続編1

更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【続金色夜叉】
 与紅葉山人書 学海居士
 紅葉山人足下。僕幼嗜読稗史小説。当時行於世者。京伝三馬一九。及曲亭柳亭春水数輩。雖有文辞之巧麗。搆思之妙絶。多是舐古人之糟粕。拾兎園之残簡。聊以加己意焉耳。独曲亭柳亭二子較之余子。学問該博。熟慣典故。所謂換骨奪胎。頗有可観者。如八犬弓張侠客伝。及田舎源氏諸国物語類是也。然在当時。読此等書者。不過閭巷少年。畧識文字。間有渉猟史伝者。識見浅薄。不足以判其巧拙良否焉。而文学之士斥為鄙猥。為害風紊俗。禁子弟不得縦読。其風習可以見矣。」年二十一二。稍読水滸西遊金瓶三国紅楼諸書。兼及我源語竹取宇津保俊蔭等書。乃知稗史小説。亦文学之一途。不必止游戯也。而所最喜。在水滸金瓶紅楼。及源語。能尽人情之隠微。世態之曲折。用筆周到。渾思巧緻。而源氏之能描性情。文雅而思深。金瓶之能写人品。筆密而心細。蓋千古無比也。近時小説大行。少好文辞者。莫不争先攘臂其間。然率不過陋巷之談。鄙夫之事。至大手筆如金瓶源氏等者。寥乎無聞何也。僕及読足下所著諸書。所謂細心邃思者。知不使古人専美於上矣。多情多恨金色夜叉類。殆与金瓶源語相似。僕反覆熟読不能置也。惜範囲狭。而事跡微。地位卑而思想偏。未足以展布足下之大才矣。盍借一大幻境。以運思馳筆。必有大可観者。僕老矣。若得足下之一大著述。快読之。是一生之願也。足下以何如。

【続金色夜叉/第一章】
 時をぜになりとしてこれを換算せば、一秒を一毛に見積りて、壱人前いちにんまへ睡量ねぶりだかそ八時間を除きたる一日の正味十六時間は、実に金五円七拾六銭に相当す。これを三百六十五日の一年に合計すれば、金弐千壱百〇弐円四拾銭の巨額に上るにあらずや。さればここに二十七日と推薄おしつまりたる歳末の市中は物情恟々きようきようとして、世界絶滅の期のつひに宣告せられたらんもかくやとばかりに、坐りし人は出でて歩み、歩みし人は走りて過ぎ、走りし人は足も空に、合ふさるさの気立けたたましく、肩相摩けんあひましてはきずつき、轂相撃こくあひうちては砕けぬべきをも覚えざるは、心々こころごころに今をあわて騒ぐ事ありて、不狂人も狂せるなり。彼らは皆な過去の十一箇月をあだに送りて、一秒のちりの積める弐千余円の大金を何処いづくにか振落し、後悔のしりに立ちて今更に血眼ちまなこ※(「目+登」、第3水準1-88-91)みひらき、草を分け、瓦をおこしても、その行方ゆくへを尋ねんと為るにあらざるなし。かかるひまにも常はただ一毛に値する一秒の壱銭乃至ないし拾銭にも暴騰せる貴々重々ききちようちようの時は、速射砲を連発つるべうちにするが如く飛過とびすぐるにぞ、彼等の恐慌は更に意言こころことばも及ばざるなる。

 その
平生へいぜい怠無おこたりなかりし天は、又今日に何の変易へんえきもあらず、悠々としてあをく、昭々としてひろく、浩々こうこうとして静に、しかも確然としてそのおほふべきを覆ひ、終日ひねもす北の風をおろし、夕付ゆふづく日の影を耀かがやかして、師走しはすちりおもてに高く澄めり。見遍みわたせば両行の門飾かどかざりは一様に枝葉の末広く寿山じゆざんみどりかはし、十町じつちよう軒端のきばに続く注連繩しめなはは、福海ふくかいかすみ揺曳ようえいして、繁華を添ふる春待つ景色は、うたり行くとしこんおどろかす。

 かの人々の弐千余円を失ひて
馳違はせちがふ中を、梅提げて通るはが子、猟銃かたげ行くは誰が子、と車をおなじうするは誰が子、啣楊枝くはへようじして好ききぬ着たるは誰が子、あるひは二頭だちの馬車をる者、結納ゆひのうの品々つらする者、雑誌など読みもて行く者、五人の子を数珠繋ずずつなぎにして勧工場かんこうばる者、彼らはおのおの若干そこばくの得たるところありて、かくの如く自ら足れりとるにかあらん。これらのく失へる者は喜び、彼らの多く失へるはいは憂ひ、又まれには全く失はざりし人の楽めるも、皆な内には齷齪あくそくとして、てるはけじ、虧けるは盈たんと、いづれかその求むるところに急ならざるはあらず。

 人の世は
みつあしたより花の昼、月のゆふべにもそのおもひほかはあらざれど、勇怯ゆうきようは死地にりて始てあきらかなる年の関を、物の数ともざらんほどを目にも見よとや、空臑からすねゑひを踏み、鉄鞭てつべんき、一巻のブックをふところにして、嘉平治平かへいじひらはかま焼海苔やきのりつづれる如きを穿うがち、フラネルの浴衣ゆかたの洗ひ※(「日+麗」、第4水準2-14-21)ざらして垢染あかぞめにしたるに、文目あやめも分かぬ木綿縞もめんじま布子ぬのこかさねて、ジォンソン帽の瓦色かはらいろに化けたるを頂き、焦茶地の縞羅紗しまらしや二重外套にじゆうまわしいつの冬が不用をや譲られけん、尋常なみなみよりは寸のつまりたるを、身材みのたけの人より豊なるにまとひたれば、例の袴は風にや吹断ふきちぎれんとあやふくもひらめきつつ、その人はよはひ三十六七と見えて、※(「やまいだれ+瞿」、第3水準1-88-62)かたちやせたりとにはあらねど、寒樹の夕空にりて孤なる風情ふぜいり負ふ気無げなうるはしくも富める髭髯ひげは、下にはあたりまで※(「參+毛」、第3水準1-86-45)さんさんと垂れて、左右にひねりたるは八字のつるを巻きて耳の根にも※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およびぬ。打見うちみれば面目めんもくさはやかに、稍傲ややおごれる色あれどさかしくはあらず、しかも今陶々然として酒興を発し、春の日長の野辺のべ辿たどるらんやうに、西筋の横町をこの大路にきたらんとす。

 「
ひようにして高楼にのぼり、酒を買ひ、れんを巻き、月をむかへてひ、酔中すいちゆうを払へばを射る」。彼はふしをかしく微吟を放ちて、行く行くかつ楽しむに似たり。打晴れたる空は瑠璃色るりいろ夕栄ゆふばえて、にはかまさ※(「風にょう+拔のつくり」、第4水準2-92-33)こがらしの目口にみて磨錻とぎはりを打つらんやうなるに、烈火の如き酔顔を差付けては太息嘘ふといきふいて、右に一歩左に一歩と※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)よろめきつつ、「往々おうおう悲歌ひかして流涕りゆうていす、君山くんざん※(「戔+りっとう」、第3水準1-14-63)さんきやくして湘水しようすい平に桂樹けいじゆ※(「石+欠」、第4水準2-82-33)しやくきやくして月さららかならんを、丈夫じようふ志有こころざしありて……」とうたづる時、一隊の近衛騎兵このえきへい南頭みなみがしらに馬をはやめて、真一文字まいちもんじに行手を横断するに会ひければ、彼は鉄鞭てつべんてて、舞立つ砂煙すなけむりの中にさきがけの花をよそほへる健児の参差しんさとして推行おしゆ後影うしろかげをば、さかんなるかないはまほしげに看送みおくりて、「われ四方しほうに遊びてこころを得ず、陽狂ようきようして薬を施す成都の」とそぞろにその詩のはじめをば小声こごゑほがらかに吟じゐたり。

 さては
往来ゆききいとまなき目も皆なひかれて、この節季の修羅場しゆらば天下てんかくらへるは、何者の暢気のんきか、自棄やけか、豪傑か、か、酔生児のんだくれか、とあやしき姿を見てすぐるあれば、おもてを識らんとうかがふあり、又はその身の上など思ひつつ行くもあり。彼はいたへればすべて知らず、町の殷賑にぎはひながりて、何方いづれを指して行かんとも心定らずしばらく立てるなりけり。

 さばかり人に
あやしまるれど、彼は今日のみこの町に姿をあらはしたるにあらず、折々散歩すらんやうに出来いでくることあれど、箇様かようの酔態を認むるは、兼て注目せる派出所の巡査もめづらしと思へるなり。やがて彼は鉄鞭てつべん曳鳴ひきならして大路を右に出でしが、二町ばかりも行きて、いぬゐかたより狭き坂道の開きたるかどに来にける途端に、風を帯びて馳下はせくだりたるくるまは、生憎あいにく其方そなた※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)よろめける酔客すいかく※(「月+賺のつくり」、第4水準2-85-43)よわごしあたり一衝撞ひとあてあてたりければ、彼は郤含はずみを打つて二間も彼方そなた撥飛はねとばさるるとひとしく、大地に横面擦よこづらすつてたふれたり。不思議にも無難に踏留ふみとどまりし車夫は、この麁忽そこつに気を奪れて立ちたりしが、面倒なる相手と見たりけん、そのままかぢを回して逃れんとするを、俥の上なる黒綾くろあや吾妻あづまコオト着て、素鼠縮緬すねずみちりめん頭巾被づきんかぶれる婦人は樺色無地かばいろむじ絹臘虎きぬらつこ膝掛ひざかけ推除おしのけて、めよ、返せともだゆるを、なほ聴かで曳々えいえいき行くうしろより、「待て、こら!」とかつする声に、行く人の始めて事ありとさとれるも多く、はや車夫の不情をとがむることばも聞ゆるに、たまりかねたる夫人はしひ其処そこに下車して返りきたりぬ。

 例の物見高き町中なりければ、この
せはしきはをも忘れて、寄来よりく人数にんずありの甘きを探りたるやうに、一面には遭難者の土につくばへる周辺めぐりを擁し、一面には婦人の左右にひて、目に物見んと揉立もみたてたり。婦人はみちを来つつ被物かぶりものを取りぬ。紋羽二重もんはぶたへ小豆鹿子あづきかのこ手絡てがらしたる円髷まるわげに、鼈甲脚べつこうあし金七宝きんしつぽうの玉の後簪うしろざしななめに、高蒔絵たかまきゑ政子櫛まさこぐしかざして、よそほひちりをもおそれぬべき人のひ知らず思惑おもひまどへるを、可痛いたはしのあらしへぬ花のかんばせや、と群集くんじゆおのづから声ををさめて肝にこたふるなりき。

 いと更に
おもてつつまほしきこの場を、頭巾脱ぎたる彼の可羞はづかしさと切なさとは幾許いかばかりなりけん、打赧うちあかめたる顔はき所あらぬやうに、人堵ひとがきの内を急足いそぎあし辿たどりたり。帽子も鉄鞭てつべんも、ふところにせしブックも、薩摩下駄さつまげたかたしも投散されたる中に、酔客すいかくは半ば身をもたげて血を流せる右の高頬たかほを平手におほひつつ寄来よりくる婦人を打見遣うちみやりつ。彼はその前にわるびれず会釈して、「どうも取んだ麁相そそうを致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目をちましたか、まあどうも……」。「いやたいした事はないのです」。「さやうでございますか。どこぞお痛め遊ばしましたでございませう」。腰を得立てずゐるを、婦人はなほ気遣きづかへるなり。

 車夫は
数次あまたたびこしかがめて主人の後方うしろより進出すすみいでけるが、「どうも、旦那、誠に申訳もございません、どうか、まあひらに御勘弁を願ひます」。まなこ其方そなたに転じたる酔客はいかれるとしもなけれど声粛こゑおごそかに、「貴様は善くないぞ。麁相そそうを為たと思うたら何為なぜ車をめん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥をかかする」。「へい恐れ入りました」。「どうぞ御勘弁あそばしまして」。くるまの主の身をくだしてことばを添ふれば、彼も打頷うちうなづきて、「以来気を着けい、よ」。「へい……へい」。「早う行け、行け」。やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従のよろこび引易ひきかへて、見物の飽気無あつけなさは更に望外なりき。彼らは幕の開かぬ芝居に会へる想して、に落着の蛇尾だび振はざるを悔みて、はや忙々いそがはしきびすかへすも多かりけれど、又見栄みばえあるこの場の模様に名残を惜みつつ去りへぬもありけり。

 車夫は起ち悩める酔客を
たすけて、履物はきものを拾ひ、むちを拾ひて宛行あてがへば、主人は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、ねんごろ外套がいとうはかまの泥を払はしめぬ。ゆるされし罪は消えぬべきも、歴々まざまざ挫傷すりきずのそのおもてに残れるを見れば、やましきに堪へぬ心は、なほすべき事あるををしみてせるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は可傷いたましとめたりしに、その眼色まなざしやうやく鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びてはまもりつつ便無びんなげにたたずみけるに、いでや長居は無益むやくとばかり、彼は蹌踉よろよろ踏出ふみいだせり。

 婦人はとにもかくにも
遣過やりすごせしが、又何とか思直おもひなほしけん、にはかに追行きて呼止めたり。かしら捻向ねぢむけたる酔客は※(「目+毛」、第3水準1-88-78)くもれるまなこと見据ゑて、われひとかといぶかしさにことばいださず。「もしお人違ひとちがひでございましたら御免あそばしまして。貴方あなたは、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」。「は?」。彼は覚えず身をかへして、ちようと立てたる鉄鞭にり、こはこれ白日の夢か、空華くうげの形か、正体見んと為れど、酔眼のく張るのみにて、ますまれざるはうたがひなり。「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」。「はあ? 荒尾です、荒尾です」。「あのはざま貫一を御承知の?」。「おお、間貫一、旧友でした」。「鴫沢しぎさわの宮でございます」。「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰おつしやる……?」。「はい、間の居りました宅の鴫沢」。「おお、宮さん!」。奇遇に驚かされたる彼のゑひとみは消えて、せめて昔のおもかげを認むるや、とその人を打眺うちながむるより外はあらず。「お久しぶりで御座いました」。宮はよろこび勇みてひしと寄りぬ。

 今は
うつくしくるまの主ならず、路傍の酔客ならず名宣合なのりあへるかれとこれとの思は如何いかに。間貫一が鴫沢の家にありし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りていとしかりし人にあらずや。その日の彼らは又同胞はらからにも得べからざるしたしみて、ひざをもまじへ心をも語りしにあらずや。その日の彼らは多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇をかぞへざりしなり。よしさりとも、ひとたび同胞はらから睦合むつみあへりし身の、弊衣へいいひるがへして道にひ、流車を駆りて富におごれる高下こうげ差別しやべつおのづかしゆありてせるに似たる如此かくのごときを、彼らは更に更にゆめみざりしなり。そのかぞへざりし奇遇とゆめみざりし差別しやべつとは、咄々とつとつ、相携へて二人の身上しんじようせまれるなり。女気をんなぎもろき涙ははや宮の目に湿うるほひぬ。「まあ大相お変り遊ばしたこと!」。「あなたも変りましたな!」。さしも見えざりしおもての傷の可恐おそろしきまでにますます血をいだすに、宮は持たりしハンカチイフを与へてぬぐはしめつつ、心も心ならず様子をうかがひて、「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」。彼は何やらん吩咐いひつけて車夫を遣りぬ。「ぢきこの近くに懇意の医者が居りますから、そこまでいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」。「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」。「あれ、おあぶなうございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でおいであそばしまし」。「いんや、よろしい、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」。宮は胸先むなさきやいばとほるやうにおぼゆるなりき。「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」。「しかし、どうしてゐますか、無事ですか」。「はい……」。「決して、無事ぢやないはずです」。

 生きたる心地もせずして宮の
をののけるかたはらに、車夫は見苦みぐるしからぬ一台の辻車つじぐるまを伴ひきたれり。やうやおもてあぐれば、いつ又寄りしとも知らぬ人立ひとたちを、可忌いまはしくも巡査の怪みてちかづくなり。

【続金色夜叉/第二章】
 鬚深ひげふか横面よこづら貼薬はりくすりしたる荒尾譲介あらおじようすけは既にあを酔醒ゑひさめて、煌々こうこうたる空気ラムプの前に※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)ひだもあらぬはかまひざ丈六じようろくに組みて、接待莨せつたいたばこの葉巻をくゆしつつ意気おごそかに、打萎うちしをれたる宮と熊の敷皮をななめに差向ひたり。こはこれ、彼のれるとひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる西洋造の十畳間なり。物語ははやいとぐちを解きしなるべし。

 「
はざまが影を隠す時、僕にのこした手紙がある、それでくはしい様子を知つてをるです。その手紙を見た時には、僕もふるへて腹が立つた。すぐ貴方あなたに会うて、是非これは思い返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられん、腹のゆるほど※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)うちのめして、一生結婚の成らんやう立派な不具かたはにしてくれやう、と既にその時は立上つたですよ。しかし、間がことばを尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕のことばれやう道理がない。又間をきらうた以上は、貴方は富山への売物じや。ひとの売物にきずを附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢もたてたまらん胸を※(「沙/手」、第4水準2-13-11)さすつてしまうたんです」。

 宮が顔を
推当おしあてたる片袖かたそではしより、しきりひそむが見えぬ。「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつたはざまさへが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理もないぢやらう。僕は僕として貴方をうらむばかりではあきたらん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、七生しちしようまで怨む、きつと怨む!」。つひに宮が得堪えたへぬ泣音なくねれぬ。「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が一婦女子いつぷじよしに棄てられたが為に志をくじいて、命をなげうつたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、別に間として大いに責めんけりやならん。しかし、間が如何に不心得であらうと、貴方の罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てたに、彼が今日こんにちの有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女のみさをを破つたのみでない。あはせて夫を刺殺さしころしたも……」。

 宮は
慄然りつぜんとして振仰ぎしが、荒尾の鋭きまなじりは貫一がうらみうつりたりやと、その見る前に身の措所無おきどころな打竦うちすくみたり。「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の悔悟かいごされたのは善い、これは人として悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら今日こんにちに及んでの悔悟はすでおそい。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水はくつがへつた。盆は破れてしまうたんじや。かう成つた上は最早もはや神の力もおよぶことではない。お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自らせる罪のむくいで、固よりかくあるべき事ぢやらうと思ふ」。

 宮は
うつむきてよよと泣くのみ。ああ、吾が罪! さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪! その吾が罪の深さは、あの人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思い知る時あらんと言ひしその人の、いかで争で吾が罪をゆるすべき。ああ、吾が罪はつひゆるされず、吾が恋人は終に再び見る能はざるか。宮は胸潰むねつぶれて、涙の中に人心地ひとここちをも失はんとすなり。おのれ、利を見て愛なかりし匹婦ひつぷ、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがにじようは動くなりき。宮は際無はてしなく顔を得挙えあげずゐたり。「しかし、好う悔悟をなすつた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟につて自ら容されたんじや」。由無よしな慰藉なぐさめは聞かじとやうに宮はしながらかしらりて更に泣入りぬ。「みづからにても容されたのは、にも容されんのにはまさつてをる。又自ら容さるるのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうとふもの。僕はだまだ容し難く貴方を怨む、怨みはするけれど、今日こんにちの貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察するからには、他の者のはざまの胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうしていづれが多くあはれむべきであるかと謂へば、間の無念はそもそもどんなぢやらうか、なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外はない。

 かうして
今日こんにち図らずお目に掛つた。僕は婦人として生涯の友にせうと思うた人は、後にも先にも貴方ばかりじや。いや、それは段々お世話にもなつた、かたじけないと思うた事も幾度いくたびか知れん、その媛友レディフレンドに何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕も実に可懐なつかしう思ひました」。宮は泣音なくねほとばしらんとするを咬緊くひしめて、濡浸ぬれひたれるそで犇々ひしひしおもて擦付すりつけたり。「けれど又、円髷まるわげに結うて、立派にしてゐらるるのを見りや、して可愛かはゆうはなかつた。幸ひ貴方が話したい事があるといはるる、善し、あの様に間をいつはつた貴方じや、又僕を幾何どれほど詐ることぢやらう、それを聞いた上で、今日こそは※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)うちのめしてくれやうと待つてをつた。しかるに、貴方の悔悟、僕はひそかに喜んで聴いたのです。今日こんにちの貴方はやはり僕のフレンドの宮さんぢやつた。好う貴方悔悟なすつた! さもなかつたら、貴方の顔にこの十倍のきずを附けにやかへさんぢやつたのです。なあ、自ら容されたのは人に赦さるる始――解りましたか。で、間に取成してくれい、わびを言うてくれい、とのおたのみぢやけれど、それは僕はん。為んのは、間に対してどうもできんのぢやから。又貴方に罪ありと知つてをりながらその人から頼まるる僕でない。又僕が間であつたらば、断じて貴方の罪は容さんのぢやから。かうして親友のかたきに逢うてからに、指も差さずに別るる、これが荒尾の貴方に対する寸志と思うて下さい。いや、久しぶりで折角お目に掛りながら、可厭いやことばかり聞せました。それぢや、まあ、御機嫌好ごきげんよう、これでおいとまします」。

 会釈して荒尾の身を起さんとする時、「
しばらく、どうぞ」宮は取乱したる泣顔を振挙ふりあげて、重きまぶたの露を払へり。「それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑をなすつては下さらないので御座いますか。さうして貴方もやはりゆるさんと有仰おつしやるので御座いますか」。「さうです」。せはしげに荒尾は片膝かたひざ立ててゐたり。「どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、唯今ただいまぢきに御飯が参りますですから」。「や、めしなら欲うありませんよ」。「私はまだ申し上げたい事があるのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし」。「いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか」。「そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう堪忍なすつて下さいまし」。

 
火鉢ひばちふちに片手をかざして、何をか打案ずるさまなる目を※(「睹のつくり/栩のつくり」、第4水準2-84-93)そらしつつ荒尾は答へず。「荒尾さん、それでは、とてもお聴入ききいれはあるまいと私はあきらめましたから、貫一かんいつさんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」。咄嗟とつさに荒尾の視線は転じて、猶語続かたりつづくる宮がおもてかすりぬ。「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何にも悪かつた事を思ふ存分あやまりたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本望なのでございます。もとより容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してくれやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。私はもう覚悟を致し……」。宮は苦しげに涙を呑みて、「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下されば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましてもいので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さして下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」。

 感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、
たちまちその長きひげを振りてうなづけり。「うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好ういはれた。さうなけりやならんじや。しかし、なあ、しかしじや、貴方は今は富山の奥さん、唯継ただつぐと云ふ夫のある身じや、滅多な事はできんですよ」。「私はかまひません!」。「いかん、そりやいかん。間に殺されても辞せんと云ふその悔悟はよいが、それぢや貴方は間あるを知つて夫あるのを知らんのじや。夫はどうなさるなあ、夫に道が立たん事になりはせまいか、そこも考へて貰はにやならん。して見りや、始めには富山が為に間を欺き、今又間の為に貴方あなたは富山を欺くんじや。一人ならず二人欺くんじや! 一方には悔悟して、それが為に又一方に罪を犯したら、折角の悔悟の効はなくなつて了ふ」。「そんな事はかまひません!」。無慙むざんくちびるみて、宮は抑へ難くも激せるなり。「かまはんぢやいかん」。「いいえ、かまひません!」。「そりやいかん!」。「はもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、とうから棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富山の事などは……不如いつそさうして死んで了ひたいので御座います」。「それそれさう云ふ無考むかんがへな、訳の解らん人に僕はくみすることはできんと謂ふんじや。一体さうした貴方は了簡りようけんぢやからして、始に間をも棄てたんじや。不埓ふらちです! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了簡であつて見りや、僕はむしろ富山を不憫に思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を有つた富山その人の不幸をあはれまんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕は同情を表する、いよいよ憎むべきは貴方じや」。

 
四途乱しどろ湿うるほへる宮の目はゆらんやうに耀かがやけり。「さう有仰おつしやつたら、私はどうして悔悟したらよろしいので御座いませう。荒尾さん、どうぞ助けると思召おぼしめしておをしへなすつて下さいまし」。「僕には誨へられんで、貴方がまあう考へて御覧なさい」。「三年も四年も前から一日でもその事を考へません日と云つたらないのでございます。それが為に始終悒々ぶらぶらまるわづらつてをるやうな気分で、ああもうこんななら、いつそ死んでしまはう、とつくづくさうは思ひながら、たつたもう一目、一目でようございますから貫一さんに逢ひませんでは、どうも死ぬにも死なれないので御座います」。「まあ能う考へて御覧なさい」。「荒尾さん、貴方それではあんまりでございますわ」。

 
に余る心細さに、宮は男のたもとを執りて泣きぬ。理切ことわりせめて荒尾もその手を払ひかねつつ、吾ならぬ愁に胸塞むねふさがれて、にもと覚ゆる宮が衰容やつれすがたまなここらしゐたり。「荒尾さん、こんなに思つて私は悔悟してをるのぢやございませんか、昔の宮だと思召してに成つて下さいまし。どうぞ、荒尾さん、どうぞ、さあ、おをしへなすつて下さいまし」。涙にれてそのことばは能くも聞えず、階子下はしごしたの物音は膳運ぜんはこづるなるべし。

 果して人の
入来いりきて、夕餉ゆふげまうけすとて少時しばしまぎらされし後、二人はふべからざるわびしき無言の中に相対あひたいするのみなりしを、荒尾は始て高くしはぶきつ。「貴方の言るる事はう解つてをる、決して無理とは思はんです。如何にも貴方に誨へて上げたい、誨へて貴方の身の立つやうな処置であるなら、誨へて上げんぢやないです。けれどもじや、それが誨へて上げられんのは、僕が貴方であつたらかう為ると云ふ考量かんがへとどまるので……いや、いや、そりやいはれん。言うて善い事なら言ひます、人に対して言ふべき事でない、いはんや誨ふべき事ではない、だ僕一箇の了簡としてはらの中に思うたまでの事、究竟つまり荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、しかし猶能なほよう考へて見て、貴方に誨へらるる方法を見出みいだしたら、更にお目に掛つて申上げやう。折があつたら又お目に掛ります。は、僕の居住すまひ? 居住は、まあ言はん方がよい、あまなれば宿も定めずじや。言うても差支さしつかへはないけれど、貴方に押掛けらるると困るから、まあ言はん。は、如何にも、こんななりをしてをるので、貴方は吃驚びつくりなすつたか、さうでせう。自分にも驚いてをるのぢやけれどどうも為方がない。僕の身の上に就ては段々子細があるですとも、それもお話したいけれど、又この次に。

 酒は余り飲むな? はあ、今日のやうに酔うた事は
まれです。かたじけない、折角の御忠告ぢやから今後はよろしい、気を着くるです。力に成つてくれと言うたとて、義として僕は貴方の力には成れんぢやないですか。貴方の胸中も聴いた事ぢやから、敵にはなるまい、けれど力には成られんですよ。間にもその後逢はんのですとも。一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事もすこぶるあるのぢやけれども。訪ねもせんので。それにや一向意味はないですとも。はあ、一遍訪ねませう。明日あす訪ねてくれい? さうはかん、僕もこれでなかなか用があるのぢやから。ああ、貴方も浮世可厭いやか、僕も御同様じや。世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠に面倒なもので、僕なども今日こんにちの有様では生効いきがひのない方じやけれど、このままでく死ぬるも残念でな、さう思うて生きてはをるけれど、苦しみつつ生きてをるなら、死んだ方が無論ましですさ。何故なにゆゑ命が惜しいのか、考へて見るとすこぶわからなくなる」。語りつつ彼は食ををはりぬ。「嗚呼ああ、貴方に給仕して貰ふのは何年ぶりと謂ふのかしらん。間も善う食うた」。宮は差含さしぐむ涙をすすれり。尽きせぬしみを何時までか見んとやうに荒尾はにはかに身支度して、「こりやしかしかへつてお世話になりました。それぢや宮さん、おいとま」。「あれ、荒尾さん、まあ、貴方……」。はや彼は起てるなり。宮はその前にふさがりて立ちながら泣きぬ。「私はどうしたらよいのでせう」。「覚悟一つです」。始めてをしふるが如く言い放ちて荒尾のかきのけ行かんとするを、彼は猶もすがりて、「覚悟とは?」。「読んで字の如し」。驚破すはや、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りもらぬ宮が姿は、さびしくも壁に向ひて動かざりけり。

【続金色夜叉/第三章】
 門々かどかどの松は除かれて七八日ななやうかも過ぎぬれど、なほ正月機嫌きげんの失せぬ富山唯継は、今日も明日あすもと行処ゆきどころを求めては、夜を※(「日/咎」、第3水準1-85-32)に継ぎて打廻うちめぐるなりけり。宮はいささかもこれもとがめず、出づるもるも唯彼のすに任せて、あだかも旅館のあるじらんやうに、かたばかりの送迎を怠らざるとふのみ。

 この夫に対する
仕向しむけは両三年来の平生へいぜいを貫きて、彼の性質とも病身のゆゑとも許さるるまでに目慣めならされて又彼方あなたよりも咎められざるなり。それと共に唯継のおこなひ曩日さきのひとはやうやく変りて、出遊であそびふけらんとするかたむきしを、浅瀬あさせなみもなく近き頃よりにはか深陥ふかはまりしてうかるると知れたるを、宮はなほしもきて咎めず。ひと如何にともよ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易こころやすさをぬすみて、あやし女夫めをとの契をつなぐにぞありける。

 かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終の
うきやつれたる宮は決してくしき色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛はくべきにあらざりき。そもそもここにとつぎしより一点の愛だになかりし宮の、今に到りてはただに愛なきにとどまらずして、ひそかいとひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の楽しからざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でてうさはらすにいそがはしきにあらずや。されども彼の忘れずねぐらに帰りきたるは、又この妻の美くしき顔を見んが為のみ。既にその顔を見了みをはれば、何ばかりのしみのあらぬ家庭は、彼をして火なき煖炉ストオブかたはらをらしむるなり。彼の凍えてでざることなし。づれば幸ひにその金力にりて勢を得、こびを買ひて、一時の慾をほしいままにし、そこには楽むとも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮がむなし色香いろかおぼれて、内にはかかる美きものを手活ていけの花とながめ、外には到るところに当世の※(「鬲+栩のつくり」、第3水準1-90-34)はぶしを鳴して推廻おしまはすが、此上無こよなう紳士の願足れりと心得たるなり。

 いで、その妻は見るも
いとはしき夫のそばに在る苦を片時も軽くせんとて、彼のしげ外出そとで見赦みゆるして、十度とたび一度ひとたびも色をさざるを風引かぜひかぬやうに召しませ猪牙ちよきとやらの難有ありがたき賢女の志ともいただき喜びて、いと堅き家の守とかつは等閑なほざりならずおもひにけり。さるはり夫のみならず、本家の両親をはじめ親属知辺しるべに至るまで一般に彼の病身をあはれみて、おとなしき嫁よとそやさぬはあらず。に彼はなにがしの妻のやうに出行であるかず、くれがしの夫人マダムのやうに気儘きままならず、又は誰々の如く華美はでを好まず、強請事ねだりごとせず、しかもそれ等の人々より才もかたち立勝たちまさりて在りながら、常に内に居て夫につかふるよりほかざるが、最怜いとをしと見ゆるなるべし。宮がつつめる秘密は知る者もあらず、みづからも絶えてあやしまるべき穂をあらはさざりければ、その夫につかへて捗々はかばかしからぬいつはりも偽とは為られず、かへりて人にあはれまるるなんど、その身には量無はかりなさいはひくる心の内に、遣方無やるかたなく苦める不幸は又量なしと為ざらんや。

 十九にして恋人を棄てにし宮は、
昨日きのふを夢み、今日をかこちつつ、すぐせば過さるる月日をかさねて、ここに二十はたちあまりいつつの春を迎へぬ。この春のもたらせしものは痛悔と失望と憂悶ゆうもんと、別にくその身をおいしむるよはひなるのみ。彼はゆるされざるとらはれにもおなじかる思を悩みて、元日のあくるよりいとど懊悩おうのうの遣る方なかりけるも、年の始めといふにすべきやまひならねば、起きゐるままに本意ならぬよそほひも、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、なほはなはだしき浅ましさをその人のかげひなたに恨み悲むめり。

 宮は今外出せんとする夫の
寒凌さむさしのぎに葡萄酒ぶどうしゆ飲むしばら長火鉢ながひばちの前にかしづくなり。木振賤きぶりいやしからぬ二鉢ふたはちの梅の影を帯びて南縁の障子にのぼり尽せる日脚ひざしは、袋棚ふくろだなに据ゑたる福寿草ふくじゆそうの五六輪咲揃さきそろへるはなびらに輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は昼眩ひるまばゆき新調の三枚襲さんまいがさねを着飾りてその最もちんとする里昂リヨン製の白の透織すかしおり絹領巻きぬえりまき右手めて※(「てへん+區」、第4水準2-13-44)ひきつくろひ、左に宮の酌を受けながら、「あ、まづ手付てつき……ああこぼれる、零れる! これは恐れ入つた。これだからつい余所よそで飲む気にもなりますとつていい位のものだ」。「ですから多度上たんとあがつていらつしやいまし」。「よろしいかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」。「何時頃お帰来かへりになります」。「遅いよ」。「でも大約おほよそ時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」。「遅いよ」。「それぢや十時にはみんな寝みますから」。「遅いよ」。 又言ふもわづらはしくて宮は口を閉ぢぬ。「遅いよ」。「…………」。「驚くほど遅いよ」。「…………」。「おい、ちよつと」。「…………」。

 「おや。お前
おこつたのか」。「…………」。「慍らんでもいいぢやないか、おい」。彼は続け様に宮のそでを曳けば、「何をなさるのよ」。「返事を為んからさ」。「おおそいのは解りましたよ」。「遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌を直すべし」。「お遅いなら、お遅いでよろしうございますから……」。「遅くはないと言ふに、お前は近来ぢきに慍るよ、どう云ふのかね」。「一つは病気の所為せゐかも知れませんけれど」。「一つは俺の浮気の所為かい。恐れ入つたね」。「…………」。「お前一つ飲まんかい」。「わたくし沢山」。「ぢや俺が半分けて遣るから」。「いいえ、沢山なのですから」。「まあさう言はんで、少し、真似まね」。「欲くもないものを、貴方は」。「まあいいさ。お酌は、それかう云ふ塩梅あんばいに、愛子流かね」。の名を聞ける宮の如何に言ふらん、と唯継はひそかに楽しみ待つなる流眄ながしめを彼のおもてに送れるなり。宮は知らずがほに一口の酒をふくみて、ひそめたるのみ。「もう飲めんのか。ぢや此方こつちにお寄来よこし」。「失礼ですけれど」。「この上へもう一盃注いつぱいついで貰はう」。「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」。「いいよ、この二三日は別に俺の為る用はないのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ」。「さうでございますか」。「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習おほざらひがあるといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川いとがわの処へ集つて下温習したざらひを為るのさ。俺は、それお特得はこの、「親々おやおやいざなはれ、難波なにわ船出して、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待かぜまちにテチンチンツン……」。いとはしげに宮の余所見よそみせるに、乗地のりぢの唯継はいよいよ声を作りて、「たまたま逢ひはア――ア逢ひイ――ながらチツンチツンチツンつれなき吹分ふきわけられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアアちちイイイイははのチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定つまさだめ……」。「貴方もう好加減いいかげんになさいましよ」。「もう少し聴いてくれ、〔立つるみさをを破ら……」。「又ゆつくり伺ひますから、早くいらつしやいまし」。「しかし、巧くなつたらう、ねえ、ちよつと聞けるだらう」。「私には解りませんです」。「これは恐れ入つた、解らないのは情ないね。少し解るやうに成つてもらはうか」。「解らなくても宜うございます」。「何、宜いものか、浄瑠璃の解らんやうな頭脳あたまぢや為方しかたがない。お前は一体冷淡な頭脳あたまつてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違いない。どうもさうだ」。「そんな事はございません」。「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」。「愛子はどうでございます」。「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」。「それで能く解りました」。「何が解つたのか」。「解りました」。「ちつとも解らんよ」。「まあうございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」。「うう、これは恐れ入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」。「私は何時いつでも待つてをりますぢや御座いませんか」。「これは冷淡でない!」。やうやく唯継の立起たちあがれば、宮は外套がいとうを着せ掛けて、不取敢とりあへず彼に握手を求めぬ。こはして宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、ゆゑは、この女夫めをと出入しゆつにゆうに握手するは、夫の始より命じて習せししつけなるをや」。
【続金色夜叉/第三章の二】
 夫を玄関に送りでし宮は、やがて氷のあなぐらなどにるらんおもひしつつ、是非なきを運びて居間にかへりぬ。彼はその夫とともにあるをはんやうなきわづらひなれど、又そのを守りてこの家におかるるをもへ難くいぶせきものに思へるなり。かならずしもつとむるとにはあらねど、夫の前にはおのづから気の張ありて、とにかくにさるべくは振舞へどほしいままなる身一箇みひとつとなれば、にはかものう打労うちつかれて、心は整へんすべも知らずみだれに乱るるが常なり。

 
火鉢ひばちりて宮は、我をうしなへるていなりしが、如何思い入り、思い回まは思い窮むればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、つひに明けぬやみ彷徨さまよへる可悲かなしさは、あるにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁にでたり。うるはしえたる空は遠く三四みつよついかの影を転じて、見遍みわたす庭の名残冬枯ふゆかれたれば、浅露あからさまなる日の光のまばゆきのみにて、啼狂なきくるひしこずゑひよの去りし後は、隔てる隣より戞々かつかつ羽子はね突く音して、なかなかここにはその寒さを忍ぶあたひあらぬを、彼はされども少時しばし居て、又空をめ、又冬枯ふゆがれ見遣みやり、き日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、おさへんとはしたりけれども抑へ難さのつひに苦く、再び居間にると見れば、そこにも留らで書斎の次なる寝間ねまるより、身をなげうちてベットに伏したり。

 厚き
しとねの積れる雪と真白き上に、乱畳みだれたためる幾重いくへきぬいろどりを争ひつつ、あでなる姿をこころかずよこたはれるを、窓の日のカアテンとほして隠々ほのぼの照したる、にほひこぼるるやうにして彼はなみに漂ひし人の今打揚うちあげられたるもうつつならず、ほとほと力竭ちからつきて絶入たえいらんとするが如く、手枕に横顔を支へて、力なきまなこ※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはれり。つひには溜息ためいき※(「口+句」、第3水準1-14-90)きてその目を閉づれば、片寝にめるおもて内向うちむけて、の寒さをわびしげに身動したりしが、なほ底止無そこひなき思のふちは彼を沈めて※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがさざるなり。

 
隅棚すみだなの枕時計ははた秒刻チクタクを忘れぬ。ますます静に、益す明かなるねやの内には、しともき時の移るともなく移るのみなりしが、たちまち差入る鳥影の軒端のきばに近く、したる宮が肩頭かたさき打連うちつらなりてひらめきつ。ややありて彼はしどなくベットの上に起直りけるが、びんほつれしかしらかたぶけて、カアテンひまよりわづかに眺めらるる庭のおもに見るとしもなき目を遣りて、当所無あてどなく心の彷徨さまよあとを追ふなりき。

 久からずして彼はここをも出でて又居間に還れば、
ぢき箪笥たんすの中より友禅縮緬ゆうぜんちりめん帯揚おびあげ取出とりいだし、心にめたりし一通のふみとも見ゆるものを抜きて、こたびはあるじの書斎に持ち行きて机に向へり。その巻紙は貫一がのこせし筆の跡などにはあらで、いつかは宮の彼に送らんとて、別れし後の思のたけひそか書聯かきつらねたるものなりかし。

 
往年さいつとし宮は田鶴見たずみの邸内に彼を見しより、いとど忍びかねたる胸の内の訴へんかたもあらぬ切なさに、唯心寛ただこころゆかし仮初かりそめりける筆ながら、なかなか口には打出うちいだし難き事を最好いとよく書きてつづけもしを、あはれかのひとのもとに送りて、思ひ知りたる今の悲しさを告げばやと、一図のこころをも定めしが、又案ずれば、その文は果して貫一の手に触れ、目にも入るべきか。よしさればとて、憎みうらめるいかりの余りに投げ返されて、人目にさらさるる事などあらば、いたづらに身をきずを求めて終りなんをと、遣れば火に入る虫のあやふく、捨つるは惜くも、やがて好き首尾のあらんやうに拠無よりどころなき頼をけつつ、彼は懊悩おうのうに堪へざる毎に取出でては写しふるかたはら、は書き添へ、或るは改めなどして、この文に向へばおのづからその人に向ふが如く、その人に向ひてはほとほと言尽いひつくして心残のあらざる如く、ただこれにりて欲するままの夢をも結ぶに似たる快きを覚ゆるなりき。かくして得送らぬ文は写せしも灰となり、反古ほごとなりて、彼の帯揚にめられては、いつまで草の可哀あはれや用らるる果も知らず、宮が手習はうなりぬ。

 
些箇かごとに慰められて過せる身の荒尾に邂逅めぐりあひし嬉しさは、何に似たりとはんもおろかにて、この人をこそ仲立ちて、積る思をげんと頼みしを、あだの如くくみせられざりし悲しさに、さらでも切なき宮が胸は掻乱かきみだれて、今はやうやく危きをおそれざる覚悟もで来て、いつまで草のいつまでかくてあらんや、文は送らんと、この日頃思ひ立ちてけり。紙の良きをえらび、筆の良きを択び、墨の良きを択び、彼はこころしてその字の良きをことに択びて、今日の今ぞ始めて仮初かりそめならず写さんとなる。打顫うちふるふ手に十行あまりしたためしを、つと裂きて火鉢に※(「くさかんむり/熱」、第4水準2-80-7)さしくべければ、ほのほの急に炎々とのぼるを、可踈うとましと眺めたる折しも、紙門ふすまけてその光におびえしをんなは、覚えずあるじ気色けしきあやしみつつ、「あの、御本家の奥様がおで遊ばしました」。




(私論.私見)