前編第1の2(6から9) |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.7.16日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「暗夜行路前編第1の2(6から9)」を確認する。 2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.7.16日 れんだいこ拝 |
【暗夜行路前編第1の2(6から9)】 |
六 |
謙作が二度目に登喜子と会ってから二三日しての事であった。その日は丁度十四五年前に死んだ親しい友の命日で、彼はその頃の親しかった友達らと染井にその墓参に出掛けた。墓参を済まして巣鴨の停車場へ帰って来たのはもう日暮れだった。彼らはそれから賑やかな処へ出て、一緒に食事をする筈だったが、この電車で上野の方へ廻るか、市内電車で直ぐ銀座の方へ出て了うかで、説が二つに分かれた。謙作は何と云う事なしに、上野の方へ出たい気がしていた。上野から登喜子のいる方へ行くと云うほどの気はなかったが、只何となく、その方へ心が惹かれるのだ。しかし結局銀座へ出る事になった。そして銀座まで来ると今度は又、食事をする場所で説が分かれた。皆は昔からの子供らしい我儘を出し合った。それが面白くもあった。近頃仏蘭西(ふらんす)人が開いた西洋料理屋へ行こうと云う連中と、うまい肉屋へ行こうという連中とて、中々ゆずり合わなかった。 「君、あの家のオードウブルには硝子(ガラス)のかけらが入っているよ」。緒方と云う一人がこんな事をいってけちをつけたりした。到頭別々に食事をする事になって、その代わり肉屋の連中が茶だけをその西洋料理屋へ飲みに行く事にして分かれた。皆が又一緒になって、その家を出たのは九時頃だった。そして、尚、暫く夜店の出ている側を歩いたが、或る処で別れる事にした。「今日はよそう。兄貴や姉が来ているので、今、無断で家を空けるのは不味(まず)いんだよ」。緒方はこう云った。しかし一度思い立って了うと謙作には中々念い断れなかった。「第一、今頃出掛けてもその芸者が居るか居ないか、分からないじゃ、ないか」と緒方が云う。「もし居たら行くかい?」。「まあ、待ち給え、そんなに真剣なのかい」。とにかく、電話をかける事にして、二人は或るカフェに入った。電話に出たのはお蔦だった。「登喜ちゃんは今日は市村座で、小稲さんは昨日から遠出で、まだ帰って来ないんです」と気の毒そうに云った。「しかしはねたら帰って来るだろう」。「さあ、帰るだろうとは思いますが、今訊いて見ましょう。そちらは何番ですか? 伺って置いて、直ぐ御返事致します」。 そして暫く待っていると電話が掛かって来た。「芝居を見残して、お客様と蔵多屋へ行ってるんですって。今御飯を頂いているから、もう直きお暇が出そうだと云うんですけど---」。「それなら行こう」。そう謙作は云った。緒方は酒好きだった。「行くと決まったら、僕はもう少し飲むよ」。こう云って彼はその家に尚尻を落ち着けて、ウイスキー・ソーダを続けざまに二三杯飲んだ。一時間ほどして二人は西緑に行った。「先ほど、お電話がきれると直ぐ小稲さんが帰って来たんですよ」。こういってお蔦は案内を他の女中に頼んで自分は直ぐ電話口に立った。間もなく小稲が来た。それから暫くして登喜子も来た。 なかった。 謙作の眼にはこの前とは登喜子が又幾らか変わって見えた。初めての緒方が居るので多少改まった気持ちもあった。それに疲れているらしく、元気がなかった。そして、出先から直接来た為に着物が小稲ほどにきちんとしていないのを時々気にして直そうとするのを謙作は可笑しく思った。その夜も子供らしい遊びで到頭夜明かしになった。しかし一体こんな事を始終さしていいのかしらと謙作は思った。いい加減に切り上げて帰るに越した事はないが、三時四時になつては帰る事もできない。そうかといって、此処へ寝さしてくれと云うのもいいか悪いか知れなかった。戸外に歯秋らしい静かな雨が降っていた。その音を聴きながら二人がうとうととしている間に女達は帰って行った。 十時頃眼を覚まして、二人は湯に入ると、幾らか気分がはっきりした。又前夜の二人を云ったが、小稲だけ来て、登喜子は同じ家の表二階の客の方へ行く事になっていた。緒方は少し醒めかけると飲んだ。もう遊び事も話もなかった。小稲はそのだらけて行く座をもち兼ねて、ただぼんやりと淋しい目つきをして、其処に仰向けに、長くなっている緒方の顔を凝っと眺めていた。緒方は閉じていた眼を不図開いた。そして、小稲が凝っと自分の顔を見ていた事に気がつくと、或る具合悪さから、気のない調子で、「どうだネ。何か面白い話でもないかネ?」と云った。「そうネ」と小稲も淋しそうな笑顔をした。「下谷の芸者衆が白狐に自動車の後押しをされたと云う話、御存知?」。「知らない。何処で?」、「つい近頃の事なんですつて。大宮へ行った時とか---」。小稲は真面目になってその話をした。「そりゃぁ怖かったんですって。お連れに云えばいいって云うんですけど、そら、後でどんな仇(あだ)をされるか知らないでしょう?」。 こんな風に話した、謙作は少し馬鹿馬鹿しい気がした。小稲が本統にそれを信じているのならいいが、信じてもいない事を殊更真顔でいうのが馬鹿/\しかった。「その話は余り面白くないネ」と彼は云った。すると、直ぐ、「そうネ」と小稲も自分から賛成して了った。「作り話さ」。「全く、ちっと怪しいわネ」と笑っている。真顔で云い出して置きながら、そう云われると、不愉快な顔もせず、一緒に笑って了う。何でも客のりいう通りになるようなこの小稲を謙作は不愉快にも、亦可憐にも思った。「それは屹度(きっと)三題噺(ばなし)の出来損ないか何ぞだろう」。「ああ、きつとそうネ」と小稲は自分でも気持ちよさそうに持ち前のかん高い声を上げて笑った。「自家のお酌さんが、伊予紋か何処かで聴いて来たんです。本統の話かと思ってたわ。---本統にそうだわ。よくお解りになってネ」。「それじゃあ別の話をし給え」と緒方は眼をつぶったまま、もの憂そうに云った。「面白い話なんて、そんなにないわ」と小稲は困ったような顔をして黙って了った。そして二人がそれを忘れかけた頃、小稲は突然、「じゃあ今度は本統の話よ」といって自分だけで笑い出した。 それは近頃この廓(くるわ)であった、心中未遂の男が裁判所で調べられる時に、大びけにあがったと云うと、判事が大割引にあがったとは、どう云う事だ、と訊き返したと云う話だった。小稲は一人可笑しそうに笑った。謙作は知っていたが、緒方はその裁判官同様に大びけを知らなかった。折角の笑い話も笑い話にならなかった。何時か緒方は低い鼾(いびき)を立てて眠って了った。謙作の方はしかし疲れたままで睡(ねむ)くはなかった。彼は所在なさに碁盤を取り出して小稲と五目並べをした。時々彼方の座敷から登喜子の声が聴こえて来た。謙作は今はもう登喜子との関係に何のイリュージョンも作ってはいなかった。しかしそれでも此処に登喜子が居ない事、そして彼方の部屋で誰かと話していると云う事は変に淋しく感ぜられた。居ないならばまだいい。彼方に居ると云う事、それはどうしても彼の意識を離れなかった。で、実際にも登喜子は謙作らの座敷の前を通る時には必ず声をかけた。中へ入って来る事もあった。すると謙作の気分は、自分でも不思議なくらいに生き生きした。 日暮れになって漸く雨は上がった。表二階の客は中々帰りそうもなかった。二人はこの家を出た。廓を出ると直ぐ西洋料理屋に寄ってウイスキーを飲んだ。緒方は酒なら幾らでもよかった。謙作はかなり疲れていた。しかしそれまで何となく息苦しい気持ちを続けていた彼は、今、雨の上がった戸外の空気に触れると、急に気分の晴々したのを感じた。日本橋の方へ出る事にして、二人は三の輪まで歩いて、其処から人形町行の電車に乗った。 緒方は厚い鞣皮(なめしがわ)のような感じのする、濃いオリーブ色の中折れ帽子をそのまま、窓硝子につけ、腕組みをして眼をつぶっていた。車坂の乗り換えに来た。乗る人も降りる人も多かった。眉毛を落した若い美しい女の人が、当歳位の赤児を抱いて入って来た。その後ろから十六七のおとなしそうな女中が風呂敷包を抱えてついて来た。二人は謙作の前の丁度空いた処へ腰かけた。 よく肥(ふと)った元気な赤児だった。綺麗な友禅の着物に矢張り美しいチャンチャン児を着ていた。しかし身体が小さいので着物がよく着かぬかして、だらしなくそれがぬき衣紋(えもん)になって、其処から丸々と盛り上がった柔らかそうな背中の肉が白く見えていた。赤児は頭(かぶり)を振り、手足を頻りに動かして、一人元気に騒いでいた。女の人は二十二三だったかも知れない。しかし細君になった人を見ると誰でも自分より年上のような気のする謙作にははつきりした見当がつかなかった。その人は友達と話すような気軽さと親しさで女中と何か話していた。女の人から女中とは反対の方に一人措(お)いて、四つくらいになる女の児をおぶった女中が腰かけていた。女の児は子供らしい興味で、騒いでいる赤児のり方を先刻からその大きい眼で凝視っと見ていた。すると赤児の方も気づいて、その女の児の方を見た。仕舞いに赤児はきいきいいう声を出して手を延べ、矢鱈と身体をもがき出した。 それでも女の児の方はむっつりとした怒ったような顔をして見ていた。余り赤児がもがくので、話に気を奪(と)られていた女の人も、漸く気がついた。そして至極軽快な首の動作で、女の児の方へ振り向いた。それは生々とした視線だった。「おや、この人はお嬢さんのとこへ行って話し込みたいんだネ」と云って女の人は笑った。女の児は平気でむっつりとしていた。おぶっている女中が何か鈍い調子でお愛想(あいそ)を云った。女の人は連れの女中との話をそのまま、打ち切って、今度は急に---寧ろ発作的に赤児の頬だの、首筋だのへ、ぶぶぶと口でお灸(とも少し異うが)日本流の接吻を無闇にした。赤児はくすぐったそうに身もだえをして笑った。女の人は美しい襟足を見せ、丸髷(まるまげ)を傾けて、尚しつっこく咽(のど)の辺りにもそれをした。見ていた謙作は甘ったるいような変な気がして、今は真正面(まとも)にそれを見ていられなくなった。彼は何気なく首を廻らして窓外(そと)を眺めた。そしてこの女の人はまだ甘ったれ方を知らぬ赤児よりも遥かに上手に甘ったれていると思った。 若い父と、母との甘ったるい関係が、無意識に赤児対手(あいて)に再現されているのだと思うと、謙作は妙に羞(はず)かしくもなり、同時に余りいい気持ちもしなかった。しかし、精神にも筋肉にもたるみのない、そして、何となく軽快な感じのするこの女の人を謙作は美しく感じた。彼は恐る恐る自分の細君としてこう云う人の来る場合を想像して見た。それは非常な幸福に違いなかった。一時は他に何物をも欲求しないほどの幸福を感じそうな気さえした。「さあ、今度おんりするのよ。君やにおんぶしてエッチャエッチャって行くのよ」。美しい細君は赤児を女中におぶせながらこんな事を云った。そして電車の停(とま)るのを待って降りて行った。謙作は何と云う事なし、幸福を感じていた。この幸福感はその人の印象と共に後まで、彼の心で尾をひいていた。 二人は小伝馬町で降りると、人道を日本橋の方へ歩いて行った。雨に濡れた往来が街の灯りを美しく照りかえしていた。日本橋の仮橋を渡って暫くいった横町の或る小綺麗な料理屋へ二人は行った。緒方は其処の酒を讃(ほ)めながらよく飲んだ。飲むと彼は明瞭(はっきり)した気分になる。そして、初めて知った仲の町芸者と新橋赤坂辺の芸者とを比較したりした。緒方は赤坂の或る芸者との関係で散々面倒があつて、今は抱主(かかえぬし)から間をせかれていると云う話をした。謙作は緒方がそのごたごたに対し少しも逃げる態度なしに、同時に力んだ気持ちもなしにいるところを面白く思った。其処に或る上品な余裕が残されていた。こう云う話はともすると、聴き手に幾らかの反感を起させるものだが、それなしに聴けるのはそれが為だ、と謙作は思った。 九時頃二人はその家を出た。しかし何となくまだ別れる事ができなかった。そして的(あて)もなしに尚銀座通りをぶらぶらと歩いて行った。「清賓亭(せいひんてい)まで行けば僕のウイスキーが置いてあるが、どうだい、行かないか」。「まだ飲みたいかネ」。「うん」。緒方は本統の酒好きだった。そして幾ら飲んでも少しも酔漢らしくならなかった。「元横浜で芸者をしてた女が居る」。「そう云う女を集めてるのかしら」。「そんな事はない。その女だけさ。芸者をしてるよりその方がいいんだろう。第一付き合いが張らないし、衣装も要らないし」。清賓亭では二人は二階の奥の一段下がった、戸に鏡などを張ってある、丁度活動小屋のようなケバケバしい部屋に通された。女中達は賑やかに立ち働いていた。大きい笑い声が其処此処から響いて来た。「いらっしゃいまし」。「Оさん、いらっしゃいまし」。戸口でこう云って、そのまま忙しそうに走って行く女が二三人あった。 謙作は夜明かしと煙草ののみ過ぎとで、眼が充血して気持ちが悪かった。彼は買って来た眼薬を注してから、テーブルに両臂(ひじ)を、掌(てのひら)で額を支えたまま、しみる眼をつぶって凝(じっ)としていた。流石にもう二人共疲れていた。「此処の連中は皆、大変元気だネ。此方が弱っているので尚そんな気がする」。襟のかかった着物を着た二十三四のおんなが片手にウイスキーの瓶を、もう一つの手にソーダ水の瓶を二本下げて、笑いながら入って来た。「これでしょう?」とウイスキーの瓶を上げて女中は首を傾けた。「いらっしゃいまし」。女中は近寄りながら謙作に叮嚀(ていねい)にお辞儀をした。そして緒方へは親しみを増すように黙ってお辞儀をした。ウイスキーの瓶の貼紙に丸のオの字が筆太に書かれてあった。「君の字かい?下手だなあ」と緒方が云った。「下手でも解れば結構じゃあ、ありませんか」。女中は帯の間から口ぬきを出してソーダ水を開け、起したコップに酒とそれとを割って注いだ。そして空いたソーダ水の瓶を持って駆けて出て行った。 「あれじゃあないだろう?」。「うん。来なかったら呼んで見よう」。そこへ又異う女中が初めての謙作に多少遠慮する心持を見せながら静かに入って来た。身体の大きな美しい女だった。謙作はこの女だろうと思った。女は少しはれぼったい眼に媚びるような表情をして、「先日は」と云って緒方の方へ近寄って行った。唇が冴えた美しい色をしていた。緒方は黙って前のコップを一息に飲み干すと自身でソーダ水とを割って、「これを飲み給え」と女の前へ置いた。女は緒方の側の椅子へ腰を下ろして、そのコップを透かすように見ながら、「強そうネ」と云って、そのまま緒方の前へ置き換えた。「これは君が飲むんだよ」。こう云って緒方が又それを置き換えようとすると、女は、「こんな強(きつ)いのいやよ」とその手をおさえた。「じやあ、半分ずつ飲もう」。こう云って又押しやると、その度、酒はこぼれて厚いテーブル・クロースに侵(にじ)み込んだ。「Оさんかにおあがんなさい」。女はきたないものでも扱うように又置き換えた。「屹度飲むネ?」。「飲むわ」。緒方は胸を張って一息に半分ほど飲んで、それを女の前へ置いた。しかし実際は半分は飲めていなかつたが、女は神妙に取り上げて、それに紅い唇を当てた。「本統に強い」。故意(わざと)らしく眉をしかめながら、女は幾口にも飲んだ。 前の女中が新しいソーダ水の瓶を下げて入って来た。そして、そこへ立ち止まって、「駄目よ、お加代さん。そんなに強いのを---」と真面目に云った。「お余りを半分だけ飲んだんじゃありませんか」。お加代という女は怒ったような眼を向けて早口に云った。それには取り合わずに、「Оさん本統に駄目ですよ。お加代さんを酔わさないで下さい」と云った。「女中頭はどうも厳格で困るな」。女中は持って来たソーダ水を開けて、緒方のコップへ注ぎながら、「其方(そちら)はちっとも減りませんのネ」と云って笑った。「だから、おあいを誰かしてくれなければ困るじゃないか。お加代さんが不可(いけな)ければ、お鈴さん、君がするんだよ」と緒方が云った。「Оさんのおあいはとてもできませんわ」。お鈴と云う女中もお加代と並んで其処へ腰を下ろした。すると、お加代は突然、小声で、「年寄りでさばけたつもりかも知れないが、失礼だわ」と、さも腹立たしそうに云った。「本統に嫌味ねぇ」とお鈴も眉を顰(ひそ)めた。黙っていた緒方が、「その怒ってるところで自棄酒(やけざけ)をどうだい」と云った。二人は一寸具合悪そうに顔を見合わせた。そして一緒に笑い出した。 緒方は何のかのと二人に飲ました。お鈴と云う女中も最初云ったほどには八釜(やかま)しく云わなかった。お加代は時々下から呼ばれて降りて行った。そして暇ができると又入って来た。もの馴れない謙作は余り口を利かなかった。彼は皆の話を聴きながら、葡萄(ぶどう)の皿を抱え込むようにして、独りその実を丹念に指先から口の中へすべり込ましていた。お加代が駆けて入って来た。「オオ暑」。自身の片袖を平たく両手に持って忙(せわ)しく胸の所でバタバタやった。酔っている。そしてそのうるんだ眼が電燈の光を受けて美しく光って見えた。「お加代さん。本統にもうおよしなさいよ。又倒れると大変だから」。「渡し、倒れなんかしない事よ」。お加代はそうつけつけいってお鈴をにらんだ。謙作は仰向いて、又眼薬をさした。「僕にもくれないか」と緒方が手を出した。謙作は眼をつぶったまま、それを手渡した。「Оさん、私が注して上げてよ」。「大丈夫かネ?」。「大丈夫よ」。お加代はそれを受取って、緒方の背後(うしろ)へ廻った。「もっと仰向いて」。「こうか?」。「もっと」。 その間に、お鈴は手早く椅子を四つ並べて、「Оさん、これがいいわ」と云った。お加代はその一つに腰かけて、「膝枕をさして上げるわ」と云った。お鈴がナップキンを取って渡した。「おやおや水臭い膝枕だネ」。そう云いながらお加代はそれを膝の上に拡げた。緒方は並べた椅子の上に仰向けに寝た。「私の指で開けても、よくって?」。「自分で開けよう」。緒方は両臂を張って眼ぶたを拡げた。お加代は注し損じた。薬は耳の方へ流れた。お加代は笑いながら、「もう一遍」と又眼ぶたを拡げさした。「暗かないの?」。お鈴が覗き込むようにして云った。「明るくてよ、この通り」とお加代はお鈴を見上げて云った。そして又注意を集めて注そうとむしたが、細いガラス管の薬が少なくなっているので、中々落ちなかった。緒方は白眼をして待っていたが落ちないので、眼ぶたを拡げたまま、見ようとした。 お加代は発作的な叫びをあげて立ち上がった。椅子が後ろへガタンと倒れた。緒方も驚いて起ち上がった。「まあ、どうしたの?」とお鈴も驚いて云った。お加代は眼薬の瓶を持ったまま、黙って立っていた。そして少ししゃがれた声で、「白眼だと思っていると、急にギョロリと黒眼が出て来たのよ。それが私を見たじゃ、ないの---」と云った。「何を云うの、この人は---」。お鈴は一寸不愉快そうな顔をした。お加代は少し青い顏をして黙って立っていた。 その夜十二時近くなって、二人は又西緑へ行った。惰性的に却々(なかなか)別れられなかった。夜が更けると却って一時の疲れた気分もはつきりして来たが、それも長持ちはしなかつた。三時頃いよいよ参ると、謙作はもう自分の寝床が無闇と恋しくなった。それで思う様の眠りに落ち込みたかった。彼は緒方に翌日帰途(かえり)に必ず来て貰う約束をして、一人褞袍(どてら)を借りて車で帰って来た。途中で夜が明けて来た。雨後の美しい曙光が東から段々に涌き上がって来るのを見ると、十年ほど前の秋、一人旅で日本海を船で通った時、もう薄く雪の降りている剣山の後ろから非常な美しい曙光の昇るのを見た。その時の事を彼は憶い出した。 |
七 |
謙作が眼を覚ましたのは午頃だった。二タ晩家を空けたと云う事で何となく彼はお栄と顔を合わすのが具合悪かった。戸外では百舌(もず)のけたたましい啼き声がしていた。彼は暫くそのまま横になっていたが、思い切って飛び起きた。そして雨戸を一枚繰ると、隣の梧桐(あおぎり)の天辺(てっぺん)から百舌が啼きながら逃げて行った。実にいい日だ。風もなく、秋らしい柔らかな日差しが濡れた地面に今百舌の飛び立った梧桐の影を斜めに映していた。風呂の煙突からかすかな煙が立ち登っている。彼はその朝未明に門を開けさせた女中に湯を沸かすよう云いつけて置いた事を憶い出した。 「やっと起きたね」。下から信行の声がした。お栄が段々を登って来た。「もう一時間も待っていらしたのよ」。彼は急いで降りて行った。信行は茶の間の長火鉢の側で煙草を吸っていた。彼は二タ言三言立ったまま話して、そして、「信さん、風呂はどうかな?」と云った。「俺は沢山だ」。「それじゃあ、一寸失敬するよ」。こう云って謙作は風呂場へ行った。彼は久しぶりで風呂へ入ったような気がした。気持ちのいい日光が硝子窓を透(とお)して箱風呂の底まで差し込んでいた。湯気が日光の中で小さな無数の粒になってモヤモヤと動いている。彼は兄が待っているのでなければ、長閑(のどか)な気持ちで、ゆっくりと浸かっていたかった。 「お前が家を空けるのでお栄さんが心配してられるよ」。信行はそんな事を云って笑った。謙作は曖昧な返事をした。「昨日偶然山口に会ったら、お前の小説を〇〇〇な出したいというんだが、何かないかい?」と信行が云った。「何月号に」。「来月号に欲しいように云っていたが、それは何時でもいいんだろうけど」。「そんなに何時か送ろう」。「今できているのはないのかい?」。「この間中(あいだうち)書いていたのは中止したんだ」。「うん」。信行はそれを知っているらしく、只首肯(うなず)いた。「新しく何か書けた時に送ろう」。「前に書いたんで何かないかい?」。「あるけど、余り出したくないから」。「そうか。じゃあ、時は分からないネ。何でも山口は仕切(しきり)にお前の物を紹介したがっているんだ」。こう信行が云った。 山口と云うのは信行の中学の同級生で高等学校を中途で止(よ)して、今は純粋な雑誌記者になつている男である。「どうしてだろう?」。「何でも初め竜岡に勧められたらしい。それから山口は阪口の所へ行って訊いたらしいんだ。すると阪口も仕切にお前の物を讃めていたと云うんだがネ」。「うん」。謙作は変な気がした。「何時阪口に会ったのかしら?」。「昨日の話で昨晩(ゆうべ)とか云ってたよ」。「そう。約束はできないが、もしかしたら出して貰うかも知れない」。 座敷ら食事が用意されてあった。そして今日は珍しくお栄も一緒に食卓に就いた。謙作は緒方の事が気になっていた。それで、食事が済むと直ぐ近所の本屋へ行って西緑に電話を掛けてみた。「もう少し前、お帰りになりました」。こう云ったお蔦は更に「ちよっと待って下さいましょ」と云って引っ込んだ。「昨晩は」と登喜子が出た。「誰か分かって?」。「うん」。謙作は自分でも少し不愛想だと思うような返事をした。一つは本屋の小僧だの客だのが近く居て、それとなく電話の話に注意しているような木がしたからであった。「どうかしてらっしゃるの?」。こう云ってからお蔦の方を向いて「どうかしてらっしやるようよ」と云うのまでが聞えた。「緒方さんが其方へいらっしやるんですか?---いらしたら、昨晩(ゆうべ)二十一で怒った事、お詫びしといて下さいまし。よござんすか。---余(あんま)りお勝ちになるんですもの。私本統にちっとばかし怒ったわ」。 謙作はいい加減にして帰って来た。緒方はそれから間もなく来た。彼はもう酒気を帯びていた。「登喜子もいいが、虐待されるんで弱るね」。緒方は笑談(じょうだん)らしくこんな事を云った。「トランプでじや、ないか? 今電話に出て来て君にあやまってくれとか云っていたよ」。明け方近く、それは丁度謙作が帰ろうと思っている頃だった。トランプの二十一をしていて、緒方にだけ不思議なほどいい札がついた。そしてとんとん拍子に皆の財産を巻き上げた。換貫(かんがん)をして、はると又緒方がさらって行った。その時登喜子は口惜しがって何か云っていた。何を云ったか謙作は聴いていなかったが、間もなく、緒方はごろりと仰向けに寝て、「あああ。こう勝っちゃあ、詰まらんな」と云って自分だけ勝負から抜けて了った。 謙作は気にも留めずに三人であとを続けていたが、先刻電話で登喜子が気にしていた事や、今緒方が何気なくそう云った言葉などから想い合わせると、この一寸した事が、二人の気持ちではかなりに変なひっかかり方をした事がらに違いないと思った。彼は一週間前、同じ場所で阪口に不愉快を感じた。それを竜岡が殆ど気づかずにいた事を不思議に思ったが、今自身がその位置に置かれて見て、案外そう云う事には気づかない場合もあるものだと考えた。---それにしろ阪口が山口に自分のものを推讃したというのがもし本統なら、それはどういう気持からだろうと彼は今更に迷った。 暫くして信行は帰って行った。酒の気がなくなると緒方はしきりに寒がり出した。お栄が寝しなに時々飲む余り上等でないシェリーがあつた。それを持って来ると、緒方はその甘ったるい酒を不味そうに飲んでいた。四時頃になって二人は家を出た。そして芝の竜岡の家へ行った。それから竜岡を誘って日陰町を散歩し、三人は清賓亭へ行った。しかしその日は何故かお加代は遂に出て来なかった。 翌日は起きた時から、謙作は何だか気分が悪かった。しかし丸善まで行く用があって出掛けると、途々(みちみち)無闇にくさめが出た。用を済ますと彼は直ぐ帰って床へ入った。不規律な生活で疲れたところに風邪をひいたので、彼はその翌日も終日床の中で暮らした。彼はもう少し自分の生活をどうかしなければいけないと思った。しかし彼の気持ちは変に落ち着かなかった。その翌日も元気なく半日床の中で暮らしたが、熱もなかったので、湯に入ると、もうどうしても家に凝っとしていられなくなつた。彼は夕方から竜岡を誘って、西緑へ行った。登喜子も小稲も来たが、少しもその座ははずまなかった。夜が更けるに従って、彼は寧ろ苦痛になって来た。登喜子との気持ちも二度目に会って彼が自分のイリュージョンを捨てたと思った時が寧ろ一番近かった時で、それからは弾力を失ったゴム糸のように間抜けてゆるく、二人の間は段々と延びて行くように感じられた。彼は今もなお登喜子を好きながら、それが熱情となって少しも燃え立たない自分の心を悲しんだ。愛子との事が自分をこうしたと云いたい気もした。しかし実は愛子に対する気持ちが既にこうであった事を思うと、彼は変に淋しい気持ちになった。 彼は自身が如何にも下らない人間になり下がったような気がした。彼はそれを凝っと一人我慢する苦みを味わいながら夜の明けるのを待った。そしてつくづく自分にはこう云う場所は性(しょう)に合わないのだと思った。 次の日の午後、彼は緒方の訪問を受けた。緒方は緒方の親類の人が、信行と同級だった人の妹と結婚する話があつて、もし信行が先の家庭の様子を知っていれば聴いて置いて貰いたいというような用事を兼ねて来たのであった。「それはそうと一昨日(おととい)は到頭帰らなかったのかい」と緒方が云った。「どうして?」。「お加代と云う人が一寸でもいいから君を呼んでくれと云うので、十時過ぎに車を迎えに寄越したが、聴かないかい?」。謙作は顔を赤くした。お加代がどう云う気持でそんな事を云ったか? それとも誰にも時々そう云う調子を見せるのか? そういう事が彼にはさつぱり見当がつかなかった。 彼は初めて会った時、既にお加代には多少惹きつけられた。只その何となく荒っぽい粗雑な感じは、一方では好き、他方では厭に思っていた。それは深入りした場合屹度不愉快なものになると云う予感からも来ていた。第一今の自分の手には余る女と云う感じから、興味は持てたが、それ以上には何とも考えていなかった。その上に、お加代にとってのその日の自身を思うと、プラスでもマイナスでもない只路傍の人に過ぎなかったと思い込んでいただけに今緒方からそれを聴くと変に甘い気持ちが胸を往来し始めた。しかし彼はそれをできるだけ隠そうとした、 彼はしかし一方で一寸不愉快を感じた。何故お栄でも女中でもそれを自分に云わないか。毎日単調な日暮らしをしているや栄にとって、車を待たして迎えに寄越すという事でも、或る一事件になり得ない事ではない。勿論これは云い忘れをしているのではない。故意に黙っているのだ。女中にまで口留めしてあるのだと思った。 「今日四時から東海寺で先祖の法事があるんだが、それまでの時間によかったら飯を食いに出ないか?」と緒方がいった。二人はそう遠くない山王下(さんのうした)の料理屋に行った。昼で静かだった。綺麗に掃除のできた小さい庭に面した座敷に、二人は軒近く座布団を持ち出して、気楽な話をした。「四五日したら自家の婆さん達を宰領して桃山参拝に出掛けるんだ。それが昼間はお付き合いをする代り、夜だけは自由行動を取る条件つきなんだ」。緒方はこんな事を云った。 きちんとしたなりの女中が床の活花(いけばな)を更(か)えに来た。軒近くいる二人からは遠かったので、女中は床の前に坐って仔細らしくその位置を、眺めては直し、眺めては直ししていた。「とにかく、例の婆さんを呼んでくれないか」と緒方は女中に声をかけた。「それから千代子かしら---」。女中は古い方の花を廊下へ出してから、又畳へ膝をついて黙って云いつけを待った。「じゃあ、その二人」と緒方が云うと、女中はお辞儀をして出て行った。間もなくその婆さんと云われた芸者が入って来た。四十以上の瘠(や)せて小柄な少し青い顏をした如何にも酒の強そうな女だった。そしてよくしゃべる女だった。「飯を食ったら直ぐ帰るからネ。千代子の方も一寸催促してくれ」。膳を運ぶ女中に緒方はこう云った。 「ねえ。それはそうとお供は何時来るの?」とその老妓(ろうぎ)が云った。緒方はそれに答えずに謙作の方を向いて、「今度、この婆さんと一緒に吉原へ行く約束をしたよ。この間の話をしたら、大変讃められたよ」と云った。「仲の町の芸者衆でお遊びになればもう本物です」。老妓はこんな事を云って笑った。緒方と労妓とは謙作の知らぬ人の噂を二人でしていた。老妓はよくしゃべった。そしてその間々(あいだあいだ)に時々甲高い真鍮(しんちゅう)を叩くような笑い声を入れた。それが変に他人の気持ちを苛立たせた。 緒方は話の運びからは全然、突然に、「今、蕗子(ふきこ)、居るかい?」と云った。老妓はふッと云いつまった。一寸表情が変わった。緒方の方も何気なく見せているが一種緊張した顔つきをしていた。謙作はこの間話に出た芸者の事だろうと思った。「旅行してます」。老妓は漸く答えた。その調子は傍(わき)で聞いても如何にも嘘らしかった。それでも緒方は、「何処へ?」と訊いた。女は又答えにつまった。「塩原じやあないかと思うの」。そして老妓は不自然に話を外らし、塩原や日光辺りの紅葉がまだ早いとか晩(おそ)いとかいう事に持って行った。緒方はそれきり、忘れたように蕗子という女の事は云わなかったが、謙作はその老妓がひとかどの苦労人らしい高慢な顔をしながら、緒方の軽く訊く言葉に一々ドギマギした様子を何となく滑稽に感じた。 金持ちの所謂(いわゆる)旦那(だんな)と云う男が緒方との関係をよく知りながら、そのままで蕗子母子(おやこ)によくしている。それをその男に使われている或る男が余りにひどいと云うので、強面(こわもて)に意見をすると、女は怒って、その春に作って貰った晴着をその場で滅茶滅茶に引き裂き、泣きながら自動車で緒方の家へ来たが、公然と呼び出す事ができないので、前でまごまごしていると偶然緒方の弟が出先から帰って来た。女はそれに会わしてくれと頼んだ。それはもう夜中の一時頃の事だ。その前から自動車の響きを聴き長に、大概そんな事だろうと思っていたが、「一遍寝床へ入った者が飛び出しても行けないじゃないか。ほったらかして置いたらその内帰って行ったよ」。こんな風に四五日前緒方は謙作に話した。そして今は二人は二タ月以上も会えずにいる。 食事の済む頃に漸く千代子という芸者が来た。前からいる老妓とは反対に大きな立派な女だった。一寸小稲の型で総てがずっと豊かで美しかった。そして何よりもその眼ざしに人の心を不思議に静かにさす美しさと力がこもっていた。謙作は特にその眼に惹きつけられた。 暫くして二人はその家を出た。品川の東海寺へ行く緒方とは彼は赤坂見附の下で別れた。それから彼は見附を上がって、的もなく日比谷の方へ一人歩いて行ったが、その時、彼の胸を去来するものは、今見た美しい千代子の事ではなくて、却って今までそれほど思わなかった清賓亭のお加代の事が仕切に想われた。「一寸でもいいから君を呼んでくれと云うので」といった緒方の言葉を彼は幾度となく心に繰り返した。登喜子と云い、電車で見た若い細君と云い、今日の千代子と云い、彼は近頃殆ど会う女毎(ごと)に惹きつけられている。そして今は中でも、そんな事を云ったと云うお加代に惹きつけられている。「全体、自分は何を要求しているのだろう?」。こう思わず思って、彼ははっとした。これは自分でも答える事のいやな、しかし答える事のできる問いだったからである。 |
八 |
暫く上方(かみがた)の旅をしていた宮本という謙作ほりは年下の友達が、松茸の籠を下げて訪ねて来た。二人が二階で話していると、夕方になって、近所の仕出し屋から電話を取り次いで来た。「直ぐいらっしゃいませんか」。それはお加代だった。「緒方は居るの?」。「いらしてよ」。「そんならね。別に御馳走はないが、京都の松茸があるから、直ぐ此地へ来て下さいと云ってくれないか」。お加代は例の怒ったような早口で「そんな事、いやよ」と云った。「それから又一緒に其方へ行けばいいじゃ、ないか」と謙作は云った。「面倒臭い !Оさんばかりご苦労だわ」。二三度問答の末、「よろしい。そんなに飯を食ってから出かけよう」。こう云って謙作は電話を断った。 それから二時間ほどして、謙作は宮本と一緒に清賓亭へ行った。緒方は小さな部屋で、お鈴とお加代を相手にウイスキーを飲んでいた。「どうも怪しからんよ。折角の御招待を間で勝手に断ったりして」。緒方はそう云いながら並んでかけていたお加代の肩をクリクリと摑(つか)んだ。「本統にねえ」とお鈴がいった。「どんなに御馳走があったか知れないにねえ」。「御馳走はないがって云ってらしたわ、ねえ時任さん」。「当り前さ」とお鈴は云った。「誰が御馳走がありますからって云う人がありますか」。「真に受けた方が都合がいいからじゃないの」とお加代はお鈴を睨んだ。「オイ、君々」と緒方はお鈴の膝を叩いて、「橋善の天ぷらで日本酒を飲もう」と云った。 「天ぷらは見るのも苦労らしいな」と内気らしく宮本が云った。「いやかい? そんならよそう」。「本統にそうですよ。陽気の変わり目ですから、もしもの事があるといけませんからね」。「この人の云う事は何だか、お婆さん染(じ)みてるよ」。そうお加代は傍白(ぼうはく)のように云った。宮本も酒は強かった。そしてペッパーミントのような甘い酒を一緒に飲みながら少しも酔わなかった。そして変に沈んだ顔をしていた。前夜の夜汽車でよく眠れず、宮本は元気がなかった。「どうしたのよ」。謙作と並んでいたお加代は、向かい合った宮本の俯向(うつむ)き顔を覗き込み、「いやあね。さっきから一人で悲観ばかりして---」。そしてお加代は謙作を顧みた。「全体どうしたの?」。 そう云ってお加代が身を起した時、何気なくお加代の椅子に手をかけていた謙作の指が背中で挟まれた。「寝不足なんだ」。こう答えながら、謙作は指を静かに抜こうとした。「イキな寝不足じや、ないの?」。お加代は却って謙作に誘惑的な目つきを向けながら、心持、背中に力を入れた。「イキなもんか。夜汽車の寝不足だ」。謙作は不愛想に云って、ぐいと指を抜いて了った。その時彼はお加代が不快(いや)な顔をするかと思った。が、お加代は如何にも無関心らしくしていた。 謙作には女からそう云う遣り方で交渉される事は余り気持ちよくなかった。それで不愛想に指を引き抜いて了ったが、矢張り一方ではそれを後悔していた。こんな事に変な潔癖を見せつけたような自分も気に食わなかったし、一つの機会を見す見すに逃がした事も惜しかった。皆が酔っている中で自分だけが酔わずにいるからだと思った。そして気まぐれな心持で、「その酒をくれないか」と一度断ったべッパ―ミントを注がして、それを一息に飲んだ。「隅に置けないわ」。酔うに従ってお加代の眼は又美しくなった。唇も美しい色になった。そして動作が段々に荒っぽくなって行った。 のりの利いた厚いテーブル・クロ-スに緑色の酒がこぼれたのが白熱瓦斯の下で一層美しく見えた。「まあ綺麗だこと、---」。こういってお鈴がそれへ顔を寄せると、「もっと作って上げよう。ねえ?」。お加代はぞんざいにこう云いながら、小さい塩の匙(さじ)を取って、矢鱈にその酒を撒き散らした。「又そんな乱暴をする」。「綺麗だって讃(ほ)めたからさあ」とお加代はお鈴をにらみ返した。「全く綺麗だ」と謙作が云った。お加代は直ぐ謙作の方を振り向いた。そして、「ねえ---」と顔と顔をつけるくらいまでに近づけて首肯(うなず)くような事をした。謙作は今度は故意に、それに応じて、同じように首肯いて見せたが、それが自分ながら一寸調子がはずれていた。気が差していると、今まで黙っていた宮本が、「仲のええ事」と京都訛(なま)りを真似て冷やかした。謙作には妙に皮肉に響いた。彼はそれに抵抗しようとした。すると尚調子がはずれりて来た。彼は椅子をずらし、お加代の方へ身を寄せながら、「僕は君が好きなんだ」と云って了った。 「ありがとう」。お加代は謙作の不意な変わりように一寸まごつきながら、それでも今の荒々しい様子とは、全く思いがけない可愛らしい顔つきをした。「どうしよう?」。謙作の方は大胆になって、肩でお加代の肩を押した。「どうかしましょうよう」とお加代は甘ったれた声をした。その時は何時かお加代も自身を取り返していた。そして、首を傾け、謙作の胸へ顔をつけてそのまま、凝っとして了った。髪の毛が謙作の頬に触れていた。 「こりゃあ、たまらない」。お鈴は大きな声で笑い出した。謙作はお加代の首へ腕を巻いて、顔を寄せて接吻する真似をした。二人は蟀谷(こめかみ)と額とを合していた。しかし肩と肩とは三四寸離れていた。そしてただ凝っとしていると、酔った皮膚からの温かみが顔と顔の間に立ち迷っているのが感じられた。謙作は意識の鈍るような快感を感じた。 不図、その辺が急に静かになったので、彼は顔を挙げた。皆は何時か入り口の厚いカーテンを下ろして何処かへ行って了った。お加代も少し汗ばんだ顔を挙げた。二人は不意に変に覚めた気持ちに突き戻された。笑談(じょうだん)一ついえない気持ちだった。「屹度隣りよ」。「行って見よう」。二人は直ぐその部屋を出た。隣りへ入って見たが、誰も居なかった。皆はその先の広い部屋に居た。山崎と云う、元、同じ学校で三つほど上の級にいた、今弁護士をしている男が緒方と宮本とを捕らえて、如何にも酔漢らしい大声で何か饒舌っていた。お清という眉の薄い美しい小柄な女中が、山崎の傍(わき)に腰かけていた。 謙作は前からこの山崎という男が嫌いだった。そして会えば毎時(いつも)、知らず知らず圧迫する態度を取っていたが、今はその毛嫌いをおさえて腰を下ろした。山崎はお清の手を握り、しつっこく酒を飲まそうとした。お清もいやだいやだと云いながら、平気でそれを飲んだ。お加代も酔ってはいたが、もう静かな気分でお鈴と並んで腰かけていた。 謙作は何となく落ち着かない気持ちになって、西緑へ行く事を小声で緒方と宮本にすすめた。宮本は明瞭した返事をしなかった。「電話で訊いて見よう」。彼はこういって立ち上がったが、いきなり椅子の足に蹴躓(けつまず)いて其処へ倒れた。「段々があぶなくってよ。時任さん」とお加代がついて来た。「大丈夫。君は来ない方がいいんだ」。「憎らしい!」。お加代は謙作の背中を平手で強く叩いた。彼は振り返らずに黙って行こうとしたが、その時の自分の頬の肉が気の利かない笑いを浮かべている事を感じた。彼はそれを面でも脱ぐようにして、振り返った。「そんなに来ないか」。「行きたくなくってよ」。 謙作は用心しながら、一人段々を下りて行った。そして電話口へ立ったが、胸が悪く、直ぐには掛けられなかった。「登喜ちやんは遠出ですが、小稲ちゃんの方はたしかにあります子」。「そう---」。「いらっしゃいましな」。それが、あべこべだったら行きたいがと彼は思った。又静かに段々を上がって来ると、山崎の大きな声だけが聞こえていた。山崎はお清の首にかじりついて、接吻しようとしていた。お清は顔だけ反向(そむ)けてそれを避けた。山崎は仕方なしに真っ白に塗った襟首へ顔を埋めて、そこへ唇をつけたらしかった。お清はくすぐったそうに顔をしかめて傍に立っているお加代を見上げ、「桑原/\」と云った。お加代は憎々しそうに下唇を噛み、山崎の頭の上で拳固を(げんこ)を振っていた。西緑へ行く事はやめにして、暫くして三人は其処を出た。 |
九 |
その翌々日の朝、謙作がまだ寝ているところへ信行が訪ねて来た。会社の出がけで、上ってはいられないというので、謙作は睡(ねむ)そうな顔をして玄関へ出て行った。寒い朝で信行は元気そうな赤い顏をしていた。「咲子にこんなものを寄越した奴があるんだがね」。こういつて信行は無造作に外套のポケットから草色の洋封筒に赤インキで書いた手紙を出して渡した。弱々しい安っぽい字で、裏には第〇高等女学校寄宿舎より、志津子、封の所には「津ぼみ」と書いてあった。「この手紙は昨日、此処から廻した手紙じやないか」。「そうだ。お前の妹という事を知っているんだ。それで此処にいると思ってるらしい」。 謙作は歯の浮く不快(いや)な文字を予想しながら読んだ。その予想があつた為か、思ったよりは厭味のない手紙だった。「男女交際の真正なるものは一向差支えなきもと私推(しすい)仕(つかまつ)り候。就いては少々御面談致したく明後六日貴嬢の学校帰り途中(二時及び三時)氷川(ひかわ)神社境内にて数分間拝顔致したく候」。こんな事が書いてあった。「私はこの夏某私立大学を卒業致し只今は麹町区〇〇町〇子爵方へ止宿罷り在り候」。そして繰り返し繰り返し秘密にして貰いたいと云う事、しかしもしこう云う事の為にラ結婚前の貴女(あなた)に障りが起こっては気の毒に思うか世良、そうなら遠慮なく断ってくれと云うような事も書いてあった。 「曖昧な態度で瀬踏みしている」と謙作は笑った。「この前寄越した奴ほど不良性はないようだ。しかしとにかく、どんな奴か、お前見といてくれないか。場合によっては嚇(おど)しつけてもいいし」。「うん」。「俺がいってもいいけど、そんな事で会社を休むのもいやだから」。「それじゃあ僕が行って見よう。〇〇町の子爵というのは松山のお祖父(じい)さんにあたる人だ。松山に訊けば直ぐ分かるが、そんな事をする必要もないだろう」。「そうだ。こいつはそれほど悪い奴ではないのかも知れないよ。しかし嚇かす為にそれを云ってやるのもいいや」。 信行は直ぐ帰って行った。その日は寒いばかりでなく時々思い出したように細かい雨が止んだり、降ったりする日だった。謙作は二階に火をさし入れて、久しぶりで机に向かった。彼は長い間怠っていた日記をつけ始めた。 ---何か知れない想い物を背負(しょ)わされている感じだ。気持ちの悪い黒い物が頭から被(おい)かぶさっている。頭の上に直ぐ蒼穹(そうきゅう)はない。重なり合った重苦しいものがその間に拡がっている。全体この感じは何から来るのだろう。---日暮れ前に点(と)ぼされた軒燈(けんとう)の灯(ひ)という心持だ。青い擦りガラスの中に橙色(だいだいいろ)にぼんやりと光っている灯が幾ら焦心(あせ)ったところでどうする事もできない。擦りガラスの中からキイキイ爪を立てたところで。日が暮れて、灯は明るくなるだろう。が、それだけだ。自分には何物をも焼き尽くそうと云う欲望がある。これはどうすれば良いのか。狭い擦りガラスの函の中にぼんやりと点ぼされている日暮れ前の灯りにはその欲望はどうすればよいか。嵐来い。そして擦りガラスを打ち破ってくれ。そして油壷を乾いた板庇(いたひさし)に吹き上げてくれ。自分は初めて、火になって燃え立つ。そんな事でもなければ、自分は生涯、擦りガラスの中の灯りでいるより仕方ない。 ---とにかく、もつともっと本気で勉強しなければ駄目だ。自分は非常に窮屈だ。仕事の上でも生活の上でも妙にぎごちない。手も足も出ない。何しろ、もっともっと自由に伸(のん)びりと、したい事をずんずんやって行けるようにならねば駄目だ。しどろもどろの歩き方でなく、大地を一歩/\踏みつけて、手を振って、いい気分で、進まねばならぬ。急がずに、休まずに。---そうだ、嵐を望む軒燈の油壺では仕方がない。 ---或る処で諦める事で平安を得たくない。諦めず、捨てず、何時までも追求し、その上で本統の平安と満足とを得たい。本統に不死の仕事をした人には死はない。今の自分は芸術の天才に就いてそう思うばかりでなく、科学の天才に就いてもそう考える。キューリー夫妻の事はよく知らないが、しかし彼らが人類の間に落して行ったものの確かさは彼らにどう云う運命が来ようとも決して動揺する事のない平安と満足とを与えているに相違ない。自分はそういう平安と満足とを望む。かって人の見た事のないものを見、かって人の聴いた事のない音を聴き、かって人の感じた事のないものを感ずる。 ---人類の運命が地球の運命に屹度殉死するものとは限らない。他の動物は知らない。しかし人類だけはその与えられた運命に反抗しようとしている。男の仕事に対する、あく事なき本能的な欲望の奥には必ずこの盲目的な意志がある。人間の意識は人類の滅亡を認めている。しかしこの盲目的な意志は実際少しもそれを認めようとしていない。 人類の発達は地球のコンディションと正比例する。地球のコンディションが人類に段々よくなって来た。人類は発達して来た。が、ある時からそれが段々に悪くなって行く。段々と寒く、乾いて来る。その時から人類は漸次に退化して行く。そして到頭或る日哀れな最後の一人が死んで、人類は絶えて了う。人類ばかりではない。総ての生き物が段々に死に絶えて行く。そして総てが氷の下に入って了う。 この考えは誇張でも何でもない。このままで行けば当然これが人類その他総ての生き物の恐ろしい運命だ。しかし人類は---この苛々(いらいら)と、殆ど無目的に発達しようと焦っている人類はそういう運命を素直に受け入れるだろうか。地球のコンディションが段々悪くなって、知らず知らずに退化して了ってからは吾々(われわれ)の子孫も彼らの祖先がそれ程にも焦った事すら知らず、焦りぬいて築き上げた発達の価値に就いても無関心に、今は何ら利用する事もできないそう云う発達の遺物を、冷ややかな眼差しで眺めながら希望のない空虚な頭で、結局、その運命を素直に受け入れるよう、余儀なくされるかも知れない。しかしそれは人類がそう退化し終ってからの事だ。そうなる前、地球のコンディションがまだ人類に悪くなる前、それまでに人類はできるかぎりの発達を遂げようとしている。そしてそれで、与えられた運命に反抗し、それから人類を救おうとしている。 女は生む事。男は仕事。それが人間の生活だ。人間がまだ発達しない時代には男の仕事は、自分の一家族、自分の一部族の幸福の為に働けば良かった。それが段々発達して、一部落の輪が大きくなった。日本なら男はその藩の為に働く事で仕事の本能を満足させていた。それが一国の為、一民族の為、そして人類の為という風になった。 例えば永生(えいせい)という考えでも、子供の頃はこの身の永生でなければ感情的に満足できなかった。しかし今は、---今でも死は恐ろしい。しかし永生は、個人/\のそれはどうでも差支えなくなった。同時にその信仰も持てなくなった。只自分は自分たちの仕事を積み上げて行く、人類の永生、これだけはどうしてもあってくれなければ困ると云う感情になっている。やがてはこの感情からも解脱するかも知れない。解脱した思想がある。しかし今の人類一般の何でもかでも、発達しようと焦り抜いている仕事に対する男の本能、或る場合、それは盲目的で病的になる事すらある。本来の目的を見失って却って人類を不幸にするような発達へ入り込む場合もあるが、それにしろそういう本能的な欲望の奥にはやはり人類の永生を願う、即ち与えられた運命に反抗し、それから逃れ出ようとする、共通の大きな意志を見ないではいられない。 自分はマースという飛行機乗りが初めて日本で飛行機を飛ばした日の事を憶い出す。滑走から、機体が何時か地面を離れ、空へ浮んで行く、その瞬間、不思議な感動から泣きそうになった。この感動は何から来たか。亢奮し切った群集心理からも来たろう。しかし何かしらそれだけでないものがあった。その場合は仮に群集心理の支配を受けたとしても、異なう場合、例えば、誰かが科学上の偉い新発見をしたというような新聞記事を読む。その時にも自分は泣きたいほど、感動する事がある。これは何から来るか。意識しない人類の意志が奥底でそれに応ずるからではないか。そんな気がする。 人類が滅亡するという事を吾々は知っている。が、それが我々の生活を少しも絶望的にしない。それに想いを潜める時に淋しい堪えられない感じを起すことはある。しかしそれは丁度無限を考えて変な寂しい気持ちに導かれる、それと変わりない感じである。実際我々は人類の滅亡を認めながら感情的にこれを勘定に入れていない。この事実はむしろ不思議だ。そして吾々はできるだけの発達をしようと焦っている。これは結局、吾々は地球の運命に殉死するものではないという希望を何処かに持っているからではないか。そしてそう云う大きな意志が誰にも無意識に働いているからではないか。 |
(私論.私見)