暗夜行路(あんやこうろ)のれんだいこ批評

 更新日/2019(平成31.5.1栄和改元)年.11.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「暗夜行路(あんやこうろ)のれんだいこ批評」をものしておく。「暗夜行路」を参照する。

 2019(平成31.5.1栄和改元)年.11.16日 れんだいこ拝


【れんだいこの暗夜行路批評】
 いろんな評論があるのだろうが、私が気に入った処をほぼどの評論士も指摘していない。彼らが素晴らしいとして抽出する箇所に私は感動しない。そういうことを踏まえて、私の評論を晒しておく。
 私が何ゆえに急に「暗夜行路」読みたいと思い立ち、序(ついで)にその批評に向かおうとするのか。これを確認しておく。結論を云うと、「暗夜行路」の主人公/時任謙作が伯耆の国の大山(だいせん)詣(もう)で逸話を遺していることを知ったからである。そのきっかけは、行きつけの喫茶店での常連仲間のシモちゃん(84歳)の口を通してであった。シモちゃんはその大山付近の生まれで、活字好きの人であるから自ずと知っていたのだろう。或る日の何気ない会話の中で小説主人公の大山(だいせん)詣でを語った。私は知らなかったので、「えぇっそうなんですか」と答え、その後ずっと気に留めていた。

 それより暫くした或る日、「暗夜行路」の作者志賀直哉は何故に主人公の大山詣でを策したのか。他にも候補地が幾らでもあろうに、よりによってなぜ出雲圏の聖域の一つである大山詣でを設定したのか。その出雲で何を見出し、それをどう受け止めたのか。作者の大山詣で舞台設定は偶然なのだろうか。それとも、ひょっとしてそうではなくて、彼は何故か日本史上最大のミステリーとなっている「出雲の秘密」を知っていて、分かる者には分かる裏メッセージで「癒しの出雲」を登場させたのではなかろうか。ならばそれをどのように表現しているのか。問題意識をこう設定すると、矢も楯もたまらず読破したくなった。そして今読始めている。並行してこの感想記も書き上げつつある。

 そういう関心から始めているので、序章とか前編の前半までは単に読み進めるだけである。それにしても「大山詣で」に辿り着くのがこれほど後半になってからだとは思わなかった。「大山詣で」のところまでの道中が長過ぎる。それでも読み進めて行けたのは筆者の筆力のせいだろう。

 まず気づくのは、志賀直哉の文体の特徴である。彼は、かの当時において相当新鮮であると思われるのだが、平明な文章を書くことに熟達していることに気づかされる。その秘密の第一は、頑迷な漢字表記、しかもそれを旧字体漢字表記する当時の文壇芸当の悪癖から抜け出しているところにある。日本文は、戦後の国語改革により、ひらがな、カタカナ表記で済ませられるところの漢字を止め、ひらがな、カタカナ表記を採用する事で相当に簡略化された。これにより相当読み易くなったが、思えば志賀直哉の文体は1920年前後の大正期に於いて先行して実践していたことになる。彼が旧漢字を排斥している訳ではない。旧漢字を宛(あて)がうのが描写に最も相応しいと思われるところでは旧漢字を使用している。問題は、旧漢字に拘る必要のないところへの簡略な新漢字、いっそのことひらがな、カタカナ表記への転換であり、志賀文学はこれに成功している。当時の文人の多くが旧字主体の文章に拘泥していた中で、いち早く抜け出ていたことになる。「てにをは」の使い方もそうである。未だ過渡期の表現をしているが、「てにをは」を戦後の口語体に接近した表現をしている。もう一つ、漢字の大和読みを多用している。それらのせいで文章全体が柔らかみを増している。

 そういうことで、志賀直哉の文体は平明淡々である。勘違いしてはいけないことは、表記は平明簡潔だが、内容が粗雑扁平ではないということである。どう表現してよいのか難しいが、平明淡々に表現している割には文章が的確で、捉えた対象に対する描写が深い。短く簡素かつ力強い文体に定評がある。「構図は遠景、表現は接写」の観があり、そのことにかなり成功していると思える。


  志賀直哉は、表現のうまさから「小説の神様」 と評されている。短編小説「小僧の神様」からきた呼び名とのことである。その文章には「削り落とした美学」のようなものがある。原稿の手直しをする推敲の際、書き増しが普通で、分量が増えることが多いが、志賀直哉はどんどん削っていった逸話を遺している。新潮文庫の解説にも書いているが、志賀直哉の文章についての夏目漱石と芥川龍之介の次のやりとりが有名である。
芥川(931夜)  「志賀さんの文章みたいなのは書きたくても書けない。どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね」。
漱石(583夜)  「文章を書こうと思わずに、思うまま書くからああいうふうに書けるんだろう。俺もああいうのは書けない」。

 
この遣り取りによれば、志賀文学は、当代作家随一の夏目漱石を感嘆させ、ポスト漱石一番手の芥川龍之介を嫉妬させていたことになる。志賀作品の評価はここに定まれりと云うべきだろう。「『焚火』という短編についての文学論争も非常に興味深い」云々。これについては内容が判明次第、エキス化しておこうと思う。

 「暗夜行路」は志賀直哉が書いた唯一の長編小説であり、4部構成で16年余を費やしたといわれている。読みながらその筆力に感心させられる。現代におけるムービービデオ撮影の如くな静的動的自在の描写力で、情景描写、心理描写を重ねて紙数を列ねている。かの時代にあるのはカメラまででありムービービデオは到底なかった筈だが、かの時代に於てムービービデオ描写している。「小説の神様」 との評の背景にはこの描写力もあると思われる。付言すれば、この描写力の根底には安定した構図での情景描写、その際の多過ぎもせず少な過ぎもしない描写文章と云う意味である。この手法は人物の心理描写も然りである。

 私小説風であるが自伝はない、あくまで小説の価値を狙っている。実生活では、志賀直哉は父と仲たがいした後、和解しているが、出自に関しては想像の産物で自分がモデルではないと述べている。祖父についても、文中では「みすぼらしい」、「貧乏臭い」、「下品」と記述しているけれど、志賀は、実在の祖父のことは非常に尊敬していた。「続創作余談」で次のように知らせている。
 「『暗夜行路』は、出生から来る一種の運命悲劇で、その運命をできるだけ賢く、意志的に抜け出そうと努力する事が筋といっていいもので、やはり(メーテルリンクの)『知恵と運命』の影響は受けているものだ。運命的に来る不幸は賢愚によらず来るもので、いかんともしがたいが、それをできるだけ賢く切り抜けたいというのが『暗夜行路』のテーマになっている」。
 「私は祖父を尊敬した。私は肉親といふ私情を除いても、自分の此世で出会った三四人の最も尊敬すべき人の一人として祖父を尊敬している。それ故、「暗夜行路」の主人公の祖父には此祖父と思ひきり類似点のない人間を書かねば気が済まなかつた」。

 折々に哲学的知見、歴史観、人生観、幸福観、男女諭、文明批評を披歴している。文章の合間合間に挿入している場合と、章全体をこれに当てている場合がある。この場合、話の展開上の必然性はない。その後も折々にそうした文章が出て來る。その内容が中々にこなれており、内省的な洞察になっており、これも本書の魅力になっている。

 もう一つ触れておかねばならない。当時の東京市街地の地名、町名がふんだんに登場し、その昔東京住まいしていた者にとって懐かしくなる共感を呼ぶ。遊郭の吉原が頻繁に登場し、その生業ぶりを活写している。他にも料理屋、稀に神社仏閣が登場する。全体的に日本風情緒を漂わせている。その情緒に次第に引き込まれる。何気なしにそういう日本式文化の香気を嗅いでいる。それも単に日本風なものではない、日本風の日本風、ザ日本とでも呼ぶべき日本風の真価の香気を嗅がせている。そういうことに気づきながら読み進めている。

【暗夜行路あらすじ】
 暗夜行路は「序詞」から始まる。短い章で、時任謙作(ときとう けんさく)の「私」という視点で物語が描かれる。幼いころ母を亡くし、謙作だけが父や兄から離されて祖父の所に引き取られる。謙作だけがなぜ引き取られたのかについては分からない。後に次第に判明するが、謙作の両親一家は元々茗荷谷の家に祖父母夫婦と一緒に生活していた。後に謙作の両親一家は本郷に、祖父は福吉町へ住み替えしている。謙作は、母亡き後、福吉町の家に引き取られる。そこにはお栄という祖父の若い妾(めかけ)がいた。こうして謙作は祖父家の人としての生活を始める。祖父亡きあとは祖父の愛人だったお栄と二人暮らすようになる。生活費は実家からの仕送りもあって不自由はなかった。謙作が長ずるに及び小説を書いて日々すごしている様子である。謙作と実家の行き来はある。特に兄の信行とは睦まじく交流し続けることになる。父親と相撲をとって泣いた話が出て来る。父親との確執の萌芽が見て取れる。父子の対立は志賀直哉小説の大きなテーマとなっており、これを底流としてドラマが展開する。
 前篇に入ると、謙作の祖父の家での暮らしぶりが描かれる。その後の道中で祖父が亡くなり、その後は、謙作はお栄を家政婦にする形での二人暮らしを始める。謙作が成長し、若手作家として登龍しつつある。初めの頃、竜岡、阪口との三人交流の様子が描かれる。一緒に芸者の所に行ったりするようになる。そこで、登喜子を見初める。しかし男女の中には発展しない。謙作と竜岡の交流は続き、阪口は登場しなくなる。その位置に他の者が次から次と登場し始める。特に兄の信行との交流が基調になる。茶屋の女性では登喜子の位置に別の女性が次から次と登場し始める。そういう場面展開が続く。本書は元々新聞に連載し挫折、再執筆後は雑誌「改造」の各月号に連載されたものであるから、その都度に盛り上がりの場面を設けている。それが延々と続いて行く。

 或る時、謙作は、母の幼馴染の娘にして、子どもの頃によく遊んでおり、家庭教師をしていた時期もある、謙作の気持からすれば許婚(いいなずけ)のような愛子との結婚を思い立った。父に相談し仲立ちを頼んだが、「そう云う事は自分でやったらいいだろう」と変に冷たくあしらわれた。そこで直接に申し込んだが体よく断られた。そのうち愛子は愛子の兄のお膳立てで兄の仕事関係の者と結婚する。自尊心を傷つけられた謙作は呆けるように芸者遊びに熱中する。

 その挙句に、次第にお栄を意識するようになる。お栄は祖父の愛人であり、謙作より20も年上の人である。そのお栄との関係の不義が許されるのかの問いと、お栄への思慕との葛藤で悶々とする日々が始まる。謙作は次第に寝不足に陥り神経衰弱も用になる。この頃、無二の仲良しの竜岡が渡欧する。謙作はお栄の事で神経を傷めているところへ、親友の竜岡が居なくなった淋しさが加わり、心機一転を図り西国への旅を決意する。何で西国への旅になったのか、それは明かされていない。前半の第一部は11章まであり、主人公/時任謙作が気分転換を兼ねて西国の旅を決意するところで終わっている。  
 前半の第二部は、お栄、宮本らに見送られて横浜港を出港するところから始まる。伊豆を通り紀州海岸を経由して神戸へ着く。そこから汽車に乗って尾道へ辿り着く。なぜ尾道なのかそれは分からない。ここから本格的に第二章が始まる。尾道の宿を借り、やがて千光寺の山の中腹にあった長屋の一つを借りる。ここで「時任謙作」の執筆に向かうが筆が思うようには捗らない。そうした或る日、鞆を経由して金毘羅に向かう。それにしても中々大山に辿り着かない。乗り掛かった舟だからしゃあないと我慢しながら読み続けるしかない。尾道から汽船に乗り、鞆の津経由で四国讃岐の多度津に渡った。金平神社を参拝し高松の栗林公園に行った。その途次、屋島の旅館に一泊する。その夜、唐突にお栄との結婚を決意する。尾道へ帰り、兄の信行宛てに手紙を認(したた)め、結婚の仲介を依頼する。

 しかし、帰って来た返事は、お栄の不承諾と信行の諫言だった。この時、信行は、謙作に重大な秘密を打ち明ける。その内容は、「お前は祖父と母の子だ。父の子ではない」即ち謙作が祖父と共通の母との間に生れた不義の子であるという告知だった。

 謙作は当然のごとく衝撃を受ける。但し自暴自棄に陥ることはなく案外と立ち直りが早かった。寧ろ、謙作がこれまで漠然と感じていた、謙作に纏わる「変な暗い苦しみ」の原因が分かり解けたことの喜びがあったかも知れない。そこへ、信行が義母に何気なく伝えた謙作とお栄の結婚交渉が父に伝えられ、父が激怒し、お栄の家政婦解雇騒動に至る。この頃、謙作が中耳炎にかかり、その治療の為にも名医のいる東京へ戻る必要が生まれる。

 こうして東京へ戻り、以前のままのお栄との二人暮らしが始まる。兄の信行は会社をやめ、禅の修業を始める。謙作は執筆と転居の為の家探しに向かう。結局転居した先はやや郊外の大森の二階建て貸家で、その新居で執筆に向かい始める。


 漸く前篇を読み終えた。結局、出雲伯耆の大山は前篇には登場しなかった。
 後篇に入る。舞台が京都に移り、東三本木の宿に停泊する。或る時、運命の人と出会った。「鳥毛立屏風」風の美女の直子に一目惚れし、彼女と結婚したいと霊的に感じた。この頃、立て合うかのように、お栄の従妹のお才が十年ぶりに帰国し、お栄に上海での共同事業の話を持ちかける。お栄は、謙作の同意を取りつけられるならと揺れ動き、信行が謙作の同意も取りつけているとの言を得て、お栄の気持がそちらに傾く。こうなると要するに手切金が必要となる。***。

 並行して兄の信行や友人の奔走で結婚話が順調に進み、二人は初冬に結婚する。この間、お栄は、旧知の女性と天津へ旅立つ。秋頃、男の子の赤ん坊が生まれる。ところが丹毒で夭折する。その頃、お栄が窮地を伝える手紙を兄の信行に送って来る。謙作はお栄の救出に向かう。謙作がお栄救出の為の朝鮮旅行で留守中、直子は田舎の親族を呼び寄せ、気を紛らわそうとする。ところが、はずみで幼馴染の従兄(いとこ)と密通する。謙作がお栄を京城から連れ帰る。楽しい土産話も一段落した就寝前、謙作は直子がどことなく不自然な異変に気づき問いただす。直子の従兄(いとこ)との密通を知る。謙作が二度目の人生の不条理衝撃を受ける。


 お栄を含めた同居暮らしを始める。謙作は妻の不義を許したものの夫婦はわだかまりの解けないままのぎこちない関係になる。直子とお栄の関係は不思議なほど良好に維持される。直子の妊娠が発覚する。謙作との子に間違いはないが、もとから癇癪もちの謙作はなにかと直子に当たったり乱暴になったりする。そういう緊張感あふれる生活が続く。直子が従兄の種と思われる長女を生む。謙作が法隆寺に出かけているうちの女児誕生により隆子と命名する。ある日、皆で宝塚へ行こうとし、駅のトイレで赤ん坊のおむつを替えていて遅れてやって来た直子が、走り出した列車に飛び乗ろうと列車の踏み台に片足をかけたところを、先の乗っていた謙作が彼女の胸を突いて列車から振り落とす事件が勃発する。幸い直子に大きな怪我は無く脳振とうぐらいで済んだのだが、心に受けたショックは計り知れない。

 この後、謙作は伯耆(鳥取)の大山へ旅立ち、二人はしばらく別居生活を送ることになる。行く先で大乗寺の応挙の絵に触れたり、野に咲く草花を眺めながら大山へ辿り着く。旅先の寺坊でゆっくり過ごすうちに、謙作の次第に気持ちが落ち着いていく。その寺坊で、天理教一家の**に出くわす。謙作はその**の人生模様に驚き、妙に共感する。謙作の人生不条理に対するわだかまりが薄紙を剥いでいくかのように和らぎ始める。謙作が、直子あてに手紙を書き、「今までなかった世界が自分に展けた喜び」と伝える。その後、下痢をした後に夜登山をした謙作は、途中、苦しくなりひとり引き返す。山中で夜を明かします。そして明けゆく大山をみて感動を覚える。世話になっている寺にもどると、熱を出し床に伏せってしまう。医者の診断は大腸カタルで命に別条は無いというが、どうも容態がよくない。京都から直子が駆けつけ、横になった謙作と対面する。謙作は「実にいい気持なのだよ」と云う。直子は「この人はこの儘、助からないのではないか」、「何所までもこの人に随いて行くのだ」と思う。謙作が助かるのか駄目なのかはわからないまま、この長編は終わる。

【作品評】
 
大岡昇平 小説家 「近代日本文学の代表作の一つで、 近代文学の最高峰である」。
横光利一 初期の短編は志賀直哉の影響をかなり受けている。
小津安二郎 『暗夜行路』に感銘を受けたと日記に書いており、映画「風の中の牝どり」には『暗夜行路』の中のモチーフが使われているという。
河上徹太郎 「現代最上の恋愛小説」。
小川国夫 「日本文学史で最も秀でた峰」
中野重治 「拵えものだ」。
小林秀雄 確かな智慧だけで書かれてゐる」 。
本多秋五 「骨ばかりの小説」
中村光夫 「あきらかに失敗作」
河合栄治郎 「主人公の気分の余りにデリケートなのが気になる」
近松秋江 「襤褸は出してゐないけれども、あれを以つて、今日一流の芸術を成した人だと、奉つてしまふのは、あまり文壇そのものが、安価といふことになるね」( 『芥川龍之介全集 第十六巻』)。

【作品のモデルについて】

 父親との確執を題材に書き始めた小説ですから、おのずと登場人物も志賀直哉の周りの人物がモデルではないかと言われています。

 <坂口>

 最初に登場する友人の作家 坂口は、里見弴だという話もあります。白樺派の盟友、志賀直哉と里見弴は人生の内、何回か衝突し、絶交も何回かしているけれど、この時期は、里見弴が『妻を買ふ經驗』で、志賀直哉らしき人物を露骨な形で登場させたことで、絶交していた時期と思われます。第一章の冒頭は、「時任謙作の坂口に対する段々に積もって行つた不快も坂口の今度の小説で到底結論に達したと思ふと、彼は腹立たしい中にも清々しい気持ちになった」と書かれています。相当、怒り心頭だったのかも知れません。


 【松岡正剛1236夜「志賀直哉/暗夜行路」】
 松岡正剛1236夜「志賀直哉/暗夜行路」。
 内村鑑三に影響を受けた。小説の神様と言われた。白樺派だったが、距離も保った。書画骨董を見抜く目をもっていた。多くの作家たちが志賀直哉の前ではひどく緊張した。たしかに短篇は抜群なものがある。文章もうまい。引き算もある。が、変な展開にもなっている。実は志賀直哉はどこかが変なのだ。まして『暗夜行路』は大いに変である。いったい、この作家は何だったのか。時任謙作とは誰なのか。なぜここから、日本の私小説が脈打っていったのか。
志賀直哉とは意外です。
そうかな。寂寞ではあっても虚無はない。端然としているけれど孤高ではない。憂鬱でも喪失はない。そういうこともあるからね。
好きなんですか。
実は志賀直哉には妙に困ってるんだね。引っ掛かっている。嫌になったり好きになったりする。昔からぽつぽつ読んでいて、暇つぶしと言っちゃ悪いだろうが、ああ、こういうところが志賀直哉だな、なるほどうまいもんだ、ここはつまらないことを書いたもんだと無責任に読み済ませてきたんだけれど、それでふりかえってみるとけっこうな量を読んだようなんだ。もっとも、この人のものは『暗夜行路』以外はすべて短篇だから、すぐ読める。『和解』などは中篇だけどね。
じゃあ、けっこう好きなんですよ(笑)。
そうかなあ。志賀直哉という“生きもの”に引きずられて読んできたような気がするね。作品は、読めば読むほど知れば知るほど細部が気になるのだけれど、そのぶん全貌はぼけてくるんだよ。それでもこういう文芸文人が日本にとっくにいなくなったとも感じて、その生き方がぼくの判断をゆさぶるんだね。それで、ついつい読んできた。
何に困るんですか。

“生きもの”をどう見るかということで困ってる。いやね、その文学にはいまさら困らないよ。白樺派だからいいわけでもなく、花袋や藤村(196夜)らの自然主義っぽい立ち位置に反骨したから気にいるわけじゃないし。だいたい志賀を文学論したってしょうがないよ。そこは、そういうぼくの読みもある。これまで多くの批評家たちが志賀文学の評価をまちまちにしてきたが、そこはぼくには痛くも痒くも、気にもならないんだね。楽しめた志賀論といえばせいぜい小林秀雄(992夜)の短いものと、阿川弘之の大作『志賀直哉』くらい。これは驚くほど詳しいものでね。さすがお弟子さんだ。

 志賀直哉ほど写真映りのいい作家はめずらしい。漱石・鴎外このかた顔のいい作家は少なくないが、川端康成(53夜)五木寛之(801夜)も比較にならないくらいではないか。最近は白洲次郎の男っぷりがたいそう評判になっているが、外見だけなら志賀のほうがずっと高みも味もあるだろう。
 志賀は何度も引っ越しをしている。尾道にもいたし、京都南禅寺の宿坊にも鎌倉の叔父の隣りの家にも住んだ。柳宗悦(427夜)に勧められて我孫子に住んだときは武者小路実篤も越してきて、ちょっとした白樺派の村になった。奈良の幸町の大きな家に移り住んでからは千客万来で、小林秀雄や網野菊や小林多喜二や阿川弘之がそのときのことを記している。いわゆる“志賀詣で”は早くからのことだったのである。そうやって多くの者が志賀を訪れてみんなが感じることは、一種の「威儀」のようなものだったらしい。とくに編集者や記者たちは、みんな緊張したという。やはりあの顔貌のせいだろう。

そういうカッコいい志賀直哉であるのに、その姿にふさわしくない言動もする。そこが困るのだ。一方で書画骨董を書く目がたいへんおもしろいのと、他方で急に日本の国語をフランス語にしたらどうかと思うなどとロクでもないことを言うあたりとが、とんと反りが合わないところなのである。
 よく志賀直哉のリアリズムとユーモアというけれど、ぼくはその両方を、とくにユーモアを遊べない。まして日本の国語をフランス語にしてみたらなどというのは、リアリズムにもユーモアにもならなくて、聞かされるほうが困るだけである。爺さん、よまいごとを言っちゃいけません。最近では河合隼雄が「英語を第二公用語にしたい」と発案したときも、おいおい爺さんという失調だった。

座談会「志賀さんを囲んで」の出席者たちと。右より丹羽文雄、小林秀雄、志賀、川端康成
(昭和30年 撮影・土門拳)
日本語をフランス語にしようと言ったんですか。
深く考えたわけじゃないだろうね。つい口がすべったんだ。
志賀直哉の写実描写にリアリズムもなく、よく言われるようなユーモアも感じないんですか。
感じない。文章というものをそのまま感じるけれど、その奥に写実の哲学やヒューマニズムが動いているとは感じないね。だから、ついつい読むんだろうね。
ふーん、そういうものですか。
志賀の言動は作品にもはみだしてくる。たとえば『万暦赤絵』(ばんれきあかえ)だ。5年ほどの書けなかった時期を破って発表した作品である。このなかでの大雅や鉄斎は好きだが円山派や崋山が嫌いで、宗達はいいけれど光悦には誇張や成心があっていけないという見方は、なかなか結構だ。それを言葉にしている口調もうまい。さすがなものがある。では、その目で書いている続きの展開がおもしろいかというと、古月軒の鉢や山科毘沙門堂の青磁花生「万声」や殷周青銅器などについての静謐だったり怖がったりの書きっぷりにくらべて、赤絵の高値を聞いて仔犬を買ったといういきさつを綴るあたりからあとが、まったくつまらない。『万暦赤絵』は、よく知られているように『城の崎にて』や『小僧の神様』や『清兵衛と瓢箪』などとならんで志賀を有名にした小篇である。教科書にも載るほど、よく知られている。それでも納得できないところが多い。
 正直いうと、その『城の崎にて』や『小僧の神様』にだって、反りが合わないところが少なくない。とくに話が進んで作家の感情がまとまっていくところからが、つまらない。文学としてではなく、志賀直哉の直情がナマに顔を出すのが変なのだ。
 『城の崎にて』では蜂が死んでいるところ、鼠が川から這い上がるところまでと、そのあとイモリに石を投げ付けてその心情を描写しているところの精神がつながっていないし、『小僧の神様』では男が小僧に上等な寿司を食べさせる気になったところと、その男を小僧が神様だと思うようになるところの感情がつながらず、男が自分のした慈善行為のようなものを悔やんでいるところは、もっと切れている。
じゃあ、志賀直哉はダメじゃないですか。
それがそうでもないんだな。
ええっ、それはわかりませんね。
ぼくも説明がつなかくて、だから困ってるんだ。
それは志賀直哉に松岡さんを困らせているものがあるということですか、それとも松岡さんには志賀直哉に惹かれるものを説明するものがなくて、困っているんですか。
なんだか追いつめられてるなあ(笑)。でも、志賀直哉はやっぱり変なんだよ。
 トーマス・マン(316夜)には“trotzdem”がある。かつてこの言葉については荒正人が持ち出していたことがある。「にもかかわらず」というやつだ。それが志賀直哉にもある。ただ、志賀の“trotzdem”には絶妙なときと、そうでないときがある。
 マンは文学のほうを根底から「にもかかわらず」にしているのだが、志賀はその生き方に「にもかかわらず」が入っているはずなのに、それを文学するとき、最初はリアルなのだが、そのうち出来事が精神や感情にかかわってくる場面になると急に「心をふりかえる」という癖を出す。そのうえ悪いことに、そこを主人公が精一杯に突破していこうとするふうに書く。これがもっと変なのだ。
 それでも「にもかかわらず」が蜂や寿司のような、ごくごく小さな出来事や観察に向けられているときは、その文章の彫琢とあいまって、これこそが志賀直哉だとみんなが思うほどの出来映えになるのだが、その小さな「にもかかわらず」が筋や流れに与かろうとしてくると、そこに志賀の声や体がもっている倫理感や訂正感のようなものが出てきて、つまりは精神や感情が顔を出して、それが困るのだ。
 そのような「変」の塊りの集大成のようなのが『暗夜行路』だった。ぼくが高校時代に表題につられて『暗夜行路』を読んだときは、こりゃあ勘弁してくれよと思ったものだ。文章のせいではない。この作家がこの作品に入れ込んでいるらしい得体の知れないものが、そのころのぼくのような高校生にはどうにも付き合えそうもないものだったのだ。
 だったら、そのまま食わず嫌いになったっておかしくなかったのに、それがいろいろの志賀を次々に読めるようになったのだから、そこが不思議なのである。短篇ばかりだったせいかもしれないし、文句をつけても許してもらえそうな作家だと見立てられたかもしれない。
 しかしふと思うのは、そのように何だかんだといちゃもんをつけていても、それを平気で読ませてしまうところが、それも次から次へと読ませてしまうところが、ひょっとすると志賀直哉の真骨頂なのかもしれないということなのである。
それって松岡さんがまるめこまれてるっていうことですよ。
まあ、そうなるか。
そうですよ。
でも、作品に感動はしてない。
どんな作品なら好きなんですか。
作品として褒めたいものはないね。茶碗の手触りのようなものでその茶碗を見るということがあるように、それだけでその茶碗とお別れすることがあるように、そんなふうに文章の風情で読んできたからね。
『暗夜行路』はどこがダメなんですか。ダメなのにとりあげるのは、どうしてですか。それって「千夜千冊」のルール違反ですよね。
あのね、ダメなのに『暗夜行路』を書きつづけた志賀直哉が謎なんだよ。
ええっ、それもわからない。
だから、わからないから謎なんだ(笑)。
困ったもんですね。
そうだろ。だから困ったもんなんだ。
 志賀は『暗夜行路』に着手してから26年をかけた。まずは大正元年の尾道で『時任謙作』という標題で書きはじめて、3年をかけたのに挫折した。主題としていた「父との不和」が一件落着してしまったので書けなくなったというのが志賀自身の“自作解説”なのだが、あとでふれるように、これについてはちょっと納得できないものがある。やっと組み直しての最初の発表は、志賀が31歳になっていた大正10年のことで、それでもまた難産しつづけて昭和12年3月の「改造」でなんとか完結した。

 そんなに時間をかけた理由がどこにあったのか。これがまたわからない。そもそも文章を書くこと自体には、何の痛痒も感じていない作家なのである。芥川(931夜)が「志賀さんの文章みたいなのは書きたくても書けない。どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね」と言ったら、漱石(583夜)が「文章を書こうと思わずに、思うまま書くからああいうふうに書けるんだろう。俺もああいうのは書けない」と答えているほどだ。漱石は志賀が終生尊敬していた先生だった。

 どういう文章かというと、たとえば『剃刀』(かみそり)の冒頭でいうとこういうふうだ。「麻布六本木の辰床(たつどこ)の芳三郎は風邪のため珍しく床へ就いた。それが丁度秋季皇霊祭の前にかかつてゐたから兵隊の仕事に忙(せわ)しい盛りだつた。彼は寝ながら一ト月前に追ひ出した源公(げんこう)と治太公(じたこう)が居たらと考へた」。これは、うまい。また、こうである。『范の犯罪』の冒頭はこうなっている。「范(はん)といふ若い支那人の奇術師が演芸中に出刃包丁程のナイフで其妻の頸動脈を切断したといふう不意な出来事が起つた。若い妻は其場で死んで了つた。范は直ぐ捕へられた」。
 あっというまに引きこまれる文章だ。続いて、「現場は座長も、助手の支那人も、口上云ひも、尚三百人余りの観客も見てゐた。観客席の端に一段高く椅子をかまへて一人の巡査も見てゐたのである。所が此事件はこれ程大勢の視線の中心に行はれた事でありながら、それが故意の業(わざ)か、過ちの出来事か、全く解らなくなつて了つた」。
 どう見ても文句のつけようがない。こういう力があるのだから、文章を書いていくことに不如意なわけではないのだ。
 時代考証をしたり調査したりして書く作家でもなかった(志賀はほとんど調べものをしていない)。だから歴史小説はほとんど書いていないし、『暗夜行路』で題材にした何かを調べているうちに時間がかかったわけでもないのである。
 それなのに時間がかかったというのは、筋書きに困ったか、主題が脆弱だったか、嫌気がさしたか、志賀直哉という人間のなかで長編に合わないものがあったか、そのいずれかなのである。
それじゃあ志賀直哉は『暗夜行路』を書かなかったほうがよかったんですか。
書かなきゃいられなかったろうね。そんなこと、いくらでも人生におこるからね。巨きな縄を綯いたいとか、大凧を上げたいときとか。できそうもない仕事をやってみるとか。そりゃあ失敗もあるけれど、それとは別に挑み続けるわけよ。
ああ、文学もそういうものなんですね。
少なくとも志賀直哉はそういうふうにしたんだね。それを一貫させたわけだ。
それが私小説の母型になったんですか。

志賀直哉にはそんなつもりはないんだよ。あとの連中がそうしたわけだ。母型って、そういうものだからね。

 長編小説には、切れと省略のあるうまい文章が書けるからといって、それをそのまま連続して仕上げるというわけにはいかないカマエとハコビが要求される。いわば「構造の耐性力」とでもいうものが必要だ。それが志賀には作れなかったか、あるいは性分に合わなかった。実際にも『暗夜行路』だけ書いて、あとは短篇か随筆ばかりだった。しかしそれでも、志賀は『暗夜行路』に前後25年を注いだのである。しかもそれを完成させることが、自分の天分を問うものだというほどの意志をもってとりくんだ。志賀には晩年に綴った『創作余談』とか『続創作余談』という自作解説のようなものがあるのだが、それには、「文字通り生命を打ちこんだ」とあるし、「創作の仕事は其人の所謂天分にもあるが、それ以上により進んだ良き作品を作らうといふ不断の意志が必要である」ともあって、「さらに一方からいへば此意志を持ち続けられるといふ事、それが既にその人の天分であるとも考へられる」とも綴っている。
 それにもかかわらず『暗夜行路』は稀にみる難産となった。途中で何度も放棄しようとしていたはずだが、それを書き了えた。結果、小説としての評判はむちゃくちゃだった。毀誉褒貶がばらばらだ。河上徹太郎は「現代最上の恋愛小説」だと言うし、中野重治は「拵えものだ」と言った。小林秀雄(992夜)は「確かな智慧だけで書かれてゐる」と評し、本多秋五は「骨ばかりの小説である」と腐(くさ)した。中村光夫は「あきらかに失敗作だ」と詰(なじ)り、小川国夫は「『和解』と『暗夜行路』が日本文学史で最も秀でた峰」と褒めた。
 つまりは『暗夜行路』は各人に等しくひっかかるものを残したのである。失敗作か成功作かさえ定まらないのに、だ。
 それだけでなく、志賀は『暗夜行路』を含めて私小説の原型も、反私小説の原型もつくった。「私」を小説にする作法と反作法とでもいうものだろう。『暗夜行路』の前段にあたる『和解』は私小説の絶品として神棚に上がっているほどなのである。なぜ、そんなことが志賀にできたのか。気まぐれではないだろう。というようなわけで、謎の『暗夜行路』が大きく志賀直哉自身の謎として覆いかぶさってくることになるわけである。

実は、私は『暗夜行路』は読んでないんです。
まあ、いいよ。いつものことだから(笑)。
時任謙作っていう主人公ですよね。
『暗夜行路』を書く前に、エチュードのような『時任謙作』という作品を書いているんだね。それをだいたい踏襲したので、主人公は時任謙作のまま。
志賀直哉自身のことですか。
まあね。おおむねは実際に志賀の身におこったことがあれこれ組み合わせを変えて綴られているね。ただしここにはひとつ、大きなフィクションが加わっているんだね。お栄に惚れるというフィクション。
お栄?
うん、祖父のお妾さん。いろいろ思案したあげくに、このフィクションを仕掛けたことが、この小説に次から次へと「変」をおこす理由になっているんだろうな。
やっぱり読んでみようかな。
母が死に、まったく馴染みのなかった祖父のもとに引き取られて育った時任謙作は、自分が母からは愛されていただろうが、父にはなぜか冷たく扱われているという感想をずっともっていた。
 祖父も亡くなり、青年となった謙作は祖父の妾だったお栄と暮らすようになった。やがて作家をめざすつもりになった謙作は、伯母の娘の愛子が好きになり求婚してみるのだが、容れられず、そのことで心に傷を負ってしまった。謙作の求婚問題で父と兄と伯母がとった態度にも、なんだか不可解なところがある。自分は父や愛子のみならず、誰からも愛されないのではないか。謙作は自己嫌悪をかこち、一人で暗い行路を進んでいる自分を感じるようになっていく。
 気晴らしに遊蕩をしてみた。吉原などの花柳界に遊んでみると、自分が実はお栄が好きだということに気がついた。が、それこそは禁断の愛である。謙作はこの苦悩から逃れ、これまでの生活を清算するために尾道に行く。家を借り、創作に打ちこもうとした。けれどもどうにも落ち着かない。四国に旅に出てみたが、その途中ではむしろお栄に対する春情が募るばかりだった。尾道に戻ると、自分がお栄と結婚したいのだという気持ちを手紙に書いて兄の信行に送った。
 兄から返事がきた。そんなことは大反対だし、お栄もむろん不承知であることが書いてある。それとともに、そこにはさらに恐ろしいことが告げられていた。
 謙作が父の子ではなく、父の外遊中に祖父と母とがかりそめに交わったときの子だったというのである。このことは、謙作が幼少期このかた漠然と感じていた懸念の正体をあかした。自分は「不義の子」だったという正体だ。兄はお前がこのことを知ったらといって、いまのお前はもう参らないだろうというのだが、謙作はこのような自分の正体に参ってしまった。
 が、これで謙作はふっ切れざるをえなかった。創作に打ちこむことこそ「唯一の血路」だと決意した。そこへまた兄からの手紙がきて、父がお栄を追い出そうとしているとあった。お栄が謙作に結婚の思いを抱かせたというのが気にいらないのだ。
 かくて謙作は尾道を引き上げて上京し、ついにお栄とともに大森で暮らすことになる。むろんこんなことがうまくいくはずがない。謙作は以前にまして遊蕩に耽り、精神の彷徨はますます暗夜行路する。
それって、けっこうおもしろいじゃないですか。
そうかな。じゃあ読んでみるといいよ。でも問題はこの程度の筋書きにあるだけじゃないからね。
何にあるんですか?
生き方と考え方の並木路にある。
でも、それが暗夜の行路なんでしょ?
まあね。
だったら読みたい。
いや、話はまだ続くんだよ。
あるとき、京都に行った。しばらく逗留していると気分が和んでくるのを感じた。自然や古寺や古美術が謙作の心を紛らせてくれたのだ。散歩をしていて、ふっくらとした面立ちの娘に出会った。「鳥毛立屏風」の美人のようだと思い、恋心が芽生えるのを感じた。いや、そのように作り上げたいと感じた。これが直子である。
 謙作は直子と結婚した。こうなれば子供もつくりたかった。が、最初に生まれた子は丹毒に罹って死んでしまった。「何か見えざる悪意」が動いているようだった。
 お栄のほうは独り立ちをする気になっていた。才子にすすめられて天津で商売をやることにした。が、お栄にも悪意がはたらいているのか、商売は失敗し、京城で無一文でいるという知らせが入った。謙作はお栄を京城へ迎えに行くことにする。お栄を連れて帰ってくると、妻の直子が従兄の要(かなめ)に不用意に犯されたという告白を聞かされた。謙作はくらくらとする自分を抑えきれなくなっていく。
 それからの謙作は直子とのあいだに新たに子を得るとともに、そこへお栄を同居させるという生活になっていた。どうしても従兄と交わった直子との溝が埋められないのである。謙作はふたたび旅に出る。
 伯耆の大山(だいせん)にさしかかった。山頂をめざし、周囲の景物にとけこんで、途中に迎えた曙光を眺めているうちに、名状しがたい感動がやってきた。やっと解放感がおとずれた。けれども下山すると、発病して倒れてしまった。
 急ぎ病院にかけつけた直子は、謙作の手をとって涙をこらえている。謙作は直子の顔をじっと眺め、「私は今、実にいい気持ちなのだよ」と言った‥‥。
ここで話が終わっている。
えっ、「私は今、実にいい気持ちなのだよ」でですか。
うん。
それって変ですね。
そうだろ。それが『暗夜行路』のなかでずっと続いているんだね。できるかぎり筋立ての齟齬を感じないようにダイジェストしてみたけれど、それも適わないような無理もある。
やっぱり変ですか。
うーん、変だね。この実感を何といえばいいかというと、志賀直哉の悶々とした模索の跡が消え切らないままに、妙に誠実な結末に軌道修正されていると言えばいいかなあ。だから筋書きはお世辞にもおもしろいとは言えないし、時任謙作にも他の登場人物にも、きっと読者は感情移入すらしにくくなっていると思うね。
じゃあ、読んでも入っていけないですかねえ。
そりゃあ、人によるよ。ぼくは入ってはいない。だから、これはプロとしては失敗作だろうね。そう言ったほうがいい。そう言ったほうがいいのだけれども、そのこととね、志賀がこの作品に賭けた意図とは別なんだよね。
どういうことですか。
たとえば黒澤明(1095夜)スタンリー・キューブリック(814夜)の映画の、何を見るのかということと似てるだろうね。失敗作と言われている『隠し砦の三悪人』や『バリー・リンドン』にでも、映画作家としての意図の凄まじさを感じることもあるわけだよ。
そうか、そういうことですか。松岡さんならそういう志賀直哉を擁護したいということですか。
擁護とか批判とかということじゃないんだね。まあ、あの着流しの爺さんには会ってはみたかったかな。
志賀邸にて。左より志賀、武者小路実篤、里見とん
(昭和26年)
志賀直哉は石巻に生まれて2歳のころに東京に移った。父の直温(なおはる)は慶応義塾を出て渋沢栄一の国立第一銀行に勤めていたが、東京では文部省に入り、そのうち頭角をあらわして経済界に転じると、総武鉄道の役員や東洋製薬の会長や帝国生命の取締役を歴任した。
 志賀自身が言っていることだが、総武鉄道を辞めるときは3万円をもらっている。「3万円といふと一ト財産だ。それを株を買ったり色々なことをして殖やしていった」らしい。だから志賀は裕福に育った。が、こういう父に志賀は馴染めなかった。父には趣味もない。交詢社ビルに行っては牧野伸顕や松方正作らと碁を打っていればよかった。
 志賀が馴染んだのは祖父の直道のほうである。祖父は二宮尊徳の弟子筋にあたっていて、日光今市にしばらくいたのち相馬家に家令として仕えた。たいへんハイカラな男だったようで、一日3回をパン食にしたり、オートミールを好んだりした。ただ、恩義のある古河市兵衛が渡良瀬川の鉱毒事件に巻きこまれてからは沈思するようになり、仏教や禅学に傾いた。祖父の理想は一筋に尊徳と白隠(731夜)になっていった。そういうところに惹かれたのかどうかは知らないが、志賀は長らく父よりも祖父に好感をもちつづけた。
 明治22年(1889)、学習院の初等科(そのころは虎ノ門)に入った。お濠を前にした立派な煉瓦造りの建物で、教室にはスチーム暖房が通っていた。『奥津』に綴られているように、ここでは少年は相撲や棒取りやエビ掬いに夢中になっている。そういう少年期の志賀に最初におこった事件は母親の死である。13歳のときのことだが、すぐに浩(こう)という24歳の新しい母が来た。
 この母の交代は迅速だったようで、志賀に妙な感興をもたらした。母の死の悲しみに深く陥るということもなかった一方、意外にも、いわゆる継母を迎えた少年としての辛い体験など何もなかったようなのだ。有名な『母の死と新しい母』では、義母に対する「淡い一種の得意」というものが誇らしげに綴られている。ちなみに志賀は生涯にわたって、決して“継母”とは書かず“義母”と綴りつづけた。新たな母は志賀に仄かな恋心をさえ芽生えさせたのだろう。けれどもその母が父の新たな伴侶でもあることには抵抗もあった。このあたりが志賀が青年になるにつれ、ちょっとした溝というか、奇妙な鳩尾(みぞおち)の感覚になっていく。紅葉(891夜)の『金色夜叉』や鏡花(917夜)の『化銀杏』や徳富蘆花の『不如帰』などを熱心に読んだのは、そういう心情とも関係があったろう。
鳩尾ですか。
うん、鳩尾。そのあたりで見るほうがいいと思ってね。背中じゃないな。
私ら、胸キュンのほうですから、そこがちがいますね。
丹田じゃないね。うん、志賀直哉は鳩尾だよ。
麻布三河台に移っていた家に末永馨という書生がいた。18歳のとき、この書生が志賀を内村鑑三(250夜)の講演会に連れていった。かなりの感化をうけた。『内村鑑三先生の憶ひ出』には、自分が生涯で影響をうけたのは祖父と内村先生と武者小路実篤の3人だと書いている。おそらくは「意思」というものを貫くことを受信したのだ。けれどもキリスト教には靡いていない。
 ところで志賀は学習院中等科を3年から4年に進級するときに、落第をしていた。あまりベンキョー好きではなかったのだ。正義や感動には弱かったし、小説を読むのは大好きだったけれど、社会的努力は嫌いだった。そのせいか、20歳で6年になるときも落第した。当時の学習院中等科は6年制だったから、6年原級に留めおかれたのである。
 このとき、1級下の木下利玄・正親町公和・武者小路実篤・細川護立らと同級になった。ここから武者小路との交遊が始まる。それとともにのちの白樺派の動きも始まった。みんな文芸好きだったのだ。高等学科に進んだ志賀も、半分は遊び気分で童話っぽい『菜の花と小娘』を書く。読んでみたが、他愛のないものだ。
学習院を出ると、東京帝国大学の英文科に入った。ここでまた事件がおこった。ひとつは祖父の死であるが、もうひとつは志賀家の女中に惚れた。惚れただけではなく結婚をする約束までしてしまった(この女中の名前はいまなお伏せられている。阿川弘之は「千代」という仮名にしている)。
 けれども、これに父親が猛然と反対をする。武者小路やその叔父の勘解由小路(かでゆこうじ)資承らがあいだに入ったのだが、まったく融和はおこらない。父親は女を捨てるか家を捨てるか二つにひとつと言明し、志賀は家を出る覚悟を決めた。養鶏でもやろうと思ったのだ。
 なぜ養鶏をしようとしたのかは、わからない。上田三四二(627夜)の『島木赤彦』には、島木が小学校の教師をやめて「文学と養鶏に専念する」というくだりが出てくるが、当時は食えない文学者が養鶏にをするというのもひとつのハヤリだったと上田は書いている。が、志賀にはそんなことはできない。口先だけだ。養鶏もできなかったし、結婚もなんとなくあきらめた。ともかくも志賀直哉という人物、からっきし社会的実践力はない。ただ、ひたすら内面の意思ばかりが強いのだ。
 大学も3年のときに国文科に転科するのだが、まもなく中途退学をする。こういうところにも、社会の欠如があらわれている。しかもこのころは昼過ぎまで寝ていて、夕方から悪所通いをするような日々だったのである。ただ、父親との亀裂は広がる一方で、鳩尾の溝は深まっていくばかり。『青臭帖』や『大津順吉』には当時の自分を評して、「不愉快で元気のない顔」とか「何処か不均衡な所のあるのは自分でも感じてゐた」とある。
なんだか自己リアリストっぽいですね。
でも、社会が欠けている。
社会の欠如ですか。
ぼくは生活の欠如だけれど、志賀直哉は社会の欠如だね。その後の作品や随筆を見ても、戦争についても関東大震災についても、大逆事件についても社会的犯罪についても、ほとんど何も書いてない。
それなのに国語をフランス語にしたらどうかなどとは言ったんですね。
口がすべったんだよ。
白樺派のメンバーになったのは?
あれも志賀直哉にとっては社会じゃないね。
明治43年(1910)、28歳になっていた志賀は「白樺」の創刊に参加した。すでに学習院出身者によって「望野」「麦」「桃園」という同人誌が出ていたのを合同させたものだった。
学習院出身者による文学読み合わせ会「一四日会」の会合
右より、直哉、木下利玄、正親町公和、武者小路実篤
このグループの活動が「白樺」創刊に発展
武者小路・木下・正親町・志賀に加えて、里見とん・児島喜久雄・柳宗悦(427夜)有島武郎(650夜)・細川護立が、さらに梅原龍三郎・津田青楓らが加わった。志賀は創刊号に『網走まで』を書く。何のおもしろみもない。
 志賀にとっての白樺派については、とくに説明したいことはない。白樺派がユニークなのは、そのメンバーシップなのである。島崎藤村が、あの人たちは遊び半分なのだろうからそのうち苦しい目にあえば文筆を捨てるだろうと言ったことに、志賀がずっとこだわって反発をしつづけたことを記すにとどめる。また、のちには友情を取り戻す武者小路に、いっときの怒りで絶交を叩きつけたりしていたことを言い添えるにとどめる。
 30歳になった。父親との不和はあいかわらず進行していて、いたたまれないものになっていた。ここで志賀はついに行動をおこす。尾道に行ったのだ。志賀には社会的実践力はないのだが、引っ越しや旅行にはめっぽう強い。このときも尾道転居がもたらしたものが大きかった。いよいよ『時任謙作』にとりくんだのだ。その『時任謙作』に難産したことはすでにのべた。が、これは最初から難産したのではなく、漱石から東京朝日新聞での連載小説を頼まれて、それを『時任謙作』にしようとしてから、つっかえた。尾道から引き上げ、東京でとりくんでも筆は進まない。そのあいだに、城崎温泉に行くのだが(これが『城ノ崎にて』になる)、気をとりなおしてまた尾道に戻って書いても、何もまとまらなかったのだ。結局、漱石に詫びを入れ、連載小説は沙汰止みとなった。物語の構造を作りえなかったこと、連載の序破急に自信がもてなかったこと、漱石にに対する負い目、いろいろ原因があろう。が、一番の解決策は新聞連載を降りることだったのである。これでホッとした志賀は、32歳のときに武者小路の叔父の勘解由小路の娘を貰うことになる。康子(さだこ)である。
 が、これまた父親が反対するところとなった。志賀は憤然として康子を連れて鎌倉へ、赤城へ移り、さらに上高地・京都・奈良を長期旅行して、我孫子に転居してしまう。そのあと長女が生まれるのだが、まもなく死亡。またまた信州・山中温泉・京都・奈良を旅行しつづけた。それ以外の手がなかったのである。しかし、そのような志賀であればこそ、旅先で見聞したことがしだいに名文に昇華できたわけでもある。
 つまりはいつも感情に左右されていて、その自分と闘いつづけていたのが志賀直哉なのである。
武者小路実篤邸にて(大正6年)
後列左より金子洋文、一人おいて武者小路、柳宗悦、志賀、康子
前列左より柳兼子、武者小路房子、武者小路喜久子
連載小説が書けないんですか。
そうなんだね。新聞小説は社会に近いものだしね。
それじゃ、隠遁者っていうことですよね。
そんな高邁な感覚ではないだろうね。存在は高邁だけれど、思想はタオでもないし、隠逸でもない。
それって変ですよ。
だから変だと言ってるわけよ。
大正6年(1917)、35歳の志賀に思いがけないものが訪れる。あれほど嫌っていた父親との不和が魔法のように解消されるのだ。このことについては『和解』にかなり丹念な経緯が書かれているのだが、これを小説ではなく、志賀が実際にどのような鳩尾を経験し、それがどのように実際の父親との和解に至ったのかというドキュメンテーションとして読もうとすると、どうも釈然としないものがある。
 ありていにいえば、父との不和がそれほど大きいものとは見えてこないし、それゆえその父との和解が男児一生の光明になるとも見えてこないのだ。それなのに志賀はこのことを契機に変わっていく。まるでフィクショナルな「父との闘争」を巧みに内化することによって、新たな“文中の志賀直哉”づくりにとりくんでいったかのようなのだ。
 それは、こんなところで比較するのもたいそうだけれど、ドストエフスキー(950夜)フロイト(895夜)の「父との闘争」にくらべて、なんとも草花の萎れと蘇生のように、どうにも繊細で微妙なものであったのだ。
 しかし、これが志賀直哉なのである。志賀直哉という文人なのである。こうして39歳のとき、志賀はついに『暗夜行路』によってすべての志賀直哉を描きうるとして、その前編を「改造」に発表した。
で、どうなったんですか。
このあとの志賀の人生を追うのはやめようよ。これからあと、89歳に及ぶ淡々たる人生が待っているんだけれどね。
淡々って何をしてたんですか。タオでもなく隠逸の士でもないんでしょ。
ここからは美術工芸に耽溺したり、奈良に居を構えたり、寂しいからいつも人を招いたりするんだな。そういう淡々。
それだけですか。
うん、それだけ。54歳のときには『暗夜行路』後編の最終部分を書き上げて発表するけどね。66歳のときは文化勲章を受賞する
それって、松岡さんがわざと変なふうに言ってるだけじゃないんですか。
そう思うなら、自分で読んだり調べたりすればいい。ぼくはこの程度だね。
じゃあ、せめて松岡さんが勧める作品をあげてください。
たくさん読むといいと思うよ。ライトノベルなど読むよりはいいだろう。「にもかかわらず」がいろいろ感じられてくる。
あえて言うと?
そうだなあ、『真鶴』とかかな。
はい。では、志賀直哉という人物を一言でいうと?
困った人(笑)。じゃなければ、向きな奴かな。
ムキになる人?
うん、そうだね。
松岡さんはムキにはならないんですか。
ずうっとムキになっている。ただし志賀直哉とは別のところでね。ぼくはどちらかというと、じっとしてるほうだしね。
ひょっとして同じ向きだったりして(笑)。




(私論.私見)