夜明け前/諸氏の感想記 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.3日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「島崎藤村」を確認する。「ウィキペディア島崎藤村」その他を参照する。 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝 |
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『夜明け前』(よあけまえ)は、島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている。
本作品を一言で言えば、明治維新の功罪を問う長編歴史小説である。米国ペリー来航の1853年前後の世相描写から始まり、幕末維新、明治維新の激動期を経て、主人公が没す1886(明治19)年に至るまでの約30年間の日本の変貌ぶりを活写している。これを、中山道の木曾十一宿宿場町の中でも主要な地位を占める信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)で17代続いた本陣・庄屋のいずれ当主の跡取り息子たる青山半蔵を主人公として、一方で馬籠宿界隈の出来事及び人々の生活を描き、他方で黒船来航、和宮様御下向、天誅組騒動、池田屋の変、水戸浪士の西下騒動、参勤交代の廃止、生麦事件、安政の大獄、加波山事件、ええじゃないか運動、相次ぐ開港、王政復古宣言、相良惣三事変、官軍の東征進撃、明治維新、東北戦争、万国公法時代の到来、西南戦争、その後の諸事件等々の中山道の数々の通行模様を通しての日本史的事件を交互に叙述しながら、そこへ半蔵の人生履歴と半蔵を取り巻く人間群像の往来とを重ね合わせている。全体に淡々と抑えた筆致で叙述しており、そのことで却って次第に盛り上がるという時代小説を巧みに書き上げている。第一部と二部の二部構成にしてそれぞれが上巻下巻を持つ四部作の長編小説になっている。藤村晩年の大作で、半蔵のモデルは藤村の父親・島崎正樹にして、18歳の頃からの国学への専心、幕末尊皇攘夷運動への関わり、その革命が裏切られ、失意し、やがて50代前半の明治の半ばで狂死するまでを描いている。亀井勝一郎は次のように評している。「『夜明け前』は、父における人生悲劇と、近代日本の悲劇との、激しい交叉の上に、自己の悲劇を投影した作品である歴史文学であるとともに自己告白の文学である」。その通りであろう。 |
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第一部(上) 山の中にありながら時代の動きを確実に追跡する木曽路、馬籠宿。その本陣・問屋・庄屋をかねる家に生れ国学に心を傾ける青山半蔵は偶然、江戸に旅し、念願の平田篤胤没後の門人となる。黒船来襲以来門人として政治運動への参加を願う心と旧家の仕事にはさまれ悩む半蔵の目前で歴史は移りかわっていく。著者が父をモデルに明治維新に生きた一典型を描くとともに自己を凝視した大作。 第一部(下) 第二部(上) 第二部(下) |
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この小説の書き出しは、「木曽路はすべて山の中にある」という一文で始まる。木曽路は日本でも有数の宿場町で、徳川時代の交通の要衝を占めていた。『夜明け前』の舞台は、藤村の故郷
木曽谷馬篭宿である。美濃と信州の県境にある中仙道の宿場町で、宿の南側入口には「これより北、木曽路」という石碑が立っている。江戸の頃、木曽は徳川幕府の直轄領であった。木曽檜をはじめとした豊かな山林資源があったからだと言われる。人や荷物の通交管理を行うにも都合が良かったのであろう。中仙道の最大の難所で、間道がほとんどないから、関所を置くにはうってつけだ。 1853年、主人公の青山半蔵23歳頃のこと、黒船来航の噂が耳に入る。半蔵の実家は、馬籠宿で16代続いている本陣・庄屋で、当主が父の吉左衛門、半蔵跡継ぎが約定されていた。半蔵は幼少より向学心の強いお子であった。長ずるに及び漢詩を吟じ、はたまた国学に共鳴し、その集大成とも目される平田篤胤史学の学徒として自己形成していった。半蔵は、山峡の街道に生きる青年知識人として一目置かれていた。 2015.3.10日付けの城取一成「夜明け前」は次のように記している。
平田国学の門人に列なった青山半蔵は、「王政復古」を願う立場から幕末回転運動に翼賛した。平田国学はいわば反体制の観点を持っており、そういう意味で、青山半蔵は反体制的主義の人となった。木曽の山林は、尾張藩が、 「檜(ひのき)一本、首一つ」の厳重な統制システムで管理し、住民には檜などの伐採を禁じていた。青山半蔵は尾張藩の林業統制を批判し、それは徳川幕藩体制批判に通底していた。 この運動が実り、幕末維新となり、明治維新が成った。その明治維新は、日本の国胎に則った日本式王政を確立すべきであったところ、現実の明治は、彼の期待した通りにはならず、むしろ真逆の欧米主義的文明開化の波だった。結果的に、明治新政府の政策は、徳川幕藩体制よりも酷い悪政となった。半蔵の馴染めない明治の御代となった。 その明治維新政府により、山林が国有化され、一切の伐採が禁じられた。半蔵はこれに対し戸長らを集めて抗議運動を起こした。その結果、首謀者として戸長の座を解任された。この頃、嫁入り前の娘・お粂が自殺未遂を起こし、青山半蔵に追い討ち的な打撃を与えた。次第に青山家の家運にも暗い影がしのびより傾きはじめた。その後、村の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた半蔵は、意を決して上京。国学仲間のつてで教部省に出仕した。しかし、同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職した。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして、明治大帝の行幸の列に突進し、世を憂いた和歌をしたためた扇子を天皇の馬車に投げ入れようとする騒動を引き起こした。。「王政復古」が幻想でしかなかったことに気がついた頃、維新に期待し、裏切られたことを知った半蔵の精神が狂いはじめていた。 その後、飛騨にある神社の宮司になるも数年で郷里へと戻る。半蔵の生活力のなさを責めた継母の判断で、四十歳ほどで隠居する。読書をしつつ、再び地元の子供たちに読み書きを教える生活を送る。だが次第に酒浸りの生活になっていく。維新後の青山家は世相に適応できず、家産を傾けていた。親戚の者はそれが半蔵のせいだとしてました。 親戚たちは「この責任は半蔵にある」と半蔵を責め、半蔵を無理やり隠居所に別居させると共に、親戚間での金の融通を拒否し、酒量を制限しようとする。半蔵はこれに激怒し、息子である宗太に扇子を投げつけた。半蔵は、国学の理想とかけ離れていく明治の世相に対する不満を昂じさせて行った。期待をかけて東京に遊学させていた学問好きの四男・和助が半蔵の思いに反し英学校への進学を希望したことも落胆させた。 この頃から、自分を襲おうとしている敵がいると口走るなど奇行が始まった。ついには寺への放火未遂事件を起こし、村人たちによって狂人として座敷牢に監禁された。当初は静かに読書に励んでいたが、徐々に獄中で衰弱していく。最後には自らの排泄物を見境なく人に投げつける廃人となってしまい、とうとう座敷牢のなかで病死した。遺族や旧友、愛弟子たちは、半蔵の死を悼みながら、半蔵を丁重に生前望んでいた国学式で埋葬した。墓堀りの最中、弟子の一人が「わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ」という師匠の言葉を思い出して悲しむ。タイトルの「夜明け前」は、「夜明け」を信じて一生を捧げ、未だ「夜明け前」との未完を慟哭して死んだ青山半蔵追悼に相応しいものであることが分かる。その生き様は、主義に生き主義に狂わされた殉教者ではあるまいか。ここに普遍的なテーマが内蔵されており、永遠の名作足り得ているのではあるまいか。 |
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中央公論誌上に、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで断続的に掲載され、第1部は1932年1月、第2部は1935年11月、新潮社から刊行された。1934年11月10日 村山知義脚色、久保栄演出「夜明け前」(三幕十場)が新協劇団により築地小劇場で初演される。
1953年に「夜明け前」として、新藤兼人脚色、吉村公三郎監督により映画化。近代映画協会が劇団民藝と共に製作し、民藝の俳優が総出演している。配給は新東宝。第8回毎日映画コンクール撮影賞を受賞(宮島義勇)。
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、「夜明け前と島崎藤村の足取り1」。ほるぷ出版の「夜明け前四 島崎藤村」に掲載されている三好行雄氏による解説は、「夜明け前」の解説と共に島崎藤村に対する深い研究が光っている内容です。以下、『』内の文章は左記の解説からの引用となります。「夜明け前」及び島崎藤村への理解の一助となれば幸いです。
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(私論.私見)