れんだいこの「西郷南州翁遺訓」考 |
(最新見直し2008.2.7日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
縁あって「西郷南州翁遺訓」を読む事になったが、本書の史的価値はなへんにあるのだろうか。れんだいこは、幕末維新から明治維新過程に於ける二つの路線の闘争があり、幕末維新を勝利的に進め明治維新過程で敗北していった西郷派の政治家及び官吏服務規律であると窺う。 西郷派が敗れたことにより「西郷南州翁遺訓」も叉反故にされた。代わりに跋扈したのはネオ・シオニズム型政治家及び官吏服務規律であり、それは今日の政治腐敗、官僚腐敗へと辿り着いていることを知る。そういう意味で、「西郷南州翁遺訓」には、かの時、西郷派が敗れなかったなら今に垂範されていたかも知れない政治家及び官吏服務規律として偲ぶ値打ちがある。 2008.2.8日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評368 | れんだいこ | 2008/02/09 | ||
【「南州翁遺訓」考】 思うところ有り、「南州翁遺訓」を読んだ。案外と片言隻句しかサイトアップされておらず、れんだいこが一括計上した。「名文翻訳サイト」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/meibunhonyaku/)に格納した。 それにしても情報過多とも云えるこの時代に於いて、肝腎なものが晒されていないのは偶然か。岩国市長選なぞ本来ならマスコミが突き回るのが常道のところ、報道管制が敷かれているかのごとく採り上げないのは偶然か。人は溜まり場で口をパクパクさせるが、報道管制下の愚劣情報の任意なものに感応して論っているだけのように思える。 これは人が悪いのではない。現代科学技術の成果を捻じ曲げて支配の道具にしか機能させていない、政治の悪さに因る。しからば、人民大衆側に立つ報道機関、電波媒体の一刻も早い創出が望まれていることになろう。マスコミをナベツネ派の覇権から解放せよ。これが一級の命題となって我々に課せられている。これを思うべしだろう。誰か本当に立ち上げんかい。 もとへ。「南州翁遺訓」は何ゆえに貴重か。それは、幕末維新、明治維新過程で二つの流れが有り、一つは土着派−西郷派のそれであり、一つはネオ・シオニズム派のそれであり、両者が格闘した結果、後者が勝利し、それゆえに西郷派の運動が史実から隠され、「南州翁遺訓」も反故にされたことにある。 我々は、幕末維新、明治維新過程の西郷派の理想を復権させる必要がある。幕末維新、明治維新過程を裏切られた回天運動と位置づけ、ネオ・シオニズム派の今に続く悪事を一掃させる必要がある。この視点に立たない限り、現下の政治の貧困の真因が解けないのではなかろうか。「南州翁遺訓」再生は、その端緒に立つ任務なのではなかろうか。 それにしても、日本左派運動が、こういう土着派の運動に注目せず、西欧の一挙手一動作の皮相的な紹介に勤しんできたのは「裏切られた回天運動の左からの延長戦物語」でしかないのではなかろうか。れんだいこが土着派の見直しに向かうのは、そういう理由にも支えられている。 西郷派の運動を左から汲み取ったらどういう指針になるのか。それを当分問い続けたいと思う。世上云われるネオ・シオニズム派教本に基く征韓論論争は史実的に正確なのか。案外逆に描いているのではなかろうか。士族の反乱も然り。武士の身分を取り上げられたことに対する我が身本位的な抵抗だったのか。事実は、裏切られようとする回天運動に対する最後の一大抵抗であり決戦だったのではないのか。自由民権運動はどのような位相からまれたのか等々。 思えば我々が倣ってきた歴史書なり歴史観はネオ・シオニズム派が都合のよいように書き替えた偽書に過ぎず、日本左派運動もまたこの種の教本の範疇で適当な事を云いたい放題してきただけなのではないのか。そういう疑問にまで辿り着く。この観点に立てば、本当の学問と云うのがいかに為されていないのか驚くばかりである。御意の士よ、共々に列なれ。 2008.2.9日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)
(私論.私見)