暗夜行路前編、序詞

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.7.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.7.16日 れんだいこ拝


【暗夜行路前編、序詞】
 私が自分に祖父のある事を知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後二月ほど経って、不意に祖父が私の前に現れて来た、その時であつた。私の六歳(むっつ)の時であった。或る夕方、綿は一人、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人が其処(そこ)へ来て立った。眼の落ち窪んだ、猫背の何となく見すぼらしい老人だった。私は何という事なくそれに反感を持った。老人は笑顔を作って何か私に話しかけようとした。しかし私は一種の悪意から、それをはぐらかして下を向いて了(しま)った。釣り上がった口元、それを囲んだ深い皺(しわ)、変に下品な印象を受けた。「早く行け」私は腹でそう思いながら、なお意固地に下を向いていた。

 しかし老人は中々その場を立ち去ろうとはしなかった。私は妙に居た堪(たま)らない気持ちになって来た。私は不意に立ち上がって門内へ駆け込んだ。その時、「オイオイお前は健作かネ」と老人が背後(うしろ)から云った。私はその言葉で突きのめされたように感じた。そして立ち止まった。振り返った私は心では用心していたが、首はいつか音なしく点頭(うなず)いて了った。「お父さんは在宅(うち)かネ?」と老人が訊(き)いた。私は首を振った。しかしこのうわ手な物言いが変に私を圧迫した。老人は近寄って来て、私の頭へ手をやり、「大きくなった」と云った。

 この老人が何者であるか、私には解(わか)らなかった。しかし或る不思議な本能で、それが近い肉親である事を既に感じていた。私は息苦しくなって来た。老人はそのまま帰って行った。二三日するとその老人は又やって来た。その時私は初めてそれを祖父として父から紹介された。更に十日(とおか)ほどすると、何故(なぜ)か私だけがその祖父の家(うち)に引き取られる事になった。そして私は根岸のお行(ぎょう)の松に近い或る横町の奥の小さい古家(ふるいえ)に引き取られて行った。そこには祖父のほかにお栄(えい)という二十三四の女が居た。


 私の周囲の空気は全く今までとは変わっていず自分だけがこの下品な祖父に引き取られた事は、子供ながらに面白くなかった。しかし不公平には幼児から慣らされていた。今に始まった事でないだけ、何故かを他人(ひと)に訊く気も私には起こらなかった。しかしこういう風にして、こんな事が、これからの生涯にも度々起るだろうと云う漠然とした予感が、私の気持ちを淋(さび)しくした。それにつけても私は二カ月前に死んだ母を憶(おも)い、悲しい気持ちになった。

 父は私に積極的につらく当たる事はなかったが、常に常に冷たかった。が、この事には私は余りに慣らされていた。それが私にとって父子関係の経験としての全体だった。私は他の同胞の同じ経験をそれに比較するさえ知らなかった。それ故、私はその事をそう悲しくは感じなかった。

 母は何方(どちら)かと云えば私には邪慳(じゃけん)だった。私は事々に叱られた。実際私はきかん坊で我儘(わがまま)でもあった。が、同じ事が他の同胞では叱られず、私の場合だけでは叱られるような事がよくあった。しかし、それにもかかわらず、私は心から母を慕い愛していた。

 四つか五つか忘れた。兎に角(とにかく)、秋の夕方の事だった。私は人々が夕餉(ゆうげ)の支度(したく)で忙(せわ)しく働いている隙(すき)に、しも手洗場(ちょうずば)の屋根へ懸け捨ててあった梯子(はしご)から誰にも気づかれずに一人、母屋(おもや)の屋根へ登って行った事がある。棟(むね)伝いに鬼瓦(おにがわら)の処(ところ)まで行って馬乗りになると、変に快活な気分になって、私は大きな声で唱歌(しょうか)を唄(うた)っていた。私としてはこんな高い処へ登ったのは初めてだった。普段下からばかり見上げていた柿の木が、今は足の下にある。

 西の空が美しく夕映えている。鳥(からす)が忙しく飛んでいる---- 間もなく私は、「謙作。----謙作」と下で母の呼んでいるのに気づいた。それは気味の悪い程優しい調子だった。「あのネ、そこにじっとしているのよ。動くのじゃ、ありませんよ。今山本が行きますからネ。そこに音なしくしているのよ」。

 母の眼は少し釣り上がって見えた。甚(ひど)く優しいだけ只事(ただごと)でない事が知れた。私は山本の来るまでに降りて了おうと思った。そして馬乗りのまま少し後ずさった。「ああっ!」母は恐怖から泣きそうな表情をした。「謙作は音なしいこと。お母さんの云う事をよくきくのネ」。私はじっと眼を放さずにいる。変に鋭い母の視線から縛られたようになって、身動きが出来なくなった。間もなく書生と車夫との手で用心深く下(おろ)された。案の定、私は母から烈(はげ)しく打たれた。母は亢奮(こうふん)から泣き出した。母に死なれてからこの記憶は急に明瞭(はっきり)して来た。後年もこれを憶う度(たび)、いつも私は涙を誘われた。何といっても母だけは本統に自分を愛していてくれた。私はそう思う。

 前後はわからない。が、その頃に違いない。私は一人茶の間で寝ころんでいた。そこに父が帰って来た。父は黙って、袂(たもと)から菓子の紙包を出し、茶箪笥(ちゃだんす)の上に置いて出て行った。私は寝たまま、じろじろそれを見ていた。父が又入って来た。そして、今度は紙包を戸棚の奥へ仕舞い込んで、出て行った。私はむっとした。気分が急に暗くなった。間もなく母が、父の脱ぎ捨てた外出着を持って、次の間へ入って来た。私には我儘な気持ちが無闇(むやみ)と込み上げて来た。泣きたいような、怒りたいような気持だった。「母さん、お菓子」。「何を云うんです」。母は言下に叱った。その少し前に私はその日のおやつを貰っていたのだ。「何か。よう、何か」。母応じなかった。そして、畳んだ着物を箪笥(たんす)へ仕舞って出て行こうとした。

 私起き上がって、「よう、何か」。こういって、母の前へ立ちふさがった。母は黙って私の頬(ほお)をぐいとつねった。私は怒ってその手をピシャリと打った。「もう食べたじゃ、ありませんか。何です」。母は私をにらんだ。私露骨に父の持って行った菓子をせびり出した。「いけません。そんな----」。「いや!」私は権利をでも主張するように頑固に首を振った。何しろ、私は気持ちがクシャクシャしてかなわなった。その菓子がそれ程に食いたいのではない。兎に角、思い切り泣くか、怒られるか、打たれるか、何かそんな事でもなければ、どうにも気持ちが変えられなくなっていた。

 母は私の手を振り払って、出て行こうとした。私は後ろから不意に母の帯へ手をかけ、ぐいと力一杯に引いた。母はよろけて障子に掴(つか)まった。その障子がはずれた。母が本気で怒り出した。そして、私の手首を摑み、ぐんぐん戸棚の前へ引っ張って行った。母は片腕で私の頭を抱えて置いて、いやがる私の口へその厚切りの羊羹(ようかん)を無理に押し込んだ。食いしばっている味噌っ歯(みそっぱ)の間から、羊羹が細い棒になって入って来るのを感じながら、私は度肝を抜かれて、泣く事もできなかった。亢奮から、母は急に泣き出した。少時(しばらく)して私も烈しく泣き出した。

 根岸の家(うち)では総てが自堕落だった。祖父は朝起きると楊枝(ようじ)をくわえて銭湯(せんとう)へ出かけた。そして帰るとその寝間着姿で朝餉(あさげ)の膳に向かった。来る客も変わった色々な種類の人間が来た。殊(こと)に花合戦をする、その晩には妙な取り合わせの人々が集まって来た。大学生、それから古道具屋、それから小説家(?)、それから山上(やまかみ)さんと皆(みんな)が云っている五十余(あまり)の一寸(ちょっと)未亡人らしい女などであった。この女はその頃の医者が持ったような小さい黒革の手下げ鞄(かばん)を持って来た。それには、きまって沢山な小銭と、一揃(ひとそろ)いの新しい花札と太い金縁の眼鏡(めがね)とが入っていたそうである。しかしこの女は未亡人ではなく、その頃大学で歴史を教えていた或る年寄った教授の細君で、この女の甥(おい)が嘗(かっ)てお栄と同棲していた、その縁故で、良人(おっと)に隠れて好きな遊び事の為に来たのだと云うことである。その甥と云う男は大酒飲みで、葉巻のみで、そして骨まで浸(し)み貫(とお)った放蕩者で、とうとうその二三年前に殆(ほとん)ど明らかな原因なしに自殺して了ったと云う事を私は二十年程してお栄から聞いた。

 山上と云う女は十時頃には大概帰って行った。するとその頃になって、東京者の癖に大阪弁ばかり使う若い寄席芸人がよく仲間へ入りに来た。お栄は勝負には入らなかったが、祖父の勝敗には多分実際上の気持ちから、よく焦慮(やきもち)して口出しをしていた。そう云う時、いつも下品な皮肉を云って皆(みんな)を笑わせるのはその寄席芸人であった。

 後年私は、何故それ程、困りもしないのに祖父はあんな暮らし方をしたろうと、よく考えた。月々困らぬだけの金は父から来ていたのである。それなのに、祖父はがらくた道具の売り買いをしたり、がらくた道具屋の競売(せりうり)に家を貸して席料を取ったりした。もうけずく以上、祖父の趣味のようにも思えた。

 お栄はふぢんか古紙も美しい女ではなかった。しかし湯上りに濃い化粧などすると、私の眼にはそれが非常に美しく見えた。そう云う時、お栄は妙に浮き浮きとする事があった。祖父と酒を飲むと、その頃の流行歌(はやりうた)を小声で唄ったりした。そして、酔うと不意に私を膝へ抱き上げて、力のある太い腕で、じっと抱きしめたりする事があった。私は苦しいままに、何かしら気の遠くなるような快感を感じた。私は祖父を仕舞いまで好きになれなかった。寧(むし)ろ嫌いになった。しかしお栄は段々に好きになって行った。

 根岸の家へ移って半年余り経った或る日曜日か祭日の事であった。私は久しぶりで祖父に連れられて、本郷の父の家へ行った。丁度兄は書生と目黒の方へ遠足に行って、咲子と云う未(ま)だ一年にならぬ赤子とそして父だけが家に居た。

 祖父と一緒に父の居間に挨拶に行くと、その日父は珍しく機嫌が良かった。父はいつにない愛想らしい事を私に云った。父としてはそれは気まぐれだった。何かその日気分のいい事があったのかも知れない。しかしそんな事は私には解らなかった。私は何かしら惹(ひ)かれるような心持で、祖父が茶の間へ引き返してからも、一人そこに残っていた。「どうだ、謙作。一つ角力(すもう)をとろうか」。父は不意にこんな事を云い出した。私は恐らく顔一杯に嬉しさを現わして喜んだに違いない。そして首肯(うなず)いた。「さぁ、来い」。父は坐ったまま、両手を出して、かまえた。私は飛び起き様(ざま)に、それへ向かって力一ぱい、ぶつかって行った。「なかなか強いぞ」。父は軽くそれを突き返しながら云った。私は頭を下げ、足を小刻みに踏んで、又ぶつかって行った。

 私はもう有頂天になった。自身がどれ程強いかを父に見せてやる気だった。実際角力に勝ちたいと云うより、私の気持ちでは自分の強さを父に感服させたい方だった。私は突き返される度に遮二無二ぶつかって行った。こんな事は父との関係では嘗ってなかった事だ。私は身体(からだ)全体で嬉しがった。そして、おどり上がり、全身の力で立ち向かった。しかし父は中々私の為に負けてはくれなかった。「これなら、どうだ」。こういって父は力を入れて突き返した。力いっぱいにぶつかって行った所にはずみを食って、私は仰向けに様にひっくりかえった。一寸息が止まるくらい背中を打った。私は少しむきになった。而(そ)して起きかえると、尚勢い込んで立ち向かったが、その時私の眼に映った父は今までの父とは、もう変わって感じられた。「勝負はついたよ」。父は亢奮した妙な笑い声で云った。「未(ま)だだ」と私は云った。「よし。それなら降参と云うまでやるか」。「降参するものか」。間もなく私は父の膝の下に組み敷かれて了った。「これでもか」。父はおさえている手で私の身体をゆす振った。私は黙っていた。「よし。それならこうしてやる」。父は私の帯を解いて、私の両の手を後手(うしろで)に縛って了った。そしてその余った端で両方の足首を縛合わせて了った。私は動けなくなった。「降参と云ったら解いてやる」。

 私は全く親しみを失った冷たい眼で父の顔を見た。父は不意の烈しい運動から青味を帯びた一種殺気立った顔つきをしていた。そして父は私をそのままにして机の方に向いて了った。私は急に父が憎らしくなった。息を切って、深い呼吸をしている、父の幅広い肩が見るからに憎々しかった。その内、それを見つめていた視点の焦点がぼやけて来ると、私はとうとう我慢しきれなくなって、不意に烈しく泣き出した。父は驚いて振り向いた。「何だ、泣かなくてもいい。解いてくださいと云えばいいじゃないか。馬鹿な奴だ」。解かれても、まだ私は、なき止める事ができなかった。「そんな事で泣く奴があるか。もうよしよし。彼方(あっち)へ行って何かお菓子でも貰え。さあ早く」。こう云って父はそこにころがっている私を立たせた。私は余りにあからさまな悪意を持った事が羞(はず)かしくなった。しかしどこかにまだ父を信じない気持ちが残っていた。

 祖父と女中とが入って来た。父は具合悪そうな笑いをしながら、説明した。祖父は誰よりも殊更に声(こわ)高く笑い、そして私の頭を平手で軽く叩きながら「馬鹿だな」と云った。





(私論.私見)