中編6章

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年10.30日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【中編第六章】
 座敷には窘(くるし)める遊佐と沈着(おちつ)きたる貫一と相対して、莨盆(たばこぼん)の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍に茶托(ちゃたく)の上に伏せたる茶碗は、かって肺病患者と知らで出(いだ)せしを恐れて除物(のけもの)にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。遊佐は憤(いきどほ)りを忍べる声音(こわね)にて、「それはできんよ。勿論朋友は幾多(いくら)もあるけれど、書替の連帯を頼むやうな者はないのだから。考へて見給へ、なんぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでもよいぢやないか」。貫一の声は重きを曳(ひ)くが如く底強く沈みたり。「敢(あへ)て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替はできんと、それでは私の方が立ちません。何方(どちら)とも今日は是非願はんければならんのでござ 座敷には窘(くるし)める遊佐と沈着(おちつ)きたる貫一と相対して、莨盆(たばこぼん)の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍(かたはら)に茶托(ちゃたく)の上に伏せたる茶碗は、かって肺病患者と知らで出(いだ)せしを恐れて除物(のけもの)にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。遊佐は憤(いきどほり)を忍べる声音(こわね)にて、「それはできんよ。勿論朋友は幾多(いくら)もあるけれど、書替の連帯を頼むやうな者はないのだから。考へて見給へ、なんぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでもよいぢやないか」。貫一の声は重きを曳(ひ)くが如く底強く沈みたり。「敢(あへ)て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替はできんと、それではの方が立ちません。何方(どちら)とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固(もと)より貴方がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些(ほん)の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼(よしみ)として、どなたでも承諾なさりさうなものですがな。究竟(つまり)名義だけあれば宜(よろし)いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉(かど)が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先(ひとまづ)句切りがつくのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」。 います。連帯と云ったところで、固(もと)より貴方がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些(ほん)の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼(よしみ)として、どなたでも承諾なさりさうなものですがな。究竟(つまり)名義だけあれば宜しいので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉(かど)が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先(ひとまづ)句切りがつくのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」。 
 遊佐は答ふるところを知らざるなり。「どなたでもようございます、御親友の内で一名」、「いかんよ、それは到底いかんのだよ」、「到底いかんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関(かかは)るやうな手段も取らんければなりません」。「どうせうと言ふのかね」。「無論差押えです」。遊佐は強(し)ひて微笑を含みけれど、胸には犇(ひし)と応(こた)へて、はや八分の怯気(おじけ)づきたるなり。彼は悶(もだ)えて捩断(ねぢき)るばかりにその髭(ひげ)を拈(ひね)り拈りて止まず。「三百円やそこらの端金(はしたがね)で貴方(あなた)の御名誉を傷つけて、後来御出世の妨碍(さまたげ)にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決して好ましくはないのです。けれども、こちらの請求を容(い)れて下さらなければ已(や)むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」。「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金(もときん)の上に借用当時から今日までの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円強(なにがし)、それと合(がっ)して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費(つか)たのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書かされる! 余(あんまり)り馬鹿々々しくて話にならん。こっちの身にも成つて少しは斟酌(しんしゃく)するがよいぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」。空嘯(そらうそぶ)きて貫一は笑へり。「今更そんな事を!」。
 遊佐は陰(ひそか)に切歯(はがみ)をなしてその横顔を睨付(ねめつ)けたり。彼も※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)(のが)れ難き義理に迫りて連帯の印捺(いんつ)きしより、不測の禍(わざはひ)は起りてかかる憂き目を見るよと、太(いた)く己(おのれ)に懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を懸(か)くることもやと、断じて貫一の請求を容(い)れざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに谷(きはま)るとともに貫一もこの場は一寸(いっすん)も去らじと構へたれば、遊佐は羂(わな)に係れる獲物の如く一分時毎に窮する外はなくて、今は唯身に受くべき謂無(いはれな)き責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、飜(ひるがへ)りて一点の人情なき賤奴(せんど)の虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず暴(あ)れ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
 「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」、「先月の二十日(はつか)にお払ひ下さるべきのを、いまだにお渡しがないのですから、何日(いつ)でも御催促はできるのです」。遊佐は拳(こぶし)を握りて顫(ふる)ひぬ。「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」、「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払いがない、そこで空しく帰るその日当及び俥代(くるまだい)として下すつたから戴きました。ですから、もしあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」、「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受け取らん、利子の内金(うちきん)でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」、「それは確かに受取りました。が、今申す通り、無駄足(むだあし)を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜(よろし)い訳なのです。まあ、過去つた事は措(お)きまして……」、「措けんよ。過去りは為んのだ」、「今日(こんにち)はその事で上つたのではないのですから、今日の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替はできんと仰有(おっしゃ)るのですな」、「できん!」、「で、金(きん)も下さらない?」、「ないから遣れん!」。
 貫一は目を側めて遊佐が面(おもて)を熟(じ)と候(うかが)へり。その冷(ひややか)に鋭き眼(まなこ)の光は異(あやし)く彼を襲ひて、坐(そぞろ)に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽(たちま)ち吾に復(かへ)れるやうに覚えて、身の危(あやふ)きに処(を)るを省みたり。一時を快くする暴言も竟(つひ)に曳(ひか)れ者の小唄(こうた)に過ぎざるを暁(さと)りて、手持無沙汰に鳴りを鎮めつ。「では、いつごろ御都合ができるのですか」。機を制して彼も劣らず和(やはら)ぎぬ。「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」、「聢(しか)と相違ございませんか」、「十六日なら相違ない」、「それでは十六日まで待ちますから……」、「延期料かい」、「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜(よろし)うございませう」、「宜い事もない……」。「不承を有仰(おっしゃ)るところは少しもありはしません、その代り何分(なんぶん)か今日(こんにち)お遣(つかは)し下さい」。かく言ひつつ手鞄(てかばん)を開きて、約束手形の用紙を取り出だせり。「銭はありはせんよ」。「僅少(わづか)で宜(よろし)いので、手数料として」、「又手数料か! ぢや一円も出さう」、「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」、「五円なんと云ふ金円(かね)はありはせん」、「それぢや、どうも」。彼は遽(にはか)に躊躇(ちゅうちょ)して、手形用紙を惜めるやうに拈(ひね)るなりけり。「ええ、では三円ばかり出さう」。
 折から紙門(ふすま)を開きけるを弗(ふ)と貫一の※(「目+是」、第4水準2-82-10)(みむか)ふる目前(めさき)に、二人の紳士は徐々(しづしづ)と入り来(きた)りぬ。案内もなくかかる内証の席に立ち入りて、彼らの各(おのおの)心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は少しく座を動(ゆる)ぎて容(かたち)を改めたり。紳士は上下(かみしも)に分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作(な)せり。蒲「どうも曩(さき)から見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」。風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久しく会ひませんな」。貫一は愕然(がくぜん)として二人の面(おもて)を眺めたりしが、忽ち身の熱するを覚えてその誰なるやを憶出(おもひだ)せるなり。「これはお珍(めづらし)い。かと思ひましたら、蒲田君に風早君。久しくお目に掛りませんでしたが、いつもお変りなく」、蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな――儲(まうか)りませう」。貫一は打ち笑(ゑ)みて、「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」。彼の毫(いささか)も愧(は)づる色なきを見て、二人は心陰(こころひそか)に呆(あき)れぬ。
 侮(あなど)りし風早もかくては与(くみ)し易(やす)からず思へるなるべし。蒲「儲けづくであるから何でもよいけれど、しかし思い切つた事を始めましたね。君の性質でくこの家業ができると思つて感服しましたよ」。「真人間にできる業(わざ)ぢやありませんな」。これ実に真人間にあらざる人の言(ことば)なり。二人はこの破廉耻(はれんち)の老面皮(ろうめんぴ)を憎しと思へり。蒲「酷(ひど)いね、それぢや君は真人間でないやうだ」。「私のやうな者が憖(なまじ)ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷(や)めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」。風「しかし真人間時分の朋友であつた僕らにかうして会つてゐる間だけは、依旧(やはり)真人間で居てもらひたいね」。風早は親しげに放笑せり。「さうさう、それ、あの時分浮名の聒(やかまし)かつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」。貫一は知らざる為(まね)してゐたり。
 風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」、蒲「ねえ、間君、何とか云つた」。よしその旧友の前に人間の面(おもて)を赧(あか)めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。「そんなつまらん事を」、蒲「この頃はあの美人と一所ですか、羨(うらやまし)い」、「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印(ごいん)を願ひます」。彼は矢立(やたて)の筆を抽(ぬ)きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、風「ああ些(ちよっ)と、その手形はどう云ふのですね」。貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、「成る程御尤(ごもっとも)、そこで少しお話をしたい」。蒲田は姑(しばら)く助太刀の口を噤(つぐ)みて、皺嗄声(しわがれぎゑ)の如何(いか)に弁ずるかを聴かんと、吃余(すひさし)の葉巻を火入(ひいれ)に挿(さ)して、威長高(ゐたけだか)に腕組して控へたり。
 「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別のあつかひをして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、しかし旧友のと思つて、少し勘弁をしてもらひたい」。彼も答へず、これも少時しばしは言はざりしが、「どうかね、君」、「勘弁と申しますと?」、「究竟つまり君の方に損の掛らん限はけてもらひたいのだ。知つての通り、元金もとこの借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼まれて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでもよいのだから、取立てるものは取立てる、そこく解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。しかし朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹(かか)つたので、如何にも気の毒な次第。ところで、図(はか)らずも貸主が君と云ふので、轍鮒てつぷの水を得たるおもひで我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話をするのではなくて、旧友のはざまとして、実は無理な頼みも聴いてもらひたいのさ。
 かねて話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林とおばやし従来これまで三回に二百七十円の利を払つてる。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損はないのだ、であるから、この三百円の元金もときんだけを遊佐君の手で返せばよいといふ事にしてもらひたいのだ」。貫一は冷笑せり。「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文もつかはずにくうに出るのだから随分つらい話、君の方はだまだ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さくらべを為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前たちまへにはなつてゐる、こつちは三百九十円の全損まるぞんだから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」。「まるでお話にならない」。
 秋の日はみじかしとはんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨なく約束の金額を書き入れたり。一斉に彼のおもてを注視せし風早と蒲田とのまなこは、更に相合うていかれるを、再び彼方あなたに差し向けて、いとどきびし打目戍うちまもれり。風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」。貫「それでは遊佐さん、これに御印ごいんを願ひませう。日限にちげんは十六日、よろしうございますか」。この傍若無人の振舞に蒲田のこらへかねたる気色けしきなるを、風早は目授めまぜして、「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝ち過ぎてゐるので、利を入れるだけでもほうがつかんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所いつしよに沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈にかかる大事なので、僕らも非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何とも手の着けやうがない。対手あいてが君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕らの難をすくふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然まるまる損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、してさう無理な頼みぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」。「は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日こんにちはまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」。  
 遊佐はそのに計ひかねて覚束おぼつかなげにうなづくのみ。言はで忍びたりし蒲田のはこの時くが如く、「待ち給へと言ふに! 先から風早が口をくして頼んでゐるのぢやないか、銭貰ぜにもらひかどに立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、(しか)るべ挨拶あいさつをしたまへ」。「お話がお話だからるべき御挨拶のしやうがない」。「黙れ、はざま! 貴様の頭脳あたまは銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話にるべき挨拶をしろと言つた。友人に対する挙動が無礼だからたしなめと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人ぬすつとの兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらばあかい顔の一つもすることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑ぶべつしたこの有様を、荒尾譲介あらおじようすけに見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実のおととを殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つてふさいでゐたぞ。その一言いちごんに対しても少しは良心のねむりを覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事はせんから、今日はおとなしく帰れ、帰れ」。
 「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方あなたがたがそれまで遊佐さんの件について御心配下さいますなら、かうすつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方のかたはそれで一先ひとまづ附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」。蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。「うん、よろしい」。「ではさうなすつて下さるか」。「うん、宜い」。「さう致せば又お話のつけやうもあります」。「しかし気の毒だな、無利息、個年賦じつかねんぷは」。「ええ? 常談ぢやありません」。さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑せせらわらひしつ。風「常談は措いて、いづれ四五日うちとくと話をつけるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕らの顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」。「さう云ふ無理を有仰おつしやるで、私の方も然るべき御挨拶ができなくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。まだほかへ廻るで急ぎますから、お話は後日ゆつくり伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方あなた御承諾なすつて置きながら今になつて遅々ぐづぐづなすつては困ります」。蒲「疫病神やくびようがみ戸惑とまどひしたやうに手形々々とうるさい奴だ。が始末をして遣らうよ」。
 彼は遊佐が前なる用紙を取りて、蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」。遊「百十七円? 九十円だよ」。蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」。かかる事はく知りながら彼はわざと怪しむなりき。遊「そんなはずはない」。貫一は彼らの騒ぐを尻目にけて、「九十円が元金もときん、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利アイス定法じようほうです」。音もせざれど遊佐が胆はつぶれぬ。「お……ど……ろ……いたね!」。蒲田は物をも言はずくだんの手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、なほも引裂き引裂き、引捩ひきねぢりて間が目先に投遣なげやりたり。彼は騒げる色もなく、「何をなさるのです」。「始末をして遣つたのだ」。「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」。彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰こころひそかおそれして、「いやさう云ふ訳ぢやない……」。蒲田は※(「にんべん+乞」、第3水準1-14-8)きつひざすすめて、「いや、さう云ふ訳だ!」。彼の鬼臉こはもてなるをいとをさなしとかろしめたるやうに、間はわざと色をやはらげて、「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方あなたも折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」。「おお俺が法学士ならどうした」。「名実が相副あひそはんと謂ふのです」。「生意気なもう一遍言つて見ろ」。「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業をさい」。蒲田がかひなは電光の如くをどりて、猶言はんとせし貫一が胸先を諸掴もろつかみ無図むずりたり。「間、貴様は……」。捩向ねぢむけたる彼のおもて打目戍うちまもりて、「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋の帽子をかぶつて煖炉ストオブの前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼ああおとなしい間を、と力抜ぬけがして了ふ。貴様これが人情だぞ」。
 たかへる小鳥の如く身動得為えせで押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然あはれと見遣りて、「蒲田の言ふ通りだ。僕らも中学に居た頃のはざまと思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人のよしみを思つて、二人の頼みを聴いてくれ給へ」。「さあ、間、どうだ」。「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金でおのづから別問題……」。彼は忽ち吭迫のどつまりて言ふを得ず、蒲田はやや強くめたるなり。「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸いきが止るぞ」。貫一は苦しさにへで振り釈ほどかんと※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)もがけども、嘉納流かのうりゆうの覚えある蒲田が力に敵しかねて、なかなかその為すにまかせたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、風早も心ならず、「おい蒲田、いいかい、死にはしないか」。「余りあらくするなよ」。蒲田は哄然こうぜんとして大笑たいしようせり。「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは水滸伝すいこでんにある図だらう。おもふに、そ国利をまもり、国権を保つには、国際公法などは実は糸瓜へちまの皮、要は兵力よ。万国の上には立法の君主がなければ、国と国との曲直のあらそひそもその手で公明正大に遺憾く決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、いはたたかひ!」。風「もうゆるしてやれ、大分だいぶ苦しさうだ」。蒲「強国にしてはづかしめられたためしを聞かん、に僕は外交の術も嘉納流よ」。遊「余りひどい目に遭せると、僕の方へむくつて来るから、もうしてくれたまへな」。ひとことばに手はゆるめたれど、蒲田はいまだ放ちも遣らず、「さあ、間、返事はどうだ」。「のどを緊められても出すは変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこのつらを五百円の紙幣束さつたばでおたたきなさい」。「金貨ぢや可かんか」。「金貨、結構です」。「ぢや金貨だぞ!」。

 油断せる貫一が左の
高頬たかほを平手打にしたたくらはすれば、と両手に痛をおさへて、少時しばしは顔も得挙えあげざりき。蒲田はやうやう座にかえりて、「急にはこいつ帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずるとう」。「さあ、それもからう」。独りよからぬは遊佐なり。「ここで飲んぢやうまくないね。さうして形が付かなければ、何時いつまでだつて帰りはせんよ。酒が仕舞しまひになつてこればかりのこられたらなほ困る」。「よろしい、帰去かへりには僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」。「はい」。「貴様、妻君あるのか。おお、風早!」と彼は横手をちて不意にさけ[#「口+斗」]べば、「ええ、吃驚びつくりする、何だ」。「憶出おもひだした。間の許婚いひなづけはお宮、お宮」。「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日こんにちぢや大きに日済ひなしなどを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事をしちやいかんよ。けれども高利貸アイスなどは、これでかへつて女子をんなにはやさしいとね、間、さうかい。彼らの非義非道を働いて暴利をむさぼ所以ゆゑんの者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀えようがして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外にないのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶよからざるを忍んで、経営惨憺さんたんと努めるところは、何ぞ非常の目的があつてかねこしらへるやうだがな、たとへば、軍用金をあつめるとか、お家の宝を質請しちうけするとか。単におのれの慾を充さうばかりで、あんな思い切つて残刻な仕事ができるものではないと想ふのだ。許多おほくのガリガリ亡者もうじやは論外として、間貫一においては何ぞ目的があるのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的があつてそんするのだらう」。
 秋の日はたちま黄昏たそがれて、やや早けれどともしを入るるとともに、用意の酒肴さけさかなは順をひて運びいだされぬ。「おつと、麦酒ビイルかい、頂戴ちようだいなべは風早の方へ、煮方はよろしくお頼み申しますよ。うう、好い松茸まつだけだ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白ましろで、庖丁ほうちようきしむやうでなくては。今年は不作はづれだね、せてゐて、虫が多い、あの雨がさはつたのさ。間、どうだい、君の目的は」。「唯かねが欲いのです」。「で、その貨をどうする」。「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」。風「まあ、これを一盃いつぱい飲んで、今日は機嫌きげん好く帰つてくれ給へ」。蒲「そら、お取次だ」。「は酒は不可いかんのです」。蒲「折角差したものだ」。「全く不可のですから」。差付けらるるを推除おしのくるはずみに、コップはもろくも蒲田の手をすべれば、莨盆たばこぼん火入ひいれあたりて発矢はつしと割れたり。「何を為る!」。貫一も今はこらへかねて、「どうしたと!」。

 やをら起たんと為るところを、蒲田が力に
胸板むないたつかれて、一耐ひとたまりもせず仰様のけさま打僵うちこけたり。蒲田はこのひまに彼の手鞄てかばんを奪ひて、中なる書類を手信てまかせ掴出つかみだせば、狂気の如く駈寄かけよる貫一、「身分にさはるぞ!」と組み付くを、利腕捉ききうでとつて、「黙れ!」と捩伏ねぢふせ、「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違いないから、早く其奴そいつを取つて了ひ給へ」。これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事のに暴なるをこころよしと為ざるなりき。貫一はおどろきて、撥返はねかへさんと右に左に身を揉むを、蹈跨ふんまたがりて捩揚ねぢあげ捩揚げ、蒲田は声を励して、「このに及んで! 躊躇ちゆうちよするところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」。手を出しかねたる二人を睨廻ねめまはして、蒲田はなかなか下に貫一のもだゆるにも劣らず、ごうにやして、効無かひな地鞴ぢただらを踏みてぞゐたる。風「それは余り遣過ぎる、くない、善くない」。「いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何を※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)ぼんやりしてゐるのだ」。彼はほとほとをののきて、むしろ蒲田が腕立うでだての紳士にあるまじきをいさめんとも思へるなり。腰弱き彼らのくみするに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山にりながら手をむなしうする無念さに、貫一が手も折れよとばかり捩上ねぢあぐれば、「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」。「ええやかましい。君らのやうな意気地なしはもう頼まん。僕がで遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ」。かく言捨てて蒲田は片手しておのれの帯を解かんとすれば、時計のひも生憎あやにくからまるを、あせりに躁りて引放さんとす。風「ひとりでどうするのだよ」。彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。蒲「どうするものか、こいつ蹈縛ふんじばつて置いて、僕が証書を探すわ」。「まあ、余りおだやかでないから、それだけは思ひとまり給へ。今間も話を付けると言つたから」。「何かこいつの言ふ事が!」

 間は
き声をしぼりて、「きつと話を付けるから、この手をゆるしてくれ給へ」。風「きつと話を付けるな――こつちの要求をれるか」。間「容れる」。いつはりとは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫ちからくじけて、つひに貫一を放ちてけり。身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚かきあつめ、かばんを拾ひてその中に捩込ねぢこみ、さて慌忙あわただしく座にかへりて、「それでは今日こんにちはこれでおいとまをします」。蒲田が思切りたる無法にこの長居はあやふしと見たれば、心に恨は含みながら、おもてにはかなはじと閉口して、重ねて難題のでざる先にとかくは引取らんと為るを、「待て待て」と蒲田は下司扱げすあつかひに呼掛けて、「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求をれん内は、今度はこつちかへさんぞ」。膝推向ひざおしむけて迫寄つめよ気色けしきは、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。「きつと要求は容れますけれど、さつきから散々の目にあはされて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座ちようざをいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」。たちまち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑あざわらひして、「間、貴様は犬のくそかたきを取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今これからいつでも蒲田が現れて取挫とりひしいで遣るから」。「間も男なら犬の糞ぢやかたきは取らない」。「いた風なことを言ふな」。風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕がまで送らう」。
 遊佐と風早とは起ちて彼を送出おくりいだせり。あるじの妻は縁側よりきたりぬ。「まあ、貴方あなた、お蔭様で難有ありがたう存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」。「や、これは。ちよつ壮士そうし芝居といふところを」。「大相よろしい幕でございましたこと。お酌を致しませう」。くだんの騒動にて四辺あたり狼藉ろうぜきたるを、彼は効々かひかひしく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来いりくるを見て、「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方御寛ごゆるり召上つて下さいまし」。妻の喜はあふるるばかりなるに引易ひきかへて、遊佐は青息あをいき※(「口+句」、第3水準1-14-90)きて思案にれたり。「弱つた! 君がああして取緊とつちめてくれたのは可いが、この返報に那奴あいつどんな事をするか知れん。明日あしたあたり突然どん差押さしおさへなどをくはせられたらたまらんな」。「余り蒲田が手酷てひどい事をするから、僕も、さあ、それを案じて、惴々はらはらしてゐたぢやないか。嘉納流もいいけれど、後前あとさきを考へて遣つてくれなくては他迷惑はためいわくだらうぢやないか」。「まあ、待ち給へと言ふことさ」。蒲田はたもとの中をかいさぐりて、揉皺もめしわみたる二通の書類を取出とりいだしつ。風「それは何だ」。遊「どうしたのさ」。何ならんとあるじの妻も鼻の下を延べてうかがへり。風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」。

 彼は先づその一通を取りて
披見ひらきみるに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。二人は蒲田が案外の物持てるにおどろかされて、おのおの息をこらして※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはれるまなこを動さず。蒲田も無言のうちに他の一通を取りてひらけば、妻はいよいよちかづきて差覗さしのぞきつ。四箇よつ頭顱かしらはラムプの周辺めぐりに寄る池のこひの如くひしあつまれり。「これは三百円の証書だな」。一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻のさきなる遊佐良橘の名をもしるしたり、蒲田は弾機仕掛ばねじかけのやうにをどり上りて、「占めた! これだこれだ」。驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手はしやもはちの中にすつぱと落入り、乗出す膝頭ひざがしら銚子ちようし薙倒なぎたふして、「僕のかい、僕のかい」。「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、きん活動はたらきを失へるやうにて幾度いくたびとらへ得ざるなりき。「まあ!」と叫びし妻はたちま胸塞むねふたがりて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝のむところを知らず、「占めたぞ! 占めたぞ※(感嘆符二つ、1-8-75) 難有ありがたい!※(感嘆符二つ、1-8-75)」。

 証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と
むつの目をて子細にこれを点検して、その夢ならざるをあきらめたり。「君はどうしたのだ」。風早のおもてはかつあきれ、かつ喜び、かつをそるるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒ビイルまんを引きし蒲田は「血は大刀にしたたりてぬぐふにいとまあらざる」意気をげて、「何とすごからう。奴を捩伏ねぢふせてゐる中にあし掻寄かきよせてたもとへ忍ばせたのだ――早業はやわざさね」。「やはり嘉納流にあるのかい」。「常談言つちやいかん。しかしこれも嘉納流の教外別伝きようげべつでんさ」。「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」。「それは知らん。何でもいいから一つ二つ奪つておけば、奴を退治たいじる材料になると考へたから、早業をしておいたのだが、思ひきやこれがねらかたきの証書ならんとは、全く天の善にくみするところだ」。風「余り善でもない。さうしてあれを此方こつちへ取つて了へば、三百円はめるのかね」。蒲「大蹈おほふめ! 少し悪党になれば蹈める」。風「しかし、公正証書であつて見ると……」。蒲「あつても差し支つかへ)ない。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本せいほんさへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動じたばたしたつて『河童かつぱの皿に水のかわいた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。しかし、全然まるまる蹈むのもさすがに不便ふびんとの思召おぼしめしを以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使がよろし樽爼そんそかんに折衝して、遊佐家を泰山たいざんの安きに置いて見せる。嗚呼ああ、実に近来の一大快事だ!」。人々のあきるるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴おしいただき推戴きて、「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方あなた音頭おんどをお取んなさいましよ――いいえ、本当に」。小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事にらち開けんといふに励されて、さては一生の怨敵おんてき退散のいはひと、おのおのそぞろすすむ膝をあつめて、長夜ちようやの宴を催さんとぞひしめいたる。

中編第七章
 茫々ぼうぼうたる世間に放れて、はやく骨肉の親むべきなく、いはんや愛情のあたたむるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然かいぜんとしてよこたはる石の如きものなるべし。彼が鴫沢しぎさわの家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、やはらかき手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何らのしみをも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命としてあきたらず、母の一部分となし、いもとの一部分となし、るひは父の、兄の一部分ともして宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒まどひに値せしなり、に彼の恋は青年を楽む一場いちじようの風流のうるはしき夢に似たるたぐひならで、質はそのぶんに勝てるものなりけり。彼の宮にけるはすべての人の妻となすべき以上を妻として、むしろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、みづからはその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時いちじに花を着くる心地して、さきの枯野に夕暮れし石も今た水にぬくみ、かすみひて、長閑のどかなる日影に眠る如く覚えけんよ。
 その恋のいよいよ急に、いよいよこまやかになりまされる時、人の最も憎める競争者の為に、しかもたやすく宮を奪はれし貫一が心は如何なりけん。身をも心をも打委うちまかせていつはることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如くおのれそむきて、く他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何なりけん。彼はここに於いてさきに半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥せいりようを感ずるのみにてとどまらず、失望を添へ、恨をかさねて、かの塊然たる野末のずゑの石は、霜置く上にこがらしの吹誘ひて、皮肉を穿うがきたる人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みてまざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、そのかつて与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をもあはせて取去られしなり。

 彼はるひはその恨をなげうつべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦ひとたびいたくその心をけられたるかの痛苦は、永くその心の存在とともに存在すべければなり。その業務として行はざるべからざる残忍刻薄を自らふる痛苦は、く彼の痛苦と相剋あひこくして、そのかんいささを遣るべき余地をぬすみ得るに慣れて、彼はやうやく忍ぶべからざるを忍びて為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、勁敵けいてきひ、悪徒にかかりて、或るいはもてあそばれ、或るいは欺かれ、或るいはおびやかされいきほひ毒を以つて制し、暴を以つてふるのむを得ざるより、いつはその道の習に薫染して、彼はますまおそれずむさぼるに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼をむちうつやうに募ることありて、心も消々きえきえに悩まさるる毎に、※(「齒+昔」、第4水準2-94-84)あくさく利をふ力も失せて、彼はなかなか死の安きをおもはざるにあらず。唯その一旦にしてやすく、又今のき死ををはらんをば、いと効為かひなしと思い返して、よし遠くとも心に期するところは、なでう一度ひとたびさきの失望と恨とをはらし得て、胸裡きようりの涼きこと、氷を砕いて明鏡をぐが如く為ざらん、そのゆふべぞ我はまさに死ぬべきとひそかに慰むるなりき。

 貫一はいつはかの痛苦を忘るる手段として、いつはその妄執もうしゆうを散ずべき快心の事を買はんの目的をもて、かくは高利をむさぼれるなり。知らず彼がそのゆふべにしてめいせんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常復讐ふくしゆうの小術を成して、宮に富山に鴫沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今く事の大きく男らしくあらんをば企図きとせるなり。しかれども、痛苦のはげしく、懐旧の恨にへざる折々、彼は熱き涙を握りて祈るが如くかこちぬ。「※(「口+矣」、第4水準2-3-94)ああ、こんな思をするくらゐなら、いつそ潔く死んだ方がはるかましだ。死んでさへ了へば万慮くこの苦艱くげんはないのだ。それを命が惜くもないのに死にもせず……死ぬのはやすいが、死ぬことのできんのは、どう考へても余り無念で、この無念をこのままに胸に納めて死ぬことはできんのだ。かねがあつたら何が面白いのだ。人に言はせたら、今おれたくはへたかねは、高が一人の女の宮に換へる価はあるとふだらう。俺にはない! 第一かねなどを持つてゐるやうな気持さへんぢやないか。失望した身にはその望を取復とりかへすほどの宝はないのだ。※(「口+矣」、第4水準2-3-94)ああ、その宝は到底取復されん。宮が今罪をびて夫婦になりたいと泣き付いて来たとしても、一旦心を変じて、身までけがされた宮は、決してもとの宮ではなければ、もうはざまの宝ではない。間の宝は五年ぜんの宮だ。その宮は宮の自身さへ取復す事はできんのだ。返す返すいのは宮だ。かうしてゐるも宮の事は忘れかねる、けれど、それは富山の妻になつてゐる今の宮ではない、ああ、鴫沢の宮! 五年ぜんの宮が恋い。俺が百万円を積んだところで、昔の宮はられんのだ! 思へばかねもつまらん。いながらも今のかねが熱海へ追つて行つた時のかばんの中に在つたなら……ええ※(感嘆符二つ、1-8-75)」。
 かしらも打割るるやうに覚えて、この以上を想ふあたはざる貫一は、ここに到りて自失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見たずみの底に逍遙しようようせし富山が妻との姿は、双々そうそう貫一が身辺を彷徨ほうこうして去らざるなり。彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為すより、往々その性の為す能はざるをも為して、さざること仇敵きゆうてきの如く、債務をせまりて酷をきはむるなり。退しりぞいてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、たちまち勢に駆られて断行するをはばからざるなり。かくして彼の心にかかつらふ事あれば、おのづから念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、もとより彼はせいを知らずして邪を為し、を喜ばずしてを為すものにあらざれば、おのれげてこれを行ふ心苦しさはしてぢ、仰ぎておそれ、天地の間に身を置くところは、わづかにそのるる空間だに猶濶なほひろきを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、はるかに忍ぶの易く、たいのまたゆたかなるをさへ感ずるなりけり。

 
一向ひたぶるしんを労し、思を費して、日夜これをのぶるにいとまあらぬ貫一は、肉痩にくやせ、骨立ち、色疲れて、宛然さながら死水しすいなどのやうに沈鬱しをはんぬ。そのあつめたるこらせる目とは、体力のやうやく衰ふるに反して、精神のいよいよ興奮するとともに、思のますましげく、益す乱るるを、従ひてり、従ひて解かんとすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、つひ如何ばや、と心も砕けつつ打悩めるを示せり。更に見よ、漆のやうに鮮潤つややかなりし髪は、後脳のあたり若干そくばくの白きをまじへて、額に催せししわの一筋長くよこたはれるぞ、その心のせばまれるひだならざるべき、いはんや彼のおもておほへる蔭はますます暗きにあらずや。
 ああ、彼はその初一念をげて、外面げめんに、内心に、今は全くこの世からなる魔道につるを得たりけるなり。貪欲界どんよくかいの雲はりて歩々ほほに厚くまもり、離恨天りこんてんの雨は随所ただちそそぐ、一飛いつぴ一躍出でては人の肉をくらひ、半生半死りては我とはらわたつんざく。る所は陰風常にめぐりて白日を見ず、行けども行けども無明むみよう長夜ちようや今に到るまで一千四百六十日、へども可懐なつかしき友のおもてを知らず、まじはれどもかつなさけみつより甘きを知らず、花咲けども春日はるびうららかなるを知らず、楽来たのしみきたれども打背うちそむきてよろこぶを知らず、道あれどもむを知らず、善あれどもくみするを知らず、さいはひあれども招くを知らず、恵あれどもくるを知らず、く利欲にふけりて志をうしなひ、ひとへに迷執にもてあそばれて思をつからす、ああ、彼はつひに何をか成さんとすらん。間貫一の名はやうやく同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目しよくもくせざるはあらずなりぬ。

 かの
ふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸くしきりなる厳談酷促げんだんこくそくおのづからここかしこに債務者のうらみを買ひて、彼の為に泣き、彼の為に憤るものすくなからず、同業者といへども時としては彼のに用捨なきをとがむるさへありけり。り鰐淵はこれを喜びて、強将の下弱卒をいださざるを誇れるなり。彼はおのれ今日こんにちあるを致せし辛抱と苦労とは、いま如此かくのごとくにして足るものならずとて、しばしばその例を挙げては貫一を※(「口+恚」、第4水準2-4-26)そそのかし、飽くまで彼の意を強うせんとつとめき。これが為に慰めらるるとにはあらねど、その行へる残忍酷薄の人の道に欠けたるを知らざるにあらぬ貫一は、職業の性質既に不法なればこれを営むの非道なるは必然のことわりにて、おのれすところはすべての同業者の為すところにて、己一人おのれいちにんの残刻なるにあらず、高利貸なる者は、世間一様に如此かくのごとく残刻ならざるべからずとおもへるなり。に彼は決して己の所業のみうらみを買ふべきにあらずと信じたり。

 
に彼の頼める鰐淵直行の如きは、彼のからうじてそのを想ひ得る残刻と、つひに学ぶあたはざる譎詐きつさとを左右にして、始めて今日こんにちの富を得てしなり。この点に於ては彼は一も二もなく貫一の師表たるべしといへども、その実さばかりの残刻と譎詐きつさとをほしいままにして、なほ天におそれず、人にはばからざる不敵の傲骨ごうこつあるにあらず。彼はひそかいましめて多く夜でず、内には神を敬して、得知れぬ教会の大信者となりて、奉納寄進に財ををしまず、唯これ身の無事を祈るに汲々きゆうきゆうとして、自ら安ずるはかりごとをなせり。彼は年来非道を行ひて、なほこの家栄え、身の全きを得るは、まさにこの信心の致すところと仕へ奉る御神おんかみ冥護みようごかたじけなみてかざるなりき。貫一は彼の如く残刻と譎詐きつさとに勇ならざりけれど、又彼の如く敬神と閉居とにきよならず、身は人と生れて人がましく行ひ、いつかつて犯せる事のあらざりしに、天はかへりて己を罰し人は却りて己をいつはり、終生の失望と遺恨とはみだり断膓だんちようをのふるひて、死苦のかざる絶痛を与ふるを思ひては、彼はよし天に人に憤るところあるも、おそるべきなしとるならん。貫一の最も懼れ、最も憚るところはみづからの心のみなりけり。

【中編第八章】
 用談果つるをちて貫一の魚膠無にべな暇乞いとまごひするを、満枝はしばしと留置とどめおきて、用ありげに奥の間にぞりたる。そのことばの如く暫し待てどもざれば、又巻莨まきたばこ取出とりいだしけるに、手炉てあぶりの炭はおほかみふんのやうになりて、いつか火の気の絶えたるに、檀座たんざに毛糸の敷物したる石笠いしがさのラムプの※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのほを仮りて、貫一はう事なしにけふりを吹きつつ、この赤樫あかがしの客間を夜目ながら※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまはしつ。

 
袋棚ふくろだななる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、その下は七宝焼擬しつぽうやきまがひ一輪挿いちりんざし蝋石ろうせきの飾玉を水色縮緬みづいろちりめん三重みつがさねしとねに載せて、床柱なる水牛の角の懸花入かけはないれは松にはやぶさの勧工場蒔絵まきゑ金々きんきんとして、花を見ず。鋳物いものの香炉の悪古わるふるびにくすませたると、羽二重はぶたへ細工の花筐はなかたみとを床に飾りて、雨中うちゆうの富士をば引攪旋ひきかきまはしたるやうに落墨して、金泥精描の騰竜のぼりりゆう目貫めぬきを打つたるかとばかり雲間くもま耀かがやける横物よこものの一幅。かしらめぐらせば、※(「木+眉」、第3水準1-85-86)びかん黄海こうかい大海戦の一間程なる水彩画を掲げて座敷のすみには二鉢ふたばちの菊を据ゑたり。
 ややありて出来いできたれる満枝は服を改めたるなり。糸織の衿懸えりかけたる小袖こそで納戸なんど小紋の縮緬の羽織着て、七糸しつちん黒繻子くろじゆすとの昼夜帯して、華美はでなるシオウルを携へ、髪など撫付なでつけしとおぼしく、おもても見違ふやうに軽くよそほひて、「大変失礼を致しました。ちよつそこまで買物に出ますので、実は御一緒に願はうと存じまして」。無礼なりとは思ひけれど、口説れしよしみに貫一は今更腹も立て難くて、「ああさうですか」。満枝はつと寄りて声を低くし、「御迷惑でゐらつしやいませうけれど」。聴き飽きたりとはんやうに彼は取合はで、「それぢや参りませう。貴方あなた何方どちらまでおいでなのですか」。「大横町おおよこちようまで」。二人は打連れて四谷左門町よつやさもんちようなる赤樫の家をでぬ。伝馬町通てんまちようどおりは両側の店にともしつらねて、だ宵なる景気なれど、秋としも覚えず夜寒のはなはだしければ、往来ゆききまれに、空は星あれどいと暗し。「何といふお寒いのでございませう」。「さやう」。「貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくてもよろしいぢやございませんか。それではお話がとどきませんわ」。彼は町の左側をこたびは貫一に擦寄すりよりて歩めり。「これぢやが歩きにくいです」。「貴方お寒うございませう。私おかばんを持ちませう」。「いいや、どういたして」。「貴方あなた恐れ入りますが、もう少し御緩ごゆつくりお歩きなすつて下さいましな、私呼吸いきが切れて……」。むなく彼は加減して歩めり。満枝は着重きおもるシォウルを揺り上げて、「とうから是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後ちよつともお目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当にたまにはお遊びにいらしつて下さいましな。私もう決して先達而せんだつてのやうな事は再び申上げませんから。といらしつて下さいましな」。「は、難有ありがたう」。「お手紙を上げましてもようございますか」。「何の手紙ですか」。「御機嫌伺ごきげんうかがひの」。「貴方から機嫌を伺はれる訳がないぢやありませんか」。「では、こひしい時に」。「貴方が何も私を……」。「恋しいのは私の勝手でございますよ」。「しかし、手紙は人にでも見られると面倒ですから、おことわりをします」。「でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、鰐淵わにぶちさんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……」。
 見れば伝馬町てんまちよう三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝をかんと思ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈ずして立住たちどまりつ。「それぢや私はここで失礼します」。その不意にでて貫一のくらき横町にるを、「あれ、貴方あなた其方そちらからいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、わざわざ、そんない道をおいでなさらなくても、こつちの方が順ではございませんか」。満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。「なあに、こつちが余程近いのですから」。「幾多いくらも違ひは致しませんのに、にぎやかな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷見附みつけの所までお送り申しますから」。「貴方に送つていただいたつて為やうがない。夜がけますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし」。「そんなお為転ためごかし有仰おつしやらなくてもよろしうございます」。かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、不知不識しらずしらず其方そなたに歩ませられし満枝は、やにはに立竦たちすくみて声を揚げつ。「ああ! 間さんちよつと」。「どうしました」。「路悪みちわるへ入つてしまつて、履物はきものが取れないのでございますよ」。「それだから貴方はこんな方へおでなさらんがよいのに」。彼は渋々寄りきたれり。「憚様はばかりさまですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」。シォウルの外にたすけを求むる彼の手を取りて引寄すれば、女は※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)よろめきつつ泥濘ぬかるみを出でたりしが、力や余りけん、身を支へかねて※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)どうと貫一にもたれたり。「ああ、危い」。「転びましたら貴方あなた所為せゐでございますよ」。「馬鹿なことを」。

 彼はこの時
たすけし手を放たんとせしに、釘付くぎつけなどにしたらんやうにけども振れども得離れざるを、怪しと女のおもてうかがへるなり。満枝は打背うちそむけたる顔のをシオウルのはしに包みて、握れる手をばいよいよ固くめたり。「さあ、もう放して下さい」。ますます緊めてそでの中へさへ曳入れんとすれば、「貴方、馬鹿な事をしてはいけません」。女は一語ひとことも言はず、面も背けたるままに、その手はますます放たで男の行くかたに歩めり。「常談しちやいかんですよ。さあ、うしろから人が来る」。「よろしうございますよ」。独語ひとりごつやうに言ひて、満枝はいよいよ寄り添ひつ。貫一はこらへかねて力任せにうんと曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。「あ、いた! そんなひどい事をなさらなくても、そこの角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……」。「好い加減になさい」とあららかに引払ひつぱらひて、寄らんとするひまもあらせず摩脱すりぬくるより足をはやめて津守坂つのかみざか驀直ましぐらに下りたり。

 やうやう昇れる
利鎌とかまの月は乱雲らんうんりて、※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)はるけこずゑいただきしばらく掛れり。一抹いちまつやみを透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割かたわれとは、ものうく寝覚めたるやうに覚束おぼつかなき形をあらはしぬ。坂上なる巡査派出所のともし血紅けつこうの光を射て、下り行きし男の影も、取残されし女の姿もつひに見えず。
【中編第八章の二】
 片側町かたかはまちなる坂町さかまち軒並のきなみとざして、何処いづこ隙洩すきも火影ひかげも見えず、旧砲兵営の外柵がいさく生茂おひしげ群松むらまつ颯々さつさつの響をして、その下道したみち小暗をぐらき空に五位鷺ごいさぎ魂切たまきる声消えて、夜色愁ふるが如く、まさに十一時になんなんとす。  

 
たちまち兵営の門前にあたりて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者くせものに囲れたるなり。一人いちにんは黒の中折帽のつば目深まぶか引下ひきおろし、鼠色ねずみいろの毛糸の衿巻えりまきに半面をつつみ、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの下穿したばき高々と※(「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1-91-84)しりからげして、黒足袋くろたびに木裏の雪踏せつたき、六分強ろくぶづよなる色木いろきの弓のをれつゑにしたり。他は盲縞めくらじま股引ももひき腹掛はらがけに、唐桟とうざん半纏はんてん着て、茶ヅックの深靴ふかぐつ穿うがち、衿巻の頬冠ほほかぶり鳥撃帽子とりうちぼうしを頂きて、六角に削成けずりなしたる檳榔子びんろうじの逞きステッキを引抱ひんだき、いづれも身材みのたけ貫一よりは低けれど、血気腕力兼備と見えたる壮佼わかものどもなり。

 「物取か。恨を受ける覚はないぞ!」。「黙れ!」と弓の折の寄るを貫一は片手に
ささへて、「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に敵手あひてにならう。物取ならばかねはくれる、訳も言はずに無法千万な、待たんか!」。答はなくて揮下ふりおろしたる弓の折は貫一が高頬たかほほ発矢はつしと打つ。めくるめきつつもにげ行くを、猛然と追迫おひせまれる檳榔子は、くだんの杖もて片手突に肩のあたりえいと突いたり。踏みこたへんとせし貫一は水道工事の鉄道レイルつまづきてたふるるを、得たりと附入つけいる曲者は、はやりて貫一の仆れたるに又跌き、一間ばかりの彼方あなた反跳はずみを打ちて投げ飛されぬ。入れ替かはりて一番手の弓の折は貫一のそびら袈裟掛けさがけに打据ゑければ、起きも得せで、崩折くづをるるを、畳みかけんとするひまに、手元に脱捨ぬぎすてたりし駒下駄こまげたを取るより早く、彼のおもてを望みて投げたるが、ちようあたりてひるむその時、貫一は蹶起はねおきて三歩ばかりも※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれしを打転うちこけし檳榔子のをどかかりて、拝打をがみうちおろせる杖は小鬢こびんかすり、肩をすべりて、かばん持つ手をちぎれんとすばかりにちけるを、からくも忍びてつと退きながら身構みがまへしが、目潰吃めつぶしくらひし一番手のして奮進しきたるを見るより今はあやふしと鞄の中なる小刀こがたなかいさぐりつつ馳出はせいづるを、たやすく肉薄せる二人がしもとは雨の如く、所嫌ところきらはぬ滅多打めつたうちに、彼は敢無あへなくも昏倒こんとうせるなり。檳「どうです、もうよいにしませうか」。弓「こいつおれの鼻面はなづらへ下駄を打着けよつた、ああ、いた」。衿巻掻除かきのけて彼のでたる鼻はあけに染みて、西洋蕃椒たうがらしえたるに異らず。檳「おお、大変なはなぢですぜ」。

 貫一は息も絶々ながら
しかと鞄を掻抱かきいだき、右の逆手さかてに小刀を隠し持ちて、この上にも狼藉ろうぜきに及ばばんやうありと、油断を計りてわざと為すなきていよそほひ、直呻ひたうめきにぞ呻きゐたる。弓「憎い奴じや。しかし、随分つたの」。檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」。弓「もう引揚げやう」。かくて曲者は間近の横町にりぬ。からうじておもてげ得たりし貫一は、一時に発せる全身の疼通いたみに、精神やうやく乱れて、しばしば前後を覚えざらんとす。[#改ページ]





(私論.私見)