中編6章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年10.30日
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【中編第六章】 |
座敷には窘(くるし)める遊佐と沈着(おちつ)きたる貫一と相対して、莨盆(たばこぼん)の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍に茶托(ちゃたく)の上に伏せたる茶碗は、かって肺病患者と知らで出(いだ)せしを恐れて除物(のけもの)にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。遊佐は憤(いきどほ)りを忍べる声音(こわね)にて、「それはできんよ。勿論朋友は幾多(いくら)もあるけれど、書替の連帯を頼むやうな者はないのだから。考へて見給へ、なんぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでもよいぢやないか」。貫一の声は重きを曳(ひ)くが如く底強く沈みたり。「敢(あへ)て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替はできんと、それでは私の方が立ちません。何方(どちら)とも今日は是非願はんければならんのでござ 座敷には窘(くるし)める遊佐と沈着(おちつ)きたる貫一と相対して、莨盆(たばこぼん)の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍(かたはら)に茶托(ちゃたく)の上に伏せたる茶碗は、かって肺病患者と知らで出(いだ)せしを恐れて除物(のけもの)にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。遊佐は憤(いきどほり)を忍べる声音(こわね)にて、「それはできんよ。勿論朋友は幾多(いくら)もあるけれど、書替の連帯を頼むやうな者はないのだから。考へて見給へ、なんぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでもよいぢやないか」。貫一の声は重きを曳(ひ)くが如く底強く沈みたり。「敢(あへ)て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替はできんと、それでは私の方が立ちません。何方(どちら)とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固(もと)より貴方がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些(ほん)の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼(よしみ)として、どなたでも承諾なさりさうなものですがな。究竟(つまり)名義だけあれば宜(よろし)いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉(かど)が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先(ひとまづ)句切りがつくのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」。 います。連帯と云ったところで、固(もと)より貴方がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些(ほん)の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼(よしみ)として、どなたでも承諾なさりさうなものですがな。究竟(つまり)名義だけあれば宜しいので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉(かど)が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先(ひとまづ)句切りがつくのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」。 |
遊佐は答ふるところを知らざるなり。「どなたでもようございます、御親友の内で一名」、「いかんよ、それは到底いかんのだよ」、「到底いかんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関(かかは)るやうな手段も取らんければなりません」。「どうせうと言ふのかね」。「無論差押えです」。遊佐は強(し)ひて微笑を含みけれど、胸には犇(ひし)と応(こた)へて、はや八分の怯気(おじけ)づきたるなり。彼は悶(もだ)えて捩断(ねぢき)るばかりにその髭(ひげ)を拈(ひね)り拈りて止まず。「三百円やそこらの端金(はしたがね)で貴方(あなた)の御名誉を傷つけて、後来御出世の妨碍(さまたげ)にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決して好ましくはないのです。けれども、こちらの請求を容(い)れて下さらなければ已(や)むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」。「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金(もときん)の上に借用当時から今日までの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円強(なにがし)、それと合(がっ)して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費(つか)たのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書かされる! 余(あんまり)り馬鹿々々しくて話にならん。こっちの身にも成つて少しは斟酌(しんしゃく)するがよいぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」。空嘯(そらうそぶ)きて貫一は笑へり。「今更そんな事を!」。 |
遊佐は陰(ひそか)に切歯(はがみ)をなしてその横顔を睨付(ねめつ)けたり。彼も![]() |
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」、「先月の二十日(はつか)にお払ひ下さるべきのを、いまだにお渡しがないのですから、何日(いつ)でも御催促はできるのです」。遊佐は拳(こぶし)を握りて顫(ふる)ひぬ。「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」、「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払いがない、そこで空しく帰るその日当及び俥代(くるまだい)として下すつたから戴きました。ですから、もしあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」、「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受け取らん、利子の内金(うちきん)でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」、「それは確かに受取りました。が、今申す通り、無駄足(むだあし)を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜(よろし)い訳なのです。まあ、過去つた事は措(お)きまして……」、「措けんよ。過去りは為んのだ」、「今日(こんにち)はその事で上つたのではないのですから、今日の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替はできんと仰有(おっしゃ)るのですな」、「できん!」、「で、金(きん)も下さらない?」、「ないから遣れん!」。 |
貫一は目を側めて遊佐が面(おもて)を熟(じ)と候(うかが)へり。その冷(ひややか)に鋭き眼(まなこ)の光は異(あやし)く彼を襲ひて、坐(そぞろ)に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽(たちま)ち吾に復(かへ)れるやうに覚えて、身の危(あやふ)きに処(を)るを省みたり。一時を快くする暴言も竟(つひ)に曳(ひか)れ者の小唄(こうた)に過ぎざるを暁(さと)りて、手持無沙汰に鳴りを鎮めつ。「では、いつごろ御都合ができるのですか」。機を制して彼も劣らず和(やはら)ぎぬ。「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」、「聢(しか)と相違ございませんか」、「十六日なら相違ない」、「それでは十六日まで待ちますから……」、「延期料かい」、「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜(よろし)うございませう」、「宜い事もない……」。「不承を有仰(おっしゃ)るところは少しもありはしません、その代り何分(なんぶん)か今日(こんにち)お遣(つかは)し下さい」。かく言ひつつ手鞄(てかばん)を開きて、約束手形の用紙を取り出だせり。「銭はありはせんよ」。「僅少(わづか)で宜(よろし)いので、手数料として」、「又手数料か! ぢや一円も出さう」、「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」、「五円なんと云ふ金円(かね)はありはせん」、「それぢや、どうも」。彼は遽(にはか)に躊躇(ちゅうちょ)して、手形用紙を惜めるやうに拈(ひね)るなりけり。「ええ、では三円ばかり出さう」。 |
折から紙門(ふすま)を開きけるを弗(ふ)と貫一の![]() |
侮(あなど)りし風早もかくては与(くみ)し易(やす)からず思へるなるべし。蒲「儲けづくであるから何でもよいけれど、しかし思い切つた事を始めましたね。君の性質で能くこの家業ができると思つて感服しましたよ」。「真人間にできる業(わざ)ぢやありませんな」。これ実に真人間にあらざる人の言(ことば)なり。二人はこの破廉耻(はれんち)の老面皮(ろうめんぴ)を憎しと思へり。蒲「酷(ひど)いね、それぢや君は真人間でないやうだ」。「私のやうな者が憖(なまじ)ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷(や)めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」。風「しかし真人間時分の朋友であつた僕らにかうして会つてゐる間だけは、依旧(やはり)真人間で居てもらひたいね」。風早は親しげに放笑せり。「さうさう、それ、あの時分浮名の聒(やかまし)かつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」。貫一は知らざる為(まね)してゐたり。 |
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」、蒲「ねえ、間君、何とか云つた」。よしその旧友の前に人間の面(おもて)を赧(あか)めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。「そんなつまらん事を」、蒲「この頃はあの美人と一所ですか、羨(うらやまし)い」、「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印(ごいん)を願ひます」。彼は矢立(やたて)の筆を抽(ぬ)きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、風「ああ些(ちよっ)と、その手形はどう云ふのですね」。貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、「成る程御尤(ごもっとも)、そこで少しお話をしたい」。蒲田は姑(しばら)く助太刀の口を噤(つぐ)みて、皺嗄声(しわがれぎゑ)の如何(いか)に弁ずるかを聴かんと、吃余(すひさし)の葉巻を火入(ひいれ)に挿(さ)して、威長高(ゐたけだか)に腕組して控へたり。 |
「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別の扱をして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、しかし旧友の頼と思つて、少し勘弁をしてもらひたい」。彼も答へず、これも少時は言はざりしが、「どうかね、君」、「勘弁と申しますと?」、「究竟君の方に損の掛らん限は減けてもらひたいのだ。知つての通り、元金の借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼まれて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでもよいのだから、取立てるものは取立てる、は能く解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。しかし朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹(かか)つたので、如何にも気の毒な次第。ところで、図(はか)らずも貸主が君と云ふので、轍鮒の水を得たる想で我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話をするのではなくて、旧友の間として、実は無理な頼みも聴いてもらひたいのさ。 |
夙て話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林が従来三回に二百七十円の利を払つてる。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損はないのだ、であるから、この三百円の元金だけを遊佐君の手で返せばよいといふ事にしてもらひたいのだ」。貫一は冷笑せり。「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も費はずに空に出るのだから随分辛い話、君の方はだまだ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さ競を為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前にはなつてゐる、は三百九十円の全損だから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」。「全でお話にならない」。 |
秋の日は短しと謂はんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨なく約束の金額を書き入れたり。一斉に彼の面を注視せし風早と蒲田との眼は、更に相合うて瞋れるを、再び彼方に差し向けて、いとど厳く打目戍れり。風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」。貫「それでは遊佐さん、これに御印を願ひませう。日限は十六日、宜うございますか」。この傍若無人の振舞に蒲田の怺へかねたる気色なるを、風早は目授して、「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝ち過ぎてゐるので、利を入れるだけでも方がつかんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所に沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に関る大事なので、僕らも非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何とも手の着けやうがない。対手が君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕らの難を拯ふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、決してさう無理な頼みぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」。「私は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日はまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」。 |
遊佐はその独に計ひかねて覚束なげに頷くのみ。言はで忍びたりし蒲田の怒はこの時衝くが如く、「待ち給へと言ふに! 先から風早が口を酸くして頼んでゐるのぢやないか、銭貰が門に立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、然き挨拶をしたまへ」。「お話がお話だから然き御挨拶のしやうがない」。「黙れ、間! 貴様の頭脳は銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に然挨拶をしろと言つた。友人に対する挙動が無礼だから節めと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人の兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば赧い顔の一つもすることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑したこの有様を、荒尾譲介に見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱いでゐたぞ。その一言に対しても少しは良心の眠を覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事はせんから、今日は順く帰れ、帰れ」。 |
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方がそれまで遊佐さんの件について御心配下さいますなら、かう為すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形はそれで一先附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」。蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。「うん、宜い」。「ではさう為つて下さるか」。「うん、宜い」。「さう致せば又お話のつけやうもあります」。「しかし気の毒だな、無利息、個年賦は」。「ええ? 常談ぢやありません」。さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑しつ。風「常談は措いて、いづれ四五日内に篤と話をつけるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕らの顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」。「さう云ふ無理を有仰るで、私の方も然るべき御挨拶ができなくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。まだ外へ廻るで急ぎますから、お話は後日寛り伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方御承諾なすつて置きながら今になつて遅々なすつては困ります」。蒲「疫病神が戸惑したやうに手形々々と煩い奴だ。俺が始末をして遣らうよ」。 |
彼は遊佐が前なる用紙を取りて、蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」。遊「百十七円? 九十円だよ」。蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」。かかる事は能く知りながら彼はわざと怪しむなりき。遊「そんな筈はない」。貫一は彼らの騒ぐを尻目に挂けて、「九十円が元金、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利の定法です」。音もせざれど遊佐が胆は潰れぬ。「お……ど……ろ……いたね!」。蒲田は物をも言はず件の手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、猶も引裂き引裂き、引捩りて間が目先に投遣りたり。彼は騒げる色もなく、「何を為るのです」。「始末をして遣つたのだ」。「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」。彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰に懼を作して、「いやさう云ふ訳ぢやない……」。蒲田は![]() |
鷹に遭へる小鳥の如く身動し得為で押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然と見遣りて、「蒲田の言ふ通りだ。僕らも中学に居た頃の間と思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人の誼を思つて、二人の頼みを聴いてくれ給へ」。「さあ、間、どうだ」。「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で自から別問題……」。彼は忽ち吭迫りて言ふを得ず、蒲田は稍強く緊めたるなり。「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸が止るぞ」。貫一は苦しさに堪へで振り釈かんと![]() 油断せる貫一が左の高頬を平手打に絶か吃すれば、呀と両手に痛を抑へて、少時は顔も得挙げざりき。蒲田はやうやう座に復りて、「急には帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずると為う」。「さあ、それもからう」。独りよからぬは遊佐なり。「ここで飲んぢや旨くないね。さうして形が付かなければ、何時までだつて帰りはせんよ。酒が仕舞になつてこればかり遺られたら猶困る」。「宜い、帰去には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」。「はい」。「貴様、妻君あるのか。おお、風早!」と彼は横手を拍ちて不意に※[#「口+斗」]べば、「ええ、吃驚する、何だ」。「憶出した。間の許婚はお宮、お宮」。「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日ぢや大きに日済などを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為しちやいかんよ。けれども高利貸などは、これで却つて女子には温いとね、間、さうかい。彼らの非義非道を働いて暴利を貪る所以の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外にないのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶよからざるを忍んで、経営惨憺と努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨を殖へるやうだがな、譬へば、軍用金を聚めるとか、お家の宝を質請するとか。単に己の慾を充さうばかりで、あんな思い切つて残刻な仕事ができるものではないと想ふのだ。許多のガリガリ亡者は論外として、間貫一に於ては何ぞ目的があるのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的があつて存するのだらう」。 |
秋の日は忽ち黄昏れて、稍早けれど燈を入るるとともに、用意の酒肴は順を逐ひて運び出されぬ。「おつと、麦酒かい、頂戴。鍋は風早の方へ、煮方は宜くお頼み申しますよ。うう、好い松茸だ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白で、庖丁が軋むやうでなくては。今年は不作だね、瘠せてゐて、虫が多い、あの雨が障つたのさ。間、どうだい、君の目的は」。「唯貨が欲いのです」。「で、その貨をどうする」。「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」。風「まあ、これを一盃飲んで、今日は機嫌好く帰つてくれ給へ」。蒲「そら、お取次だ」。「私は酒は不可のです」。蒲「折角差したものだ」。「全く不可のですから」。差付けらるるを推除くる機に、コップは脆くも蒲田の手を脱れば、莨盆の火入に抵りて発矢と割れたり。「何を為る!」。貫一も今は怺へかねて、「どうしたと!」。 やをら起たんと為るところを、蒲田が力に胸板を衝れて、一耐もせず仰様に打僵けたり。蒲田はこの隙に彼の手鞄を奪ひて、中なる書類を手信に掴出せば、狂気の如く駈寄る貫一、「身分に障るぞ!」と組み付くを、利腕捉つて、「黙れ!」と捩伏せ、「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違いないから、早く其奴を取つて了ひ給へ」。これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事の余に暴なるを快しと為ざるなりき。貫一は駭きて、撥返さんと右に左に身を揉むを、蹈跨りて捩揚げ捩揚げ、蒲田は声を励して、「この期に及んで! 躊躇するところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」。手を出しかねたる二人を睨廻して、蒲田はなかなか下に貫一の悶ゆるにも劣らず、独り業を沸して、効無き地鞴を踏みてぞゐたる。風「それは余り遣過ぎる、善くない、善くない」。「善いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何を ![]() 間は苦き声を搾りて、「きつと話を付けるから、この手を釈してくれ給へ」。風「きつと話を付けるな――の要求を容れるか」。間「容れる」。詐とは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫けて、竟に貫一を放ちてけり。身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚め、鞄を拾ひてその中に捩込み、さて慌忙く座に復りて、「それでは今日はこれでお暇をします」。蒲田が思切りたる無法にこの長居は危しと見たれば、心に恨は含みながら、陽には克はじと閉口して、重ねて難題の出でざる先にとかくは引取らんと為るを、「待て待て」と蒲田は下司扱に呼掛けて、「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求を容れん内は、今度はが還さんぞ」。膝推向けて迫寄る気色は、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。「きつと要求は容れますけれど、嚮から散々の目に遭されて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座をいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」。忽ち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑して、「間、貴様は犬の糞で仇を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今毎でも蒲田が現れて取挫いで遣るから」。「間も男なら犬の糞ぢや仇は取らない」。「利いた風なことを言ふな」。風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕がまで送らう」。 |
遊佐と風早とは起ちて彼を送出せり。主の妻は縁側より入り来りぬ。「まあ、貴方、お蔭様で難有う存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」。「や、これは。些と壮士芝居といふところを」。「大相宜い幕でございましたこと。お酌を致しませう」。件の騒動にて四辺の狼藉たるを、彼は効々しく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来るを見て、「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方御寛り召上つて下さいまし」。妻の喜は溢るるばかりなるに引易へて、遊佐は青息![]() 彼は先づその一通を取りて披見るに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。二人は蒲田が案外の物持てるに驚されて、各息を凝して ![]() ![]() ![]() 証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と六の目を以て子細にこれを点検して、その夢ならざるを明めたり。「君はどうしたのだ」。風早の面はかつ呆れ、かつ喜び、かつ懼るるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒の満を引きし蒲田は「血は大刀に滴りて拭ふに遑あらざる」意気を昂げて、「何と凄からう。奴を捩伏せてゐる中に脚で掻寄せて袂へ忍ばせたのだ――早業さね」。「やはり嘉納流にあるのかい」。「常談言つちやいかん。しかしこれも嘉納流の教外別伝さ」。「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」。「それは知らん。何でもいいから一つ二つ奪つておけば、奴を退治る材料になると考へたから、早業をしておいたのだが、思ひきやこれが覘ふ敵の証書ならんとは、全く天の善に与するところだ」。風「余り善でもない。さうしてあれを此方へ取つて了へば、三百円は蹈めるのかね」。蒲「大蹈め! 少し悪党になれば蹈める」。風「しかし、公正証書であつて見ると……」。蒲「あつても差し支い。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本さへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動したつて『河童の皿に水の乾いた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。しかし、全然蹈むのもさすがに不便との思召を以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使が宜く樽爼の間に折衝して、遊佐家を泰山の安きに置いて見せる。嗚呼、実に近来の一大快事だ!」。人々の呆るるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴き推戴きて、「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方が音頭をお取んなさいましよ――いいえ、本当に」。小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事に埒開けんといふに励されて、さては一生の怨敵退散の賀と、各漫に前む膝を聚めて、長夜の宴を催さんとぞ犇いたる。 |
【中編第七章】 |
茫々たる世間に放れて、蚤く骨肉の親むべきなく、況や愛情の温むるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然として横はる石の如きものなるべし。彼が鴫沢の家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、柔き手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何らの楽をも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として慊らず、母の一部分となし、妹の一部分となし、或は父の、兄の一部分とも為して宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒に値せしなり、故に彼の恋は青年を楽む一場の風流の麗き夢に似たる類ならで、質はその文に勝てるものなりけり。彼の宮に於けるは都ての人の妻となすべき以上を妻として、ろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、自はその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時に花を着くる心地して、曩の枯野に夕暮れし石も今将た水に温み、霞に酔ひて、長閑なる日影に眠る如く覚えけんよ。 |
その恋のいよいよ急に、いよいよ濃になり勝れる時、人の最も憎める競争者の為に、しかも輙く宮を奪はれし貫一が心は如何なりけん。身をも心をも打委せて詐ることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如く己に反きて、空く他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何なりけん。彼はここに於いて曩に半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥を感ずるのみにて止らず、失望を添へ、恨を累ねて、かの塊然たる野末の石は、霜置く上に凩の吹誘ひて、皮肉を穿ち来る人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みて已まざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、その甞て与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をも併せて取去られしなり。 彼は或はその恨を抛つべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦太くその心を傷けられたるかの痛苦は、永くその心の存在と倶に存在すべければなり。その業務として行はざるべからざる残忍刻薄を自ら強ふる痛苦は、能く彼の痛苦と相剋して、その間聊か思を遣るべき余地を窃み得るに慣れて、彼は漸く忍ぶべからざるを忍びて為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、勁敵に遇ひ、悪徒に罹りて、或るいは弄ばれ、或るいは欺かれ、或るいは脅され勢毒を以つて制し、暴を以つて易ふるの已むを得ざるより、一はその道の習に薫染して、彼は益す懼れず貪るに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼を撻つやうに募ることありて、心も消々に悩まさるる毎に、齷 ![]() 貫一は一はかの痛苦を忘るる手段として、一はその妄執を散ずべき快心の事を買はんの目的をもて、かくは高利を貪れるなり。知らず彼がその夕にして瞑せんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常復讐の小術を成して、宮に富山に鴫沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今少く事の大きく男らしくあらんをば企図せるなり。しかれども、痛苦の劇く、懐旧の恨に堪へざる折々、彼は熱き涙を握りて祈るが如く嘆ちぬ。「 ![]() ![]() ![]() |
頭も打割るるやうに覚えて、この以上を想ふ能はざる貫一は、ここに到りて自失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見の底に逍遙せし富山が妻との姿は、双々貫一が身辺を彷徨して去らざるなり。彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為すより、往々その性の為す能はざるをも為して、仮さざること仇敵の如く、債務を逼りて酷を極むるなり。退いてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、忽ち勢に駆られて断行するを憚らざるなり。かくして彼の心に拘ふ事あれば、自ら念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、素より彼は正を知らずして邪を為し、是を喜ばずして非を為すものにあらざれば、己を抂げてこれを行ふ心苦しさは俯して愧ぢ、仰ぎて懼れ、天地の間に身を置くところは、纔にその容るる空間だに猶濶きを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、夐に忍ぶの易く、体のまた胖なるをさへ感ずるなりけり。 一向に神を労し、思を費して、日夜これを暢るに遑あらぬ貫一は、肉痩せ、骨立ち、色疲れて、宛然死水などのやうに沈鬱し了んぬ。その攅めたる眉と空く凝せる目とは、体力の漸く衰ふるに反して、精神の愈よ興奮するとともに、思の益す繁く、益す乱るるを、従ひて芟り、従ひて解かんとすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、竟に如何に為ばや、と心も砕けつつ打悩めるを示せり。更に見よ、漆のやうに鮮潤なりし髪は、後脳の辺に若干の白きを交へて、額に催せし皺の一筋長く横はれるぞ、その心の窄れる襞ならざるべき、況んや彼の面を蔽へる蔭は益す暗きにあらずや。 |
吁、彼はその初一念を遂げて、外面に、内心に、今は全くこの世からなる魔道に墜つるを得たりけるなり。貪欲界の雲は凝りて歩々に厚く護り、離恨天の雨は随所直に灑ぐ、一飛一躍出でては人の肉を啖ひ、半生半死入りては我と膓を劈く。居る所は陰風常に廻りて白日を見ず、行けども行けども無明の長夜今に到るまで一千四百六十日、逢へども可懐き友の面を知らず、交れども曾て情の蜜より甘きを知らず、花咲けども春日の麗なるを知らず、楽来れども打背きて歓ぶを知らず、道あれども履むを知らず、善あれども与するを知らず、福あれども招くを知らず、恵あれども享くるを知らず、空く利欲に耽りて志を喪ひ、偏に迷執に弄ばれて思を労らす、吁、彼は終に何をか成さんとすらん。間貫一の名は漸く同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目せざるはあらずなりぬ。 かの堪ふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸く頻なる厳談酷促は自からにに債務者の怨を買ひて、彼の為に泣き、彼の為に憤るもの寡からず、同業者といへども時としては彼の余に用捨なきを咎むるさへありけり。独り鰐淵はこれを喜びて、強将の下弱卒を出さざるを誇れるなり。彼は己の今日あるを致せし辛抱と苦労とは、未だ如此くにして足るものならずとて、屡ばその例を挙げては貫一を ![]() 実に彼の頼める鰐淵直行の如きは、彼の辛うじてその半を想ひ得る残刻と、終に学ぶ能はざる譎詐とを左右にして、始めて今日の富を得てしなり。この点に於ては彼は一も二もなく貫一の師表たるべしといへども、その実さばかりの残刻と譎詐とを擅にして、なほ天に畏れず、人に憚らざる不敵の傲骨あるにあらず。彼は密に警めて多く夜出でず、内には神を敬して、得知れぬ教会の大信者となりて、奉納寄進に財を吝まず、唯これ身の無事を祈るに汲々として、自ら安ずる計をなせり。彼は年来非道を行ひて、なほこの家栄え、身の全きを得るは、正にこの信心の致すところと仕へ奉る御神の冥護を辱なみて措かざるなりき。貫一は彼の如く残刻と譎詐とに勇ならざりけれど、又彼の如く敬神と閉居とに怯ならず、身は人と生れて人がましく行ひ、一も曾て犯せる事のあらざりしに、天は却りて己を罰し人は却りて己を詐り、終生の失望と遺恨とは濫に断膓の斧を揮ひて、死苦の若かざる絶痛を与ふるを思ひては、彼はよし天に人に憤るところあるも、懼るべきなしと為るならん。貫一の最も懼れ、最も憚るところは自の心のみなりけり。 |
【中編第八章】 |
用談果つるを俟ちて貫一の魚膠無く暇乞するを、満枝は暫しと留置きて、用ありげに奥の間にぞ入りたる。その言の如く暫し待てども出で来ざれば、又巻莨を取出しけるに、手炉の炭は狼の糞のやうになりて、いつか火の気の絶えたるに、檀座に毛糸の敷物したる石笠のラムプの![]() ![]() 袋棚なる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、その下は七宝焼擬の一輪挿、蝋石の飾玉を水色縮緬の三重の褥に載せて、床柱なる水牛の角の懸花入は松に隼の勧工場蒔絵金々として、花を見ず。鋳物の香炉の悪古びに玄ませたると、羽二重細工の花筐とを床に飾りて、雨中の富士をば引攪旋したるやうに落墨して、金泥精描の騰竜は目貫を打つたるかとばかり雲間に耀ける横物の一幅。頭を回らせば、 ![]() |
ややありて出来れる満枝は服を改めたるなり。糸織の衿懸けたる小袖に納戸小紋の縮緬の羽織着て、七糸と黒繻子との昼夜帯して、華美なるシオウルを携へ、髪など撫付けしと覚く、面も見違ふやうに軽く粧ひて、「大変失礼を致しました。些と私もまで買物に出ますので、実は御一緒に願はうと存じまして」。無礼なりとは思ひけれど、口説れし誼に貫一は今更腹も立て難くて、「ああさうですか」。満枝はつと寄りて声を低くし、「御迷惑でゐらつしやいませうけれど」。聴き飽きたりと謂はんやうに彼は取合はで、「それぢや参りませう。貴方は何方までお出なのですか」。「私は大横町まで」。二人は打連れて四谷左門町なる赤樫の家を出でぬ。伝馬町通は両側の店に燈を列ねて、だ宵なる景気なれど、秋としも覚えず夜寒の甚ければ、往来も稀に、空は星あれどいと暗し。「何といふお寒いのでございませう」。「さやう」。「貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくても宜いぢやございませんか。それではお話が達きませんわ」。彼は町の左側をこたびは貫一に擦寄りて歩めり。「これぢや私が歩き難いです」。「貴方お寒うございませう。私お鞄を持ちませう」。「いいや、どういたして」。「貴方恐れ入りますが、もう少し御緩りお歩きなすつて下さいましな、私呼吸が切れて……」。已むなく彼は加減して歩めり。満枝は着重るシォウルを揺り上げて、「疾から是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後些ともお目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当に偶にはお遊びにいらしつて下さいましな。私もう決して先達而のやうな事は再び申上げませんから。些といらしつて下さいましな」。「は、難有う」。「お手紙を上げましてもようございますか」。「何の手紙ですか」。「御機嫌伺の」。「貴方から機嫌を伺はれる訳がないぢやありませんか」。「では、恋い時に」。「貴方が何も私を……」。「恋しいのは私の勝手でございますよ」。「しかし、手紙は人にでも見られると面倒ですから、お辞をします」。「でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、鰐淵さんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……」。 |
唯見れば伝馬町三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝を撒かんと思ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈為ずして立住りつ。「それぢや私はここで失礼します」。その不意に出でて貫一の闇き横町に入るを、「あれ、貴方、其方からいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、わざわざ、そんな寂い道をお出なさらなくても、の方が順ではございませんか」。満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。「なあに、が余程近いのですから」。「幾多も違ひは致しませんのに、賑かな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷見附の所までお送り申しますから」。「貴方に送つて戴いたつて為やうがない。夜が更けますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし」。「そんなお為転を有仰らなくても宜うございます」。かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、不知不識其方に歩ませられし満枝は、やにはに立竦みて声を揚げつ。「ああ! 間さん些と」。「どうしました」。「路悪へ入つて了つて、履物が取れないのでございますよ」。「それだから貴方はこんな方へお出でなさらんがよいのに」。彼は渋々寄り来れり。「憚様ですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」。シォウルの外に援を求むる彼の手を取りて引寄すれば、女は![]() ![]() 彼はこの時扶けし手を放たんとせしに、釘付などにしたらんやうに曳けども振れども得離れざるを、怪しと女の面を窺へるなり。満枝は打背けたる顔の半をシオウルの端に包みて、握れる手をば弥よ固く緊めたり。「さあ、もう放して下さい」。益す緊めて袖の中へさへ曳入れんとすれば、「貴方、馬鹿な事をしてはいけません」。女は一語も言はず、面も背けたるままに、その手は益放たで男の行く方に歩めり。「常談しちやいかんですよ。さあ、後から人が来る」。「宜うございますよ」。独語つやうに言ひて、満枝は弥寄り添ひつ。貫一は怺へかねて力任せに吽と曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。「あ、痛! そんな酷い事をなさらなくても、の角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……」。「好い加減になさい」と暴かに引払ひて、寄らんとする隙もあらせず摩脱くるより足を疾めて津守坂を驀直に下りたり。 やうやう昇れる利鎌の月は乱雲を芟りて、 ![]() |
【中編第八章の二】 |
片側町なる坂町は軒並に鎖して、何処に隙洩る火影も見えず、旧砲兵営の外柵に生茂る群松は颯々の響を作して、その下道の小暗き空に五位鷺の魂切る声消えて、夜色愁ふるが如く、正に十一時に垂んとす。 忽ち兵営の門前に方りて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者に囲れたるなり。一人は黒の中折帽の鐔を目深に引下し、鼠色の毛糸の衿巻に半面を裹み、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの下穿高々と尻 ![]() 「物取か。恨を受ける覚はないぞ!」。「黙れ!」と弓の折の寄るを貫一は片手に障へて、「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に敵手にならう。物取ならば財はくれる、訳も言はずに無法千万な、待たんか!」。答はなくて揮下したる弓の折は貫一が高頬を発矢と打つ。眩きつつも迯行くを、猛然と追迫れる檳榔子は、件の杖もて片手突に肩の辺を曳と突いたり。踏み耐へんとせし貫一は水道工事の鉄道に跌きて仆るるを、得たりと附入る曲者は、余に躁りて貫一の仆れたるに又跌き、一間ばかりの彼方に反跳を打ちて投げ飛されぬ。入れ替りて一番手の弓の折は貫一の背を袈裟掛に打据ゑければ、起きも得せで、崩折るるを、畳みかけんとする隙に、手元に脱捨てたりし駒下駄を取るより早く、彼の面を望みて投げたるが、丁と中りて痿むその時、貫一は蹶起きて三歩ばかりも ![]() 貫一は息も絶々ながら緊と鞄を掻抱き、右の逆手に小刀を隠し持ちて、この上にも狼藉に及ばば為んやうありと、油断を計りてわざと為すなき体を装ひ、直呻きにぞ呻きゐたる。弓「憎い奴じや。しかし、随分撲つたの」。檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」。弓「もう引揚げやう」。かくて曲者は間近の横町に入りぬ。辛うじて面を擡げ得たりし貫一は、一時に発せる全身の疼通に、精神漸く乱れて、屡ば前後を覚えざらんとす。[#改ページ] |
(私論.私見)