暗夜行路(あんやこうろ)解説

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「暗夜行路(あんやこうろ)解説」をものしておく。「暗夜行路」を参照する。

 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


 「暗夜行路」(あんやこうろ)は、 「小説の神様」と評されていた志賀直哉 の長編小説である。 「小説の神様」 というのは、志賀直哉の短編小説「小僧の神様」からきた呼び名で、文章のうまさがそう評された。「写実の名手と」してよく知られ、その文章には削り落とした美学のようなものがある。「対象を鋭く正確に捉え、簡潔な言葉で表現できる作家」として評価されている。「無駄を省いたその文体は、文体の理想の1つとみなされており、文章練達のために模写の題材とされるほどです」の評がある。原稿の手直しをする推敲の際、普通は分量が増えることが多いが、志賀直哉はどんどん削っていった逸話を遺している。新潮文庫の解説にも書いているが、志賀直哉の文章についての夏目漱石と芥川龍之介のやりとりが有名。「焚火」という短編についての文学論争も非常に興味深い。短く簡素かつ力強い文体に定評がある。

 物語の主人公は、志賀直哉自身がモデルと思われる時任謙作。彼の壮年期数年間の話を綴る小説で前篇と後篇に分かれている。前篇と後篇にはある大きな爆弾とも言える出来事がそれぞれ隠されていて、かなりショッキングな内容になっている。どちらの出来事も対になるというか重なり合って響くような構造になっていて、主人公の時任謙作、そして読者の胸に重苦しいものが残る。

 当初は 1914年 (大正3年)、31歳のとき、「時任謙作」 という題で「東京朝日新聞」に連載予定で大正元年から着手したが、挫折。38歳の時、雑誌「 改造 」に 1921年 (大正10年)1月号から8月号まで前編、 1922年 (大正11年)1月号から 1937年 (昭和12年)4月号まで断続的に後編を発表した。後編は昭和12年(54歳)に完結。 志賀直哉唯一の 長編小説 で、晩年の穏やかな心境小説の頂点に位置づけられる作品である。 4部構成で、発表されるまでに16年余を費やしたといわれている。岩波文庫など複数の出版社が単行本・文庫本を出している。

  志賀直哉 著「続創作余談」 (昭和13年06月)が次のように明かしている。
 「私は作品によつて、樂に出来る事もあるが、時々随分手古摺る事がある。「暗夜行路」は中でも手古摺つた物と云へるが、本統に手古摺つたのは「暗夜行路」の前身である「時任謙作」といふ所謂 私小説の時だつた。大正元年の秋、尾道にゐた頃から書き出し、三年の夏までかかつて、どうしても物にならなかつた。夏目さんから手紙で、東京朝日新聞に出すやうに勧められ、その気で書いてゐたが、新聞の読物故 豆腐のぶつ切れは困るから、その心算 ( つもり ) で書くやうにというやうな夏目さんからの注意があり、これには困つた。 (中略) それまでが白樺の同人雑誌で何の拘束もなしに書いて来た癖で一回毎に多少の山とか謎とかを持たせるやうな書き方は中々出来なかつた」。
 創作のキッカケにつき、『続創作余談』が次のように記している。
 「私が物心つかぬ頃、父は釜山の銀行へつとめてゐた事があり、しかも其時私の母は東京に残つてゐた。それに、私が十三の時に三十三で亡くなつた母の枕元で、祖父が「何も本統に楽しいと云ふ事を知らさず、死なしたのは可哀想なことをした」と声を出して泣いた。父は其時泣かなかつた。此印象は後まで私に残つてゐて、父に対する反感になつてゐたが、自分が若しかしたら祖父の子ではないかしらと云ふ想像をすると、かう云ふ記憶が急に全く別な意味をもつて私に蘇つて来た。 ~中略~月夜の屋島の淋しい宿で寝つかれぬままに私がした想像は如何にも馬鹿気たものだつた。翌朝起きた時には自身それを如何にも馬鹿馬鹿しく感じたが、私は安孫子で今は用のなくなつた書きかけの長編を想ひながら不図此事を憶ひ出し、さういう境遇の主人公にして、それを主人公自身だけ知らずにゐる事から起る色々な苦みを書いてみようと想ひついた。此想ひつきが「時任謙作」から「暗夜行路」への移転となつた」。

 志賀直哉は、尾の道で長編『 時任謙作 』を書いていた時、讃岐へ旅行をスル。屋島に泊つた晩、寝つかれず、色々と考へている内に、「若しかしたら自分は父の子ではなく、祖父の子ではないかしら」という想像をしたことがあリ、これが暗夜行路執筆の経緯となった、と云う。


暗夜行路あらすじ】
 「序詞」という短い章で、時任謙作(ときとう けんさく)の〈私〉という視点で物語が描かれる。幼いころ母を亡くし、父や兄から離されて祖父の所に引き取られる。祖父の家にはお栄という若い女性がおり、これは祖父の愛人らしい。こうして祖父一家の人となる。祖父亡きあとは、祖父の愛人だったお栄と暮らす。生活費は父からの仕送りで、小説を書いて日々すごしている様子である。父親と相撲をとって泣いた話が出て來る。父親との確執の萌芽が見て取れる。父子の対立は志賀直哉小説の大きなテーマとなっている。

 前篇に入ると、謙作の祖父の家での暮らしぶりが描かれる。謙作が成長し、竜岡、阪口との三人交流の様子が描かれる。一緒に芸者の所に行ったりするようになる。そこで、登喜子を見初める。しかし男女の中には発展しない。謙作と竜岡の交流は続き、阪口は登場しなくなり、その位置の者が次から次と登場し始める。登喜子の位置に別の女性が次から次と登場し始める。或る時、謙作は愛子という、母の幼馴染の娘に結婚を申し込む。が、思いがけぬことに体よく断られる。自尊心を傷つけられた謙作は芸者遊びに熱中する。その挙句に、お栄を意識するようになる。但し、お栄は祖父の愛人であり、謙作より20も年上の人である。やがて悶々とし始めるが男女の中には発展しない。謙作は次第に寝不足に陥るようになる。この頃、無二の仲良しの竜岡が渡欧する。淋しくなった謙作は同時に神経を傷めていることを知り、心機一転を図り西国への旅を決意する。ここで、前半の第一部が終る。 

 前半の第二部は、お栄、宮本らに見送られて横浜港を出港するところから始まる。伊豆を通り紀州海岸を経由して神戸へ着く。そこから汽車に乗って尾道へ辿り着く。なぜ尾道なのかそれは分からない。ここから本格的に第二章が始まる。尾道の宿を借り、やがて千光寺の山の中腹にあった長屋の一つを借りる。「時任謙作」の執筆に向かう。但し思うようには捗らない。そうした或る日、鞆を経由して金毘羅に向かう。それにしても中々大山に辿り着かない。乗り掛かった舟だからしゃあない読み続けるしかない。尾道から汽船に乗り鞆の津経由で四国讃岐の多度津に渡った。金平神社を参拝し高松の栗林公園に行った。


 ひとり尾道へ転居する。 小説は書けず、金毘羅詣りなどして孤独を感じた末に「お栄と結婚しよう」と、唐突に思う。






 やがて謙作は奥さんが欲しいと思うようになる。前篇は奥さんを探す話になる。奥さんにしたい娘がいるがなかなかうまくいかない。別の女性との結婚も考えるが、そちらもなかなかうまくいかない。やがてその大きな理由が明らかになる。これが第一の爆弾。謙作はショックを受けるが、それを受け止め、人生に立ち向かっていこうとする。自分の父親が祖父であるという出自。そんな暗い出自を持つ自分の運命に悩み、東京を離れるまでが前編。 (志賀直哉は父と仲たがいした後、和解しているが、出自に関しては想像の産物で自分がモデルではない)


 後篇も奥さんを探す話が続く。舞台が京都に移り、謙作は東京で送っていたような遊蕩生活から脱却。謙作は結婚し、赤ん坊も生まれる。この2人がなかなかいい。奥さんは本を読まない人だが、それでも読もうと思う。謙作は読まなくていいと言う。その方が仕事がしやすいと言う。2人の関係は微笑ましい感じ。特に夜道で手を握る場面。謙作は奥さんと一体になったと感じる。

 ある悲しい出来事が起こる。しかし、彼の留守中に妻の直子がいとこと過ちを犯してしまう。こどもにまつわる出来事。幸せな夫婦生活に翳りが見える。ちょっとぎこちない関係になる。謙作は旅に出る。そして家に帰るとちょっと嫌な状況になっている。そこからまたもう1つの大きな爆弾が出てくるす。こちらはかなりショッキング。謙作は思い悩む。自分では自分の感情を処理したと思う。ところが鉄道での場面など、発作的に癇癪を起こしてしまうことがある。時任謙作は元々が短気な人間でとても大きな器とは言えないが、それでもその鬱屈した感情はすごく共感できる。謙作は、自分持つ嫌な出自故に、その過ちに囚われると悪い方向にどんどん行ってしまうと考え、直子を赦そうと心に決める。その後のある日に起こった出来事は衝撃的だ。皆で宝塚へ行こうという日。駅のトイレで赤ん坊のおむつを替えていて遅れてやって来た直子が、走り出した列車に飛び乗ろうと列車の踏み台に片足をかけたところを、先の乗っていた謙作は、彼女の胸を突いて列車から振り落としたのだ。全くびっくりした。夏目漱石の『こころ』で主人公の友人が自殺してしまうのと同じくらいの衝撃。幸い直子に大きな怪我は無く脳振とうぐらいで済んだのだが、心に受けたショックは計り知れない。 直子はこう応える。
 「貴方が私の悪かった事を赦していると仰有りながら実は少しも赦していらっしゃらないのが、つらいの。発作、発作って、私が気が利かないだけで、ああいう事をなさるとはどうしても私、信じられない。・・・貴方は貴方が御自分でよく仰有るように私を憎む事でなお不幸になるのは馬鹿馬鹿しいと考えて、赦していらっしゃるんだと思う。その方が得だというお心持で赦そうとしていらっしゃるんじゃないかと思われるの。・・・今度のような事があると、やはり、貴方は憎んでいらっしゃるんだ、直ぐそう私には思えて来るの。そしてもしそうとすればこれから先、何時本統に赦して頂ける事か、まるで望みがないように思えるの」

 この後、謙作は鳥取の大山へ旅立ち、二人はしばらく別居生活を送ることになる。謙作と車夫が大山の連浄院へ向かう。高原の花々が咲く細い道を、謙作は人力車で登っていく。こんな描写がある。
放牧の牛や馬が、草を食うのを止め、立ってこっちを眺めていた。ところどころに大きな松の木があり、高い枝で蝉が力一杯啼いていた。

 走る人力車に興味をもったのか、草を食う牛や馬が食べるのをやめて、<こっちを眺めていた>というのは、高原の、のどかな夏の風景のイメージをふくらませてくれる。

 茶屋へ寄ると、謙作は車夫に<めしと酒>を注文し、あまり飲めない自分は、<菓子とサイダー>を頼む。六十歳くらいの<ばあさん>が、茶屋をきりもりしている。そこには、八十近い白髪(しらが)の老人もいた。老人は、「立てた長い脛を両手で抱くようにして」、峠から下に広がる海を、黙って眺めている。

広い裾野から遠く中の海、夜見ケ浜、美保の関、更にそと海まで眺められる景色を前に、静かに腰を下ろしている。老人は謙作達が入ってきたのも気付かぬ風で、遠くを眺めていた。
 下痢をした後に夜登山をした謙作は、途中、苦しくなりひとり引き返すことにする。自然の中に身を置き夜明けを待つ謙作は、ある幸福感を味わう。
 “疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒ほどに小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、―それに還元される感じが言葉に表現出来ないほどの快さであった。何の不安もなく、睡い時、睡(ねむり)に落ちて行く感じにも多少似ていた。・・・彼にはそれに抵抗しようとする気持ちは全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。”

 そして、世話になっている寺にもどると、熱を出し床に伏せってしまう。医者の診断は腸カタルで命に別条は無いというが、どうも容態がよくない。京都から直子が駆けつけ、横になった謙作と対面する。

“謙作は黙って、直子の顔を、眼で撫でまわすようにただ視ている。それは直子には、いまだかつて何人にも見た事のない、柔かな、愛情に満ちた眼差に思われた。「もう大丈夫よ」直子はこういおうとしたが、それが如何にも空々しく響きそうな気がして止めたほど、謙作の様子は静かで平和なものに見えた。・・・謙作はなお、直子の顔をしきりに眺めていたが、暫くすると、「私は今、実にいい気持なのだよ」といった。”
 心臓が弱っているらしい謙作が助かるのか駄目なのかはわからないまま、この長編は終わるが、直子が感じたのと同じように、ここで謙作が逝ってしまったとしても、それでよし、と思われる。謙作も直子も幸福感に包まれたラストである。

 志賀直哉は『続創作余談』で次のように書いているという。
 『暗夜行路』は、出生から来る一種の運命悲劇で、その運命をできるだけ賢く、意志的に抜け出そうと努力する事が筋といっていいもので、やはり(メーテルリンクの)『知恵と運命』の影響は受けているものだ。運命的に来る不幸は賢愚によらず来るもので、いかんともしがたいが、それをできるだけ賢く切り抜けたいというのが『暗夜行路』のテーマになっている。

 『暗夜行路』には、寺の軒先で小便を垂れ流しながら寝ている乞食や、ほとんど外界に関心をもたないで風景を眺めているこのような老人が、描写される。そして、謙作の彼らをみつめる眼は優しく、一種の共感すら含んでいるようにかんじられる。謙作は、サイダーで暑さをしのぎながら、老人が見ている遠い景色を眺める。

この老人にすればこれは毎日見ている景色であろう。それを厭かずこうして眺めている。一体この老人は何を考えているのだろう。勿論将来を考えているのではない。又恐らく現在を考えているのでもあるまい。長い一生、その長い過去の色々な出来事を老人は憶い出しているのではあるまいか。否、それさえ恐らく、今は忘れているだろう。老人は山の老樹のように、或いは苔むした岩のように、この景色の前に只そこに置かれてあるのだ。そしてもし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。謙作はそんな気がした。彼にはその静寂な感じが羨ましかった。

 つげ義春の作品「峠の犬」では、人になつかない野良犬が、峠から、ひとり遠い景色を眺めている意味深いシーンがある。そこに、つげは義春は、「この犬は何を考えているのだろう。犬には犬の考えがあるのでしょうか」という意味の文章を、吹き出しに書いている。このマンガを見たときも、わたしは、『暗夜行路』のこの老人を連想した。

 そのすぐあとに、仔猫の描写が出てくる。動物を描くとき、志賀のペンはひときわ冴え、読んでいて、おもわず頬がゆるんでしまう。

老人のいる左手の壁に寄せて、米俵が幾つか積み上げてあった。その後ろで先刻(さっき)から何かゴソゴソ音がしていたが、不意に一匹の仔猫がそこから米俵の上へ現れた。仔猫は、両方の耳を前へ向け、熱心に今自分の飛出して来たところを覗き込んでいた。そして身体は凝っとしているが、長い尾だけが別の生き物のように勝手に動いていた。すると、下からも丸い猫の手がちょいちょい見えた。

 このあと、車夫と茶屋のばあさんの、猫についてののんびりした話が続く。そして、そのあとで、再び二匹の仔猫と、さらに親猫が登場する。

老人は置物のように尚皆の方へ背を向けたままでいた。二匹の仔猫は俵の上で上になり下になりふざけていたが、そのうち誤って一匹が俵から下へ落ちた。落ちた仔猫は急に興ざめのしたキョトンとした様子で哀れっぽい声で二声三声啼いた。どこからか急いで親猫が出てきて仔猫の身体を嘗めてやった。

 ごく自然に、老人の静寂さと、仔猫たちの生き生きした言動が対比されている。

“小説の神様” と呼ばれる志賀直哉の文章は、実に簡潔だ。 『暗夜行路』 に次の一節がある。

謙作は身をずらして、寝床に空き地を作ってやった。直子は元気なく起きかえって、来て、そこへすわった。憂鬱な、無表情な、醜い顔をして、ぼんやりと床の間のほうへ目をそらしていた。そこへさっきひどく喜んだ壺や箱がある。

どんな場面かというと、主人公の謙作はある事情があって、愛妻(直子)を国に残して長い旅に出る。しかし、謙作がいない間に、直子は従兄弟と過ちを犯してしまうのだ。ようやく謙作が家に戻り、楽しい土産話も一段落した就寝前のこと、謙作は直子がどことなく不自然なのに気づくのだ。

直子に同情の余地がないわけではないが、その時の彼女の表情は 「哀しげ」 ではなく 「醜い」 のだ。 そのずばりと書く、乾いたタッチが実に志賀らしい。

そして、文は、「そこへさっきひどく喜んだ壺や箱がある」でプツリと切れる。後は書かないのだ。

その 「壺と箱」 は、直子を喜ばせるために謙作が旅先で苦労して探してきた“妻への愛の証し”であり、さっき直子はそれに大喜びしたばかりなのだ。そして、今は、その「壺と箱」が直子の視線の先にある。ふと目をそらした視線の先で、彼女の網膜に「壺と箱」が像を結んだ時、彼女の内面に湧き上がっただろう感情は「絶望」とか、「悲しみ」とか、「慚愧の念」とか、「後悔」とか、そういった類だと思うが、そうとは一切書かれない。

そう書いてしまえば、「絶望」とか何やの、ただ言葉の概念としてしか読者には伝わらない。しかし、書かないときには反対に、私達は登場人物の感情をその行間に思い浮かべる。私達は、直子とともに「目をそらし」、直子とともに「壺や箱」を見て、そして直子とともに絶望する。

志賀の文章は、こういった書いたり書かなかったりするバランスが絶妙なのだと思う。

それを信頼する兄、信行に手紙で打ち明けると「お前は祖父と母の子だ。父の子ではない」という手紙をもらいます。

憔悴して東京に帰った謙作は、またお栄と暮らします。居を移し心機一転のつもりでも、ますます虚ろになる謙作。兄、信行は会社をやめ、禅の修業を始めます。

「後編」あらすじ

京都へ来た謙作は、ひとりの女性に目を留めます。直子といい、「鳥毛立屏風」風の美女です。信行や友人の奔走で話は順調に進み、二人は結婚します。お栄は、旧知の女性と天津へ旅立ちます。

初冬に結婚し、秋には直子の出産。ところが、お栄が大連でひとり窮地に陥っていることが分かります。そんな矢先、生まれたばかりの男児が丹毒で亡くなってしまいます。

出産の日、演奏会でシューベルトの「魔王」を聴いていた自分を、悔やむ謙作。苦しむためだけに生まれてきた我が子を境に、無邪気だった直子も病に苦しみます。またも運命に苦しめられる自分を感じます。

気分転換を兼ねて、京城までお栄を迎えにいく謙作。ところがお栄を連れて京都に帰ってくると、直子が従兄の要に無理やりの関係をされていたことが判明。また運命に苦しみつつも、謙作は「自身の内にあるものとの闘争」という思いに至ります。長年の友人の末松は「それでいいのじゃないかな。それを続けて、結局憂いなしという境遇まで漕ぎつきさえすれば」と、励まします。

直子の妊娠が発覚。自分の子であることに間違いはないのですが、もとから癇癪もちの謙作は、なにかと直子に当たるようになります。しかし、一月末、謙作が法隆寺に出かけているうちに、女児が誕生しホッとします。

頭の整理のつかない謙作は、ある日、汽車に乗車する瞬間に、直子を突き飛ばします。そして直子に「貴方が私の悪かった事を赦していると仰りながら実は少しも赦していらっしゃらない」と言われます。それでも「お前を憎んでいるとは自分でどうしても思えない」と言い張る謙作です。

謙作は、伯耆大山へ行くことにします。行く先で大乗寺の応挙の絵に触れたり、野に咲く草花を眺めながら大山へ登ります。そして寺坊ですっくり過ごし、それでも疑いを持ちつつ「今までなかった世界が自分に展けた喜び」と、直子あてに手紙を書きます。しかし、そんな聖地にも、男女のもつれ事があったのです。

体調の悪いのをおして山へ登った謙作は頂上へは行けず、山中で夜を明かします。そして明けゆく大山をみて感動を覚え、宿に帰って意識不明になります。大腸カタルという診断で、ひまし油を飲まされ、謙作は夢うつつながら自分がどんどん浄化されていくのを感じます。それとは反対に、脈がわからないくらいになっていきます。

直子が駆けつけますが、あまりの容態に驚きます。しかし謙作は「実にいい気持なのだよ」と言います。直子は「この人はこの儘、助からないのではないか」と思い、そして「何所までもこの人に随いて行くのだ」と思いつづけます。


【作品のモデルについて】

 父親との確執を題材に書き始めた小説ですから、おのずと登場人物も志賀直哉の周りの人物がモデルではないかと言われています。

 <坂口>

 最初に登場する友人の作家 坂口は、里見弴だという話もあります。白樺派の盟友、志賀直哉と里見弴は人生の内、何回か衝突し、絶交も何回かしているけれど、この時期は、里見弴が『妻を買ふ經驗』で、志賀直哉らしき人物を露骨な形で登場させたことで、絶交していた時期と思われます。第一章の冒頭は、「時任謙作の坂口に対する段々に積もって行つた不快も坂口の今度の小説で到底結論に達したと思ふと、彼は腹立たしい中にも清々しい気持ちになった」と書かれています。相当、怒り心頭だったのかも知れません。


松岡正剛1236夜「志賀直哉/暗夜行路」
 松岡正剛1236夜「志賀直哉/暗夜行路」。
 内村鑑三に影響を受けた。小説の神様と言われた。白樺派だったが、距離も保った。書画骨董を見抜く目をもっていた。多くの作家たちが志賀直哉の前ではひどく緊張した。たしかに短篇は抜群なものがある。文章もうまい。引き算もある。が、変な展開にもなっている。実は志賀直哉はどこかが変なのだ。まして『暗夜行路』は大いに変である。いったい、この作家は何だったのか。時任謙作とは誰なのか。なぜここから、日本の私小説が脈打っていったのか。
志賀直哉とは意外です。
そうかな。寂寞ではあっても虚無はない。端然としているけれど孤高ではない。憂鬱でも喪失はない。そういうこともあるからね。
好きなんですか。
実は志賀直哉には妙に困ってるんだね。引っ掛かっている。嫌になったり好きになったりする。昔からぽつぽつ読んでいて、暇つぶしと言っちゃ悪いだろうが、ああ、こういうところが志賀直哉だな、なるほどうまいもんだ、ここはつまらないことを書いたもんだと無責任に読み済ませてきたんだけれど、それでふりかえってみるとけっこうな量を読んだようなんだ。もっとも、この人のものは『暗夜行路』以外はすべて短篇だから、すぐ読める。『和解』などは中篇だけどね。
じゃあ、けっこう好きなんですよ(笑)。
そうかなあ。志賀直哉という“生きもの”に引きずられて読んできたような気がするね。作品は、読めば読むほど知れば知るほど細部が気になるのだけれど、そのぶん全貌はぼけてくるんだよ。それでもこういう文芸文人が日本にとっくにいなくなったとも感じて、その生き方がぼくの判断をゆさぶるんだね。それで、ついつい読んできた。
何に困るんですか。

“生きもの”をどう見るかということで困ってる。いやね、その文学にはいまさら困らないよ。白樺派だからいいわけでもなく、花袋や藤村(196夜)らの自然主義っぽい立ち位置に反骨したから気にいるわけじゃないし。だいたい志賀を文学論したってしょうがないよ。そこは、そういうぼくの読みもある。これまで多くの批評家たちが志賀文学の評価をまちまちにしてきたが、そこはぼくには痛くも痒くも、気にもならないんだね。楽しめた志賀論といえばせいぜい小林秀雄(992夜)の短いものと、阿川弘之の大作『志賀直哉』くらい。これは驚くほど詳しいものでね。さすがお弟子さんだ。

 志賀直哉ほど写真映りのいい作家はめずらしい。漱石・鴎外このかた顔のいい作家は少なくないが、川端康成(53夜)五木寛之(801夜)も比較にならないくらいではないか。最近は白洲次郎の男っぷりがたいそう評判になっているが、外見だけなら志賀のほうがずっと高みも味もあるだろう。
 志賀は何度も引っ越しをしている。尾道にもいたし、京都南禅寺の宿坊にも鎌倉の叔父の隣りの家にも住んだ。柳宗悦(427夜)に勧められて我孫子に住んだときは武者小路実篤も越してきて、ちょっとした白樺派の村になった。奈良の幸町の大きな家に移り住んでからは千客万来で、小林秀雄や網野菊や小林多喜二や阿川弘之がそのときのことを記している。いわゆる“志賀詣で”は早くからのことだったのである。そうやって多くの者が志賀を訪れてみんなが感じることは、一種の「威儀」のようなものだったらしい。とくに編集者や記者たちは、みんな緊張したという。やはりあの顔貌のせいだろう。

そういうカッコいい志賀直哉であるのに、その姿にふさわしくない言動もする。そこが困るのだ。一方で書画骨董を書く目がたいへんおもしろいのと、他方で急に日本の国語をフランス語にしたらどうかと思うなどとロクでもないことを言うあたりとが、とんと反りが合わないところなのである。
 よく志賀直哉のリアリズムとユーモアというけれど、ぼくはその両方を、とくにユーモアを遊べない。まして日本の国語をフランス語にしてみたらなどというのは、リアリズムにもユーモアにもならなくて、聞かされるほうが困るだけである。爺さん、よまいごとを言っちゃいけません。最近では河合隼雄が「英語を第二公用語にしたい」と発案したときも、おいおい爺さんという失調だった。

座談会「志賀さんを囲んで」の出席者たちと。右より丹羽文雄、小林秀雄、志賀、川端康成
(昭和30年 撮影・土門拳)
日本語をフランス語にしようと言ったんですか。
深く考えたわけじゃないだろうね。つい口がすべったんだ。
志賀直哉の写実描写にリアリズムもなく、よく言われるようなユーモアも感じないんですか。
感じない。文章というものをそのまま感じるけれど、その奥に写実の哲学やヒューマニズムが動いているとは感じないね。だから、ついつい読むんだろうね。
ふーん、そういうものですか。
志賀の言動は作品にもはみだしてくる。たとえば『万暦赤絵』(ばんれきあかえ)だ。5年ほどの書けなかった時期を破って発表した作品である。このなかでの大雅や鉄斎は好きだが円山派や崋山が嫌いで、宗達はいいけれど光悦には誇張や成心があっていけないという見方は、なかなか結構だ。それを言葉にしている口調もうまい。さすがなものがある。では、その目で書いている続きの展開がおもしろいかというと、古月軒の鉢や山科毘沙門堂の青磁花生「万声」や殷周青銅器などについての静謐だったり怖がったりの書きっぷりにくらべて、赤絵の高値を聞いて仔犬を買ったといういきさつを綴るあたりからあとが、まったくつまらない。『万暦赤絵』は、よく知られているように『城の崎にて』や『小僧の神様』や『清兵衛と瓢箪』などとならんで志賀を有名にした小篇である。教科書にも載るほど、よく知られている。それでも納得できないところが多い。
 正直いうと、その『城の崎にて』や『小僧の神様』にだって、反りが合わないところが少なくない。とくに話が進んで作家の感情がまとまっていくところからが、つまらない。文学としてではなく、志賀直哉の直情がナマに顔を出すのが変なのだ。
 『城の崎にて』では蜂が死んでいるところ、鼠が川から這い上がるところまでと、そのあとイモリに石を投げ付けてその心情を描写しているところの精神がつながっていないし、『小僧の神様』では男が小僧に上等な寿司を食べさせる気になったところと、その男を小僧が神様だと思うようになるところの感情がつながらず、男が自分のした慈善行為のようなものを悔やんでいるところは、もっと切れている。
じゃあ、志賀直哉はダメじゃないですか。
それがそうでもないんだな。
ええっ、それはわかりませんね。
ぼくも説明がつなかくて、だから困ってるんだ。
それは志賀直哉に松岡さんを困らせているものがあるということですか、それとも松岡さんには志賀直哉に惹かれるものを説明するものがなくて、困っているんですか。
なんだか追いつめられてるなあ(笑)。でも、志賀直哉はやっぱり変なんだよ。
 トーマス・マン(316夜)には“trotzdem”がある。かつてこの言葉については荒正人が持ち出していたことがある。「にもかかわらず」というやつだ。それが志賀直哉にもある。ただ、志賀の“trotzdem”には絶妙なときと、そうでないときがある。
 マンは文学のほうを根底から「にもかかわらず」にしているのだが、志賀はその生き方に「にもかかわらず」が入っているはずなのに、それを文学するとき、最初はリアルなのだが、そのうち出来事が精神や感情にかかわってくる場面になると急に「心をふりかえる」という癖を出す。そのうえ悪いことに、そこを主人公が精一杯に突破していこうとするふうに書く。これがもっと変なのだ。
 それでも「にもかかわらず」が蜂や寿司のような、ごくごく小さな出来事や観察に向けられているときは、その文章の彫琢とあいまって、これこそが志賀直哉だとみんなが思うほどの出来映えになるのだが、その小さな「にもかかわらず」が筋や流れに与かろうとしてくると、そこに志賀の声や体がもっている倫理感や訂正感のようなものが出てきて、つまりは精神や感情が顔を出して、それが困るのだ。
 そのような「変」の塊りの集大成のようなのが『暗夜行路』だった。ぼくが高校時代に表題につられて『暗夜行路』を読んだときは、こりゃあ勘弁してくれよと思ったものだ。文章のせいではない。この作家がこの作品に入れ込んでいるらしい得体の知れないものが、そのころのぼくのような高校生にはどうにも付き合えそうもないものだったのだ。
 だったら、そのまま食わず嫌いになったっておかしくなかったのに、それがいろいろの志賀を次々に読めるようになったのだから、そこが不思議なのである。短篇ばかりだったせいかもしれないし、文句をつけても許してもらえそうな作家だと見立てられたかもしれない。
 しかしふと思うのは、そのように何だかんだといちゃもんをつけていても、それを平気で読ませてしまうところが、それも次から次へと読ませてしまうところが、ひょっとすると志賀直哉の真骨頂なのかもしれないということなのである。
それって松岡さんがまるめこまれてるっていうことですよ。
まあ、そうなるか。
そうですよ。
でも、作品に感動はしてない。
どんな作品なら好きなんですか。
作品として褒めたいものはないね。茶碗の手触りのようなものでその茶碗を見るということがあるように、それだけでその茶碗とお別れすることがあるように、そんなふうに文章の風情で読んできたからね。
『暗夜行路』はどこがダメなんですか。ダメなのにとりあげるのは、どうしてですか。それって「千夜千冊」のルール違反ですよね。
あのね、ダメなのに『暗夜行路』を書きつづけた志賀直哉が謎なんだよ。
ええっ、それもわからない。
だから、わからないから謎なんだ(笑)。
困ったもんですね。
そうだろ。だから困ったもんなんだ。
 志賀は『暗夜行路』に着手してから26年をかけた。まずは大正元年の尾道で『時任謙作』という標題で書きはじめて、3年をかけたのに挫折した。
 主題としていた「父との不和」が一件落着してしまったので書けなくなったというのが志賀自身の“自作解説”なのだが、あとでふれるように、これについてはちょっと納得できないものがある。やっと組み直しての最初の発表は、志賀が31歳になっていた大正10年のことで、それでもまた難産しつづけて昭和12年3月の「改造」でなんとか完結した。
 そんなに時間をかけた理由がどこにあったのか。これがまたわからない。そもそも文章を書くこと自体には、何の痛痒も感じていない作家なのである。芥川(931夜)が「志賀さんの文章みたいなのは書きたくても書けない。どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね」と言ったら、漱石(583夜)が「文章を書こうと思わずに、思うまま書くからああいうふうに書けるんだろう。俺もああいうのは書けない」と答えているほどだ。漱石は志賀が終生尊敬していた先生だった。
 どういう文章かというと、たとえば『剃刀』(かみそり)の冒頭でいうとこういうふうだ。「麻布六本木の辰床(たつどこ)の芳三郎は風邪のため珍しく床へ就いた。それが丁度秋季皇霊祭の前にかかつてゐたから兵隊の仕事に忙(せわ)しい盛りだつた。彼は寝ながら一ト月前に追ひ出した源公(げんこう)と治太公(じたこう)が居たらと考へた」。これは、うまい。また、こうである。『范の犯罪』の冒頭はこうなっている。「范(はん)といふ若い支那人の奇術師が演芸中に出刃包丁程のナイフで其妻の頸動脈を切断したといふう不意な出来事が起つた。若い妻は其場で死んで了つた。范は直ぐ捕へられた」。
 あっというまに引きこまれる文章だ。続いて、「現場は座長も、助手の支那人も、口上云ひも、尚三百人余りの観客も見てゐた。観客席の端に一段高く椅子をかまへて一人の巡査も見てゐたのである。所が此事件はこれ程大勢の視線の中心に行はれた事でありながら、それが故意の業(わざ)か、過ちの出来事か、全く解らなくなつて了つた」。
 どう見ても文句のつけようがない。こういう力があるのだから、文章を書いていくことに不如意なわけではないのだ。
 時代考証をしたり調査したりして書く作家でもなかった(志賀はほとんど調べものをしていない)。だから歴史小説はほとんど書いていないし、『暗夜行路』で題材にした何かを調べているうちに時間がかかったわけでもないのである。
 それなのに時間がかかったというのは、筋書きに困ったか、主題が脆弱だったか、嫌気がさしたか、志賀直哉という人間のなかで長編に合わないものがあったか、そのいずれかなのである。
それじゃあ志賀直哉は『暗夜行路』を書かなかったほうがよかったんですか。
書かなきゃいられなかったろうね。そんなこと、いくらでも人生におこるからね。巨きな縄を綯いたいとか、大凧を上げたいときとか。できそうもない仕事をやってみるとか。そりゃあ失敗もあるけれど、それとは別に挑み続けるわけよ。
ああ、文学もそういうものなんですね。
少なくとも志賀直哉はそういうふうにしたんだね。それを一貫させたわけだ。
それが私小説の母型になったんですか。

志賀直哉にはそんなつもりはないんだよ。あとの連中がそうしたわけだ。母型って、そういうものだからね。

 長編小説には、切れと省略のあるうまい文章が書けるからといって、それをそのまま連続して仕上げるというわけにはいかないカマエとハコビが要求される。いわば「構造の耐性力」とでもいうものが必要だ。それが志賀には作れなかったか、あるいは性分に合わなかった。実際にも『暗夜行路』だけ書いて、あとは短篇か随筆ばかりだった。しかしそれでも、志賀は『暗夜行路』に前後25年を注いだのである。しかもそれを完成させることが、自分の天分を問うものだというほどの意志をもってとりくんだ。志賀には晩年に綴った『創作余談』とか『続創作余談』という自作解説のようなものがあるのだが、それには、「文字通り生命を打ちこんだ」とあるし、「創作の仕事は其人の所謂天分にもあるが、それ以上により進んだ良き作品を作らうといふ不断の意志が必要である」ともあって、「さらに一方からいへば此意志を持ち続けられるといふ事、それが既にその人の天分であるとも考へられる」とも綴っている。
 それにもかかわらず『暗夜行路』は稀にみる難産となった。途中で何度も放棄しようとしていたはずだが、それを書き了えた。結果、小説としての評判はむちゃくちゃだった。毀誉褒貶がばらばらだ。河上徹太郎は「現代最上の恋愛小説」だと言うし、中野重治は「拵えものだ」と言った。小林秀雄(992夜)は「確かな智慧だけで書かれてゐる」と評し、本多秋五は「骨ばかりの小説である」と腐(くさ)した。中村光夫は「あきらかに失敗作だ」と詰(なじ)り、小川国夫は「『和解』と『暗夜行路』が日本文学史で最も秀でた峰」と褒めた。
 つまりは『暗夜行路』は各人に等しくひっかかるものを残したのである。失敗作か成功作かさえ定まらないのに、だ。
 それだけでなく、志賀は『暗夜行路』を含めて私小説の原型も、反私小説の原型もつくった。「私」を小説にする作法と反作法とでもいうものだろう。『暗夜行路』の前段にあたる『和解』は私小説の絶品として神棚に上がっているほどなのである。なぜ、そんなことが志賀にできたのか。気まぐれではないだろう。というようなわけで、謎の『暗夜行路』が大きく志賀直哉自身の謎として覆いかぶさってくることになるわけである。

実は、私は『暗夜行路』は読んでないんです。
まあ、いいよ。いつものことだから(笑)。
時任謙作っていう主人公ですよね。
『暗夜行路』を書く前に、エチュードのような『時任謙作』という作品を書いているんだね。それをだいたい踏襲したので、主人公は時任謙作のまま。
志賀直哉自身のことですか。
まあね。おおむねは実際に志賀の身におこったことがあれこれ組み合わせを変えて綴られているね。ただしここにはひとつ、大きなフィクションが加わっているんだね。お栄に惚れるというフィクション。
お栄?
うん、祖父のお妾さん。いろいろ思案したあげくに、このフィクションを仕掛けたことが、この小説に次から次へと「変」をおこす理由になっているんだろうな。
やっぱり読んでみようかな。
母が死に、まったく馴染みのなかった祖父のもとに引き取られて育った時任謙作は、自分が母からは愛されていただろうが、父にはなぜか冷たく扱われているという感想をずっともっていた。
 祖父も亡くなり、青年となった謙作は祖父の妾だったお栄と暮らすようになった。やがて作家をめざすつもりになった謙作は、伯母の娘の愛子が好きになり求婚してみるのだが、容れられず、そのことで心に傷を負ってしまった。謙作の求婚問題で父と兄と伯母がとった態度にも、なんだか不可解なところがある。自分は父や愛子のみならず、誰からも愛されないのではないか。謙作は自己嫌悪をかこち、一人で暗い行路を進んでいる自分を感じるようになっていく。
 気晴らしに遊蕩をしてみた。吉原などの花柳界に遊んでみると、自分が実はお栄が好きだということに気がついた。が、それこそは禁断の愛である。謙作はこの苦悩から逃れ、これまでの生活を清算するために尾道に行く。家を借り、創作に打ちこもうとした。けれどもどうにも落ち着かない。四国に旅に出てみたが、その途中ではむしろお栄に対する春情が募るばかりだった。尾道に戻ると、自分がお栄と結婚したいのだという気持ちを手紙に書いて兄の信行に送った。
 兄から返事がきた。そんなことは大反対だし、お栄もむろん不承知であることが書いてある。それとともに、そこにはさらに恐ろしいことが告げられていた。
 謙作が父の子ではなく、父の外遊中に祖父と母とがかりそめに交わったときの子だったというのである。このことは、謙作が幼少期このかた漠然と感じていた懸念の正体をあかした。自分は「不義の子」だったという正体だ。兄はお前がこのことを知ったらといって、いまのお前はもう参らないだろうというのだが、謙作はこのような自分の正体に参ってしまった。
 が、これで謙作はふっ切れざるをえなかった。創作に打ちこむことこそ「唯一の血路」だと決意した。そこへまた兄からの手紙がきて、父がお栄を追い出そうとしているとあった。お栄が謙作に結婚の思いを抱かせたというのが気にいらないのだ。
 かくて謙作は尾道を引き上げて上京し、ついにお栄とともに大森で暮らすことになる。むろんこんなことがうまくいくはずがない。謙作は以前にまして遊蕩に耽り、精神の彷徨はますます暗夜行路する。
それって、けっこうおもしろいじゃないですか。
そうかな。じゃあ読んでみるといいよ。でも問題はこの程度の筋書きにあるだけじゃないからね。
何にあるんですか?
生き方と考え方の並木路にある。
でも、それが暗夜の行路なんでしょ?
まあね。
だったら読みたい。
いや、話はまだ続くんだよ。
あるとき、京都に行った。しばらく逗留していると気分が和んでくるのを感じた。自然や古寺や古美術が謙作の心を紛らせてくれたのだ。散歩をしていて、ふっくらとした面立ちの娘に出会った。「鳥毛立屏風」の美人のようだと思い、恋心が芽生えるのを感じた。いや、そのように作り上げたいと感じた。これが直子である。
 謙作は直子と結婚した。こうなれば子供もつくりたかった。が、最初に生まれた子は丹毒に罹って死んでしまった。「何か見えざる悪意」が動いているようだった。
 お栄のほうは独り立ちをする気になっていた。才子にすすめられて天津で商売をやることにした。が、お栄にも悪意がはたらいているのか、商売は失敗し、京城で無一文でいるという知らせが入った。謙作はお栄を京城へ迎えに行くことにする。お栄を連れて帰ってくると、妻の直子が従兄の要(かなめ)に不用意に犯されたという告白を聞かされた。謙作はくらくらとする自分を抑えきれなくなっていく。
 それからの謙作は直子とのあいだに新たに子を得るとともに、そこへお栄を同居させるという生活になっていた。どうしても従兄と交わった直子との溝が埋められないのである。謙作はふたたび旅に出る。
 伯耆の大山(だいせん)にさしかかった。山頂をめざし、周囲の景物にとけこんで、途中に迎えた曙光を眺めているうちに、名状しがたい感動がやってきた。やっと解放感がおとずれた。けれども下山すると、発病して倒れてしまった。
 急ぎ病院にかけつけた直子は、謙作の手をとって涙をこらえている。謙作は直子の顔をじっと眺め、「私は今、実にいい気持ちなのだよ」と言った‥‥。
ここで話が終わっている。
えっ、「私は今、実にいい気持ちなのだよ」でですか。
うん。
それって変ですね。
そうだろ。それが『暗夜行路』のなかでずっと続いているんだね。できるかぎり筋立ての齟齬を感じないようにダイジェストしてみたけれど、それも適わないような無理もある。
やっぱり変ですか。
うーん、変だね。この実感を何といえばいいかというと、志賀直哉の悶々とした模索の跡が消え切らないままに、妙に誠実な結末に軌道修正されていると言えばいいかなあ。だから筋書きはお世辞にもおもしろいとは言えないし、時任謙作にも他の登場人物にも、きっと読者は感情移入すらしにくくなっていると思うね。
じゃあ、読んでも入っていけないですかねえ。
そりゃあ、人によるよ。ぼくは入ってはいない。だから、これはプロとしては失敗作だろうね。そう言ったほうがいい。そう言ったほうがいいのだけれども、そのこととね、志賀がこの作品に賭けた意図とは別なんだよね。
どういうことですか。
たとえば黒澤明(1095夜)スタンリー・キューブリック(814夜)の映画の、何を見るのかということと似てるだろうね。失敗作と言われている『隠し砦の三悪人』や『バリー・リンドン』にでも、映画作家としての意図の凄まじさを感じることもあるわけだよ。
そうか、そういうことですか。松岡さんならそういう志賀直哉を擁護したいということですか。
擁護とか批判とかということじゃないんだね。まあ、あの着流しの爺さんには会ってはみたかったかな。
志賀邸にて。左より志賀、武者小路実篤、里見とん
(昭和26年)
志賀直哉は石巻に生まれて2歳のころに東京に移った。父の直温(なおはる)は慶応義塾を出て渋沢栄一の国立第一銀行に勤めていたが、東京では文部省に入り、そのうち頭角をあらわして経済界に転じると、総武鉄道の役員や東洋製薬の会長や帝国生命の取締役を歴任した。
 志賀自身が言っていることだが、総武鉄道を辞めるときは3万円をもらっている。「3万円といふと一ト財産だ。それを株を買ったり色々なことをして殖やしていった」らしい。だから志賀は裕福に育った。が、こういう父に志賀は馴染めなかった。父には趣味もない。交詢社ビルに行っては牧野伸顕や松方正作らと碁を打っていればよかった。
 志賀が馴染んだのは祖父の直道のほうである。祖父は二宮尊徳の弟子筋にあたっていて、日光今市にしばらくいたのち相馬家に家令として仕えた。たいへんハイカラな男だったようで、一日3回をパン食にしたり、オートミールを好んだりした。ただ、恩義のある古河市兵衛が渡良瀬川の鉱毒事件に巻きこまれてからは沈思するようになり、仏教や禅学に傾いた。祖父の理想は一筋に尊徳と白隠(731夜)になっていった。そういうところに惹かれたのかどうかは知らないが、志賀は長らく父よりも祖父に好感をもちつづけた。
 明治22年(1889)、学習院の初等科(そのころは虎ノ門)に入った。お濠を前にした立派な煉瓦造りの建物で、教室にはスチーム暖房が通っていた。『奥津』に綴られているように、ここでは少年は相撲や棒取りやエビ掬いに夢中になっている。そういう少年期の志賀に最初におこった事件は母親の死である。13歳のときのことだが、すぐに浩(こう)という24歳の新しい母が来た。
 この母の交代は迅速だったようで、志賀に妙な感興をもたらした。母の死の悲しみに深く陥るということもなかった一方、意外にも、いわゆる継母を迎えた少年としての辛い体験など何もなかったようなのだ。有名な『母の死と新しい母』では、義母に対する「淡い一種の得意」というものが誇らしげに綴られている。ちなみに志賀は生涯にわたって、決して“継母”とは書かず“義母”と綴りつづけた。新たな母は志賀に仄かな恋心をさえ芽生えさせたのだろう。けれどもその母が父の新たな伴侶でもあることには抵抗もあった。このあたりが志賀が青年になるにつれ、ちょっとした溝というか、奇妙な鳩尾(みぞおち)の感覚になっていく。紅葉(891夜)の『金色夜叉』や鏡花(917夜)の『化銀杏』や徳富蘆花の『不如帰』などを熱心に読んだのは、そういう心情とも関係があったろう。
鳩尾ですか。
うん、鳩尾。そのあたりで見るほうがいいと思ってね。背中じゃないな。
私ら、胸キュンのほうですから、そこがちがいますね。
丹田じゃないね。うん、志賀直哉は鳩尾だよ。
麻布三河台に移っていた家に末永馨という書生がいた。18歳のとき、この書生が志賀を内村鑑三(250夜)の講演会に連れていった。かなりの感化をうけた。『内村鑑三先生の憶ひ出』には、自分が生涯で影響をうけたのは祖父と内村先生と武者小路実篤の3人だと書いている。おそらくは「意思」というものを貫くことを受信したのだ。けれどもキリスト教には靡いていない。
 ところで志賀は学習院中等科を3年から4年に進級するときに、落第をしていた。あまりベンキョー好きではなかったのだ。正義や感動には弱かったし、小説を読むのは大好きだったけれど、社会的努力は嫌いだった。そのせいか、20歳で6年になるときも落第した。当時の学習院中等科は6年制だったから、6年原級に留めおかれたのである。
 このとき、1級下の木下利玄・正親町公和・武者小路実篤・細川護立らと同級になった。ここから武者小路との交遊が始まる。それとともにのちの白樺派の動きも始まった。みんな文芸好きだったのだ。高等学科に進んだ志賀も、半分は遊び気分で童話っぽい『菜の花と小娘』を書く。読んでみたが、他愛のないものだ。
学習院を出ると、東京帝国大学の英文科に入った。ここでまた事件がおこった。ひとつは祖父の死であるが、もうひとつは志賀家の女中に惚れた。惚れただけではなく結婚をする約束までしてしまった(この女中の名前はいまなお伏せられている。阿川弘之は「千代」という仮名にしている)。
 けれども、これに父親が猛然と反対をする。武者小路やその叔父の勘解由小路(かでゆこうじ)資承らがあいだに入ったのだが、まったく融和はおこらない。父親は女を捨てるか家を捨てるか二つにひとつと言明し、志賀は家を出る覚悟を決めた。養鶏でもやろうと思ったのだ。
 なぜ養鶏をしようとしたのかは、わからない。上田三四二(627夜)の『島木赤彦』には、島木が小学校の教師をやめて「文学と養鶏に専念する」というくだりが出てくるが、当時は食えない文学者が養鶏にをするというのもひとつのハヤリだったと上田は書いている。が、志賀にはそんなことはできない。口先だけだ。養鶏もできなかったし、結婚もなんとなくあきらめた。ともかくも志賀直哉という人物、からっきし社会的実践力はない。ただ、ひたすら内面の意思ばかりが強いのだ。
 大学も3年のときに国文科に転科するのだが、まもなく中途退学をする。こういうところにも、社会の欠如があらわれている。しかもこのころは昼過ぎまで寝ていて、夕方から悪所通いをするような日々だったのである。ただ、父親との亀裂は広がる一方で、鳩尾の溝は深まっていくばかり。『青臭帖』や『大津順吉』には当時の自分を評して、「不愉快で元気のない顔」とか「何処か不均衡な所のあるのは自分でも感じてゐた」とある。
なんだか自己リアリストっぽいですね。
でも、社会が欠けている。
社会の欠如ですか。
ぼくは生活の欠如だけれど、志賀直哉は社会の欠如だね。その後の作品や随筆を見ても、戦争についても関東大震災についても、大逆事件についても社会的犯罪についても、ほとんど何も書いてない。
それなのに国語をフランス語にしたらどうかなどとは言ったんですね。
口がすべったんだよ。
白樺派のメンバーになったのは?
あれも志賀直哉にとっては社会じゃないね。
明治43年(1910)、28歳になっていた志賀は「白樺」の創刊に参加した。すでに学習院出身者によって「望野」「麦」「桃園」という同人誌が出ていたのを合同させたものだった。
学習院出身者による文学読み合わせ会「一四日会」の会合
右より、直哉、木下利玄、正親町公和、武者小路実篤
このグループの活動が「白樺」創刊に発展
武者小路・木下・正親町・志賀に加えて、里見とん・児島喜久雄・柳宗悦(427夜)有島武郎(650夜)・細川護立が、さらに梅原龍三郎・津田青楓らが加わった。志賀は創刊号に『網走まで』を書く。何のおもしろみもない。
 志賀にとっての白樺派については、とくに説明したいことはない。白樺派がユニークなのは、そのメンバーシップなのである。島崎藤村が、あの人たちは遊び半分なのだろうからそのうち苦しい目にあえば文筆を捨てるだろうと言ったことに、志賀がずっとこだわって反発をしつづけたことを記すにとどめる。また、のちには友情を取り戻す武者小路に、いっときの怒りで絶交を叩きつけたりしていたことを言い添えるにとどめる。
 30歳になった。父親との不和はあいかわらず進行していて、いたたまれないものになっていた。ここで志賀はついに行動をおこす。尾道に行ったのだ。志賀には社会的実践力はないのだが、引っ越しや旅行にはめっぽう強い。このときも尾道転居がもたらしたものが大きかった。いよいよ『時任謙作』にとりくんだのだ。その『時任謙作』に難産したことはすでにのべた。が、これは最初から難産したのではなく、漱石から東京朝日新聞での連載小説を頼まれて、それを『時任謙作』にしようとしてから、つっかえた。尾道から引き上げ、東京でとりくんでも筆は進まない。そのあいだに、城崎温泉に行くのだが(これが『城ノ崎にて』になる)、気をとりなおしてまた尾道に戻って書いても、何もまとまらなかったのだ。結局、漱石に詫びを入れ、連載小説は沙汰止みとなった。物語の構造を作りえなかったこと、連載の序破急に自信がもてなかったこと、漱石にに対する負い目、いろいろ原因があろう。が、一番の解決策は新聞連載を降りることだったのである。これでホッとした志賀は、32歳のときに武者小路の叔父の勘解由小路の娘を貰うことになる。康子(さだこ)である。
 が、これまた父親が反対するところとなった。志賀は憤然として康子を連れて鎌倉へ、赤城へ移り、さらに上高地・京都・奈良を長期旅行して、我孫子に転居してしまう。そのあと長女が生まれるのだが、まもなく死亡。またまた信州・山中温泉・京都・奈良を旅行しつづけた。それ以外の手がなかったのである。しかし、そのような志賀であればこそ、旅先で見聞したことがしだいに名文に昇華できたわけでもある。
 つまりはいつも感情に左右されていて、その自分と闘いつづけていたのが志賀直哉なのである。
武者小路実篤邸にて(大正6年)
後列左より金子洋文、一人おいて武者小路、柳宗悦、志賀、康子
前列左より柳兼子、武者小路房子、武者小路喜久子
連載小説が書けないんですか。
そうなんだね。新聞小説は社会に近いものだしね。
それじゃ、隠遁者っていうことですよね。
そんな高邁な感覚ではないだろうね。存在は高邁だけれど、思想はタオでもないし、隠逸でもない。
それって変ですよ。
だから変だと言ってるわけよ。
大正6年(1917)、35歳の志賀に思いがけないものが訪れる。あれほど嫌っていた父親との不和が魔法のように解消されるのだ。このことについては『和解』にかなり丹念な経緯が書かれているのだが、これを小説ではなく、志賀が実際にどのような鳩尾を経験し、それがどのように実際の父親との和解に至ったのかというドキュメンテーションとして読もうとすると、どうも釈然としないものがある。
 ありていにいえば、父との不和がそれほど大きいものとは見えてこないし、それゆえその父との和解が男児一生の光明になるとも見えてこないのだ。それなのに志賀はこのことを契機に変わっていく。まるでフィクショナルな「父との闘争」を巧みに内化することによって、新たな“文中の志賀直哉”づくりにとりくんでいったかのようなのだ。
 それは、こんなところで比較するのもたいそうだけれど、ドストエフスキー(950夜)フロイト(895夜)の「父との闘争」にくらべて、なんとも草花の萎れと蘇生のように、どうにも繊細で微妙なものであったのだ。
 しかし、これが志賀直哉なのである。志賀直哉という文人なのである。こうして39歳のとき、志賀はついに『暗夜行路』によってすべての志賀直哉を描きうるとして、その前編を「改造」に発表した。
で、どうなったんですか。
このあとの志賀の人生を追うのはやめようよ。これからあと、89歳に及ぶ淡々たる人生が待っているんだけれどね。
淡々って何をしてたんですか。タオでもなく隠逸の士でもないんでしょ。
ここからは美術工芸に耽溺したり、奈良に居を構えたり、寂しいからいつも人を招いたりするんだな。そういう淡々。
それだけですか。
うん、それだけ。54歳のときには『暗夜行路』後編の最終部分を書き上げて発表するけどね。66歳のときは文化勲章を受賞する
それって、松岡さんがわざと変なふうに言ってるだけじゃないんですか。
そう思うなら、自分で読んだり調べたりすればいい。ぼくはこの程度だね。
じゃあ、せめて松岡さんが勧める作品をあげてください。
たくさん読むといいと思うよ。ライトノベルなど読むよりはいいだろう。「にもかかわらず」がいろいろ感じられてくる。
あえて言うと?
そうだなあ、『真鶴』とかかな。
はい。では、志賀直哉という人物を一言でいうと?
困った人(笑)。じゃなければ、向きな奴かな。
ムキになる人?
うん、そうだね。
松岡さんはムキにはならないんですか。
ずうっとムキになっている。ただし志賀直哉とは別のところでね。ぼくはどちらかというと、じっとしてるほうだしね。
ひょっとして同じ向きだったりして(笑)。


【暗夜行路あらすじ】
 
 「序詞」という短い章で、時任謙作(ときとう けんさく)の〈私〉という視点で物語が描かれる。幼いころ母を亡くし、父や兄から離されて祖父の所に引き取られ祖父と暮らし始める。祖父の家にはお栄という若い女性がいた。これは祖父の愛人らしい。父親と相撲をとって泣いた話。父親との確執の萌芽が見て取れる。父子の対立は志賀直哉の小説の大きなテーマ。祖父亡きあとは、祖父の愛人だったお栄と暮らす。生活費は父からの仕送りで、小説を書いて日々すごしている、気楽なのに神経質な青年として描かれている。
 前篇に入ると、謙作という3人称の形式になる。友達と一緒に芸者の所に行ったりするなど、謙作の生活が描かれる。謙作は愛子という、母の幼馴染の娘に結婚を申し込むが体よく断られる。自尊心を傷つけられた謙作は芸者遊びに熱中する。ところが20も年上のお栄を意識するようになり、ひとり尾道へ転居する。ところが小説は書けず、金毘羅詣りなどして孤独を感じた末に「お栄と結婚しよう」と、唐突に思う。祖父の愛人で、20歳も年上の女。 それを信頼する兄、信行に手紙で打ち明けると「お前は祖父と母の子だ。父の子ではない」という手紙をもらう。憔悴して東京に帰った謙作は、またお栄と暮らす。居を移し心機一転のつもりでも、ますます虚ろになる謙作。兄、信行は会社をやめ、禅の修業を始める。

 やがて謙作は奥さんが欲しいと思うようになる。前篇は奥さんを探す話になる。奥さんにしたい娘がいるがなかなかうまくいかない。別の女性との結婚も考えるが、そちらもなかなかうまくいかない。やがてその大きな理由が明らかになる。これが第一の爆弾。謙作はショックを受けるが、それを受け止め、人生に立ち向かっていこうとする。自分の父親が祖父であるという出自。そんな暗い出自を持つ自分の運命に悩み、東京を離れるまでが前編。 (志賀直哉は父と仲たがいした後、和解しているが、出自に関しては想像の産物で自分がモデルではない)
 後篇も奥さんを探す話が続く。舞台が京都に移り、謙作は東京で送っていたような遊蕩生活から脱却。謙作は結婚し、赤ん坊も生まれる。この2人がなかなかいい。奥さんは本を読まない人だが、それでも読もうと思う。謙作は読まなくていいと言う。その方が仕事がしやすいと言う。2人の関係は微笑ましい感じ。特に夜道で手を握る場面。謙作は奥さんと一体になったと感じる。

 ある悲しい出来事が起こる。しかし、彼の留守中に妻の直子がいとこと過ちを犯してしまう。こどもにまつわる出来事。幸せな夫婦生活に翳りが見える。ちょっとぎこちない関係になる。謙作は旅に出る。そして家に帰るとちょっと嫌な状況になっている。そこからまたもう1つの大きな爆弾が出てくるす。こちらはかなりショッキング。謙作は思い悩む。自分では自分の感情を処理したと思う。ところが鉄道での場面など、発作的に癇癪を起こしてしまうことがある。時任謙作は元々が短気な人間でとても大きな器とは言えないが、それでもその鬱屈した感情はすごく共感できる。謙作は、自分持つ嫌な出自故に、その過ちに囚われると悪い方向にどんどん行ってしまうと考え、直子を赦そうと心に決める。その後のある日に起こった出来事は衝撃的だ。皆で宝塚へ行こうという日。駅のトイレで赤ん坊のおむつを替えていて遅れてやって来た直子が、走り出した列車に飛び乗ろうと列車の踏み台に片足をかけたところを、先の乗っていた謙作は、彼女の胸を突いて列車から振り落としたのだ。全くびっくりした。夏目漱石の『こころ』で主人公の友人が自殺してしまうのと同じくらいの衝撃。幸い直子に大きな怪我は無く脳振とうぐらいで済んだのだが、心に受けたショックは計り知れない。 直子はこう応える。
 「貴方が私の悪かった事を赦していると仰有りながら実は少しも赦していらっしゃらないのが、つらいの。発作、発作って、私が気が利かないだけで、ああいう事をなさるとはどうしても私、信じられない。・・・貴方は貴方が御自分でよく仰有るように私を憎む事でなお不幸になるのは馬鹿馬鹿しいと考えて、赦していらっしゃるんだと思う。その方が得だというお心持で赦そうとしていらっしゃるんじゃないかと思われるの。・・・今度のような事があると、やはり、貴方は憎んでいらっしゃるんだ、直ぐそう私には思えて来るの。そしてもしそうとすればこれから先、何時本統に赦して頂ける事か、まるで望みがないように思えるの」

 この後、謙作は鳥取の大山へ旅立ち、二人はしばらく別居生活を送ることになる。謙作と車夫が大山の連浄院へ向かう。高原の花々が咲く細い道を、謙作は人力車で登っていく。こんな描写がある。
放牧の牛や馬が、草を食うのを止め、立ってこっちを眺めていた。ところどころに大きな松の木があり、高い枝で蝉が力一杯啼いていた。

 走る人力車に興味をもったのか、草を食う牛や馬が食べるのをやめて、<こっちを眺めていた>というのは、高原の、のどかな夏の風景のイメージをふくらませてくれる。

 茶屋へ寄ると、謙作は車夫に<めしと酒>を注文し、あまり飲めない自分は、<菓子とサイダー>を頼む。六十歳くらいの<ばあさん>が、茶屋をきりもりしている。そこには、八十近い白髪(しらが)の老人もいた。老人は、「立てた長い脛を両手で抱くようにして」、峠から下に広がる海を、黙って眺めている。

広い裾野から遠く中の海、夜見ケ浜、美保の関、更にそと海まで眺められる景色を前に、静かに腰を下ろしている。老人は謙作達が入ってきたのも気付かぬ風で、遠くを眺めていた。
 京都へ来た謙作は、ひとりの女性に目を留めます。直子といい、「鳥毛立屏風」風の美女です。信行や友人の奔走で話は順調に進み、二人は結婚します。お栄は、旧知の女性と天津へ旅立ちます。初冬に結婚し、秋には直子の出産。ところが、お栄が大連でひとり窮地に陥っていることが分かります。そんな矢先、生まれたばかりの男児が丹毒で亡くなってしまいます。 出産の日、演奏会でシューベルトの「魔王」を聴いていた自分を、悔やむ謙作。苦しむためだけに生まれてきた我が子を境に、無邪気だった直子も病に苦しみます。またも運命に苦しめられる自分を感じます。 気分転換を兼ねて、京城までお栄を迎えにいく謙作。ところがお栄を連れて京都に帰ってくると、直子が従兄の要に無理やりの関係をされていたことが判明。また運命に苦しみつつも、謙作は「自身の内にあるものとの闘争」という思いに至ります。長年の友人の末松は「それでいいのじゃないかな。それを続けて、結局憂いなしという境遇まで漕ぎつきさえすれば」と、励まします。 直子の妊娠が発覚。自分の子であることに間違いはないのですが、もとから癇癪もちの謙作は、なにかと直子に当たるようになります。しかし、一月末、謙作が法隆寺に出かけているうちに、女児が誕生しホッとします。 頭の整理のつかない謙作は、ある日、汽車に乗車する瞬間に、直子を突き飛ばします。そして直子に「貴方が私の悪かった事を赦していると仰りながら実は少しも赦していらっしゃらない」と言われます。それでも「お前を憎んでいるとは自分でどうしても思えない」と言い張る謙作です。

 謙作は、伯耆大山へ行くことにします。行く先で大乗寺の応挙の絵に触れたり、野に咲く草花を眺めながら大山へ登ります。そして寺坊ですっくり過ごし、それでも疑いを持ちつつ「今までなかった世界が自分に展けた喜び」と、直子あてに手紙を書きます。しかし、そんな聖地にも、男女のもつれ事があったのです。 体調の悪いのをおして山へ登った謙作は頂上へは行けず、山中で夜を明かします。そして明けゆく大山をみて感動を覚え、宿に帰って意識不明になります。大腸カタルという診断で、ひまし油を飲まされ、謙作は夢うつつながら自分がどんどん浄化されていくのを感じます。それとは反対に、脈がわからないくらいになっていきます。直子が駆けつけますが、あまりの容態に驚きます。しかし謙作は「実にいい気持なのだよ」と言います。直子は「この人はこの儘、助からないのではないか」と思い、そして「何所までもこの人に随いて行くのだ」と思いつづけます。
 解説1)父と息子の争いの影に女あり

志賀直哉は、明治16年生まれ。祖父・父ともに明治の政財界の重鎮で、志賀も学習院から東京帝大というエリートコースです。しかし、幼くして祖母に育てられ、父とは長い間、不仲でした。そして、それが原因で尾道に居を構えます。このあたりは「暗夜行路」に生かされています。そもそも、父と息子の争いは、オイディップス、カインとアベル、ヤマトタケルなど、枚挙にいとまがありません。つまり、人類の永遠のテーマといってもいいでしょう。  「暗夜行路」には、二つの衝撃があります。一つは、前編、実の父が祖父であったこと。もうひとつは後編、「妻の不義」です。いずれも母と妻、つまり「いちばん身近な女性の罪」です。ギリシャ悲劇「オイディブス王」は、自分の父と知らず暴君を殺し、その妻(自分の母)と結婚します。「ハムレット」にも、父を殺して王になった男と結婚する母を、厳しく責める場面があります。すべては、妻や母が苦しみの原因だと、志賀直哉(時任謙作)は、言うのです。それは「母」という立場の「女」です。「妻」という立場の女です。女がいるから、男の人生はややこしくなるのだ、と。主人公の時任謙作は、いつも女に振り回されています。女にはすこぶる厳しいのに、だからこそ運命のいたずらに悩まされるのです。
 下痢をした後に夜登山をした謙作は、途中、苦しくなりひとり引き返すことにする。自然の中に身を置き夜明けを待つ謙作は、ある幸福感を味わう。
 “疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒ほどに小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、―それに還元される感じが言葉に表現出来ないほどの快さであった。何の不安もなく、睡い時、睡(ねむり)に落ちて行く感じにも多少似ていた。・・・彼にはそれに抵抗しようとする気持ちは全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。”

 そして、世話になっている寺にもどると、熱を出し床に伏せってしまう。医者の診断は腸カタルで命に別条は無いというが、どうも容態がよくない。京都から直子が駆けつけ、横になった謙作と対面する。

“謙作は黙って、直子の顔を、眼で撫でまわすようにただ視ている。それは直子には、いまだかつて何人にも見た事のない、柔かな、愛情に満ちた眼差に思われた。「もう大丈夫よ」直子はこういおうとしたが、それが如何にも空々しく響きそうな気がして止めたほど、謙作の様子は静かで平和なものに見えた。・・・謙作はなお、直子の顔をしきりに眺めていたが、暫くすると、「私は今、実にいい気持なのだよ」といった。”
 心臓が弱っているらしい謙作が助かるのか駄目なのかはわからないまま、この長編は終わるが、直子が感じたのと同じように、ここで謙作が逝ってしまったとしても、それでよし、と思われる。謙作も直子も幸福感に包まれたラストである。

 志賀直哉は『続創作余談』で次のように書いているという。
 『暗夜行路』は、出生から来る一種の運命悲劇で、その運命をできるだけ賢く、意志的に抜け出そうと努力する事が筋といっていいもので、やはり(メーテルリンクの)『知恵と運命』の影響は受けているものだ。運命的に来る不幸は賢愚によらず来るもので、いかんともしがたいが、それをできるだけ賢く切り抜けたいというのが『暗夜行路』のテーマになっている。

 『暗夜行路』には、寺の軒先で小便を垂れ流しながら寝ている乞食や、ほとんど外界に関心をもたないで風景を眺めているこのような老人が、描写される。そして、謙作の彼らをみつめる眼は優しく、一種の共感すら含んでいるようにかんじられる。謙作は、サイダーで暑さをしのぎながら、老人が見ている遠い景色を眺める。

この老人にすればこれは毎日見ている景色であろう。それを厭かずこうして眺めている。一体この老人は何を考えているのだろう。勿論将来を考えているのではない。又恐らく現在を考えているのでもあるまい。長い一生、その長い過去の色々な出来事を老人は憶い出しているのではあるまいか。否、それさえ恐らく、今は忘れているだろう。老人は山の老樹のように、或いは苔むした岩のように、この景色の前に只そこに置かれてあるのだ。そしてもし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。謙作はそんな気がした。彼にはその静寂な感じが羨ましかった。

 つげ義春の作品「峠の犬」では、人になつかない野良犬が、峠から、ひとり遠い景色を眺めている意味深いシーンがある。そこに、つげは義春は、「この犬は何を考えているのだろう。犬には犬の考えがあるのでしょうか」という意味の文章を、吹き出しに書いている。このマンガを見たときも、わたしは、『暗夜行路』のこの老人を連想した。

 そのすぐあとに、仔猫の描写が出てくる。動物を描くとき、志賀のペンはひときわ冴え、読んでいて、おもわず頬がゆるんでしまう。

老人のいる左手の壁に寄せて、米俵が幾つか積み上げてあった。その後ろで先刻(さっき)から何かゴソゴソ音がしていたが、不意に一匹の仔猫がそこから米俵の上へ現れた。仔猫は、両方の耳を前へ向け、熱心に今自分の飛出して来たところを覗き込んでいた。そして身体は凝っとしているが、長い尾だけが別の生き物のように勝手に動いていた。すると、下からも丸い猫の手がちょいちょい見えた。

 このあと、車夫と茶屋のばあさんの、猫についてののんびりした話が続く。そして、そのあとで、再び二匹の仔猫と、さらに親猫が登場する。

老人は置物のように尚皆の方へ背を向けたままでいた。二匹の仔猫は俵の上で上になり下になりふざけていたが、そのうち誤って一匹が俵から下へ落ちた。落ちた仔猫は急に興ざめのしたキョトンとした様子で哀れっぽい声で二声三声啼いた。どこからか急いで親猫が出てきて仔猫の身体を嘗めてやった。

 ごく自然に、老人の静寂さと、仔猫たちの生き生きした言動が対比されている。

“小説の神様” と呼ばれる志賀直哉の文章は、実に簡潔だ。 『暗夜行路』 に次の一節がある。

謙作は身をずらして、寝床に空き地を作ってやった。直子は元気なく起きかえって、来て、そこへすわった。憂鬱な、無表情な、醜い顔をして、ぼんやりと床の間のほうへ目をそらしていた。そこへさっきひどく喜んだ壺や箱がある。

どんな場面かというと、主人公の謙作はある事情があって、愛妻(直子)を国に残して長い旅に出る。しかし、謙作がいない間に、直子は従兄弟と過ちを犯してしまうのだ。ようやく謙作が家に戻り、楽しい土産話も一段落した就寝前のこと、謙作は直子がどことなく不自然なのに気づくのだ。

直子に同情の余地がないわけではないが、その時の彼女の表情は 「哀しげ」 ではなく 「醜い」 のだ。 そのずばりと書く、乾いたタッチが実に志賀らしい。

そして、文は、「そこへさっきひどく喜んだ壺や箱がある」でプツリと切れる。後は書かないのだ。

その 「壺と箱」 は、直子を喜ばせるために謙作が旅先で苦労して探してきた“妻への愛の証し”であり、さっき直子はそれに大喜びしたばかりなのだ。そして、今は、その「壺と箱」が直子の視線の先にある。ふと目をそらした視線の先で、彼女の網膜に「壺と箱」が像を結んだ時、彼女の内面に湧き上がっただろう感情は「絶望」とか、「悲しみ」とか、「慚愧の念」とか、「後悔」とか、そういった類だと思うが、そうとは一切書かれない。

そう書いてしまえば、「絶望」とか何やの、ただ言葉の概念としてしか読者には伝わらない。しかし、書かないときには反対に、私達は登場人物の感情をその行間に思い浮かべる。私達は、直子とともに「目をそらし」、直子とともに「壺や箱」を見て、そして直子とともに絶望する。

 志賀の文章は、こういった書いたり書かなかったりするバランスが絶妙なのだと思う。

「暗夜行路」が素晴らしいのは、あらすじの面白さと時任謙作の精神の揺らぎが、美しく描写されているからでしょう。それは文章の力です。まさに「文章の神様」の仕事です。様々な女性たちの外観や表情の変化で、主人公の好みや気持ちを表します。謙作が周りの何を見、どう反応するか、が、細かく、しかも丁寧に描かれています。いじわるで辛辣な観察力が、存分に発揮されています。たくさんの女性たちが、入れ替わり立ち代わり登場しますが、観察と分析が変化していきます。このあたり読んでください。「男って、女のこんなとこ、見てるのね」と。

運命に翻弄されるたび、女性への思考も深くなります。「元々女は運命に対し、盲目的で、それに惹きづられ易い。それ故周囲は女に対し一層寛大であっていい筈だ。」というわりに、自分は厳しい、という矛盾は誰もが持っているものです。そこでまた、苦しむのです。

兄である信行という人の、まっすぐな誠実さが、印象的です。この人が唯一、救いです。たぶん、この兄は、志賀直哉が尊敬していた内村鑑三と夏目漱石がモデルではないかと思います。

で、謙作は、運命の苦悩から、どう立ち直るのか。それが大山です。大自然の力で、自分がどんどん変化していきます。これは実は「城崎にて」にも使われた表現法です。

志賀直哉の真骨頂といっていいでしょう。

父と子の確執というかたちを取りながら、実は父親も、母の罪に傷ついていた同志だった、ということです。ともに「罪深い女」に人生を振り回された男たち。女批判の小説ともいえますが、しかし、最後は「どうだっていい」という境地になるのです。敗北も勝利も、加害も被害も超越した境地。それは女・男を超えている。男のための小説、と思われていますが、ぜひ、女性に読んでいただきたい。男の女に対する批評眼のすごさが、実感できる文章です。でも、周囲の人に支えられ、我儘に生きている主人公。それに対して実家に帰ることもできない妻の直子。最後には「この人について行く」という妻の言葉が残る。そこまでくると、生き死には、もう関係ない。筋としては時任謙作という男の我儘物語ですが、そこに女性批判があったり自然の描写があって、読み応えがあります。細部が光っているのです。小説って、いろんな読み方ができるんですね。


【作品のモデルについて】

父親との確執を題材に書き始めた小説ですから、おのずと登場人物も志賀直哉の周りの人物がモデルではないかと言われています。

<坂口>

最初に登場する友人の作家 坂口は、里見弴だという話もあります。

白樺派の盟友、志賀直哉と里見弴は人生の内、何回か衝突し、絶交も何回かしているけれど、この時期は、里見弴が『妻を買ふ經驗』で、志賀直哉らしき人物を露骨な形で登場させたことで、絶交していた時期と思われます。

 

第一章の冒頭は、「時任謙作の坂口に対する段々に積もって行つた不快も坂口の今度の小説で到底結論に達したと思ふと、彼は腹立たしい中にも清々しい気持ちになった。」と書かれています。

相当、怒り心頭だったのかも知れません。


【作品評】
 
大岡昇平 小説家 「近代日本文学の代表作の一つで、 近代文学の最高峰である」。
横光利一 初期の短編は志賀直哉の影響をかなり受けている。
小津安二郎 『暗夜行路』に感銘を受けたと日記に書いており、映画「風の中の牝どり」には『暗夜行路』の中のモチーフが使われているという。
河上徹太郎 「現代最上の恋愛小説」。
小川国夫 「日本文学史で最も秀でた峰」
中野重治 「拵えものだ」。
小林秀雄 確かな智慧だけで書かれてゐる」 。
本多秋五 「骨ばかりの小説」
中村光夫 「あきらかに失敗作」
河合栄治郎 「主人公の気分の余りにデリケートなのが気になる」
近松秋江 「襤褸は出してゐないけれども、あれを以つて、今日一流の芸術を成した人だと、奉つてしまふのは、あまり文壇そのものが、安価といふことになるね」( 『芥川龍之介全集 第十六巻』)。

 松岡正剛1236夜「志賀直哉/暗夜行路」。
内村鑑三に影響を受けた。小説の神様と言われた。白樺派だったが、距離も保った。書画骨董を見抜く目をもっていた。多くの作家たちが志賀直哉の前ではひどく緊張した。たしかに短篇は抜群なものがある。文章もうまい。引き算もある。が、変な展開にもなっている。実は志賀直哉はどこかが変なのだ。まして『暗夜行路』は大いに変である。いったい、この作家は何だったのか。時任謙作とは誰なのか。なぜここから、日本の私小説が脈打っていったのか。
志賀直哉とは意外です。
そうかな。寂寞ではあっても虚無はない。端然としているけれど孤高ではない。憂鬱でも喪失はない。そういうこともあるからね。
好きなんですか。
実は志賀直哉には妙に困ってるんだね。引っ掛かっている。嫌になったり好きになったりする。昔からぽつぽつ読んでいて、暇つぶしと言っちゃ悪いだろうが、ああ、こういうところが志賀直哉だな、なるほどうまいもんだ、ここはつまらないことを書いたもんだと無責任に読み済ませてきたんだけれど、それでふりかえってみるとけっこうな量を読んだようなんだ。もっとも、この人のものは『暗夜行路』以外はすべて短篇だから、すぐ読める。『和解』などは中篇だけどね。
じゃあ、けっこう好きなんですよ(笑)。
そうかなあ。志賀直哉という“生きもの”に引きずられて読んできたような気がするね。作品は、読めば読むほど知れば知るほど細部が気になるのだけれど、そのぶん全貌はぼけてくるんだよ。それでもこういう文芸文人が日本にとっくにいなくなったとも感じて、その生き方がぼくの判断をゆさぶるんだね。それで、ついつい読んできた。
何に困るんですか。

“生きもの”をどう見るかということで困ってる。いやね、その文学にはいまさら困らないよ。白樺派だからいいわけでもなく、花袋や藤村(196夜)らの自然主義っぽい立ち位置に反骨したから気にいるわけじゃないし。だいたい志賀を文学論したってしょうがないよ。そこは、そういうぼくの読みもある。これまで多くの批評家たちが志賀文学の評価をまちまちにしてきたが、そこはぼくには痛くも痒くも、気にもならないんだね。楽しめた志賀論といえばせいぜい小林秀雄(992夜)の短いものと、阿川弘之の大作『志賀直哉』くらい。これは驚くほど詳しいものでね。さすがお弟子さんだ。

 志賀直哉ほど写真映りのいい作家はめずらしい。漱石・鴎外このかた顔のいい作家は少なくないが、川端康成(53夜)五木寛之(801夜)も比較にならないくらいではないか。最近は白洲次郎の男っぷりがたいそう評判になっているが、外見だけなら志賀のほうがずっと高みも味もあるだろう。
 志賀は何度も引っ越しをしている。尾道にもいたし、京都南禅寺の宿坊にも鎌倉の叔父の隣りの家にも住んだ。柳宗悦(427夜)に勧められて我孫子に住んだときは武者小路実篤も越してきて、ちょっとした白樺派の村になった。奈良の幸町の大きな家に移り住んでからは千客万来で、小林秀雄や網野菊や小林多喜二や阿川弘之がそのときのことを記している。いわゆる“志賀詣で”は早くからのことだったのである。そうやって多くの者が志賀を訪れてみんなが感じることは、一種の「威儀」のようなものだったらしい。とくに編集者や記者たちは、みんな緊張したという。やはりあの顔貌のせいだろう。

そういうカッコいい志賀直哉であるのに、その姿にふさわしくない言動もする。そこが困るのだ。一方で書画骨董を書く目がたいへんおもしろいのと、他方で急に日本の国語をフランス語にしたらどうかと思うなどとロクでもないことを言うあたりとが、とんと反りが合わないところなのである。
 よく志賀直哉のリアリズムとユーモアというけれど、ぼくはその両方を、とくにユーモアを遊べない。まして日本の国語をフランス語にしてみたらなどというのは、リアリズムにもユーモアにもならなくて、聞かされるほうが困るだけである。爺さん、よまいごとを言っちゃいけません。最近では河合隼雄が「英語を第二公用語にしたい」と発案したときも、おいおい爺さんという失調だった。

座談会「志賀さんを囲んで」の出席者たちと。右より丹羽文雄、小林秀雄、志賀、川端康成
(昭和30年 撮影・土門拳)
日本語をフランス語にしようと言ったんですか。
深く考えたわけじゃないだろうね。つい口がすべったんだ。
志賀直哉の写実描写にリアリズムもなく、よく言われるようなユーモアも感じないんですか。
感じない。文章というものをそのまま感じるけれど、その奥に写実の哲学やヒューマニズムが動いているとは感じないね。だから、ついつい読むんだろうね。
ふーん、そういうものですか。
志賀の言動は作品にもはみだしてくる。たとえば『万暦赤絵』(ばんれきあかえ)だ。5年ほどの書けなかった時期を破って発表した作品である。このなかでの大雅や鉄斎は好きだが円山派や崋山が嫌いで、宗達はいいけれど光悦には誇張や成心があっていけないという見方は、なかなか結構だ。それを言葉にしている口調もうまい。さすがなものがある。では、その目で書いている続きの展開がおもしろいかというと、古月軒の鉢や山科毘沙門堂の青磁花生「万声」や殷周青銅器などについての静謐だったり怖がったりの書きっぷりにくらべて、赤絵の高値を聞いて仔犬を買ったといういきさつを綴るあたりからあとが、まったくつまらない。『万暦赤絵』は、よく知られているように『城の崎にて』や『小僧の神様』や『清兵衛と瓢箪』などとならんで志賀を有名にした小篇である。教科書にも載るほど、よく知られている。それでも納得できないところが多い。
 正直いうと、その『城の崎にて』や『小僧の神様』にだって、反りが合わないところが少なくない。とくに話が進んで作家の感情がまとまっていくところからが、つまらない。文学としてではなく、志賀直哉の直情がナマに顔を出すのが変なのだ。
 『城の崎にて』では蜂が死んでいるところ、鼠が川から這い上がるところまでと、そのあとイモリに石を投げ付けてその心情を描写しているところの精神がつながっていないし、『小僧の神様』では男が小僧に上等な寿司を食べさせる気になったところと、その男を小僧が神様だと思うようになるところの感情がつながらず、男が自分のした慈善行為のようなものを悔やんでいるところは、もっと切れている。
じゃあ、志賀直哉はダメじゃないですか。
それがそうでもないんだな。
ええっ、それはわかりませんね。
ぼくも説明がつなかくて、だから困ってるんだ。
それは志賀直哉に松岡さんを困らせているものがあるということですか、それとも松岡さんには志賀直哉に惹かれるものを説明するものがなくて、困っているんですか。
なんだか追いつめられてるなあ(笑)。でも、志賀直哉はやっぱり変なんだよ。
 トーマス・マン(316夜)には“trotzdem”がある。かつてこの言葉については荒正人が持ち出していたことがある。「にもかかわらず」というやつだ。それが志賀直哉にもある。ただ、志賀の“trotzdem”には絶妙なときと、そうでないときがある。
 マンは文学のほうを根底から「にもかかわらず」にしているのだが、志賀はその生き方に「にもかかわらず」が入っているはずなのに、それを文学するとき、最初はリアルなのだが、そのうち出来事が精神や感情にかかわってくる場面になると急に「心をふりかえる」という癖を出す。そのうえ悪いことに、そこを主人公が精一杯に突破していこうとするふうに書く。これがもっと変なのだ。
 それでも「にもかかわらず」が蜂や寿司のような、ごくごく小さな出来事や観察に向けられているときは、その文章の彫琢とあいまって、これこそが志賀直哉だとみんなが思うほどの出来映えになるのだが、その小さな「にもかかわらず」が筋や流れに与かろうとしてくると、そこに志賀の声や体がもっている倫理感や訂正感のようなものが出てきて、つまりは精神や感情が顔を出して、それが困るのだ。
 そのような「変」の塊りの集大成のようなのが『暗夜行路』だった。ぼくが高校時代に表題につられて『暗夜行路』を読んだときは、こりゃあ勘弁してくれよと思ったものだ。文章のせいではない。この作家がこの作品に入れ込んでいるらしい得体の知れないものが、そのころのぼくのような高校生にはどうにも付き合えそうもないものだったのだ。
 だったら、そのまま食わず嫌いになったっておかしくなかったのに、それがいろいろの志賀を次々に読めるようになったのだから、そこが不思議なのである。短篇ばかりだったせいかもしれないし、文句をつけても許してもらえそうな作家だと見立てられたかもしれない。
 しかしふと思うのは、そのように何だかんだといちゃもんをつけていても、それを平気で読ませてしまうところが、それも次から次へと読ませてしまうところが、ひょっとすると志賀直哉の真骨頂なのかもしれないということなのである。
それって松岡さんがまるめこまれてるっていうことですよ。
まあ、そうなるか。
そうですよ。
でも、作品に感動はしてない。
どんな作品なら好きなんですか。
作品として褒めたいものはないね。茶碗の手触りのようなものでその茶碗を見るということがあるように、それだけでその茶碗とお別れすることがあるように、そんなふうに文章の風情で読んできたからね。
『暗夜行路』はどこがダメなんですか。ダメなのにとりあげるのは、どうしてですか。それって「千夜千冊」のルール違反ですよね。
あのね、ダメなのに『暗夜行路』を書きつづけた志賀直哉が謎なんだよ。
ええっ、それもわからない。
だから、わからないから謎なんだ(笑)。
困ったもんですね。
そうだろ。だから困ったもんなんだ。
 志賀は『暗夜行路』に着手してから26年をかけた。まずは大正元年の尾道で『時任謙作』という標題で書きはじめて、3年をかけたのに挫折した。
 主題としていた「父との不和」が一件落着してしまったので書けなくなったというのが志賀自身の“自作解説”なのだが、あとでふれるように、これについてはちょっと納得できないものがある。やっと組み直しての最初の発表は、志賀が31歳になっていた大正10年のことで、それでもまた難産しつづけて昭和12年3月の「改造」でなんとか完結した。
 そんなに時間をかけた理由がどこにあったのか。これがまたわからない。そもそも文章を書くこと自体には、何の痛痒も感じていない作家なのである。芥川(931夜)が「志賀さんの文章みたいなのは書きたくても書けない。どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね」と言ったら、漱石(583夜)が「文章を書こうと思わずに、思うまま書くからああいうふうに書けるんだろう。俺もああいうのは書けない」と答えているほどだ。漱石は志賀が終生尊敬していた先生だった。
 どういう文章かというと、たとえば『剃刀』(かみそり)の冒頭でいうとこういうふうだ。「麻布六本木の辰床(たつどこ)の芳三郎は風邪のため珍しく床へ就いた。それが丁度秋季皇霊祭の前にかかつてゐたから兵隊の仕事に忙(せわ)しい盛りだつた。彼は寝ながら一ト月前に追ひ出した源公(げんこう)と治太公(じたこう)が居たらと考へた」。これは、うまい。また、こうである。『范の犯罪』の冒頭はこうなっている。「范(はん)といふ若い支那人の奇術師が演芸中に出刃包丁程のナイフで其妻の頸動脈を切断したといふう不意な出来事が起つた。若い妻は其場で死んで了つた。范は直ぐ捕へられた」。
 あっというまに引きこまれる文章だ。続いて、「現場は座長も、助手の支那人も、口上云ひも、尚三百人余りの観客も見てゐた。観客席の端に一段高く椅子をかまへて一人の巡査も見てゐたのである。所が此事件はこれ程大勢の視線の中心に行はれた事でありながら、それが故意の業(わざ)か、過ちの出来事か、全く解らなくなつて了つた」。
 どう見ても文句のつけようがない。こういう力があるのだから、文章を書いていくことに不如意なわけではないのだ。
 時代考証をしたり調査したりして書く作家でもなかった(志賀はほとんど調べものをしていない)。だから歴史小説はほとんど書いていないし、『暗夜行路』で題材にした何かを調べているうちに時間がかかったわけでもないのである。
 それなのに時間がかかったというのは、筋書きに困ったか、主題が脆弱だったか、嫌気がさしたか、志賀直哉という人間のなかで長編に合わないものがあったか、そのいずれかなのである。
それじゃあ志賀直哉は『暗夜行路』を書かなかったほうがよかったんですか。
書かなきゃいられなかったろうね。そんなこと、いくらでも人生におこるからね。巨きな縄を綯いたいとか、大凧を上げたいときとか。できそうもない仕事をやってみるとか。そりゃあ失敗もあるけれど、それとは別に挑み続けるわけよ。
ああ、文学もそういうものなんですね。
少なくとも志賀直哉はそういうふうにしたんだね。それを一貫させたわけだ。
それが私小説の母型になったんですか。

志賀直哉にはそんなつもりはないんだよ。あとの連中がそうしたわけだ。母型って、そういうものだからね。

 長編小説には、切れと省略のあるうまい文章が書けるからといって、それをそのまま連続して仕上げるというわけにはいかないカマエとハコビが要求される。いわば「構造の耐性力」とでもいうものが必要だ。それが志賀には作れなかったか、あるいは性分に合わなかった。実際にも『暗夜行路』だけ書いて、あとは短篇か随筆ばかりだった。しかしそれでも、志賀は『暗夜行路』に前後25年を注いだのである。しかもそれを完成させることが、自分の天分を問うものだというほどの意志をもってとりくんだ。志賀には晩年に綴った『創作余談』とか『続創作余談』という自作解説のようなものがあるのだが、それには、「文字通り生命を打ちこんだ」とあるし、「創作の仕事は其人の所謂天分にもあるが、それ以上により進んだ良き作品を作らうといふ不断の意志が必要である」ともあって、「さらに一方からいへば此意志を持ち続けられるといふ事、それが既にその人の天分であるとも考へられる」とも綴っている。
 それにもかかわらず『暗夜行路』は稀にみる難産となった。途中で何度も放棄しようとしていたはずだが、それを書き了えた。結果、小説としての評判はむちゃくちゃだった。毀誉褒貶がばらばらだ。河上徹太郎は「現代最上の恋愛小説」だと言うし、中野重治は「拵えものだ」と言った。小林秀雄(992夜)は「確かな智慧だけで書かれてゐる」と評し、本多秋五は「骨ばかりの小説である」と腐(くさ)した。中村光夫は「あきらかに失敗作だ」と詰(なじ)り、小川国夫は「『和解』と『暗夜行路』が日本文学史で最も秀でた峰」と褒めた。
 つまりは『暗夜行路』は各人に等しくひっかかるものを残したのである。失敗作か成功作かさえ定まらないのに、だ。
 それだけでなく、志賀は『暗夜行路』を含めて私小説の原型も、反私小説の原型もつくった。「私」を小説にする作法と反作法とでもいうものだろう。『暗夜行路』の前段にあたる『和解』は私小説の絶品として神棚に上がっているほどなのである。なぜ、そんなことが志賀にできたのか。気まぐれではないだろう。というようなわけで、謎の『暗夜行路』が大きく志賀直哉自身の謎として覆いかぶさってくることになるわけである。

実は、私は『暗夜行路』は読んでないんです。
まあ、いいよ。いつものことだから(笑)。
時任謙作っていう主人公ですよね。
『暗夜行路』を書く前に、エチュードのような『時任謙作』という作品を書いているんだね。それをだいたい踏襲したので、主人公は時任謙作のまま。
志賀直哉自身のことですか。
まあね。おおむねは実際に志賀の身におこったことがあれこれ組み合わせを変えて綴られているね。ただしここにはひとつ、大きなフィクションが加わっているんだね。お栄に惚れるというフィクション。
お栄?
うん、祖父のお妾さん。いろいろ思案したあげくに、このフィクションを仕掛けたことが、この小説に次から次へと「変」をおこす理由になっているんだろうな。
やっぱり読んでみようかな。
母が死に、まったく馴染みのなかった祖父のもとに引き取られて育った時任謙作は、自分が母からは愛されていただろうが、父にはなぜか冷たく扱われているという感想をずっともっていた。
 祖父も亡くなり、青年となった謙作は祖父の妾だったお栄と暮らすようになった。やがて作家をめざすつもりになった謙作は、伯母の娘の愛子が好きになり求婚してみるのだが、容れられず、そのことで心に傷を負ってしまった。謙作の求婚問題で父と兄と伯母がとった態度にも、なんだか不可解なところがある。自分は父や愛子のみならず、誰からも愛されないのではないか。謙作は自己嫌悪をかこち、一人で暗い行路を進んでいる自分を感じるようになっていく。
 気晴らしに遊蕩をしてみた。吉原などの花柳界に遊んでみると、自分が実はお栄が好きだということに気がついた。が、それこそは禁断の愛である。謙作はこの苦悩から逃れ、これまでの生活を清算するために尾道に行く。家を借り、創作に打ちこもうとした。けれどもどうにも落ち着かない。四国に旅に出てみたが、その途中ではむしろお栄に対する春情が募るばかりだった。尾道に戻ると、自分がお栄と結婚したいのだという気持ちを手紙に書いて兄の信行に送った。
 兄から返事がきた。そんなことは大反対だし、お栄もむろん不承知であることが書いてある。それとともに、そこにはさらに恐ろしいことが告げられていた。
 謙作が父の子ではなく、父の外遊中に祖父と母とがかりそめに交わったときの子だったというのである。このことは、謙作が幼少期このかた漠然と感じていた懸念の正体をあかした。自分は「不義の子」だったという正体だ。兄はお前がこのことを知ったらといって、いまのお前はもう参らないだろうというのだが、謙作はこのような自分の正体に参ってしまった。
 が、これで謙作はふっ切れざるをえなかった。創作に打ちこむことこそ「唯一の血路」だと決意した。そこへまた兄からの手紙がきて、父がお栄を追い出そうとしているとあった。お栄が謙作に結婚の思いを抱かせたというのが気にいらないのだ。
 かくて謙作は尾道を引き上げて上京し、ついにお栄とともに大森で暮らすことになる。むろんこんなことがうまくいくはずがない。謙作は以前にまして遊蕩に耽り、精神の彷徨はますます暗夜行路する。
それって、けっこうおもしろいじゃないですか。
そうかな。じゃあ読んでみるといいよ。でも問題はこの程度の筋書きにあるだけじゃないからね。
何にあるんですか?
生き方と考え方の並木路にある。
でも、それが暗夜の行路なんでしょ?
まあね。
だったら読みたい。
いや、話はまだ続くんだよ。
あるとき、京都に行った。しばらく逗留していると気分が和んでくるのを感じた。自然や古寺や古美術が謙作の心を紛らせてくれたのだ。散歩をしていて、ふっくらとした面立ちの娘に出会った。「鳥毛立屏風」の美人のようだと思い、恋心が芽生えるのを感じた。いや、そのように作り上げたいと感じた。これが直子である。
 謙作は直子と結婚した。こうなれば子供もつくりたかった。が、最初に生まれた子は丹毒に罹って死んでしまった。「何か見えざる悪意」が動いているようだった。
 お栄のほうは独り立ちをする気になっていた。才子にすすめられて天津で商売をやることにした。が、お栄にも悪意がはたらいているのか、商売は失敗し、京城で無一文でいるという知らせが入った。謙作はお栄を京城へ迎えに行くことにする。お栄を連れて帰ってくると、妻の直子が従兄の要(かなめ)に不用意に犯されたという告白を聞かされた。謙作はくらくらとする自分を抑えきれなくなっていく。
 それからの謙作は直子とのあいだに新たに子を得るとともに、そこへお栄を同居させるという生活になっていた。どうしても従兄と交わった直子との溝が埋められないのである。謙作はふたたび旅に出る。
 伯耆の大山(だいせん)にさしかかった。山頂をめざし、周囲の景物にとけこんで、途中に迎えた曙光を眺めているうちに、名状しがたい感動がやってきた。やっと解放感がおとずれた。けれども下山すると、発病して倒れてしまった。
 急ぎ病院にかけつけた直子は、謙作の手をとって涙をこらえている。謙作は直子の顔をじっと眺め、「私は今、実にいい気持ちなのだよ」と言った‥‥。
ここで話が終わっている。
えっ、「私は今、実にいい気持ちなのだよ」でですか。
うん。
それって変ですね。
そうだろ。それが『暗夜行路』のなかでずっと続いているんだね。できるかぎり筋立ての齟齬を感じないようにダイジェストしてみたけれど、それも適わないような無理もある。
やっぱり変ですか。
うーん、変だね。この実感を何といえばいいかというと、志賀直哉の悶々とした模索の跡が消え切らないままに、妙に誠実な結末に軌道修正されていると言えばいいかなあ。だから筋書きはお世辞にもおもしろいとは言えないし、時任謙作にも他の登場人物にも、きっと読者は感情移入すらしにくくなっていると思うね。
じゃあ、読んでも入っていけないですかねえ。
そりゃあ、人によるよ。ぼくは入ってはいない。だから、これはプロとしては失敗作だろうね。そう言ったほうがいい。そう言ったほうがいいのだけれども、そのこととね、志賀がこの作品に賭けた意図とは別なんだよね。
どういうことですか。
たとえば黒澤明(1095夜)スタンリー・キューブリック(814夜)の映画の、何を見るのかということと似てるだろうね。失敗作と言われている『隠し砦の三悪人』や『バリー・リンドン』にでも、映画作家としての意図の凄まじさを感じることもあるわけだよ。
そうか、そういうことですか。松岡さんならそういう志賀直哉を擁護したいということですか。
擁護とか批判とかということじゃないんだね。まあ、あの着流しの爺さんには会ってはみたかったかな。
志賀邸にて。左より志賀、武者小路実篤、里見とん
(昭和26年)
志賀直哉は石巻に生まれて2歳のころに東京に移った。父の直温(なおはる)は慶応義塾を出て渋沢栄一の国立第一銀行に勤めていたが、東京では文部省に入り、そのうち頭角をあらわして経済界に転じると、総武鉄道の役員や東洋製薬の会長や帝国生命の取締役を歴任した。
 志賀自身が言っていることだが、総武鉄道を辞めるときは3万円をもらっている。「3万円といふと一ト財産だ。それを株を買ったり色々なことをして殖やしていった」らしい。だから志賀は裕福に育った。が、こういう父に志賀は馴染めなかった。父には趣味もない。交詢社ビルに行っては牧野伸顕や松方正作らと碁を打っていればよかった。
 志賀が馴染んだのは祖父の直道のほうである。祖父は二宮尊徳の弟子筋にあたっていて、日光今市にしばらくいたのち相馬家に家令として仕えた。たいへんハイカラな男だったようで、一日3回をパン食にしたり、オートミールを好んだりした。ただ、恩義のある古河市兵衛が渡良瀬川の鉱毒事件に巻きこまれてからは沈思するようになり、仏教や禅学に傾いた。祖父の理想は一筋に尊徳と白隠(731夜)になっていった。そういうところに惹かれたのかどうかは知らないが、志賀は長らく父よりも祖父に好感をもちつづけた。
 明治22年(1889)、学習院の初等科(そのころは虎ノ門)に入った。お濠を前にした立派な煉瓦造りの建物で、教室にはスチーム暖房が通っていた。『奥津』に綴られているように、ここでは少年は相撲や棒取りやエビ掬いに夢中になっている。そういう少年期の志賀に最初におこった事件は母親の死である。13歳のときのことだが、すぐに浩(こう)という24歳の新しい母が来た。
 この母の交代は迅速だったようで、志賀に妙な感興をもたらした。母の死の悲しみに深く陥るということもなかった一方、意外にも、いわゆる継母を迎えた少年としての辛い体験など何もなかったようなのだ。有名な『母の死と新しい母』では、義母に対する「淡い一種の得意」というものが誇らしげに綴られている。ちなみに志賀は生涯にわたって、決して“継母”とは書かず“義母”と綴りつづけた。新たな母は志賀に仄かな恋心をさえ芽生えさせたのだろう。けれどもその母が父の新たな伴侶でもあることには抵抗もあった。このあたりが志賀が青年になるにつれ、ちょっとした溝というか、奇妙な鳩尾(みぞおち)の感覚になっていく。紅葉(891夜)の『金色夜叉』や鏡花(917夜)の『化銀杏』や徳富蘆花の『不如帰』などを熱心に読んだのは、そういう心情とも関係があったろう。
鳩尾ですか。
うん、鳩尾。そのあたりで見るほうがいいと思ってね。背中じゃないな。
私ら、胸キュンのほうですから、そこがちがいますね。
丹田じゃないね。うん、志賀直哉は鳩尾だよ。
麻布三河台に移っていた家に末永馨という書生がいた。18歳のとき、この書生が志賀を内村鑑三(250夜)の講演会に連れていった。かなりの感化をうけた。『内村鑑三先生の憶ひ出』には、自分が生涯で影響をうけたのは祖父と内村先生と武者小路実篤の3人だと書いている。おそらくは「意思」というものを貫くことを受信したのだ。けれどもキリスト教には靡いていない。
 ところで志賀は学習院中等科を3年から4年に進級するときに、落第をしていた。あまりベンキョー好きではなかったのだ。正義や感動には弱かったし、小説を読むのは大好きだったけれど、社会的努力は嫌いだった。そのせいか、20歳で6年になるときも落第した。当時の学習院中等科は6年制だったから、6年原級に留めおかれたのである。
 このとき、1級下の木下利玄・正親町公和・武者小路実篤・細川護立らと同級になった。ここから武者小路との交遊が始まる。それとともにのちの白樺派の動きも始まった。みんな文芸好きだったのだ。高等学科に進んだ志賀も、半分は遊び気分で童話っぽい『菜の花と小娘』を書く。読んでみたが、他愛のないものだ。
学習院を出ると、東京帝国大学の英文科に入った。ここでまた事件がおこった。ひとつは祖父の死であるが、もうひとつは志賀家の女中に惚れた。惚れただけではなく結婚をする約束までしてしまった(この女中の名前はいまなお伏せられている。阿川弘之は「千代」という仮名にしている)。
 けれども、これに父親が猛然と反対をする。武者小路やその叔父の勘解由小路(かでゆこうじ)資承らがあいだに入ったのだが、まったく融和はおこらない。父親は女を捨てるか家を捨てるか二つにひとつと言明し、志賀は家を出る覚悟を決めた。養鶏でもやろうと思ったのだ。
 なぜ養鶏をしようとしたのかは、わからない。上田三四二(627夜)の『島木赤彦』には、島木が小学校の教師をやめて「文学と養鶏に専念する」というくだりが出てくるが、当時は食えない文学者が養鶏にをするというのもひとつのハヤリだったと上田は書いている。が、志賀にはそんなことはできない。口先だけだ。養鶏もできなかったし、結婚もなんとなくあきらめた。ともかくも志賀直哉という人物、からっきし社会的実践力はない。ただ、ひたすら内面の意思ばかりが強いのだ。
 大学も3年のときに国文科に転科するのだが、まもなく中途退学をする。こういうところにも、社会の欠如があらわれている。しかもこのころは昼過ぎまで寝ていて、夕方から悪所通いをするような日々だったのである。ただ、父親との亀裂は広がる一方で、鳩尾の溝は深まっていくばかり。『青臭帖』や『大津順吉』には当時の自分を評して、「不愉快で元気のない顔」とか「何処か不均衡な所のあるのは自分でも感じてゐた」とある。
なんだか自己リアリストっぽいですね。
でも、社会が欠けている。
社会の欠如ですか。
ぼくは生活の欠如だけれど、志賀直哉は社会の欠如だね。その後の作品や随筆を見ても、戦争についても関東大震災についても、大逆事件についても社会的犯罪についても、ほとんど何も書いてない。
それなのに国語をフランス語にしたらどうかなどとは言ったんですね。
口がすべったんだよ。
白樺派のメンバーになったのは?
あれも志賀直哉にとっては社会じゃないね。
明治43年(1910)、28歳になっていた志賀は「白樺」の創刊に参加した。すでに学習院出身者によって「望野」「麦」「桃園」という同人誌が出ていたのを合同させたものだった。
学習院出身者による文学読み合わせ会「一四日会」の会合
右より、直哉、木下利玄、正親町公和、武者小路実篤
このグループの活動が「白樺」創刊に発展
武者小路・木下・正親町・志賀に加えて、里見とん・児島喜久雄・柳宗悦(427夜)有島武郎(650夜)・細川護立が、さらに梅原龍三郎・津田青楓らが加わった。志賀は創刊号に『網走まで』を書く。何のおもしろみもない。
 志賀にとっての白樺派については、とくに説明したいことはない。白樺派がユニークなのは、そのメンバーシップなのである。島崎藤村が、あの人たちは遊び半分なのだろうからそのうち苦しい目にあえば文筆を捨てるだろうと言ったことに、志賀がずっとこだわって反発をしつづけたことを記すにとどめる。また、のちには友情を取り戻す武者小路に、いっときの怒りで絶交を叩きつけたりしていたことを言い添えるにとどめる。
 30歳になった。父親との不和はあいかわらず進行していて、いたたまれないものになっていた。ここで志賀はついに行動をおこす。尾道に行ったのだ。志賀には社会的実践力はないのだが、引っ越しや旅行にはめっぽう強い。このときも尾道転居がもたらしたものが大きかった。いよいよ『時任謙作』にとりくんだのだ。その『時任謙作』に難産したことはすでにのべた。が、これは最初から難産したのではなく、漱石から東京朝日新聞での連載小説を頼まれて、それを『時任謙作』にしようとしてから、つっかえた。尾道から引き上げ、東京でとりくんでも筆は進まない。そのあいだに、城崎温泉に行くのだが(これが『城ノ崎にて』になる)、気をとりなおしてまた尾道に戻って書いても、何もまとまらなかったのだ。結局、漱石に詫びを入れ、連載小説は沙汰止みとなった。物語の構造を作りえなかったこと、連載の序破急に自信がもてなかったこと、漱石にに対する負い目、いろいろ原因があろう。が、一番の解決策は新聞連載を降りることだったのである。これでホッとした志賀は、32歳のときに武者小路の叔父の勘解由小路の娘を貰うことになる。康子(さだこ)である。
 が、これまた父親が反対するところとなった。志賀は憤然として康子を連れて鎌倉へ、赤城へ移り、さらに上高地・京都・奈良を長期旅行して、我孫子に転居してしまう。そのあと長女が生まれるのだが、まもなく死亡。またまた信州・山中温泉・京都・奈良を旅行しつづけた。それ以外の手がなかったのである。しかし、そのような志賀であればこそ、旅先で見聞したことがしだいに名文に昇華できたわけでもある。
 つまりはいつも感情に左右されていて、その自分と闘いつづけていたのが志賀直哉なのである。
武者小路実篤邸にて(大正6年)
後列左より金子洋文、一人おいて武者小路、柳宗悦、志賀、康子
前列左より柳兼子、武者小路房子、武者小路喜久子
連載小説が書けないんですか。
そうなんだね。新聞小説は社会に近いものだしね。
それじゃ、隠遁者っていうことですよね。
そんな高邁な感覚ではないだろうね。存在は高邁だけれど、思想はタオでもないし、隠逸でもない。
それって変ですよ。
だから変だと言ってるわけよ。
大正6年(1917)、35歳の志賀に思いがけないものが訪れる。あれほど嫌っていた父親との不和が魔法のように解消されるのだ。このことについては『和解』にかなり丹念な経緯が書かれているのだが、これを小説ではなく、志賀が実際にどのような鳩尾を経験し、それがどのように実際の父親との和解に至ったのかというドキュメンテーションとして読もうとすると、どうも釈然としないものがある。
 ありていにいえば、父との不和がそれほど大きいものとは見えてこないし、それゆえその父との和解が男児一生の光明になるとも見えてこないのだ。それなのに志賀はこのことを契機に変わっていく。まるでフィクショナルな「父との闘争」を巧みに内化することによって、新たな“文中の志賀直哉”づくりにとりくんでいったかのようなのだ。
 それは、こんなところで比較するのもたいそうだけれど、ドストエフスキー(950夜)フロイト(895夜)の「父との闘争」にくらべて、なんとも草花の萎れと蘇生のように、どうにも繊細で微妙なものであったのだ。
 しかし、これが志賀直哉なのである。志賀直哉という文人なのである。こうして39歳のとき、志賀はついに『暗夜行路』によってすべての志賀直哉を描きうるとして、その前編を「改造」に発表した。
で、どうなったんですか。
このあとの志賀の人生を追うのはやめようよ。これからあと、89歳に及ぶ淡々たる人生が待っているんだけれどね。
淡々って何をしてたんですか。タオでもなく隠逸の士でもないんでしょ。
ここからは美術工芸に耽溺したり、奈良に居を構えたり、寂しいからいつも人を招いたりするんだな。そういう淡々。
それだけですか。
うん、それだけ。54歳のときには『暗夜行路』後編の最終部分を書き上げて発表するけどね。66歳のときは文化勲章を受賞する
それって、松岡さんがわざと変なふうに言ってるだけじゃないんですか。
そう思うなら、自分で読んだり調べたりすればいい。ぼくはこの程度だね。
じゃあ、せめて松岡さんが勧める作品をあげてください。
たくさん読むといいと思うよ。ライトノベルなど読むよりはいいだろう。「にもかかわらず」がいろいろ感じられてくる。
あえて言うと?
そうだなあ、『真鶴』とかかな。
はい。では、志賀直哉という人物を一言でいうと?
困った人(笑)。じゃなければ、向きな奴かな。
ムキになる人?
うん、そうだね。
松岡さんはムキにはならないんですか。
ずうっとムキになっている。ただし志賀直哉とは別のところでね。ぼくはどちらかというと、じっとしてるほうだしね。
ひょっとして同じ向きだったりして(笑)。





(私論.私見)