八日のことで、ちょうど会所の事務は問屋九郎兵衛方で取り扱っているころにあたる。これは半蔵の家に付属する問屋場と、半月交替で開く従来のならわしによるのである。半蔵はその会所の見回りを済まし、そこに残って話し込んでいる隣家の伊之助その他の宿役人にも別れて、日暮れ方にはもう扉を閉じ閂を掛ける本陣の表門の潜り戸をくぐった。「岩倉様の御兄弟も、どの辺まで行かっせいたか」。例の囲炉裏ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って、御通行後のうわさをしている。毎日通いで来る清助もまだ話し込んでいる。その日のお泊まりは、三留野か、野尻かなぞと、そんなうわさに余念もない。半蔵が継母のおまんから、妻のお民まで、いずれもくたびれたらしい顔つきである。子供まで集まって来ている。そこへ半蔵が帰って行った。「宗太さま、お前さまはどこで岩倉様を拝まっせいたなし」と佐吉が子供にたずねる。「おれか。おれは石屋の坂で」と宗太は少年らしい目をかがやかしながら、「山口(隣村)から見物に来たおじさんがおもしろいことを言ったで――まるで錦絵から抜け出した人のようだったなんて――なんでも、東下りの業平朝臣だと思えば、間違いないなんて」。「業平朝臣はよかった」と清助も笑い出した。「そう言えば、清助さんは福島の御隠居さまのことをお聞きか」とおまんが言う。「えゝ、聞いた」。「あの御隠居さまもお気の毒さ。わざわざ中津川までお出ましでも、岩倉様の方でおあいにならなかったそうじゃないか」。「そういう話です」。「まあ、御隠居さまはああいうかたでも、木曾福島の御家来衆に不審のかどがあると言うんだろうね。献上したお馬だけは、それでも首尾よく納めていただいたと言うから」。「何にしても、福島での御通行は見ものです」。「しかし、清助さん、大垣のことを考えてごらんな。あの大きな藩でも、城を明け渡して、五百七十人からの人数が今度のお供でしょう。福島の御家中でも、そうはがんばれまい」。「ですから、見ものだと言うんですよ。そこへ行くと、村の衆なぞは実にノンキなものですね。江戸幕府が倒れようと、御一新の世の中になろうと――そんなことは、どっちでもいいような顔をしている」。「この時節がらにかい。そりゃ、清助さん、みんな心配はしているのさ」とまたおまんが言うと、清助は首を振って、「なあに、まるで赤の他人です」と無造作に片づけて見せた。 半蔵はこんな話に耳を傾けながら、囲炉裏ばたにつづいている広い台所で、家のものよりおそく夕飯の膳についた。その日一日のあと片づけに下女らまでが大掃除のあとのような顔つきでいる。間もなく半蔵は家のものの集まっているところから表玄関の板の間を通りぬけて、店座敷の戸に近く行った。全国にわたって影響を及ぼすとも言うべき、この画期的な御通行のことが自然とまとまって彼の胸に浮かんで来る。何ゆえに総督府執事があれほど布告を出して、民意の尊重を約束したかと思うにつけても、彼は自分の世話する百姓らがどんな気でいるかを考えて、深いため息をつかずにはいられなかった。「もっと皆が喜ぶかと思った」。彼の述懐だ。 その翌日は、朝から大降りで、半蔵の周囲にあるものはいずれも疲労を引き出された。家じゅうのものがごろごろした。降り込む雨をふせぐために、東南に向いた店座敷の戸も半分ほど閉めてある。半蔵はその居間に毛氈を敷いた。あだかも宿入りの日を楽しむ人のように、いくらかでも彼が街道の勤めから離れることのできるのは、そうした毛氈の上にでも横になって見る時である。宿内総休みだ。だれも訪ねて来るものもない。彼は長々と延ばした足を折り重ねて、わびしくはあるが暖かい雨の音をきいていたが、いつのまにかこの街道を通り過ぎて行った薩州、長州、土州、因州、それから彦根、大垣なぞの東山道軍の同勢の方へ心を誘われた。多数な人馬の足音はまだ半蔵の耳の底にある。多い日には千百五十余人、すくない日でも四百三十余人からの武装した人たちから成る一大集団の動きだ。一行が大垣進発の当時、諸軍の役々は御本営に召され、軍議のあとで御酒頂戴ということがあったとか。土佐の片岡健吉という人は、参謀板垣退助の下で、迅衝隊半大隊の司令として、やはり御酒頂戴の一人であるが、大勢いのあまり本営を出るとすぐ堀溝に落ちたと言って、そのことが一行の一つ話になっていた。こんな些細なあやまちにも、薩州や長州は土佐を笑おうとした。薩州の三中隊、長州の二中隊、因州の八小隊、彦根の七小隊に比べると、土佐は東山道軍に一番多く兵を出している。十二小隊から成る八百八十六人の同勢である。それがまたまるで見かけ倒しだなぞと、上州縮の唄にまでなぞらえて愚弄するものがあるかと思えば、一方ではそれでも友軍の態度かとやりかえす。今にめざましい戦功をたてて、そんなことを言う手合いに舌を巻かせて見せると憤激する高知藩の小監察なぞもある。全軍が大垣を立つ日から、軍を分けて甲州より進むか進まないかの方針にすら、薩長は土佐に反対するというありさまだ。そのくせ薩軍では甲州の形勢を探らせに人をやると、土佐側でも別に人をやって、たとい途中で薩長と別れても甲州行きを決するがいいと言い出したものもあったくらいだ。 半蔵の耳の底にあるのは、そういう人たちの足音だ。それは押しのけ、押しのけるものの合体して動いて行った足音だ。互いのかみ合いだ。躍進する生命のすさまじい真剣さだ。中には、押せ、押せでやって行くものもある。彦根や大垣の寝返りを恐れて、後方を振り向くものは撃つぞと言わないばかりのものもある。まったく、足音ほど隠せないものはない。あるものはためらいがちに、あるものは荒々しく、あるものはまた、多数の力に引きずられるようにしてこの街道を踏んで行った。いかに王師を歓迎する半蔵でも、その競い合う足音の中には、心にかかることを聞きつけないでもない。「彼を殺せ」。その声は、昨日の将軍も実に今日の逆賊であるとする人たちの中から聞こえる。半蔵が多数の足音の中に聞きつけたのもその声だ。いや、これが決して私闘であってはならない、蒼生万民のために戦うことであらねばならない。その考えから、彼はいろいろ気にかかることを自分の小さな胸一つに納めて置こうとした。どうして、新政府の趣意はまだ地方の村民の間によく徹しなかったし、性急な破壊をよろこばないものは彼の周囲にも多かったからで。 相変わらず休みなしで、騒ぎ回っているのは子供ばかり。桃の節句も近いころのことで、姉娘のお粂は隣家の伏見屋から祝ってもらった新しい雛をあちこちとうれしそうに持ち回った。それを半蔵のところにまで持って来て見せた。 どうやら雨もあがり、あと片づけも済んだ三日目になって見ると、馬籠の宿場では大水の引いて行ったあとのようになった。陣笠をかぶった因州の家中の付き添いで、野尻宿の方から来た一つの首桶がそこへ着いた。木曾路行軍の途中、東山道軍の軍規を犯した同藩の侍が野尻宿で打ち首になり、さらに馬籠の宿はずれで三日間梟首の刑に処せらるるというものの首級なのだ。半蔵は急いで本陣を出、この扱いを相談するために他の宿役人とも会所で一緒になった。因州の家中はなかなか枯れた人で、全軍通過のあとにこうしたものを残して行くのは本意でないと半蔵らに語り、自分らの藩からこんなけが人を出したのはかえすがえすも遺憾であると語った。木曾少女は色白で、そこいらの谷川に洗濯するような鄙びた姿のものまでが旅人の目につくところから、この侍もつい誘惑に勝てなかった。女ゆえに陣中の厳禁を破った。辱かしめられた相手は、山の中の番太のむすめである。そんな話も出た。因州の家中はまた、半蔵の方を見て言った。「時に、本陣の御主人、拙者は途次仕置場のことを考えて来たが、この辺では竹は手に入るまいか」。「竹でございますか。それなら、わたしどもの裏にいくらもございます」。「これで奥筋の方へまいりますと、竹もそだちませんが、同じ木曾でも当宿は西のはずれでございますから」と半蔵のそばにいて言葉を添えるものもある。「それは何よりだ。そういうことであったら、獄門は青竹で済ませたい。そのそばに御制札を立てたい。早速、村の大工をここへ呼んでもらいたい」。 一切の準備は簡単に運んだ。宿役人仲間の桝田屋小左衛門は急いで大工をさがしに出、伏見屋伊之助は青竹を見立てるために本陣の裏の竹藪へと走った。狭い宿内のことで、このことを伝え聞いたものは目を円くして飛んで来る。問屋場の前あたりは大変な人だかりだ。その中に宗太もいた。本陣の小忰というところから、宗太は特に問屋の九郎兵衛に許されて、さも重そうにその首桶をさげて見た。「どうして、宗太さまの力に持ちあがらすか。首はからだの半分の重さがあるげなで」。そんなことを言って混ぜかえすものがある。それに半蔵は気がついて、「さあ、よした、よした――これはお前たちなぞのおもちゃにするものじゃない」 としかった。 獄門の場処は、町はずれの石屋の坂の下と定められた。そこは木曾十一宿の西の入り口とも言うべきところに当たる。本陣の竹藪からは一本の青竹が切り出され、その鋭くとがった先に侍の首級が懸けられた。そのそばには規律の正しさ、厳かさを示すために、東山道軍として制札も立てられた。そこには見物するものが集まって来て、うわさはとりどりだ。これは尾州藩から掛け合いになったために、因州軍でも捨てて置かれなかったのだと言うものがある。当月二十六日の夜に、宿内の大野屋勘兵衛方に止宿して、酒宴の上であばれて行ったのも、おおかたこの侍であろうと言って見るものもある。やがて因州の家中も引き揚げて行き、街道の空には夜鷹も飛び出すころになると、石屋の坂のあたりは人通りも絶えた。「どうも、番太のむすめに戯れたぐらいで、打ち首とは、おれもたまげたよ」。「山の中へでも無理に女を連れ込んだものかなあ」。「このことは尾州藩からやかましく言い出したげな。領地内に起こった出来事だで。それに、名古屋の御重職も一人、総督のお供をしているで。なにしろ、七藩からの寄り合いだもの。このくらいのことをやらなけりゃ、軍規が保てんと見えるわい」。だれが問い、だれが答えるともなく、半蔵の周囲にはそんな声も起こる。 こうした光景を早く村民から隠したいと考えるのも半蔵である。彼は周囲を見回した。村には万福寺もある。そこの境内には無縁の者を葬るべき墓地もある。早くもとの首桶に納めたい、寺の住持松雲和尚に立ち会ってもらってあの侍の首級を埋めてしまいたい、その考えから彼は獄門三日目の晩の来るのを待ちかねた。彼はまた、こうした極刑が新政府の意気込みをあらわすということに役立つよりも、むしろ目に見えない恐怖をまき散らすのを恐れた。庄屋としての彼は街道に伝わって来る種々な流言からも村民を護らねばならなかった。 |
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三 | |
三月にはいって、めずらしい春の大雪は街道を埋めた。それがすっかり溶けて行ったころ、かねて上京中であった同門の人、伊那南条村の館松縫助が美濃路を経て西の旅から帰って来た。縫助は、先師篤胤の稿本全部を江戸から伊那の谷の安全地帯に移し、京都にある平田家へその報告までも済まして来て、やっと一安心という帰りの旅の途中にある。いよいよ江戸の総攻撃も開始されるであろうと聞いては、兵火の災に罹らないうちに早くあの稿本類を救い出して置いてよかったという顔つきの人だ。半蔵はこの人を馬籠本陣に迎えて、日ごろ忘れない師鉄胤や先輩暮田正香からのうれしい言伝を聞くことができた。「半蔵さん、わたしは中津川の本陣へも寄って来たところです。ほら、君もおなじみの京都の伊勢久――あの亭主から、景蔵さんのところへ染め物を届けてくれと言われて、厄介なものを引き受けて来ましたが、あいにくと、また景蔵さんは留守の時さ。あの人も今度は総督のお供だそうですね。わたしは中津川まで帰って来てそのことを知りましたよ」。縫助はその調子だ。 美濃の大垣から、大井、中津川、落合と、順に東山道総督一行のあとを追って来たこの縫助は、幕府の探索方なぞに目をつけられる心配のなかっただけでも、王政第一春の旅の感じを深くしたと言う人である。なんと言っても平田篤胤没後の門人らは、同じ先師の愛につながれ、同じ復古の志に燃えていた。半蔵はまた日ごろ気の置けない宿役人仲間にすら言えないようなことまで、この人の前には言えた。彼が東山道軍を迎える前には、西よりする諸藩の武士のみが総督を護って来るものとばかり思ったが、実際にこの宿場に総督一行を迎えて見て、はじめて彼は東山道軍なるものの性質を知った。その中堅をもって任ずる土佐兵にしてからが、多分に有志の者で、郷士、徒士、従軍する庄屋、それに浪人なぞの混合して組み立てた軍隊であった。そんなことまで彼は縫助の前に持ち出したのであった。「いや、君の言うとおりでしょう。王事に尽くそうとするものは、かえって下のものの方に多いかもしれませんね」と縫助も言って見せた。 旧暦三月上旬のことで、山家でも炬燵なしに暮らせる季節を迎えている。相手は旅の土産話をさげて来た縫助である。おまけに、腰は低く、話は直な人と来ている。半蔵は心にかかる京都の様子を知りたくて、暮田正香もどんな日を送っているかと自分の方から縫助にたずねた。風の便りに聞くとも違って、実地を踏んで来た縫助の話には正香の住む京都衣の棚のあたりや、染物屋伊勢久の暖簾のかかった町のあたりを彷彿させるものがあった。縫助は、「一つこの復興の京都を見て行ってくれ」と正香に言われたことを半蔵に語り、この国の歴史あって以来の未曾有の珍事とも言うべき外国公使の参内を正香と共に丸太町通りの町角で目撃したことを語った。三国公使のうち、彼は相国寺から参内する仏国公使ロセスを見ることはかなわなかったが、南禅寺を出たオランダ代理公使ブロックと、その書記官の両人が黒羅紗の日覆いのかかった駕籠に乗って、群集の中を通り過ぎて行くのを見ることができたという。まだ西洋人というものを見たことのない彼が、初めて自己の狭い見聞を破られた時は、夢のような気がしたとか。 |
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縫助はなお、言葉を継いで、彼と正香とが周囲に群がる人たちと共に、智恩院を出る英国公使パアクスを待ったことを語った。これは参内の途中、二人の攘夷家のあらわれた出来事のために沙汰止みとなった。彼が暇乞いのために師鉄胤の住む錦小路に立ち寄り、正香らにも別れを告げて、京都を出立して来るころは、町々は再度の英国公使参内のうわさで持ちきっていた。沿道の警戒は一層厳重をきわめ、薩州、長州、芸州、紀州の諸藩からは三十人ずつほどの人数を出してその事に当たり、当日の往来筋は諸人通行留めで、左右横道の木戸も締め切るという評判であった。もはや、周囲の事情はこの国の孤立を許さない。上御一人ですら進んで外国交際の道を開き、万事条約をもって世界の人を相手としなければならない、今後みだりに外国人を殺害したり、あるいは不心得の所業に及んだりするものは、朝命に悖り、国難を醸すのみならず、この国の威信にもかかわる不届き至極の儀と言われるようになった。その罪を犯すものは士分の者たりとも至当の刑に処せられるほどの世の中に変わって来た。京都を中心にして、国是を攘夷に置いた当時を追想すると、実に隔世の感があったともいう。「しかし、半蔵さん、今度わたしは京都の方へ行って見て、猫も杓子も万国公法を振り回すにはたまげました。外国交際の話が出ると、すぐ万国公法だ。あれにはわたしも当てられて来ましたよ。あれだけは味噌ですね」。これは、縫助が半蔵のところに残して行った言葉だ。伊那の谷をさして、広瀬村泊まりで立って行った客を送り出した後、半蔵はひとり言って見た。「百姓にだって、ああいう頼もしい人もある」。 | |
四 | |
一行十三人、そのいずれもが美濃の平田門人であるが、信州下諏訪まで東山道総督を案内して、そこから引き返して来たのは、三日ほど後のことである。一行は馬籠宿昼食の予定で、いずれも半蔵の家へ来て草鞋の紐を解いた。本陣の玄関先にある式台のところは、これらの割羽織に帯刀というものものしい服装の人たちで混雑した。陣笠を脱ぎ、立附の紐をほどいて、道中のほこりをはたくものがある。足を洗って奥へ通るものがある。「さあ、どうぞ」。まッ先に玄関先へ飛んで出て、客を案内するのは清助だ。奥の間と中の間をへだてる襖を取りはずし、二部屋通しの広々としたところに客の席をつくるなぞ、清助もぬかりはない。無事に嚮導の役目を果たして来た十三人の美濃衆は、同じ門人仲間の半蔵の家に集まることをよろこびながら、しばらく休息の時を送ろうとしている。その中に、中津川の景蔵もいる。そこへ半蔵は挨拶に出て、自宅にこれらの人たちを迎えることをめずらしく思ったが、ただ香蔵の顔が見えない。「香蔵さんは、諏訪から伊那の方へ回りました。二、三日帰りがおくれましょう」。そう言って見せる友人景蔵までが、その日はなんとなく改まった顔つきである。一行の中には、美濃の苗木へ帰ろうとする人なぞもある。「今度は景蔵さんも大骨折りさ。われわれは諏訪まで総督を御案内しましたが、あそこで軍議が二派に別れて、薩長はどこまでも中山道を押して行こうとする、土佐は甲州方面の鎮撫を主張する――いや、はや、大やかまし」。「結局、双方へ分かれて行く軍を見送って置いて、あそこからわれわれは引き返して来ましたよ」。こんな声がそこにもここにも起こる。 清助は座敷に出て半蔵を助けるばかりでなく、勝手口の方へも回って行って、昼じたくにいそがしいお民を助けた。囲炉裏ばたに続いた広い台所では、十三人前からの膳の用意がはじまっていた。にわかな客とあって、有り合わせのものでしか、もてなせない。切り烏賊、椎茸、牛蒡、凍り豆腐ぐらいを煮〆にしてお平に盛るぐらいのもの。別に山独活のぬた。それに山家らしい干瓢の味噌汁。冬季から貯えた畠の物もすでに尽き、そうかと言って新しい野菜はまだ膳に上らない時だ。「きょうのお客さまは、みんな平田先生の御門人ばかり」とお粂までが肩をすぼめて、それを母親のところへささやきに来る。この娘ももはや、皿小鉢をふいたり、割箸をそろえたりして、家事の手伝いするほどに成人した。そこにはおまんも裏の隠居所の方から手伝いに来ていた。おまんは、場合が場合だから、たとい客の頼みがないまでも、わざとしるしばかりに一献の粗酒ぐらいを出すがよかろうと言い出した。それには古式にしてもてなしたら、本陣らしくもあり、半蔵もよろこぶであろうともつけたした。 彼女は家にある土器なぞを三宝に載せ、孫娘のお粂には瓶子を運ばせて、挨拶かたがた奥座敷の方へ行った。「皆さんがお骨折りで、御苦労さまでした」と言いながら、おまんは美濃衆の前へ挨拶に行き、中津川の有志者の一人として知られた小野三郎兵衛の前へも行った。その隣に並んで、景蔵が席の末に着いている。その人の前にも彼女は土器を白木の三宝のまま置いて、それから冷酒を勧めた。「あなたも一つお受けください」。「お母さん、これは恐れ入りましたねえ」。景蔵はこころよくその冷酒を飲みほした。そこへ半蔵も進み寄って、「でも、景蔵さん、福島での御通行があんなにすらすら行くとは思いませんでしたよ」。「とにかく、けが人も出さずにね」。「あの相良惣三の事件で、われわれを呼びつけた時なぞは、えらい権幕でしたなあ」。「これも大勢でしょう。福島の本陣へは山村家の人が来ましてね、恭順を誓うという意味の請書を差し出しました」。「吾家の阿爺なぞも非常に心配していましたよ。この話を聞いたら、さぞあの阿爺も安心しましょう。旧い、旧い木曾福島の旦那さまですからね」。 「そう言えば、景蔵さん、あの相良惣三のことを半蔵さんに話してあげたら」と隣席にいる三郎兵衛が言葉を添える。「壮士ひとたび去ってまた帰らずサ。これもよんどころない。三月の二日に、相良惣三の総人数が下諏訪の御本陣に呼び出されて、その翌日には八人の重立ったものが下諏訪の入り口で、断頭の上、梟首ということになりました。そのほかには、片鬚、片眉を剃り落とされた上で、放逐になったものが十三人ありました。われわれは君、一同連名で、相良惣三のために命乞いをして見ましたがね、官軍の先駆なぞととなえて勝手に進退するものを捨て置くわけには行かないと言うんですからね――とうとう、われわれの嘆願もいれられませんでしたよ」。やがて客膳の並んだ光景がその奥座敷にひらけた。景蔵は隣席の三郎兵衛と共にすわり直して、馬籠本陣での昼じたくも一同が記念の一つと言いたげな顔つきである。 時は、あだかも江戸の総攻撃が月の十五日と定められたというころに当たる。東海道回りの大総督の宮もすでに駿府に到着しているはずだと言わるる。あの闘志に満ちた土佐兵が江戸進撃に参加する日を急いで、甲州方面に入り込んだといううわさのある幕府方の新徴組を相手に、東山道軍最初の一戦を交えているだろうかとは、これまた諏訪帰りの美濃衆一同から話題に上っているころだ。その日の景蔵はあまり多くを語らなかった。半蔵の方でも、友だちと二人きりの心持ちを語り合えるようなおりが見いだせない。ただ景蔵は言葉のはじに、総督嚮導の志も果たし、いったん帰国した思いも届いたものだから、この上は今一度京都へ向かいたいとの意味のことをもらした。「今の時は、一人でも多く王事に尽くすものを求めている。自分は今一度京都に出て、新政府の創業にあずかっている師鉄胤を助けたい」。このことを景蔵は自己の動作や表情で語って見せていた。皆と一緒に膳にむかって、箸を取りあげる手つきにも。お民が心づくしの手料理を味わう口つきにも。美濃衆の多くは帰りを急いでいた。昼食を終わると間もなく立ちかけるものもある。あわただしい人の動きの中で、半蔵は友人のそばへ寄って言った。「景蔵さん、まあ中津川まで帰って行って見たまえ。よいものが君を待っていますから。あれは伊那の縫助さんの届けものです。あの人はわたしの家へも寄ってくれて、いろいろな京都の土産話を置いて行きました」。 二日過ぎに、香蔵は伊那回りで馬籠まで引き返して来た。諏訪帰り十三人の美濃衆と同じように、陣笠割羽織に立附を着用し、帯刀までして、まだ総督を案内したままの服装も解かずにいる親しい友人を家に迎え入れることは、なんとはなしに半蔵をほほえませた。「ようやく。ようやく」。その香蔵の声を聞いただけで、半蔵には美濃の大垣から信州下諏訪までの間の奔走を続けて来た友人の骨折りを察するに充分だった。何よりもまず半蔵は友人を店座敷の方へ通して、ものものしい立附の紐を解かせ、腰のものをとらせた。彼はお民と相談して、香蔵を家に引きとめることにした。くたびれて来た人のために、風呂の用意なぞもさせることにした。場合が場合でも、香蔵には気が置けない。そこで、お民までが夫の顔をながめながら、「香蔵さんもあの服装じゃ窮屈でしょう。お風呂からお上がりになったら、あなたの着物でも出してあげましょうか」。こんな女らしい心づかいも半蔵をよろこばせた。香蔵は黒く日に焼けて来て、顔の色までめっきり丈夫そうに見える人だ。夕方から、一風呂あびたあとのさっぱりした心持ちで、お民にすすめられた着物の袖に手を通し、拝借という顔つきで半蔵の部屋に来てくつろいだ。「相良惣三もえらいことになりましたよ」と香蔵の方から言い出す。半蔵はそれを受けて、「その話は景蔵さんからも聞きました」。「われわれ一同で命乞いはして見たが、だめでしたね。 |
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あの伏見鳥羽の戦争が起こる前にさ、相良惣三の仲間が江戸の方であばれて来たことは、半蔵さんもそうくわしくは知りますまい。今度わたしは総督の執事なぞと一緒になって見て、はじめていろいろなことがわかりました。あの仲間には三つの内規があったと言います。幕府を佐けるもの。浪士を妨害するもの。唐物(洋品)の商法をするもの。この三つの者は勤王攘夷の敵と認めて誅戮を加える。ただし、私欲でもって人民の財産を強奪することは許さない。 そういう内規があって、浪士数名が江戸金吹町の唐物店へ押しかけたと考えて見たまえ。前後の町木戸を閉めて置いて、その唐物店で六連発の短銃を奪ったそうだ。それから君、幕府の用途方で播磨屋という家へ押しかけた。そこの番頭を呼びつけて、新式な短銃を突きつけながら、貴様たちの頭には幕府しかあるまい、勤王の何物たるかを知るまい、もし貴様たちが前非を悔いるなら勤王の陣営へ軍資を献上しろ、そういうことを言ったそうだ。その時、子僧が二人で穴蔵の方へ案内して、浪士に渡した金が一万両の余ということさ。そういうやり方だ」。「えらい話ですねえ」。「なんでも、江戸三田の薩摩屋敷があの仲間の根拠地さ。あの屋敷じゃ、みんな追い追いと国の方へ引き揚げて行って、屋敷のものは二十人ぐらいしか残っていなかったそうです。浪士隊は三方に手を分けて、例の三つの内規を江戸付近にまで実行した上、その方に幕府方の目を奪って置いて、何か事をあげる計画があったとか。それはですね、江戸城に火を放つ、その隙に乗じて和宮さまを救い出す、それが真意であったとか聞きました。あの仲間のことだ、それくらいのことはやりかねないね。そういうさかんな連中がわれわれの地方へ回って来たわけさ。川育ちは川で果てるとも言うじゃありませんか。今度はあの仲間が自分に復讐を受けるようなことになりましたね。そりゃ不純なものもまじっていましたろう。しかし、ただ地方を攪乱するために、乱暴狼藉を働いたと見られては、あの仲間も浮かばれますまい」。 こんな話が始まっているところへ、お民は夫の友人をねぎらい顔に、一本銚子なぞをつけてそこへ持ち運んで来た。「香蔵さん、なんにもありませんよ」。「まあ、君、膝でもくずすさ」。夫婦してのもてなしに、香蔵も無礼講とやる。酒のさかなには山家の蕗、それに到来物の蛤の時雨煮ぐらいであるが、そんなものでも簡素で清潔なのしめ膳の上を楽しくした。「お民、香蔵さんは中津川へお帰りになるばかりじゃないよ。これからまた京都の方へお出かけになる人だよ」。「それはおたいていじゃありません」。この夫婦のかわす言葉を香蔵は引き取って言った。「ええ、たぶん景蔵さんと一緒に。わたしもまた京都の方へ行って、しばらく老先生(鉄胤のこと)のそばで暮らして来ます」。「お民、香蔵さんともしばらくお別れだ。お酒をもう一本頼む。お母さんには内証だよ」。半蔵は自分で自分の耳たぶを無意識に引ッぱりながら、それを言った。その年になっても、まだ彼は継母の手前を憚っていた。「今夜は御幣餅でも焼いてあげたいなんて、台所で今したくしています」とお民は言った。「まあ、香蔵さんもゆっくり召し上がってください」。「そいつはありがたい。御幣餅とは、よいものをごちそうしてくださる。木曾の胡桃の香は特別ですからね」と香蔵もよろこぶ。 |
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半蔵は友人の方を見て、同門の人たちのうわさに移った。南条村の縫助が自分のところに置いて行った京都の話なぞをそこへ持ち出した。「香蔵さん、君は京都のことはくわしい。今度はいろいろな便宜もありましょう。今度君が京都で暮らして見る一か月は、以前の三か月にも半年にも当たりましょう。何にしても、君や景蔵さんはうらやましい」。「さあ、もう一度京都へ行って見たら、どんなふうに変わっていましょうかさ」。「なんでも縫助さんの話じゃ、京都は今、復興の最中だというじゃありませんか」。「伊那でもそれが大評判。一方には君、東征軍があの勢いでしょう。世の中の舞台も大きく回りかけて来ましたね。しかし、半蔵さん、われわれはお互いに平田先生の門人だ。ここは考うべき時ですね」。「わたしもそれは思う」。「見たまえ、舞台の役者というものは、芝居全体のことよりも、それぞれの持ち役に一生懸命になり過ぎるようなところがあるね。熱心な役者ほど、そういうところがあるね。今度わたしは総督のお供をして見て、そのことを感じました。狂言作者が、君、諸侯の割拠を破るという筋を書いても、そうは役者の方で深く読んでくれない」。「多勢の仕事となると、そういうものかねえ」。「まあ、半蔵さん、わたしは京都の方へ出かけて行って、あの復興の都の中に身を置いて見ますよ。いろいろまた君のところへも書いてよこしますよ。関東の形勢がどんなに切迫したと言って見たところで、肝心の慶喜公がお辞儀をしてかかっているんですからね。佐幕派の運命も見えてますね。それよりも、わたしは兵庫や大坂の開港開市ということの方が気にかかる。外国公使の参内も無事に済んだからって、それでよいわと言えるようなものじゃありますまい。こんな草創の際に、したくらしいしたくのできようもなしさ。先方は兵力を示しても条約の履行を迫って来るのに、それすらこの国のものは忍ばねばならない。辛抱、辛抱――われわれは子孫のためにも考えて、この際は大いに忍ばねばならない。ほんとうに国を開くも、開かないも、実にこれからです……」。 「お客さま――へえ、御幣餅」という子供の声がして、お粂や宗太が母親と一緒に、皿に盛った山家の料理を囲炉裏ばたの方からそこへ運んで来た。「さあ、どうぞ、冷めないうちに召し上がってください」とお民は言って、やがて子供の方をかえり見ながら、「さっきから囲炉裏ばたじゃ大騒ぎなんですよ。吾家のお父さんの着物をお客さまが着てるなんて、そんなことを言って――ほんとに、子供の時はおかしなものですね」。この「お父さんの着物」が客をも主人をも笑わせた。その時、香蔵は手をもみながら、「どれ、一つ頂戴して見ますか」と言って、焼きたての御幣餅の一つをうまそうに頬ばった。その名の御幣餅にふさわしく、こころもち平たく銭形に造って串ざしにしたのを、一ずつ横にくわえて串を抜くのも、土地のものの食い方である。こんがりとよい色に焼けた焼き餅に、胡桃の香に、客も主人もしばらく一切のことを忘れて食った。 翌朝早く、香蔵は半蔵夫婦に礼を述べて、そこそこに帰りじたくをした。この友人の心は半分京都の方へ行っているようでもあった。別れぎわに、「でも、半蔵さん。今は生きがいのある時ですね」。その言葉を残した。友人を送り出した後、半蔵は本陣の店座敷から奥の間へ通う廊下のところに出た。香蔵の帰って行く美濃の方の空はその位置から西に望まれる。彼は、同門の人たちの多くが師鉄胤の周囲に集まりつつあることを思い、一切のものが徳川旧幕府に対する新政府の大争いへと吸い取られて行く時代の大きな動きを思い、三道よりする東征軍の中には全く封建時代を葬ろうとするような激しい意気込みで従軍する同門の有志も多かるべきことを思いやって、ひとりでその静かな廊下をあちこち、あちこちと歩いた。 |
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古代復帰の夢はまた彼の胸に帰って来た。遠く山県大弐、竹内式部らの勤王論を先駆にして、真木和泉以来の実行に移った討幕の一大運動はもはやここまで発展して来た。一地方に起った下諏訪の悲劇なぞは、この大きな波の中にさらわれて行くような時だ。よりよき社会を求めるためには一切の中世的なものをも否定して、古代日本の民族性に見るような直さ、健やかさに今一度立ち帰りたいと願う全国幾千の平田門人らの夢は、当然この運動に結びつくべき運命のものであった、と彼には思われるのである。 彼は周囲を見回した。過ぐる年の秋、幕府の外交奉行で大目付を兼ねた山口駿河(泉処)をこの馬籠本陣に泊めた時のことが、ふと彼の胸に浮かんだ。あの大目付が、京都から江戸への帰りに微行でやって来て、ひとりで彼の家の上段の間に隠れながら、あだかも徳川幕府もこれまでだと言ったように、暗い涙をのんで行った姿は、まだ彼には忘れられずにある。彼はあの幕臣が「条約の大争いも一段落を告げる時が来た」と言ったことを思い出した。「この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもあるまい」と言ったことをも思い出した。とうとう、その日がやって来たのだ。しかも、御親政の初めにあたり、この多難な時に際会して。明日――最も古くて、しかも最も新しい太陽は、その明日にどんな新しい古を用意して、この国のものを待っていてくれるだろうとは、到底彼などが想像も及ばないことであった。そういう彼とても、平田門人の末に列なり、物学びするともがらの一人として、もっともっと学びたいと思う心はありながら、日ごろ思うことの万が一を果たしうるような静かな心の持てる時代でもなかった。信を第一とす、との心から、ただただ彼は人間を頼みにして、同門のものと手を引き合い、どうかして新政府を護り立て、後進のためにここまで道をあけてくれた本居宣長らの足跡をその明日にもたどりたいと願った。 |
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五 | |
三月下旬には、東山道軍が木曾街道の終点ともいうべき板橋に達したとの報知の伝わるばかりでなく、江戸総攻撃の中止せられたことまで馬籠の宿場に伝わって来るようになった。すでに大政を奉還し、将軍職を辞し、広大な領地までそこへ投げ出してかかった徳川慶喜が江戸城に未練のあろうはずもない。いかに徳川家を疑い憎む反対者でも、当時局外中立の位置にある外国公使らまで認めないもののないこの江戸の主人の恭順に対して、それを攻めるという手はなかった。慶喜は捨てうるかぎりのものを捨てることによって、江戸の市民を救った。 このことは、いろいろに取りざたせられた。もとより、その直接交渉の任に当たり、あるいは主なき江戸城内にとどまって諸官の進退と諸般の処置とを総裁し順々として条理を錯乱せしめなかったは、大久保一翁、勝安房、山岡鉄太郎の諸氏である。しかし、幕府内でも最も強硬な主戦派の頭目として聞こえた小栗上野の職を褫いで謹慎を命じたほどの堅い決意が慶喜になかったとしたら。当時、「彼を殺せ」とは官軍の中に起こる声であったばかりでなく、江戸城内の味方のものからも起こった。慶喜の心事を知らない兵士らの多くは、その恭順をもってもっぱら京都に降るの意であるとなし、怒気髪を衝き、双眼には血涙をそそぎ、すすり泣いて、「慶喜斬るべし、社稷立つべし」とまでいきまいた。もしその殺気に満ちた空気の中で、幾多の誤解と反対と悲憤との声を押し切ってまでも断乎として公武一和の素志を示すことが慶喜になかったとしたら、おそらく、慶喜がもっと内外の事情に暗い貴公子で、開港条約の履行を外国公使らから迫られた経験もなく、多額の金を注ぎ込んだ債権者としての位置からも日本の内乱を好まない諸外国の存在を意にも留めずに、後患がどうであろうが将来がなんとなろうがさらに頓着するところもなく、ひたすら徳川家として幕府を失うのが残念であるとの一点に心を奪われるような人であったなら、たとい勝安房や山岡鉄太郎や大久保一翁などの奔走尽力があったとしても、この解決は望めなかった。 かつては参覲交代制度のような幕府にとって重要な政策を惜しげもなく投げ出した当時からの、あの弱いようで強い、時代の要求に敏感で、そして執着を持たない慶喜の性格を知るものにとっては――また、文久年度と慶応年度との二回にまでわたって幾多の改革に着手したその性格のあらわれを知るものにとっては、これは不思議でもなかったのである。不幸にも、徳川の家の子郎党の中にすら、この主人をよろこばないものがある。その不平は、多年慶喜を排斥しようとする旧い幕臣の中からも起こり、かくのごとき未曾有の大変革はけだし天子を尊ぶの誠意から出たのではなくて全く薩摩と長州との決議から出た事であろうと推測する輩の中からも起こり、逆賊の名を負わせられながらなんらの抵抗をも示すことなしに過去三百年の都会の誇りをむざむざ西の野蛮人らにふみにじられるとはいかにも残念千万であるとする諸陪臣の中からも起こった。「神祖(東照宮)に対しても何の面目がある。」――その声はどんな形をとって、どこに飛び出すかもしれなかった。江戸の空は薄暗く、重い空気は八十三里の余もへだたった馬籠あたりの街道筋にまでおおいかぶさって来た。 諸大名の家中衆で江戸表にあったものの中には、早くも屋敷を引き揚げはじめたとの報もある。江戸城明け渡しの大詰めも近づきつつあったのだ。開城準備の交渉も進められているという時だ。それらの家中衆の前には、およそ四つの道があったと言わるる。脱走の道、帰農商の道、移住の道、それから王臣となるの道がそれだ。周囲の事情は今までどおりのような江戸の屋敷住居を許さなくなったのだ。将軍家直属の家の子、郎党となると、さらにはなはだしい。それらの旗本方は、いずれも家政を改革し、費用を省略して、生活の道を立てる必要に迫られて来た。連年海陸軍の兵備を充実するために莫大な入り用をかけて来た旧幕府では、彼らが知行の半高を前年中借り上げるほどの苦境にあったからで。彼ら旗本方はほとんどその俸禄にも離れてしまった。慶喜が彼らに示した書面の中には、実に今日に至ったというのも皆自分一身の過ちより起こったことである。自分は深く恥じ深く悲しむ、ついては生計のために暇を乞いたい者は自分においてそれをするには忍びないけれども、その志すところに任せるであろう、との意味のことが諭してあったともいう。 もはや、江戸屋敷方の避難者は在国をさして、追い追いと東海道方面にも入り込むとのうわさがある。この薄暗い街道の空気の中で、どんなにか昔気質の父も心を傷めているだろう。そのことが半蔵をハラハラさせた。幾たびか彼に家出を思いとまらせ、庄屋のつとめを耐えさせ、友人の景蔵や香蔵のあとを追わせないで、百姓相手に地方を守る心に立ち帰らせるのも、一つはこの年老いた父である。昼過ぎから、ちょっと裏の隠居所をのぞきに行こうとする前に、半蔵は本陣の母屋から表門の外に走り出て見た。「村のものは」。だれに言うともなく、彼はそれを言って見た。旧幕府時代の高札でこれまでの分は一切取り除けられ、新しい時代の来たことを辺鄙な地方にまで告げるような太政官の定三札は、宿場の中央に改めて掲示されてある。彼は自分の家の門前の位置から、その高札場のあるあたりを坂になった町の上の方に望むこともでき、住み慣れた街道の両側に並ぶ石を載せた板屋根を下の方に見おろすこともできる。 こんな山里にまで及んで来る時局の影響も争われなかった。毎年桃から山桜へと急ぐよい季節を迎えるころには、にわかに人の往来も多く、木曾福島からの役人衆もきまりで街道を上って来るが、その年の春にかぎってまだ宿場継立てのことなぞの世話を焼きに来る役人衆の影もない。東山道軍通過以来の山村氏の代官所は測りがたい沈黙を守って、木曾谷に声を潜めた原生林そのままの沈まり方である。わずかに尾張藩の山奉行が村民らの背伐りを監視するため、奥筋から順に村々を回って来たに過ぎなかった。この宿場では、つい二日ほど前に、中津川泊まりで西から進んで来る二百人ばかりの尾州兵の太鼓の音を聞いた。およそ三組から成る同勢の高旗をも望んだ。それらの一隊が、越後方面を警戒する必要ありとして、まず松本辺をさして通り過ぎて行った後には、なんとなくゆききの人の足音も落ち着かない。飛脚荷物を持って来るものの名古屋便りまでが気にかかって、半蔵はしばらくその門前に立ってながめた。午後の日の光は街道に満ちている時で、諸勘定を兼ねて隣の国から登って来る中津の客、呉服物の大きな風呂敷を背負った旅商人、その他、宿から宿への本馬何ほど、軽尻何ほど、人足何ほどと言った当時の道中記を懐にした諸国の旅行者が、彼の前を往ったり来たりしていた。 まず街道にも異状がない。そのことに、半蔵はやや心を安んじて、やがて自分の屋敷内にある母屋と新屋の間の細道づたいに、裏の隠居所の方へ行った。階下を味噌や漬け物の納屋に当ててあるのは祖父半六が隠居時代からで、別に二階の方へ通う入り口もそこに造りつけてある。雪隠通いに梯子段を登ったり降りたりしないでも、用をたせるだけの設けもある。そこは筆者不明の大書を張りつけた古風な押入れの唐紙から、西南に明るい障子をめぐらした部屋の間取りまで、父が祖父の意匠をそっくり崩さずに置いてあるところだ。代を跡目相続の半蔵に譲り、庄屋本陣問屋の三役を退いてからの父が連れ添うおまんを相手に、晩年を暮らしているところだ。そういう吉左衛門は、もはや一日の半ばを床の上に送る人である。その床の上に七十年の生涯を思い出して、自己の黄昏時をながめているような人である。ちょうど半蔵が二階に上がって来て見た時は、父は眠っていた。「お休みですか」と言いながら、半蔵は父の寝顔をのぞきに行った。その時、継母のおまんが次ぎの部屋から声をかけた。「これ、お父さんを起こさないでおくれ」。 大きな鼻、静かな口、長く延びた眉毛、見慣れた半蔵の目には父の顔の形がそれほど変わったとも映らなかった。両手の置き場所から、足の重ね方まで考えるようになったと、よくその話の出る父は右を下にして昼寝の枕についている。かすかないびきの声も聞こえる。半蔵はその鼻息を聞きすまして置いて、おまんのいる次ぎの部屋へ退いた。「半蔵、江戸も大変だそうだねえ」とおまんは言った。「さっきも、わたしがお父さんに、そうあなたのように心配するからいけない、世の中のことは半蔵に任せてお置きなさるがいい、そう言ってあげても、お父さんは黙っておいでさ。そこへ、お前、上の伏見屋の金兵衛さんだろう。あの人の話はまた、こまかいと来てる。わたしはそばできいていても、気が気じゃない。いくら旧いお友だちでも、いいかげんに切り揚げて行ってくれればいい。そう思うとひとりでハラハラして、またこないだのようにお父さんが疲れなけりゃいいが、そればかり心配さ。金兵衛さんが帰って行ったあとで、お父さんが何を言い出すかと思ったら、おれはもうこんな時が早く通り過ぎて行ってくれればいい、早く通り過ぎて行ってくれればいいと、そればかり願っているとさ……」。 隣室の吉左衛門は容易に目をさまさない。めずらしくその裏二階に迎えたという老友金兵衛との長話に疲れたかして、静かな眠りを眠りつづけている。その時、母屋の方から用事ありげに半蔵をさがしに来たものもある。いろいろな村方の雑用はあとからあとからと半蔵の身辺に集まって来ていた時だ。彼はまた父を見に来ることにして、懐にした書付を継母の前に取り出した。それは彼が父に読みきかせたいと思って持って来たもので、京都方面の飛脚便りの中でも、わりかた信用の置ける聞書だった。当時ほど流言のおびただしくこの街道に伝わって来る時もなかった。たとえば、今度いよいよ御親征を仰せ出され、大坂まで行幸のあるということを誤り伝えて、その月の上旬に上方には騒動が起こったとか、新帝が比叡山へ行幸の途中鳳輦を奪い奉ったものがあらわれたとかの類だ。種々の妄説はほとんど世間の人を迷わすものばかりであったからで。「お母さん、これもあとでお父さんに見せてください」と半蔵が言って、おまんの前に置いて見せたは、東征軍が江戸城に達する前日を期して、全国の人民に告げた新帝の言葉で、今日の急務、永世の基礎、この他にあるべからずと記し添えてあるものの写しだ。それは新帝が人民に誓われた五つの言葉より成る。万機公論に決せよ、上下心を一にせよ、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよ、旧来の陋習を破って天地の公道に基づけ、知識を世界に求め大いに皇基を振起せよ、とある。それこそ、万民のために書かれたものだ。 |
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六 | |
四月の中旬まで待つうちに、半蔵は江戸表からの飛脚便りを受け取って、いよいよ江戸城の明け渡しが事実となったことを知った。さらに彼は月の末まで待った。昨日は将軍家が江戸東叡山の寛永寺を出て二百人ばかりの従臣と共に水戸の方へ落ちて行かれたとか、今日は四千人からの江戸屋敷の脱走者が武器食糧を携えて両総方面にも野州方面にも集合しつつあるとか、そんな飛報が伝わって来るたびに、彼の周囲にある宿役人から小前のものまで仕事もろくろく手につかない。箒星一つ空にあらわれても、すぐそれを何かの前兆に結びつけるような村民を相手に、ただただ彼は心配をわかつのほかなかった。 でも、そのころになると、この宿場を通り過ぎて行った東山道軍の消息ばかりでなく、長州、薩州、紀州、藤堂、備前、土佐諸藩と共に東海道軍に参加した尾州藩の動きを知ることはできたのである。尾州の御隠居父子を木曾の大領主と仰ぐ半蔵らにとっては、同藩の動きはことに凝視の的であった。偶然にも、彼は尾州藩の磅 ![]() |
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その中にはまた、容易ならぬ記事も出て来た。小田原から神奈川の宿まで動いた時の東海道軍の前には、横浜居留民を保護するために各国連合で組織した警備兵があらわれたとある。外人はいろいろな難題を申し出た。これまで徳川氏とは和親を結んだ国の事ゆえ、罪あって征討するなら、まず各国へその理由を告げてしかるべきに、さらに何の沙汰もない。かつ、交易場の辺を兵隊が通行して戦争にも及ぶことがあるなら、前もって各国へ布告もあるべきに、その沙汰もない。そういうことを申し立てて一本突ッ込んで来た外人らの多くは江戸開市を前に控えて、早く秩序の回復を希望するものばかりだ。神戸三宮事件に、堺旭茶屋事件に、潜んだ攘夷熱はまだ消えうせない。各国公使のうちには京都の遭難から危うく逃げ帰ったばかりのものもある。外人らは江戸攻撃の余波が、横浜居留地に及ぶことを恐れて、容易に東海道軍の神奈川通過を肯じない。ついには、外国軍艦の陸戦隊が上陸を見るまでになった。これには総督府も御心配、薩州らも当惑したとある。その筆者に言わせるとすでに、万国交際の道を開いた新政府側としては、東征軍の行動に関しても、外人らの意見を全く無視するわけには行かなかった。江戸攻撃を開始して、あたりを兵乱の巷と化し、無辜の民を死傷させ、城地を灰燼に帰するには忍びないのみか、その災禍が外人に及んだら、どんな国難をかもさないものでもないとは、大総督府の参謀においても深く考慮されたことであろうと書いてある。 こんな外国交渉に手間取れて、東海道軍は容易に品川へはいれなかった。その時は東山道軍はすでに板橋から四谷新宿へと進み、さらに市ヶ谷の尾州屋敷に移り、あるいは土手を切り崩し、あるいは堤を築き、八、九門の大砲を備えて、事が起こらば直ちに邸内から江戸城を砲撃する手はずを定めていた。意外にも、東海道軍の遅着は東山道軍のために誤解され、ことに甲州、上野両道で戦い勝って来た鼻息の荒さから、総攻撃の中止に傾いた東海道軍の態度は万事因循で、かつ手ぬるく実に切歯に堪えないとされた。東海道軍はまた東海道軍で、この友軍の態度を好戦的であるとなし、甲州での戦さのことなぞを悪しざまに言うものも出て来た。ここに両道総督の間に自然と軋りを生ずるようにもなったとある。「フーン」。半蔵はそれを読みかけて、思わずうなった。 |
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これは父にも読み聞かせたいものだ。その考えから半蔵は尾州の従軍医が書き留めたものの写しをふところに入れて午後からまた裏二階の方へ父を見に行った。「もう藤の花も咲くようになったか」。吉左衛門はそれをおまんにも半蔵にも言って見せて、例の床の上にすわり直していた。将軍家の没落もいよいよ事実となってあらわれて来たころは、この山家ではもはや小草山の口明けの季節を迎えていた。「半蔵、江戸のお城はこの十一日に明け渡しになったのかい」とまた吉左衛門が言った。「そうですよ」と半蔵は答える。「なんでも、東征軍が江戸へはいったのは先月の下旬ですから、ちょうどさくらのまっ盛りのころだったと言いますよ。屋敷屋敷へは兵隊が入り込む、落ちた花の上へは大砲をひき込む――殺風景なものでしたろうね」。「まあ、おれのような昔者にはなんとも言って見ようもない」。 その時、半蔵はふところにして行った覚え書きを取り出した。江戸開城に関する部分なぞを父の枕もとで読み聞かせた。大城を請け取る役目も薩摩や長州でなくて、将軍家に縁故の深い尾州であったということも、父の耳をそばだてさせた。その中には、開城の前夜に芝増上寺山内の大総督府参謀西郷氏の宿陣で種々な軍議のあったことも出て来た。城を請け取る刻限も、翌日の早朝五ツ時と定められた。万一朝廷の命令に抵抗するものがあるなら討ち取るはずで、諸藩の兵隊はその時刻前に西丸の城下に整列することになった。いよいよその朝が来た。錦旗を奉じた尾州兵が大手外へ進んだ時は、徳川家の旧旗下の臣は各礼服着用で、門外まで出迎えたとある。域内にある野戦砲の多くはすでに取り出されたあとで、攻城砲、軽砲の類のみがそこここに据え置かれてあったが、それでも百余の大砲を数えたという。旧旗下の臣も退城し、諸藩の兵隊も帰陣して、尾州兵が城内へ繰り込んだ。そして、それぞれ警備の役目についた。実に慶応四年四月十一日の朝だ。江戸八百八町を支配するようにそびえ立っていた幕府大城はその時に最後の幕を閉じたともある。 「お父さん、ここに神谷八郎右衛門とありますよ。ホ、この人は外桜田門の警衛だ」。「名古屋の神谷八郎右衛門さまと言えば、おれもお目にかかったことがある」。「西丸の大手から、神田橋、馬場先、和田倉門、それから坂下二重門内の百人番所まで、要所要所は尾州の兵隊で堅めたとありますね」。「つまり、江戸城は尾州藩のお預かりということになったのだね」。「待ってください。ここに静寛院さまと、天璋院さまのことも出ています。この静寛院さまとは、和宮さまのことです。お二人とも最後まで江戸城にお残りになったとありますよ」。「へえ、そうあるかい」とおまんがそれを引き取って、「お二人とも苦しい立場さね。そりゃ、お前、和宮さまは京都から御輿入れになったし、天璋院さまは薩摩からいらしったかただから」。「まあ、待ってください。天璋院さまには、こんな話もありますね。以前、十四代将軍のところへ、和宮さまをお迎えになって、言わばお姑さまとして、初めて京都方と御対面の時だったと覚えています。そこは天璋院さまです、すぐに自分の席には着かない。まず多数の侍女の中にまじっていて、京都方の様子をとくと見定めたと言いますね。それから、たち上がって、いきなり自分の方が上座に着いたとも言いますね。こうすっくと侍女の中からたち上がったところは、いかにもその人らしい。あの話は今だに忘れられません。ごらんなさい、天璋院さまはそういう人でしょう。今度、城を明け渡すについては、和宮さまは田安の方へお移りになるから、あなたは一橋家の方へお移りなさいと言われても、容易に天璋院さまは動かなかったとありますね。それを無理にお連れ申したようなことが、この覚え書きの中にも出ていますよ」。「あわれな話だねえ」と吉左衛門はそれを聞いたあとで言った。 「まあ、お話に気を取られて、わたしはまだお茶も入れてあげなかった」。おまんは次ぎの部屋の方へ立って行って、小屏風のわきに茶道具なぞ取り出す音をさせた。「半蔵、」と吉左衛門は床の上に静坐しながら話しつづけた。「この先、江戸もどうなろう」。「さあ、それがです。京都の方ではもう遷都論が起こってるという話ですよ。香蔵さんからはそんな手紙でした。あの人も今じゃ京都の方ですからね」。「どうも、えらいことを聞かされるぞ。この御一新はどこまで及んで行くのか、見当もつかない」。「そりゃ、お父さん――どうせやるなら、そこまで思い切ってやれという論のようです」。こんな言葉をかわしているところへ、おまんは隣家の伏見屋からもらい受けたという新茶を入れて来た。時節がらの新茶は香は高くとも、年老いた人のためには灰汁が強すぎる。彼女はそれに古茶をすこし混ぜ入れて来たと言って見せるほど、注意深くもあった。「あなた、横におなりなすったら」とおまんは夫の方を見て言った。「そうすわってばかりじゃ、お疲れでしょうに」。「そうさな。それじゃ、寝て話すか」。 吉左衛門とおまんとはもはやよい茶のみ友だちである。この父はおまんが勧めて出した湯のみを枕もとに引きよせ、日ごろ愛用する厚手な陶器の手ざわりを楽しみながら、年をとってますます好きになったという茶のにおいをさもうまそうにかいだ。半蔵をそばに置いて、青山家の昔話までそこへ持ち出すのもこの父である。自分ごときですら、将軍家の没落を聞いては目もくらむばかりであるのに、実際に大きなものが眼前に倒れて行くのを見る人はどんなであろう、そんな述懐が老い衰えた父の口からもれて来た。武家全盛の往時しか知らないで、代々本陣、問屋、庄屋の三役を勤めて来た祖父たちの方がむしろ幸福であったのか、かくも驚くべき激変の時代にめぐりあって、一世に二世を経験し、一身に二身を経験するような自分ごときが幸福であるのか。そんな話が出た。「そう言えば、半蔵、こないだ金兵衛さんが見舞いに来てくれた時に、おれはあの老友と二人で新政府のお勝手向きのことを話し合ったよ。これだけの兵隊を動かすだけでも、莫大な費用だろう。金兵衛さんは、お前、あのとおり町人気質の人だから、いったい今度の戦費はどこから出るなんて、言い出した。そりゃ各藩から出るにきまってます、そうおれが答えたら、あの金兵衛さんは声を低くして、各藩からは無論だが、そのほかに京大坂の町人たちが御用達のことを聞いたかと言うのさ。百何十万両の調達を引き受けた大きな町家もあるという話だぜ。そんな大金の調達を申し付けるかわりには、新政府でそれ相応な待遇を与えなけりゃなるまい。こりゃおれたちの時代に藩から苗字帯刀を許したぐらいのことじゃ済むまいぞ。王政御一新はありがたいが、飛んだところに禍いの根が残らねばいいが。金兵衛さんが帰って行ったあとで、おれはひとりでそのうわささ」。そんな話も出た。 「金兵衛さんで思い出した」と吉左衛門は枕もとの煙草盆を引きよせて、一服やりながら、「おれなぞはもう日暮れ道遠しだ。そこへ行くと、あの伏見屋の隠居はよくそれでもあんなにからだが続くと思うよ。年はおれより二つも上だが、あの人にはまだかんかん日があたってる」。「かんかん日があたってるはようござんした」とおまんも軽く笑って、「あれで金兵衛さんも、大事な子息さん(鶴松)は見送るし、この正月にはお玉さん(後妻)のお葬式まで出して、よっぽどがっかりなさるかと思いましたが――」。「どうして、あの年になって、馬の七夜の祝いにでも招ばれて行こうという人だ。おれはあの金兵衛さんが、古屋敷の洞へ百二十本も杉苗を植えたことを知ってる――世の中建て直しのこの大騒ぎの中でだぜ。あれほどのさかんな物欲は、おれにはないナ。おれなぞはお前、できるだけ静かにこの世の旅を歩きつづけて来たようなものさ。おれは、あの徳川様の代に仕上がったものがだんだんに消えて行くのを見た。おれも、もう長いことはあるまい……よくそれでも本陣、問屋、庄屋を勤めあげた。そうあの半六親爺が草葉の陰で言って、このおれを待っていてくれるような気がする……」。「そんな、お父さんのような心細いことを言うからいけない」。「いや、半蔵には御嶽の参籠までしてもらったがね、おれの寿命が今年の七十歳で尽きるということは、ある人相見から言われたことがあるよ」。「ごらんな、半蔵。お父さんはすぐあれだもの」。裏二階では、こんな話が尽きなかった。 |
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何から何まで動いて来た。過ぐる年の幕府が参覲交代制度を廃した当時には動かなかったほどの諸大名の家族ですら、住み慣れた江戸の方の屋敷をあとに見捨てて、今はあわただしく帰国の旅に上って来るようになった。「お屋敷方のお通りですよ」と呼ぶお粂や宗太の声でも聞きつけると、半蔵は裏二階なぞに話し込んでいられない。会所に集まる年寄役の伊之助や問屋九郎兵衛なぞを助けて、人足や馬の世話から休泊の世話まで、それらのめんどうを見ねばならない。東海道回りの混雑を恐れるかして、この木曾街道方面を選んで帰国する屋敷方には、どこの女中方とか、あるいは御隠居とかの人たちの通行を毎日のように見かける。「国もとへ。国もとへ」。その声は、過ぐる年に外様諸大名の家族が揚げて行ったような解放の歓呼ではない。現にこの街道を踏んで来る屋敷方は、むしろその正反対で、なるべくは江戸に踏みとどまり、宗家の成り行きをも知りたく、今日の急に臨んでその先途も見届けたく、かつは疾病死亡を相訪い相救いたい意味からも親近の間柄にある支族なぞとは離れがたく思って、躊躇に躊躇したあげく、太政官からの御達しや総督府参謀からの催促にやむなく屋敷を引き払って来たという人たちばかりである。 将軍家の居城を中心に、大きな市街の六分通りを武家で占領していたような江戸は、もはや終わりを告げつつあった。この際、徳川の親藩なぞで至急に江戸を引き払わないものは、違勅の罪に問われるであろう。兵威をも示されるであろう。その御沙汰があるほど、総督府参謀の威厳は犯しがたくもあったという。西の在国をさして馬籠の宿場を通り過ぎる屋敷方の中には、紀州屋敷のうわさなどを残して行くものもある。そのうわさによると、上屋敷、中屋敷、下屋敷から、小屋敷その他まで、江戸の市中に散在する紀州屋敷だけでも大小およそ六百戸の余もある。奥向きの女中を加えると、上下の男女四千余人を数える。この大人数が、三百年来住み慣れた墳墓の地を捨て、百五十里もある南の国へ引き揚げよと命ぜられても、わずか四、五日の間でそんな大移住が行ないうるものか、どうかと。半蔵らの目にあるものは、徳川氏と運命を共にする屋敷方の離散して行く光景を語らないものはない。茶摘みだ烙炉だ筵だと騒いでいる木曾の季節の中で、男女の移住者の通行が続きに続いた。[#改頁] |
(私論.私見)