夜明け前/諸氏の感想記

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「島崎藤村」を確認する。「ウィキペディア島崎藤村」その他を参照する。

 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【夜明け前あらすじ】
 『夜明け前』(よあけまえ)は、島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている

 本作品を一言で言えば、明治維新の功罪を問う長編歴史小説である。米国ペリー来航の1853年前後の世相描写から始まり、幕末維新、明治維新の激動期を経て、主人公が没す1886(明治19)年に至るまでの約30年間の日本の変貌ぶりを活写している。これを、中山道の木曾十一宿しゅく宿場町の中でも主要な地位を占める信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)で17代続いた本陣・庄屋のいずれ当主の跡取り息子たる青山半蔵を主人公として、一方で馬籠宿界隈の出来事及び人々の生活を描き、他方で黒船来航、和宮様御下向ごげこう天誅組てんちゅうぐみ騒動、池田屋の変、水戸浪士の西下騒動、参勤交代の廃止、生麦事件、安政の大獄、加波山事件、ええじゃないか運動、相次ぐ開港、王政復古宣言、相良惣三事変、官軍の東征進撃、明治維新、東北戦争、万国公法時代の到来、西南戦争、その後の諸事件等々の中山道の数々の通行模様を通しての日本史的事件を交互に叙述しながら、そこへ半蔵の人生履歴と半蔵を取り巻く人間群像の往来とを重ね合わせている。全体に淡々と抑えた筆致で叙述しており、そのことで却って次第に盛り上がるという時代小説を巧みに書き上げている。第一部と二部の二部構成にしてそれぞれが上巻下巻を持つ四部作の長編小説になっている。藤村晩年の大作で、半蔵のモデルは藤村の父親・島崎正樹にして、18歳の頃からの国学への専心、幕末尊皇攘夷運動への関わり、その革命が裏切られ、失意し、やがて50代前半の明治の半ばで狂死するまでを描いている。亀井勝一郎は次のように評している。「『夜明け前』は、父における人生悲劇と、近代日本の悲劇との、激しい交叉の上に、自己の悲劇を投影した作品である歴史文学であるとともに自己告白の文学である」。その通りであろう。

 第一部(上)
 山の中にありながら時代の動きを確実に追跡する木曽路、馬籠宿。その本陣・問屋・庄屋をかねる家に生れ国学に心を傾ける青山半蔵は偶然、江戸に旅し、念願の平田篤胤没後の門人となる。黒船来襲以来門人として政治運動への参加を願う心と旧家の仕事にはさまれ悩む半蔵の目前で歴史は移りかわっていく。著者が父をモデルに明治維新に生きた一典型を描くとともに自己を凝視した大作。

 第一部(下)
 参勤交代制度の廃止以後木曽路の通行はあわただしくなり、半蔵の仕事も忙しさを増す。時代は激しく変化し、鎖国のとかれる日も近づく。一方、幕府の威信をかけた長州征伐は失敗し、徳川慶喜は、薩長芸三藩の同盟が成立していよいよ倒幕という時に大政を奉還した。王政復古が成り立つことを聞いた半蔵は、遠い古代への復帰に向かう建て直しの日がやって来たことを思い心が躍るのだった。

 第二部(上)
 
鳥羽伏見の戦いが行われ、遂に徳川幕府征討令が出される。東征軍のうち東山道軍は木曽路を進み、半蔵は一庄屋としてできる限りの手助けをしようとするが、期待した村民の反応は冷やかなものだった。官軍と旧幕府方の激しい戦いの末、官軍方が勝利をおさめ、江戸は東京と改められて都が移された。あらゆる物が新しく造り替えられる中で、半蔵は新政府や村民の為に奔走するのだった。

 第二部(下)
 
新政府は半蔵が夢見ていたものではなかった。戸長を免職され、神に仕えたいと飛弾の神社の宮司になるが、ここでも溢れる情熱は報われない。木曽に帰り、隠居した彼は仕事もなく、村の子供の教育に熱中する。しかし、夢を失い、失望した彼はしだいに幻覚を見るようになり、遂には座敷牢に監禁されてしまうのだった。小説の完成に7年の歳月を要した藤村最後の長編である。

 この小説の書き出しは、「木曽路はすべて山の中にある」という一文で始まる。木曽路は日本でも有数の宿場町で、徳川時代の交通の要衝を占めていた。『夜明け前』の舞台は、藤村の故郷 木曽谷馬篭宿である。美濃と信州の県境にある中仙道の宿場町で、宿の南側入口には「これより北、木曽路」という石碑が立っている。江戸の頃、木曽は徳川幕府の直轄領であった。木曽檜をはじめとした豊かな山林資源があったからだと言われる。人や荷物の通交管理を行うにも都合が良かったのであろう。中仙道の最大の難所で、間道がほとんどないから、関所を置くにはうってつけだ。

 1853年、主人公の青山半蔵23歳頃のこと、黒船来航の噂が耳に入る。半蔵の実家は、馬籠宿で16代続いている本陣・庄屋で、当主が父の吉左衛門、半蔵はんぞう)はその跡継ぎが約定されていた。半蔵は幼少より向学心の強いお子であった。長ずるに及び漢詩を吟じ、はたまた国学に共鳴し、その集大成とも目される平田篤胤史学の学徒として自己形成していった。半蔵は、山峡の街道に生きる青年知識人として一目置かれていた。

 2015.3.10日付けの城取一成「夜明け前」は次のように記している。
 「小賢しい人間は時代におもねって生き抜く。愚かな人間は時代に流されて漂っていく。生真面目な人間は、変化の摩擦面に身を置いて苦しむ。半蔵は不幸にして聡明であった。それゆえに新しい時代に過大な幻想を抱いてしまった。半蔵は不幸にして繊細であった。それゆえに幻想と現実の境目が見えなくなっていった。 その半蔵がこの激動に反応する。早くより平田派の国学を学び、その王政復古思想に陶酔する。自ら好んで時代の激動の渦の中に入り込み、故郷の在り方、日本の在り方に同時的に向かって苦闘する」。

 平田国学の門人に列なった青山半蔵は、「王政復古」を願う立場から幕末回転運動に翼賛した。平田国学はいわば反体制の観点を持っており、そういう意味で、青山半蔵は反体制的主義の人となった。木曽の山林は、尾張藩が、 「檜(ひのき)一本、首一つ」の厳重な統制システムで管理し、住民には檜などの伐採を禁じていた。青山半蔵は尾張藩の林業統制を批判し、それは徳川幕藩体制批判に通底していた。

 この運動が実り、幕末維新となり、明治維新が成った。その明治維新は、日本の国胎に則った日本式王政を確立すべきであったところ、現実の明治は、彼の期待した通りにはならず、むしろ真逆の欧米主義的文明開化の波だった。結果的に、明治新政府の政策は、徳川幕藩体制よりも酷い悪政となった。半蔵の馴染めない明治の御代となった。

 その明治維新政府により、山林が国有化され、一切の伐採が禁じられた。半蔵はこれに対し戸長らを集めて抗議運動を起こした。その結果、首謀者として戸長の座を解任された。この頃、嫁入り前の娘・お粂が自殺未遂を起こし、青山半蔵に追い討ち的な打撃を与えた。次第に青山家の家運にも暗い影がしのびより傾きはじめた。その後、村の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた半蔵は、意を決して上京。国学仲間のつてで教部省に出仕した。しかし、同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職した。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして、明治大帝の行幸の列に突進し、世を憂いた和歌をしたためた扇子を天皇の馬車に投げ入れようとする騒動を引き起こした。。「王政復古」が幻想でしかなかったことに気がついた頃、維新に期待し、裏切られたことを知った半蔵の精神が狂いはじめていた。

 その後、飛騨にある神社の宮司になるも数年で郷里へと戻る。半蔵の生活力のなさを責めた継母の判断で、四十歳ほどで隠居する。読書をしつつ、再び地元の子供たちに読み書きを教える生活を送る。だが次第に酒浸りの生活になっていく。維新後の青山家は世相に適応できず、家産を傾けていた。親戚の者はそれが半蔵のせいだとしてました。 親戚たちは「この責任は半蔵にある」と半蔵を責め、半蔵を無理やり隠居所に別居させると共に、親戚間での金の融通を拒否し、酒量を制限しようとする。半蔵はこれに激怒し、息子である宗太に扇子を投げつけた。半蔵は、国学の理想とかけ離れていく明治の世相に対する不満を昂じさせて行った。期待をかけて東京に遊学させていた学問好きの四男・和助が半蔵の思いに反し英学校への進学を希望したことも落胆させた。

 この頃から、自分を襲おうとしている敵がいると口走るなど奇行が始まった。ついには寺への放火未遂事件を起こし、村人たちによって狂人として座敷牢に監禁された。当初は静かに読書に励んでいたが、徐々に獄中で衰弱していく。最後には自らの排泄物を見境なく人に投げつける廃人となってしまい、とうとう座敷牢のなかで病死した。遺族や旧友、愛弟子たちは、半蔵の死を悼みながら、半蔵を丁重に生前望んでいた国学式で埋葬した。墓堀りの最中、弟子の一人が「わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ」という師匠の言葉を思い出して悲しむ。タイトルの「夜明け前」は、「夜明け」を信じて一生を捧げ、未だ「夜明け前」との未完を慟哭して死んだ青山半蔵追悼に相応しいものであることが分かる。その生き様は、主義に生き主義に狂わされた殉教者ではあるまいか。ここに普遍的なテーマが内蔵されており、永遠の名作足り得ているのではあるまいか。
 中央公論誌上に、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで断続的に掲載され、第1部は1932年1月、第2部は1935年11月、新潮社から刊行された。1934年11月10日 村山知義脚色、久保栄演出「夜明け前」(三幕十場)が新協劇団により築地小劇場で初演される。 1953年に「夜明け前」として、新藤兼人脚色、吉村公三郎監督により映画化。近代映画協会が劇団民藝と共に製作し、民藝の俳優が総出演している。配給は新東宝。第8回毎日映画コンクール撮影賞を受賞(宮島義勇)。
 新潮文庫版は、二巻上・下で全四冊。

 『藤村文学の最後の到達 -幻滅と挫折の悲劇- 三好行雄


 『夜明け前』は(未完に終わった『東方の門』を別にしていえば)、島崎藤村の最後の長編小説で、全二部から成る。
 第一部(序の章および第一から十二章の全十三章)は「中央公論」の昭和四年(一九二九)四月号から昭和七年一月号まで、原則として年に四回、一月、四月、七月、十月の各号にそれぞれ一章ずつ(ただし、昭和六年のみは八月号を加えて年五回)発表された。第二部(第一から十四章および終の章の全十五章)はひきつづいて昭和七名年四月号から第一部とおなじ方式で年四回、四年にわたって分載され、昭和十年十月号の〈終の章〉で完結した。第一部、第二部とも初出稿では各章ごとに作者の感想、正誤、執筆状況の報告などをふくむ自由な体裁の「附記」ないし「はしがき」が附されている。

 初版は第一部が雑誌連載稿の完結後まもなく、徹底した補正を加えて、昭和七年一月二十日に新潮社から出版されたが、その後、第二部の完結を機として企画された定本版『藤村文庫』の第一篇として、昭和十年十一月二十五日に新潮社から再版されている。『藤村文庫』は藤村自身が自分の作品を編集再構成した自選全集で、第一篇(第一部)と同時に、第二部がおなじく若干の補訂を加えて、『藤村文庫』第二篇として昭和十年十一月二十五日に新潮社から刊行された。

 小説の発表にさきだって、「中央公論」の昭和四年一月号に、予告にあたる「『夜明け前』を出すについて」が発表されているが、藤村はその一節で、つぎのようにいう。
 《これを出すについて、何かここに書きつけることを本誌の編集者から求められた。しかし私は今しばらく黙していたい気がする。自分の内から子供の生まれて来る前であればあるだけ、その沈黙を作者としての言葉に替えたい気がする。実のところ、私はこの作をするについて何も読者に約束することは出来ない。ただこれが私にとって第五の長篇小説であること、私はまた成るべくやさしい平談俗語をもってこれを綴るであろうということが言えるのみである。……『夜明け前』一篇は私として、一つのスタデイを持ち出して見るに過ぎない。》

 これは一見、さりげない挨拶のように見えるが、〈第五の長篇小説〉といい、〈平談俗語〉で語るといい、〈一つのスタデイ〉という、そこは『破戒』『春』『家』『新生』と書きつがれてきた藤村文学の半生の脈絡を継いで、なお新しい世界をひらこうとする作家の自負が読みとれる。藤村はみずからの内に熟してくるものの気配をひそかに確かめながら、それが産声をあげる刻(とき)の近づくのを慎重に待っているのである。
   *
 『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルは、いうまでもなく、藤村の父島崎正樹である。七年の歳月をかけて成ったこの大河小説で、作者は父の苦悩にみちた生涯を、父の生きた時代の状況と合わせ鏡にして、明治維新前後の動乱期を生き生きと描きだすのに成功した。個人の歴史を辿りながら背後に、時代全体の移りゆく大きな流れを彷彿した重量感は比類がなく、わが国の近代歴史文学の最高峰という評価がすでに確立されている。同時に、小説の成立過程やモチーフにかかわっていえば、『夜明け前』はたんに歴史小説としての傑作というだけでなく、藤村自身の生の軌跡にとって、たとえようもなく重い意味を持った作品であった。

 藤村は明治五年(一八七二)三月二十五日に正樹の四男として馬籠(まごめ)で誕生したが、明治十四年、九歳のとき、兄にともなわれて東京に遊学して以後、大正十五(一九二六)年に『夜明け前』の準備をかねて馬籠を訪れるまで、ほとんど故郷に足を踏み入れることがなかった。『夜明け前』のモチーフを手に入れたとき、藤村は名実ともに故郷にもどったのである。

 『夜明け前』の構想をうながすモチーフの発端は、大正二年のフランス行にまでさかのぼる。この年の四月、藤村はいわゆる新生事件として知られる実姪との危険な関係から逃れるためにフランスへ旅立ち、帰国の船に乗る大正五年五月までのまる三年間を、第一次世界大戦前後の物情騒然たる異国で過した。大正三年八月には戦禍を避けて南仏のリモオジュに移るなどのこともあったが、藤村はこの戦争を通じて、もはや頽廃(たいはい)の底をきわめたかに見えたフランス国民が、敗戦にひとしい打撃を受けて逆に民族の自覚にめざめ、廃墟からたちなおろうとする不死鳥のような生命力に驚嘆した。みずから銃をとって戦い、祖国のために死んでゆく詩人たちにも感動した。現地で書かれた随想「戦争と巴里(パリ)」(大正四年)でも、〈私は今自分の周囲を見廻すと、戦後の仏蘭西の為めに来るべき時代のためにーせっせと準備しつつあるものに気が着く。どう見てもそれは芽だ。間断なく怠りなく仕度して居るような新生の芽だ〉(「春を待ちつつ」三)という発見が語られている。藤村はその〈氏から持来す回生の力〉の根源を、フランス民族が守り育ててきた伝統のなかに求めた。廃墟に新生の芽を芽ぶかせるものこそ、戦禍によっても滅びることのない伝統の力なのだという発見である。〈回生の力〉への驚嘆は直接には、みずからのデカダン(背徳と不倫の愛)から自力でよみがえろうと『新生』への道を用意することになるが、同時に、民族の精神や伝統についてのあらたな自覚は、幕臣栗本鋤雲(くりもとじょうん)の『暁窓(ぎょうそう)追録』を旅窓で読んだことなどが機縁になって、十九世紀日本の考察という大きなテーマの前に藤村を連れだすことになった。

 《もし吾国(わがくに)における十九世紀研究とも言うべきものを書いてくれる人があったら、いかに自分はそれを読むのを楽しむだろう。明治年代とか、徳川時代とか。区画はよくされるが、過ぎ去った一世代を纏めて考えて見ると、そこに別様の趣が生じてくる。先ず本居宣長の死あたりからその研究を読みたい。……組織的な西洋の文物(ぶんぶつ)を受けいれようとしてから未だ漸く四五十年だ、兎も角もその短期の間に今日の新しい日本を仕上げた、こう言う人もあるが、それは余りに卑下した考え方と思う。少なくも百年以前に遡(さかのぼ)らねばなるまい。十九世紀の前半期は殆どその準備の時代であったと見ねばなるまい。》(「春を待ちつつ」四)

 本居宣長の没したのは一八〇一年である。日本の近代がそれから切れて、すくなくとも切ろうとしてはじまったと信じられていた過去の再評価である。

 「戦争と巴里」には栗本鋤雲についての言及もある。鋤雲は幕府きっての西洋通として知られ、外国奉行などを歴任したが、慶応三年(一八六七)に渉外使節として渡仏し、明治維新をパリで迎えた。『暁窓追録』はそのフランス見聞記で、パリにおける藤村の愛読書のひとつだった。帰国後は新政府の招きを断り、江戸幕府の遺臣として野に隠れた鋤雲を、藤村は〈強情な人で……人一倍の強さをもって時代の運命の不可抗な力の前に立った〉と批評する。先進諸国のひとびとと対抗してゆずらなかった活躍ぶりを賞讃しながら〈そこには物に動ぜぬ偉大な気魂(たましい)と、長い教養の効果と、日本人としてのプライドを看取するに難くありません〉とも書いている。藤村は栗本鋤雲のなかにも、十九世紀日本という、近世と近代とを包括する認識でなければ正確に見ることのできない、ひとりの先覚者の像を発見していたにちがいない。狭い視野でいえば、確かに、日本の近代は栗本鋤雲を否定して出発したように見えるが、鋤雲もまた民族精神の体現者として、日本の近代との連続性をうしなっていないのである。ちなみに、栗本鋤雲は喜多村瑞見(ずいけん)の仮名で『夜明け前』にも登場する(第一部第三章)。

 『「戦争と巴里」では、十九世紀日本の研究を読んでみたいという控えめないいかたをしていた藤村だが、それはやがて他人にまつまでもない、自分自身の課題となる。かれの思索はおのずと問題の核心に踏みこんで、十九世紀という時間の幅で切りとられたひとつの時代を、東と西の異質文明の対立と葛藤をともなった、近代化の過程として見直そうとしたのである。その間のあわただしい流動をつらぬいた民族の伝統、いわば日本人の倫理の源泉と形が問われ、日本の植民地化をふせいだ中世の意味が重視される。同時に、民族の至誠にかかわりつづけた存在として、真淵や宣長らによって推進された復古の学、とくに平田篤胤(あつたね)の思想を軸とする平田派の国学が再評価され、近代の国民意識の胎動を、神ながらの保守のなかに聞こうとする歴史認識も育ちはじめていた。すべてはまだ萌芽ないし予感にすぎなかったが、フランスへの旅を機として形をととのえてきた文明批評の端緒は、やがて『夜明け前』の主題を形成する思想の核であった。

 同時に、十九世紀日本の考察というモチーフの発見は、藤村にとってあらたな意味を帯びてよみがえってきた父の発見と表裏一体であった。往復の航海記『海へ』の第二章「地中海の旅」は〈父を追想して書いた船旅の手紙〉というサブタイトルが付されている。フランスへの旅は藤村に、父との出会いも用意したのである。その父はいっぽうで〈御生涯のなやましかった〉、おなじ血につながる宿命のひとであると同時に、平田派の国学に心酔し、〈外来の思想を異端とせられた〉思想家でもあった。父の斥(しりぞ)けた異端の地への旅をいそぐ藤村の心情は複雑だったにちがいない。

 フランスに旅だつ直前に、藤村は「幼き日」(のち「生い立ちの記」と改題)という短篇小説を書いている。ある婦人(モデルは親友の神津猛の夫人てう)にあてた書簡体で、母のない〈自分の子供らを見て、それのなすさまを眺めて、それを身に思い比べて〉自分の少年期を回想するという体裁の作品だが、藤村は後年の回想で、小説の意図をつぎのように語っている。

 《わたしはよく自伝的な作者のように言われているのがこれはただ自伝の一部として書こうとしたものでもない。自分の生命の源にさかのぼろうとする心を起した時にこれが書けた。》

 実姪との不倫の愛という、人間として最大の危機に遭遇したとき、藤村の心情はおのずから〈自分の生命の源〉をさぐろうとするつきつめた決意にみちびかれる。そして、運命の根源を追いもとめる眼に、幼い日の哀歓と、父とともにいた故郷の風物が幻のように見えてくる。「幼き日」の描写の中心がわが子の日常を離れて、作者自身の幼年時代と馬籠の風土や人情の追想に移っていったゆえんである。現にかく在(あ)る自己から、自己をかく在らしめたものへの遡行である。その未完のモチーフが異国にまでもちこされたとき、不倫の罪を自責する懊悩の底で、自己の生命の真の根源としての父、運命の目に見えぬ司祭神としての父が見いだされた。『夜明け前』の主題に即していえば、他方で伝統の自覚があり、同時に、伝統を受けつぐ最小単位としての父と子の意味の発見があった。藤村はこうして自己凝視の果てに、あくまでも凡常なエゴに執しながら、歴史への通路を発見したのである。

 藤村が『新生』で大胆な告白を試み、危機に瀕した生を救ったのは大正七年から八年にかけてである。それにつづく長い沈黙を経て、大正十四年に入ってから、藤村はふたたび「成長と成熟」「前世紀の探求」などの随筆で、真淵のいう〈荒魂〉と〈和魂〉に思いをひそめ、国学者の〈保守的な精神は、吉田松陰らによって代表さるるような世界の探求の精神と全く腹ちがいのものであったろうか〉という感想を書きとめた。

 《好(よ)かれ悪しかれ私達は父をよく知らねばならない。その時代をよく知らねばならない》(「前世紀の探求」)

 このとき、『夜明け前』はすでに構想の第一歩を踏みだそうとしていた。前述のとおり、小説の準備のために、藤村がはじめて馬籠を訪れたのは、大正十四年である。

 藤村は宿命の意図をたどるに似た自己凝視の果てに、父を通路とする歴史への眺望を手に入れた。自己に執しながら外への視線を回復するという、いかにも藤村らしい主題のアプローチが、『夜明け前』の歴史小説としての骨格を決定した。父は子の源泉であると同時に、理想像であり、また、歴史を描く原点でもある。青山半蔵は父と子の複合体として造型され、更に、その半蔵を軸として歴史を描くー作中のことばを借りていえば、〈草叢(くさむら)の中から〉(第一部十二章)歴史を見るという独創的な視点が設定されたのである。

 『夜明け前』の完成後、藤村は小説の意図について、つぎのように語っている。

 《あの作は御承知のように、維新前後に働いた庄屋、本陣、問屋の人たちを中心に書いたものでございます。維新前後を上の方から書いた物語はたくさんある。私はそれを下から見上げた。明治維新は決してわずかな人の力で出来たものではない。そこにたくさんの下積の人たちがあった。維新というものが下級武士の力によって出来たものだと説く人もございますが、私はそうではなしに庄屋たちがたくさん働いている。それは世の中にあまり知られていない。私の『夜明け前』は……そうした下積の人たちを中心にした物語でございます》(「『夜明け前』成る」談話)。

 『夜明け前』のねらいが簡明に語られている。もちろん、庄屋だけが〈下積の人〉なのか、という疑問は残る。この小説の登場人物は標準語で語りあい、ごく召集の小前の農民たちだけが、正確ではないにしても、方言で話をする。小説の主題にかかわって動くのは標準語を使う人間たちであり、かれらの住む世界の下に、方言で語る貧しい農民の生きる地平がある。〈草叢の中〉という視点に、下層農民の眼がふくまれないのは確かである。

 青山半蔵の家は馬籠宿の本陣・庄屋・問屋の三役を兼ねている。村役人である庄屋は尾州藩徳川家の末端行政機関として領主の権力を代行し、宿役人である問屋は幕府道中奉行の直接の支配下におかれるわけだが、そうした微妙な二重性について、藤村の認識はかならずしも徹底していなかったようである。半蔵は支配者である大名や武士と、被支配者である農民層との中間者として位置づけられ、その半蔵がより下層の〈草叢の中〉の動きに目をとめるという形をとる。序の章に、背伐(せぎ)りの禁を犯した村民たちの処罰を、半蔵が〈眼を据えて〉見る印象ぶかい一節がある。これは半蔵の痛切な原体験のひとつとして、以後の生きかたに大きくかかわることになる。半蔵はしばしば〈貧窮な黒鍬や小前のもの〉の身の上を思い、きびしい運命に心を痛める。〈柔順で忍耐深いもの〉への思いは〈一つは継母に仕えて身を慎んで来た少年時代からの心の満たされがたさが彼の内部(なか)に奥深く潜んでいたから〉〈下層にあるものの動きを見つけるようになった〉(第一部第二章)と説明される。いうまでもなく、〈継母に仕えて身を慎んで来た少年〉という一行には、はやく母と別れ、東京へ遊学した藤村自身の記憶が仮託されていた。父のなかに自分の生の原型を見ようとするモチーフは、こういう形でも明らかにされている。

 〈草叢の中から〉歴史を描こうとした藤村の意図は、『夜明け前』を書くにあたって利用した資料の性格にも見てとれる。

 『夜明け前』の執筆のために、藤村は膨大な資料に目を通しているが、それはほぼ二系統に大別できる。ひとつは尾佐竹猛氏の研究など、啓蒙的な概説書をふくむ歴史学者の著書である。大正の末あたりから明治維新史の研究は急速に活発になったが、その成果もさりげなく取りこまれている。維新史だけでなく、風俗史や宿駅制度史などをふくめて、この第一系統の資料はいずれも後代の歴史学者によって体系化された歴史叙述にほかならないが、藤村はそれらに多くのものを学びながら、結局は作品世界の枠組みもしくは背景として利用したにすぎなかった。『夜明け前』の独創性を支えたのは、やや質のちがった別の資料群である。

 藤村の重視した第二系統の資料は、さらに三種類に分けることができる。第一は馬籠宿の年寄役大脇信興によって綴られた克明な日記(『大黒屋日記』)をはじめ、父正樹の遺稿(歌集『松か枝』その他)、蜂谷源十郎の八幡屋覚書、追分宿土屋氏の名主古帳など、木曾の山間に生涯を埋めながら時代の推移を〈草叢の中〉で確実に見ていた人間たちの遺した記録である。第二は、栗本鋤雲の『匏庵(ほうあん)遺稿』』や間秀矩(はざまひでのり)(作中の蜂谷香蔵のモデル)の『東行日記』など、幕閣の中枢にいたり、倒幕運動に参加したりして、時代の動向にたちあった人間の証言である。たとえば第一部第四章で、喜多村瑞見(ずいけん)の語る開港秘史は、鋤雲の回想「岩瀬肥後守事蹟」に拠っている。第三はケンペル。シーボルトらの『江戸参府紀行』やエルギン卿の『遣日使節録』など、開国を外からうながした西洋人の訪日見聞録。第二部第一章あたりの記述にも利用されているが、かれらの眼に映じた日本が現代のわれわれにどれほど奇異に思われようとも、それもまた、異邦人の新鮮な眼をレンズとする虚像にまぎれもない。

 この第二系統の資料は『大黒屋日記』にしても『匏庵(ほうあん)遺稿』』にしても、明治維新前後の動乱をさまざまな場所で体験した目撃者の証言として、事実に直面した人間の肉声を伝えている。『夜明け前』の作者は後代の学者による歴史認識よりも、体系化されない同時代人の証言をより確かな拠りどころとしてえらんだのである。』

 
 『しかも、資料の利用にあたって、想像力によるほしいままな潤色をできるだけ避けようとする態度を最後までつらぬいた。〈木曾路はすべて山の中である〉という有名な一行からはじまる序の章の冒頭が、文化二年版の『木曾路名所図会』巻三の記事に基づくことも、すでに指摘されている。(北小路健『木曾路文献の旅』)。

 《木曾路はみな山中なり。名にしおう深山幽谷にて杣(そま)づたいに行かけ路多し、就中三留野(なかんずくみどの)より野尻までの間ははなはだ危うき道なり、此間左は数十間深き木曾川に路(みち)の狭き所は木を筏わたして並べ、藤かづらにてからめ、街道の狭きを補う、右はみな山なり、屏風を立たる如(ごとく)にして、基中(そのなか)より大巌さし出て路を遮る、此間に桟道多し……》

 風景でさえも、藤村は同時代の眼を借りて描こうとするのである。目撃者の視点に自己の視点をかさねて、眼前に流動する複雑な時代相を彷彿するという藤村の方法にとって、第二系統の資料が不可欠だったことはいうまでもないが、なかでも『大黒屋日記』の存在は小説の骨組みや構造を決定するほどに重要だった。『大黒屋日記』は、正確には『年内諸用日記』という。筆者の大脇信興は作中の金兵衛のモデルで、大黒屋の第十代の当主である。文政九年から明治三年にいたる四十五年間(ただし、天保四、五、八、九年の記事を欠く)の馬籠宿における公私の記録を克明に書き綴ったもので、叙述は旅行、盗難、火災など農民の日常生活にまで及んでいる。『夜明け前』の自解として有名な「覚書」(『桃の雫』所収)に、つぎの一節がある。

 〈昭和二年のはじめには、わたしはすでに『夜明け前』の腹案を立ててはいたが、まだ街道を通して父の時代に突き入る十分な勇気を持てなかった。……日清戦争前の村の大火に父の蔵書は焼けて、参考となる旧(ふる)い記録とても吾家(わがや)にはそう多く残っていないからであった。これなら安心して筆が執れるという気をわたしに起させたのも大黒屋日記であった。その年にわたしは一夏かかって大脇の隠居が残した日記の摘要をつくり、それから長い仕事の仕度にとりかかった。〉
 
 〈街道というものを通して父の時代に突き入る〉という言葉は、『夜明け前』の性格を的確に表現しているが、確かに、『大黒屋日記』はそのための絶好の資料だったといえよう。日記を通じて読み取れる馬籠宿の日常は僻地の寒村らしく、時代のはげしい動きからなかばとりのこされたように見えながら、にもかかわらず、幹線道路の宿駅であることによって、そこを通過するさまざまな旅人がさまざまな情報を残してゆく。時代の鼓動はおくれて、しかし、確実に伝わり、あわただしい反応を強いられるのである。藤村は偶然とはいえ、きわめて恰好な視点を手に入れたわけである。京都と江戸の中間にある馬籠は交通制度上の一要地というだけでなく、政治や社会経済の動きにも微妙にかかわる位置にあった。藤村は宿駅を通過してゆく旅人の群れを描き、鄙(ひな)びた村落のしだいに変化してゆく日常を描くことで、転変する時代と人心の移ろいをあざやかに表現することができたのである。
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 時代の動きから遠くにありながら、それがつねに生々しく伝わってくるという馬籠宿の位置は、そのまま半蔵の苦悩の象徴である。第一部の第三章で描かれる江戸への旅は半蔵にとって、青山家の遠い祖先へさかのぼる旅であり、時代の転回をうながした黒船の海を見る旅であり、そして、篤胤(あつたね)没後の門人として、平田派に正式の入門を果たす宿願の旅でもあった。このとき、半蔵の前に新しい世界が確実にひらかれた。しかし、それは同時に新しい苦悩のはじまりでもあった。

 平田派の国学に心酔するひとりとして、時代の焦燥に身をもってたちあう政治運動への参加を夢想してみても、本陣・庄屋の責務がそれを許さない。激動にむかおうとする時代の足音が確実に聞きとれるだけに、半蔵の焦燥もまたふかく、はげしい。和宮降嫁の大行列、参勤交代の廃止、助郷制度の廃止など、ようやく揺らぎはじめた幕府の衰運を象徴するような事態がつぎつぎに起り、平和だった宿場でも、草山口論をはじめ農民感情の荒廃がめだちはじめた。半蔵は思想や信条を隠し、内心の不満をおさえて、ことの処理に追われねばならない。

 街道を通りすぎてゆく血気の青年に、平田派の先輩、暮田正香(角田忠行がモデル)がいる。かれは木像烏首事件の顛末を語って去ってゆく。半蔵は〈「物学びするともがら」の実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったか〉との思いを消せない(第六章)。宮川寛斎(馬島靖庵がモデル)に国学を学んだ同門の友人、蜂谷香蔵(市岡正蔵がモデル)もともに家を捨てて京都に出てゆく。〈どうも心が騒いで仕方がない〉という半蔵の独白は重い。

  《どうだ青山君。今の時は、一人でも多く勤王の味方を求めている。君も家を離れて来る気はないか》(第八章)

 行動をさそう友人の無言の声を、半蔵は確かに聞きとっていた。しかし、妻籠(つまご)の青山寿平次(島崎重信(しげよし)がモデル)は、その半蔵に〈君は信じ過ぎるような気がするー師匠でも、友人でも〉と語りかける(同)。かれはまた、〈庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加すると想って見たまえ。兎に角、働き甲斐はありますぜ〉ともいう(第三章)。暮田らのように、思想に殉じて革命運動にはしる青年たちと、寿平次のように、思想のうながしから無縁のままえに、みずからの責務をうたがわぬ青年とを対照させながら、そのいずれでもありえない半蔵の苦悩が描かれるのである。半蔵の苦悩を映すもうひとつの鏡として、萬福寺の住職松雲(桃林和尚がモデル)の存在も印象的である。尾張藩士の通行にわきたつ宿場の喧噪をよそに、しんかんとした方丈(ほうじょう)で、〈松雲は唯一人黙然として、古い壁にかかる達磨の画像の前に坐りつづけた〉(第二章)。時勢を超越した思想家の姿があざやかである。

 半蔵はやがて、懊悩の果てに、庄屋には庄屋の道があると思いさだめる。伊那谷にひそむ国学者の運動を援助するなど、〈草叢の中〉での歴史への参加を選ぶわけだが、その半蔵が明治維新による理想の実現を信じて狂喜するまで、主人公の状況事体が一種の運命悲劇としての緊張をもたらしている。

 『大黒屋日記』は明治三年の記述をもって終る。あたかも第二部第六章で、明治二年の吉左衛門の死が描かれたあと、第七章は明治六年四月の半蔵を描くことからはじまる。明治六年は維新史のひとつの節目となった年である。この年の九月、岩倉具視を全権大使とする一行が欧米視察を終えて帰国している。先進文明に驚倒した岩倉らを中心に、徹底した文明開化政策が推進され、半蔵はまだ知らないが、明治日本はもはや引返すことのない近代化の道を歩みつづけることになる。いずれにしても第七章以後、とくに後半は半蔵が馬籠を出て自由な生きかたを選ぶためもあって、〈草叢の中から〉歴史を見るという視点は曖昧化してくる。

 王政復古の実現を信じた半蔵はまず農民たちの以外に冷淡な反応に失望し、街道制度の改革に耐えて、〈御一新〉に協力しようとするが、官有林の解放を求めた請願をくわだてて、戸長解任という報復的な処遇を受け、新政府からも裏切られる。失意をかさねつづける半蔵はやがて、かれが時代そのものから裏切られたことを知る。〈古代が来るかと思ったのに近代が来てしまった〉という、半蔵の幻滅と焦燥の思いは痛切だが、王政復古から文明開化へと転換してゆく時代状況との相関で、教部省への出仕や飛騨の宮司体験などをかさねて時代に絶望してゆく半蔵を描く手法は、第一部ほど成功しているとはいいがたい。というより、半蔵自身が時代から孤立し、皇国歴採用の建議や献扇事件のような、孤独で不毛な抗議行動しかとりえない。かれはドン・キホーテのように、ひとりで巨大な風車にたちむかうのである。

 理想にあざむかれ、時代に裏切られた半蔵はついに家人たちをも敵として狂死するのだが、その間、作者はかならずしも明確には描いていないが、青山家の没落は宿駅制度を崩壊させた開明政策の結果でもあったはずで、父子別居の誓約書を強いられる(第十四章)半蔵の悲劇の根はふかい。

 藤村は半蔵の幻滅と挫折の悲劇を個性のドラマとして描いた。半生を克明に追うことに終始して、かれを狂気にかりたてる近代の本質をするどく抉り出す、というところまでは踏みこんでいない。そのかわりに、暗い怨念を抱いた男の性格悲劇を、苛酷な命運に対する無限の感慨をこめて描いた。萬福寺に放火し、座敷牢に押しこめられて狂死する半蔵の後半生自体が、文明開化にはじまる日本近代への痛烈な批評であり、その悲劇の背後には、日本人にとっての近代とはなんであったかという、現代のわれわれもまた避けて通ることのできない痛切な問いが隠されている。

 第二部の最終章、半蔵を葬る場面は圧巻である。歴史の時間を追う巨視の眼と、半蔵の生にはりつく微視の眼との往復が、もっともみごとに成功した場面である。

 《……掘り起こされる土はそのあたりに山と積まれる。強い匂いを放つ土中めがけて佐吉等(ら)が鍬を打ち込む度に、その鍬の響が重く勝重のはらわたにこたえた。一つの音の後には、また他の音が続いた。》

 時代をおおう〈不幸な薄暗さ〉は半蔵の生の薄暗さを彷彿し、鉄道に象徴される〈世紀の洪水〉をうけとめるのは、〈わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ〉という悲痛な独白である。『夜明け前』の最終章まで書きついで、藤村はまだ〈まことの維新の成就する日〉についてなんの答えもだしていない。しかし、『夜明け前』の首尾を貫流した歴史の時間がすべてここで、半蔵の墓穴を掘る〈鍬の響〉に収斂(しゅうれん)したとき、小説の構造として、ひとりの男の死が維新の転変を織りなした歴史の総体とよく拮抗し、均衡をたもつというみごとな幕切れをむかえた。だからこそ、最終章にただよう哀切な思いがそのまま、近代の奔流に呑まれた日本人の鎮魂歌と化しえたのである。藤村にとって、若くして逝った親友北村透谷(とうこく)へのレクイエムだったかもしれない。

 透谷は雑誌「文学界」の中心人物として、初期浪漫主義文学運動を主導し、藤村を文学へ誘った白面の批評家である。精神の自由を求め、現実にいどみつづけて挫折し、明治二十七年に、二十六歳で自殺した。死の一年前に書かれた随想「一夕観」に、つぎの一節がある。
 
 《ある宵われ窓にあたりて横はる。ところは海の郷、秋高く天朗らかにして、よろづの象、よろづの物、凛乎(りんこ)として我に迫る。あたかも我が真率ならざるを笑うに似たり。あたかも我が局促(きょくそく)たるを嘲るに似たり。あたかも我が力なく能なく弁なく気なきを罵るに似たり。かれは斯くの如く我に徹透す、而して我は地上の一微物、かれに悟達することの甚はだ難きは如何ぞや。(其一)
  ……漠々たる大空は思想の広(ひ)ろき歴史の紙に似たり。かしこにホーマーあり、シェークスピアあり、彗星の天系を乱して行くはバイロン、ボルテーアの徒、流星の飛ぶかつ消ゆるは泛々(はんはん)たる文壇の小星、ああ、悠々たる天地、限りなくきわまりなき天地、大なる歴史の一枚、是(これ)に対して暫く茫然たり。(其三)》

 第二部の十四章ー狂気の気配のようやく濃い頃、隠居所の二階から夜空を眺める半蔵も、満天の星を指さしながら〈あそこに梅田雲浜があり、橋本左内があり、頼鴨崖があり……〉と、明治維新にかかわって散った人々の名前を数えたてる。

 《月も上った。虫の声は暗い谷に満ちていた。かく万(よろず)の物がしみとおるような力で彼の内部(なか)までも入って来るのに、彼は五十余年の生涯をかけても、何一つ本当に掴むことも出来ないそのおのれの愚かさ拙なさを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽した。》

 これは「一夕観」のひきうつしに近い。半蔵の終焉を描く藤村は父のなかに、夭折した北村透谷の面影を想起している。藤村は透谷の光芒のようにかけぬける生きかたをついに学ばなかった。藤村がたえず振りかえりながら、そのかたわらをすりぬけた生きかた、狂気をみずからにひきうける鮮烈な情熱が青山半蔵に託して描かれたという意味でも、『夜明け前』はまさしく、藤村文学の最後の到達と呼ぶにふさわしい作品であった。』






(私論.私見)